恋というものは
ままならない。
先日アルトに背中を押され、どうにか二人で出かけるところまでこぎつけた。もっと親密になれたらいいと思い、アメリアの過去に踏み込んだことで、ニールは自己嫌悪に陥っていた。
初回にして踏み込み過ぎだろう、自分。
そもそも没落貴族なのだから、その過去だってきっと辛いものだったであろうことは、ちょっと想像すればわかったはずだ。なのにいきなり昔の話を聞きたがるなど、デリカシーがなかった。
結果、アメリアが勘違いしたということもあるが、想像以上に重い過去を聞いてしまった。
借金のかたに娼館に売られるなんて、普通の少女ならトラウマものだろう。アメリアは客の相手をしなくて良かったから幸運だったと言っていたが、怖い思いだってしたはずだ。
ニールは貧しい貴族ではあったが、借金苦ではなかったし、家族仲も良かった。ニールなりの苦労はあったが、きっとアメリアのそれとは比べ物にならないだろう。
だから、彼女に軽蔑しないかといわれて、むしろ驚いた。辛い思いをしても彼女は真っすぐで明るく、弟のアルトと共に善良な人間だ。そんな彼女のことを、軽蔑なんて出来るわけがない。
こんな甘ったれの、薄っぺらい男の言葉なのに、アメリアは涙を流して嬉しいと言ってくれた。
泣き笑いの彼女の表情を、多分ニールは一生忘れられないだろう。
「ニール様、私、以前はよくあの通りの市場で買い物してたんですよ。ほぼ毎日のことだったので、市場の人に顔覚えられてました。今も覚えてくれてるのかなぁ」
今二人は店を出て、ニールがたまに行く本屋や雑貨屋が並ぶ通りをゆっくり歩いている。アメリアはもう泣き止んでいて、ニールの屋敷に来る前どんな生活をしていたのか、思い出話をしてくれていた。
時々知り合いの店主に会ったりして嬉しそうに笑う彼女は、ニールにとっては太陽みたいだ。
だから、やっぱり、安堵してしまう。
例え彼女が客をとってしまっていたとしても、…そりゃ、ものすごくショックは受けるだろうけれど、心配なのは彼女の心の傷であって、彼女自身の価値が落ちるなんてことは断じて思わない。
けれどやはり、彼女が無事で良かったと思う。そして願わくば、今後彼女の隣にいる男は、自分だけでありたいと…思う。
ニールは楽しそうに町を歩くアメリアを眩しそうに見つめた。
こんな、自分に自信がなくて、誰と話すにもオドオドして、友達さえいない自分だと言うのに、一丁前にアメリアのことが、欲しくてたまらない。
彼女が娼館にいたという事実を知ってからは、余計にそう思う。夜会のときも思ったが、彼女が他の誰かのものになってしまう可能性が現実的に押し寄せてきて、堪らなく不安になるのだ。
恋というのは、ままならないのだと、ニールは思い知った。
せめて、アメリアにふさわしい男になれるよう、いつまでも屋敷にこもってばかりいないで、ちゃんとしなければ。
強い男にはなれないかもしれないけれど、アメリアの支えになれるような存在になりたい。
たとえ恋人になれなくても、彼女の雇い主としてくらいは、頼れる男にならなくては。
今、本当に思う。変わりたい、と。
「ニール様、これ貰っちゃいました。あそこの広場でいただきませんか?」
気付けばアメリアは知り合いのパン屋だという男から、試作品だというパンを一つ貰って手に持っていた。出来立てのうちに半分こしましょう!と笑うアメリアが最早女神に見える。
「有難うございます。あ、じゃあ、僕飲み物を買ってきますので…あそこのベンチで待っていて下さい」
「分かりました!」
ニールは少し離れたところにある果物屋で美味しそうな飲み物が売られていたのを思い出し、アメリアから離れた。
アメリアは焼き立てのパンが冷めないようハンカチに包むと、ニールに言われた通りベンチに座って彼を待った。
うっかり涙を流すなど、恥ずかしいことをした。でも、ニールに受け入れてもらえて心から安堵し、アメリアは今晴れ晴れとした気分だった。
(…これからも側にいて良いんだなぁ)
ニールはアメリアの過去を軽蔑せず、受け入れてくれている。それどころか、頑張ったねと褒めてくれたのだ。
別にニールに何かを頼る予定がある訳では無い。でも、事情を知って受け入れてくれて、もし何かあったら相談できるような人がいるということは、アメリアにとって初めての経験だった。それが嬉しくて、たまらない。
(…別に個人的にとかじゃなくて、雇い主として頼りになるという意味で、うん)
舞い上がる気持ちを落ち着けながらも、アメリアはニールが早く戻ってこないかな、と広場の入口に目を向けた。
だが、そこに立っていたのは全く知らない男だった。
「あれ、君見たことあるな。酒場で働いてなかった?」
「はい?」
背が高く浅黒いその男は、アメリアを見てそう言った。以前働いていた酒場の客だったろうか。常連でもない限り、さすがに一人ひとりの客の顔は覚えていない。
「えっと…どなたでしょうか?」
「あれ?ヒドイなあ。君、確かえーっと…マチルダちゃんじゃない?港の酒場で働いてたでしょ。俺、たまに飲みに行ってて、仲良くしてくれてたじゃない」
ヒドイのはどっちだ。名前を間違っている時点で、大した付き合いではないだろう。
「申し訳ないですが、人違いですよ」
「えー?そんなことないよ。俺君のことすっごいタイプだったから、よく覚えてる。最近見ないよね。店やめちゃったの?」
「…人違いですって」
もしかしたら本当にアメリアと店で会っていたかもしれないが、少なくともアメリアはマチルダではない。
「人違いでもこの際どっちでもいいよ。俺、君のことすごい可愛いと思う。今一人でしょ?良かったらさ、お茶でもどう?」
「一人じゃないです。人を待ってます」
「えー?それ、よく聞く断り文句じゃん。まあいいや、待っているのは女の子?だとしたら俺としては大歓迎だけど」
「男の人です。お帰り下さい」
「マジ?」
「マジ」
男はそれでもアメリアの前から立ち去らない。なんなんだ、こいつは。
「まあいいや。じゃあそのお連れ様が来るまでおしゃべりしよ。それくらい良いでしょ?」
「は?」
「俺、暇なんだよね」
「私は暇じゃないです。ちょっと、そこ座らないで下さい」
「いいじゃん〜広場のベンチは公共のものでしょ」
「ここ以外もたくさん空いてるじゃないですか!」
「俺はここが良いの」
やたらとしつこい男に辟易としたアメリアは、自分が移動しようとため息を吐きつつベンチから立ち上がった。
「え、行っちゃうの?ちょっと、まだ君の連れ来てないよ?」
「…」
「ねーちょっと!」
男は立ち上がったアメリアのワンピースを引っ張り、その場に留めようとした。
お気に入りの服を引っ張られて頭にきたアメリアは、思わず振り返って文句を言った。
「ちょっと!やめてください!触らないで!」
「そんなに俺、だめ?結構いい線いってると思うんだけど」
「全然駄目。無理」
「ひどいなあ」
「だから離して!」
男と押し問答していると、男がアメリアの背後に目をやった。
後ろから聞き慣れた声が耳に入る。
「あ、あの、そ、そ、その方に、勝手に近付かないで下さい…嫌がってます」
「ニール様!」
ニールは青い顔をしながらも、自分の体をアメリアと男の間に差し入れ、アメリアを背後にかばった。
「え、お連れ様登場?来るの早いなあ。あんた、空気読んでよ。俺、今その子にアタックしてたんだからさ」
「それは、駄目です」
「は?なんで?」
「彼女は、今、僕とデート中…なので」
「へっ?」
思わずアメリアが裏返った声を上げると、
ニールは慌ててアメリアの方に振り返り、「行きましょう」と促した。
「そ、そうですね。行きましょう。デートの続きです!」
「は、はい」
アメリアもニールの発言に合わせ、デートだということを強調する。
二人は足早に広場を去った。
男が背後で、「えーほんとに?なんだよせっかくのいい女だったのに」などと呟いているのが聞こえたが、ニールがアメリアの手をぎゅっと握ってきたので、アメリアは最早それどころではなかった。
しばらく歩いたところで、ニールははぁーっと深呼吸をすると、アメリアに向き合った。
「ごめんなさい、僕、変なこと言いましたよね…」
「いえ、私こそごめんなさい。変なのに絡まれちゃって」
「あの、大丈夫ですか?変なことされてないですか?」
「大丈夫です。ニール様が来てくださって、助かりました」
「もっと早く戻るべきでした…」
「それにしても本当に、すみません。前もエメラルダ様に絡まれて、今日も変なのに絡まれて、私、絡まれすぎですよね…」
「アメリアさんのせいじゃないです。夜会のときは、むしろ僕が巻き込んだわけですし…」
夜会のときのことを思い出したアメリアは、ふと、今回はニールの纏う雰囲気が変わっていないことに気づく。
アメリアが何となくニールの様子を伺っていると、彼はアメリアが考えていることを理解したのか、きまり悪そうに視線を外した。
「…夜会のときは、アメリアさんが暴力を振るわれていたので、カッとなってしまったんです。今は大丈夫ですよ」
「え?あ、す、すみません。気になったわけじゃないんですけど、つい」
「いえ。…戻りましょうか。頂いたパンは、屋敷に戻って温め直しましょう」
ニールはアメリアの手を握ったまま、エドを待たせている方向へと歩いていく。
「あの…」
「はい?」
「ニール様、手…」
「え、あ、ご、ごめんなさい!!」
ニールは今気づいたようで慌ててアメリアの手を離した。
触れていたぬくもりがなくなって、なんだか寒い。
「すみません、つい…」
「いえ、大丈夫です。で、でもなんか、手を繋いで歩くなんて、ほんとに恋人みたいですね!私、そういう経験あんまりないので、新鮮です」
アメリアが気恥ずかしさから冗談ぽく言うと、ニールは少し驚いた顔をした。
「え、と…意外、です。アメリアさん、人気がありそうなので、そういうお誘いも多いだろうと思ってました」
「そんな事ないですよ!そもそも昼も夜も働いてましたし」
「そ、そっか…でも、前に働いてた酒場では、アメリアさん大人気で…」
「あれはそういう社交辞令ですよ。皆お酒飲んでますしね」
アメリアが笑うと、ニールはそうかなぁ、と呟き、先程まで繋いでいた手をじっと見つめた。
「…すみません、そんな貴重な経験を、僕なんかが…」
「え?何言ってるんですか!全然、むしろ楽しかったです。今日も買い物して、ご飯食べて、ぶらぶら歩いて…素敵なお休みになりました!」
「アメリアさん…」
ニールは頬を少し染めると、僕もです、と呟く。
「僕も、とっても楽しかったです。このまま、本当の恋人になれたらなって、思っ…」
ニールはそこまで口走ると、そのまま固まり、動かなくなる。
数秒後、顔を真っ赤にしたニールは両手を振り回しながら必死に弁解を始めた。
「あ、あ、あ、あの、えっと、つまりそれくらい楽しかったって意味で、その、変な意味では無くてですね!!」
「は、はい。大丈夫です、ニール様、わかりました。落ち着いて」
ニールを宥めつつも、アメリア自身、じわじわと頬が熱くなるのを感じる。
(びっくりした…)
彼の弁解の通り、本当にそれくらい楽しかったというだけで、他意はないのだろうか。
きっと無いのだろう。ニールのことだから、表現を間違えたとか、そういう可能性は大いにある。
(うん、きっとそう。他意はない)
そう思うのに、そのことに何となく寂しさを感じるのは、きっと気のせいだ。
ただでさえ恵まれているのに、これ以上を望むなんて、贅沢すぎる。
アメリアはニールの側にいられるだけで十分なのだ。一番近い存在の侍女でいられれば、それで十分。
二人は顔を赤くしながら、何となく足早に、エドの元へ向かった。