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一筋の涙滴

作者: 瀧田新根


 赤色の光が大地を染めていた。夕刻に差し掛かる事を如実に表す電柱の細長い影が、朱に染まった大地を切り取る様に等間隔に並んでいた。廃屋に続く道路は未舗装であったが良く均され、かすかに残る車の轍に沿って先日の雨水が所々に水たまりを作っていた。雑草は膝丈くらいまでに伸び切り、車の底面を擦る音が車内には響いていた。乗車しているのは三人。後部がスモーク状になったライトバンで、全員がツナギでも来ているのなら、電気会社かはたまた水道会社かと思えるほどに白の車体には、あちこちに汚れが残っていた。しかし、三人の姿を見れば、違うのは一目瞭然だった。

 車内に乗る女性、レイチェル・ルメイ・エリカは、派手な赤いドレスを着て、タバコを口にくわえていた。若いのだろう瑞々しい肌が見受けられた。見事なブロンドの髪は長く腰ほどまであり、右肩から前にまとめて流していた。青い瞳は窓の外を見つめたまま、感情の起伏の一つも感じさせない、冷たい瞳だった。深いスリットから除く足には、黒いタイツが覗いていた。合わせた様な赤いハイヒールは高い。後ろの席に陣取り、ここが私の居場所だといわんばかりであった。

 運転席にいるロバート・ジェラード・バーは、ラジオから流れる音楽に合わせて人差し指でビートを刻んでいた。短い茶色の髪はさわやかにそろえられていた。その表情は硬く、味噌っ歯を気にするのか、口は真一文字に閉じられていた。茶色の瞳が乾いた様に淀んだ視線を前方に向けていた。黒い皺のよったスーツに身を包み、ワイシャツの一番上はボタンが開けられていた。タイは着けておらず、少しラフな感じを受けた。若い。レイチェルと同じくらいだろうか、車と装いがあっているわけではなかったが、二人だけならばまだ関連性を考える事はできただろう。

 だが、最後に一人年配の男性が座っていた。アンディ・P・バーニングは、黒い髪に紺色の野球帽を被っていた。黒い太縁の眼鏡をかけ、黒色のツナギを着ていた。筋肉質な体が、ツナギの上からも確認できる。まくった腕は太く、サイケデリックに映る紫や緑といったきつい色のタトゥーがいくつも入っていた。とはいえ、人の好さそうな笑みを浮かべていた。視線は二人と同じようにどこか冷めた瞳としていた。

 「アンディ、今回の《荷物》は大分大きいじゃないか。もしやおまけがあるのかい?」

 ロバートは舌っ足らずな言葉使いで問いかけた。アンディは、鷹揚に頷いた。眼鏡をくいっと直すと、

「そうなんだ、レイチェルが良い《獲物》を見つけたからね。ロバートもきっと喜んでくれると思うよ。いや、本当にレイチェルには頭が上がらない。感謝、感謝だね」

 はっ、とレイチェルは笑った。紫煙が薄く開けられた窓から外に、すっ、と出て行った。

「本気でそう思っていいないでしょう。どうせいい様に解釈をするのは――いつもの事なのだから。ただ、私は不幸な話が欲しいだけよ。それも一度に二つも得られる機会があるのなら、みすみす手放す云われはないわ」

「おいおい、素直に喜んだらどうだい、アンディが褒めるなんて、俺は初めて聞いたよ」

 ロバートの物言いに、アンディは苦笑いした。どこか自嘲めいて、ロバートの言葉に傷ついたとでも言いたげだった。

「そんなつもりもないんだが、わたしが褒めるということは、《芸術》に対してはあっても、その過程をどうも見ない、というのが強いんだろうな。どうでもいいと思えて仕方ないのだがね。さて諸君、」

 アンディは少し身をよじると、後ろを振り返りレイチェルにも一度視線を飛ばした。

「今回の哀れな《獲物》について道中もまだある事だし話しておこう。報酬は三千と最低だがね、マイケル・D・アンダースのシマを荒らしたという事で依頼があったんだ。懇意にしている上客だから、断るに断れなくてね。ロバートの趣味には合わないが……なに、おまけがあるから待ってくれ。去る九月三日にマイケルの配下の若者が酒場の集金に来ていたそうだ。良く晴れた日だったから、暑さがひどくてね、良く売り上げがあった様なんだ。その上、エンジェルスが良いところまで行っていたから、酒場にはエンジェルスファンが押し寄せていてね、当然今回の《獲物》も当然その酒場に居たんだ。時刻は二十一時を回ったところ。その日一番の盛況っぷりに、集金係も一杯酒をひっかけたそうだ。その時、エンジェルスが敗れてね。落胆の声が響いたそうだ。

 だが、《獲物》は相手チームのファンだったらしくてで、一人で上機嫌になっていたらしい。その態度にコアなファンは怒りをぶつけてね、一発ガツンとやったらしい。集金係もその様子を笑いながら眺めて居たらしいんだが、《獲物》が何を思ったのか、その視線に対していちゃもんを付けてね。だいぶ酒も回っていたのだろう。手にしたのはステーキ用の小さいナイフ。集金係も笑い飛ばしていたんだが、次の瞬間、集金係の首をかっ切ったとのことだ。集金係はその場で悶絶。そこに追い打ちのめった刺し。救急車に運ばれていって一命はとりとめた。警察もすぐさま駆けつけたが、その場からとっくに《獲物》はとんずらさ。

 マイケルも店のことをあまり調べられるという事を嫌う性質だから、袖の下でちょっと大ごとにはしなかった様だ。しかし、集金係をやられたことに激怒している訳だから、私刑に処したいと考えていたんだが……、警察がそのことをかぎつけたらしくてね。にらみ合った状態が続いてしまった。

 そこで、わたしたちの出番というわけさ。面子をつぶされたままっていう訳にもいかず、そんな雑魚に人手も掛けれずっていうことで、《処分》しろという事だ。大したお駄賃もなく、警察の手前目を盗んでという事になると、ということで、綺麗に《処分》できるのがわたしたちというわけさ。こっちも経費がかかるんだが……まぁ、昔馴染みでっていう事で嘆くなよ。その《獲物》が飼っていた《獲物》の子も寂しくない様に一緒に連れてきたというのが事の顛末さ」

「というと、まだ若い子なのかい?」

 当然、とアンディ微笑んだ。ロバートにとってみれば、若いというのがどれだけ重要であるか、アンディも同好の士としては良く理解していた。

「ただ、後でよく吟味してみようじゃないか。レイチェル曰く、死んだようだ、と言わしめるほど憔悴しているらしいからね。わたしは《荷物》をまとめるのに手間取っていたが、自ら進んでパッケージされたというから、普通じゃないというのが伺える。レイチェルの物語蒐集もしなければいけないし、《獲物》はさっさと解体しないといけないし。時間は有限なんだ。手早く面倒事を片付けて楽しもうじゃないか」

 ロバートは一度ちらりとアンディを見た。それから、への字に口を曲げた。

「というと、またレイチェルからか」

 落胆する様なロバートに、仕方ないさ、とアンディは肩を叩いた。

「今回の功労者は《獲物》を探し出したレイチェルにある訳だしね」

 レイチェルはぷかぷかと煙を吐き出した。目だけは愉快そうに少し笑っていた。



 廃屋は、テキサス州サンアントニオから、北西に進んだ、フォートストックトンとの間にあった。荒涼とした平野の中にぽつんと立つ廃屋は、かつての産業とも全くの無縁に、孤立した空間を作り出していた。

 遠くから見れば岩肌に隠れ、見つけ出す事はほとんどできないだろう。木目がむき出しの木製の廃屋は、緑の塗料の跡があちこちに残り、剥げ上がっていた。トタンの屋根には錆が浮き出て、赤茶けた色を雨どいから下へ、下へと落としていた。そのくせ、しっかりと未だに建物として形を保ち、風で屋根が浮き上がるという事もない。錆びた色や木目などの暖系色が地面の赤茶色と同化する様で、ひどく自然な感じを受ける事は容易に想像ができた。ガレージもなく、ただ小屋としての機能だけを凝縮した様なそんな作りを外見から受ける事だろう。おそらくは仮の保安事務所として建てられたのではないか、とかつてアンディは笑いながら話した事があったが、レイチェルもロバートもすっかりそのことは忘れ去ってしまった。ただ、《仕事》と《趣味》を行う儀式の場としては重要だと理解はしていたらしく、アンディには感謝の意を述べていた。アンディはこういった良く分からなくなった建物をいくつか持っていて、ルイジアナやオクラホマで《仕事》をした際にも活用していた。

 廃屋の裏に表から白い色が見えない様に気遣って停めると、レイチェルはぐっと伸びをして車から降りた。アンディとロバートも一拍おいてから降車し、車の後ろへと回った。アンディが後ろの扉を開けると、黒い長い荷物が二つ。

 一つはもぞもぞと動いているのが分かった。もう一つは身動き一つもなく硬直していた。何時間もこんな窮屈なところに押し込められていたのに大した物だと、ロバートは感心した。

 アンディとロバートは身じろぎする《荷物》を一瞥した。アンディが思いっきり一発殴ると、もぞもぞした動きが止まった。顔を見合わせて笑うと二人で抱えて、廃屋へと運び込んだ。

 レイチェルが扉を押さえ二人を迎え入れた。もう一つの《荷物》は、嫌におとなしかったので、そっと持ち上げてロバートが廃屋に持ち込んだ。

 二つの荷物をリビングに持ち込むと、レイチェルが、早速荷ほどきを始めた。アンディはロバートとレイチェルにその場を任せる事にした。二人に任せておけば万が一という事もないだろう。

 次に廃屋の中には電気は通っていないため、あらかじめ運び込まれていた発電機を動かした。低い唸り声をあげて発電機は回転する。アンディはその振動が好きだった。現実感を感じられるバロメーターの様な物であり、五感がフルに回転している瞬間こそ、生を実感できた気がしたからだった。齢四十四になる彼は、独り身であったし、これから先もその状況は変わらないと思っていた。いつかは電気椅子に送られる運命にあると、薄々感じていたのもあるし、この稼業を続けるにあたって付き合いのある、《悪い》人達から、いつか自分も同じ目にあうのだろうという事を背後に常に持ってはいた。だからこそ自害するためのデリンジャーは常に身に着けていた。二人だってそうだろうと思っていた。

 ロバートとは五年来の付き合いだが、アンディよりも無鉄砲なところがあるため、自分より先に消えていく運命にある気がしてならなかった。《蒐集品》の売買を昔行ったという事で、クリス・ド・カルーラとの確執もあり、ミネソタでは大きな問題を抱えているらしい。北には行けないと嘆いていたのも聞いたか、と思い出した。《蒐集品》の所為で、クリスのシマでは『フィンガー・コレクター』なる称号で呼ばれているらしい。

 レイチェルとは三年の付き合いだったが、彼女の本質はアンディやロバートとは隔絶した違いがあるものの、二人よりも根深い中毒的な物であった。表の顔は、人の内面を細部まで描き出すといわれる脚本家だった。とても暗い物語を描くために、自らその影を持った者と《話》をするというのが彼女のスタイルだった。マイケル・D・アンダースとの付き合いで、自分の所に変な女が押しかけているという事で会ってみると、十二分に辱めを受け、手足に痣を作りながらも、自らの創作にためには《本物の声》を聞きたいと《仕事》に係らせてほしいと薄い笑みを浮かべ懇願をしてきたのを思い出した。

 自らその沼に入りきる。そういったネジの飛んだ者をアンディは束ねていた。当然、アンディも頭のネジが飛んでいる事を理解していた。でなければ、二人からの信頼はない、と車から取り出したアタッシュケースを太い指で撫でながら、思いを馳せた。

 アンディが廃屋に戻ると、椅子に縛り上げられた《獲物》が並んでいた。リビングはオレンジ色の電球によって照らされ、思ったよりも明るい、というのが印象だった。いつも使っていたが、ここまで明るいと感じたのは、ロバートの普段偏屈な表情が華やいでいたからというのもあるのだろうか、と思うとアンディは苦笑いをした。同じ色の電球もここを使うという前に変えたばかりだから、明るいのも当然だったはずだが、そういった雰囲気がいつもと違うというのも《仕事》に張り合いをもたらすいい影響になれば――あるいは《獲物》にとっては悪い物だが――とも思っていた。たかが三百の仕事にしては手が込んでいる、と笑われるだろうが、彼らの楽しみを享受するためには必要な措置だった。

 一人は肥大化した手足を持ち、腹が風船の様にでっぷりと膨れ上がった、肥満の男性。口にはタオルがかまされ、Tシャツに短パンというラフな格好。額には汗が浮きでて、茶色の髪がぺったりとへばりついていた。がくがくと震えているのが分かった。瞳がきょろきょろとあたりを見渡し、これからの自分の安否について想像をめぐらしている事だろう。身じろぎする度に、縛りあげた結束ロープがぎちぎちと音を上げていた。男の体重に耐えきれるのか、少し不安を感じさせるスチール製の椅子には、結束ロープを二重に巻き付けて、男の足が浮き上がらない様にきつく縛り上げていた。未だに生にしがみ付くというのが表れた行動に、アンディはどこか苛立ちめいたものを感じた。自分のしでかした事を一切感じてはいないのか、と義憤めいた憤りも持ってはいたが、自らが行う行動がそんな綺麗なものではない事を思い出し、むしろどこか嗜虐心をくすぐられる気分になった。さっさと《処理》するにはあまりにも勿体ない気がしてならなかった。

 もう一人は口に猿ぐつわすらしていない少女。逃げ出す事を鑑みて結束ロープは両手、両足についてはいたが、暴れる様子も、焦っている様子も見受けられなかった。もとは艶やかなアイボリーの綺麗な髪だったのだろうが、色がすすけ所々白色が混じっていた。瞳は濁り切っており、顔はやつれていた。憔悴した表情でなお、美しさを感じる程だった。儚げな表情がどこか嗜虐心をくすぐる。なるほど、とアンディは頷いた。レイチェルが言う通り死んでいると形容されても間違いないと感じた。細い手足にタトゥーの様に痣が幾つもあった。痩せた体は体重がほとんど感じられない。細い体に小さいTシャツとジーンズ。何年も履き古されているのだろう、所々ほつれているのが分かる。ベルトをしていないとすぐにでも落ちそうな細いウェストが見えた。少女は一言も話す事なく、ただ一点を見つめていた。間違いなく、とアンディは思った、彼女は死んでいると。

 ロバートが喜々とした表情で、アンディの肩を抱いた。

「こいつは良い掘り出し物じゃないか。叫びもなければ喚きもしない、どうという事もない。逃げられちゃ面倒だからとりあえずは縛っておいたが、その必要もないかもしれない。こんな美しい指は久しぶりだ。さっさと《仕事》を片付けてしまおう」

「乗り気になった所で、まずは、レイチェルとこの子だけキッチンに置いて話をさせてやろう。その間にわたしたちでこの大きな《獲物》を捌くというのはどうだろうか」

 アンディの申し出にレイチェルも口元に笑みを浮かべて頷き、ロバートもこくこくと首を縦に振った。

 さっさと面倒な事を済ませたい、ともうのはアンディも同じであったから、早速作業にかかる事にした。レイチェルと少女をキッチンへと追いやった。

 すぐさま作業にとりかかるため、床板を外した。何度も外しているものだから、その板はすんなりと開いていく。二枚、三枚、とすすめ十枚も外せば十分なスペースができた。そこに男の乗った椅子を降ろした。よだれのついたタオルを外していざ《血抜き》でもしようかとかなりの刃渡りの《道具》を工具箱から取り出した。刃渡り六十はあろうかという『くの字』に折れ曲がった形状は、その《道具》の凶悪さが、きらりと電球の光を浴びて怪しく輝いた。

 男はその瞬間から喚きだした。その声はガチョウの様にうるさく、鼻についていた。男が喚く度に、アンディもロバートも苛立ちに近い物を感じる程、《五月蝿い》と感じ得る声だ。

「オレがお前らに何か悪いことをしたか? オレは迷惑をかけていないじゃないか。どうしてこういう目に合わせるんだ。頼むよ。何の理屈で俺を襲ったのか。金か? 金じゃないよな。オレみたいな金のなさそうな者を狙うというのは、何かの遺恨があったのか? オレは覚えていない。覚えていない謂れで命を取られるなんてない。妻か? カーラの事なのか? あれは事故だ。オレの所為じゃないし、オレが何かしたわけじゃない。あいつが男と居た事に激怒したんだ。娘を連れて外に出ていこうとするからいけないんだ。全部カーラの責任じゃないか。不貞をしたのはあいつの問題じゃないか。俺はなにもしちゃいない。何もしちゃいないんだ。あの薄気味悪い娘を一度? いや、二度だったか、叩いた事はある。がそれだけじゃないか。いつも口を噤んでオレのことを睨むんだから、多少矯正する事が必要なんだ。それを大きな話にしたのはカーラだ。結局全部悪いのはあいつじゃないか。車の前に飛び出してきて、勝手に逝った。それなのにオレの責任にするのか。

 それとも違うのか、《処刑人》の様に、悪を裁くっていうのか? オレが悪だというのなら、もっと巨悪を知っている。――それは警察だ。あんなギャングどもと裏でつるんで、私利私欲をむさぼっている。善良な市民の事なんて何も考えちゃいないだろう。オレが駐車禁止を取られている間に、無辜の命がギャングによって散っているというのに、そう言事には首をつっこまない。直ぐとなりの通りには、犯罪で有名なブラックストリートだというのに、オレの駐車禁止の方が大事か? 助けを呼ぶ声なんてそこに行けば直ぐに聞こえる。追いはぎに強盗、非合法の薬の販売、密造酒の販売。なんでもござれじゃないか。だというのに、オレの駐車禁止を取る事ばかり考えている。今年に入ってから四回も切られているんだぞ?

あぁ、オレの代わりに娘を好きなように使えばいい。金づるにしたいというのなら、体でも売らせればいい。バラしたってかまわない。どうせ綺麗な体じゃないんだ、好きにしてやればいい。――なんで、ってそりゃ味見位するだろうさ。親ならその責任があるというものだろう。どこぞの男にいい様にされる前にそれを確かめるのも父親の務めだ。精神的な矯正はできなかったが、ひどく従順ではあるのは間違いない。だから、オレを見逃せ。な。娘はやる、それでいいだろう?」

 アンディは丁度いい高さにある男の頭を蹴った。拘束された男の頭は、衝撃を逃がしきれず紐のついたゴムボールの様に跳ね返ってきた。男の口の端は切れ、一筋の赤が垂れていた。アンディは無言のまま男を見つめた。男はなぜ蹴られたのか、其れすらも理解はできない様子だった。アンディは理解力のないこの男に、教育をしてやるべきかどうかを悩んだ。どうせすぐに《処理》される事になるのだから、意味がないという考えと、自分のしでかしたことに対する罪の意識の無さを教え込み、後悔の縁で《処理》されるべきだという二つの考えがせめぎ合っていた。ロバートの顔をみると、いつも通り口を真一文字に結んでいた。彼にとってみればこの男の事など取るに足らないと思っているのだろう。いつも通りである事、それはこの稼業を続ける上では重要だと、アンディも理解していた。多くの物語を語る口に出会うが、今わの際での言葉など、ただのBGMにもなりはしない。絶望に彩られた言葉を真に受ければ、心がいくつあっても足りる事はないだろう。アンディはそういった経験から、戯言など簡単に聞き流す事ができたにもかかわらず、なぜか、今回の件では無用な正義感を持っている、というのをどこか理解していた。どうせ、己の欲望のために《処理》するのだから、あまりに無意味な事ではあるのだが。

 アンディは、床板に腰を下ろして、男の視線に高さを近づけた。掘りごたつの様に足を穴に投げ出し、男の正面に座ると、男の頬を左手でひっぱたいた。小さく呻く男は、アンディを見た。

「わたしたちが君に何をしようとしているのか分かっているのか、あるいは分かっていないのか。それを問う前に君のことを確認しよう。ジョン・D・サザーランド君。君は、認識違いをしている様だから、それをきっちり訂正しておこう。わたしたちは君のしでかしたツケを負債を含めて全部まるっと解決するために居る。マイケルの店でずいぶんな事をしでかしてくれただろう? そのツケは君の命で十二分に払う事ができるものだ。君の娘で払う物ではない。君の命だけだ。これはマイケルからの依頼であるし、わたしたちはきっちりとそれを完遂するだけだ。君の家の事情も、家族との逢瀬も別に気にしたことではない。わたしが気に入らないのはね、自分は世界の中心にいる様に感じ、警察から上手く逃げおおせ、マイケルの私刑からも逃れた君が、なんの罪の意識も持っていないことに憤っている。やったことは理解したほうがいい。何回あの夜、男を刺したか覚えていないのか? 十五箇所。頸動脈含めて致命傷が六箇所。相手はドンの流れをくむ組織の一員だぞ。その面子を潰す様な卑劣な行為を成し遂げた訳だ。――あぁ、相手が間抜けだったと言えばそれまでだが、それはこの際考慮に値しない。君のしでかした、《ストレス発散》のとばっちりを食らった訳なのだからな。たまにいるんだ。君の様な何も考えていない《馬鹿》が。君は気分がよかっただろうさ。それで君は満足だっただろうさ。で? だから? それで負債は閾値を超えたんだ。わたしはね、しっかり泣き、喚き、懇願するくらいのことがなければ、楽に《処理》してやる気になれないんだ。意味が分かるだろう? 君の運命は、たった一つ。《処理》されるだけだ。逃がしてもらえる、と思うのは虫がいい。まして、娘が取引材料になると思ってるのであれば、お門違いだ。君がどれだけ下種なことを今までしていたにしろ、理解しろ、と命令する気はないが、理解しておいた方がいい。君はここで、《終わり》だ。――で、君は泣き叫ぶのか?」

 ジョンは蒼白の顔でアンディを見ていた。視線を動かしロバートを見て、ジョンの顔が更に凍り付くのが分かった。ロバートは相変わらず無表情だったし、アンディは右手に持ったナイフで左手をぺちぺちと叩いていて、冷めた視線を向けていたから、ジョンは逃げ道が一切ないことをやっと理解したらしい。泣き叫ぶかと思ったが、蒼白のまま体を微かに震わす程度。

 さて、とアンディはナイフで血抜きをしようと、ジョンの首筋にナイフを近づけた。震えたジョンの感触が、ナイフを伝ってやってくる。やっと、いつも通りの感じになって、どこか安心を得た。指に力を込めた。ぐっとナイフがジョンの肌に吸い付いた。

「待って」

背後から言葉が投げかけられた。アンディの知っている声ではない。レイチェルの声とは違う女の声に、一瞬どきりと心音が跳ね上がる。

 ナイフをジョンから離し、アンディは体を後ろに向けた。レイチェルの前に、てを縛られた少女が立っていた。足の拘束は解かれている。レイチェルに非難の視線を向けた。不確定要素は排除するべき、とアンディは常々思っていた。レイチェルのやり口に不満を感じての視線だったが、レイチェルはその視線を涼しく流した。今までこの様な事はなかった。レイチェルは物語を《蒐集》する。その際相手の感情に近づく事はあっても、プロとして、この三年の間に一線を越えた事など、一度もなかった。だからこそ信頼はしていた。しかし、この行為はその信頼を踏みにじる行為。そう思えて仕方なかった。頭に血が登のを感じるが、必死に冷静になろうと努めた。

「何を待てばいい?」

 アンディは必至に押し殺した声で問いかけた。

「最期に話をさせて欲しい」

 少女はか細い声は消え入りそうだった。

 アンディは悩んだ。時間は有限である。わざわざ付き合ってやる義理もないが、と思う反面、レイチェルが「話をさせるだけなんだから」と口添えをした事が意外に思えて仕方なかった。思考は一瞬で済んだ。決定的な何かがあったわけではないが、時間を延ばして考える必要性もない、と思った。

「余り長い様なら途中で切るが、それでいいね?」

 アンディの言葉に、少女は静かに頷いた。

 アンディに促され、少女はジョンの前に立った。

「セシル、一体……」

 ジョンは狼狽え、声が震えていた。セシルが身をかがめると、ジョンに目線の高さを合わせた。両手が拘束されているにもかかわらず、器用に座ると、一度足を投げ出して、ジョンの顔を蹴った。力加減ができていない。思いっきり入った蹴りをジョンは受けるしかなかった。アンディも、あ、とか、う、ともつかない声を漏らした。ボールの様に戻ってくるジョンの顔には、信じられないという様な表情が張り付いていた。

「セシル、お前というやつは、今までの恩も忘れて――」

「うるさい」

 二度目の蹴りは話しているジョンの顔を打った。下手をしたら舌を噛んでしまうことだろう。ぐっと、ジョンが押し黙った。視線は強く、セシルを睨みつけていた。

「あんたを父親だと思ったことも、恩人だとおもったことも、一度もないんだよ! この、下種野郎! 母さんが必至に工面しようとしてた金を使い込んでいたのはあんただろう? 必死に知り合いに声をかけて支援をしてもらっていたのも、あんたは何もしらないないじゃないか! それをあんたの勘違いで殺して、《事故》で済ませやがった。あんたのことは、あたしにはただの殺人鬼にしか映らないんだよ! その上、母さんの葬儀もしてやってない――なんで、だよ。死んだんだよ? あんたが殺したんだよ? 供養もしないのかよ。《事故》なら罪にならないのかよ? 理解できない――できないよ。 あんた、母さんにいったいいくら貢がせてたか知ってるのか? 月五百。生活費をせびった上で、どこから出せるんだよ! 母さんだって仕事しないあんたに変わって働いてたじゃないか。必死だったよ! それでもあんた、どれだけ苦しめてたのかわかるのか? 母さんが死んだら、あたしをただの性欲のはけ口としか考えなくなっただろう? 週に四度。吐き気がする。逃げようとすれば殴られ、飯だってろくにくれなかったじゃないか。学校に言おうものならあたしを一週間監禁したことだってあっただろう。ふざけんな。あんたの道具じゃないだ――いい加減にしてくれよ。全身嘗め回されて、脂ぎった手で触れれて、それで帰る家がそこにしかないから、必死に耐えてたじゃないか! 何度洗ったって、あんたの気持ち悪い感触は消えないんだ! 皮膚が裂けても、あんたに障られたところが気持ち悪いんだよ! さらに今度はトラブルを抱えてたのか? 自分は何をしても許されると思っているのか? 悔しい。悔しいよ。吐き気がする程あんたは憎悪の対象だよ。父親らしい事なんて一度もなく、ただの飲んだくれじゃないか! やっと死ねるんだ、うだうだ言わずに土に還るべきだ。本当なら、あたしが引導を渡してやりたいよ!」

 セシルは呪詛を吐きながら、何度も、何度もジョンを蹴った。最初は、やめろ、などと声を出していたが、次第にその言葉もなくなった。どうせ《処理》するだけなら好きにさせておけばいいかともアンディは思った。その時、ロバートがおもむろに口を開いた。

「こいつに《処理》させてやればいいじゃない?」

「ロバート……適当なことをいうなよ、そういう事をやるというのはな、魂の汚れを持つことになるぞ。この子にはせめてそういった魂の汚れは無い方がいい」

 なんで、とロバートはおどけて見せた。自分のことを基準に考えているのだろう、という事は分かって、アンディは釘をさす事にした。

「この子はわたしたちの様な《異常性》は持っていないぞ。同一視して、一時的感情で罪をする事が、どれだけの意味を持つ?」

「アンディ、それは分からないというものだよ、俺らの同類かもしれないじゃないか――ほら」

 といってグロッキー状態のジョンを蹴り続けるセシルを見た。ジョンの口からは血を吹いている。口の中が切れているのだろうか。泡立った血が吹きあがっていた。その赤が、白いセシルの細い脚を染めていた。

「もしかしたら、男に対して《異常な嫌悪》というのを持っているんじゃないのか。それなら、それでいいじゃないか。同調するね」

 ということは、とアンディはレイチェルと、ロバートを見た。

「《蒐集》できるのはレイチェルだけとなるが? それでいいのか? ロバート」

「……そうと決まったわけじゃあるまい。後でじっくり吟味しよう。俺らのチームに入るなら何かを《蒐集》するという事もあるしなぁ、とりあえず、蹴るのをとめあせろ、足が切れてる」

 あぁ、とアンディは荒ぶるセシルをひょいっと持ち上げると、ジョンから引き離した。おとなしく、アンディに抱えられたセシルは、息は荒かったが、次第に落ち着きを取り戻した。

「やはり、この子がわたしたちの《仕事》を奪う事はしてはいけない。面倒だが、そこまでわたしはこの子を信用できはしない。レイチェルの今の状況もそうだ。わたしたちはチームでやっている信頼を頼りにだ。ルールは守れ。今回の事はとりあえず一度、という事で大目は見るが、二度、起きる様なら二度と仕事は一緒にしない。それは、リスクを得るからだ。逃げられた。となったら、全員が電気椅子に直行となる事を良く覚えておく事だ。だからこそ、信頼できないとなれば、仕事を譲ってやる義理もない」

 そういうと、アンディはぐったりしているジョンの首にさっさとナイフを押し当て、引き裂いた。すぐさま椅子を蹴っ飛ばして地面に血が流れる様に横倒しにした。



 ため息をついた。アンディ自身、自分が随分と甘いものだ、ということを再認識した。今セシルは椅子に再度縛り上げ、逃げれないようにしている。タバコをくゆらすレイチェルの横で、ロバートがハイネケンを呑んでいた。《処理》は迅速に行われた。血抜きをし、解体し、細かく裁断し、裁断機にかけて骨ごと磨り潰す。ミンチになったらそれを裏の荒れた畑の地面に埋めて、土をかぶせてタネをまく。かなりの栄養素だが、粗飼料にはちょうどいいだろう。一か月も経てばソルゴーが青々とした葉をつける事だろう。人知れず、大地に還す。アンディはそれこそがこの稼業の神髄だと思っていた。例えば通りを通った車が見ても、かつて作っていたソルゴーが勝手に生えている様にしか見えないだろう。実りのある食物を使い下手に収穫されても困る、という事からせいぜい牛の餌になるような物を選んでいた。四時間以上作業を行っていたから、夜も遅くなっていた。一仕事終えた事を連絡を入れると、マイケルは口数少なく礼を一言いうと、さっさと電話を切った。大分軽い。

 時計の針が頂点を迎えるころになると、セシルはやる事もなく座っているだけだったためか、うっつら、うっつらと船を漕いでいた。裂傷した足にはレイチェルが丁寧に消毒をしていた。アンディはこの後どうするべきか思案した。セシルの処遇については二つに一つしかなかった。一つは《処理》、もう一つはこのチームに加えるか。仮に他の者に任せるとなると、自分たちのことを漏らさないとも限らない。そうなればアンディ達は揃ってFBIにでも追われる事になるだろう。今は、痕跡をきっちり消して活動しているのだから、まだ、《仕事》はできていた。であれば、確実なのは、この娘を《処理》し、欲しい《部位》を山分けとするのが通例。ロバートに《指》を、アンディが《目》をとればそれでよい。そうすれば皆《蒐集》が終わる。そして闇へ葬り去られる。

「さて、諸君。この落とし前はどうするべきかね」

 アンディは重い口を開いて、二人を見た。

「まず、レイチェルの弁明を聞こうか、本来ならば絆された事を咎めるべきだとは思うが、その前に君の考えを聞いておきたい。それでわたしとロバートが納得するならばいいが、そうでなければペナルティ一だ」

 どうだ、と顎でレイチェルに催促した。

「話を聞いて、彼女の境遇に感化された、という事ではないわ。私には分かる。彼女が――《偏狂的》な妄執を持っているのは、言葉の端々からうかがえたわ。アンディ、貴方と同類、と見て私は間違いないと思うの。《歯》をね。気にするのよ彼女。話を聞いて良く分かったのは、男に相当抱かれているわ。それも意図せずに。父親が客をとって娘に宛がっていたみたいね。非合法の行為だもの、相当手荒な真似を受けていたみたいね。何度も噛まれたりしていたみたいで、《前歯》に恐怖感を持っている。噛まれる痛みと、自分の道具だと刻み込まれる恐怖、そういった物から逃れるために、彼女の視線は相手を見ない。口の動きを見るのは普通の事だろうけれども、一切見ないわ。怖いのね。同時に《歯》を破壊したいという衝動があるのは分かる。父親の口を何度も蹴り飛ばしたのがその証拠よ。自分の足なんて全く気にはしない。破壊したいのよ。その恐怖の代名詞を。それは一度その恐怖を手に入れなければ叶わない。アンディ、あなたも目を集めるのは、《視線》が嫌いだからだったのでしょう? 綺麗な瞳だけにして、それを罵る。工芸品の類まで高めて保管しているのはそれが理由じゃない。彼女もそうなるわ。《歯》を集めるというのは、一つ、私たちの仲間になると思えなくもないと、私はおもったのだけれども……思い違いかしら?」

 アンディは、レイチェルの話を受けてロバートに視線を送った。考えを聞かせる、という視線にロバートは、ハイネケンのプルをもてあそびながら口を開いた。

「悪くはないんじゃないかな。確かに彼女の《指》は綺麗で魅力的だ。俺の趣味に突き合わせるのであれば、それを汚したいというどうしようもない欲求が沸き上がる。――例えば、のことでいうのならば、俺の欲望の先において、その対象の、生死はまったく関係ない。気になった指を手にできるのであれば、そいつがどうなってい様が気にする事はない。だから、彼女の《指》を一本もらえるのならば、俺はそれで満足する事だろう。ただ、それを彼女が容認するか、は別問題だ。東洋のヤクザであっても無意味に《指》を献上する事はないしね。その上で、という話をするならば、レイチェルの話に整合性はとれていると思うし、俺は否定する気はないかな。こんな稼業でヤバイ奴なんていいくらでもいるから、その子がその程度の不幸を背負っているのも、まぁ、普通だと思えてしまうよ。どうだい? アンディ自身、昔の事を思い出してみたら良いんじゃないか? 昔話を詮索する気も語る気もないが、それぞれこの程度の不幸なんて見飽きているだろう。――あぁ失礼、レイチェルはそれを《蒐集》するのが好きだったから見飽きてはいないのだろうけど。俺やアンディはそれこそ、ダウンタウンに居た時から可哀想な者たちを大量に見てきたじゃないか。薬に溺れる者、借金取りに追われる者、差別により何度も殴られる者、酒に飲まれた者、嫌だと言いながら体を売るしかない者、何日も食事ができない者、教育の機会なんてなく、飲み水すら確保できない。そんなのが日常だったじゃないか。良く生きて行けたと思っているよ。それに比べれば、まだ生の側にある希望など、生ぬるいと思えるね。不幸なという形容をするのならば、そうだろうが、同列という訳でもない。可哀想、可哀想といっても、結局そいつの心持だろうさ。俺みたいに楽天的に生き延びた奴がいる一方、神経質になって首吊った奴なんて何人いるか。それはレイチェルだってわかっていると思う。もう三年だ。三年も《蒐集》していて、それを理解できていない様なら、理解力が無いと言わざるを得ない、だろう? 俺は彼女の直感を信じてもいいと思うが、――《蒐集品》だけどうするかという、下知には従うさ」

 アンディは分かった、という様に一つ頷いた。問題はロバートのいう様に《蒐集品》をどうするか、諦めるには惜しい様な気がした。ロバートの視線も嘗める様にセシルの指を見ていたから、諦め切れるという物ではないのだろう。おそらく今ロバートは、夜な夜な、手に入れた《指》を使った《工芸品》によって得られる快楽を想像している事だろう。アンディだってそうだ、作り上げた《工芸品》は今や価値の分かる好事家にとってはかなりの値段がつけられる事だろう。レジンによって固められた眼球を傷つけないように彫刻を掘っていく。一つの《芸術》がそこにあるそれを、M92Fで打ち抜く時の快感といえば、まったく誰にも想像はできないことだろう。

 アンディは今疲れ切って寝ているセシルを起こした。眠そうに瞳を開けてアンディを見た。

「なに? まだ生きてるの?」

 死ぬ事を何とも思わぬ様な言い草に、アンディは笑った。レイチェルも、ロバートもつられて笑った。普通ここまで落ち着いて死を受け入れる者はいない。大体《仕事》で見た者は泣き叫ぶ、懇願する、あとは笑い出すといった具合だ。

「そうさ、まだ生きてる、生きているよ。君は死にたいかい?」

「……そんなの分からない。今までまともに生きていたいなんて考えた事無かったもの」

 そうか、とアンディは頷いた。ツナギのうちから煙草を二つ取り出した。一つはアンディが咥え火をつける。もう一つはセシルの口に、

「吸ってみるか?」

「うん」

 彼女の肯定の意に沿って煙草に火をつけた。左手で煙草を抑えてやると、セシルが吸い込むのが分かった。咳き込むこともない。

「吸い慣れてるな」

 ロバートの言葉にセシルは頷いた。

「それはだって、男どもから駄賃の代わりにもらっていたもの。好きでもないけど、吸えば少しは空腹もまぎれるから」

 そうか、というとアンディはセシルにタバコを咥えている様に伝え、口に置いた。彼女の薄い唇が触った。ひどく体温が低いと感じた。アンディはナイフで彼女の手と足の拘束を解いた。「どういうつもり?」

「それをこれから君決めてもらう。二つ。一つはここで《終わり》にするか、もう一つはわたしたちと来るか、どっちがいい?」

「――なんで?」

 セシルが息を飲んだのが分かった。

「なんでと言われてもな。一つ聞いておこう。君は《何》に恐怖する? 《何》を《蒐集》する?」

 セシルは、意味が分からないという様に視線を動かしていたが、一度伸びをして背中を鳴らした。おもむろに足を組んで、肘をつきながら煙草を咥えた。ふーっと紫煙を吐き出した。

「……そうね。《口元》は嫌い。みんなあたしのことを噛むもの。見て、この肩だって噛まれてこんなになった」

 肩口をまくって見せると、黒ずんだ筋状の跡がいくつもあった。

「自分の《物》だって誇示したいんでしょう。あたしが痛いっていってもやめる事はなかったわ。それ、あのくそったれの父がやった物よ。だから《客》も真似してね。同じところを殴る、切りつける、噛みつく。本当に嫌。顔はされなかったけど、首にもある。正直気持ち悪い。ドロドロした粘性の物体が纏わりついて離れないって思うもの。だから、《歯》は砕いてやりたいと思う。綺麗に並べられた歯の方が本当に嫌味があって嫌いだもの」

 レイチェルが茶化す様にロバートに「良かったじゃない」と囁いた。

ロバートが抗議の声を上げようとするのをアンディは手で制した。

「集めるというのがどういうことを指すのか……上手くは言えないけれど、仮に復讐ができるのならば、《歯》を集めて勲章にでもするわ」

「《歯》を《蒐集》し首から下げるという訳か。……そうだな、君の復讐にならない。それでも良ければ、『わたしたち』と共に来るかい? 破滅に近い道だろうが、生き残るチャンスはある」

「――それもそうね。ここで死んでもいいって思えてるけど、まだ胸の奥でしっくりこなのよ。父を《処理》してくれたのでしょうけど、引導くらいあたしが渡したかったって思てる。」

 アンディはため息をついた。

「魂が《汚れ》る事になるがそれでもかまわないのか?」

 セシルは軽快に笑った。

「はは、《汚れ》なんて昔から持ってるわ。母が亡くなったの、あたしが十の時よ? もう六年は男に抱かれ吐き気を催す日々を過ごしてたの。いつでも殺してやろうっておもっていたけれど、『できなかった』。本当に、一歩出なかった。何度寝首を搔こうと、包丁を手にしたこともあったわ。でもね、それでも、一歩でないのよ。《生き方》が分からなかったから。……ねぇ。あたしにそれを教えてくれない? それが、あたしに合わなかったら、《処理》してくれればいいわ」

 アンディは頷いた。

「分かった。君にわたしたちの《生き方》を教えよう。その上、君の《指》と《目》を取るのは保留しよう。いいなロバート」

 ロバートはあぁ、と頷いた。レイチェルに視線を動かせば、うん、と一つ頷いた。

「ならばまずは食事だな」

 アンディはぽんぽんとセシルの頭を撫でた。



 アレブ・アリン・ハリス。年齢十八。アルコール中毒。薬物中毒。年齢相応に見た目をしていたが、少し目の周りが黒くなっている。

 元々は学校のチアを行っていた程の活発だったが、自らの美貌に絶対的な自信を持っていたたため、周囲に対して高圧的な態度をとっていた。同学年のマリーにトップの座を奪われると、チーム内でも浮いた存在になっていき、徐々にアルコールに手を出す様になった。

 悪い友人の勧めもあり、薬物に手を出すと、一気にのめり込んだ。親の金をくすねてはそれに充てる様な日々が続いていた。しかし、その金額も徐々に払えなくなり、苦しみがのしかかる様になっていった。

 親にはストレスだと言っていたが、徐々にやつれていく娘を両親は心配していた。何日も薬を断っていた居たところ、フラッシュバックで脳に鮮烈な恐怖感を受ける様になった。薬が欲しくて仕方ない。そこで頼ったのがマイケル・D・アンダースの手下だった。

「踏み倒した金額はたかが二百。だというのに、報酬は三十倍の六千出すという。雑魚もいいところだが、これには理由がある。マイケルの手下の売人が刺殺されたというんだからたまった物じゃない。売上の金も、薬も奪われたという。

 だからそいつを探し出して《処理》してほしいということだ。本来、手下にやらせる話ではあるだろうが、どっかの誰かの所為で大きく人を動かせないらしい。――困ったジョン君だな。警察はいまだジョンの行方不明にマイケルが加担したとして、相当手を尽くしているらしいが――今もう大地に還っているから、見つけようないだろう。

 さて、これが《獲物》の写真だ。顔を良く覚えておいてほしい。最後に目撃されたのがサンアントニオということだから、わたしたちが最も近いということで、送られてきたわけさ。諸君の意見を聞こう」

「……金はどのくらい奪われたのか?」

 ロバートはハンドルに頭を載せながら呻くように尋ねた。

「どの程度だろうか。襲われたのも早い時間という事で、捌けない内にだろうとのことだから、良くて百くらいだろう」

「だったら数日もしたら干上がるな。何か金を得る方法を考えるだろう?」

「それもそうね。私がその筋に聞いてみましょうか。身売りするのなら……リックの所かしら?」

 そうだろう、後ろの座席から述べたレイチェルにアンディは視線を交えず頷いた。煙草の煙を助手席から車の外に向かって吐き出す。

「このあたりで売春宿を経営しているのは、リックとベンだったな。ベンはあまり大っぴらにやっていないところもあるが……一応あたっておいたほうがいいかもしれない。あいつの客は年上だからなぁ、あまり望みはないが。リックに会うのだったらそうだな、マイケルの名前を出してやればいい。経費は掛からないだろう。あいつもマイケルには頭が上がらないのだからね」

 分かったわ、とレイチェルは頷いた。

「そっちはそれでいいだろうが、この辺の売人にも聞いておいた方がいいだろう。一度に使いきれる量じゃないから、もしかしたら、SNS使って、《獲物》が捌いているかもしれないという懸念もある」

 なら、とセシルが声を上げる。

「あたしがその辺調べる? ネットカフェにでも行って……」

 いや、とアンディが言葉を遮る。

「売人にあたるのも含めてロバートの仕事でいいか? あいつらにさすがにセシルを会わせるのはまずいだろう」

「それは分かる。ポールはたしか年下趣味で、結構な面食いだよな。二度強姦で警察の世話になっていたと思うが。ストーカー気質がある奴だからな。一度目を付けたら……地獄の底まで追っていく事だろうよ」

「それ以外はいい奴なんだが……、そんな奴の目にセシルを入れて見れば、わたしの予想ではほぼほぼ確実に、無理やりにでも手籠めに使用とするだろう」

 セシルは、うへ、と舌を出した。

「という事で、セシルはわたしと一緒に《情報屋》に会いに行こう」

「……キャロルか」

 呻くようにロバートはつぶやいた。重みのある言い方だったため、セシルの目が不安げに細められた。

「気にする事はない。キャロルは男性には厳しいが、女性には優しいというのは周知の事実だ。――ただ偏屈な人だからな、あまり無礼な事はしない方が吉だ」

 そう、と怪訝そうに眉を顰めるセシル。

「気にするな気にするな、」

 ロバートは手をひらひらと振るいながら、バックミラー越しにセシルを見た。

「あのババアは、貴族を気取っているのか、あまりにもキャラクターが強い。俺がであった時なんて、最初の一言が『汚らわしい』だったからな。あまり関わりたいとも思わないが、どういう訳からあそこには情報が集まる」

「それはそうよ、酒場だけで何軒やってるのか知らないの?」

 レイチェルは意外そうにつぶやいた。

「あぁ――、そうなのか。だからどうりで。関わりたいとも思わないから、考えもしなかったよ」

「確かに、わたしもあまり関わりたいとは思わないが、仕方ないだろう。早く手を打たなければとんずらする可能性もあるからね」

 アンディは、ほう、とため息をついた。

「とりあえず行動は迅速に、そして正確にだ。決まったのならさっさと動こう」

 アンディはロバートに車を出す様に伝えた。



 『ウサギの巣穴』と呼ばれる酒場があった。汚い地上三階建てビルにひっそりと作られた地下にある狭い酒場だ。赤いタイルがレンガ調に段差を作り貼られ、怪しいピンクと青のネオンが入口に供えられていた。どぎつい色の光はせっかくのレンガ調の色合いを台無しにし、暗い色に変色させていた。扉は木目調の浮き出た軽そうな作りだったが、ドアノブが年季の入った真鍮製で、鍵に至っては四つも穴が確認できた。アンディが

「この扉には九㎜弾を通さない様に、鋼鉄がしこまれてるんだ。だからとても重いんだよ」

 と嘯いた。

 彼の言う通り、見た目以上に重い音を立てて扉は開いた。良く油は注されているらしく、軋みの音を上げる事はない。扉が開けばすぐさまカウンターが右手に広がっていた。暗い。そう思うのが一般的だろう、オレンジ色の間接照明が、壁からせり出す様に天井を照らしていた。カウンターの真上に用意されたライトが、全部で五つの光をカウンターを照らしていた。

 一人の年配のバーテンダーがそこに佇んで、客を出迎えていた。時間もまだ早い事があり、誰も客は居ない。アンディとセシルの顔を見ると、《普通の客》ではない事を理解して、顎で奥を指した。

「店主なら奥にいるよ」

 柔らかい声で、バーテンダーは告げた。奥は黒いカーテンがかけられていて簡易的に仕切られている様だった。一般的にはスタッフ用の更衣室などがあるのだろうと想像するに難くない。アンディにとってみれば、ここで酒を飲むよりも、奥に入る事の方が多いから、見慣れたものだったが、セシルには初めてであるから、本当にはいっていいのかと目を白黒させながらアンディを見た。その様子が面白くて、アンディは微笑みながら先にカーテンをくぐって中に入った。

 白い明かりが空間を占めていた。先ほどまではムードを盛り上げる様に作られていた内装にもかかわらず、ここは病院の廊下でもあるように白く塗り固められていた。非常口のマークが奥に見えた。左右に四つの扉があった。それぞれ、男女の更衣室、倉庫、そして一つがキャロルのいる部屋だ。一番奥にある扉には、『ノックすること』と小さいホワイトボードに書かれスモークガラスの上に掲げられていた。狭い通路は人一人分しかなく、圧迫感があった。アンディは淀みなく進み、扉を二度ノックした。扉の奥から高い女性の声で「どうぞ」と告げられた。アンディがドアノブを回すと、扉を押して中に入った。少し歪みがあるのだろうか、軋みをもって開けられた。

 中はこじんまりとして、良く整理整頓されているのが見て取れた。書類が乱雑にあるわけでも、物が散乱しているわけでもない。小さいテレビが入口側の壁に掲げられ、チャンネル四を流していた。両側の壁には簡易的な本棚が用意され、帳簿の類だろうか、分厚いファイルがいくつも並んでいた。部屋の中央いは眼鏡をかけたふくよかな妙齢の女性が一人、小さい机に向かって座っていた。アンディは一言挨拶をした。それにつられて、セシルも頭を下げた。

「なんだい、あんたが子連れでくるとは、とうとう引退でもする気になったのかい?」

「まさか、キャロルさんの事だから、もう耳に入っているじゃないかと思いましたけど。彼女は――」

 キャロルは手元でペンを走らせていた右手を、前に出し、言葉を遮った。

「セシル・A・サザーランド。ジョンの子供だね。あたしが彼女のことを何の気なしに調べた範囲でいえば、……リックが相当お冠だったという事くらいか。上客を取られていたそうじゃないか。このおチビちゃんに。ふーん。なるほど。たしかに外見はいいね。ただ……白髪が多いのは、日々のストレスの所為か。だいぶ痩せ気味だと聞いたが、少しはまともになってきてるじゃないか。三人が良く面倒を見ているんだね。

 いや、この《クズ》どもがまともに面倒を見るなんて、あたしゃ感激するところだよ。あぁ、そう気になさんな。この《クズ》どもは《クズ》の中でも比較的まともな方だろう。自分たちの欲望赴くままに被害を拡大させるわけでもなく、自制が効いているっていうもんだよ。多くの《クズ》は、自分の欲望に忠実だからね。そういう者に会ったら一つしかない。逃げるんだ。特に、正義感を振り回す様な輩にで会った時には注意が必要だ。警察なんてもってのほかだよ。奴らも結局、正義を押し付けてくる《クズ》にしか過ぎないからね。自分の身は自分で守るべきさね」

 キャロルは目をやさしく細めてセシルを見た。どこか彼女に対して共感めいた物があったのだろうか、とアンディは思った。

「いつもより饒舌に語るじゃないですか。何か思うところが?」

「そういうあんたも何故《蒐集》しなかったんだ? それこそ思うところがあったんだろう?」

「それは……彼女も同類だと、レイチェルから進言があったからですよ」

 ほう、とキャロルは頷いた。

「このおチビちゃんが、《クズ》と同等だと? 《まだ》なのだろう? だったら、本当かどうかは分からない、まだ未確定な者じゃないか。うーん。どう、だろうかね。あたしには理解が及ばない共感というのがあったのかね」

「……わたしの場合は、規則ですよ。《仲間》は貴重なものですから」

 たしかにね、とキャロルは頷く。ペンをテーブルに置くと、ひじ掛けに両手の肘を載せ、体の前で手を組んだ。

「さて、どういった要件で、あたしに会いにきたんだい? 本当に挨拶だけだったら、お帰り願うところだが」

「ええ、実はマイケルがまた一つトラブルを抱えているらしくてね。アレブ・アリン・ハリスの行方を知りたいと思いましてね」

 アンディはポケットから取り出した写真をキャロルの前に置いた。

「また、ずいぶんと若い子じゃないか。……そうだね、これだけだと何とも言えないけれども、この子は薬か何かに手を?」

「出してます。その上、マイケルの所の売人をヤッたらしいですね」

「……随分と豪気なことじゃないか。マイケルの坊やも相当頭に血が上るだろうが……ははん、ジョンの所為で未だに動けないから、あんたたちに矢を立てたということか。なるほど。そうだねちょっとまっておくれよ」

 キャロルは、机に備え付けられているサイドチェストの最下段を漁った。プラスチックがぶつかり合う様な音が聞ける。ごそごそと何かを探し、取り出したのは一枚のフロッピーディスク。机に置かれていたノートパソコンを広げ、外付けのドライブを接続した。カチッという音をたててフロッピーディスクが収まると、一段うるさい音をたてて、回転した。セシルはフロッピーを珍しそうに眺めていた。その視線はキャロルにとっても珍しい物だった。キャロルの年代にしてみれば、たしかにここ最近使われなくなっているものではあるが、知らないという事はなかったし、過去に触れていた事はあるのは一般的であったから、まさか、という様な感覚だった。

「珍しいかい?」

「えぇとっても。あたし、初めてみたかもしれない」

 おや、とキャロルが、アンディを見た。

「わたしが何かしていたわけでもないが、今時フロッピーは見かけないのかもしれないな。学校にあるものでも、CDとDVDくらいだろう。良くてMOがあるかどうか……」

「大体フラッシュメモリが主流だもの、見た事がないわ」

たしかに、とアンディは笑った。フラッシュメモリの手軽さは他の媒体と隔絶したレベルにあるといっていい。安定的にデータを保存する、というものではないが、大容量で、速度も速く、一定期間であればデータの保存ができる。

「でも、あたしはスマホも持ってないから、正直疎い方だとは思うわ。クラスの話にほとんどついていけないもの。誰の映像を見たとか、誰のつぶやきがどうとか。まったくちんぷんかんぷん。あたしの親もあたしには一切そういうものは与えなかったわ。逃げるとでも思ったんでしょうけど」

「あんたの大変さは調べて知っているよ。良く耐えきったと思う。あたしゃ別にあんたたちがどうなろうと知った事じゃないないんだがね、一つだけ忠告をしておくよ。そういう《珍しい》仕草はおやめ。すぐにバレる。どう取り繕うつもりかは分からないが、そういった仕草は、あたしらの中にすぐに出回るよ」

「ありがとう、キャロルさん」

 セシルは小さく頭を下げた。

「……情報としてはこの辺だろうさね」

 キャロルはテレビを切り替える。壁掛けテレビにパソコンの映像が映し出された。几帳面にテキストに箇条書きにまとめられたアレブの情報は、ここ最近の物まで追っている。

「彼女はまだここ、サンアントニオを出てはいないだろうさ。今、運行記録なども漁っているが、一番考えられる車のレンタルも無い。どこかに男でも作って囲ってもらっているって考えてもいいだろうね。噂話の類にはなるが、最近はぶりの良い少女がこの町にいるというのは聞いているね。立ちんぼという訳でもないから、リックやベンには話は来ないだろうがね。ただ、ラリってるのか、白昼から男漁りをしているのは聞いているさね。金目当てでもないから、《こっち側》には被害はなく、まじめな者が引っかかっている様だがね。一応居そうな場所の目星は立っているよ、ドノパンの経営している宿屋辺りだろうさね。あれならば、町のはずれにあるし、噂の広がり方から見て、まず間違いないと思うさ。もし必要なら部屋番号まで探ってやってもいいが、そんなことより直接聞きに行った方が早いんじゃないかね」

 アンディは頷いた。

「たしかに、三軒しかないしな。……よし、そのあたりを探るとしよう。それと、薬の出回りに不自然な点は?」

「そいつは聞いてないね。ポールにも聞きに行ってるんだろう? だったら、そっちの方が正確だろうけど、ポールたちも躍起になっている……なんて聞かないからね」

 続けてアンディは尋ねた。

「購買者に変化があったとかは? 特に新規が増えたとかは聞いているかい?」

「それはあるみたいさね。特に年配の男性が手を出したのは噂になっていたよ。警察の探りじゃないかって。あぁ、……その女が薬を広めているのかい。まったく面倒な事だね」

 呆れた様にキャロルはため息をついた。

「その可能性もあるっていう程度だよ。キャロル、さて、情報をありがとう」

「毎度の事だけどさ、アンディ、あんたはもう少し身だしなみを気にしたほうがいいんじゃないか? ロバートだってあたしに言われてスーツを着る様になったんだ。いつまでもそんなツナギ姿じゃぁ、勿体ないとおもうがね」

 アンディは、声高らかに笑った。

「あはは、これはわたしのトレードマークさ」



「ジョン・D・サザーランドと、娘のセシルが行方不明になってもう二か月も経ちます。さすがに、両名とも絶望的ではありませんか?」

 デビット・C・フランクが年配のジョー・マイケル・パスカルにそう切り出した。二人は覆面の警察車両に乗りながら遅めのランチを取っていた。手にはホットドック、ドリンクホルダーにアイスコーヒーという組み合わせ。デビットは、身長の高い筋肉質な男で、茶色の髪を短く刈り、逆立たせていた。精悍な面持ちは、警察という職種柄清潔感にもつながるとデビットは思っていたから、自らを鍛える事に余念が無かった。対してジョーは、年配の男性で、身長は低く、白髪頭は乱雑であり不揃い。深い緑色の瞳に生気はなく、どこか機械的な印象を受けた。ジョーは刑事に昇進してこの方、肉体労働よりは頭脳労働を主としていたから、デビットに比べて、痩せ気味の印象はぬぐえない。ジョーはもそもそとホットドックを食べながら、デビットに続きを促した。

「実際、彼ら以外に行方不明者なんて全米を見ればいくらでもいるのは事実でしょう。最初の二週間で決定的な手掛かりが見つからなかった以上、人員の削減なされ、今やたった二人ですよ? 所轄に応援を頼むほどの物を見つけられるとは到底考えられません。特にネット界隈ではまた《スレンダーマン》の様な都市伝説的な記載が増えている。ゴシップ紙は軒並み事件をそう書き立ててますし。前々から話のある、《電気屋》の仕業であれば、尻尾も、証拠も一切出てこないでしょう。かつて《電気屋》が絡んだと思われる事件は、十じゃききませんよ」

 ジョーはゆっくりと頷き、同意をした。コーヒーを一口飲むと、咀嚼していたホットドックを流し込んだ。

「だから、もう無駄だと?」

「……そう言う気はないんですが、この人数じゃ、そうも言いたくなるのではないでしょうか」

 口をとがらせるデビットに、ジョーは苦笑いをした。頭をぽりぽりと掻いて、ジョーは再びコーヒーを一口飲んだ。

「それをどうにかするのがオレたちの仕事というものだよ。君がまだ研修生である時から、オレはそうやってやってきたんだ。もし、それを否定するのであれば、どうぞ、降りてもらっても構わない。罪なき少女が一人、闇に消えていくだけだ。父親の方については嫌疑がかかっているから、早々に捕まえたいというのもあるがね」

「だからマイケルを抑えさせてるんですよね?」

 デビットは大きな一口でホットドックをかじり、口に含んだまま話す。その様子を気にもせずに、ジョーは小さい口でもそもそと食べた。咀嚼し終えて一拍おいてからジョーは、

「その通り。だから、マイケルを見張らざる負えない。あいつの動きが肝なんだ。間違いなく、絡んでいる。だからこそ、見なければならない」

「だからって行確する人員すら自分たちだけっていうのは、さすがに面倒が過ぎるというものです。何があったんです?たった一月で人員がここまで顕著に減るというのは。警察がこの件から手を引きたがっているとみられてもしかたありませんよ」

 は、とジョーは弱音を吐く後輩の頭をこつんと叩いた。

「人の命がかかってるというのに、ずいぶんと俗的なことを言うじゃないか。身を捧げろとまではいわんが、給料分はしっかり働く必要があるだろう。さっきも言ったが、嫌なら降りろ。オレはこの事件が《電気屋》の尻尾を掴む機会であると思っているからな。たとえ可能性が低くとも、その尻尾をつかんでやらにゃ。被害者に申し訳が立たない」

 憮然としたデビットは、外に顔を向け、

「だから、昇進もせずにだらだら、似た様な事件をやってるんでしょう」

 と小声でつぶやいた。

「なんか言ったか?」

「いえ、何も」

 嘘つけ、とジョーは再び頭をこつんと叩いた。

「《電気屋》について、君はどれだけ知っている?」

唐突な質問に、デビットは頭の中にある情報をかっさらってきて、口に並べた。

「今から十五年前に遡りますが、ヒューストンで起きたのが最初と考えられています。一般家庭だったはずの、レジー・C・コランダー一家が失踪した事件がそれにあたると考えられており、現在までにテキサス州を中心に隣合わせの州を含め、約二十件の確定、嫌疑が十八件に上ります。被害の総人数は……考えたくもないですが、五十は下らないと思われています。当時には個人宅用の防犯カメラ――尤も画質はお察しですが――が映し出した一人のツナギ姿の男性がその容疑者とされています。

 元々、マイケル・D・アンダースの雇われと考えられ、当時からマイケルに厳しいマークをしていましたが、一度たりともその姿を抑える事はできていません。変装の名人なのかもしれませんね。レジーの事件のあらましは次の通りです。レジー一家は息子を含めた三人家族で、ペットは居ません。

 日曜日の午後八時に《電気屋》がレジーの家を訪ねます。その時《電気屋》は、電気屋が使う様な厚手の手袋をしているのが分かっています。ツナギ姿で、顔はキャップとマスクでよく確認はできないですが。約三十分後、《電気屋》は大きなバッグを三つ運び出しています。現場に争った形跡は見受けられず、レジーの家族三人は自主的に近い方法で外に出たと考えられています。《電気屋》の運び出したバッグがそれに相当するという見方が大半です。血痕を含め痕跡らしい痕跡はなく、誰の物か分からない髪の毛が落ちてはいましたが、過去の犯罪者との照合ではヒットはありませんでした。今までに容疑者になった者は三名。いずれも髪の毛とのDNA鑑定の結果、白が確定しています」

 さすがに鍛えられているだけはあり、すらすらと口に乗せる事ができた。どこかホッとしてデビットはコーヒーを飲んだ。

「そのとおり。レジーの事件の時には、オレはまだこの件には全く絡んでいなかったが、後に調べてみると、レジーはマイケルに金を借りていたという記録があった。金額は微々たるものだろうが、利子で儲けるからな。倍、三倍、四倍、とどんどん膨らんでいった様だ。金額的に返せなくはないのだろうが、レジーはそれを不法だという事で裁判にかけ、チャラにした。元本だけは返した様だがな。マイケルとしては、面子をつぶされた形になってしまったが、当時もその仕返しをしでかさないように、今と同じく警察に見張られていてな。その時に動いたのが《電気屋》という事になる」

「とすると、今回の件は間違いなく?」

 そうだろう、とジョーは頷いた。

「だから、そいつの尻尾を掴むためには、奴らが派手に動く事を祈るしかない。何か……ミスをするかどうかだ。おそらく、《電気屋》はミスをしないだろうが、昨今、《電気屋》と行動しているお仲間はそうではない。二年前の事件でも尻尾を出しかけた。が、結局うまく取り繕われた。尤も遺体が見つかっていないのは決定的な証拠になりえないという、上層部の判断もあるがな」

「で、自分たちは何を待てばいいんです? こうしているのももうすぐ一週間になりますが」

 デビットは、苛立ちが募っているのだろう、トントンとハンドルを人差し指でたたきながら、問いかけた。

「《ミス》だ。奴らとて、必ず《ミス》をする。立て続けに起きれば尚更だ。特に、薬の売人が一人命を落としているんだ。だからこそ、その犯人をマイケルはつるし上げたくて仕方がない。だからといって、警察の手前派手に動く事ができない。という事で、必ず、信頼する《電気屋》に頼む事だろう」

「そうしたらまた闇に消えるだけでは?」

デビットは心配そうに顔を向けた。ジョーの表情を読むことはできない。相変わらずもそもそと咀嚼をするジョーは、うーん、と小さくうなった。

「これは、オレのカンでしかない。今までなら、『あぁ、そうだろうな』と思っていたんだが、今回は、何か、違う気がするんだ。それを説明するのは難しい。――仮に、君だったらどう対応する? この状況で」

 そうですね、とデビットは頭をひねった。やり方はいくらでもあるが、と思考をめぐらす。

「まず、最近行方不明になった者が他にもいないか探しますね。それから、マイケルとの関係を確認して……」

 そこではたと思考を止める。

「そう、人でが二人なんだが、それをやれるか?」

「……無理ですね」

 だろう、とジョーはあきらめた様にコーヒーを口に含んだ。

「結局、上も最初っから諦めてるのさ、ここ最近起きている、失踪事件の解決率は一パーセントもない。過去最低の最低を更新している。人員を掛けるには、解決率が悪すぎる。だからもうあきらめてるんだ。体裁は整う。一か月も捜索したが不明でしたってな。良いか悪いかは分からんが」

 ため息をつくジョーは空になったアイスコーヒーのカップにストローを押し込んだ。二人が見張るヒューストンの街の一角にある六階建てのビル、マイケルの事務所には全くの動きは見られない。どうせ、何もないんだろう、そういう諦めに似た感情はジョーの中にも渦巻いていた。



 「今回の件は早々に片がついたじゃないか」

 ロバートはうれしそうに《獲物》を眺めていた。哀れなアレブは口にタオルを噛まされて、うー、うー、と唸っていた。

「外すなよ、声がうるさすぎる。気絶させるのにもガスを使わざる負えなかった。手に負えない」

 うんざりした様にアンディはタバコをふかしていた。アンディの横ではセシルがコーラをラッパ飲みしていた。血色もよく、元々美しい表情が、華やかになった様にすら感じられた。アンディであっても、時折、セシルの見せる女性的な視線に、年齢的に範囲外ではあったが、どきりとさせられた。

 彼女は洋服を用立てたのか、どこにでもいるティーンの恰好になっていた。また新しいジーンズは綺麗な藍色をしていたし、黒いTシャツに染みもない。真っ白なスポーツシューズには黒いメーカーのマークが添えられていた。

 レイチェルには「花が無いわ」と不評だったが、世間に溶け込むという点でいえば問題はなかった。その点、レイチェルのドレス趣味の方が目立つためあまり《仕事》に合っていないとアンディは思っていたが、彼女自身に似合っているため、それもいいかとも思っていた。

 レイチェルは先に《話》をしていたため、それに付き合ったアンディにとっても苦行もいいところだった。

「アレブ君の話は全く要領を得ない。Aの話かと思ったらBの結末で、Bかと思ったらCの内情を話してくる。あまりにもずれていたから、わたしには何が何やら分からなかったが……、さすがはレイチェルというところか、メモもそこそこに頭に入っている様だったからな」

「あの程度余裕よん、」

 嬉しそうにレイチェルはお道化た。

「ただ、確かに頭の悪い言い方を多用するわ。言葉が貧弱なのね。それも小学生でもわかりそうな事も時折間違えるんだもの、一瞬思考が止まりそうになっちゃうわ。これもお薬の影響かしらねぇ」

 レイチェルにアンディは頷いた。

「大分やっているという事だ、脳も委縮しているんだろう。試してみればいいんじゃないか?」

 レイチェルは笑いながら、ないない、と手を振った。

「私はタバコで十分よ。それ以上の興奮は自らの創作で感じられるもの」

 そりゃすげぇ、とロバートが両手を上げた。

「あら、貴方だって、《指》があればいいのではない?」

「それは――まぁ確かに」

 素直に頷くロバートに、セシルは晴れやかな笑みを浮かべた。

 さて、と話しを切り出したのはアンディだった。

「この哀れなアレブ君を《処理》しなければならない。皆、運命共同体になる以上、これは持ち回りで行う事になっている。当然レイチェルも例外でなく、過去に五度はやっている。前回はわたしとロバートだったから、今回はレイチェルとロバートの順番だが、練習ということもかねて、今回は全員で終わらせよう。まず、最初の儀式は、《新人》にやってもらう。後の《処理》については、皆で行う。そういう事でいいな?」

 ロバートも、レイチェルも、セシルも頷いた。セシルの表情に一片の緊張も見受けられなかった。道具箱から大きなククリナイフを取り出すと、床の穴の中にいるアレブの前に腰を下ろした。

「きちんと横倒しにしろ。でなければ血が跳ねるからな」

「えぇ。見てたからよくわかる。でも力足りるかしら?」

 首をかしげるセシルに、ロバートが、

「肩を蹴っ飛ばすんだ。思いっきりければ勝手に倒れる。足元には石があってな、少し不安定になってんだよ」

 なるほど、とセシルは頷いた。アレブは周囲を見渡している。何を話しているのか、まったく理解が及ばないのだろう、その瞳に映るのは恐怖一辺倒だ。額には球の様な汗が浮き出し、頬をつたって服を濡らしていた。セシルはアレブを正面から見た。冷たい瞳のセシルは、自分がこれから何をするのかを良く理解していた。自分がキャロルの言うところの《クズ》になるのだという事に、どこか誇らしく思えて仕方なかった。セシルは、ゆっくりとナイフの刃を左手の人差し指でなぞった。気持ちがいい。そう思えた。今まで苦痛だけだった世界の中に、この様な物があったのかと、どこか扉が開かれた様な気がしてならなかった。

 ナイフを震えるアレブの左首筋に立てた。右手を伝い細かい振動がやってくる。相手の荒い息遣いの感じがダイレクトに骨に打ち付ける。どこまでも彼女に同調していく感じがある。それをここで引き裂く。それは《彼女》を《躯》にするための手段。あのタオルの下には、自分を噛み切ろうとした者たちと同じ《歯》がある。それをこれから取り出して、これ見よがしに自分の手中に収める事ができるのであれば、存在意義というものを最小にして、その命を自分が握り続けている、そんな妄想が脳裏に過っていた。その考えは口には出していないが、どこか『論理』めいていて、自分の中では腑に落ちていたのだろう。

 ナイフを引いた。少し重い感触。刃にまとわりつく肉の感触が感じられた。引き裂く。途端、左足で思いっきり蹴っ飛ばした。

 ロバートが言う様に簡単に倒れた。地面に黒いシミが広がっていく。それを眺めていると、ふと頭に重い感触を受けた。

 アンディの手が頭に添えられていた。

「良くやった」

 アンディは優しく微笑んだ。どこかそれがうれしくて、セシルは、うん、と頷いた。父性というのを感じた事は今までなかった。だからこそ、胸に広がるこそばゆい感覚に、なんという言葉を出せばいいのか分からず、恥ずかしそうにもじもじした。

 レイチェルが、アンディからセシルを奪う様に頭に抱き付いた。

「よくやったわ」

 柔らかい匂いがする。レイチェルの体が頭に押し付けられる。豊満な胸の感触を受けながら、あぁ、母親もこんな感じで抱きしめてくれたな、と思い出した。自分も親になったら、そういう風に子供を褒めるのだろうか、そう思った事に苦笑した。

 ロバートが手を出した。すっとレイチェルが身を引いた。ロバートの右手を握り返すと、力強い力で引き上げられ、穴の縁に立った。ぎゅっと握られた手は暖かく、強く握られたはずなのに、痛みはなかった。ロバートは味噌っ歯を見せて笑った。セシルもそれにつられて笑みを浮かべた。兄妹というのがどういうものか分からなかったが、あぁ、これが兄みたいな感覚なのか、と思った。ロバートはニッと笑うだけで声はかけなかった。だが、それだけでも気持ちは分かった。どこか「良くやった」と言われた気がした。

 その後の《処理》もつつがなく終わった。重労働なんだ、という事が良く分かった。今回の報酬は頭割りで千五百だったが、セシルはそれを、アンディに預けると言った。自分は金の使い道も分からないから、年長であるアンディに管理してほしいというところだった。だが、アンディはそれなら、と幾つも持っているネット口座の一つをセシルに割り当てる事にした。始めはどうしていいか分からないため、いらないとまで言ったが、アンディに押し切られる形で、それを受け取った。携帯もセットでもらう事になり、一気に文明に触れる事になって、セシルは目を白黒させた。「それはそうよね。昨日まで学校のパソコンをちょこっと触った程度でしょう? いきなり携帯持ってもなにしていいかわからないわよねぇ。でも便利よ、連絡だって、買い物だって、なんだってできるんから。焦らなくていいから一つずつ覚えていきましょう」レイチェルはが優しく言う言葉にセシルは頷いた。

 アンディが目をくり抜いて軽く血を抜き取っていた。その後、無色の液体が充填された円柱状のケースに入ると、透明をピンク色に変えて行った。その色の変化がとてもきれいに見えた。セシルはうっとりとその作業を眺めていた。

「これは洗浄用だから、あとで防腐剤に入れる。でないと組織はすぐにぼろぼろに、白く変色してしまうからね。その後、これらと同じようにレジンで固める。別に他の物で固めてもいいんだが、最も手軽だからね。その後成形をするんだ」

 アンディは、他の《蒐集品》をセシルに見せながら、指をさして説明した。セシルも、どの様に《蒐集品》を保管するのか悩んでいたから、アンディのやり方は一つ参考になるものだった。

「セシルの場合は、良く洗浄して、そのまま加工もできるだろう。骨だし」

 ロバートは自身の《蒐集品》を水道で洗浄しながら、セシルに提案した。

「前歯だけなんだろう? だったら平たいのだし、穴でもあけて、チェーンか何かでとりあえずまとめておけばいいんじゃないか?」

「それに合わせて、タグ付けをしておけばいいのではないかしら? 誰のだったか後で分かるように」

 喜々としてレイチェルが提案した。しかし、アンディが首を振った。

「無用な情報を溜めていると、いざという時に、簡単に身バレするぞ。最低限のみにし、あとは頭にとどめて置いた方がいい。ロバートの様に売買までするなら別だが」

 セシルはしずしずと横に首を振った。

「売る気はないわ。……ただ後で砕いたりするかもしれない。アンディみたいに」

 なら、とアンディは試験管の様な円柱状のケースを一つ、セシルに投げて渡した。

「とりあえず、それに入れてもっていたらいい。――あぁ良く洗った方がいい。肉片は良く腐敗し、臭いがでるからな」

 うん、とセシルは頷いた。これをどうしようか、そう考えると、どこかわくわくする気持ちになった。



 ジョーのもとに、アレブが行方不明になっていると報告が来たのは、デビットに夜の監視を任せて一度、彼の従える《情報屋》にダイナーで落ち合った時だった。

「うちの組にしても、あのラリった女の始末をつけたいっていうのは、正直、総意なんだよ」

 サイラス・アーノルド・シェアーはマイケルの手下の一人だ。かつて、薬の売買でジョーがしょっ引いていたが、今後、情報を流す事を条件に刑期を軽減していた。

 黒い髪は長くさらさら。ヘアバンドで押さえつける様にしている様は、乱雑に生えている髭の影響もあって、年齢が読めない。実年齢は三十手前くらいだろうが、上にも、下にも見えた。黒い瞳が眼前に並べられた料理を見据えていた。軽食としえば軽食だったが、サンドイッチに、山盛りのガーリックがきいたフライドポテト、この店の代名詞のオニオンスープ。サイラスの前には平らげられたハンバーガーの残骸が、白い皿に残っていた。二人の前に、それぞれアイスコーヒーが置かれていた。サイラスのものには、ガムシロップの空いたケースが二個横たわっていた。

 今、サイラスは右手にはサンドイッチを抱え、頬張っていた。ダイナーも時間が遅いためか人は二人以外居なかった。八十年代のレトロミュージックを流し、赤、白、黒のコントラストが目に映える店内には、カウンターが五席、テーブルが六席とこじんまりしていた。ジョーは赤いレザーシートに背を預け、一息つくと、前に座るサイラスから視線を外し辺りをぐるりと見渡した。店主の白髪交じりの男性が、カウンターの側で皿を洗っているのが見えたが、こちらに気にする様子もなかった。

「マイケルは手下にそれを《処理》しろなんて命令してないんだろうな」

 ジョーは声を潜めてサイラスに問いかけた。

「それは当然。逆に手を出すなって一点張りだよ。一人やられてるんだから、こっちとしてはさっさと《処理》したいところはあるんだけどよ。若い連中の中には独自に動きたいってやつもいるは、いる。でもそいつらの手綱握るのが幹部連中に下された決定だから、仕方ないって感じで従ってる。正直、あんたらがめっぱってなければ即、その女とっ捕まえてるよ」

「そんなことは知ってる。だからオレたちがめっぱってるんだろう。どうせ、そういった輩の行きつく先は、闇の中だ。どうせ誰かに頼んだんだろう?」

 まぁ、とサイラスは頷いた。

「安い金額で請け負うやつなんて、そういるもんじゃないんだよ。一人あたま、五十万、六十万とかっていうのに、千、二千とかで請け負う。そんな金額だから帳簿上もだいぶ誤差程度の金額だから、表向きにも裏向きにも存在しない。だから重宝するんだ。そんな奴ほかには居ない。どうせあんたのことだ、勘づいてるんだろう? それは間違いないよ。《奴》に頼んだというのが正しい」

「《奴》についてどれだけの情報がある?」

 サイラスは顔をゆがませた。

「それはあまり言いたくないって、分かるだろう? 今言ったみたいに利便性に優れるんだ。どうせ、あんたらにとっても、闇から闇に消えていく者を、年中気にする事もないだろう? 忘れてくれればそれでいいんだけど?」

 ジョーはポテトをつまみながら、じろりとサイラスを見た。その視線は相手を射貫く。鋭さはさすが長年の刑事であると言わざる負えないだろう。いくらアウトローに属しているサイラスであっても、胸の内を透かされる様な視線を浴びて平常心でいられなかった様で、ジョーを見ていた視線がわずかに泳いでいた。

「今更怖気づいたということでもないだろう? 約束が反故にされたら、お前をしょっ引いてやる事くらいはできるんだが。……それにな、闇に始めから入っている奴――以外も多いだろう。この数年、一体どれだけハイペースで《奴》に頼んでるんだ? 消えている奴は片手じゃ数えられんぞ」

 まさか、とサイラスは笑い飛ばした。ポケットから煙草を取り出すと、火をつける。テーブルに煙草とライターをおいて、背もたれに体重を預けた。

 ジョーは、テーブルに置かれたサイラスの煙草を一本無心すると、火をつけた。昔吸っていた物より大分軽いが、辛いイメージが先行した。口の中に広がる乾いた香り。しかし、楽しむ余裕はなく大量に取り込んだ空気と共にニコチンを血中に流し込む事に専念する。十二ミリの重さは、普段吸っている物よりもがつんと頭に入ってきたが、久しぶりに手ごたえのある吸い心地を楽しんだ。

 ジョーの少し上機嫌な様子を見ながら、サイラスは顔色を窺いながら、

「全部、《奴》に頼んでいるわけでもないし、其れこそ、緊急で、《獲物》を逃す可能性がある場合に、さっさと《処理》する専門だよ《奴》は。だからこそきちんと信頼の寄せられるブギーマンが必要ってわけじゃないか」

「なら話す気は?」

「ないさ」

 きっぱりとサイラスは断りを入れ、笑みを浮かべた。そうか、とジョーは言うと、手錠を机の上に置いた。金属の重い音が店内に響いた。店主が一瞬此方をみたが、ジョーは気にしなかった。

「だったら楽しかったシャバの生活もこれまでだ。また堀の中に戻ってもらう――」

「まぁまぁ、そう急く事もないだろう。たかが一人また消えただけだろ? こっちだってあんたらに見張られている事で『手は出してない』訳だし。だからこそ、こうやって話しているわけじゃないか。《奴》に頼んだ、というのは確定なわけだ。だから、あとはあんたらの仕事ということだろう?」

「依頼した時点で同罪だが……」

 サイラスは慌てて手を前に突き出して、ジョーの言葉を止めた。

「あんたはせっかちでいけない。気持ちが急くのも分かるが、まだテーブルにはこれだかの食事が並んでるんだ、ゆっくりと時間を楽しむ、ということもできないのか? ――まぁ、いいさ。結局そうやって何でもかんでも答えばっかり聞こうとする性質だもんな。あんたち警察っていうのはさ。『要は?』『だから?』『どうした?』『結局?』こんな話ばっか。お願いしますの一言も云えないのが気にくわないが、首輪つけられているのはこっちの方だからさ、文句くらい聞く義務っていうのはあるだろう?」

「……分かった、分かった。好きに吠えてろ。堀の中で仲良く御友達と騒ぐ分には――」

 サイラスは一向に笑わないジョーに対して、両手を上げた。口にくわえていた煙草の火を灰皿で無理やり押し付けて消した。大きなため息をつくと、アイスコーヒーを口に含んだ。嚥下。ごくりと喉が鳴った。

「はいはい、分かりました、分かりましたよ。降参ですって降参。――少しくらいこっちの愚痴に付き合ってくれるくらいの愛想の良い奴だったらよかったんだけどな。……はぁ、《奴》について、分かっているのはそれが、一人じゃないてこと。元々は一人だったが、徐々に人数が増えている。最近だと四人だということだ。《奴》のトップは何度か組に来た事がある。だが、毎回姿が違うという噂があるから、変装がうまいんだろうな。背格好は見た事があって、大体……百九十程度だろうな。結構ごついんだが、着やせするタイプなんだろう。顔の特徴はさっきのとおりで不明。幹部連中は何か――別の物で認証している様だったよ。アタッシュケースみたいな物をみせていたなぁ。《名刺》でも入っている訳ではないだろうしな。あとのメンバーについては、こっちにも顔を出してないから分からない。が。ただ、一人だけ分かっているのがいる。名前までな。《奴》の一人、ロバート・ジェラード・バー。こいつについては、あんたらも良く知ってるんじゃないのか? 一度警察の御厄介になりそうになり、逃亡した坊やだ。『フィンガー・コレクター』は、ミネソタで結構やらかしていただろう。そいつが、《奴》の一員だというのは、車に乗っている所を何度かみたからさ。」

 サイラスは再度アイスコーヒーを飲み込んだ。一息つくと、

「それでよ、《奴》から打診があった。《奴》が挨拶に来るっていうんだ、うちの長にさ。なんでって思うよな。今まで特に何も無かったのに。町を離れるとかあるのかも知らねぇが、《奴》が顔を出すっていうのだから、相当な事なのかもしんねぇな」

「……『フィンガー・コレクター』か……。嫌な奴だな」

 何故、とサイラスは目を丸くした。ジョーが杞憂する理由が想像できないらしい。ジョーはチッと舌を鳴らした。

「広域指定になると、うちの話だけでなく、FBIの出番だ。そうすれば、マイケルすら簡単に突っ込んでいくぞ」

「あぁ……、あのハゲタカどもが来るのか。ま、それは終わってからにしたら? こっちにとってみれば、捕まった《奴》の後釜見つけるので大変だろうけどな」

「《奴》の車の特徴は?」

「見た事あるのは、日本車のセダンだったな。でも毎回車違うから、これ、というのはないな」

「さすがにそこはへましないか」

 サイラスは、ありえない、と手を振りながら、笑いを必死にこらえていた。

「そんな簡単な奴だったら、とうの昔につかまってるよ。異常者だけどな、クレバーな奴だよ。どうだ? これでもまだ、捕まえるか?」



 アンディとセシルはダラスの街の郊外にあるマイケルの邸宅に来ていた。セシルの目立つアイボリーの髪は、ウィッグによってオリーブグリーンに変わり、大き目のキャップを被って、目元には度の入っていない黒い眼鏡。少しダボついた空色のウィンドブレーカーに、白のTシャツ、ジーンズという姿だったが、その隣に歩くアンディの姿と比較して、二人の関係性が祖父と孫の様に見えた。

 アンディは濃紺のスーツの上下。二ボタンのジャケットは厚い胸板の所為もあって少し窮屈そうに見えた。いつもは黒々とした髪色は白髪混じりの茶色に変わり、口元にも白い顎鬚が蓄えられていた。手には大きなアタッシュケース。何が入っているのかは教えてくれなかったが、おそらく彼の《蒐集品》であるという事は分かっていた。普段の二人を知る、ロバートやレイチェルから見ても、別人に見えるというのはお墨付きだった。

 セシルの頭には普段慣れないウィッグを被っていたから、どこかちくちくした感じがあって頭をひっかきたいという気持ちでいっぱいだった。しかし、同じ様に被り物をしているはずのアンディは涼しい顔をしていた。少しだけ、髪が短いというのはずるいという気持ちになった。中々まとまらない髪を両手で梳きながら、セシルは、時折ずれる眼鏡と格闘をしていた。その様子を見てアンディは苦笑しながら、ぽんぽんと頭をなでた。セシルは恥ずかしそうに視線を外して辺りを見渡した。

 黒いスーツ姿の男が二人門の前にいて、一人がアンディと話しをした。門が開き招き入れられる。自分の身長の三倍近くもあろうかという黒い鉄の門と柵を、口を開けて見上げた。少し世間知らずすぎるかと、頭を振って、アンディの手を握った。ぎゅっと握り返された手で少し安心感があった。

 広々とした邸宅には、見事な造園が広がっていた。広大な敷地とまでは行かないが、めいっぱいに広げられた緑の園には、黄色や赤色の花が咲き誇り、幾何学的な模様を造形していた。腰の曲がった庭園師が巨大な脚立を携えて歩いている様が見えた。どういった関係なんだろう、とセシルは目で追ったが、失礼か、と思うと視線を元に戻した。

 緑の映える庭など初めてみたというのが、セシルとしての感想だったが、あまりじろじろと辺りを見渡しても仕方ない。小川の様に音を立てて流れる水の響きに、かさかさと葉が震える音が耳にこそばゆい。門から建物の前には円形の噴水が鎮座し、視界を淡く揺らいでいた。こういった世界というのが、金持ちが求める世界なのかもしれないが、セシルにはそれを理解は出来なかった。ただ、胸の奥底に羨ましいという感覚に似たぼやけた感情があった。

 きっちりとしたボディチェックを受けて、通された広い部屋には、歴史を感じさせる色の濃い長いテーブル。その端に一人の男が座っていた。

 マイケル・D・アンダースその人だ。神経質そうに撫でつけられた頭は、光沢のがあり、照明を鈍く反射していた。まばらに残る無精ひげが四角い顔に合っていた。深い青色の瞳が二つ。セシルのことを見ると、愉快そうに目を弧にした。群青色したスーツには、光の反射をする金糸がストライプ状に悲哀っているのだろう、セシルの視線の中でちらちらとちらついた。手元には太い葉巻が見えた。それを上手そうに吸う者だから、セシルも刻み煙草でも持ってくればよかったかな、と場違いなことを考えた。二人はアンディの向かいに通された。結構遠い、という感じだったが、マイケルが、手を招いて、こっちにこいと指図した。それに合わせて、黒服の男が、二人をマイケルの前の席まで誘導した。

 「今日は急なお目通りをいただきありがとうございます」

 アンディは、いつもと違った丁寧な口調で頭を下げた。それに合わせてセシルも慌てて頭を下げた。マイケルは、よせよせ、と手を振った。

「畏まる必要なんてない。私には、《君ら》がとても重要である事は分かっているだろう? 特に《アンディー》においては長い付き合いだ。この程度、なんの問題もないよ。むしろ最近顔を合わせていないから、こちらから呼び出そうかと思ったくらいだしな」

「そういってもらえると助かります。また、ここ最近に生きの良い《獲物》を立て続けに紹介いただき、誠に有難うございます。こちらは、もしよければと――お持ちした《蒐集品》になります」

 改めてください、と側に控えていた黒服の男にアンディはアタッシュケースを渡した。彼の《蒐集》であるにも関わらず、それを手放そうとしている事に、セシルはどこか違和感を覚えた。その些細な表情の違いをマイケルは読み解いたのか、セシルに視線を向けた。

「お嬢さん。彼の作るものは、彼自身が楽しむだけでは勿体ない――それだけの工芸品なのだ。特に、忌々しい者たちの視線を封じ込めた之は、間違いなく、一級の芸術品だ。そうそう手に入るものではないのだがね。彼は趣味でそれを削り出し工作を楽しんでいるが……私もそれに魅せられた者の一人という事だ。全てを得るわけではない。一部を共有しようという、同好の士なのだよ」

 マイケルの言にセシルは礼を述べ、頭を下げた。恐怖心などはなく、ただ教師に接する様な自然な仕草。マイケルは手を打って喜んだ。

「これはすごい、私に会って身を震わせる事すらない。世間知らずだったら別だが、きちんとした教育が行き届いている。相手への敬意は感じられるが、一切の恐怖心を身に出さない。良い拾い物をしたな《アンディー》」

「はい。彼女セシルは、元々《獲物》の一つでしたが、わたしたちと《蒐集》を共有する仲間となりました。彼女の《蒐集》は《歯》。それを削り出してアクセサリを作っている様です。みせてみなさい」

 はい、とセシルは自分の腕についたブレスレッドを外した。それをアンディがしたように、黒服の男に渡した。

 黒服の男が、テーブルに二つの品を置いた。アタッシュケースを開き、アンディの作り上げた物を見せる。と同時に、セシルの腕についていたブレスレッドを横に置いた。アンディの作り上げた物は見事な工芸品となっていた。一つをマイケルが取り出して、天井に掲げた。虎の意匠が彫られた円柱体は天井からの光を浴びてきらきらと輝く。中に浮かんだ楕円の目玉がその意匠に印影を作り上げた。クルリと回すと、その意匠がまた別の色合いを見せた。視神経が模様の様に虎の全身に入り込んでいた。染色したのかと思えるほどに、神経は艶やかな白色を見せていた。

 遠目ながら、セシルもそれが美しいという事が分かったし、喉元まで、綺麗だという感想が出かかってすらいた。

「相変わらず間違いのない仕事だ」

 嬉しそうにマイケルわ口を吊り上げた。一つ、二つとみていくと、どの意匠も凝っている。虎、鳳凰、龍。その他にも見たことのない生き物を生き生きと描きだしてた。

「そうだな、こいつはいいな」

 マイケルが手に取っているのは麒麟。涙の様に視神経が雫の様に膨らみを持ち、彫られた麒麟の姿を白く染め上げていた。それに合わせてぐるりと一回転させると、瞳の青い色が映えるものだった。

「それは、アレブ・アリン・ハリスの物で、東洋の麒麟という生物を表しています。青い瞳と非常に相性がいい。色彩的には、本来黄色等の色があるといいのでしょうが……」

「いや、これは良い色合いだよ。前にもらったクリスに比肩するだろうな」

 その評価に、アンディは恭しく頭を下げた。

 次いで、マイケルはブレスレッドを見た。銀色の細いブレスレットの台座に、艶のある純白の宝石が載っていた。パールの様に磨かれたそれは、間違いなく《歯》。歯根の様そのままにブレスレッドに括りつけられ、一見するとサンゴの様にすら見えた。その《歯》が全部六で。上の犬歯から前歯である事が分かる。整然と並べられ、それを挟む様に細い格子が上にかかっていた。悪趣味である。そう見る者に訴えかける雑さはあるものの、素材のの色彩を引き出している事、派手さがそれほ無い事から、原住民が好んでつける――そういった偏見に彩られた印象を与えた。

「これは、また独特なものだね」

 マイケルは目を輝かせた。

「《歯》という事だとなかなか加工のし甲斐があると思うけれど、素材をそのまま生かすというのは、また違った美しさがあるね」

 マイケルは親指の平で全体をなぞっていた。

「まだあら削りだけど、良い感じじゃないか。《ローバート》に比べて生を感じにくいのもの良い。――彼の場合には、少し、少しだけ生体に近づけようという思惑が強すぎるからね」

 セシルは、アンディに見習って頭を下げた。

 さて、とマイケルは二人に向き直った。

「今回、面通ししたというのは、《アンディー》、彼女が君の身内になったということを知らしめる事なのかな」

「――彼女は間違いなく、身内になります。それを認めていただきたいと主増して――」

 マイケルはアンディの言葉を手で制した。

「では一つ確認をさせてもらおう」

 マイケルはセシルに向かって手をこまねいた。

「こっちに来るんだ」

 一瞬、アンディの目に苦々しい色が映った気がして、セシルは不安になった。しかし、今この場で最も力を持っているのが誰か、それは理解できるため、反抗する訳にはいかないと思った。ゆっくりと、マイケルに近づいた。

「手を見せて」

 マイケルに向かって、おずおずと両手を伸ばした。ぐっと両手が引かれた。突き出す様な恰好となったセシルは少しつんのめって、前へ一歩出た。

「うん、綺麗な手だね。でも……少し歪みがあるのは……あぁ、栄養失調か何か、かな。骨が曲がっているね。でも生活には問題ない、というところだろう。うーん、作業には耐えれるだろう。……あぁ豆ができているね。斧を持った時にやった感じか。大事に育てられていた……というよりは、粗雑な感じだね。――君の経歴は見た。その上で聞こう、」

 マイケルはセシルの目を見た。透き通った青色の視線が彼女を見透かす様に突き抜けた。

「《アンディー》は君の父親を殺した。うん。それをどう感じているかね。」

「……解放されたと思っています」

 そうか、とマイケルは頷いた。この問いは何をもたらすためなのか、マイケルの視線は微動だにせず、セシルを見つめていた。

「《アンディー》を信頼している?」

「はい」

 セシルは即答した。視線はぶれない。

「君の状況を考えれば《正常》と《異常》が隣り合うというのは良く分かるところなんだが。君の――本当の父親のことをこき下ろすというのは心苦しいが、一般的にみてクズだとは思う。子供に対する仕打ちではないというのも、家庭に対する考え方というのも、そうだろうと思う。だが、……《この先》に入り込むのであれば、二度と君は闇から逃れえない。そういう奈落の底に自ら飛び込もうというのだろうか。君の《処理》は一度だろう? 悲しい夢だと思い、元に戻るのならば、私は君を支援しよう。必要とあれば、住む場所も、仕事も与えよう。今、君の周りにあるのは、まやかしの類で、虚飾の幸といっても過言ではない。それでも――君はそこの男の隣に立つかい?」

「はい」

 セシルに淀みはない。一切の躊躇なく、即答した。この回答は当然だとセシルは思っていた。背後でアンディが息を飲むのが分かった。マイケルは意外そうに目を丸くした。

「理由を――聞いてもいいかね?」

 セシルは頷いた。

「《居場所》があるからです。元の家にも《居場所》はありました。しかし、吐き気を催すほどの苦痛の中にあった物です。ですが、今は違う。自分でもこれが正しいとは感じていません。人を殺める事にためらいが無いわけでもありません。倫理的にそれが許されるとも思っていません。弁明の余地なく、あたしも死刑になる事も、理解をしています。ですが、そこ以外に居たくない。その《居場所》にしか居たくない。そう思えたからです。そこに理由らしい理由は、無いのかもしれません。ジョンの横暴なふるまいに対してい辟易していたのはありますが、だからといって世界に絶望する程でもなかったと思います。しかし、アンディたちに会い、そこが輝かしく思えてしまったんです。それが偽りでも構いません。いつまでも続かないのも――分かっています。……それだけです」

 マイケルは握っていたセシルの手を放し、立ち上がった。

「良く、分かった」

 マイケルは手を広げた。それが抱擁の意であると理解し、セシルも応じた。

 マイケルは、セシルを放すと、彼女の肩に手をおいて、回れ右させた。

「《アンディー》、君の責任は重い物だ。それだけの覚悟を持っているものを、きちんと面倒見なければならない。その上で、もし助けが必要になったら、いつでも私を頼りなさい。長い付き合いとは関係なく、君たちを《闇》に置いておくことだけは忍びない。そのための担保だ、これらはもらっておこう」

 マイケルは、ブレスレットと、アタッシュケースから一つ取り出した《蒐集品》を手にして笑った。

 

● 


 デビットは、運転席側から入ってくる肌寒い秋の風を感じながら、のぼせそうな頭を冷やしていた。後部座席に三脚を立てて、スモーク越しに、押し付けていたカメラを覗き込みながら、マイケルの邸宅を監視していた。距離にしてみれば一ブロックは違うはずだが、位置的に丁度見下ろせる良い位置に車を止めていた。裏には公園があり、路上駐車されていても気になる様な物出もなかったから、それを隠れ蓑にしてうまく覆面車両を隠していた。

 こんこんと窓がたたかれる。窓を全開にすると、ジョーが紙袋を脇に抱え、アイスコーヒーを両手に立っていた。

「どうだい?」

 礼をいって受け取ると、その冷たさに顔をしかめた。

「とりあえず乗ってください。寒いんで」

「遠慮ないな。まぁその方が楽でいいが」

 ジョーはぐるりと回ると、助手席に座った。小脇に抱えていた紙袋をダッシュボードの上に乗っけた。とりあえず、とデビットは前置きをして、視線を前にしたまま口を開いた。

「ロバートに似ている男の出入りはありません。今のところ来客は四。うち二は親子ですかね。マイケルに会いに行くというのはどういった人なんでしょうか。バリバリのヤバイ奴で、政界に力を持っている訳でも、財界に力を持っている訳でもないですし。薬と闇討ちでのし上がってきた筋金入りのマフィア。資金力は高く、カリ・カルテルともつながりがあるとかないとか。なんでこんなテキサスの片田舎にいるのかと思いきや、酒関係で自ら醸造する始末ときている。作った酒がどこに流れているのかは不明ですがね」

「ここに来るのは大体、訳アリだよ。どんな奴なんだ? ロバートの変装ってわけじゃないんだろうな」

「……そういわれると自信はないですが、一応写真は撮ってあります。見ます? これですけど」

 タブレット端末をジョーに渡しながら、ジョーはコーヒーに口を付ける。予想通り冷たい感触が、淀み切った車の中にいたデビットをしゃっきりとさせた。

「うーん。たしかに、違う感じはするな。肉付きが良すぎる。――というか、たしかに、この親子連れは気にはなるな。普通マフィア相手に娘を連れて行くなんて、相当な覚悟だろう、と思えてしまうな。あれか? こんな男が幹部の一人か?」

「それにしては護衛の一つもなく、車でもないんですよね。最初、この男がロバートかとも思ったんですが、体格があまりにも違うので……自分がみたロバートの写真が四年前なので確かに変わる、と言われればそうなんでしょうが……。本課の方にも写真を送って確認をさせてますのでそれを待つでいいとは思います」

 確かにな、とジョーは頷いた。紙袋に手を伸ばすと、中からベーグルを一つ取る。残りの物を押し付ける様に、デビットに紙袋事左手で渡した。

「あ、どうも。いや丁度小腹が減ってるところだったんですよ。一日中こんな狭いところに缶詰めですからね。そろそろ広いところで足を延ばしたい、っていう気にはなってきますが」

「ぼやくなよ。どうせあと二日も見張って何もなければ、それでまたヒューストンにとんぼ返りだ。ダラスにまで足を延ばしているのが問題なんだよ。オレらの管轄から大きく外れている」

「ダラスの協力も大してうけれませんでしたからね。同じハイウェイ・パトロールだというのに……。こうやってうちらが見張っているのを黙認していてくれるだけ、まだましというものですよ。本来ならFBIの広域捜査になるところなのに、なんでハイウェイ・パトロールの自分たちがやっているのか……」

 おいおい、とジョーは後ろを振り返りながら、

「そういうことを言うなって。前もそんなこといって結局車から降りずにオレの言う事を聞いたじゃないか。そういうのはなしにしようじゃないか。哀れな被害者たちの無念に誰が報いるんだ?」

「……わかってますよ」

 デビットは紙袋から取り出したベーグルを一齧り。冷えたベーグルは少し硬くなっていたが、空腹を紛らわすには丁度良かった。ティン、と高い音が車内に響いた。

「本部から、メールが届いたみたいですね。ちょっとタブレット返してください」

 おう、とジョーは写真を覗いていたタブレットを左手で返した。ふんふんとメールを確認するデビットを後目に、ジョーはさっさと残りのベーグルを食べると、コーヒーで流し込んだ。デビットは、ベーグルと片手に端末を操作している。その時、デビットが素っ頓狂な声を上げた。

「どうした?」

 ジョーは怪訝そうに半身を動かして、デビットを見た。デビットは固まった様子で、手からベーグルが落ちるのが分かった。端末の上に、固い音をたてて乗っかった。

「……警部、一部身元が割れたそうです」

「ほう、だれだ? あの筋肉質な男か?」

「……いえ、その隣の少女です」

「どこかの家出娘か?」

「……」

 デビットは、端末の上に乗っかったベーグルを引き上げて、一部の文書を拡大すると、タブレットをジョーに向けた。

「なになに……? セシル・A・サザーランド?」

「はい、あの一月半前に行方不明の少女です」



 サイラスはマイケルの邸宅に招かれた。時間を同じくしてその場にはアンディとセシルもやってきていたが、マイケルは別室に待機させられていた。狭い部屋だが快適性のある部屋であった。小さいテーブルにキャンドルスタンド。壁に掲げらた絵画は贋作ではなく真作なのだろう、丁寧な額装はそれだけでも値打ちがあると思わせた。銀色の水差しに入ったキンキンに冷えていたレモン水は喉の乾く室内において、爽やかなのど越しを与えてくれた。サイラスがマイケルに仕えてすでに十五年になる。頭の切れもよく、飲み込みも早い事から、マイケルの目にとまり、まだ三十代というところで帳簿係の一人にのし上がった。部下の面倒見もよく、大きなトラブルは抱えていない。予想外の出来事で、集金係や売人に欠員でたが、それも交通事故の様な物であり、部下が自ら突っ込んだのではなく、たまたま偶然というやつであった。であれば、今回呼ばれた事について、何一つ不安な要素はなく、自分の昇進に係ることか、塩漬けになっている案件の解消くらいだろうと高を括っていた。待つ時間が一時間、二時間と経つにつれ、飽きっぽい性格のサイラスはその場でうつ伏せで少し横になり始めた。午後のあたたかい日差しに締め切った部屋の熱は、彼を夢の時間に誘うには十分すぎた。

 目が覚めた時、それが間違いであったと、気づいたがもう遅かった。手足は縛られていた。結束ロープが食い込み痛みがあった。声を出そうにもうめき声にしかならなかった。椅子にきっちりと組まれ、足を抜く事も叶わない。涼しい庭園を吹き抜ける風は、背筋を冷たく冷やした。サイラスの左側の地面には小さな穴が掘られていた。深さにして一メートル程度だろう。生垣で囲まれた緑の密室。天空に舞う鳥たちも、アーチ状の蔦に阻まれ、見る事はかなわないだろう。

 「つまりさ、こいつが《ローバート》の情報を含め、君らの情報を渡したと。そういうタレコミがあってね。きっちりと周囲を観察させてもらったら、ダラスではあまり見かけない車が丘の上にとまっているじゃないか。こっちからも手下に確認させたが、二人組。おそらくヒューストンの市警だろう。身内の事を裏切るっていうのが、どういう事だか、その辺の分別はあるやつだと、おもっていたんだけどね」

 マイケルは落胆した様に肩を落とした。声がするのは横と後ろ。視線の先にあるのは窓ガラスだけで、庭園がオレンジ色の光を浴びている様が映し出されていた。微かに反射する光で、自分の左横に立つのがセシル、右側にアンディとマイケルがいるのが分かった。サイラスは、首筋に冷たい物を感じた。

「君らは私の身内といっていい。安い料金で《処理》してくれる《処理屋》は囲えるだけ囲っておきたい。当然その仕事ぶりにもよるが、君らを批判する様な点は一切ない。料金の不当な吊り上げもなければ、履行遅延もない。まったくもって私の頭痛のタネを除いてくれる、素晴らしい者だと思う。その《破棄物》を加工しているだけで、警察にマークされてしまう。それだけ彼らを庇護するべき、そう私は思っているのだが……。その意図をくみ取れないほどこいつは脳みそがスカスカだという事が分かった。そこでだ。せっかく新しい身内も居れたのだから、その手際を見てみたいと思ってね。君らにはせっかくのホリデーであるにも関わらず仕事を押し付ける様な真似をして申し訳ないとは思うが……」

 いいえ、とセシルは答えた。目は冷徹そのものであり、その視線の美しさに、マイケルは身震いした。こいつは掘り出し物だ、と言わんばかりにアンディに視線を送った。アンディは小さく頷いた。まだその経験など数える程だというのに、堂々とした態度。死を何の物ともしない、行為に対しての罪悪感すら感じていないだろう事は分かった。手に震えも、視線の揺らぎも無い。呼吸の乱れも、緊張による汗の発汗も見られない。眼前にいる男の首筋にナイフを突きつけてなお、号令がかかるその時を待つ、機械じみた冷たさを感じさせる立ち振る舞い。セシルはただサイラスの首筋を見ている。

 マイケルはアンディにであった時と同じく、雷に打たれた様な衝撃があった。これから深紅のバラの様に首筋に充てられたナイフが鮮烈な血液の噴出を演出する事だろうことは想像するに難くない。白い太陽の光がナイフを煌めかせた。

 呻く。だらしなく、呻く。サイラスはあらんかぎりの力を振り絞り、拘束を逃れようともがいた。首をずらし、ナイフから身を遠ざけようと捩った。ぎりぎりと音を立てる椅子は今にも壊されそうな音だ。しかし、セシルは気にはしない。この男が逃げるという事は考えつかないのだろう。

 マイケルにとってみれば、サイラスを助けるという事も一つの方法だろうという事は分かり切っていた。きっちり教育をしてやれば、一度のミスくらいは大目に見てやってもいいとも思っていた。特にアンディたちに係る情報だけを渡しており、組織に対しての問題行為は確認されなかったからだ。頭脳は確かに使える者だ。だが、それを許容し、同じ地位に居させる事も、今後の遺恨につながるし、警察に筒抜けになるというのも好ましくなかった。

「やれ」

 簡潔に、マイケルは命じた。

 実行される。セシルの手が動き、のどを切り裂いた。直後、穴に落とされる。痛みに対して藻掻くサイラス。あふれ出た血はホースを絞った様に噴出した。地面に吸われる。

 かすかに噴出した血はセシルの手を濡らした。それをサイラスのシャツで拭う。次いで、ナイフの血糊をきっちりとサイラスのシャツでふき取り、マイケルに返した。



 トーマス・ジェームズ・ライトニングが来たのは、必然だった。小さい会議室の一室に、苦い顔をしていたのはジョー。その横にはポーカーフェイスのデビット。二人の前には冷えたコーヒーが置かれており、トーマスが来る前に他の者との話合いでもあったのだろう。トーマスが入る前に、署長の姿が見えたから、もしかしたらお小言の一つでも言われたのだろう、とトーマスは思った。トーマスは茶色の長いくせ髪を真ん中で分け、青い瞳に少し茶色の色が入った眼鏡をかけていた。四十代になる彼は少し目元に皺が寄っていた。

「よろしく、トーマスだ。署長から話を受けているとおもうけれども、我々FBIが協力する事になった。君たちに重荷がある物であろうし、だからといって、市警の力は重要であるから、一つ仲良くなろうじゃないか」

 開口一番に述べた言葉は、当たり障りのないものだったがジョーの機嫌が悪くなるのは見て取れた。

「警部、あまり露骨に顔に出されると、失礼というものではないでしょうか」

 デビットが窘めるが、ジョーはわざとらしい咳を一つして口をへの字に曲げた。

「今回問題になっているのは、《電気屋》の事です。ジョー警部に於いてもそのあたりは認識しているのでしょう。しかし、トーマス警部にも理解いただきたいのは、こちらが粉骨砕身で集めた情報を、たった一瞬でそちらの手柄にされてしまっては、ヒューストン市警の面目も立たないという物でしょう。こちらとしてもあまり強く言う話ではないのですが……」

「なに、それはいつもの事だろう。ロバートの件について嗅ぎまわっているというところもあり、我々としても放置する状況ではなくなった――というのが正しい。面倒なことを引いたな、というのが感想ではあるがね。ミネソタに出た殺人鬼と、テキサスの人攫いが同一という状況になれば、否が応でもなく、我々の出番になってしまうというものさ。ドライにいこう。ウェットな感情はとりあえず押し込んで、仕事に徹しようじゃないか」

 トーマスの提案に、デビットは頷き、ジョーはそっぽを向いた。

「まず現状の確認をしよう。それから捜査の方針を決定するとしよう。今、市警の協力も得て、行確は順調に行えている。《彼ら》の居場所もきちんと把握はできているしね」

 そうですね、とデビットは頷く。紙一枚の資料をトーマスに渡し、デビットは口を開いた。

「概略だけ説明しておきます。詳しい物は後で時間の許す限り端末で記録を追っていただきたい。今から、二か月ほど前に、ジョン・D・サザーランドが酒場で問題を起こして逃亡していました。テキサスでは有名な悪である、マイケルの手下に対しての暴行という事もあり、報復により被疑者が闇に――というのを防ぐために、マイケルの周辺を中心に固めていました。当然それ以外にもジョンの行方を捜す様、捜査を開始。家の特定ができた時には、物家の空となっていました。複数人の足跡がある事からマイケル囲いの《処理屋》に頼んだ可能性が高いと推測されました。その際に浮上したのが、過去にマイケルと接点のあった《電気屋》です。といっても、その時点では断定までは行きませんでしたが。ジョン及娘のセシルが行方不明になると、いよいよマイケルの動向が怪しくなっていたところもありまして、相当の人数を動員して監視をしておりました。毛髪等の残留物から《電気屋》であると確認はとれたのですが、その身元までは分かっていません。一月の間進展はなく、『上からの命令』もあって旧来の行方不明と同じく――それ以上の速さで、人員削減が行われたところです。早々の削減に自分たちは文句を申し上げていたところではありますが、署長も『ノー』の一点張りですから。そのような状況で、別の行方不明事件が起きています。

 アレブについては、サンアントニオの事件なので、こちらにも照会情報しかきていなかったですがね。ただ自分たちがマークしていたマイケルとの接点があり、失踪直前まで、マイケルの売人から薬を手に入れていた事実は確認できました。その上、その売人が刺殺される事件が起きていたのもあって、サンアントニオから長年マイケルを追っている、ヒューストンに連絡があったということです。此方としても対応の方法を検討した結果――といっても二人しかいませんが、情報筋からアレブの処置について、マイケル側は部下の手綱を十分に引いている事、《電気屋》に依頼したと考えられる事が分かりました。

 このため、本事件も未解決事件と合わせて、《電気屋》の仕業として捜査しています。その中で、マイケルの屋敷に《電気屋》の一人、ロバートが出入りする可能性がるとの情報もあったため、監視業務を行っていたところ、行方不明となっていたセシルが見つかったという顛末になります。一緒にいた男については現在照会中ですが、今のところ『何も』見つかってはいません。マイケルに出入りする者が真っ白である可能性が低い事から、何等かの事情を知っているとして二人の監視を行っているというところですね」

「とすれば、」

 トーマスは手元に持っていた端末を確認し終えると、デビットに視線を上げた。

「その謎の男が《電気屋》の可能性もあると考えているわけだ」

「それは可能性として考えています」

 デビットは手元にある端末をたたくと、彼が撮った写真を提示した。

「この写真の右側に居る少女が、髪色は変えているようですが、セシルであると断定されました。AI診断によるもので、誤差は1%程度でしょう。過去の彼女のデータを取り込んでおいたのが役立ちましたね。で、隣にいるスーツ姿の男。結構筋肉質で、あるという事が分かります。独特な歩行パターン――右足を少し引きずるようなものですから、今《電気屋》の足跡との称号を行わせています。これ次第で、ジョンの件を含めて同定できればというところですね。残留物は意外に多いですから、何か一つでも手に入れば……」

 トーマスは手をたたいた。州警察の中でも結構肉薄しているところまで行っている事に対しての賞賛だったが、ジョーの機嫌は相変わらずのままだった。

「捜査方針としては、行確中の被疑者1――謎の男性と被疑者2――セシルの情報を最優先で集める事。うち、被疑者2については保護するべき状況にあると判断されるが、どの様な経緯で被疑者1と行動をしているのかは注視する必要がある」

「というと?」

 トーマスは腕を組んで唸った。

「端的に言えば、ストックホルム症候群の可能性はある。そうでなくても類似的な思想に感化されているという事は考えられるな。《電気屋》と行動を共にするにあたり、犯罪者がなんの利益なく枷を外すとは考えられない。自らの身元をばらされる可能性を考慮し、最低限監禁はするべきだとは《普通》の思考では導き出されるはずだ。そこまで思慮が足りない者であれば、もっと短絡的な事件が多く、さっさと捕まっていたと考えられるが……」

 ジョーが珍しく視線をトーマスに向けた。ぎろりという視線が、トーマスの言葉を挑発的な物と感じたのかもしれないと、思いいたると、小さく頭を下げた。

「いや他意はないさ」

「そんな事は知っている。オレだって同じ立場ならそう考える。というかな……うちの上としてはマイケルを摑まえる事にどうも乗り気ではないのさ。――どうせ汚職の類だろうが、きれいさっぱりその辺は出てこない。忠告しておく。《電気屋》を捕縛する事に全力をあげるべきだ。それ以外の事は手、出すなよ。オレでもフォローはできないぞ」

 トーマスは両手を上げて、降参の意を示した。

「そんな事を、私に言うという事は、調べろという事なんだが……いいだろう、それは別の者に渡しておこう。テキサスがきな臭いんだとね。本来であれば、公安省がしっかり対応するものだと思うし、州の事は州で解決するべきだ。ここでは《私》の本分を全うしよう。今回の事件の解決が優先だからな」

 それでいい、とジョーは視線を外した。

「まずは二人の行動をきっちり調べておこう。仮に《電気屋》なら仲間と合流するだろうからな。その間に、被疑者1の身元の洗い出しを行う。どういった存在か、過去の犯罪歴以外にも調べるしかなさそうだな……」

 ふぅ、とトーマスはため息をついた。



 ロバートとレイチェルは久しぶりのヒューストンで買い物をしていた。夕闇が押し寄せてくる中のマーケットは、人の出入りは少ない。アンディ、セシルと合流するまでに、新しい小屋に持ち込む機材を含め必要な物品の買い出しがかなりの量あったからだ。ここ二件でつかった廃屋は遺体を破棄する場所の確保ができなくなっていた。合計すれば十件以上は処理している計算になるため、畑の土がだいぶ変色してしまっていた。このため、ダラスから西にいった地点にある場所に拠点を移す事にしていた。イーストランドに向かう途中、スティーブンビルへと南下する道の途中にある廃屋が今度の拠点になる。必要になる食料、水、燃料、その他雑多な物を用意して、車に詰め込んだ。準備が終わると、マーケットの駐車場に止まっている大型のワゴン車に入り込んだ。運転席にはロバートで後部座席にはレイチェル。

 レイチェルは時折タブレット端末を開いて、本業の執筆を行っていた。

「今回の作品はどういった内容になるんだい?」

 本来、レイチェルの仕事ぶりを気にしたことがなかったにもかかわらず、ロバートは彼女の顔を身を捩って見た。

「自らが破滅する女子高生の話よ」

「つまり、アレブの様に?」

 レイチェルはからからと笑った。

「そうね、彼女の様に絶望的なセンスがあると笑い話になってしまうわ。だから、もう少しウェットな話にしたいの。そうね……どちらかといえばセシルのようなものね」

 ロバートは顔をしかめた。彼女にとってみればセシルは破滅に近づいているのだろうか、と思ったからだった。

「なに? 自分たちが彼女の救世主だとでも思っている訳? それは間違いというものよ、ロバート。この状況は、彼女にとって不幸であるはず――だわ。人理から外れ、畜生に落ちた。行きつく先はどうあがいても地獄よ。それでも救ったと厚顔な好意を押し付けるわけ? それはロバート。私たちの様な人でなしには正しいと思うけれども、彼女は奈落に『落とされた』だけなのよ。『自ら向かった』のではないわ。だからこそ彼女は破滅的であると私は思うわ。私たちの様な者と同列には考えてはいけない。もっと不幸的なものよ。きっと《蒐集》にすら本来興味はないのでしょう。そこに幸福を感じる私たちとは本当に違うと思わない?」

 ロバートは姿勢を正すと、懐から煙草を取り出し一本火をつけた。レイチェルの言葉に肯定も否定もしない。素直に聞いている様にすら見えるが、本質的にはもっと単純。興味が無いというのが正しかった。だがそのことを悟られない様に、一つ煙を巣込むと、

「彼女にとってみれば、それまでの人生の方が地獄そのものだったんじゃないのか?」

 レイチェルは信じられないという様に目を見開いた。

「あなたがそんな感傷的に物事を見ているなんて、初めて知ったわ」

「ひどい言い方だな」

 ククと、喉を鳴らしてロバートは笑う。

「それはそうよ、あなたが他人のことを気に掛けるのは、《指》だけだとおもっていたもの。それ以外に《生》を感じている部分なんてないとすら思える。話す時においても相手の口元を見るのではなく、あなたは手の動きをきにするもの。そんなあなたが、セシルの事はそれ以外を見ている――これってすごいことじゃない? 愛かしら? それとも別の感情?」

 刺す様な言葉にロバートは右手を小さく振った。

「違う。そんな感情、俺はもってやしない。家族? そんなの俺にとってみれば唾棄するべき存在だ。過去のことを一度たりとも忘れた事はない。灼けついた鉄パイプを押し付けて俺の足に当てたり、長時間ストーブの上に手を置かせたり、瓶でぶったたいたり、バットで殴りだしたり、アイスピックで刺されたり。それらを笑いながらやる者が《親》という仮面をつけて《外》と《内》とで違う顔をするんだ。そんな二面性ばかり見せられたら、家族なんて言うものは、ただのうわべだけの物だって普通思うだろ。その上で、俺が感じているのは、彼女に対する共感。その程度だよ」

「同族に対する保護欲?」

「そういったものがあると思うか? 保護? くそくらえだよ。俺たちは保護されているのか? アンディに? 違うだろ。同列だよなぁ。だったら彼女に対しても同じ。俺が抱いているのは憐憫の感情だけだろう」

 ひゅーとレイチェルは口笛を吹いた。茶化している様な仕草にすこしだけロバートはかちんとした。しかし、彼女に口でかなう訳もないとは知っているから、煙草を一度吸って気を落ち着かせた。

「待ったか?」

 ドアがたたかれた。

「全然」

 ロバートは身を起こしてドアを見た。いつも通り黒い髪のアンディとアイボリーのセシルが立っていた。セシルは抱える様に紙袋を持っていた。ロバートは運転席から降りて、煙草の火を足で踏み消した。後部座席をスライドして開けると、レイチェルがセシルに手を振った。

「四度車は乗り換えた。つけられてはいないと思うが、念のため、三度目で変装を変えた。四度目ではこの通り」

「セシル、大丈夫だったかい? この偏屈なオヤジと二人旅は」

「ええ、とても刺激的だったわ」

「一仕事片付けた。はした金額だが、分け前は振り込んであるから確認してくれ」

 レイチェルが目をぱちくりと瞬かせて二人を見た。

「なに? 私たちの手伝いなくおわらせちゃったの?」

 アンディは頷き、

「どうやらわたしたちのことを警察にバラしたやつがいたらしくてね。その《処理》を行ってきた。セシルの手際もいいものだよ」

 そうか、と、ロバートがセシルにグーを突き出した。セシルは左手だけで紙袋を抱えなおすと、ロバートの拳に自分の拳を当てた。

「やっぱり保護欲よ」

 レイチェルが聞こえない様な小さい言葉でつぶやいた。車側にいたロバートは聞こえたが、何も知らない、とでもいう様に無視をした。セシルが紙袋を車の後部座席においた。ミネラルウォーターを取り出すと、

「これ皆に、アンディのおごりだって。運転は――アンディがする?」

「いいのか? んなこと言ったら飲むぞ俺」

 ロバートは食い気味にすぐに紙袋の中からハイネケンを取り出した。

「ありがと。私もいただくわ」

 レイチェルも一本とると早速プルを開けた。

「時間がない、あとは車に乗ってからにしろ」

「どうして?」

 アンディは神妙な顔で告げた。

「今は一刻も時間が惜しい。レイチェル。《準備》を」

 陽は完全になくなり、スタンドライトの様な強烈な明かりが駐車場には降りていた。



 「全員そのまま、手を頭の後ろに回して!」

 重い声が響いた。デビットが自動拳銃を構えロバートを睨んでいた。デビットから見れるのは、三人。アンディ、ロバート、セシル。デビットは狙いをロバートに向けた。

 あれが噂の殺人鬼となれば、その隣にいるセシルに危害が加わる可能性があった。車の中に一人の人影がある。行確で一人の女性というのは分かっている。それが被害者か、共犯者かは分からない。

「早く! 手を後ろに回して!」

 二度目の警告。デビットの声に合わせて四人の警察官が車を取り囲んだ。

「助けて!」

 車の中から声がした。デビットは声に反応した。その瞬間視線がロバートからずれた。ロバートは素早く車に腕を向けると、中から一人の女性を連れ出した。手にはいつ取り出しのか、ナイフを握っていた。突きつけられたナイフは女性の首元に。

 デビットの記憶には無い女性だ。黒い髪は短く、どこかの帰りだろうか、チューブトップにレギンスという体のラインが出る格好。足は裸足。靴を履いてすらいない。

「そっちこそ銃を置けよ!」

 ロバートは険のある声で叫んだ。

「乗れ」

 アンディがセシルに命令をした。セシルは戸惑った様子だった。

「動くな!」

 デビットの突き刺す様な声。じりじりと警察官が輪を狭めた。

「そっちこそ動くなよ!」

 ぐるりと首を回して周囲を威嚇した。デビットも人質が取られている以上、下手に射撃ができないでいた。額に汗が浮かぶ。嫌な汗だとデビットは思った。拭う事すらできない。焦りによって発汗したのだと、気づいたのは、涼しい風が通り抜けた時だった。

 女性は苦悶に歪んだ顔をしていた。セシルが車に乗り込んだ。子供を銃から遠ざける、そういう思惑だろうと思ったため、見逃した。

「よくねぇな」

 背後で声がする。ジョーがつぶやいた言葉だった。

「ええ、人質がいます。さすがに手を出せません。応援を呼んで……」

「悠長な事いってんなよ。みすみす逃す事になるぞ」

 アンディがじりじりと車に近づいているのが分かる。

「動くな!」

 デビットは再度鋭く叫んだ。しかし、アンディの前に人質の女性の影が出たり入ったりしていた。射線が取れないことに、デビットは苛立ちを感じた。

 沈黙。

 エンジンがかかった。セシルがかけたのは分かった。アンディがすぐさま運転席に乗り込むのが見えた。警察官の一人が発砲した。しかし弾は車にあたった。人質の女性の叫び声が響いた。

「くそ!」

 デビットは焦った。すぐさま距離を詰めた。距離にして車までは五歩。

 車が動いた。人質を押し込むロバート。その足元にむけてデビットは発砲した。当たらない。車に追いすがろうと手を伸ばす。その瞬間、勢いよく車が動いた。

 車がバックで突っ込んできた。轢かれない様に避けるしかなかった。

 ロバートの横に車がやってきた。運転席には、アンディ。助手席には頭を抱え、丸まったセシル。後部座席にはナイフを掲げたロバート。

 「追え、追え!」

「車両を回せ。出口を塞ぐんだ!」

 ワゴン車は急加速して出口へと向かった。途中人を轢きそうになっていたが、運よくカートだけで済んだ。

 散乱するカートに乗った大量の荷物が路面に広がった。激しい音。缶詰などの金属製品がぶつかり合う音と、カートが吹き飛んでいく音が聞こえた。

 デビットは警察車両に飛び乗った。運転席にはすでにジョーがスタンバイしていた。

「おせぇよ。さっさといくぞ」

 毒づきながら、車を出した。

 デビットの視線の先には、急発進をしていくワゴン車に、後ろから警察車両が追いすがっているのが見えた。



 「つけられたな」

 ロバートは疲れた様につぶやいた。

「どっちが、という事はこの際おいて置こう。プラン通りで行く。必要があれば、リリースするぞ」

 アンディは追いすがる警察車両をバックミラーで確認しながらアクセルを踏み込んだ。速度は時速160キロを超えてた。古い車のスピードメーターは頭打ちとなり、それでもなお、アクセルを緩める事はない。直線的な道路を突き進む中、アンディは前方に塞がる車の間を縫う様に、するすると車を滑らせていた。

 後ろの席でロバートが煙草に火をつけた。窓を少しあけて外に煙を吐き出した。

「州警がよくかぎつけたもんだな。アンディ。どうする? リリースする方がいいのか?」

「その方が安全だ。二人は助かるだろう。わたしとロバートが共犯という事で事なきを得るだけだ。そのために《遺留品》は二人以外残っていないのだからな」

「とすると、どこかに行く必要があるが……。予定通り、スティーブンビル方面に行って、そこで処分するか」

 セシルは二人で話を進めていくアンディと、ロバートの顔を見て、それからレイチェルに尋ねた。

「プランってなに? というか、レイチェルって黒髪だったの? どういうことなの? 全然分からない」

「それはそうよね。もともと、アンディとロバートから始まった事だからね。もうちょっと自然に消えるのだとおもっていたのだけれども……。まずは何から話したらいいのかしら。そうね。元々、私とアンディ達との一つの契約があるわ。私は足があんまり良くないから、早く走る事ができないの。だからね、こういう事態になった時、二人は私を放り出して逃げる事になっているわ。私は代わりに、《蒐集》した情報の全部を、破棄する事になっているわ。足がつかない様にね。まー、それは仕方ないわ。それで、私は人質の真似をしろっていう事になるのよ。警察に二人の事をほとんど――最低限の容姿くらいは話すけれども――話さない。特に誰をやったとか、そのやり方とかね。誰に会ったとかそういうのも全部。だから、普段からミスリードする様に、常に金色のウィッグを被っていたわ。そうすれば、いざという時取るだけでしょう? ま、ドレスの下にこういったものを着ていたのもいざという時ためよ。その上で、セシル。あなたも二人が逃げるには足かせになるわ。簡単に言えば邪魔になる。逃げ方も、逃げる術も知らないから。だから、――二人はあなたを放す気なのよ。――アンディ。彼女にも決定権はあるわ」

「当然だ。だが、面倒見切れない。だからリリースする。それ以降は自分で生きろ」

 アンディの冷たい言葉に、セシルが目を見開き、息を飲んだ。ロバートは煙草の煙をくゆらせながら、見守った。逃げるのにあたって邪魔な物がある。この時ばかりは、身軽さが必要であり、慣れない二人を率いて逃げ回る事は面倒この上なかった。アンディとロバートは以前から何度も警察をけむに巻いていたから、この夜に紛れて消えていくことなど、造作もない事だった。だが、二人は違う。一人は足は遅い作家だったし、もう一人は生きるすべを分かっていない少女だ。簡単に建物の中に紛れ込んだり、姿を変えたり。そんな単純な事もできないだろう。カメラを気にして生活もしてないから、どの様に姿をくらますのか全く分かっていない。ロバートは今のメンバーを嫌いではなかったが、だからと言って、《守る》べきものだとは思っていなかった。守るべきものは自分のみ。それはアンディも同じ。ただの狂人の集まりであるにもかかわらず、二人を被害者としてリリースするほうが幾分ましだろう。その代わり、もう二度と裏の仕事はできないだろうが。しかし、どこか、ロバートの胸の内には拭い去れない痛みがあった。

「嫌」

 セシルは嗚咽混じりで言葉を絞り出していた。

「せっかく色々教えてくれたのに、もうお別れなの? あたしは家族みたいだなんて思ったのは初めて。だから、……一緒にいてうれしかったのに。もうだめなの? なにがダメなの? 足の速さ? 車の運転技術? それとも変装? なにが必要? あたし覚える。頑張って覚える。時間がないっていうならそれに合わせる。それでもだめ? どうすれば――」

 アンディが右手でそれを制した。

「それ以上言わなくていい。気持ちはこんなわたしでも、うれしいとは思う。だが、現実を見ろ。今後ろに何台いる? 遠巻きにしているが、二台は居る。巻けるかは五分だ。わたしたちが『生きる』には二つしかない。一つは、神の奇跡によがおきるか、一つは警察が手を引くかだ。カトリックのわたしにとってみれば一つ目の希望はあるが、だからといって楽観視はできない。警察が手を引くように限られた時間で《処理》をしなければならない。いいか? 君はまだ生まれたての《クズ》だ。まだ戻れる。今までの事はすべて夢の一つだったと思えばいい。わたしたちの事を何も語らず、自らは被害者だと伝えればいい。そうすれば、大人たちが生きる方法を教えてくれる。こんな《クズ》の生き方なんて忘れてしまえ。わたしが教えれたのは大したことではないが、生きるための初期資金くらいは持っているだろう? たった二か月だったが、何件君が仕事をこなしたか。――十はくだらないだろう。一万ドル程あれば、少しの間はどうにかなるだろう。普通の生き方をすればいい。それが――」

「嫌」

 セシルの言葉が遮った。鋭く、アンディの言葉を切り裂く。

「嫌よ。普通なんて、もうあたしにはないもの。はじめっから、普通なんてもっていやしないのに、どうしてそれが、あたしが離れる理由になるの? 好きにしろというのなら、あたしもその道を進むだけよ? きっと力がたりないから、大きな失敗でもするのでしょう。そうしたらあたしは直ぐに警察に捕まるわ。それは……それでいいのかもしれないけれど。でも、さらに言うなら、あたしは誰かについていく。――あたしはみんなといたいの。だから、そう成れる様に考えましょう。ね? どうして、それができないの? 空からの追跡は今ない。上手くやり過ごせないのかしら。」

 セシルの言葉には誰も答えなかった。ねぇ、と皆の顔をセシルが見回していた。

「俺は、其れには反対させてもらうね。俺たちは運命共同体だけど。それはあくまでも《趣味》の範囲だ。それ以外になれば、個人だろう。生きるために藻掻くのは当然、そうは思わないか? お前を連れて捕まるくらいなら、見捨てて生き残る方がまし。そう誰もが思うだろ。よく考えてみろよ。可能性として全員生き残るものがあるのに、最初っからそれを捨てるというのは、違うだろ」

 レイチェルもロバートの言葉に追従した。

「私もロバートに賛成するわ。私の契約通りに履行してちょうだい。どうせ足かせになるのは分かっているのだから、少しでも警察が遅くなるように演技はしてあげるわ」

 二人の言葉はいつもより少なくなった。セシルの気持ちは分からないでもなかったからだ。ロバートにしてみても、今の居心地の良さは以前ミネソタに居た時に比べれば段違いであったし、美しい女性が側に居るというだけでも気分は高揚するというものだった。これが、堀の中に入れば、自らの命を狙われる続ける日々になると考えるだけで、げんなりするという物であった。だからこそ、逃げ延びたい、と切実に思えていた。仲間のためになんていうことは、二の次。各自が生き残る事こそが、次につながる、そうロバートは感じていたし、実際、その思いが募れば募るほど、彼らとは別れた方が無難だというのは、《一般的》には正しいと思えて仕方なかった。だが、とも考えた。三人が無事になればそれでいいのではないか。十分楽しい思いはしていたのではないか。糞ったれな人生を最後華々しく終わらせるのも一つではないか。そうすれば、今にも泣きそうな《妹》が少しでも幸せになるのかもしれない、そんな感傷的なことを考えたが、思いを振り払う様に頭を振った。

「アンディ。俺は来た道を戻るから、《上手く》やれよ」

 そう口に出したのはどういう思惑があったのだろう。自分でもわからず、ただ、どこかすっきりする感情が支配していた。



 アンディは無言のまま、廃屋の側まで車を走らせた。背後に一時前まで光っていた青と赤のランプは見えなくなっていた。建物の裏に車を停めた。

「ロバート。レイチェル。ここまでだ。達者で」

アンディは振り返りもせずに告げた。二人は時間が無いことを分かっていたから、すぐさま行動に動いた。廃屋の中には車が一台置いてあった。ロバートは最低限の食べ物をひっつかむと、停めてあってセダンに乗りさっさと出て行った。来た道を戻る様に車を走らせるのが見えた。別れの挨拶すらない。そんなものなのか、とセシルは落胆した。結局また一人になるのか、という思いが胸に広がった。レイチェルが廃屋の外にある、ドラム缶の中で火をつけているのが見えた。

 アンディはセシルを一瞥すると、車から降り、レイチェルの側に寄っていった。二人が何かを話しているのが分かったが、聞く気力もなかった。遠い訳ではないのに、どこか遠くになってしまったと思えた。

 自然と涙がこぼれていた。無性に母親に会いたいと思った。しかし、自分が受け入れられるのか、それが気がかりになっていた。

「寂しいよ……」

 誰となくつぶやく。ぽろぽろと流れる涙に視界が歪んでいた。どこにも居場所が無い。そう思えて仕方なかった。せっかく『父親』を殺した上で、本当の《父親》に出会えたと思ったのに、ともアンディとの邂逅を恨みがましく思った。手をぎゅっと握り、視線はダッシュボードの下にある自分の足を見つめていた。コンバースのマークを見つめ、自分には指標となる星があるのかとも自問自答した。答えは出ない。導きの星は今輝きを失い、勢いを失い地に隠れる直前だ。流れる涙を腕で拭い顔を上げようとしたが、外を見る事ができなかった。

 どれくらい泣いていたのか分からない。突如、車のドアが開けられるのを感じた。

 アンディが涙を流すセシルの頭を一度撫でた。

「辛いだろう。そういった一般的な言葉しか投げかけられないわたしを、恨んでくれても構わない。君にあった時、君を亡き者にしようとしていたが、そのことすら君は受け入れた。その上で、生きるすべを知りたいと言い、わたしたちについてきた。たった一月の間ではあったが刺激的な時間を過ごせた事をうれしく思う。わたしのコネクションはできるだけ伝えたつもりだ。生きるために必要な術も教えたつもりだ。《クズ》なりの生き方だから、君に合うかどうか……。だがこういう言い方が正しいかは分からない。君を置いていくことで、君は《処刑台》に進む事なく、日常に戻れる可能性もある。考えてもみろ、こんな《クズ》な世界より一番良い世界じゃないか。君ならば幸せになれる可能性をまだ、十分に、持っている。わたしの様に《日常》を《絶望》するにはまだ早い、と思う。いや、君の方が嫌な事をたくさん経験していたのだろうが。わたしは君が君らしく生きる事を願う。それがこちら側に来ることになっても、あちら側にいたとしてもだ。苦しいだろう。辛いだろう。悲しいだろう。切ないだろう。寂しいだろう。でも、わたしは君の《親》足りえる資格はないよ。その上で、君は生き残るために、どうする?」

 セシルは言葉の途中からアンディの顔を見上げていた。涙で歪んだ輪郭がぼやけてしまって、とても苦く思えた。

「アンディは一人で行くの?」

 セシルはつぶやいた。連れて行ってほしいと思っていたが、自分の気持ちは届かないことも分かっていた。

「あぁ」

 アンディは頷いた。力強い答えだ。確固たる意志は、覆らないことをセシルは悟った。

「達者でな」

 アンディは二度、セシルの肩を叩いた。彼なりの気遣いはそれで終わりだった。車から降りると、アンディは小屋へと向かっていった。すぐにバイクの甲高いエンジン音が聞こえた。

 セシルは車から這いずるようにのろのろと降りた。空を見上げれば星が煌めていいる。町の明かりもない荒野の中では良く見る事ができた。

 いつの間にか、流れていた涙は消えた。ずっと星を見ていてもいい。そうも思った。

 遠くで警察車両の音が響いていた。



 マイケルの前に一人の女性がやってきたのは、マイケルのもとに頭痛の種となる問題が発生した時だった。これ以上の頭痛を増やさないことを条件に、唐突に表れた女性に会う事になった。彼女の名前を部下から聞いたが、雑多な名前のすべてを記憶するほど、暇ではなかったから、すっ、と頭の中から消え去って、顔を合わせるまで誰だったか、という事を気にすることもなかった。アイボリーの美しい光沢のある髪に輝きのあるスカイブルーの瞳。美しい顔立ちはどこか影を持っていた。冷え切った様に細められた目は、相手を値踏みする様に視線をじっとりと這わせていた。引き締まった体は、上下濃紺のスーツで包まれ、どこかの秘書といっても通じる程。理性的に感じると共に、彼女の持つ独特な影によって危うい色香を醸していた。胸元が少し緩く開かれ、女性特有の丸みを強調する。数多の女性を侍らしたマイケルであっても、心音が一段跳ね上がるのを押さえられなかった。女性は口元に微笑みを浮かべマイケルに握手を求めた。

 「お久しぶりです、マイケルさん」

 その親し気な声に最初は、聞き覚えはなく、かつ名前も忘れていたのだから、マイケルは面食らった。どこであっただろうか、さすがに出会っていれば覚えているだろう美貌に、珍しくドギマギしていると、ふふ、と笑みを浮かべて女性は口元に手を当てた。

「名前をお忘れですか? 昔アンディと共にほんの、ほんの少しの間だけ《仕事》をしていたセシルです」

 その名に、マイケルは手を打った。

「そうか、君か。元気にしていただろうか? あれから一体何年たつのだろう。うちの手下の所為で警察に追われる羽目になったとはアンディから聞いていたよ。その上で君のことを気にかけていたっけ。何かあれば、手を貸してやってほしいと。だが、それから君の姿は影形なかったから、きっと――警察にとおもっていたのだがね」

「それは残念なお知らせでした。この方、わっぱと鉄格子にはお目にかかっていないもので」

 おどけた様にセシルは肩をすくめた。

「今ではメンフィスの件もあって、結構名前も売れましたね」

 あぁ、とマイケルは頷いた。

「私の情報網にも時折、《メンフィスの影》の出来事については聞き及んでいたよ。テネシーではよく騒ぎを起こしていたようじゃないか。君が――その《メンフィスの影》なのかい?」

「そう、呼ばれてはおりますね。尤もあたしがつけた物ではなく、ニュースペーパーがこぞって煽ったというのが主でしょうが」

 そうかい、とマイケルはセシルに握手をすると、応接室の席を勧めた。彼女は礼を言うと、音を立てずに綺麗に椅子に座った。

「《メンフィスの影》とは良くいった物だと思う。街の者たちは戦々恐々で、街中で衝突を誘発したらしいじゃないか。住民同士の争いは相当加熱していたね。あれは、ルーク一家のシマだろう? そこに居た面倒な検事を《処理》したことは伝わっている。四度の無差別殺人に、街の人々の扇動。権力者への強請ときたものだ。市長も怪しげな資金の動きによりリコールされる程だし。一体それを《誰》がやったのか、と噂になっていたのは久しい。二年前の出来事か。――アンディと君が分かれてからたった数年ぽっちでそんな大きな《仕事》をやり遂げた事を、ルークはほくそ笑んでいたよ『頭のネジが緩んでる有能な奴がいる』とね」

「それはよかったです。あたしも少しくらいは有名になったという事で、気を引き締めないといけなくなったというのを再認識いたします」

「謙虚な事だ。それでこそいい仕事ができるというものさ。――それで、今日はどういった事でおいでかな。お嬢さん」

 セシルは少し頬を膨らませて、

「マイケルさんに比べれば年下ですが、もう子供ではないんですよ。――それは良いとして……。二つ――ありますわ。一つは、」

 セシルは、腕に着けていたブレスレットを机の上にコトリと置いた。

「一つ目はご挨拶を兼ねて、この腕輪と、アンディの《蒐集品》とを交換できないかという御相談です」

 机にあるのはブレスレッド。細い台座に白いウサギが三匹腰掛けている。マイケルはそれを見た時、一つのことを思い出した。

 《歯》だ。白いエナメルを研ぎあげた上に、加工したのだと思い出す。かつての物とはくらべものにならない精巧な作り。それと、アンディのあの悪趣味なものと交換したいというのか。

「ふむ。それは、どうだろうか。できるとも……、できないとも。物々交換するというのには、あれは一点ものだしなぁ。たしかに君の物も見事だとは思うが。……どうしてそのような気に?」

 セシルは微笑みを浮かべ、

「あれが、《父》との形見だと思えるからです。あたしの過ごしたあの短い間を忘れる事はできません。しかしあの出来事以降、アンディは闇に消え、探す手立てもありません。《父》も一つのミスもしないでしょう。今後も表に上がる事は一切ないと思います。《情報》の断片すら零れ落ちない。完璧な姿のくらまし方だとおもいます。ロバートが……派手にしてくれたおかげというのもあるのでしょうね。レイチェルもあたしも嫌疑がかけられる事すらありませんでした。その代わりロバートとも、二度と会えないですが……。彼の《蒐集品》もいくつか手に入れる事ができました。ミネソタには一部残っていたというのが、せめてもの救いでした。レイチェルの本も手に入れた。本人の直筆サインまで入っていますが。とすれば、あとはアンディだけ。どうでしょう。タダでとはいいません。何なら必要な代金を《仕事》で払ってもいいと思っています」

「というと?」

「二つ目の申し出です。頭痛の種があるのでしょう? それの《処理》をあたしに依頼はしていただけないでしょうか。損はさせません」

 マイケルは深く息を吸い込むとゆっくりと息を吐いた。シガレットケースから葉巻を取り出すと、カッターで切って火をつけた。一つ口に含むと芳醇なキューバ産の葉巻の味を堪能する。「頭痛の種というのは、君にも良く関係のある物になるが……それを自ら《処理》を申し出るのは、よく意味の分かっての事だろうか? 回りくどいのは置いて、単刀直入に言おう。レイチェルの書いた暴露本は私においても結構な痛手になっている。フィクションとして売り出してはいるが、その実はノンフィクションだ。あれほど詳細に書かれると、私も商売がしづらくなっている。それを乱用されないように《処理》してほしいのだが、君のかつての仲間を手にかけることになる。それをそう簡単にできるのだろうか?」

 セシルは冷たい瞳で頷いた。

「えぇ。つつがなく」

「いいだろう、その報酬という事で、君の望むものを与えよう」

 マイケルは部下に声をかけると、アンディの《蒐集品》を収めたジェラルミンのケースをとってこさせた。

 それで、とマイケルはアンディの《蒐集品》を見るセシルに問いかけた。

「どれを手に入れたいんだい? 彼から譲り受けた全てを渡すわけにはいかない。これは私のコレクションでもあるのだから」

 セシルは、ジェラルミンのケースの中に並ぶ色とりどりの《蒐集品》の中から一つを決めていた様に選びだした。

 麒麟の掘られた工芸品。曇り一つなく用立てられたそれは、かつて二人が訪れた時に、アンディが譲り渡したものだ。神経が黒く変色している。まるで黒い涙滴だと思えた。

「これをお願いいたします。――これが、求めていたものなのですから」

「たしかそれは、アレブの者だったな。……あぁ、君の初仕事の物でもある訳か。なるほど、なるほど。それであれば、納得だ。――いいだろう。それに対してこっちは未練もない」

 セシルはマイケルの言葉に微笑みを浮かべた。

「マイケルさん。一つだけ、わがままを言ってもよろしいですか?」

 セシルはいたずらっぽく三日月の様な笑みを浮かべた。

 疑問符の浮くマイケルにセシルは告げる。

「《獲物》はすでにあたしの車のトランクの中に。よければ場所を提供いただけますか? あの時の様に、庭で結構なのですが」

 「あぁ、その程度なら喜んで提供しよう」

 その言葉にセシルはゆっくり立ち上がる。

 マイケルも葉巻を咥えたまま、立ち上がった。

 セシルの冷たい瞳は何を捉えているのか。マイケルに促されるまま、外へと進んでいった。

 外は秋晴れの気持ちのいい日だ。セシルにとってもこんな日に《父》の形見が手に入る。そのことだけでウキウキとした気分になっていた。

 一陣の風が扉を開けると入り込む。少し寒を感じさせる風だが、セシルには生ぬるく感じた。

 世間の冷たさよりも、この数年過ごした日々よりも、どこか《父》を感じられ温もりが溢れていたのかもしれない。

 目をいったん閉じた。

 あぁ、とつぶやいた。

「おかえり、《お父さん》」

稚拙な文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 登場人物たちの関係性がよく描写されてて、場面の臨場感もよかったです。
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