藤
やや強い風に乗ってざざん、という音が心地よいリズムで耳に届く。日の落ちた海岸線は自らの姿を曖昧に隠しているようで、その存在をはっきりと見ることもできない。背の高いコンクリートや鉄、ガラスがいくつもの赤い目でこちらを見下ろしてくる。私はどこか息が詰まるような感覚を覚えていたが、彼はそんな私に構わず波打ち際へと一歩ずつ近付いて行った。あまり踏みなれない砂浜に足を取られながらも立ち止まっていた彼に追いつくと、そこでようやくキラキラと光を反射しながら寄せては引いていく黒の水面が見えた。穏やかな音を立てて少し先でうねるその漆黒は、辺りのビルから放たれているであろう光があってようやく目でとらえることができる。月の光は雲によって遮られ、もはや海には差し込まない程弱くなってしまっていた。
「写真を撮ってくれないか」と、彼は淡い紫の瞳でそう言った。私は彼のスマートフォンと荷物を預かり、少し離れてレンズを彼に向けた。こちらを見る彼は、静かに泡立つシャンパンのような夜景を背にして立っていた。ふと私は、画面越しに見た彼に儚さを覚えた。彼が泡のようにふわりと消えてしまうのではないか。波打つ漆黒に飲み込まれてしまうのではないか。と、そう思ったのだ。撮影ボタンを押して、撮れた写真を確認する前に彼に近付いて行った。彼はなんの変わりもなくそこに立っていた。立って、自分が写っている画面を確認していた。「どうかな」と私が聞けば、彼は「いいね」と言いながら笑った。画面の明かりによって照らされた、細い藤色が妙に記憶に残っている。
その後は海岸を彼と二人で話しながら歩いた。何事もなく夜の散歩は終わったが、ふとした瞬間に彼の姿が消えてしまわないかがずっと心配だった。しかし、こんなことを伝えてもまた目を細めて「そんなことないよ」と笑われてしまうだろうから、こうして書き残して留めておくことにする。