Ⅲ
それから私たちふたりが過ごしてきた時間には、特別な物語として価値のあるものは何もなかった。私個人の気持ちは別にして、真更衣蜜子になるべき彼女、須藤幸江という少女を残す物語には、あの平凡だけど、やっぱり楽しかった日々は相応しくないから。
そしたらもう、最後の日くらいしか書き記せることは残っていない。
今日という日はほとんどの人にとって特別な思い出になるはずの一日で、それは私にとっても同じ。きっとこの日を思い出す度に、この胸はきゅっと痛むのだろうなと思った。
誰にも見付からないよう、他の人より早く登校していた須藤さんと私は、あらかじめ細工をしていた鍵を開けて屋上に辿り着いた。
蜜子のクラスメイトたちが飛び降りて、特別になろうとした場所だ。扉を開けた瞬間にまだ低い朝日が目に飛び込んできて、小さく声が漏れた。
逃げるように目を伏せればコンクリートの床が視界を覆う。
眩しさのないそれに安心を覚えながら前にいる須藤さんを探すけれど、俯いた視界に収められるのは須藤さんの足元だけ。その足が震えてるように見えるのが本当なのか、それとも私が震えているだけなのか、区別がつかないでいる。
「……本当に、飛び降りるの」
耐え切れずに漏らした問いかけが切っ掛けになったのか、須藤さんは前へと進み始めた。彼女の長い影を見失わないように私は、慌ててそれを追い掛ける。
「もう、ずっと前に決めてたじゃない」
「それは、そうだけど」
あまり広くない屋上で前へと進んでしまえば、すぐに端まで辿り着く。ずっと俯いていた私は、がしゃんと須藤さんが欄干に手を掛ける音が聞こえたことで初めて、もう行き止まりなんだということに気付いた。
この場所で選べる選択肢はたったふたつしかなくて、引き返すか落ちるかのどっちかだけ。蜜子のクラスメイトたちが選んだのは、ここから落ちる道だったけど。
ふと、無言の時間が流れた。屋上は静かで、朝日が眩しくて、少し風が強い。須藤さんが今どんな顔をしてるのか、私はまだ顔を上げられないままでいる。
「……柿原さん」
須藤さんが私を呼んだ。躊躇いながら視線を上げれば彼女の姿は逆光になっていて、やっぱりどんな表情をしているのかはわからない。眩しいそれに反射的に目を瞑って、もう一度顔を逸らしてしまう。
「柿原さんは、先に戻ってて」
冷たく突き放すというのは、こういうことをいうのだろうか。須藤さんは平坦にそう言った。
このまま、本当に飛び降りてしまうのだろうか。
私が何か良い方法を思いつくことが出来ていたら、こんな手段を選ばなくも真更衣蜜子のようになれていたのか、私が円女窓菓だったらそれが出来ていたのだろうか。
後悔が頭の中をぐるぐると回るけれど、もう、どうしようもない。
私は須藤さんに頭を下げて、校舎の方へと歩き出した。一体どうしてそんなことをしようと思ったのかはわからない。
わからないけど、足が勝手に進んでいく度に心の重荷が解けていくような、冷たいものが胃の中で大きくなるような、気持ち悪い感覚が強くなっていった。
このままじゃ、須藤さんが飛び降りちゃうのに。
吐き気で口元を抑えながら私は彼女から離れていく。嗚咽を抑えながら思うのは、きっと耐えられなかったんだろうってことだけ。
最後は乱暴に扉を開けて、逃げるように校舎へと。後ろでバタンと扉が閉まった途端に身体中が耐えきれないほど重たくなって、私は落ちるようにへたり込んだ。
ぐぇ、と喉の奥から潰れた声が漏れる。目の前がぐるぐるし始めたかと思えば、ぐわっと両目が熱くなって、そこで初めて涙が流れていることに気付いた。
両手で覆った口から、堪えきれなくなった嗚咽が漏れ始める。今までなかったくらいに私はぼたぼた涙が溢れて、今まで間違ってきたこと全部が頭の中を埋め尽くしていく。
どうして私は止めなかったんだろう。どうして屋上の鍵なんて用意しちゃったんだろう。どうしてもっと一緒にいたいって言わなかったんだろう。
どうして、あんな小説なんて書いてしまったんだろう。
チャイムが鳴った。それは私と須藤さんの時間が終わったことを示すような、そんなタイミングだった。
これから生徒たちが登校してくるから、私は何も知らない顔で教室に戻って、多分中止になるだろう卒業式が始まるのを教室で待つことになっている。
そして、須藤さんは。
私はぐったりとした身体で、へろへろと立ち上がって、向いた先には下り階段。
思えば最初から、須藤さんのお願いを聞かずに階段を降りていればよかったのだ。あのまま今日まで部活になんて行かないで、須藤さんと顔を合わせることなんてないまま今日を迎えればよかったのだ。
それはもう叶わないことだから、私はぼーっと考える。あの日階段を降りれなかったのだから、もういっそここから落ちてしまおうか。一度そんなことを思いついたら、なんだかそれがとても名案みたいな気がしてくる。
強く吸い込まれるように、身体が下へと向かおうとして。
ぶるぶると、ポケットの中でスマホが震えた。取り出して確認してみれば新しいメッセージの通知が一件届いていた。それは扉の向こうの須藤さんから送られてきたもので、送信されたのはちょうど、今。
きっとこれは、最後の言葉だ。
私は震える指で、須藤さんから届いたメッセージを、開いた。
柿原さんへ
まず最初に、謝りたいことがあります。
私は嘘をついていました。子どもができないなんて言ったこと、実は真っ赤な嘘なんです。
ただ私はこんなんだから一生平凡な魅力のない人間のままで、誰かと結婚することもこの先ないだろうし、一生子どもを産んで育てる機会なんてないだろうって。それでどうしても柿原さんに話を聞いて欲しくて、ただそれだけだったんです。今まで騙してて、本当にごめんなさい。
そして、こんなバカげたことに付き合わせてしまったことも謝らせて下さい。柿原さんと一緒にあれこれ考えた時間は、不謹慎な言い方だけど、とても楽しかったです。
私たちが話してきたことは全部、私が真更衣蜜子になるための方法のことばっかりで、本当はもっと遊んだりとか出来たらよかったのにって、実は後悔しています。
柿原さんからすれば、何もできない私なんかのことに時間を使わなきゃいけなくて嫌だったかもしれないけど、それでも柿原さんと一緒に過ごせた時間は私にとってこの学生生活で一番の思い出で、柿原さんは私のたったひとりの友だちでした。
最後になりますが、私は絶対に真更衣蜜子にはなれないってわかっています。
誰からも愛される特別な存在である蜜子と、平凡で空気みたいな私なんて比べるまでもないから。
そんな私にとっての蜜子は、柿原さんでした。きっと柿原さんは違うって言うと思うけど、それだけあの小説は、私にとって特別なものでした。
柿原さんの書いた小説は、あの部誌に載っていたどの小説よりも素敵だったと思うし、冗長だと言われたっていう文章も、独特の雰囲気があってかっこいいと思いました。それもあって、私はあの小説の世界に引き込まれたんです。
だから、どうか自分の小説に自信を持ってください。
最後に。こんな言い方をすると柿原さんを責めるみたいになってしまうけど、出来れば気にしないでください。
あの日、柿原さんが新しい小説を書き始めたって聞いたとき、私は悲しくて、悔しくて仕方がありませんでした。
蜜子はいつも純恋の方を向いていて、窓菓はそこには届かない。柿原さんが新しく書き始めた小説は、私にとって涅純恋そのものでした。
私は自分のことを、真更衣蜜子でも涅純恋でもなくて、本当は円女窓菓に重ねていたんだと思います。
だって彼女にとって、特別だって思えるのは世界にたったひとりだけで。
そしてなにより、円女窓菓は
真更衣蜜子を愛してる/終




