Ⅱ
なら、なぜ掛井愛奈は飛び降りたのか。
今日もクラスメイトたちは、蜜子の周りに輪をなしておしゃべりに興じている。
外側にいるのは余所者の環と、お役目を引き受けた愛奈だけ。もう走ることの敵わない彼女は、まるでかつてよりも幸福のような笑顔を環に向ける。
「ごきげんよう、環」
「おはよう愛奈。でもその挨拶、あんまり似合ってないと思う」
そうかなぁだなんて、にへらと笑う愛の姿だけ見れば、どうしても昔みたいな懐かしい気持ちになってしまう。
自ら飛び降りた彼女がこんなにも屈託なく笑えるなんて、絶対におかしいのに。
そんな環の考えを断ち切るように、誰かが後ろからふたりを呼び止めた。
「ごきげんよう。掛井さんに、空知さん」
「きずきさん! ごきげんよう」
振り返れば少女が笑顔で手を振っていて、彼女と愛奈はクラスメイト同士和やかに挨拶を交わす。
では、環は。馴染みのない目がこちらを見ているから、環は視線を合わせることが出来ずに目を泳がせる。傍目にはきっと、人見知りに見えたことだろう。
「おはよう、ええと、きずきさん?」
「杵築恵です、よろしくね」
愛奈にとっては呼び慣れたクラスメイトも、昨日会ったばかりの環が上擦った声で呼べば、どこかぎこちない。人付き合いにしばらくのブランクがあるのもそうだけど、何より気になったのは、恵の手のひらに大きな傷痕があったこと。
愛奈はそんなもの全く気にも留めていないというのに、彼女の手の甲にまで及ぶそれから、目を離せないでいる。それはきっと、刺し傷。
そんな環の恐々とした視線に気付いた彼女は、怖くないよとでもいうように傷痕の目立つ手をひらひらとさせた。
でも、すぐに意識は別に向かう。
「なんの話をしているのれすか」
落ち着いた声と、どこか甘い舌運び。蜜子とのおしゃべりを終えたのであろうひとりの少女が、環たちの間に大人びた顔を覗かせる。新しくやってきた彼女は環に笑いかけると、何ごとかをしゃべりだした。
「ごきげんよう、そあちさん。いあいあらかれす」
ええっと、と環がその言葉を理解するよりも先に、恵は手慣れた様子で制服の胸ポケットからメモ帳とペンとを取り出す。頁を広げる左手はともかく、傷痕のある右手ではペンを握ることは難しい。
だから愛奈はすぐさま彼女に寄り添って、その手を優しく支えた。
さらさらとペン先が紙面を滑る。彼女が愛奈の助けを得て記したのは、整った字体で書かれた伊丹真香という名前。先程の舌足らずな言葉に当て嵌めてみれば、それが新たにやってきた少女の名前なんだろうとわかった。
真香は愛奈の手をとって、手近な空席へと彼女を座らせる。愛奈の脚が小刻みに震えていることを、環はまるで気付けなかったのに。
だなんて茫然とする環を余所に、いつの間にやら少女たちの語らいには花が咲いていた。
「そっか、幼馴染みなんだっけ掛井さん」
「そうだよ、小さい頃からずっと一緒」
「そうなんれすか、とても素敵れす」
「でしょ?」
「だから真っ先に案内を買って出たんだ」
「なるほろ、大切なお友達なんれすね」
でしょ、だなんて自慢げに愛奈は笑う。
ああ、彼女たちは互いを名字で呼び会うんだな、なんて他愛ないことを思いながらも、あまりに陰りない幼馴染みの笑顔に胸を刺されるような心地がした。
彼女に何も告げないまま陸上を辞めた環なら、同じように言われて友達だと言い切れるだろうか。なんていうそれは不安といえばいいのか、それとも不信なのか。愛奈には環と違って、もう新しい人の輪が出来上がっていた。
そんな環の暗い顔は、だけれど直ぐ様戸惑いに変わる。
誰が初めに気付いたのか。和やかなやりとりをしていた愛奈たちは一斉に佇まいを改めて、いつの間にやら環を囲っていた少女の輪の中へと融けていく。
互いの手を取り合う慎ましやかな整列に区切られた内側、スポットライトに照らされているのは、ただふたりだけ。
たとえば無数の視線に刺されるような感覚の中、環は呼吸が早まるのを感じながら、なんとかそれを抑えつけようとする。彼女たちが見ているのは自分ではなく、もうひとりの少女なのだから、と。
「良かった、間に合ったみたい」
その焦点に立つ少女は環へと駆け寄って、安堵の微笑みを見せた。それから舞台上でするようなきらびやかな振る舞いで、スカートの裾をふわりと摘まみ上げる。
「改めましてごきげんよう、環さん。嬉しいわ、昨日は結局、ちゃんとお話出来なかったもの」
環の手を両手でぎゅっと握り、真っ直ぐにその瞳を覗き込む。まるで視線を通して、彼女の歓びに染められてしまいそうなくらいに、真っ直ぐ。
「ねぇ、貴女は何か好きなことはあるの?」
「えっ? ああ、走る……こととか……」
「素敵! 思い切り走るのは気持ちが良いものね、しばらくそういったことはしていないけれど、私も大好きよ。それじゃあ、部活動も陸上だったりするのかしら」
ぱちんと鳴らした手で感銘を示して、にこにこと彼女は小首を傾げる。幼げな仕草はいずれもが見目に麗しく、大人びた容姿も相俟って彼女に人が集う理由を証している。
けれど、輝けるものを一体、誰が直視など出来るだろうか。
「あぁ、ええと、それは……」
視線を伏して自然と暗がる環の表情は、にこやかな蜜子の笑顔の眩しさに当てられて、色濃く落ちた影のよう。彼女にはそれが見えないところも含めて、まさに。そして
「蜜子!」
と呼んだその声は、ドーナツみたいな甘い香りがした。円女窓菓は輪の内側で、蜜子と、環とを遮るようにふたりの間に立って、小さな背丈で主を見上げる。対する蜜子はきょとんとした顔で、目をぱちくりさせながら窓菓へと目を向けた。
小さなつま先が、きゅっと伸ばされる。そして蜜子の耳元へと唇を寄せたのは、甘くくすぐるように囁くため。
果たして何を伝えたのか、大きく見開かれた柘榴石の瞳は泣き出しそうに環へと向けられる。そのまま蜜子は両手を広げて、環を抱き締めた。ぎゅぅっと、強く。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。でも安心して、私はもう何も訊いたりしないわ」
涙声の彼女に突然強く抱き締められても、環はまるで訳がわからない。当惑の視線を窓菓へと向ければ、彼女は苦笑いを返した。
「あの、一体何の話なのか……」
「大丈夫よ、私たちは手を取り合える。だから何も――」
果たして丁度と言うべきか、蜜子の言葉を遮るようにチャイムの音が始まりを告げる。鐘の音が鳴る方を向いた蜜子は、拗ねるようにぷーっと頬を膨らませた。
「また、また必ずお話ししましょうね」
まるで強がりのように彼女は語りかけ、不服そうに、けれどきびきびと自らの席へと帰っていく。それを合図にクラスメイトたちもばらばらと捌けていって、上履きと、椅子を引く音。一瞬にして教室の空気は打って変わった。そして環の隣に残るのは、円女窓菓ひとりだけ。
まるで彼女には、訊きたいことがあるとわかっていたみたいだった。だから逡巡混じりだけれど、環は口を開く。
「さっき、真更衣さんに何て言ったの」
「あぁ、それはね」
窓菓は左手をかざす。小さくて柔らかい手のひらで、歪んだ薬指だけが痛々しい。例えばそれは杵築恩の手のひらであったり、伊丹真香の舌足らずであったり。もしかすると、掛井愛奈が飛び降りたことだって、きっと。
「誰にだって、触れちゃいけないことがあるんだよ、って」
そして環は思い出す。環をぎゅっと抱き締めた真更衣蜜子の左手。その薬指も、円女窓菓と同じだったことを。
「ねぇ愛奈」
「なぁに」
「なんで飛び降りたの」
それでもやっぱり、納得なんて出来なかった。苛立ちをぶつけるような声色になってしまったことは、苦い味がしたけれど。
そうして問われた愛奈は、環の机に座ったまま視線を上へと向けて、言葉を選ぶ。あれか、これか。浮かんだ言葉を舌で転がし、反芻して。
そうやって選んだ言葉は、どうやら思った通りの味わいがしたらしい。懐かしむように目を細めて、彼女は口を開いた。
「羨ましかったんだ、みんなのこと」
「みんな?」
「クラスのみんな」
それは杵築恵や伊丹真香、円女窓菓たち。もしかすると、真更衣蜜子も。
ちらりと視線を向けてみれば、もはや環の物珍しさも尽きたのだろうか。彼女たちはかつての通り蜜子を囲う輪になっている。
その中心から覗く柘榴石の瞳だけは、ちらちらとこちらを気にしているようだったけれど。
「見たでしょ。みんなさ、何かしら抱えてるんだよ」
「みんなって、本当にみんな?」
「どうだろう、わかんない。でも、うん。みんなだよ」
ひとり納得するように頷いて、続ける。
「みんなどこか欠けてて、互いにそれを埋めあってる」
環には、見知らぬ他人の機微なんて見抜けない。けれど、確かに見たところ不満を持っていそうな少女は見当たらないように思える。それが本当なら、この上ないことなのだろう。
そんなことを考えながら愛奈へ視線を戻すと、その横顔は少し、寂しそうに見えた。
「でもさ、違ったんだよ。私は」
痛い、そう感じた。それは環が、無意識に手のひらを強く握り締めていたから。我に返ってみれば脚だって小さく震えてしまって、ぎりりと歯が嫌な音を立てる。
胸の内に沈む気持ちは激情と、そして諦めに似ていた。
「……だから、欠けたかったってこと?」
かつてふたりで最後に走ったあの日、ひとり走る環を見詰めるあの視線たちが脳裏に浮かんだ。それを思い出す度に今でも少し、握り潰されるような心地がする。その窮屈な胸の奥底からせぐり上げるような言葉を、彼女はもどした。
「それってさ、真更衣さんになんか言われたの?」
まず顔をしかめたのは言われた方ではなく、言った側。それが言葉だったとしても、吐いた後味は、いつだって悪いものだから。
突いて出た言葉を拭うように、環は口元を手の甲で覆った。その勢いでずれた眼鏡を直す仕草の、なんて情けないことだろうか。
なのに愛奈は思い出に浸るばかりで、環のことなんか見ていない。懐かしい記憶へと甘酸っぱいはにかみを浮かべながら、彼女は答えるのだ。
「別に。ただちょっと、そう思っただけ」
そっか、だなんて。思い詰めた独り言は、気のない返事とよく似ている。それきり環は黙りこくってただ、俯くだけ。
ふたりで最後に走った日のことが、彼女の頭の中をぐるぐると回っていた。綺麗なフォームで走る彼女の後ろ姿は、今でも目に焼き付いている。
「それじゃあ私は」
その時にきっと、環は欠けてしまった。
「私は、なんで部活やめたの……?」
えっ、だなんて愛奈の素っ頓興な声を聞いて環は、自分の口から漏れ出した言葉に息を飲んだ。部活をやめた理由なんて、自分が一番よく知っている。忘れてしまいたいほど身勝手なその理由を、愛奈がわかるはずもないのに。
その呟きに矛盾はない。だって求めたのは理由じゃなくて、意味だったから。
頭を抱えて、環は深いため息を吐く。
「……ごめん、頭冷やしてくる」
そうして席を立ち、逃げるように教室の外へ。
呼び止める暇もなかった愛奈は手を伸ばしかけたまま、ただ呆然とするばかり。視線は開け放たれた扉を見つめたまま、指先は微かに震えている。
「愛奈っ、どうしたの!」
そんな彼女の元へ慌てた様子で駆け寄ってくるのは、誰よりも誰よりも優しい少女。彼女は清らな流れにも似た黒髪を靡かせて、愛奈をぎゅっと抱き締めた。不安げな子羊の頭を優しく撫で、耳元で囁く様は、まるで愛しく愛するようで。
「教えて、何があったの?」
耳元をくすぐられるような、蜜子の優しさに触れた愛奈の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。だってそんな綺麗な声で優しくされてしまったら、そこからはもう、崩れるように。
「わかんない、わかんないよ」
蜜子の胸に顔を埋めたまま、駄々っ子のようにいやいやと首を横に振る。その様子があまりにも可哀想だったから、クラスのみんなまでもが、さめざめと涙をこぼしてしまうほど。
その啜り泣きが琴線を震わせたのだ。涙の混じる声音は次第に言葉ですらなくなって、やがて愛奈は声を上げて泣きじゃくってしまった。
可哀想に。彼女をもう一度強く抱き締めて、蜜子はゆっくりと顔を上げる。その瞳は今までのどんなときよりも鋭い煌めきを見せていて、その視線に触れれば骨すら断たれてしまいそう。その声は冷たい響きで、蜜子の舌から綴り出された。
「みんな、わかっているわね」
蜜子とその腕に抱かれる愛奈とを円く囲うクラスメイトたちは、次なる彼女の言葉により一層佇まいを正す。少女たちは静寂をして、それを乱すのなら息遣いひとつですらも極刑に処されてしまいそう。
だから曼荼羅と並ぶ少女たちは、耳障りな吐息のひとつこぼすことはない。ただ粛々とスカートの裾を摘まみ上げて、しんしんと頭を垂れるだけ。
言葉の通り、息を詰まらせそうな教室の中心で、やがて蜜子は宣告した。
「空知さんを、探しましょう」
全ては蜜子の想いのままに。だって彼女のお友達は誰ひとり残さず、同じ気持ちなんだもの。
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