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受け継がれるバトン  作者: 伊達サキ
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『こんにちは。今日、体調が良さそうですね。』いつもと変わらないメガネの奥の優しいまなざしと気分を落ち着かせてくれるゆっくりと低い声。この病院で、すずめくん以外唯一、心を開いて話が出来る人だ。いや、もはや今ミホの人生そのものがこの病院で刻まれているのだから、そういう点では主治医以外でも、人生の良き相談者である。病気が発覚し、選手生命を絶たれ、やり場のない怒りや不安、孤独、絶望をまるごと包んでくれたのが彼だった。『ミホさんよく頑張って辛い治療や手術を乗り越えてくれましたね。その結果が良い方に進んでいますよ。このまま行けば一時退院も近々可能かと考えられます。余り激しい運動はいけませんが、普通の生活に戻るのも夢ではありませんよ。』ミホの脈をとりながらもきちんとこちらの目を見て話してくれる。その言葉にはその場しのぎの気休めやうわべだけの慰めでないことが伝わってきた。自分ながら三年間もよく辛抱したと自信を誉めてやりたい気がした。これ以上何も失うものがないところまで転落した深い穴に、ひとつずつ石を積み上げては崩れ登っては転び落ちを繰り返し、それでも諦めず続けてきた、希望と言う名の小石の階段。そしてもうすぐやっと地上に手が届くところまで来ていたのだ。その光の出口に川崎先生の大きくて暖かい手が見えるような気がする。あぁ決して蜃気楼ではありませんように。

「ありがとうございます…。」と涙でほとんど言葉にはならなかったが川崎医師はそんなミホの頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。生えかけてきた髪の毛がニット帽の中で確かな回復を告げていた。早速すずめくんにの報告しなきゃ…。新しい巣の建築はすでに半分程にまで進んでいた。そろそろ繁殖期の春が来るのに間に合うのかなぁ?でも新しいお嫁さんの為じゃないって言ってたから一体誰が来るのだろうと思って外を眺めていると久しぶりにすずめくんから春の訪れを知らせる土筆の差し入れがあった。ありがとうネ。出口が見つからない漆黒の闇のなかでもがいていた私にいつも変わらない君の存在があったから…私が君にどれだけ助けられたのか、もう一度話が出来たらありったけの感謝を伝える事が出来るのに、もうすぐお別れになっちゃう。それだけが心残りだった。『小春日和』の言葉が似合う早春の暖かい日に

ミホは三年ぶりに外の世界に出る事を許され、

一時退院した。

迎えに来てくれた父の髪にだいぶ白いものが増えた様に思えた。苦しかったのは、私だけでは無かったのだなぁ。「ごめんね。そしてありがとう…。」ありふれた言葉だが魂を込めて聞こえないようにそっとつぶやいた。これからはその分まで親孝行しようと硬く心に誓った。荷物をまとめ退院の手続きをするために病院のロビーで待っていると、ふと以前から気になっていたある場所の方に足が向いていた。プレートも掲げていなくてまるで人の目を避けるようにひっそりと奥にあったあの部屋までゆっくり歩いていると曲がり角で突然人とぶつかった。『すみません、大丈夫ですか?…。』と倒れたミホを抱き抱えて立たせようとしたその人は、ハルだった。ミホは「あっ‼」っと咄嗟に顔を伏せた。直感的に見てはいけない物を見てしまったと思った。青白い顔には涙のあと…。まさに今あの部屋から飛び出してきたと容易に推測できた。そんなミホにハルは全く気付事はなく深々とおじきをしてから、おぼつかない足どりで病院の奥に消えていった。あのハルが私に気付かないなんて彼女に何が起きているのか、以前ふと聞いてしまった『あと半年くらいかな…。』と言っていた川崎医師の言葉が頭をよぎった。まさかね…。マイナスオーラに満ちた病院独特のいやな思考回路を修正した。そして「二度とここには戻って来ない。」と自分自身を奮い立たせた。



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