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真更衣蜜子を愛してる  作者: 遠藤ほうり
空知環
3/9

 ふたり分の、上履きの音。彼女たちは言葉を交わしながら、淡々と階段を登っていく。

「……あろ、杵築さん。本当に、大丈夫なんれしょうか?」

 弱々しく問い掛けるのは、伊丹真香。正しい姿勢こそ普段のままに、だけれどやはり、今の彼女はどこか心細げに見える。

 対して隣を歩く杵築恵には、そういった憂いは欠片もないらしい。彼女は首を捻って考えてみるも、隣を歩く友人の抱える不安の理由が、どうにも思い浮かばないでいた。

「んーと、何が?」

「何がって、掛井さんのことれす」

 そう語る伊丹真香の様子は真剣そのもので、杵築恵にとってはなんだか面白い。そのせいでぷはっと噴き出してから、彼女は慌てて口をふさいだ。

 時折堪えきれない笑い声を漏らしながらも、何とか喋れるくらいまで笑いを治めた少女は、面白さに浮かんだ涙を拭いながら、膨れっ面の伊丹真香に言った。

「伊丹さんは心配しすぎなんだよ。大丈夫に決まってるでしょ、だって」

「……らって、蜜子がいるもの?」

 正解、だなんて返す声音は朗らか。そんな杵築恵のご機嫌そのままを映したように、彼女はととんっ、と前に躍り出る。

 その目前にあるのは、かつて掛井愛奈もくぐった屋上へと続く扉。躊躇なくそれを開こうとする杵築恵の後ろで、伊丹真香はひとり納得したように強く頷いた。

「そうれすね、蜜子なら、きっと」

 きぃ、と古めかしい音で鳴いて、開いてゆく扉の隙間からは、柔らかな灰色の光が差し込む。目に飛び込んできた曇天に一瞬だけふたりは眩んで、ゆっくりと目を開いてみれば、そこに彼女はいた。

「見つけた」

 小さく、聞こえないように。恵杵築は伊丹真香の肩にそっと手を置いて、彼女と視線を合わせる。

 たったそれだけのことだけど、蜜子の下で繋がった彼女たちにはそれだけで充分。ふたりは正しく通じ合って、だから伊丹真香は一、二歩と後ろに下がる。

 踵を返し降りていく彼女を見届けた彼女は、今一度扉の向こうを見据えて、歩き出した。

「空知さん、こんなところにいたんだ」

「あ、杵築さん」

 ひらひらと手を振る彼女の呼び掛けに振り返った環は、おずおずと頭を下げた。弾みでずれてしまったのだろう、眼鏡の位置を両手で直すと、もう一度屋上から見える風景へと向いた。まるで中身が、下へと引っ張られているみたいに。

 彼女は一歩一歩と近付きながら、環に言葉を投げ掛ける。

「いきなりどうしたの? みんな、心配してたよ」

「迷惑かけてごめんなさい。個人的なことだから、あまり気にしないでもらえると――」

「気にするよ!」

 突然に荒ぐ声音と、いきなり両肩を掴んだ手のひらと。

 目を丸くする環の様子に気付いて彼女は、慌ててその手を離す。そして謝罪に代わる愛想笑いを向けると、確かな口調で言った。

「だって私たち、クラスメートだもん。クラスメートが悩んでるのに放っておくだなんて、そんなの蜜子が許さないよ」

 にこりと笑いかける杵築恵は、環に屋上の入り口を向くよう勧める。

 果たして環の向く先には、真更衣蜜子を始めに、伊丹真香やクラスメイトたちみんな。もちろんそこには、愛奈の姿だって。

 蜜子は優しく、愛奈の背中を押す。

「さぁ、行っておいで」

 もう思い切り走れないはずの脚で、愛奈は環の元へと走り出す。無様によろめきながら、持てる限りの力を以て彼女は、少しでも速くと前に進もうとする。

 彼女は叫んだ。

「環っ!」

 幼馴染みのそんな姿を見ていられなかったのだろう。環だって同じように愛奈へと駆け出して、そうして、ちょうどその真ん中にて。

 ふたりは、ようやく辿り着いたのだ。

 お互いを支えとするように体重を分け合いながら強く、強く抱き締め合う。声にならない感慨が肌の温もりを通して伝わるのがわかった。環にとっては、もうそれだけで充分だと思えるくらいに。

「ねぇ、環。どうして」

 けれども静かな瞬間は終わる。最初に口を開いたのは、えぐえぐとした愛奈の涙声。それはずっと訊くことの出来なかった、心残り。

「どうして、陸上辞めちゃったの」

「っ、それは」

 愛奈を抱き締めていた手のひらが、強張る。環の瞳は泳いで揺らいで、弱り果てた視線の向かう先には、彼女のクラスメイトの姿が。

 杵築恵も伊丹真香も、他のクラスメイトたちだって、みんな環の背中を推すように見守っている。

 真更衣蜜子がきゅっと両拳を握って勇気づけて見せたから、とうとう環は意を決した。ひとつの深呼吸を切っ掛けにして、彼女は口を開く。

「……覚えてる? ふたりで最後に走った、あの日のこと」

 愛奈がはっと顔を起こした。それは大会出場の最後の一枠を選ぶために、ふたりで走ったあの日のことだ。あの時愛奈は勝ってしまっていたから、表情を曇らせた。あぁ、やっぱり私のせいだったんだ、と。

 環はあの日のことを懐かしむ。呼吸が苦しくて、それでも目の前に見える愛奈は綺麗なフォームで遠ざかっていく。どれだけ全力で走っても差は開いていった。

 けれど、それは理由ではない。

「あの時の、私を見るみんなの目を思い出すと、……ダメだった。だからこれは私自身の問題で、愛奈のせいじゃない」

 言葉を重ねていくほどに、憑き物が落ちていくように、環は心の底から柔らかく微笑んで見せた。

 だけど、その笑顔は愛奈には届かない。彼女は環の胸に顔を埋めたまま、いやいやと首を横に振っている。もはや環の言葉など、彼女にはきっと伝わらない。

 そんな悲しみに溺れた手をとったのは、ふたりの側に膝をついた真更衣蜜子だった。真剣な面持ちで彼女は、顔を上げてと優しく語りかけた。

「掛井さん、あまり自分を責めてはだめ。だって空知さんが、貴女を恨んでいないのだもの」

 ね、と彼女が笑いかけたから、環はしっかりと頷き返す。だから蜜子はもう一度愛奈の手をぎゅっと握り直して、告げた。

「それに、掛井さんの脚も、空知さんの心も。今はもう、お揃いなんだから」

 目を閉じ、握った手のひらを胸に当てて、そっと奥底の確かな温もりを確かめる。

 もしも、ずっと言えなかったことを言うとしたら、きっとそれは今だろう。そんな気がした。

「突然いなくなったりしてごめん、掛井さん」

 彼女のことをそう呼ぶのは、まだ違和感が口に苦いけれど。きっとここではそれが一番なのだから。

 だから、愛奈の瞳は見たことがないほどに輝いたのを見て、環はそれで満たされた気がした。

 そうして彼女もまた、応えるのだ。

「ううん、私こそごめんね。空知さん」

 互いを見つめるふたりの表情に、欠片も陰りは感じられない。長い悔恨に確かな終止符が打たれたことを感じて、蜜子はとても嬉しそうに微笑み、唱えた。

「欠落を抱えた私たちは、だからこそ元素のように、自然に手を取り合えるの」

 愛奈と繋いでいた手をそっと離して、今度はその手を環へと。きっとその手を、このクラスの誰もがとってきたのだろう。

 もう、躊躇いはない。

「改めて。ようこそ、私たちのクラスへ」

 最初はとれなかった蜜子の手のひらを、今度こそ環はしっかりと握り返す。途端に万雷の拍手がふたりを包んで、それは違いようのないほどの祝福だった。

 手に手をとって(まる)くなって、環は思う。彼女はなんて幸福そうに笑うのだろうかと。その笑顔は無邪気で純粋で。

「おめでとう、空知さん!」

 彼女たちはだからこそ、真更衣蜜子を愛してる。

 折角円く収まったのに、ひとりの転校生の存在が全部をぐちゃぐちゃにしていく。アイツさえいなければ、こんなことにはならなかったのに。


次回、円女窓菓


10月1日、20時更新予定です。

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