第一話 天才が考えたウイルス
ドグラマグラ太郎先生が味噌汁を飲みながら食べながら僕に語りはじめた。
◇
小説の話にかぎらない。
読書というものは時間が豊かな人のものと不自由な人のものとでは違いがある。
違いはどれくらいあるか。
天と地だ。
豊かな人と不自由な人の間には常に天と地ほどの相違がある。
しかし時間が豊かであればどうなるか。
映画よかれアニメよかれ漫画よかれ小説よかれとなるとどうなるか。
どんな娯楽でも手に入れることに不自由のない人が贅沢な娯楽に飽きた。
簡単な娯楽で少しのカタルシスが得たいという場合がある。
これはお医者さまの言う脳内麻薬が充ち満ちた時だ。
かような時に中編で少し軽いカタルシスを得たいということになる。
だが。
軽い中編とは何だろうか。
50話を超えるわけにもいかないだろう。
暇つぶしをしたいという意味では10話を超えるのも厳しいのではないか。
しかしランキングを見ると大抵が100話越えだ。
そんなに時間はない。
あるいはいっそ自分で書いてみようかという方法も考えられる。
そういう手は時間がより豊かでなければならない。
ゆえに時間の貧富の差でさまざまの答えが出てくると言えよう。
テレビやラジオなどに出てくる妄想研究家と称する人々の発表する小話がある。
活字であると言うよりも会話であることを根本精神にしたものだ。
だから読書中毒者の参考にはなるまい。
そこで俺の語ろうとしているのはだ。
◇
(反感を持たれるかも知れないが)俺の書いた中編の話である。
通の通たる人のよろこぶ話だと思っている。
現今の青年子女は「ドグラマグラ太郎なんてそんなもの」と言うであろう。
そこでもうひとつドグラマグラ太郎は続き物ではないことを考えてもらいたい。
暇に合わせて読める読み切りであることも考えてもらいたい。
俺は自分視点では傑作を書いたと思っている。
コミカライズ不可避だと思っている。
正直天才だと思っている。
正直妄想だけなく俺は顔も外見も格好良いと思っている。
100人いたら3人は俺の事が大好きだと思う。
50人くらいは俺の事に無関心だと思う。
20人くらいは俺の事が嫌いだと思う。
俺以上はいる。
映画や漫画やテレビでよく見かける。
でも肉眼で見ることは稀だ。
よく整えている人はいる。
そういう人は尊敬する。
想定する読者層は男だ。
少年ジャンプに好きな漫画がある男が俺のターゲットだ。
だから女は読まない方が良い。
従って読者の家族全部が感心するような小説はない。
年齢を問わず性別を問わず好きにさせる気がない。
だから満足がいくまいと思う。
俺は俺視点では天才だが半数以上の読者は賛成できないであろう。
俺は説明できる。
俺は何故この単語をこの素材をこの文体を選んだのか全部説明できる。
何故面白いか説明できる。
しかし100行の弾丸の中で1発当たるか当たらないかだとは思う。
俺の美味い中編は俺視点がなければ美味いと分るものではない。
それが読者視点でも分るようになるための適当な工夫はしている。
古典を基礎にしているのもそのためだ。
古典も俺の他の作品も読まれたがっている。
作品から声が聞こえるんだ。
しかしだからと言って古典を全てドグラマグラ太郎化できない。
芥川でさえ宮沢でさえ夢野でさえ傑作は僅かだ。
ぶっちゃけほとんどつまらない。
響かない。
ドグラマグラ太郎化したくなるのはしやすいのはさらに絞られる。
だから声を取捨選択する日々だ。
漫画を読むのに忙しいんだ。
漫画の合間に暇を見つけて小説を書いているんだ。
エロい漫画を描ける人にコミカライズされる希望を持っているんだ。
誰かニコニコ静画かジャンプルーキーに投稿して欲しいと思っているんだ。
しかしだからと言ってもだ。
自分で3回読んでも面白い作品が出来てもだ。
俺の小説の美味さが誰にも分る気がしない。
自分が読者であることに満足するしか続ける道は無いのであろう。
体の状態によって時々の好みが変ってくる。
ディストピア物が今日美味かったからと言ってもだ。
明日も明後日もつづけたらどうであろうか。
要は正直に自分の体と相談してなにを要求しているかを知るべきである。
娯楽を食いたいと要求する肉体が好きな娯楽を食えたらこんな幸せはあるまい。
この理論は娯楽にかぎらずどんな場合にも成立する。
よくよく考えてみればこれが人の娯楽に対する要求の正体だ。
結局肉体がその娯楽を要求しているので起こると言える。
もしそうでなければ娯楽の話はできない。
幸福は得られないということになってしまう。
幸福は得られるのだ。
不安は捨てれるのだ。
安心は得られるのだ。
とてもとても簡単な方法がある。