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真更衣蜜子を愛してる  作者: 遠藤ほうり
空知環
1/9

 そして、一人の少女が飛び降りた。

 空知環(そらちたまき)は後悔していた。

 かつて以来通ることのないままだった教室のドアに手を掛けて、荒れる呼吸を彼女は調えようとする。ただ久しぶりの学校というだけ、見知らぬクラスメート達の談笑が扉越しに聞こえるというだけなのに、元々が生真面目な環にとってはそれが随分と重たく感じられた。

 きっちりと整えられた前髪から覗く瞳が、眼鏡の奥で不安に揺れる。俯いたままの表情には笑顔なんてない。

 当然だ。だって彼女の幼馴染みが、屋上から飛び降りたのだから。

 幸いにも命に別状はない。数ヶ月を病院のベッドの上で過ごしたのち、今後一切思い切り走ることが出来なくなる、それだけ。

 そんなしばらくの療養を経た彼女は何事もなかったみたいにクラスへと戻っていって、今では前と変わらない日常生活を送っていると聞いた。どころかクラスメートたちとは一層打ち解けて、以前よりもむしろ笑顔が増えたのだとか。

 今も足を引きずる彼女は、掛井愛奈(かけいあいな)はスプリンターだった。

 ぎりり、と食いしばった歯が軋みを上げる。逆立つ心と呼吸とを無理やりにでも撫で付けて、それから環は扉を開けた。

 がらりと開け放たれた扉の向こう、誰が最初に彼女に気付いたのか、途端教室は静まり返る。

 静かに読書をしていた少女、自らの席に突っ伏していた少女、集まって談笑をしていた少女。少女、少女、少女。

 教室に散らばった数多の少女の、その全てが一様に動きを止めた。言うなればそれは写真とか、それとも絵画のように不自然な静止だった。

 突然に教室の外から現れた、空知環という異物へと向けられる奇異やら疑問やら警戒やら。そんなクラスメートたち二十七対の視線はまるで、細い細い針のよう。

 ひゅっ、と音を立てて喉奥から息が漏れた。

 曇りない透明に似た完璧な静謐は、可哀想に、そうでないものをひどく浮き彫りにしてしまう。言ってしまえば、晒し上げみたいに。

 けれど、

「あら」

 そんな張りつめた教室の中心から、凛と聞こえた声が鳴る。それはチェロをはじめとする、しっとりとした弦楽の響きにも似たひとりの少女の小さな呟きで、クラスメートの彼女たちにとっては鶴の一声とも呼べるもの。

 その声を切欠として、少女たちは一斉に起立する。さっきまでは纏まりなく見えた少女たち其々は、今や一枚の布を成す綾糸そのもの。それを一糸乱れなくと評すれば、比喩どころでは済まないくらい。

 そうして出来上がったのは、向かい合う少女たちが並んで出来たふたつの行列。まるで赤絨毯の両端を表すようなそれは、目の前の光景に目を丸くするばかりの環と、ただひとりの少女とを真っ直ぐに結んでいる。

 彼女は始点、あるいは原点か。

 列べた少女たちの基点に立って、その少女はゆったりと環の方を向いた。そんな仕草のたとえば指先は愚か、なびく長い黒髪の先に至るまで。毀れることなく調ったそのシルエットのなんて綺麗なことでしょう。

 しなやかな仕草でスカートの裾をつまみ上げ、彼女はゆっくりと頭を垂れる。さらさらと流れ落ちる黒髪の零れていく様は、まるで硝子を砕いた砂のよう。

 そうしてひとつ、ふたつと余韻を含ませ、歩くような速さで彼女は背中を伸ばした。そうすれば黒絹のようにさらりとした前髪はヴェールを捲るように、少女の白く調った(かんばせ)が姿を見せる。

 例えば、なのだけど。滑かな輪郭も切れ長の瞳も、果たして彼女の持ち合わせる均整を、何に喩えることが出来るだろうか。美しさを彼女に喩えるならばともかく、初めての恋の想い出ですら、彼女には遠く及ばない。

 そうしてまず最初に、彼女は一歩を踏み出した。穢れひとつない真っ白な上履きが床を踏む度に、路を編む少女たちも波紋の広がるように順に頭を下げていく。教室の中心から淑やかなフラワーアーチを潜り抜けるように、環の元へ。

 足音が止んだのは、環の目前まで辿り着いたから。両足を揃え佇まいを改めて、それから彼女は口を開いた。

「ごきげんよう。空知環さん」

 ピリオドの代わりに微笑みを添えて、友好の証にと掌を差し出す。彼女の仕草や表情のどこにも偽りは感じられなくて、だからこそ環は余所行きの笑顔のまま眉をひそめた。だって欠片も汚れのない純白だなんて、在り得るはずがないもの。

「ええ……と、おはよう。……貴女は?」

 お返事は躊躇いを以て。環はその手をとる素振りしながらも、あえて戸惑って見せた。几帳面そうな顔に浮かぶひきつり笑いは作り物だけれど、なんなら眼鏡の奥にある瞳が映すその困惑は、決して偽物ではないのだし。

 けれど環に握手を拒まれたことよりも、返事があったことがそんなにも嬉しかったのか。お人形さんよりも綺麗な彼女の瞳は爛とルビィめき輝いて、宙ぶらりんになっていた環の手を強く握った。

「私は真更衣蜜子(まさらいみつこ)。貴女とお友達になりたいの」

 弾む声音は琴線を爪弾くように。無邪気でそして純粋で、そんな好意を希釈なくぶつけられた環は、一体どうすればいいというのか。

 視線を逸らせば、何かがひやりと痛む。頭を垂れたまま舞台装置に徹する少女たちの見えない視線が、やっぱり裁縫針よろしく彼女の身体を刺しているのだろう。

 ごめんなさい、お友達にはなれないの。だなんて言ってみたら、果たしてどうなってしまうのか。きっと自らに選択肢は与えられていないのだと気付いて、だけれどもう手遅れも手遅れ。

 始まりのチャイムが鳴り始める。表にこそ出さないけれど、空知環は後悔していた。


「ごめんね環。びっくりしたでしょ?」

 初めて主を迎えた環の机に両肘をついて、掛井愛奈は語りかける。言葉には苦笑を添えて、けれど環のそれとは違い屈託はない。彼女が快活な性格であろうことは、その喋り方からも連想するに易い。

 彼女があの時に頭を垂れていた内のひとりだなんて、まさか誰も思わないだろう。どうして走れなくなった彼女がこんなにも穏やかな顔で笑えるのか、環にはわからない。

「びっくりどころじゃないよ」

 だから彼女は、幼馴染みに対しても素直に心を許す気になれないでいる。見た目には気安そうに接しているけれど、環の胸の中は疑いでいっぱいだ。

 慣れない教室の馴染みのない自席に着いた今、ふたり以外の誰もがひとりの少女が座る席を中心にして輪を成している。

 その他大勢。そして、真更衣蜜子。

 傍目に見る彼女たちのやりとりはそう変わったものではなかったが、それにしたって比重が偏りすぎているのではないか。たったひとりに全員で押し掛けるみたいなクラスメートたちの様子は、あまり眺めていたいものではない。

 ただ、自分に向けられる視線が減ったことはだけは、環にとって安堵出来ることだった。余計なことを思い出さずに済むから。

「で、愛奈はいいの?」

 知らない子たちから目を逸らした環は、両手で眼鏡の弦を押し上げると、改めて不機嫌そうに口を結んだ。難しい顔、と言った方が正しいかもしれない。

 なにせ飛び降りた幼馴染みがこちらに笑顔を向けるんだから、一体どんな表情でいればいいというのか。

 そんな調子の環が顎で示した先は、件のクラスメートたちの輪の方向。環が来ていなかったら、今頃は愛奈もあの中にいたのだろうか。それともあの中に居場所がないから、ここにいるのか。

「いーのいーの。環がクラスに馴染めるようにするのが私の役目だし」

 机上で頬杖を付きながら、愛奈はからっと笑う。あっけらかんとした彼女の様子は環にとっては随分見慣れた懐かしいもので、余計なお世話だと思いながらも、きつく結んだはずの唇が少し緩むのを感じた。

 けどそれも、続く言葉を聞いてしまうまでのお話。

「それよりさ、どうしてやめちゃったの、陸上」

 愛奈は、簡単に話を変えようとする。まるでその一言で自分の気持ちをまるごと片されてしまいそうに感じてで、環は何だかみじめな気分になる。

 それに、内容も内容だ。

 不機嫌な環は、普段の愛奈をわざとらしく真似た朗らかな振る舞いで、突き放すように返した。

「……別に、気にしなくていいよ。それよりーー」

 だから意趣返しもあり、そろそろ本題に入りたい環は話を変えようとして、けれど。

「ね、なんの話?」

 小柄な少女の、高い位置で纏められたツインテールがふわりと揺れる。(まる)い瞳をきょろきょろとさせて問い掛けた彼女はにこりと、環へ向かって笑いかけた。

「ごきげんよう、円女窓菓(つぶらめまどか)です」

 スカートの裾をふわりと摘まみ、ぺこりとお辞儀をしてみせれば、彼女はまるで小動物。どうしてだか、そんな窓菓を環が邪険に出来るはずもなくて、戸惑い混じりながらもなんとか、よろしくという言葉を絞り出した。

 そう応えたことが何かの合図だと思ったのか、彼女はこれ幸いとばかりにあのねあのねと環に詰め寄った。

「ごめんね? さっきのあれ、びっくりしたでしょ」

「え、うん、……まぁ」

 ずいと近寄る(つぶら)な瞳に気圧されて、ついつい本音を漏らしてしまう。自己否定的な彼女の言葉に同意することは、果たして肯定になるのか否か。戸惑う環にはいまいちよくわからない。

 窓菓はそんな環の様子をお構いなしに、愛奈の両肩に手を伸ばし、見せびらかすように自らの前へと引き寄せる。小さな身体は愛奈の影に隠れてしまうから、後ろから顔をひょっこりと覗かせるように。

 ただ、気になることがひとつ。肩に乗せられた彼女の左手、その薬指だけが、たとえば折れた骨を矯めずにいたような奇妙な形をしている。

 環の視線に気付いているのかどうか、ともあれ窓菓は言った。

「でも良かった。掛井さん、ずっと貴女のこと気にしてたんだよ?」

 ね、と綿菓子のような声が言えば、ばつの悪そうなはにかみ顔で愛奈は小さく頷く。彼女がそういう点で素直じゃないのは昔から変わっていないようで、その表情だって、環にはよく見慣れたものだった。

 窓菓はうんうんと頷いて、にんまりと笑う。

「実はね、貴女と話してみたいって子、まだたくさんいるんだよ」

 気付けば環の周りには、向こうの輪から流れてきたのだろう、少女たちが集まり始めていた。窓菓がちょいちょいと手招きをすれば、彼女たちはおずおずと整列する。次第に伸びていく列の最後には、律儀に並ぶ蜜子の姿まで。

 ちらりと見やった視線が合えば、蜜子の切れ長の瞳がぱあっと輝く。大人びた見た目と反する幼い振る舞いに、環と、愛奈は顔を見合わせて笑ってしまう。

 どうやらふたりに積もる話なんてしている余裕はないらしい。そんな一部始終を眺めていた窓菓は、優しく我が子を撫でるように微笑んだ。

「これからゆっくり、分かり合っていけばいいんだよ」

次回更新は28日、20時予定です


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