Ⅲ
純恋は目を覚ました。彼女は後ろ手で椅子に縛り付けられて、不自由だことこの上ない。
俯き加減の視界に見えるものは、柔らかな土に空いた大きく円い穴。辺りを見回してみれば、そこはどうやら彼女が蜜子と戯れた花壇のよう。なのに足元の欠落は折角の花々を掘り返してまで、もったいない。
「新しいお花でも植えるのかな。ね、円女さん?」
彼女は振り向くことすらしないまま、窓菓は眉をひそめた。でもでもだって、こんなことを出来るのなんてどうせひとりしかいないもの。
怖い顔をした窓菓は、縛り付けられた純恋の背中を椅子ごと蹴り落とした。可愛いお花を植えるように、花壇の奈落へと真っ逆さま。
嫌なあの子が視界に映らなくなったから、気持ちを入れ換えて一度大きく深呼吸。懐から取り出した携帯電話の画面を確認すれば、今日は蜜子の誕生日。自然と緩みかけた口元をきゅっと引き締めた。
それから、窓菓は欠落を埋め始める。具体的にはスコップを手にとって、純恋の埋もれる穴の中へと黒土を投げ入れ始めたということ。ゆくゆくは顔から土にまみれて、終いには息が詰まってしまいそう。
けど、たかだか少女ひとりでどれだけの時間が掛かるかだなんて、わかったもんじゃなし。彼女のよく喋る口が土に溺れるまでは、まだ随分とかかってしまうのでしょうに。
考え方を変えてみれば、終わりがやって来るまでのこの時間は、少女と少女でふたりきり。
だからそれは胸いっぱいに押し込められた、ちょっとした乙女心。顔は下を向かっていて、一番見て欲しい子には見えないのに、純恋は可愛らしく唇を尖らせて言う。
「ね、どうしてそんなに大好きなの」
あんな女のことなんて。それは首を括ったみたいな声だった。最後の最後に始まったのは、砂時計が許す限りの少女らしいガールズトーク。不均衡なのがいかにもふたりによくお似合いで。
「蕩けてしまいそうな体温も、陶器のようにすべらかな背中も」
もしもこれが仰向けならば、開いた口の中、舌の上に土を乗せてあげればそれで終わるのに。顔を見たくないからって、背中から蹴り落としたのが運の尽き。
「味のしない唇も、嬉しいつもりの微笑みだって」
底の底へと滴るように、彼女の言葉が舌から垂れる。なのに立ち上った言葉は窓菓にまで届くんだから、それはきっと羽のように軽い。
窓菓は唇を噛み締めて、口の中には嫌な味。
けれどその言葉が胸に触れたとき、それは甘くて重たい心地がして、ならば羽よりもいっそ鉛に近しい。毒されればヒステリックになってしまうところなんて、まさに。
「ね、蜜子ちゃんは誰も愛していないの」
窓菓は何も答えない。答えられるはずがない。ムキになった彼女は口なんて利きたくもないのだし、そもそもなんて言えばいいのかすら。
だから口よりも手を動かす他なくて、ひきつった顔のままで水をよく啜って黒々とした土を、どうか彼女の息が詰まりますようにと願いを掛け続ける。
「知ってた? 新しければなんでもいいんだよ。あの子」
天上人様は小さなお花に浮わついちゃって上の空で、もう誰に祈ることも出来ないくせに。
「私のことはもちろんだし、貴女の――」
今までは聞きたくもないことを饒舌に喋り続けていたっていうのに、こんな時だけ躊躇って。純恋が舌の上で言葉を選べば、その唇がいかにも切実そうな色めきを見せた。
「ねぇ、一生のお願い」
潤んだような声色で、彼女は最後のお願いをする。
「貴女の名前、呼ばせて欲しいの」
でも、ねぇ? 窓菓は当然言葉なんてとうに失くしていたのだし、結局は静かに土の音が聞こえるだけ。だけどもう、時計の砂も落ちきる頃合い。
「いじわる」
深い溜め息と涙声のそれだけ言い残して、花は黒い黒い土の下。
彼女が今立つこの校庭だって、結局は純恋に教えてもらったもの。ずっとクラスの円の中心にいた頃には、世界がこんなにも広いだなんて思いもしなかったから。
蜜子はとても透き通った気持ちで、大きく深呼吸。それから堪えきれない嬉しさの滲み出した笑みを漏らしながら、携帯電話へと視線を落とす。映るのは純恋から蜜子への呼び出しの連絡で、彼女はそれに従ってわざわざ教室の外へと脚を踏み出したのだ。
好奇心とは、彼女にとっていたく甘いもの。人一倍女らしく甘いものに目がない蜜子なら、たとえば禁忌と言い付けられていてもそんなこと忘れてしまうでしょう。
今まで言わずにいたけれど、今日が自分の誕生日なのは、蜜子だってもちろん気付いていたこと。きっとこの呼び出しだってそれに因んだものだろう思えば、胸の内では期待がぷかぷかと膨れ上がる。
だから鳴き出した携帯電話を、直ぐ様にこにこと耳元まで添えてしまう。もしもし、だなんて浮わついた声で。
「蜜子」
だから随分と馴染み深い声が聴こえたときには、思わず表情が苦くなってしまったほど。電話越しだから良かったものの、微妙な顔のまま蜜子は応えた。
「ねぇ、窓菓。涅さんを知らない?」
「みんなを代表して、私から言うね。お誕生日おめでとう、蜜子」
「……えぇ、ありがとう窓菓。涅さんもそちらにいるの?」
電話口からは、這うように深い溜め息が。だけどその憂鬱か、あるいは苛立ちは蜜子だって同じこと。
「窓菓、お願いだから答えて。涅さんはどこに――」
「屋上を見て」
校庭の中心で、蜜子は弾かれるように忙しなく校舎を向く。言われた通りに見た視線の先には、クラスメイトたちが手を繋ぎ、横一列に整列する姿。窓菓を中心に据えたその直線の、もはや円くすらいられない様は、ある意味お笑い種だけれど。
蜜子は怪訝に目を細める。屋上の際に立つ彼女たちが、果たして何をしたいのかもそうだけれど、何より質問の答えがまだだったから。
だけど、今はそんなことよりも。
「蜜子、お誕生日おめでとう!」
少女たちは手を繋いで、二十八の声を重ねて。遥か遠い蜜子まで届くように張り上げた祝福の声は、どうやらその役割を果たしたらしい。言祝がれるべき彼女は表情を更なる困惑へと変えて
「ねぇ、窓――」
「蜜子。これはみんなからのプレゼントなの。だから、見ていて」
電話越しの甘い声。仰ぎ見るべき蜜子を見下ろしあまつさえ、その言葉まで遮るだなんて。もはや形振り構っていられないほどに、追い詰められてしまったのでしょう。
だから、まずは両端のふたりから。
繋いでいた手を離したふたりは自らのスカートをつまみ上げ、お上品なご挨拶を。それから垂れた頭を上げたかと思えば両足を揃え倒れ込むように、その身を投げるのは底の底。
そして更にはまたふたり。麗しやかなお辞儀と、それから踏み出す最後の一足とを。バースデーケーキの蝋燭を吹き消すように、等間隔に屋上の少女たちが消えていく。
そしてまた、ふたり。
茫然とその様を見ていた蜜子は、ふと我に返って繋がったままの携帯電話を口元に当て直した。円はちぎれて線は墜ちて、掌の痛むあの子とか、舌の足りないあの子まで。それに、もう走ることのないでしょうふたりだって、当然。
そうして最後にただひとり、屋上に残った円い少女。だってもう彼女しか、他に答えられる子はいないんだもの。
「窓菓。お願いだから答えて」
蜜子は膝から崩れ落ち、落ちるようにへたり込む。震える唇、詰まりそうな喉、か細い声。そして滑らかな頬を伝う純んだ涙が、林檎のように落ちていく。
だけど窓菓にはもう、きっと全てわかっているのでしょうに。
「ねぇ、純恋はどこ」
やっぱりこれも、わかりきっていたこと。不機嫌か悲しみか苛立ちか。甘くない気持ちに顔をしかめながら、それでも。
それでも円女窓菓は、真更衣蜜子を愛してる。
真更衣蜜子になりたいの。
そう言う彼女は、平凡だった。
次回、柿原智子
6日、20時更新予定です。