金木犀
「詩音」
大嫌いな人が私の名前を呼ぶ。ヘッドホンから音楽を流してそれを遮断する。
「おい、詩音」
それでも懲りずに私をよぶそいつは、これでもかと部屋のドアを叩いた。
「いま何時だと思ってるんだ。高校生がこんな時間まで外にいていいわけないだろう。」
うるさい。
耐えられなくなった私はドアを開けてそいつを一瞥する。
「なんとか言ったらどうだ。」
ガタイのいいそいつは私を見下ろしながら怒鳴る。
「うるっさいな!よく父親面できるね。全部あんたのせいなのに。」
「その口の利き方はなんだ。」
半年前、母が男を作って出て行った。母は娘から見ても美人で、優しくて、自慢で憧れだった。母の新しい男を一度だけ見たことがある。「澤田さん」というスーツの似合う、どうやら大手の企業の若いイケメンだった。
仕方ない、と思った。隣で無言で座っている父親は、よれたスーツをきているただの中年男性だった。比べものにならない、と感じ、それでも何も言わない自分の父親が情けなくて恥ずかしかった。そして自慢の母を引き止められない父親が憎らしかった。
「あんたがもっとちゃんとしてればお母さんは出て行かなかった。」
父は母の名前を出すたびに顔を歪ませる。その顔すら私を苛立たせる。
「いっそお母さんと澤田さんの子どもに産まれたかっ…」
パチン、と頬を叩かれる。
「なっっっ…にすんだよ!!!本当のことでしょ!!」
「話を逸らすな。俺はおまえがこんな時間まで外にいたことについて怒っているんだ。お母さんも澤田さんも関係ないだろう。」
うるさい。
こんな空間にいたくない。せっかく楽しかった気分も毎回毎回壊される。
半ばやけくそだった。ただこの家から逃げるために私はベランダから飛び降りた。
ふわりと、金木犀の香りがした。そらから先は記憶がない。