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気分が変われば鼻歌まで飛び出した。童謡の「虫の声」?まだ夏にもなっていないのに自分でもよくわからなかった。さて、まずは、と「ア」の最初の箱を開いた。ア…「秋月ヒロエ。…あぁ角のタバコ屋のおばあちゃんだ。ふーん。あのおばあちゃん心臓があまり良くないんだ…。」もちろんミホは医者ではないのでドイツ語など全くできない。なのでカルテ内容などはほぼ解らないが、時折出てくる日本語と処方薬で少しは理解できるところもあった。プライバシーの侵害なのは自覚しているが、つい知った人の名前があるとしげしげと見てしまう。親近感を覚えたが他言無用!!と肝に命じて次にすすんだ。小山医院をホームドクターとして、かかりつけ医にしている人達がどれだけ院長を頼りにしているかがカルテの厚さとその風化具合からも伝わってくる。志し半ばにして亡くなった人のカルテはファイルという形で特に丁寧に背表紙をつけて別に保管してあった。先生らしいなぁと思いながら次々と作業を続けた。「ア」の箱を片付けるのに一時間以上も費やしてしまった。ふっと軽いため息をステップに次は「イ」の箱に手を付けた。
この中に自分のカルテもあるのだろうか…。早る心を押さえて、一つずつ慎重に手入れをしていった。そして少し進んだ所で手を止めた。あった!『飯島美保』私のカルテだ。いくら事務的作業とは言えどいざ自分のとなると複雑な心境になってしまう。しかしそれが普通の人のリアクションではないだろうか?こんな状況下で淡々と事務的にそれをこなすことができるのは人間を超える仙人かコンピューターだけではないだろうかと思う。美保は幸運にも沢山の人の助けを受けて今こうして難病を克服し普通の人と同じように生活できるまでになっている。頭と心にきちんと言い聞かせて自分のカルテに向き合った。初診は…っと、今から遡ること21年前、1歳の時だった。まさかこんな昔の記録まで残っていようとは思いもしなかった。風邪で受信していた。この頃はまだ母も健在でひとり娘の私の育児に奮闘していた様子が伺える。熱がなかなか下がらないとか鼻水で呼吸がしんどそうだとか何かにつけ電話で先生に助けを求めている。
ただの風邪なのに…「フッ…」っと在りし日の母の親バカぶりが目に浮かんで微笑したが、そんな母の顔には霧がかかっていた。ともあれ、そんな親バカぶりが今の父に脈々と受け継がれている。(笑)そして今の自分だからこそ素直に感謝の心に変換できるのだと思った。母さん…ありがとう。年を辿ってカルテを追っているとまるで私の成長記録のようだった。母を亡くした時は心理カウンセリングも受けていたと記してあった。自分ではよく覚えていないが相当なショックだったようだ。無理もない。鬱状態になり3ヶ月ほど学校にも行けてなかったらしい。そういう大変なことがあったなんてこれっぽっちも記憶にない。思い出そうとしても思い出せないし、父も一言も教えてくれなかった。しかし、今こうして何事もなかったように生活出来ているということは小山先生の心理治療がどれほど敏腕だったのだろうとつくづく思う。私の心に今、闇はない。そして、私の人生を狂わせた4年前のあの日の受信記録があった。平成☓☓年○月△△日、病院にはしばらくいっていなかったので随分日にちがとんでいた。
カルテに再び目を落とす。『初診、数々の不調を訴え来院、外科的に顕著な所見はなく、血液検査の結果から推測するに、内科的に〼✽〼の疑い有り。Y総合病院への紹介状を書き精密検査を勧めた。』というような内容が書かれていた。でも何故、私のカルテだけほとんどが日本語なんだろう…と少し不思議だった。ともあれ、医者とは想像以上に大変な仕事だなとつくづく思う。目の前のこれからの人生が順風満帆に約束された若者に、まさにその道が途絶えるかも知れないという事実を自分だけの心に秘めたまま顔色ひとつ変えず、今すべき指針を患者に伝えなければいけないという矛盾をひとりで背負っている。常に孤独で現実の表と裏の間の1/2の顔を持った悲しい宿命のひとだ。そんな尊敬する白衣の戦士と仕事を共にするようになってから半年が過ぎようとしていた。月に一度の検査や川崎医師の診察も特にかわりなく乗り越えられてきた。それがこのミホのカルテに係る全ての人の優しさに支えられている事はいつも心の中に仕舞って忘れてはいけないと思った。




