action39
そこには、眩しすぎる太陽の下で真っ黒に日焼けしたハルと笑顔あるれる子供達が写っていた。写真の下の方に○○年△月☓☓日、ミャンマーにてと、記されていた。再度、送り状を確かめた。間違いなくミャンマーから発送されているようだった。全く神出鬼没にもほどがあるが、その写真から漂う現地での充実感と誇らし気なハルの顔を見ていると、もう怒る気さえ失せていた。「本当に…もう…、はあっ…。」とだだっ子の母親にでもなった様な気分?!自分でもわからない心境の変化があった。なぜだろう?時の流れがそうさせたのか、ハル自身、そしてミホも変わったからなのかも知れないが、もうその写真だけで充分だった。『海外医療援助隊』、ハルの決意が伝わってきた。「100点満点とまではいかないけど、95点はあげるよ。宿題のレポートもちゃんと書いているようだし5点足りないのは、私に黙って行っちゃったとこだよね…。」さて、どちらから見させてもらおうか…。DVDか宿題か?写真の中のハルに問いかけた。
そうだよね。せっかく頑張って提出したのだから宿題からにしよう。と、表紙をめくった。まず1ページ目には、ミホがあの日書き渡した質問状の答えの概要があった。8個の問に一問一答で書かれてある形式だ。わざわざ一枚に一つずつのミホの質問を文頭に写し、改行して答えがあった。それぞれの箇条書きの答の後には全てに「以下余白」とありそのほとんどが空白状態で答えに対する注釈はひとつもなかった。全部で10枚だ。表紙、質問状、答えの8枚からなる。そして何よりミホを驚かせたのは、それらの短い単語で済まされせてしまった解答であった。まず一問目から…。しかし、今になって自分で読み返すと、これ程までに直球で無作法で、相手を傷つけるような質問がヌケヌケと書けたものだと自分の軽率さを恥じた。…のだが、まだうわ手が居た。そんなミホの質問状に輪をかけたハルの答えには流石と言わざるを得ないほど凄まじいものがあった。
それらは、以下の内容であった。
一、何故、難攻不落と呼ばれているここ(移植データ管理室)にいとも簡単に入る事が出来た
のか?
答え、 自分は移植チームのメンバーだったか
ら 以下余白(赤字)
一、あの時の涙の訳
答え、 ユキの余命を告げられたから 以下余
(赤字)
一、小山医院への受診、不可解なカルテの記録
そして、紹介状の内容
答え、 ミホさんへの移植の合致確率を調べて
もらう為の来院と(参、紹介状)その
進捗状態をチェックする為 以下余白
(赤字)
一、母へのお墓参りの訳
答え、 ユキの代わり 以下余白(赤字)
一、ユキさんとの関係
答え、 ユキとは腹違いの姉妹 以下余白(赤
字)
一、金銭の授受はあったのか
答え、 ない 以下余白(赤字)
一、小山医院の院長がこの件に関して自分の口
から全てを語らなかった理由(後の事は上
田さんに聞いてくださいと言った)
答え、 私にはわからない 以下余白(赤字)
一、最後に、ハル、あなたは誰?
答え、 私は……あなた 以下余白(赤字)
以上。(赤字)
なんなんだこれは‼謎掛け問答をしているんじゃない。こんな、肝心な事を全てひとことで片付けられるとでも思っているのだろうか‼
『わからない』だと!『あ、な、た』だと!ふざけるなよ‼ミホはそれらを、わしづかみにすると、小山医院へ乗り込んだ。玄関のインターホンも鳴らさずにずかずかと「院長。院長!小山先生‼」と強引に自宅の方へ上がって行った。怪訝そうにミホの顔色をうかがう院長に「一緒に見て欲しい物があるんです‼」相手の都合や主語、述語もなければ敬語すらない真っ直ぐな一本の矢のような言葉だった。尋常じゃない事はいくら温厚な院長にもさすがに断るに値しないと承諾した。いつもなら、軽くお昼寝をする時間なのだが一瞬で目がさめてしまった。さてと、ミホから渡されたレポートにひと通り目を通した院長は、未だ興奮冷めやらぬ目の前の迷い子に『全く上田さんは相変わらずですね。これだけでは、かのシャーロック・ホームズでも頭を抱えるでしょう。書かれている内容としては決してウソ、偽りはないんですけどね。』とわざと、場の空気をかえようとしていた。そして、ふと小包の中のDVDらしき物を見つけた院長は『ミホさん、これは何ですか?』とこれまた彼女に鎮静剤を投入した。
「えっ?…ああこれは同封されていたもので…私もまだ見てはいないんですが…。」特効薬が少しはきいてきた様でうつむき加減でミホがボソッと言った。『先程私が「これらについて、ウソ偽りはない。」と言ったのは事実ですが、私とて全てを知っている訳ではありません。どうでしょう、一緒にこのDVDを見ませんか?』泣くだけ泣いて少しは気が済んた子供のようにミホは黙ってうなずいた。場所をリビングに移しモニターとDVDプレーヤーのスイッチを入れた。ディスク盤はスーっとレコーダーに吸い込まれていきまたたく間に二人をミャンマーへと運んだ。国土は南北に長く一年のほとんどが高温多湿である。有名な観光地周辺は生活するには便利に整備されてはいるが、いざ少し郊外から山岳地帯に向うと、ライフラインは不十分で、人々は素足で生活し、どこからか送られてきた物資と思われる服を雑多な色合いでまとっている。子供も大人と同じように労働し、その合間に学校に行く。それでも生活は決して豊かであるとは言えない。それ故病気になってもなかなか医療機関にかかることは難しい。そして何より村には病院と呼べるものがないのだ。




