第四章 示される勇気
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第四章 示される勇気
1
「密室って何?」
小さい頃、自分はお母さんに訊いた。母の部屋には、密室殺人を取り扱った小説しかなかった。お母さんは密室殺人について説明する。閉じ込められているというのが、今の自分とどこか似たところを感じたのかもしれない。
いつからからだろう――いつの間にか、自分の中で人が死ぬ時というのは、閉じ込められて孤独になった瞬間だと信じ込んでしまっていた。自分もいつか、このままどこにもいけないままで死んでいくんだと、受け入れてしまっていたのかもしれない。大きくなってその捉え方が間違っていた事に気づくけど、その時にはもう、何もかもが遅かった。生まれてからずっと信じきっていた一種の概念のようなものを、簡単に覆すことはできなかった。あるいは、誰かが死ぬときには、自分と同じような目にあってほしいという願望があったのかもしれない。何かの小説には、密室殺人こそ孤独そのものの象徴だと書いてあった。
人が死ぬときは、閉じ込められた時。孤独に溺れた時。
自分はその考えを、まだ否定できないままでいた。
それが異常なことには、かろうじて気づけていたが。
柔軟剤の匂いに誘われて目を覚ます。体が温かかった。気温のせいじゃない、布団が体の上に置かれていたからだ。
最後の記憶はどうにも曖昧で、未空は急激に瞼が重くなったあの瞬間を思い出す。限界稼働時間がやって来て、強制的に体が意識を寝かしつけたみたいだった。
隣で宇未が眠っていた。
(……そっか)
先に寝てしまった自分に、彼女は布団をかけてくれたのだろう。その彼女はうつ伏せの姿勢で畳の上で寝てしまっていた。彼女も寝落ちしたのだろう――布団がかかっていない。宇未の寝顔を見ると、頬に畳のあとがついてしまっていた。
未空は敷布団を敷いて、なんとか宇未をその上に置いて、掛け布団を体に乗せる。女の子なんだから、もっと体を大切にしてほしい。そんなことを思うのは、彼女にだけだろう。
しばらくずっと、宇未の寝顔を見つめていた。彼女は目を瞑っていると幼く見える。頭を撫でると、寝息が深く安定したものになっていった。彼女も頭を撫でられるのが好きなのかもしれない。
未空は視線を上に向ける。
窓を見て気づいてしまう。
朝が来てしまった。
恐れていた未来が現実となってこの身に干渉をはじめる。恐怖が体の中で激しく渦巻いていて、やがてそれがエンジンみたいな動力源となって、体を激しく動かした。
走る。
扉を開いて、階段は走らず、ほとんど飛び降りるに近いニュアンス。とにかく急いでエントランスに向かった。
「未空」
ットムが言う。そして秤、四郎、創が揃っていた。
「星七田旺次郎が――」
言われるより早く、未空はその開いた扉の中へ駆けていく。責任ぐらい、自分で確かめるつもりだった。
はっきりと首の皮のつながっているこの死体は、星七田旺次郎のものだと確信させた。
「密室だった」ツトムが後ろから声をかける。「俺と真実創が第一発見者だった。ベランダに回って窓を割って――扉の鍵を開けた」
死体の喉元には、鋭く深く切り裂かれた跡があった。首を斬ろうしていたとは到底思えない。その意図を感じさせない。それ以外に傷は無いが、喉の傷は、死ぬには十分な深さまで侵入してしまっていた。未空にその類の知識はないけれど、これだけの傷が埋め込まれて尚、呼吸ができるとは到底思えない。
体が熱かった。内側から徐々に湯気が出ていくような体験をした。だから今の自分がどういう状況のいるのか、はっきりと知っていた。
未空は壁を殴った。『どん』と、鈍い音が響く。
後ろにいる人たちを見る。未空は更に客観的に自分を見ていた。どこかにいるもう一人の自分が『あーあ』と呆れているのが判る。怒りだ――けど頭は冷静なまま。
「なんでこんなことした」未空が言った。犯人に言ったのだろうが、現時点では誰に言っているのか曖昧だ。
宇未がやってきた。彼女が心配そうにこちらを見てくる。抑えるべきかと、選択が迫ってくる。ここで彼女を心配させないことを優先できた。我ながら懸命な選択をした――未空はそう確信した。
冷静な筈だった。なのに今にも怒鳴りそうで堪らなかった。怒りとは本来、こういものなのかもしれない。頭の中は冷静なのに、それでも体が制御できていない状態。
何故自分が怒ってるのか、未空には判らなかった。今度こそ叫びそうになったので、未空は急いで部屋から出て行った。そのまま屋敷から出て行こうと考えたところ、腕を掴まれた。掴んできたのはツトムだ。
「離してください」
「判ってる筈だぜ未成年。あんたが本当に苛ついてるのは自分自身にだろ」ツトムは容易く核心に触れた。「解決できなかったから、そうやって怒ってるんだ。棚に上げるなよ――そして自分だけだと思うなよ。この数日で、俺は殺器銘として、どれだけ自分の無能さと向き合う羽目になったって思ってるんだ」ツトムの手に込められた力は強い。手錠みたいな絶対的な力で、とてもほどけそうになかった。「惨めだよ。そうだ、俺は後悔すらしてるね。何も考えずに探偵役に回って正義ぶって、小説の中の探偵の真似事をしてみた。正直に言おう――最初ね、俺は主人公になれるんじゃないかって思ってたんだよ。小説の中じゃなくて、現実でね。憧れちゃってたんだ」ツトムが未空の胸倉をつかむ。「――そしてその結果がこれだ!」エントランス中にツトムの声が盛大に轟いた。「俺たちは無能だよ! あぁ、そうさ、何もできなかった無能だったんだよ! あんたも悔しかったんだろ、だから怒ってる。けど違うんだよ。俺たちは皆に怒る資格なんてない――逆だ――俺たちは皆に謝らなければならない。この事件を解決できなくてごめんさいって。ここまで死人を増やしてしまったのは、自分の無能のせいなんだって!」
ツトムが未空を突き飛ばした。未空は倒れたけれど、すぐに立ち上がる。宇未が駆けよって来たが、未空は手で制して、彼女の接近を止めた。
未空はツトムを見た。彼の顔は血よりも赤かった。彼は自分の惨めさと向き合っていて、酷い恥辱にまみれていた。
「逃げ出してる場合じゃないことくらい判ってるだろ。やるって言ってしまった以上、もう俺たちはやり遂げなくちゃいけない――それが死んだ人達への唯一の罪滅ぼしだ。これは自分の為でもある。この俺が――勇敢で有能な主人公たちを作ってきた親である殺器銘が、その息子達に負けることなんて、絶対に許されない! 今ここで全部投げ出してみろ――張り付いてしまった無能の名札は、一生胸に飾られ続けるんだぞ!」
未空は傷のできた唇をなめる。ここに来る前にはなかった傷の筈だけど、いつできたのかは判らない。痛みに鈍くなってしまったのかもしれない。「……言いたいことは、それで全部ですか」
ツトムは静かに近づいて、もう一度未空の胸倉をつかんだ。「……こっち見てもう一回言ってみろ」
「ツトムさん!」創が急いで間に割り込んできた。「違うでしょう。私達が今やるべきことは、こんなことじゃないでしょう!」
「少しだけ待ってくれ。こいつの答えだけ聞いて、それで終わりにする」
「今すぐやめてください。未空くんが殴られてからじゃあ、遅いんです」
「大丈夫です」未空はか細い声をようやく発した。創の目を見てもう一度同じことを言うと、創は数歩、後ろへ下がった。
「今度こそ置いて行かれる――」未空は下を見た。辺りは静かになった。「ここで逃げたら、今度こそ何も見えなくなる」
自身に言い聞かせて、まるで脅迫でもしているかのようだった。声は今までにないほど震えている。
「……何言ってるんだ、お前」ツトムは静かに未空に問う。
「『外宇宙への旅路』の主人公、アルサ・コスモナウトが言いました」未空はツトムの目を見た。「――『誰しも心の内側には容器がある。勇気を振り絞って選択をすることによって、その容器の中にある水は減っていく。我々は、その容器が空になるまでは、勇気を出して選択して、続けて行かなければならない』って」ツトムは目を大きく開いて、手を離す。「彼は僕の憧れだった。今はアニメにも映画にもなって形ができているけれど、昔はそうじゃなかった。小さい頃の僕にとっては、姿も形も形成されていない彼こそが、唯一の目標でした。彼が教えてくれた――自分は容器に入っている水を、まだ出し切っていないこと。小さい頃の僕がもう一度やり直そうと決心することができたのは……、彼に出会うことができたから。……何度挫折しても再び努力できたのは、物語が進むにつれて勇気と自信を無くしていく彼と、自分が同じだと重ねてしまったから。……図々しいことだとは、判っていました。それでも、彼への憧れは、現実にいる誰よりも大きいものになっていった」
「図々しいものか――」ツトムがゆっくりと言った。「それでいい。それでよかった。その為に、物語を書いてきたから。君だって知っているだろう。秤小枝だって、あの時、物語にあこがれることができたからこそ、研究所を抜け出すことを選べたんだ。……図々しいものか。そこまで踏み込んでくれる読者が欲しかったから、俺はあえて、未完成の作品を――最後の解釈を、読者に託して、問いかけたんだ」
未空はじっくりとツトムの言葉を噛みしめてから頷いて、彼の瞳の中を覗いた。
「……逃げるつもりなんて無かった。最初からあなたにあんなこと言われなくても、やらなきゃいけないことくらい、知っていた。あなたの言葉より先に、あなたの本が教えてくれてたから」
「こういう状況で怒るのは筋違いだとは、本でも教えてあげられなかったけどね」ジョークを言っているのか、未空には判別できなかった。普通、こういう状況で、ジョークは言わないだろう。
「正直に言うと、惰性に変わっているかもしれない。逃げないって口で言っているだけで、頑張ろうとか、皆の為とか――そういう切実なものは、一切無いと思っています」未空が独り言みたいに言った。
「虚勢ってことか」
「そうですね。歩くたびに、空気の摩擦で体を削り取られていくみたいです。歩けば歩くほど、臆病になっていくのが判ります。今にも体が崩れ落ちそうです」
「その表現は、俺の本にもあった」
未空はこの一瞬で、それを思い出した。「てっきり自分の言葉だと思ってました」
「言葉なんざ借りたきゃ借りればいい。そんくらいも許容できないほど心の狭い人間じゃない」
未空は久しぶりに言葉を探す作業に取りかかった。「……どうすればいいのか判らなかった。自分に自信がないから、自分に何も求めなかったのかもしれない。あるいは母の言葉に従っていたから――だから自分は、他人の言葉を借りてきたのかもしれない。他人の事ばかり考えてきたから」
未空はまるで操り主から捨てられたパペット人形みたいだった。さっきから敬語をところどころで忘れているのにも、気づいていない。
「ここから先は、君一人だけで考えるんだ」ツトムの声が降り注ぐ。「自分の知ってきた材料だけで考えるんだよ。張り付いた無能の名札を取るかどうかも、自分の右手と相談しな」
「ツトムさん――」
「今回の犯行で、一つ判ったことがある」ツトムは最後にと言わんばかりに説明する。「――旺次郎が死んだ時、鍵は部屋にあった。玄関から見て、部屋の右下の位置だ。これは小枝ちゃんの時と一致している。そしてこの共通点によって密室のトリックが、一つ解決できる」全員が驚愕の声を発して、視線がツトムの方へと集中する。「そもそもおかしいと思うべきだった。なんで、床に鍵が置いてあるのか。普通は机の上とかだろう。あまりにも簡単だったのに――。鍵は最初からあそこにあったんじゃない。死体を皆が発見して、皆の視線がそこに集中している時に置かれたんだ。犯人もいつかばれることくらいは予想していただろうから、注意深く置いただろう。……この時点では、誰が鍵を部屋に置いたのかを特定することはできない。けどこの方法を用いれば、今までの問題点のいくつかをクリアできる。部屋にさえ入れれば、密室がつくれる」
「なら、お姉ちゃんの時のトリックは……?」創がツトムに近づく。「お姉ちゃんは寝ていました。確かに机は部屋の左下の位置にありました。けど……内側から開けることは、できません」
「説明できるのは、二つ」ツトムが人差し指と中指を立てる。「一つはマスターキー。ももう一つが、窓からの侵入だ。何度も言ってきたように、窓からの侵入には、やはり外から見られるっていう問題点が残るけどね」
未空は記憶を振り返る。鍵を奪うようなタイミングだって無かった筈だ。未空が一番それを良く知っている。自分が奏の部屋の鍵を開けて、それを机の上に置いた。そして創と一緒に部屋を出て、内側から奏が閉めた。そしてそのすぐ後に、奏は寝ている。
(窓――? マスターキー……?)
気が付けば、目の前に宇未がいて、彼女以外誰もいなくなっていた。
「……みぃくん」宇未が心配そうにこちらを見つめていた。
どこからか自分の声が聞こえる。
やるしかないと脅してくる。
心臓のあたりが重くて苦しい。
きっと、無能の名札が張り付いてしまっているせいだ。
右の手の平を見つめる。手相が『ラ』の字みたいなものを描いて見える。
心臓が今までにないほどに暴れ狂う。
無能の名札をはがしたくて仕方ないようだ。
心臓の方がよっぽど素直で正直だと、未空は思う。
2
宇未は未空と一緒に、星七田旺次郎の部屋に入った。未空は星七田旺次郎の死体の前で両膝をつく。するとジーンズが汚れた。寝落ちしてしまっていたので、宇未も彼も、昨日と同じ服装だ。しばらく未空が動かないのを心配して、宇未が彼の横まで歩く。それから未空と同じように両膝をついた。彼女のパンツも赤く染まる。宇未は死んだ旺次郎の手を握る。宇未は一度鼻をすすった。泣くのをこらえていた。
未空は旺次郎の顔を見ていた。目が開いたまま死んでいたので、未空はそっと瞼を閉じさせて、眠らせる。旺次郎の瞼に血がついてしまった。
「宇未姉」未空は旺次郎を見たまま言う。「手がかりを探そう。部屋に来たのは、そのためだから」
宇未は静かに頷く。また泣きそうになる。未空が宇未の顔を見て、頭を撫でてくれた。痛みを見られてしまったのだろう。こういう時にどうすればいいか、宇未は未だに判らないままだった。
「部屋には、どうやって入ったんだろう」宇未は気を紛らわすように話題を出した。「さっきツトムさん、部屋に入ることを前提として話をしていたけれど、そこが問題でもあるじゃない。……奏さんが死んでからは、皆、連続殺人を警戒していた。それなのに、小枝ちゃんや旺次郎さんが死んでいった。そう簡単に内側から部屋の鍵を開けるとは、到底考えられない」
「……確かに、そうだね。もっともだ」未空は同意した。「それにやっぱり僕は、奏さんの犯行が一番気になる」
「……うん」宇未は深呼吸をして自分のリズムを調節した。「みぃくんは、どう考えてる?」
「判らない」未空は正直に言った。「けどもう、感情論で語るのは終わりにするしかない」
「……どういうこと?」
「今までは、お世話になったからっていう理由で、秤さんは疑わなかった。でも今のところ一番怪しいのは、秤さんだ。それに、協力関係にあったツトムさんだってそうだ。あの人は憧れの殺器銘だった。……けど、もうそんなことで特別扱いできない。次に死ぬのは、僕かもしれない。……宇未姉かもしれない」
それは今までの未空にはできなかった行為だ。他の人から見れば些細な変化に見えるだろうが、宇未にとっては、天地の覆る一歩手前と呼べるくらいの大きな変化だった。
彼は十二年間、何も変わらないままだった。
十八歳の歩幅のままで歩いてきた六歳だったのだ。
それがこの数日で、徐々に変化してきている。この変化を前進と呼ぶか成長と呼ぶか、進化と呼ぶかは、宇未にもまだ判らない。ただ判るのは、彼が現時点でわずかでも変身を果たしているということだった。
今までの彼は、嫌なものからは目を背けて、見ないことにしてきた。自分の見たいものだけを見続けてきた。母の骨を見なかったあの瞬間から、未空の成長は止まっていたのだ。
成長と呼んでいいのかは判らない。ただ、その変化の末に、彼の本質が変わってしまわないかだけが、心配だった。
しばらく部屋を調査している間に、四郎が入ってきた。廊下の方は暗かったが、四本の腕が見えたので、彼だとすくに判断がついた。四郎はおどおどしながら、こちらまでやってきた。
「……えっと」四郎は右手をあげる。右上の手だ。「どうよ、調子は」
「なんとも」未空はそっけなく返した。「死体にはやはり傷はないです。首の傷、以外は」
「手っ取り早く殺されたって、ことか?」
「手際は良かったんじゃないんですかね……。これは断言できませんが」
「寝ている間ってこと?」
「というわけでもなさそうです」未空は体制を整える。説明を始める合図みたいなものだ。「見ての通り、旺次郎さんは布団で寝ていません。こうして、仰向けで畳に倒れています。寝落ちしたとも考えられますけど、自然に考えるなら、やはり起きている時に殺されたってことになりますね。もしも寝ていたのなら、内側から鍵を開けてもらうこともできませんから」
「やっぱ、部屋のロックは内側から開けたって考えてるのか?」
「僕はそう考えてるんですけど……」未空は宇未を見る。「宇未姉もさっき言っていたんですけど、やっぱり開けるものかなって……。殺人事件が起きた後だっていうのに、そう簡単に……、しかも深夜の時間帯にです」
「そう。俺も昨日、ツトムにも同じ指摘をされたよ」四郎は部屋の中心まで移動する。その足元には、旺次郎の死体。「……だったらどうやって入った? マスターキーって言うなら、あれはツトムが捨てちまったぜ?」
「それでも一番怪しいのは、秤さんですね。動機を考える必要がない以上、そうなるかと」
「うぅん……どうかね」四郎は肩を竦める。
「――でも、小枝ちゃんを殺すの? あの人が?」と、宇未。
「だから、動機を考える必要は無いんだよ、宇未姉」二人が驚いているのが、未空にも判る。感情論を一切混ぜなくなったせいだろう。未空はここまできて、ようやくツトムの言った『逃げるな』の意味が判った気がした。「……けど、どうにもまだ、確証が得られない。多分、そういった決定的な証拠は、全部犯人が処分してる。夏焼集落ほどのフィールドがあれば、物の処理には困ることはないから」
「……あーつまり、動かぬ証拠とやらは、もう無いってことか?」
「そうですね、全部処分されてるでしょう。……だから、現状で残っている状況と証拠だけで整理していくしかない。……秤さんが別のマスターキーを持っているのだとしても、それを発見できなければ、彼を犯人だと糾弾することはできない」
四郎は首をひねった。上の両腕を後頭部の後ろにもっていき、下の両腕を胸の前で組んだ。「けどさ、材料が状況と、ちゃっちぃ証拠だけで……、それで最終的に、犯人は白状してくれるのかね?」
「論理的に導ければ可能かもしれませんが、大きな自信は無いです。……だから僕は、せめて極限まで情報を集めて、それから犯人に言い渡すつもりです。何はともあれ、現状、仮に秤さんが犯人だったとしても、彼を追及したところで何の意味も成さないのは、明白でしょう」
「確かにそうだ。違いない」四郎は素直に認めた。「……今のお前は、どこまで見えてる?」
未空は頭の中を簡単に整理した。「どこまで見えてるかは、判りません。それでも言わせてもらうなら、やはり第一の犯行から、第三の犯行まで、全部問題は残っています。ここでは、第一の犯行は、今のところ置いておきます。第二、第三の犯行から考えていこうと思っていて……。そうすれば、連鎖的に第一の犯行の謎も解けるんじゃないかって、考えています。第二、第三の犯行は、あと一つだけ、謎が解ければいいだけですから」
「……というと?」
「どうやって、中に入ったか……」未空は同じことを説明するのに疲れて、一度壁にもたれて座った。
「やっぱ疲れてるんだな」四郎は心配してくれているようだった。
「……頭が回らないんです」
「だってお前、ずっと何かしら考えているじゃんか。しかも、神経質になってる」
「人が死んでいるから、考えないわけにはいかないんです」
未空はもう一度状況を整理した。
何故密室にしたのだろう。何もわざわざ密室にする必要は無かった筈だし、外で殺してもよかった筈だ。
(ここに意図はあるのか?)
そして理解できないのは、第二の犯行。小枝の首を切断した理由だ。
(……待て)
自分に問いかける。
(……首?)
その単語が胸の中でこだまする。
(そして、ぬいぐるみ……)
一度、この屋敷の出来事を、一から巡回する。
考えている内に、真実奏との会話に行きあたる。
今まで事件の事ばかりで振り返る暇もあまり無かったけれど、この屋敷に来て、彼女との会話が一番印象的だった。彼女は今まで話してきた誰よりも、未空の内側の核心に触れてきた。そして何より未空が自らそれを話をしたがった。
話したいことは沢山あった。
母親との思い出をいつまでも聞いていてほしかった。
未空はもう一つ、思い出とぶつかる。
今になって気づいた――小枝との関係をどうするか、まだ返事を出してはいなかった。友達になるかどうか、今まで下らないと笑ってきたのような『律儀』なやり取りも、彼女にとってはかけがえのない大切な手順の一つだったのだ。折り紙を折っているみたいに丁寧なものを見ているみたいだった。
境界線の間で踊って誤魔化しているうちに、彼女の姿が見えなくなってしまった。
目を開けて、星七田旺次郎を見る。
次に血のついた自分の手を見た。
(――あぁ、そうだ!)
未空の中にある全身の血が叫びながら体中を駆け巡る。
これは母親が死んで以来の経験だった。
(死んだ――死んだんだよ! ……そうだ、お前のせいだ! お前のせいじゃないか!)
どこかにいるであろうもう一人の自分が、自分を指さして叫び散らかす。
今のこの感情を知っている言葉で当てはめようとするけれど、ピースの角度を変えても、別のピースを取り出しても、この感情の表現は完成しない。言葉なんてものは感情の代弁者だった――誰だって知っていたことだった。
「今は誰も笑ってない」口にしたのかどうかは、未空にも判らない。
手のひらにタオルが置かれた。廊下にあったものを、四郎が取ってきてくれていた。彼は四本の腕を使った。上の二つの腕で未空の両肩に手を乗せてくれた。腕の力はしっかりと入っている。下の二つの腕で、未空の手についている血を拭きとってくれた。
「お前は、いつだってそうしてきてたんだな」未空はタオルに拭き取られた血を見た。「誰かの痛みをずっと代わりに背負ってきていたんだ」
四郎は未空の血を拭きとり終えると、下の両手で未空の両手を握った。
未空はその異形の形を知っている。
同じ人間の手だ。
「気づけなくて悪かった」
四郎は両手を握ったまま、上の両手で未空の背中を軽くたたいた。
今まで言われたことは無かった。
頑張ったという自覚すらなかった。
「僕は――僕は、あなたみたいになりたかった」未空の声が裏返る。「……そうすれば――そうすれば、こんな悩むこともなかった。……こんな人間になること、なかった。こんな方法でしか生きてこれない人間になることを選ぶ必要なんてなかった。あなたは僕の欲しい物を全部持っていたのに――」
彼の四本の腕をゆっくりとほどいた。森の中で絡みついたツタを振り払っているようだったが、それよりもずっと深い重みがある。未空は立ち上がる。四郎は何を言われているのか理解できていないようだった。彼はただ固まっていた。未空の方を振り向いたりもしなかった。
宇未が黙ってこっちを見ている。「なんでふりほどいたの?」と言いたげに、こちらを見続ける。
……なんで?
彼女の無言の問いに、未空は戸惑った。
なんでだろう。
不意に思い出す。
必死に守り続けてきた、自分の中にある正義の事。
奪われてしまった、あの蜃気楼のような輪郭のこと。
…………。
何かを忘れてしまった気がする。
なんだろう。
……なんだっけ。
何かあった筈。
……何かあった筈なんだ。
何か忘れてしまった筈なのに、それがどうしても思い出せない。
事件の事じゃない。
もっと大切な――
3
髪留めをして、鏡の前に立っていた。すると部屋の扉の開く音がした。宇未が来たのかもしれない。それに気づいていても、未空は髪留めを外せないままだった。目の前にいる母親を見て、安心を得なければならなかったからだ。
宇未は自分の事を知っている。この癖のことも、当然知っている。だから隠さなくていいと思っていた。
宇未は本当にやってきた。まるで待ち合わせをしていたかのような心境で、彼女がここに来ることは、最初から決まっていたみたいだった。少なくとも、未空の気分はそういう説明で解決できる。
「多分、怖かったんだ」未空は鏡を見たまま、そこに映る宇未の目を見る。「こんなことする奴だって知られたら、もうあんなこと言ってくれなくなるから」
赤紅四郎を知れば知るほど、とにかく彼を嫉んだ。
真実奏は言った。
彼には二つの力があると。
その力が、未空は欲しくてたまらなかった。
愛されたかった。
手をのばせば他人の熱に触れられる距離まで近づきたかった。
未空から宇未を奪えば、もう彼の世界には誰もいなくなる。
「気が付けば、一つ一つの文字に全力を注いでたね」宇未の声は狭い空間に残留する。「ただ、一秒一秒に全力だったんだね」宇未は未空に近づく。「……どうだった? この数日間」
「楽しかったよ」未空は即答していたのに驚く。「不謹慎だって言われても、楽しかった」
「……そうだね。それでいいんだよ」宇未は肯定するようにほほ笑んだ。「答えは出そう?」
「……あんな事言われるなんて思わなかった」四郎との会話を思い出す。未空は泣いているような声を出していた。「だから、また迷いだしちゃったんだ。あんなことを言ってくれる人がいた……それだけで僕は救われたのに――僕は逆の事をしようとしている」
「逆の事?」
「今にも皆の居場所――こういう小さなコロニーから、皆を追放しようとしている」未空は何故コロニーという言葉を使ったのか、自分でも不思議に思った。「……どうすればよかったのかな」宇未は答えなかった。「宇未姉は、どういう結果を望んでるの?」
「君が決めるんだよ」
それは今までの宇未から聞いたことの無い類の言葉だった。
「どうしたいかは、あなたが決めるんだよ。ツトムさんだって言ったじゃない。自分の中にある材料だけで考えろって」
きっと、今まで宇未は気に入らなかったのかもしれない。今まで未空が母親の亡霊に従って生きてきたことが。気に入らないという言い方はきっと違う――単純に気にかけてくれていたのだろう。
「いつまでも他人に理由を作っていたら、容器の中の水は無くならない。確か、そんな台詞が書いてあった気がする。……あの本に」宇未は問いかけているようだった。「……あの人はどんな気持ちであぁいう言葉を組み立ててきたんだろうね」宇未が鏡を見る。「きっとプラモデルみたいなものだったのかな」
「多分違うと思う」未空は挑むように反論する。「説明書もなかったし、ランナーに張り付いていた既存の部品を接続しているだけじゃ、あんなものは完成しない。あの人だけが見てきたものや、知っていたことを、そのままの部品としてきたんだ。それをあの人にしかない感性のままの色で塗装して、作り上げていった。外宇宙への旅路は、その結果の賜物だった。あの人以外、あの色は思いつかなかった」未空は顔をあげた。「……なんで、ツトムさんはあんなこと言ったのかな」
当然、自分で考えろと言ったことだ。
「もうそれくらいの勇気はあるって、ツトムさんには判ってるんだよ」宇未は容易く答えを述べた。「ツトムさんは、まだ自分の事を過大評価してるのかもしれないね。自分の本を読んだ読者が臆病者なわけがないって、きっとそう確信しちゃってるんだ」
「――いや、僕は、あの人から数え切れないほどの勇気をもらった」未空は譲らないと言わんばかりだった。「……人に勇気を与えるっていうのは、皆が思っているよりもずっと難しくて、まるで奇跡そのものの象徴だ。マナブツトムは……、いや、殺器銘は、誰よりも勇気の正体を知っていて、それを他人に分け与えることのできる勇敢な人間だった。……皆が彼に救われた。僕だってその一人だった」未空は髪留めに手を当てた。「……きっと答えは変わらない。最終的には、僕はやっぱり真実を選ぶと思う。どれだけの罵声が降り注ごうとも、憎まれようとも。もう本当の事や、辛いことからは、逃げないって決めていたから……。なのにまだ迷うんだ」
「……その生き方は正しいよ」宇未は予想もしなかったことを言った。「恥ずかしいことじゃない」
「……正しいわけがないだろう。こんな生き方が」
「――どれだけ迷ってきた?」
今まで以上に、宇未の声が鮮明に良く響き渡った。
時が止まったみたいに、全ての音が奪われた。
彼女の声以外。
「ずっと長い時間、迷ってきていたのを知っている。……それだけしかしていなかった。ずっと、悩んでしかいなかった。そんな姿ばっかだった」
宇未は未空の髪留めを外して、前髪の分け目を元の位置に戻した。
「けど、だからこそ――迷い続けて、最後に出したあなたの答えが間違っていたことなんて、一度もなかった」
深い虚無みたいなものが、空気の代わりに自分達の周りをうろついていた。
今の空間に、余計なものは一切なかった。
音だってない。耳鳴りもしない。ただ彼女だけが自分の全てになっている。自分の存在さえも邪魔に感じるくらい、ただ彼女が愛しかった。
「あなたはいつだって正しかった。皆がそれを知っている。あなたが見てきた痛みが知っている――あなたがどれだけ優しい人間で、どれだけ泣いている人から笑顔を取り戻してきたか。小さな優しさを拾っては、皆に分け与えてきたその姿を、みんなちゃんと見てきていたから」
地球最後の日というものが、もしもあるのなら、きっとこういう日のことを言うのかもしれない――なんとも幼稚なことを考えた。少なくとも、死ぬならこういう時に死にたいと、未空は本気でそう願った。
「この優しさが邪魔になっているのなら――。……もういっそ、全部捨ててしまえばいい」
それも今まで誰にも言われてこなかったことだった。何より、よりによって、雪桜宇未に言われたことが、一番信じられなかった。
「……捨ててもいいの?」
「いいの」
宇未は優しく未空の前髪に触れた。
「あとから取り戻すことだって、できるから。大切なものなら取り戻すよ。だから、大丈夫」
ほんのちょっと、取るに足らないだけの時間が流れた。
胸の内側から何かが浮かんでくるような感触。血の流れが噴水みたいに、上へ上へ昇って行ってるようだった。それも風船みたいに優しく、ゆっくり。
目閉じる。
黒い煙が見える。
それと同時に、夢に見た母親の骨を思い浮かべる。
目を開く。
宇未がいる。彼女は優しく笑っていた。右手が暖かかった――見てみると、彼女が手を握ってくれていた。
手を握り返して、もう一度目を閉じる。
――誰かの背中が見え始めた。
まだ遠くにいる。
また誰かの背中。
今まで遠ざけてきたもの一つ一つと向き合うことを続けてきた結果だった。
暗黒の銀河を照らす星々のように点々としていて、その正体は未だにはっきりとしない。
だけど皆が右手に何かを持っているのが見えた。
きっと傘だ。
皆これを使って、悲しいことから必死にその身を守ってきていたのだ。
自分の右手を見た。何も持っていない。
だけど急いで追いかけた。
自分もその銀河の星の一つとして、皆と同じ輝き方を目指していたかったのだろう。
肩を抱き合って歩いていこう。
そうすれば、今度こそ幸せになれるから。
未空の知った走り方は、多段式ロケットみたいなものだったのかもしれない。使うだけ使って要らなくなった優しさは切り離して、次のエンジンがその身を持ち上げ、どんどん上へ昇っていく――味わったことの無い躍動感だ。切り離して、また次のエンジンが噴射するみたいだった。体が軽くて、今まで以上の速度で進んでいっているのが判る。
引き換えに得られた勇気の値段は、ちっぽけなものだった。それでもその数枚の金貨を握って、もう一度誰かの背中を追いかけた。
通行料くらいは握りしめているだろうか。
もしかしたら、見せれば笑われるくらいの値段しか持っていなかったかもしれない。
違いない。
それでも、よかった。
4
二人は部屋に移動した。いよいよ最後の状況整理が行われようとしていた。
密室の謎。
「あと一つ判ればいい」未空は消えそうな音量で言う。「大きな謎。まず、思い浮かぶのは?」
「私は、首かな。首切り」
「そう、それが一つ」未空は重ねるように付け足した。「そして、ぬいぐるみ」
「……ぬいぐるみ?」宇未は意外そうに顔を寄せた。「あれは、やっぱり関係あるのかな」
「あったんだよ」未空は人差し指を天井に向けて断言した。
「え!」宇未は予想外にもかなり大きな声を出した。「ちょっと待って――待って」
「何?」
「判ったの? 密室の事」
「第二と第三の謎は、旺次郎さんの部屋にいる時に気づいたよ。多分これで間違いないと思う」未空は一つ呼吸を挟んだ。「……言い方が悪かったね。……あと一つ判ればいいっていうのは、あと第一の密室だけ判ればよかったってこと」恐らくそのせいで、宇未はあんな大声を出したのだろう。「……あれさえ判れば、もう全部終わりだ」
宇未は丁寧に手を挙げてから質問した。「……なんで、よりによって、後の二つの密室が判ったの?」
「やり口が共通してるからだよ」
「共通? 第二の密室は首を切断してるのに、それなのに第三の密室と、共通なの?」
「本質は何も変わらない」
「本質……?」
「そう、本質」未空はここでは説明を省くことにした。「でもね、このやり方じゃあ、第一の密室は通用しない。第一の密室は、この二つとは全く状況が違う。まだここだけが判らない」
「外からの侵入じゃあ、駄目なの?」
「窓からってこと?」
「そう」
「……二階に上がるほどの大がかりな準備をしてたら、小枝さんにばれるって、散々議論されてきたじゃん」
「……でもさ、最初の事件だからこそのアドヴァンテージがあったのも、事実じゃない?」
「どういう?」未空には想像もつかなかった。
「この上ないアドヴァンテージ」宇未は鼻を鳴らして、やや強気な御様子だ。「全くといっていいほどに警戒されない。殺人が起きるなんて、誰も考えたりしないでしょう?」
「……あぁ」未空は拍子抜けした。「だからって、外で何か大がかりなことをしていてたら、気になって見ちゃうでしょ」
「え?」宇未の声のトーンが急に上がる。焦っている時のトーンだ。
「二階に上がった方法は?」
「……どうにでもなるんじゃないの? そんなの……。だってほら、ハシゴだって、廃墟になった家の中にあったかもしれないし」
漠然としすぎたその意見は気に入らなかったが、未空はあえてそこは取り上げなかった。「ハシゴがあったとして。二階に上がって奏さんを殺害して、そしてそのハシゴを撤収するまで、果たして小枝さんに見つからないでいることはできたかな」
宇未は反論に困っていた。「でも、窓からの侵入の方が、圧倒的に楽なのは確かでしょう? 二階の窓の鍵は、フック式なんだから」
「そういう先入観が、そもそもの間違いだよ」未空は指摘する。「それが人間の悪い癖だ。あぁいう窓みたいに、最初からあからさまに可能性が提示されていれば、そこに縛られちゃう」
「じゃあ、そういうみぃくんは説明できるの? そこまで言うってことは、扉から侵入したって言っていることになるよ?」
宇未は立て続けに意見を否定されたのが気に入らないみたいだった。いい歳をして、頬を膨らませて機嫌の悪さを主張している。しかし、確かにそう言われれば、両手をあげて降参するしかなかった。真実奏の部屋の鍵を奪うタイミングは無かったからだ。誰よりも未空がそれを知っている。
あの日、未空は創に頼まれて、扉の鍵を開けた。確かに奏の部屋の鍵だ――その鍵を、机の上に置いた。奏は扉の鍵を閉めて眠る。そして奏の死体を発見したあと、ツトムは鍵が奏の部屋のものだったのを確認している。出来すぎていると言えるくらい完璧な状況が出来上がっていた。そんな状況の中で、扉からの侵入を考えるのは、無謀だろう。
未空はボールペンを取り出して、それを指先で回す。未空は目を閉じた。
瞼の内側のつまらない景色の中に、いくつかの光の筋が見え始める。
痛いほどに鋭くて、真っ直ぐな光だ。
光の色は、全部母親に教わってきたものばかりだ。
それらの光は、まるでどこかのクラブミュージックに合わせて踊るかのように、様々な方角を照らしては機械的な動きで揺れ続けている。
一つずつ、そのピントを合わせていこう。
未空は静かに息を吐いた。
(扉から入る。鍵以外の方法での侵入は……?)
言うまでもなく不可能。
(鍵を閉めていなかったとかは?)
あり得ない。あの日、真実奏が鍵を閉めた音を聞いている。
鍵を奪うタイミングがあったとすれば――。
けれどさっき結論を出したように、それは――――
(待って。待って。待て――)
ボールペンの回転速度が上がる。
(そっちじゃない……)
まだ加速する。
(そう。多分そこ――)
加速は止まらない。
涼しくなったので、未空は目を開いた。ボールペンの回転が、小さな風をつくっていた。どれだけの速度で回っているのだろう。未空はおかしくなって笑いそうになる。もう一度目を閉じる。
あやとりみたいに、いくつかの光が交差した。実体はないので絡まない。合わさらなかったら、通り過ぎていくだけ。もしかしたら光の良いところは、そういうところなのかもしれない。
(そこで一時停止して)
未空は頼むような言い方をしたが、瞼の内側には未空しかいない。
光がいくつか重なった。
赤色と青色の光が重なって、太い紫色の光。
気が付けば、さっきまで存在しなかった色があった。
あれは確か、シアン色だった筈。
(ここの犯行は、あの人にしかできなかっただろう?)
未空の問いかけを肯定するかのように、ライトがまた重なる。
サーチライトのように大きな光へと進化していく。
けれどその巨大な光の輪郭は、言い訳できないほどにはっきりとしている。
(最後は、第二、第三と共通したやり方を使う……)
最後のピースの埋まる音が聞こえる。
乱反射して散らばった証拠や状況がやがて一つの光として収束され、一人の人間に全てが照射された。
(――これが……?)
未空は目を閉じたまま、今まで見たことの無い色の光に照らされている人物を見つめていた。
(――これが?)
天から注がれたスポットライトの中にいるその人物の表情は見えない。
「宇未姉」未空は目を開いた。どうしてか、現実の明るさが眩しく感じて、目を閉じかけた。
「……何?」
「ミステリー小説、今まで読んだことある?」
「……どうしたの、いきなり」
「いいから」
宇未は今にも「訳が判らない」と言いそうだった。「……三冊くらいだけど。まぁ、うん。あるよ」
「そう」未空はボールペンを見つめた。「……予想なんだけどさ。全部判った後、探偵役の人ってこんなこと言わなかった? 『なんでもっと早く気づかなかったんだ』、って」
「あぁ……、言ってた」
「ホワイトルームでも、言っていた。……今の僕が、正にそれだ。今まで散々ピースが足りないとかなんだの言ってきたけど、逆だった――最初の一回で、気づくべきだったんだ」
「……判ったの?」宇未は静かに尋ねた。
「全部、判った」未空は宇未の指先を見つめていた。気が付いたらそれに触れていた。「……何もかも、判った」
「誰……?」
(あぁ、そうだ……)
未空は答えやしなかった。
(……今。夏休みか)
唐突に思い出す。
あれはいつだって子供の楽園みたいなもので。
今になって、それがどうしようもないほどに愛しく感じる。
気が付けば、握りしめていた筈の金貨はなくなっていた。
あとは自分の力だけで歩いていこう。
未空は犯人と二人きりで話す事を希望したが、当然宇未がそれを承諾するわけもなかった。宇未はあの後、みんなの部屋にまわって召集をかけてくれた。これ以上被害を出さない為の提案だったというのに、誰もが宇未と同じように真相をその場で知りたいと聞かなかった。驚くことに、秤までもが乗っかってきた。結局のところ、最終的には皆、真実が一番可愛いらしい。
どこに皆を集めようかという話になった。宇未は未空にその権利を委ねた。未空が選んだのは、図書室だった。そこに深い理由は無かった。ただ綺麗な文字が好きだからというくらい、些細なものだ。
皆に召集をかけてから図書室に集まるまで、かなりの時間が空いた。何故なら、旺次郎の死体を埋めていたからだ。死体を埋めた場所は、小枝のすぐ隣のところだ。それはまるで、犯人に引導を渡す前の最後の儀式みたいだった。空がどんどん暗くなっていく。緋色と紫色を繋ぐ役割の色が出てきた頃に、死体を埋め終えた。
部屋の電気もつけないまま、みんなが図書室に集まった。机は端に立てかけてあったし、この屋敷にいる人数もかなり減ったので、部屋のスペースに余裕がでてくるようになってしまった。
未空は持っていたペンを回して、誰かが切り出すのを待っていた。
「そろそろ始めないか」ツトムの声だった。やはり始まりはいつだって彼の声からだ。「君に言ってるんだ。天宮城未空」
「判ってます。大丈夫です」未空はペンをしまう。それからメンバーを一瞥して、わざとらしく肩を竦めた。「……ただ、どこから話を始めればいいのやら」
「どこからでもいい」ツトムは早口だ。はやく知りたいのだろう。
「判りました」未空は頷いた。「……なら、まず――。ちょっと情けない告白をするんですけれど――やはり最後まで、犯人の動機を解明することはできませんでした。だから僕はまず、それを直接犯人の口から訊きたいと、強く望んでいます」
皆がざわめきはじめる。
誰も心の準備もできていないままだ。
「待て」ツトムがいち早く割り込んだ。今にも未空が犯人の名前を言おうとしているのに感付いたようだった。「……そうじゃ……、そうじゃないだろう。それは、あまりにも『ずれてる』……」こればかりはツトムも焦りを隠せてはいなかった。「……いや、俺が悪かった。けど、それはいくらなんでも……、飛躍しすぎだ」
未空は反省して溜息をつく。「わかりました。……じゃあ、前もって言いますが、犯行方法を先に説明した方がいいでしょうか」ツトムが頷いたので、未空は話を進めることにした。「……じゃあまず説明の順番ですけど、逆から説明したいと思います。第三、第二の犯行を――そして最後に第一の犯行」
「逆から……?」秤が口を開く。
「説明がうまくできない奴なので、これでやらせてください。僕のやりやすい方法で」誰も未空のやり方に異議を唱えなかった。「……先にいくつかの謎について、あげておきたいと思います。……ぬいぐるみと、小枝さんの首の事――まずそこです。これに関しては、今まで気づかなかった僕がこの上ないほどに無能だったとしか言えません。……これらの使い道は、言い訳できないほどに明確なものでしたから」
「ちょっと、ちょっと……待ってくれ」四郎が割り込む。「……首の――使い道?」
「今回の殺人は、歌の一番と二番みたいに、どこまでも規則正しい犯行でした。その気になれば、予防だってできたんです」四郎がそれを聞いて、目を細める。「……小枝さんの首を盗む利点は、どこにありましたか?」
「……利点だって?」
四郎が考えようとしたが、未空は待たなかった。
「明確すぎるくらいです。誰かにとって大切すぎるものが、そこにあったから。そしてそれこそが旺次郎さんにとって、何よりもの最優先事項だった」
一瞬皆の表情がお揃いになった。
「――小枝さんの《黒い瞳》です」全員が恐ろしい物をみたかのような表情をする。「……本当、なんで気づかなかったんだって言うくらい、あからさまだったのに」未空は怒りの矛先を自分に向けた。
「黒い瞳が目的なんじゃないかって仮説は、あの二人と話した」ツトムは宇未と四郎を見て言う。彼はらしくもなく動揺していた。「本当に……それこそが、鍵を開けた原因だったと――?」
「そうですね。思い出してください。ベランダには、カーテンはありません。そして旺次郎さんの部屋は、屋敷の右端です。しかも一番遅くまで起きている小枝さんの死んだ後ですし、誰かに見られるというリスクも、軽減されている。ベランダまで行って、部屋の中から見える位置に、そっと首を置く。まるで、餌みたいにして。旺次郎さんは気づいたら必ず、窓を開けます」
「餌……あからさますぎないか?」
「もっともな意見です。当然、僕もそう考えていました。……けど思い出してください。黒い瞳を解剖するという約束は、あの二人にとっては、かけがえの無い約束でした。僕が旺次郎さんと話した時も、その約束が、どれほどかけがえのないものか、話してくれました。小枝さんが死んだ後の世界で、自分に残された唯一の生きがい、とまで旺次郎さんは言い切っていました。あの約束は旺次郎さんにとって、何よりもの最優先事項だった」
全員が、十秒近く黙る。十秒経過してからは、不快なざわつきが発生した。
「……目だけを盗まなかったのは?」宇未が訊いてくる。
「色々ある。犯人の気持ちを考えれば、そこに意図があると思わせないため。それは、宇未姉達も話してたでしょ? 次に、素人であろう犯人が、眼球なんて繊細なものだけを、丁寧に取り出せはしない。そして最後に、取り出せたとしても、旺次郎さんのベランダの前に目だけ置いたって目立たないし、下手をしたら気づかないかもしれない。夜は辺りは暗いし、眼球は小さいからね。おまけに瞳は真っ黒だし、うまく夜に溶け込んでしまう」
宇未は想像してしまったのか、背筋を震わせた。
「……そこまで考えていたの?」
「いや、今ぱっと思いついたものを、さっとあげただけ」未空は皆の方へ視線を戻す。「旺次郎さんが自ら窓を開けて、首を両手で拾い上げる。そして部屋へ戻っていったところで、屋敷の側面に隠れていた犯人が、旺次郎さんを殺す。喉を切って殺したのは、声を出させないようにしたからなのかもしれない。首を抱え持っていたから、抵抗するにも遅かったでしょう。……それに、旺次郎さんの体はかなり小柄で、老人そのもの。平均的な大人と比べれば、比較的手間も軽かったでしょう」
「それであとは、俺の言った通りに?」ツトムが訊く。
「そうですね。殺して、窓を閉める。鍵を奪って、扉の外側から鍵を閉める。で、朝に皆が死体に釘付けになっている時に、鍵をそっと置く。……これで、完成しますね。これが、第三の密室」未空が今もまだ生きている全員を見る。「……ここまでで、質問は?」
三秒待った。四郎が手を挙げる。
「犯行の流れをまとめると、こういうことか? 犯人は夜になってから、小枝ちゃんの首を持って外に出る。で、ベランダにそっと置いた。部屋の中から見える位置に……。そして、首に気が付いた旺次郎さんが、窓を開けて、首を取りに行く。犯人は、旺次郎さんの両腕がふさがれている時に、首を刺して殺した」
「そうです」未空は肯定する。「他に、誰か質問は?」
五秒間待ったが、誰も手をあげはしなかった。
未空は「次に進みます」と宣言してから、再開する。
「では、第二の密室についてです。先に言っておくと、さっき皆を招集するとき、僕は秤さんからあることを聞きました。……あのぬいぐるみの事です」未空は秤を見た。「あのぬいぐるみ、あそこまで小枝さんが大事にしていたのを知ってたのは、どうやら真実姉妹だけだったらしいです。それを知っていれば、比較的早く犯人を特定することもできたでしょうけど、今となっては、言っても仕方のないことです」
未空はわざと間をつくる。
「すみません、無駄口を叩いてしまいました。……それじゃあ、続けます。もうここまで来れば言う必要もないんですが、一応ということで。ぬいぐるみの使い方もまた、小枝さんの首と同じです。餌としての役割です。……こっちの場合は、恐らく扉からでも窓からの侵入でも構わないでしょう。扉からの場合なら、ノックをして開けてもらえばいい。もしも小枝さんが扉の覗き穴を見て、犯人がぬいぐるみを持っているのを知ったのなら、全てを許したかのように、扉を開けてしまうでしょうから。届けに来てくれたんだと思うかもしれません」
未空は呼吸を整える。
「もしも窓からの侵入なら、旺次郎さんと同じようなやり方をすればいいだけです。けど……僕が犯人なら、やはり扉からの侵入しますね。窓からの侵入だと、かなり荒っぽくなりますし。ノックして、ぬいぐるみを持っていると知った小枝さんが、扉を開けてくれる。で、ぬいぐるみを渡す。ここでまずは、首を絞めて殺しますね。それも、無警戒の時――さらに言えば、後ろを向いたときとか。後ろから首を絞めれば、うまく抵抗もできないし、声をあげることもできない」
「……後ろを向かせるには、君ならどうする。案外難しくないか?」四郎が訊く。
「例えば、疲れているように見せますね。今までずっと探していたかのように。『水を一杯もらっていいか』と言うのとか、どうでしょう。水をくむために、いったん後ろを向く筈です。その無防備の一瞬を狙います」
「良いやり方かもな」ツトムの声だ。「やっぱり、首を斬ったのは、風呂場ってことになるね」
「はい。そうなります」未空は肯定する。「カーテンがない以上、ダラダラと長い時間、部屋で首を斬るのは、いくらなんでも考えられませんからね。動かなくなった小枝さんの肉体を、風呂場で切断する。これだけです」
「道具は?」宇未の問い。
「首を切断するために使った凶器は、車の中に用意してあったんだろうね。……今まで使われた凶器の全てが。別に夏焼集落のどこでも、隠し場所にはなるけど。犯行の時だけ、近くに置いてあったんだろうね。例えば、ベランダの窓のところとか。小枝さんを殺してすぐに、小枝さんの部屋の窓をあけて、すぐそばにおいてあった凶器を部屋に持ち込む。言うまでもないけれど、死亡推定時刻が奏さんより数時間早かったのは、この作業の為」
宇未は信じられないといいたそうな顔。
「使い終わった胴体は、部屋に戻す。これも言うまでもないんですけど、血が少なかったのは、風呂場に血が流れたから。廊下とかに血は付着していなかったので、あとで拭いたか、首の周りだけタオルなりなんなりで覆って、血が落ちるのを避けたんでしょうね。……ご丁寧なことです。別に付着しても、問題なんて何も無かったのに」
もう一度間を開ける。鼻から息を吸うと、ここが図書室だということを思い出す。
「切断した首は、予め用意していたバックか何かにいれたんでしょうね。保存場所は……、そうですね。保存状態を良くしておきたいなら、自室の冷蔵庫とか、いいかもしれません」
何人かが肩を震わせる。
「……ただ、自室に置いておくのはリスクが高いですからね。一日くらいだったら、別のところに置いておいても平気じゃないですかね。外でも。……幸い、夏とはいえ、涼しい場所はいくらでもあるわけですから。どのみち、一日分の腐敗が進行したところで、困ることもないでしょう。旺次郎さんがそれを、小枝さんの首だと認識できれば」
「首もぬいぐるみも、今頃は天竜川だろうね。あそこに投げ込みさえすれば、あとはどうにでもなる」ツトムが皆に言い聞かせる。
「ツトムさんの言う通り。用済みな物は全部、きっとあの中でしょう」未空は自分で言いながらも、恐怖を感じる。「……そして、これもあとは同じです。朝になったら、鍵をそっと置くだけ。……第二の犯行が終わります。逆からの説明で、しかも僕自身、かなり説明が下手なので、判りやすくできている自信もありません。……判らない人はいますか?」
中途半端な時間、静かに待っていたが、誰も手を挙げたりはしなかった。
「では最後に――最初の犯行を説明したいと思います。……先に言うと、この事件が一番の謎になってしまったのは、他ならぬ僕のせいです。だから、先に謝罪させてください」
「どういうことだ、それ」ツトムは未空が頭を下げるよりも早く問う。
「……そもそもあれが迷宮入りになったのは、僕本人が思い込みをしてしまっていたからなんです」
「つまり?」
「僕が、奏さんの部屋の鍵を開けて、それを机に置いた。それこそが、犯人の作戦だった」
「犯人の……?」ツトムが目を細くした。
「僕はその鍵を、そのまま机に置いた。そして奏さんが、鍵を閉める――。誰よりも僕がその場にいました。だから、そこに何かがあるって疑うようなことを、僕は決して、しませんでした。……けど、タイミングは、ありました。簡単なことでした……。僕は一度だけ、奏さんの部屋から、廊下へと移動しました。一分にも満たない時間でしたけれど、それだけあれば、もう十分だったでしょう。……あの時です、創さん」未空は創を見た。「……水を持ってきてほしいと言った、あの時ですよ」
未空は創を見た。
彼女は強張った顔をしている。何かに怯えているようにも見える、何の不自然さもない表情だった。
「――その時に自分の鍵と机の上にあった奏さんの鍵を交換できた」
皆の視線が創に集まる。
「奏さんに鍵を閉めてもらった時には、もう遅かった。創さんは、鍵を持っていた。深夜に奪った奏さんの鍵をつかって、部屋に入る。殺すのは容易かったでしょう。……机を左隅に移動させていたのも、その時ですね。あの位置――左下の方に机を移動させれば、朝に皆が死体に釘付けになっている時に、鍵をすり替えられるのを見られないから。ツトムさんが部屋の鍵を確認した時には、もう鍵はすり替えられていた」
誰かが息を吐いた。
「あなたにしかできなかった」
今度は未空が息を吐く。
「ぬいぐるみの事は、あなたしか知らなかった」
次に秤零士を見た。空が暗くなっていて、彼の表情は半分程度しか見えない。無表情ではないけれど、その表情に明確な名前なんてものはなかった。
「あなたしかいなかった」
マナブツトムが、かつて、始まりを宣言した。
「犯人探しをするんだよ」
教えられた光。
解明してきた小さな謎。
星座の配置。
母の死。
黒い煙。
選んだ孤独。
憧れた、形の無い主人公。
努力。
挫折。
異の屋敷。
守りつづけてきた脆弱な正義。
奪われてしまった蜃気楼のような輪郭。
握りしめた勇気の値段。
前の方角。
傘。
金貨。
忘れてしまった、大切な――
「――以上です」
それらのほとんどが、今頃になって、未空の宣言と共に、終わりへと帰結する。
この十二年間の清算のようなものが行われた気がして、長い旅路の果てのように思えた半面、実のところ、何一つ返済できていないままなのかもしれないという不安に襲われる。
今更、どっちでもよかった。
示すものは、示した。
「あなたがここでしらばっくれるというのなら、ここで何度でも追及します」
警告するように未空が宣戦布告した。
「それでも不足しているなら、何度でも調べなおして、もう一度あなたのところに行きます。あなたが認めるまで、ずっと、ずっと……。ずっと、問い続けます」
自分の心臓が痛くなっているのに、未空は気が付いた。
これから、真相を導いた結果が切り開かれる。
どこまでも平等に、一秒が消費される。
真実創は目を閉じた。
目を開く。
彼女は無表情になる。
「奪い返さなきゃならなかった」
その声には芯と表情がなかった。トンネルの中で残響するような、真ん中の抜けた厚みの無い声。音圧の無いギターサウンドがアンプから搾り出されているみたいでもあった。大切な本質的部分が切り取られている音。
「そうしないと、自分はいつまで経っても、真実創のままだったから」
全く別人の声になったせいか、何人かが首を振って、他に誰かいるのかを確かめていた。その気持ちは、未空にも良く判った。
全員、言葉が喉元で止まっている。その中でようやくして、四郎が代表して訊いた。「…………何、言ってんだ」創は応じない。
創の視線は、未空を捉えたままだった。今の彼女の視界には未空しか映っていないし、事実、それ以外の人間は眼中になかっただろう。
彼女の目を見ているのに、見ている気がしない。のっぺらぼうを見ているような心境だった。
「改めて訊きます」未空は冷静を装う。「何故、皆を殺したんですか」
嫌な空白が室内を汚染していく。
体中が冷たくなるような時間だった。
「それを訊くのは、あなたの役目じゃない」イントネーションにメリハリのない、機械的な音声。味気がなくて、聞いている気がしない。発泡スチロールを食わされているようだった。「がっかりさせないで。そんなありふれたことを訊くのは、あなたの役目じゃない」
「がっかり?」ツトムがせせら笑うように言って割り込む。「今の君にそんな感性があるってゆーのか」
「随分元気がいいのね」やはり視線は未空を見たままだった。「あなたみたいな人種にとっては、やっぱり解決編は興奮するもの?」
「黙れよ」ツトムは一番低い声を使う。牽制しているみたいだった。創はプライドもなく、言われるがままに黙った。
「創ちゃん」秤零士が言う。「……君が?」
「は?」
「君が、三人を殺した。……そういうことで、いいんだね」
「無粋な発言」創は目を閉じる。「小枝が死んでも何も変わらなかった臆病者。あなたがウジウジしてなければ、小枝は死ななくて済んだかもね」秤は表情を変えなかった。けれど確かに痛みは見えた。「年下にまかせっきりにして、一番力のあったあなたが何もしなかったんだから。……こんなとこ来ないで、ずっと自分の部屋でじっとしてればよかったのに。あんたはそもそも、この部屋に入る資格すらなかった」
「じゃあ人殺しは入っていいのか」ツトムがまたせせら笑う。「図々しいな」
創は下を向いたまま、じっとしていた。今の彼女が何を感じているのか、まったくわからなかった。
創は数歩未空に近づいた。「……あの」創は子供のような口調で未空に言う。とても四十代には見えなかった。「……奪い返さなきゃ、ならなかったの」
さっきも聞いた発言だった。「……何を?」
「…………」創はまた黙る。「……奪われたから、奪い返さなきゃならなかった。そうしないと……、自分はいつまで経っても――ずっと真実創のままだったから。……一生、閉じ込められたままだったから。多分……タイムリミットは少なかった」
さっきから同じことしか、彼女は言わない。
が、気になる点も、勿論あった。
(……閉じ込められた? タイムリミット?)
未空は目を細める。
(――真実創のまま……?)
「あの時から、なんとなく予感はしていた」創は一度未空の瞳を覗いた。「……暴かれるなら、多分あなたにだろうなって」
「……どうして?」
きっと訊いてはいけないことを訊いてしまったかもしれないと、直感で悟った。未空のこういう予感の的中率は、それなりに期待できる数値を誇っていた。
「――私を十八歳だって、言ったから」
心臓が意図的に大きな音を一つ叩き出す。
幸いにも心臓の皮はまだ、かろうじてつながったままだった。
けど、本当に、過激な鼓動だった。
「創さん」宇未が横から弱く叫ぶ。「……そんなんじゃ判らないです。……皆を――皆を、殺した理由です!」
創は冷めた態度を続ける。「揃いも揃って合唱みたいに。そんなに動機が可愛い?」
「四郎さんは、ずっと気にしてたんです。誰かを殺すほどの何かを抱えていたなら、気づくべきだったって」
「うん。まったく気が付いてなかったね」創は容赦なく結果を突き付けた。「まぁ、気づくわけもないだろうって。判り切ってたけど」
四郎が非力さを噛みしめるように歯を食いしばって、下を向いた。
「創さん!」
「そんなに感情的になっているのは、私があなたの頭を撫でたから――?」宇未の勢いが止まる。「あんな誰にでもできるようなことをした私を、そこまで信じてた?」
「話を再開しましょう」
中断させる為に、未空は強引に話をへし折った。ひいきするようだけど、宇未を責められると、粘り気の強いマグマみたいなものが奥からこみあがってくる。
「……殺すのは、あの人だけでよかった」創が不安定な声を出す。
「真実奏さんの事ですか?」未空はなんとなく察した。
「そう。あの人だけで、よかった。あの人を殺さなきゃいけなかった」
「奪い返すためにですか」未空が一度深呼吸をした。魔物の巣窟の中を進んでいくようだった。吐き気を催すような事実に直面する覚悟をしなければならなかった。「閉じ込められた。……タイムリミット……」真実奏の遺体を思い浮かべる。「そして――十八歳」
未空には彼女が何を言っているのか、全然わからない。
「そう」創は首肯した。「でも、全員、殺さなきゃいけなかった。一人残らず。私が本当にやりたいことは、その先にあったから」
説明しなければいけないことの順番があべこべになっている。ただ思いついたことを、片っ端から発言しているみたいだった。
「お母さんは、異常な教育をしてきた! 私はいなくなった双子の妹の代わりだって……! 物心がついた時から、ずっとそう言い聞かされてきた!」創は突然叫びだした。「小さい頃からずっと、怒ってばかりで……小さい時からだから、何を言われてるのか、全然判らなくて……。わけがわからなくて、それなのに理由を訊いたら殴られて……、ずっと閉じ込めて……、外にも出してもらえなかった」
創は打って変わって、かなりヒステリックになった。感情的で、とても大人には見えなかった。
(教育……? 閉じ込められた?)
未空は混乱した。
(……いなくなった、妹?)
「……お母さん?」秤が言う。「お母さんだって……?」
「お母さんは、確かに不老だった」創の呼吸が乱れる。「……けど、私はそうじゃなかった」
「違う、そうじゃないよ」秤は急ぐような早口だった。「……お母さん? お母さんって」
「お母さんは、お母さんだよ」創は考えてから、もう一度喋る。「……あぁ、そういうことか。……そう。お母さん――。私のお母さん――」
絡まった淡を吐くかのように、創は言った。
「――真実、奏」
創の声が霞む。
「……最低な、お母さんだった」
全員が黙った。
ただ、静かになる。
『――奏さんは、良い母親になれますよ』
『――それはない』
初日、真実奏との会話を振り返る。
(あの人は……何をしていたんだ?)
全員がその場に立ち尽くしていた。
彼女が何を言っているのか、聞きとれてすらいなかったかもしれない。
「真実奏が、お母さん?」誰もが動揺している中で、秤零士が言った。やはりこういう異常すぎる事態の対処が一番早い。「……双子じゃ、なかった?」
「お母さんは不老だった」また創は同じことを言う。「娘の私はそうじゃなかった」
「双子の妹を、教育した。そう言ったね」秤が確認すると、創は頷く。「奪い返さなきゃ、真実創のままだって。……なら、本物の真実創はどこにいるの?」
「私が創」言ってすぐ、創は驚いていた。「……待って、違う。違う! 私が言ったんじゃない」
「君が言っていた」ツトムが断言した。
「違う、嘘だ」
「誰の口も、動いていなかっただろう」
「だって――」
ツトムは今までの棘のある態度ではなく、同情の目で彼女を見た。「……狂ってる」首を横に振り、もう一度創をみる。「真実奏は、何をしたんだ。どういう教育を、この子にしてきたんだ」
「君は、いなくなった真実創の代わりとして、育てられた」秤が言う。「真実奏が、君を育てた。今まで、僕たちは君たちを、双子だと思っていた。けれど、君達は双子じゃくて……」秤は戸惑う。「……親子――君は娘だった。……真実奏から生まれた、娘だった。不老だったのは、真実奏だけで、彼女から生まれた君は、普通の成長をする娘だった。……君は、《異質》なんかじゃなかった……。君は大人の姿になる前に、真実奏を殺さなければならないと考えた。大人の姿をした君を見れば……妄想から現実に引き戻された真実奏は、きっとまた狂い始めるから。……そうだ――君は、どこからどこまでも、普通の子供だった」秤は歯をくいしばる。「……受けてきた、教育以外は」
「そう。今年で、十八歳になったの」創は未空を見つめる。「あなたと同い年だったの」
「……僕と、あなたが?」
「鏡を見ているみたいだった」創は未空を見てひっそりと零す。「けど真逆で……」次に俯いて、肩を震わせた。「……あなたが羨ましかった。……母親に縛られてる癖に、幸せそうだったから」
「……幸せ? 僕が?」
「ねぇ教えて。どうして今まで、壊れないで生きてこれたの……?」
「奏さんにも同じ質問をされた」未空はすぐに返す。「僕は答えなかった」
「つまり、私にも、教えてくれないの?」
未空は迷った。
「教えたところで、もう全部手遅れだ。何も、やり直せない」答えたのは、ツトムだった。「いい加減答えてもらおうか。皆を殺した理由だ。小枝ちゃんと、星七田旺次郎までもを殺した、その理由だ」
「じゃあ、取引」創はそっけない風に言う。「教えてほしい。あなたが、私にならなかった理由」
「何もかも違うよ」ここにきて、未空の敬語が崩れる。対等に話すべきところだと判断した。「……でも一番違うのはやっぱり、助けを求められたことだと思う。……違うかな、助けられたんだ、僕は。助けを求める暇もなかった時に、助けられた」未空は隣を見る。そこには宇未がいる。「……彼女に、何もかも全部、助けられたんだ。君が想像するよりもずっと大きな借りで、未だに返しきれちゃいないんだけど」
創は無表情のままだった。「そうか。助けか」創は今にもその選択を知ったかのようだった。「……助けを求めれば、よかったの?」
「かもしれない。……僕は、求める前に助けられた。きっとあの時は、助けを呼ぶという発想を浮かべている暇もなかった。……だから、あの時に宇未姉がいなかったらどうなっていたか、本当に判らないんだ」
「旺次郎が言ってた。……助けを求められない子供がいるって。親に縛られている子供がいるって」
「そうだよ」
未空は旺次郎との会話を思い出す。
「……僕たち二人とも、同じだったんだ。母親に縛られていて、母親に望まれるがままに、生きてきたんだ。……大切な部分を壊さない為にはそうするしかなくて……そうしているうちに、僕たちは十八歳になってしまっていたんだ」
創は何も変化を見せなかった。
痛みも見えない。
それでも彼女には何か思うところがあったのだろう。
いつもよりもずっと長い時間黙っていた。
「……ほか。……他には?」創が訊いてくる。
「え?」
「他には、何かなかったの? 自分で変わったと思った原因。他にも、あるでしょ?」少しばかり、創は未空に興味を持ったようだった。
「あったよ」
「……例えば?」
「外宇宙への旅路に出会った」
「ツトムの本……」
「……そう。……そうだよ」未空は人形の少女をみた。「……あの本が、好きだった」
創はゆっくりと歩きだす。
不安定な足取りでゆっくり歩いて、本棚の前で足を止めた。細くて白い手を伸ばして、本を取り出した。取り出した本は言うまでもなく、外宇宙への旅路だった。
その本を開いて、何枚かのページをめくった。
真剣にそこに印刷されている文字を見続けていた。
「未空」創が話しかける。「……あなたの瞳が綺麗な理由を教えてあげる」。
未空はぞっとした。
突然すぎて、何も準備ができていないままだった。
「嫌なものは見ないようにして、綺麗な言葉しか探してこなかったから――だからその瞳は穢れを知らないの」また数ページ、めくられる。「……母親の言葉は、さぞ心地よいものに聞こえたでしょうね。汚いものは、まるで存在しないかのように、意図的に遠ざけてきて、自分にとって何もかも都合の良いように教育をしてきた」
「違う……」未空はこの一瞬で感情的になる。
「違くない」予想していたかのように、創が抑えこむ。「……少なくとも、あなたの母親は、そういう汚いものを許容できない人間だったのよ。あなたは母親の骨を見なかった。あなたのお母さんだって、見てほしくなかった筈でしょ? そんな醜くなった、自分の姿。もしかしたら、そういうところまで見通した上で、あなたのお母さんは、あなたにそういう教育を――」
「――違うって言ってるだろ!」未空が叫んだ。呼吸が乱れる。体の内側から風船が膨らんだかのような圧迫感に襲われる。「……僕がこうなったのは、全部自分のせいだ……。他の誰かのせいにするつもりなんてない」
「……お母さんが好きなんだね」
「……大好きだよ」未空の呼吸は乱れたままだった。「……大好きだった」
「私は好きになりたかった」創は本をもとに戻して、手についた埃を払う。「でも好きになれなかった」
「ここで、みんなを殺した理由は……?」
「……なんていうのかな」創は言い方を考えている。「……消去法ってところなのかな」
「消去法……?」
「そう。そもそもこの犯行は、自由になる為のものだった」
「……閉じ込められていたから」
「その通り。縛られていたとも言うけどね」創はまた言い方を考える。「……私は自由になりたいだけだった。そのために邪魔なものは、母親だけだった」
「じゃあ、あとの二人を殺す必要なんてなかったろ!」四郎が叫ぶ。
「黙って聞いてなよ。こういう時だけ叫ぶことしかできないんだから」創は無関心そうな声で言う。「……準備は……お金は十分にあった。私は天才だったから」
「偽物の、天才」未空が確認する。
「そう。私そのものが、生まれた時から偽物だった。ずっとこの十八年間、他人として生きてきたから。私そのものはただの器。他人の血とエゴが注がれてできあがった容器。……だからこそだった。……だからこそ、何が偽物なのか、よく判っていた。生まれた時から偽物であり続けたから。あとだしジャンケンみたいに簡単だったよ。そこにある品物より、魅力のあるものを創ればいいだけの話だったから」
「……奏さんは、気づいていませんでした」
「あの人は狂ってた」創はこの時、無表情ではなくなった。初めて笑った。今までみたどの笑顔よりも綺麗で、気持ち悪かった。「……私をいなくなった妹としてつくり上げて、私を妹だって思いこむことにしたの。ずっと一緒に育った――ずっとそこにいたかのように思いこんだ。私も異質の体質だって思いこんだ。私を産んだことなんて忘れてね。ほんの数年くらい前からだよ」
何も感じないくせに、創は最高の笑顔をつくって笑っている。
(本物以上の、偽物……)
未空は胸の真ん中が急に苦しくなった。
今まで味わったことがないほどに気持ち悪くなって、口元を手でおさえた。
「……現実的に考えて――そんなことができるわけがない……」未空の目が泳ぐ。腹の中には何もないはずなのに、既に喉元まで何かが浮き上がってきていた。
「そう。私だって、いつかばれるんだって、そう信じてた。お母さんは、いつまでこんなバカなこと続けるんだろうなぁって、考えてた。でも周りは無能ばっかだった。お母さんも、ずっと続いた。……だから私はさっきまで、真実創を続けていた」創はのっぺらぼうみたいな表情へと戻る。「この屋敷に行こうと思った理由は、二つ。一つは、お母さんが一番異常だということを、お母さん本人に判らせるため。別にあなたたちから見つけてもらおうなんて発想は無かった。お母さんがあなたたちみたいな《異》なる人間を見て、その上で、自分が一番異常であることに気づいてほしかった。……けど去年の交流会が終わっても、あいつは変わらなかった」
また意図も簡単に、創は笑顔をつくって、続けた。
「きっと最初から気づいていたんだろうね。自分が一番異常であることに。……だからあいつは、最初から皆を遠ざけていたのかもしれない」
「もう一つの理由は……」宇未が洩らした。
「それが今回の犯行の動機」宇未を見る創。ようやく、誰もが待ち望んだ動機が話される。「自由になるためだった。だからその為に、ここは最適だと思った。電波は通じないし、警察を呼ぶにしても、小枝が邪魔になることもわかっていた。……これは、後付けの理由でもあったけれどね」
「だからつまり……どういうことなの?」宇未も敬語を崩す。
「私は自由になるために必要なことを考えた。お母さんを殺すこと。逃げたって、あの人は、どこまでも追いかけてくる。今まで、そうだったから。あの人から逃げられたことなんて、一度も無かったから。……殺さなきゃいけなかった。……けどただ殺すだけじゃ駄目だったの。警察は鼻が利くからね。普通に家とかで殺しただけじゃ、十分に逃げる時間は稼げない。……だから、ここで殺せばどうかなって。電話はできないし、警察だって呼ばないだろうって判ってる。お母さんだけ殺して私が逃げたら、私が犯人だってばれてしまう。だから、皆殺しを計画していた。殺したあとに、逃げればいいんじゃないかって。……誰かが異常に気づいてこの屋敷にやってくるまで、時間がある。その間に逃走する時間は、十分与えられる。殺した人の遺体を全部隠せば、捜査の方もかなりかく乱させることができるし」
未空は途中から、彼女が何を言っているか判らなくなってしまっていた。もしかしたら、防衛本能が言葉を拒絶したのかもしれない。
こればかりは、秤零士もまともに感想を用意できやしなかった。
未空は何も言わないと、決めた。
「……それだけの為か」永遠に続くと思った沈黙を殺したのは、ツトムだった。「それだけの為に、君は彼らの命を踏み台にしたのか」
「そう。それだけ」創はあっさりと認める。
「自由になったあとは、どうするつもりだったんだ」
「具体的にはまだあんまり。……想像がつかないの。ただ、奪われた青春を取り戻してみたかった。ただ楽しいことをしてみたかった」
「月並みなことを言う」
「自分でも驚いてる。最初は髪を染めるなり、逃走するために多少の変化は必要だけれど……、自分にはちょうど良かった。今までの自分を丸ごと捨てるくらいの変化が欲しかったから。……誰にも縛られず、何にも干渉されないで生きてみたかったの」
「そんなことをしても、最終的には、いずれ捕まる」忠告みたいに未空が言った。
「かもね。……でも自由を十分に堪能したあとになら、別に捕まったって、殺されたって構わない。こうは言ってるけど、捕まったときには、やっぱり発狂するかもしれないんだけどね。……でも、もしかしたら捕まらないかも。警察は私達家族の関係に気づかないくらい無能だったから」
「自由――」未空の声は小さかった。「それこそが、君の唯一の生きがいだった」
「その通り――唯一の生きがい。それが容器でしかなかった自分に考えられた、唯一の発想だった」創は焦り始める。「……本当に、……いっぱい、沢山……悩んで……、でも、でもどうしてもこれしか思いつかなかったの」それから両手を広げて振って、精いっぱい自分の努力を訴えようとしていた。「……今より高いところに行きたいって欲だけが全てで……次第にそれだけしか考えられなくなっていった……。……高いところに……それも少しだけでよかったの。ほんの少しだけ。その為にはどうすればよかったのかなって考えて、また悩んで……。そしてようやく決まったの。一度決まったら、やるしかなくなった。全部自分の為だった――その為の計画だった。何に足を乗せればいいか判らなかった。私のそばには何もなかったから。……だから……、だから――」
未空は耳を塞ごうとしていたのに、反射的に口元を押さえていた。
限界は近かった。
「――あなたたちの肉を、踏み台にするしかなかった」
それは、長い論文の発表を終えた後に使われる最後の閉め言葉のようだった。今にも彼女はおじぎをしそうだった。彼女も終わりらしきものを、薄々は感じていたのかもしれない。
限界を超えた吐き気を無理やり押さえる。
「……君の計画は、ここで終わったんだ」ここまで来ても、未空は目の前の彼女をどう呼べばいいか、判らずにいた。
「……終わり?」創が訊き返す。
「そう。終わりだ」続けてツトム。「君がどういう教育を受けて、どう育ったのか……まだ一割程度しか聞いていないのかもしれない。君の異常さだって、まだ序の口だろう。説明不足だらけだし、判らないことだらけだ。けどそんなのは、全部終わった後に君の口からまたじっくりと聞けばいい。これから先は、あんたをどうするか考えるんだ」
「……終わり?」創の目が泳ぐ。
「諦めろ」ツトムの言葉に慈悲は無かった。「……あんただって被害者だったかもしれない。自分一人を奪われた。けど、あんたはそれ以上の人生を奪った。……三人を殺したんだ」
「諦めろって……?」創が言うが、ツトムは反応しない。
「天宮城未空から真相を聞かされた後、どうするか、彼と決めた。秤零士と」ツトムが皆に言い聞かせるように大きな声を使った。「この屋敷を解体する。……跡かたなく、この屋敷を消すんだ」
知らなかった全員が、驚愕のあまりに声をあげる。
全員、ツトムにとって予想通りと言わんばかりの動揺を見せた。当然、未空もその一人だった。
「………………何だって」四郎も突然の発表のせいで、ろくに言葉を探せなかった。
「赤紅四郎。あんたのところに、ここの屋敷の解体を依頼したい」ツトムは四郎を見る。
「……俺のところに?」
「俺が君のところへ依頼する。言うまでもなく金は出すさ。……勿論、それとは別に、口止め料もね。この屋敷を完璧に消滅させた後に、こいつを警察へ連れていく。それで、小枝ちゃんの件は隠蔽できる」
「……本気か?」
四郎が秤とツトムを交互に見る。二人とも、決心を固くした表情をしている。
「……待って」創が言うが、ツトムは無視する。
「けど、彼女が証言すれば――」四郎が当たり前に出てくる問題点を述べる。
「俺たち全員が口を合わせれば、なんてことはないだろう。今は小枝ちゃんはいない。そして痕跡も消せば、クローン人間がいるなんて、誰も信じない」
実のところ、誰もが気づいていたに違いない。ツトムは、どんな手を使ってでも、残っている人達を守ろうと必死になっているだけだった。
「終わり。諦める……? ここで?」創は震えだした。「……まだ私――何もしてないのに? 何も。何も――何もないままじゃない――」
「――創」未空が呼ぶ。
「そうだ」創は自身に言い聞かせていた。「……奪い返すんだ」
暗くなった部屋の中で、何かが光る。
銀色の光が反射している。
彼女の手からだった。
未空は目を細めて、その正体を見極める。
誰もが絶句し、後ろへ下がる。
――メスだ。
旺次郎の持っていたメスだった。きっと彼を殺した時に奪ったものだろう。それを小さい両手で握りしめていた。震え一つ起こしていない。容器だった彼女には、迷いも慈悲も躊躇いもなかっただろう。
「創!」もう一度、未空が彼女を呼んだ。
「……皆がずっと、その名前で呼んできた!」創が未空に叫ぶ。「創……それが自分の名前なんだって意識してきた。そしていつの間にか無意識に、それが自分の名前なんだって認識してしまっていた。呼ばれて、反射的に返事をするようになってしまっていた。……それでも忘れないように、一人になったとき、自分に言い聞かせた。自分は創じゃないんだって。……それは自分の名前じゃないんだって、忘れないようにしないといけなかった。そうしないと、いつか真実創の亡霊に、この意識まで飲み込まれてしまいそうだったから!」
創は喋りすぎたせいか、一度むせる。
「……あの子を殺せばいいの?」創は小さな声で未空に問いかける。「そうすれば、私と同じになってくれる?」
「……何?」未空は問い返す。恐怖の象徴と言えるような何かが、どんどん背中へと近づいてくる。「……何を言ってるの?」
「その子に助けられたんでしょ?」創は未空から視線を外した。次に見たのは、宇未だった。「彼女を殺せば、私の気持ちだって判ってくれるんじゃないの?」
「……だから。……何言ってんだって訊いてるんだよ……!」未空の精神は既に限界だった。「これ以上、何を言おうとしてるんだ、君は!」
「――あぁ、図星なんだね」創は目を細めて笑った。そこには気持ちや感情は無かっただろう。「……殺せば、同じになってくれるんだ」
未空は何かを言おうとした。「待て」かもしれなかったし、「やめろ」だったかもしれない。しかし言葉は何も出せなくなっていたし、足も動かなくなっていた。
部屋の空気が全て個体となって固まって、動きを封じられてしまったみたいだった。本当に体中の血液が凍ってしまったのかもしれないと疑うほどに体が動かない。
未空はこの数秒で、一気に汗が噴き出た。
「そうやって大切なもの、つくるからいけないんだよ」創は笑ったまま言い放つ。「皆そうだったでしょ? 小枝はあんな空っぽのぬいぐるみをあげれば、それを大切にして、食いついて、緊急事態にも関わらず、内側のセキュリティを全部解除してしまった。旺次郎は、その子の目ん玉にあんな執着してたから、内側のロックをおろそかにした。……馬鹿ばっかりだったよ。少しは学習しなよ。大切なもんなんて持ってたら、ろくなことなんないよ」
創の体の向きが、宇未の方を向いた。
「――宇未姉」
未空はまだ凍ったままだ。
夢の中で泳いでいるみたいに、体がまるで不自由そのものだ。
心の中も真っ白になってしまっている。
皆もそのままだった。
創は笑い声をあげた。
もしかしたら本当に嬉しいのかもしれない。
目の前が見えなくなる。
真っ白。
(待って――)
床を蹴る音が聞こえた。
テンポが速い。
きっと走る音。
何かにぶつかる音が聞こえた。
きっと、メスを刺した音だ。
悲鳴やそういうものは一切聞こえなかった。
きっと未空と同じで、誰も叫べなかったのかもしれない。
何かが遠ざかっていく。
血の匂いだけが充満していく。
他には何があるか判らない。
何が起きたのかもわからない。
何も見えない。
何も――。
5
天秤が揺れていた。
正義、価値観、信条――祖父から譲り受けた、秤の自慢の天秤だった。左右一つずつ、その二つの皿の上には二人の女性がほほ笑んで眠っていた。右にいたのは秤小枝で、左にいたのは、秤零士のかつての妻だった。
小枝との最後の会話を交わしてから、秤の視界には、ずっとこの天秤が見えていた。それら二つの皿の高さは揺れながらも未だ平等で、けれどそれだけでは駄目だと、もう秤とて気づいていた。
「なんでもかんでも順位を決めるのは、お前の悪い癖だよ」
秤は何度もそう指摘されてきた。毎度ながら通信簿に書かれるような判りやすい欠点だった。それもまた、祖父の影響でもあった。祖父は柔軟なようでどこか律儀な面もわずかにあって、何かしら判りやすいように、数字の大小で全てを区別してきていた。あれでも学者だから仕方のないことだったかもしれない。
雫の落ちるような神秘的な音を奏でる楽器の音が聞こえてきた。オルゴールみたいに繊細で、今にも崩れそうな音を零していく。秤はその楽器がどんな名前なのか、未だに知らない。ただそういう楽器の音が、時折祖父の部屋にあったラジカセからいつも聴こえてきていた。いつか訊こうと思っていた内に祖父は死んでしまったので、一生知る機会は失われてしまった。
今回も同じ失態だった。答えを後回しにしている内に小枝はいなくなってしまった。
「……別に同率一位でも良かったのにね」秤はどっちつかずに語り掛ける。どっちも返事をしなかったのは、眠っていたからではなく、自分に話しかけたのかどうか、自信が無かったからだろう。
秤はどちらを追いかけようか考えていた。全てが終わったらかつての妻のところに行って、もう一度、一から全部をやり直したい。だが、死んだ小枝の為にできることがあるのなら、全力でそれをしていたい。
同率一位のままではいけなかった。
秤は一人、役立たずの泥を浴びながらも、どっちを選ぶかを考えることにした。情けない大人だいうことは、もう痛いほど十分に思い知らされた。
でもおかげで、徐々に決断は固まってきた。
気が付けば、自分の隣、左右に二人の人間が立っていた。
右にいたのは、真相を見つけた天宮城未空。左には、かつて天宮城未空と同じように真実を見つけ続けてきた昔の自分。思ったよりも早く、二人は今の自分に追いついてしまっていたようだ。
(……もう、時間は無いんだ)秤はそれを悟る。
未来を急かし、追いかけるように早まっていく時計の音が聞こえてくる。
(彼は今、かつての僕になろうとしている)
秤は右にいる天宮城未空を見た。
(天宮城や、僕みたいに、大切なものを失う)
砂浜に残った足跡を踏むよう、綺麗なまでに自分の後ろを辿ってきたみたいな人生だった。
「小枝は、君みたいになりたいって言っていた」隣の天宮城未空は、飾られたマネキンみたいに動かない。「本当はもう少し悩んでいたかった。……でもやっぱり、最後は同じ決断になるのかな。……だからきっと、これでよかったのかもしれない」眠っている小枝を見上げる秤。「この六年間で、僕はすっかり小枝に追いこされてしまった。彼女に教えられることの方が多くなった。君しか知らなかった筈の色を教えてくれた。今の人間に必要なことや、忘れていたことを思い出させてくれた。……そして、今の僕が何をするべきなのかまでも、教えてもらってしまった」
秤は困ったように首を傾げた。
「……駄目だな、時間が無いや。それに、うまく言おうとしても、どうしてもできないんだ。……僕はね、やっぱり、小枝を選んだんだ――ようやく決まったんだ。……でもね、困ったことに、その理由を説明しようと思っても、どうしても、できないんだ。言葉や理由を足せば足していくほど蛇足になっていって、どんどん薄っぺらいものになっていく。……君みたいには、うまくできないよ。本物の未空くんが聞いていれば、『自分は不器用だ』って、頑固に否定するだろうけどね。でもね……君は――」
タイムリミットを報せる音が鳴り響く。時計塔の鐘のような音。発信源は、その天秤からだった。何度も何度も鳴り響いて、次第に鐘の音は大きくなっていく。我慢弱い天秤だと言いたいところだが、もう仕方のないことだとも判っていた。
真実創と呼ばれ続けてきた彼女が、とうとうメスを取り出したのだ。
(……時間切れだ)
秤は名残惜しそうに、天秤を見上げる。最後にと言わんばかりに、もう一度秤は、未空と向き合う。
「事件は解決した。……怖かっただろうにね……どうも、ありがとう。ツトムと宇未ちゃんも、頑張ってくれてたんだろう? 四郎も四郎なりに、君たちの為を思って、色々やってくれてたらしいね。こうやって見つけられた真実は、皆で足りないところを補って、繋いで行った結果だったんだ。そして何より、これは、君が悩んだ末に勇気を出した結果だ。……本当に――本当に、よく頑張ったね。……だからその先ある報酬は、それに見合ったものでなくてはならない。屋敷が消えるのは惜しいけれど、やっぱり、この日以上の日は、もう訪れないと思ってるから。だから、消すことを選んだ。……次は僕の番だ。……僕は最後に、大人の役目を果たすことにするよ」
全く動かない天宮城未空の両肩を掴んだ。マネキンのようなのに、その重量は重々しい。想像していたよりもずっと、ずっしりとした重みがある。これこそ生きている人間の重みだ。
秤零士は、天宮城未空の進もうとしている方角を変えた。
「……これからは別々の道だ。僕とも――そして、君のお父さんともね。……さぁ、これが最後の決断だ――ここからどういう道を進むかは、君が決めなくてはならない」
秤はもう一度未空の肩をつかんで、笑った。
「君と、宇未ちゃんの二人で……考えていくんだよ」
天秤は、決したように傾いた。
「――秤さん!」
宇未の叫び声が遅れて聞こえてきたので、未空は我に返った。それから体の硬直が解けた。家から逃げ出した飼い猫を探すかのように視線をぐるぐると回して、それからようやく、事態の根源を見つけられた。
真実創の背中と、雪桜宇未の姿を隠すように間に割り込んだ秤零士の姿が見えた。未空は無意識に何かを叫んだ。それは秤の名前だっただろうけれど、未空には何を叫んだのか確認しているような余裕はなかった。
創はメスを秤の体から抜いて、数歩後ろへと下がる。蓋となっていたメスが抜かれることで、今まで以上の血があふれ出た。
秤は未空の目を見た。
何かを言った。
しかし聞きとれなかった。
優しく笑って。
そして、倒れた。
「秤さん!」四郎の叫び。
激怒したツトムが咄嗟に走って、創へと突っ込んだ。
創がツトムの方を向いた。反対方向にいる未空にとっては、創が背中を向けたことになる。
未空は考えるより先に走った。
ツトムがわずかの時間で、未空に目で合図した。
あの激怒は見せかけだったらしい。
流石に頭が切れている。
創はツトムにメスを振る。
逃げる準備をしていたツトムは、すぐ真横に飛んで回避。
直後に未空が彼女を押し倒し、馬乗りになる。
うつ伏せで倒れた創は強引に体をひねって体制を仰向けに変え、手に持っていた真っ赤なメスを振った――未空は体を逸らして回避して、創の手からメスを奪い、遠くへ投げ捨てた。
創は咄嗟に左手を腰に伸ばす。
もう一本のメスを取り出した。
未空はその行動をいち早く予感していた。
両手で左手首を抑えるが、彼女の足で腹を蹴飛ばされた――未空は倒れる。創が先に起き上がり、未空へと向かった。
また宇未の声がした。
名前を呼ばれた。
立ち上がる暇もない。
刺される――すぐにそれを悟る。
未空は恐怖に屈して動けなかった。
唐突に創が吹き飛ぶ。
四郎が後ろから突進した。
創は未空のすぐ傍で倒れた。四郎は妨害しようとしていたのだろうけれど、創からすれば結果的には好都合だっただろう。
創は四郎に向き合うようなことはせず、未空を刺し殺すのを優先した。
口が動く。
何かを言っている。
「あんたさえいなければ」と言っていた。
目が限界まで開いている。
充血していた。
腕が振り下ろされた。
血が出る。
どばっとあふれ出た。
宇未がまた未空の名を叫ぶ。
……痛みはない――未空は目を開くと、大きな手が見えた。
四郎の手だった。
四郎の手が未空の心臓のわずか上のところで浮いていた。
左上の手が盾になってくれていた。
その手の甲からはメスが貫かれていたが、未空の心臓までは届かなかった。四郎の手は、創のメスの握っているその拳をしっかり捕まえていて、更に左下、右下の腕までももが、創のメスを握っている腕をおさえている。
四郎は残った右上の腕で創を殴り飛ばした。それから迷わずに貫かれたメスを抜いた。四郎は痛みに屈したりせず、先に創を完璧に押さえるのを選んだ。
「もう十分だろ!」四郎の呼吸が激しく乱れている。
「十分なんかじゃない!」創が醜く叫ぶ。「まだ何もない! 自分の名前すら無いままなのに!」
(名前がない……?)未空は立ち上がる。
「ようやくあいつを殺せた! 大嫌いだったあいつを! これからだったのに! ……これから……ようやく……、やりたいことを見つけられるって思ったのに……」創はまだ抵抗をやめない。「……ぬいぐるみなんて、作りたくなかった! それもあいつが作れって、言ったから……。あいつが……。……おかあ……、さんが」
創は何度も叫んだ。
喉が乾いてきたのか、まともに声を出せなくなってきていた。
それでも彼女は叫び続けて、抵抗を続けた。四郎はしっかりと彼女を押さえている。彼女の抵抗は長い間続いた。
無様だと笑うことすらできなくなるほどに愚かな姿だった。
自由になるという生きがいをようやく現実にできると信じてしまった結果だ。
彼女は叫び続ける。
途中から、聞いているこっちが痛くなるような声に変わっていく。喉から血が出てしまっているのかもしれない。
それでも誰も彼女を止められないままだった。止める方法を知らなかったというのが、正しいのかもしれない。
気が付けば、未空の足元まで血が流れてきていた。
秤零士の血だ。
創はどんどんその声を小さくしていって、最後にはとうとう、全ての抵抗をやめてしまった。
静かになって、誰も動かなくなる。
それを確認してから、宇未は創のところまで近づいて行った。
「最後に一つ、訊かせて」宇未が言った。
「……最後って……、何?」創の声はかすれている。
「最後は最後だよ」宇未は同情の混ざった視線で創を見おろした。「……天宮城未空の力の正体を、あなたは知ってる?」
未空は宇未を見る「……なんで、僕?」
未空は人差し指を立てて、唇に当てる。「静かにしてて」ということらしい。
「ねぇ。気づいていた……? あなたが真実奏さんを埋めに行った時、みぃくんは、あなたを尾行していたの」
それについては、未空もずっと考えていた。ただ意外だったのは、それがこのタイミングで話されたことだった。
「……尾行?」創は未空を見る。「してたの?」
未空はぎこちない風に首を縦に動かしてから、宇未の意図を徐々に理解しはじめた。
「……あぁ、そっか。気づいていなかったんだね」宇未は視線を上にやる。「……じゃあ、あれは偽物じゃなかったってことなんだ」
「……何? ……何の事を――言っているの?」創はこの時、はじめて恐怖を見せた。声と体が震えて、目が泳いでいた。「……未空。あなた……、何を見たの?」
宇未はわざとらしく焦らしてから、未空に譲るように手を差し出した。「……みぃくんの口から、直接教えてあげて。あなたが『見た』ものを」宇未は終わりを宣言するかのような口調で、断言した。「それでこの事件の、全部が終わる」
全員の視線が、未空へと集中した。
未空は創のところまで歩いた。
「……君はあの時、泣いていたね」創へ優しく話しかける未空。「事件が解決してからも、気にかけてたんだ。君は本物以上の偽物をつくってきた。……だからあの時の尾行も、実は君にはばれていて、あの時『見た』ものは、君が演じてつくった偽物だって――そう思ってた」未空は首を横に振る。「……けどそれは違ったんだね」
「だから! だからあなたは……何を言っているの!」創は恐怖に満ちたのか、とうとう叫び散らかした。
「――君はお母さんを埋めた時、悲しんでいたね」
創は数秒だまる。
それから我に返ったように首を振って、どんどんヒステリックになっていく。「違う! 違う! 違う! あんな――あれは、違うの!」
未空はまた首を横に振る。未空には何もかも判っていた。「君はあの時、悲しんでいた。……僕はあの時の君を見てから、君を疑うようなことはしなくなった。君は本気で悲しんでいたから……。それが結果的には、この事件の解決を遅らせた、敗因みたいなものになってしまったんだけれど」
創はまた何か言おうとしていたが、未空の瞳を見て、何も叫べなくなった。言い訳できなくなるほどに、その瞳は内側を透視していて、それがとうとう創にも判ってしまったからだ。
「痛み――」創が呟いた。「お母さんが言ってた。……彼は、私にポーカーで全勝したって」忘れていた伏線じみたものが、ここに来てまた一つ帰ってくる。「見てきたの? ……内側――。今まで……、ずっと?」
「……目を逸らすことも多くなったけど」
「でも、見てきたんでしょ?」
「……そうだね。意志と関係なく見える時もある。……でも、一人だけは、ずっと逸らさないで見てきた」
「……どうして?」創は純粋な興味で訊いてきた。「誰の?」
未空は目を逸らす。
「……人間なんてのはどこまでも面倒くさくて、なんだかんだ寄り添わなきゃ生きていけないから。……どれだけ一人で平気だとか、一人で生きていくとか言っても、結局は置き去りにした心の破片が求め続けて、期待する。見つけてほしいって。そこでその人を孤独にしたら、今度こそ本当に一人でいいって言えてしまうような人間になってしまう。……だから――だから僕は、誰かが置いてきた――その心の片隅に置いてきた、そういう痛みを、見つけてこなくちゃならなかったんだ」
それから呼吸を整えて、宇未を見た。
「どれだけ隠しても、僕は彼女の隠した痛みだけは、一つ残らず見つけ続けてきた。彼女一人じゃ受け止められない痛みだってあまりに多すぎたから、そういう痛みは全部僕が代わりに背負うことにした。……宇未姉が傷ついてしまった分は、自ら傷ついて分かち合った。そうでもしないと……そうやって少しずつでも返していかないと、彼女に借りた生きる力の大きさに、今にも押しつぶされてしまいそうだったから」
未空は少し嘘をついた。
本当は彼女が大好きだから、やってきただけだった。
「辛くはなかった?」創が訊く。
「辛くは無かったよ。……どっちかというと、少し楽しかった」
未空は秤零士を見た。
理由もなく、ただただ長い時間、彼を見続けていた。
「……お母さんを埋めたのは、単に、双子ならそうするのが自然なんだろうなって、思ったから。それだけだった」創がまた機械みたいな声で喋り出す。「……なんで泣いたんだろ。嫌いだったのに」
「でも、お母さんだった」未空は母の死んだ日を思い出しながら言った。「……君にとっては、たった一人の母親だったから」
「……あまり理屈的じゃないね」創は否定するようだった。
「理屈で説明できる人がいるのなら、是非その人の口から聞いてみたいよ」
創は天井を見ていた。「……私だって聞いてみたいよ」
創は四郎に何かを言う。交渉か何かのようだった。
四郎は彼女のポケットをさぐって、何も無いことを確認してから、彼女の拘束を解除した。
創はゆっくり立ち上がって、未空の前までやってくる。
「……最後に、お願いがあるの」
とうとう彼女も、最後という言葉を使ってしまった。
「……何?」
「……鏡を、貸して」
未空は鏡なんてものを持ってはいなかった。宇未は急いで部屋から出て行って、すぐに戻ってきた。それは化粧に使う小さな鏡だった。宇未は直接渡さず、一度未空にそれを渡した。
未空はそれを、創を呼ばれ続けてきた彼女に渡す。
もう未空には、彼女を創と呼ぶことなんてできなかった。ただ、《彼女》と呼ぶしかない。
《彼女》は鏡を受け取った。
それからじぃっと鏡を見続ける。
しばらく時間が経過すると、何かをぶつぶつ言いながら、自分の顔の輪郭を指でなぞりはじめた。
「……どこ?」
《彼女》が言う。
未空は《彼女》が何をしているのか、ようやく理解できた。
鏡の中にある何かを探し続けている。
そこにはきっと、自分の姿が映っているのだと、深く信じていたのだ。
6
悲しくても暖かい白銀の光の中で、事件は終結した。それが月の光だと気づいたのは、全てが終わった後だった。
あれからツトムは、未空と宇未は部屋に戻るようにと指示をだし、四郎の手に応急処置を施した。それからは名無しの《彼女》につきっきりの夜となった。未空は《彼女》が心配になって見に行こうとしたけれど、宇未も、そして部屋の前に立っていたツトムも、もう未空と《彼女》を会わせたくはないようだった。
未空と宇未は、次の日で帰るということで結論を出した。元々の予定通りだったといえば、そうなる。しかし帰ってからもやることがある。まず、未空の父と、黒動にも、色々と長い報告をしなければならない。彼らはこの事件と、秤零士の死を、どう受け止めるつもりなのだろうか。
次の日の朝になった。未空は宇未より先に起きて(この日も同じ部屋で寝ていた)、鏡に向かった。髪留めをつけて、母親に会ってみた。今までと比べてわずかに気持ちが変化している。それがどういうものなのか、正体には気づけないままだった。
未空は焦っていた。
四郎にまだ礼を言っていない。いや、これは礼というよりも謝罪が正しい。兎に角、どういう顔をして彼と対面すればいいのかが判らない。
十分ほどすると宇未が起きた。二人はベランダに出て、しばらく天竜川を眺めていた。エンジンの音が聞こえてきた。一台車がこちらに向かってきたようだったが、ここからだとよく見えなかった。まさか警察が来たということもあるまい。
「なんだろうね、今の。車だよね」
「さぁ」未空は無関心に流して、天竜川を見続けた。
「四郎さんの事考えてるでしょ」
「……良く判ったね」
「言ってくれば? お礼」
「お礼っていうのとは、違うと思うけどね」
「どの道、このまま帰るっていうのは、無しでしょ」
「……違いない」未空は潔く認める。
《彼女》はまだ図書室にいる筈だ。今、《彼女》は何をしているのだろう。まだ、ツトムと一緒にいるのだろうか。
「……そうだ」宇未は未空を見る。「……あのさ――」宇未は顔を赤くした。
「……何?」
「――あぁ、いや……。やっぱ。なんでもない」
「言われると気になるじゃん」
「……今度。今度ね」宇未はニヤニヤしている口元を手で覆って隠している。
それからまた長い時間、二人は天竜川を見ていた。何もすることがなくなって、未空はどのタイミングで帰るか悩み始める。
玄関の方から音が何度か響いた。未空が扉を開くと、間からツトムの顔が覗けた。
「ツトムさん?」
「やぁ。あぁ……、その……」珍しくツトムは、参っているような様子だった。「……あんたに、お客さんだ」
「お客さん?」未空は不安になる。「……そういえば、さっき、車がここに入ってきましたよね」
「そう、その人が……あんたに」
「……僕、何かしましたか?」
「いや……そういうわけじゃ、ないんだ。……そのーやっぱり……、うん、行けば判る」
未空が扉をぐぐる。階段を降りてエントランスまで行ったところで、非常に見慣れた人物に出会った。未空は一瞬だけ自分の目を疑ってしまう。
エントランスには四郎がいて、後ろから宇未とツトムもやってくる。
その人物は未空の姿を見つけて、左手をあげた。宇未が驚いたように頭を下げて挨拶をしたので、彼も返事を返すように頭を下げる。一見、目の前の彼は無表情で不愛想に見える。髪の毛は中くらいの長さで、綺麗な黒色だった。顔だちは整っているが幼く見える。しかし彼の年齢が秤と同じだということを、未空は知っている。
未空は彼の前に立って、何を言えばいいか判らないままだった。
天宮城空。未空の父親だった。
「何があったかは、おおまかに聞いた」未空がどうしてここに来たのかを問うよりも早く、彼が言った。「……秤が、死んだんだってな」彼は氷のような表情のまま、未空を見た。
宇未は急いで彼の前に立つ。「私の――私のせいです」
宇未は必死に訴えていたが、天宮城空は首を横に振った。「……宇未ちゃんのせいじゃない。あいつの考えることなら、俺にも少しくらいなら判る」
「でも、私をかばって……」
「大丈夫」天宮城空は目を閉じて、囁くように言いきかせる。「……きっと、ようやく判ったんだ、あいつ。何が一番大切だったのか。……それしか考えてない奴だったから」
天宮城空が何を言っているのか、誰にも判らなかった。
「……父さん、仕事は休み?」未空は訊くべきことを間違えた。久しぶりに『ずれた』という実感が沸く。
「一日だけ。明日から、また出る」天宮城空はどこか素っ気ない様子に見えた。
「そっか」未空は残念そうに斜め下を見る。
天宮城空はエントランスを見渡した。「未空」
「何?」
「ちょっと、話せる?」
未空は今度は耳を疑った。「……え?」
「少しだけでいいんだけど」
「……僕は別に」
天宮城空は未空以外の全員を見る。「……平気でしょうか」
「あ、ええ。別に、大丈夫ですよ」四郎は戸惑いながらも言った。ツトムにしろ、やはり父とはやりにくいようだった。自分だけではないのだと知って、安心してしまう。
「……ありがとうございます」空は頭を下げた。「行こうか」
空が先に外まで行く。未空は幼い頃から知っている背中を追いかけて、外に出て行った。玄関を出てすぐのところに、木箱でつくられた灰入れがあった。手慣れていない釘の打たれた跡が目立つ。未空は今までそれがあったことに、気づかなかった。
「父さん、最近仕事どう?」未空から口火を開く。準備運動みたいな世間話のつもりだった。
父は上を見ながら煙草を吸っている。昔から未空にはこういう父親ばかりしか記憶にない。
「……そこそこ思い通りになるようには、なってきたかな」
「……そっか、すごいね」未空は目を瞑って笑う。話しているのが楽しいと思われたかったからかもしれない。「僕はまだまだだよ。……やっぱ父さんみたいには、うまくできなくて……」
天宮城空は煙を吐いた。どこか煙草を吸う方を優先しているようにも見えて、会話のテンポが悪い。「でも、お前が解決したんだろ。この一件」
「解決なんて、とても言えないよ。……ただ偶然大切な部分だけ判って、大事なところを話しただけだったし……」
父が煙を吐いているのを見ていた。仕草や動作はどこか秤零士を彷彿させる。ここの灰入れを囲んで、黒動を混ぜた三人で煙草を吸ったりしていたのだろうか。
未空はほんのわずか笑ったまま、父、天宮城空を見る。「……ねぇ」
「ん?」
「秤さんは、どうして刑事を辞めたの……?」
この時初めて空は表情を崩した。困ったような顔をしていた。「……できれば教えたくないかな」
「なんで?」
「……あんまり教えるなって言われたんだよね」
「でも、秤さんはもういないんだよ?」未空は不謹慎なことを言った。
「……消えたものや忘れたものだって、いなくなるわけじゃない」言って恥ずかしくなったのか、彼は誤魔化すように肩を竦める。彼はあまりこういう宗教めいたことは言わないので、驚いた。「死んだって約束は守る」
素直に美しい友情だと思った。自分と宇未にも同じものがきっとあるのだと、未空は信じてみたかった。
「俺の仕事の話をしていいかな」父が言う。おもちゃ箱みたいにどんな話題を取り出すか、わからない人だった。昔からそうだ。なんでここに来たのかも訊けないまま、未空は許可を出す。
「……必死に訴えてくる人がいてさ。依頼人でね。……じっくり――長い長い時間……話をして……それで、なんとなく判ってくるんだ。この人は、そんなことしない人だって」天宮城空は煙草を灰入れに投げ捨てて、新しい煙草を取り出す。「でも、その人を助けられない時だって、多々あった」煙草に火をつける空。「……俺が助けられなかった人は、どうなるか知ってる?」
「……想像はつく、くらい」
『だろうね』と言いたそうに相槌を打ってから、話を再開する。「有罪判決――執行猶予の例とかもあるけど、やっぱり大半は牢屋に入れられる。一生そこで過ごすような刑を受けた人もいたし……、もしかしたらその後に、死刑になった人だって、出たかもしれない」言っている内容と半比例するように、優しく澄んだ声。最悪なコントラスト。「秤もそれと同じくらい辛い経験して、そういう地獄みたいな経験が積み重なって、耐え切れなくなって、刑事を辞めたんだ」未空は黙って父親の話を真面目に聞いていた。「秤が宇未ちゃんを庇って死んだ理由は、なんとなく判る。……お前に同じ道をたどってほしくなかったからだろうな」
「……誰と? 誰と同じ道を?」
「少し考えれば判る。お前には、犯人が判ったんだから」
「……だからそれは」
「――難しいだろ」天宮城空は未空を見て言った。彼の目は楽しそうに笑っているようにも見えた。成長した何かを見て、嬉しくなっている時にするような目だ。「……人、助けるのって」
未空は長い時間上を向いて、表情のない晴天を見つめていた。途中から焦点が狂ってきて、目眩がした。目を瞑って近くのものを見ると、目が正常に戻った。
未空は非力なあまり言葉にして同意することができず、ただ力強く、何度も頷いた。
「酒が飲めれば、ちょっとは楽になれるんだけどな」空が言う。
「あんなの飲める気がしない」
天宮城空は思い出したかのように口元を緩めた。「……そういえば小さい頃、母さんの酒を水と間違えて飲んだことあっただろ」
「……よく覚えてるね」
「そういうこと、子供なら誰にでもあって……、みんな子供は口をそろえて言うんだ。『なんでこんなまずいの飲むんだ』って」
「父さんも言った?」
「うん」
「……今はどう?」
「飲めるよ。おいしいとも思うし」天宮城空は眠るようにゆっくり目を閉じた。氷のような表情はそのままだ。「……だから近い内に、お前も好きになるよ。きっと」
「……なれるかな」
「大学入ったなら、飲み会とか無理やり連れてかされて、無理やり飲まされることだってあるよ。社会に出たら、それだけが楽しみになるやつだっている。……最初はまずくても、少しずつ味を覚えていく。……機会はこれから、いくらでも訪れる」
空はしばらく無表情で上を向いていた。かみ合わまくてぎこちない会話ばかりだったけれど、それでも未空にとっては、何よりも貴重でかけがえのない時間になっていた。
「……そうやって少しずつ、大人になっていこう」
それは不意にだった。
突然、黒い煙が見えた。
視界が何かに書き換えられたみたいな現象だった。未空には時折あるような現象だ。
黒い煙は、煙突から出ているものではなかった。そこにいた自分は六歳ではなかったけれど、十八歳には程遠い年齢だった。
遠くにいる皆が傘を握っているのが見えた。別れを受け入れたかのように、全員があいたもう片方の手を振り続けている。巨大な黒い煙は彼らの遥か遠くの方に見えた。ロケットが飛び立った後に残留する煙みたいな、大きな事を成し遂げた後に残る煙だった。上へ昇っていったものの正体は判らない。最後には見えない高みまで消えていったのだ。
きっと上に飛び立って行った誰かが手を振っていたかもしれない。
それは真実奏だったかもしれないし、黒雲小枝だったかもしれない。星七田旺次郎の可能性だってあるし、秤零士だということも十分考えられる。こうやって死んだ人達は、夜空の星々に加わっていくのだろう。
何も受け止められない自分は手を振ることすら忘れて、夜空に飛んでいくその煙を見続けていた。
「未空」呼ばれた未空は、機嫌のよさそうな父親を初めて見たような気がした。
「何?」
最初に天宮城空は、煙草の煙を吐いてから、何か言おうと高級な言葉を探しているようだった。
時間稼ぎをするよう、彼は時間をかけて煙を吐いた。空気の密度を確かめているみたいにも見えた。
父の横顔を見る。彼のまぶたは二重で、まつ毛が長かった。はじめて気が付いたことだ。
煙を吐いている内に、煙草の白い灰が勝手に落ちていった。空は『頼みもしていないのに』と言いたそうな顔をしてから、短くなった煙草を灰入れに投げ捨てた。そこで彼は言葉の階級の上下関係を探すのを諦めたようだった。
煙草の寿命がタイムリミットの役目みたいなものだったかもしれないが、それでも天宮城空は何かを言おうと言葉を探していた。こういうところが自分と似ているなと、未空は考えた。
双方にとっては何よりも気まずい時間だった。
それでもやはり、未空はこういう時間を大切にしたいと切実に思った。
父親は溜息をつく。
煙は出なかった。
ようやく諦めがついたみたいだ。
ゆっくり。
目を閉じて。
すぐに開いて。
彼は最後。優しく微笑んだ。
「よくやった」
ぼうっとしていて、最初は何を言われたのか聞き逃しそうになった。それが脳の中に、徐々に滲んでしみ込んでいくよう、少しずつ認識を広げていった。どうするか迷った挙句、誤魔化すように目を瞑って笑うことにした。
「……あ、いや……、僕だけじゃ、駄目だったよ」未空はとぼけた笑いを見せながら言う。「……いろんな人に迷惑かけちゃったしさ」未空は一度言葉を区切って、様子をうかがうように父親を見た。父は優しく笑ったまま頷いて、未空の目を見て、言葉を真剣に聞いていることを合図した。どうしてだかそれを見たら急に辛くなって、また誤魔化すよう、手あたり次第に言葉の引き出しを開け続けた。「……その……あの――。……助けたい人、いっぱいいたんだ。……でも……、助けられることのほうが。……多くてさ。……いっつも失敗しちゃうんだ。……うまく話そうとしても……、全然うまくできなかったし。…………あぁ、でも……、周りの人の話聞いてるだけでも……、すごく……、……面白かったんだ。初日……、外出て、天竜川の見えるところでご飯食べたりとか、して、さ――。…………それで。………………………」
狙ったかのようなタイミングで流れ出てきた調子の良い涙を見て、未空は今までにないほど安心した。
これできっと、もう誰も自分を責めたりはしない。これで皆、自分がそれなりに努力していたことに、少しは気づいてくれると信じていた。けれどここには秤屋敷の誰もいなかったし、未空も気づかれないように嗚咽を押し殺しながら泣いていることに気が付いた。次第に誰の為に流した涙かも判らなくなっていった。なのに、涙の量産は狂ったメーターのままに従って加速する。ようやく僅かに前進できたというのに、自分がまた六歳の頃へ逆戻りしているような気がして怖くなり、そういう思いばかり募ってしまって、寄り添うように集まった涙はどんどん仲間を増やしていく。最後は何かを洗い流す滝のように落ちて地面に吸収され、皆一緒に消えていった。
涙が反射してわずかな時間だけ光になった。
限界を知らないまま進化し続ける優しい光が、今もまだ消えないまま、心の中心で輝き続けている。
痛みを自らさらけ出した。これは未空の光だった。一番判りやすい形で助けを求め、未空が心の溝を照らし出した。黒い煙を見た時、未空はこうやって無意識のうちに助けを求めていて、だからこそ宇未は彼を見つけ出すことができた。
未空だけが、それに気づいていないままだった。
夕方が近くなったころには、ようやく平静を装うことができるほどには回復した。未空と彼の父親は屋敷内に戻ってきた。エントランスには宇未の大荷物がソファの上に乗っかっていたが、誰もいなかった。宇未はまだ帰り支度が終わっていないのだろう。ツトムと四郎の二人は恐らく、《彼女》のところだ。
「……あぁ、そうだ」未空はいいながら、自分の声を客観的に分析する。いつも通りだ。「父さん、なんでここに来たの」
「あぁ」天宮城空は思い出したかのように、エントランスの真ん中まで移動する。かつて真実姉妹のつくった猫のぬいぐるみが置いてあった位置に、一つの紙袋が置かれていた。天宮城空はそれを取って戻ってくる。「……これ」
未空は両手でそれを受け取ってから、反射的に父親の顔を見た。未空は絶句した。それは未空が忘れた、秤屋敷全員への土産だった。「……これだけの為に来たってわけじゃないよね」
「なんで?」天宮城空はいつも通りの無表情に戻っていた。
「……いや、だって、休み一日だけだって」
「一日あれば、届けて家に帰るのには十分だろ」
「そうじゃなくて……」未空はどう言えばいいのか判らなくなり、結局その続きは言えずじまいだった。
「なんか最近流行ってるらしいね、それ」父親は紙袋を指さしていった。
「どこで知ったの」
「……あれ、どこでだっけな」空は顎を撫でながら上を見た。思い出せなかったのか、首を傾げて話題を切り上げた。
「なんで、わざわざ届けにきたの」
天宮城空は未空の耳元で囁いた。「……だってなんかお前、準備してるとき、楽しそうだったから」
「それだけ?」
「それだけ」
未空は再び絶句して、父親の様子を眺めていた。父親は自分がどれだけ『ずれた』行動をしているか自覚していないみたいで、淡々と煙草を取り出して、吸い始めた。
「お前さ」父親の目が密かに笑った。「……わざと忘れただろ、それ」
未空は動揺した。「……なんで判ったの?」
「お前は俺とそういうとこで、同じ考えするから」父が笑うと、一緒に煙が出てきた。「……いざ渡す時の事考えると、なんか恥ずかしくなるだろ」
「父さんだけだよ」未空は言った。「他の人に言っても、判らないものだろうね。こういう気持ち」
「だろうね。それを判っていながら持ってきた俺も、中々に鬼畜なことしてっけど」
「そんなことないよ。ありがとう」未空は笑った。
「どうする? それ」
「これで渡さないって言ったら、僕の方が鬼畜になるでしょ」
「言うね」
天宮城空は持ってきた灰入れに死んだ煙草を入れて、新しいのを咥えた。それから図書室の扉を見た。
「そういえば……秤を殺した、《彼女》に会ったよ」
「……え?」未空は突然で驚いた。この父親と《彼女》が会って、一体どういう会話をするのか、全くもって想像ができなかった。
「お前に伝言。最後に一つ、言い忘れたことがあったって」
未空は理由もなく身構える。「何?」
「あの子の親に言われたんだってね。お前に二つの力があるって。片方しか、聞いてなかっただろう?」
「――あ。……あぁ……、その事か」未空はすっかりそんなことは忘れていた。それが最後の伝言だというのも、心底意外だった。
「……またちょっと、無駄口挟んでいい?」と、空。
「伝言とは、関係ある?」
「ある」
「じゃあいいよ」
未空と彼の父親は、ソファに座った。天宮城空は、持ってきた灰入れをポッケにいれて、机の上にあった灰皿を膝に置いた。
「……三十年くらい前かな――」また彼は、予想もできない方向から話を始めた。「……学生達の間で、話題になった学者が、一人いたんだ」
「……学生達の間で? 学者が?」
「うん」父親は灰を落とす。「……いつの時代だって、学生は問いかけるんだ。どうして、数学なんてものがあるんだって。……数学を勉強して、何の役に立つんだって」天宮城空は、目を細くした。煙草の煙が目に入りそうになっていた。「例えばね……ある学者は言ったんだ――役に立つ必要なんてないって。……そして、ある学者は――実用的なことだけを教えるのが勉強ではないと言った。……また、ある学者は、すぐに答えを求めようとしている内は、いつまで経っても無知のままだって言った。――とんでもない学者は、こんなものがあるおかげで自分は飯を食えていると返した」
未空は密かに笑った。「父さんはどう思う? その学者達の発言」
「俺は全部正しいと思うよ。……勉強の全てが役に立つ必要なんてないし、すぐに答えを求めるのは、自ら無知をさらけ出している愚か者だ。……そして、数学なんてものがあって、そのおかげで飯を食えている人がいる。……全部、この上無い真理だろ?」
未空は取り繕った真似もせずに肯定した。「そうだね」
「そういうことばかりな学者達の中で、その話題になった学者は、あえて民衆と同じ目線の高さまで降りていって、彼らと同じ疑問に対して、一から考えなおしていくことに決めたんだ。皆が当たり前のように持っているその疑問に対して、彼はなんとか少しでも納得のいく答えをつくろうと努力した。意地を張るような真似もせず、取り繕ったような態度もとらず、頭の良く見えるような言葉を選んだりもせず、ただ自然体で、民衆と同じような言葉と態度を使って、彼らと対等に接していったんだ」天宮城空は、服についた灰を払った。「……真実を見極める力を養っていくこと。それが、彼なりに出した、最終的な結論だった」
「……真実を見極める力」未空は真実奏に話した、数学の話を思い出す。数学が好きだったという話――数学だけは、毎回満点だったこと。「お前にあった、もう一つの力だってさ」話を戻そうとする父親。「ちなみにその学者の説な、賛否両論は酷かった。……けど実は、主に反論を唱えたのは、同じ学者や、理屈と世間体に縛られている大人達が大半だった。……意外にも、当時の学生達からは、かなりの支持を得ていたというわけだ。わずかにでも意味を提示できたことによって、結果、少なからず数学を学んでいこうとしていくモチベーションに繋がったわけだ」
(……そういうことか)
彼女――真実奏も、恐らくはその学者の考えに魅了されていた一人だったということだろう。未空は父親の指の間に挟まっている煙草を見つめる。
「……その学者――。……名前、なんていうの?」
未空は煙草を見つめたまま訊く。
父親は勿体ぶるように空白をつくった。
「――秤真士」
天宮城空は言った。
「秤零士が一番尊敬していた人物だよ」
別れが近づいてきた。
全員がエントランスに集まったところで、未空は四郎のところへ行った。
「本当にすみませんでした。腕の事。あと、旺次郎さんの部屋で……」未空は頭を下げながら言葉を探す。
「いいってばさ、そんな」四郎はふざけながら、包帯の巻かれた腕を揺らす。「良かったよ。なんとか最後に、こういう風にでも役に立てて」それから四郎は肩を竦めた。「……最後まで迷惑かけたよ」
未空は否定する。「……あなたがいなければ、僕は死んでいた」
「あんたがいなきゃ、事件は解決しなかった」四郎は断言する。「……互いに謝りたいこと、色々あると思うけどさ。……そういうのは、もうやめよう」
四郎は利き手を差し出した。四本あるうちの一つの腕。未空は異形の手を握り返した。
「俺、馬鹿だけどさ。小学校の時に先生が言った言葉だけは、忘れないようにしてるんだ」四郎は姿勢を整えて、大きく息を吸う。「生きている間に出会える人の数って、三万人なんだって」
「あぁ、SNSかなんかで見ました」
「俺の先生が先だよ」四郎はムキになるように言った。握手に使っていない、空いた手で指折りした。「……親しい友人が三十人で、親友が三人だっけ。俺にとっては……親友とか友達とか、そーゆーランクはどうでもいいんだ。皆大切にしてやれれば、それでいいって思ってるから」四郎は深呼吸してから言った。「ただ、やっぱさ……。お前が俺のその三万分の一になってくれたことを、誇りに思うぜ」
「また会いたいです」未空は静かに言う。「次に会えたのなら、その時は友達になれているかもしれないから」
四郎は笑って手を離した。未空は紙袋に入っていた土産の一つを彼に渡す。四郎が下がると、それと入れ替わりに、ツトムが未空の前に来た。ツトムは真剣な表情をしていて、どこか厳しくしているようにも見えた。
「君に敬意を表する」ツトムが手を差し出した。四郎の手の熱も冷めていないまま、彼の手を握り返した。「非常に貴重な体験だった。読者の成長をこうして直に見れたことを、誇りに思う」
「……多分、まだ無能の名札は取れてないままです」未空はツトムと同じような表情をつくって言い返した。
「……そんなことは無い。君は長い間、挫折し続けて、何度も諦めた。続けていた努力は惰性だったかもしれない。……それでも君は昨日の夜、ようやく俺のつくった人物達に追いついて、肩を並べて歩きはじめたんだ。……君の尊敬しているアルサ・コスモナウトだって、その一人だ」未空は幼い頃に知ったアルサ・コスモナウトへの憧れを思い出しながら、ツトムの言葉一つ一つを噛みしめた。「……無能の名札が取れてないのは、むしろ俺の方だ。……また一からやり直すよ」ツトムは手を離して、「また会おう」と言った。ツトムにも土産の一つを渡した。
「二人は、これからどうするんですか?」宇未は四郎とツトムを見て訊いた。「……この事件の事。警察には……」
「君たちは何も心配しなくていい」ツトムは頼もしい声で言った。
「……あとは、大人の役目だから」四郎も加わる。
「……俺の方で、何かできることは?」天宮城空が言った。
「大丈夫です。あとは、俺たちだけで。……警察が家に来ることはあるでしょうけど、それ以上の迷惑は、おかけしません」ツトムが言った。彼が敬語を使うのは中々に新鮮だった。
宇未も二人と別れの言葉を交わして、握手をした。宇未と空は先に屋敷を出て行った。未空は二人に深く頭を下げてから、扉に手をかけた。
「未空」四郎の声がしたので、未空は振り返った。
「……はい」
「あのさ」四郎は走ってこっちまでやってきた。「……うまく言えないんだけど。その……。ありがとな」
「安物ですよ、それ」未空は渡した土産を指さす。
「ばぁか、そうじゃねぇよ!」四郎は笑って、茶化すように四つの腕で未空をたたいた。包帯の巻いている腕から激痛が伝わったのか、頭の悪い叫び方をした。手の痛みが引いた後に、未空を軽くつつく。「……お前さ」
「はい?」
四郎はいつもと違う態度を示してから、悲しそうに未空を見た。
「……もうちょっとだけ……、自分の事大切にしろよ」
数秒が消費された後、未空は何かを言った。ほとんど思考せずに言った言葉を聞いた四郎は、満足そうに頷いた。屋敷を出てレンタカーに乗った時、未空は自分が何を言ったのか、まるで思い出せなかった。もしかしたら、その場しのぎのデタラメを言ったのではないかと不安になってしまう。
「お待たせ」未空はシートベルトをしめた。
「うん」宇未は何故だか圏外になっている携帯をいじっていた。
……自分は何か変われただろうか。
譜詠江夏が宣言した非情な事件の後だというのに、それでも未空はそのことだけを考えてしまう。今まで大切にしてきたものをいくつか犠牲にして、この事件の謎の一部分だけを解決させた。
失うものばかりだったし、振り返れば、犠牲や自ら捨てていったもので溢れている。
(……それでも守るべきものは確かにあった)
それが具体的に何を指すのかはわからないけれど、ただ判ったのは、それがたった一つだけではなくて、色々なところに落ちて散らばっていたということだ。
それはここに来た時の自分では気づけなかったことだ。今は前を向いて歩きながら、それらを拾い続けていく。そうしていく内に、今まで考えなかったことについて考えるようになっていく。
少しずつ視野を広げて行って、今まで敵だと睨んで隔ててきたものに対して、今度は自分から歩み寄って向き合っていくことに決めた。
お化けトンネルに入ると、宇未が怖がって、また服を掴んできた。行きの時もこうしていたなと思い出して、未空はそのトンネルの中で車を停車させる。それから車のライトを消して、何も見えなくなるようにする。宇未は何も訊かないまま。未空はシートベルトを外して、ゆっくり彼女に手を伸ばして、その先にいた雪桜宇未を弱い力で抱きしめた。
「……あなたは一つ残らず、全部見つけてくれたね」
宇未は優しく未空の頭を撫でる。未空は恩返しをするように、宇未の頭を撫でた。
「……本当に、どうもありがとう」
宇未の手首に触れる――木の感触のある、ハンドメイドのブレスレッド。昔から経営している、とある店が売り出している物で、その店は譜詠江夏が予言した通りの日に流行り出した。
ブレスレッド。
それは未空の土産。
かつての彼が置き去りにして、忘れ、そして今――ようやく取り返すことのできた形。
ブレスレッドの中心部分には何かのマークが彫られている。しかしその正体は、未だ誰にも判らない。
それが彗星の形なのだということは、今はもう、忘れ去られている。




