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忘れられた彗星  作者: ちゃど
2/5

第二章 守られてきた正義









 お母さんが死んだ。 

 もう一度だけ、思い出した。つい昨日の話。






 

 































 第二章 守られてきた正義


 1


「赤い体」

 夢の中で誰かがそう言って、中でもぞもぞと動いている袋を指さして言った。声の主は自分と同じ姿をしていたようで、全く別の姿をしているようにも見えた。声の主は足元にあった刃物を拾って、袋に刃物を突き刺した。袋から大量の赤い液体があふれ出た。

 高い笑い声が聞こえる。

 何度も何度も袋に刃物を突き刺して、その度に多くの液体があふれていく。

 穴の開いた袋から、真っ赤な手が出てきた。


 黒い煙――。

 いなかった父親――。

 そして今までと違う別の夢。

「――みぃくん!」目を覚ます前に、柔軟剤の匂いがした。それから意識が覚醒する。何故だか宇未の両腕に拘束されていた。未空は何をされたのか、判っていないようだった。抱きつかれているのに気づくが――『怖い事が起きているんだ』という見えない恐怖に体が支配されていた。「よかった、よかった! もしかしたらって思ったから……、よかった……本当に……」

「……宇未姉?」

 未空の心臓が暴れている。

 すぐ傍にある柔軟剤の匂いが、今は判らない。


 今から数分前。創が奏の部屋の扉を叩いて起こそうとした。何度扉を叩いても起きなかったので、エントランスにいた秤が気づいて下からやってきて、マスターキーで鍵を開けてくれた。

 ――部屋の奥で規則正しき姿で寝ていた真実奏は――死体になっていた。

 彼女の胸から、赤い血が流れ出ていた。

 第一発見者はこの二人となった。けれどエントランスには小枝と四郎、そしてツトムの三人がいたので、すぐに駆けつけることができた。宇未が起きて扉を出てきたのも、丁度この時だった。

 皆は先に部屋に入り、秤は宇未にマスターキーを渡し、すぐ未空の無事を確認するようにと言われた。


 遅れて奏の部屋にやってきた未空と宇未は、靴を脱がないままで部屋の中に入った。床には大量の血が流れていたからだ。

 真実奏の死体は、窓のすぐ近く。入口側から見て、部屋の中央上に位置することになる。お菓子が置いてある机は入口側から見て、部屋の左下の隅に移動されていた。恐らく寝る前に奏がどかしたのだろう。その机の上には、昨日未空が置いた位置に、ちゃんと鍵が置いてあった。

 皆が死体を取りかこむよう、半円状に整列している。ただ一人だけ、創だけが皆より数歩後ろのところで両膝をついて座りこんでいた。膝には彼女の姉の血が浸っていたが、当然創はそれを気にしてはいなかった。 

 未空は皆の間に割り込んで、真実奏を見る。自らを支えることすら放棄した器。

 心臓辺りに小さな穴があり、そこに小さな池ができていて、既に渇いて黒ずんでいる。ここを刺されて殺されたのは明白だ。彼女はあおむけに寝ていて、布団はかぶっていなかった。彼女の頭のすぐ横には、真っ赤に染まった小さなナイフが落ちている。

 赤い体は、いつまで経っても動かなかった。

(赤い体……?)

 冷凍保存されたみたいに長い時間、誰も動かないままだった。


「警察は無しだろうな」

 エントランス、開口一番――ツトムの声に、皆が顔をあげた。今だけは、この世で一番残酷な発言だっただろう。ツトムは一人立っていて、他の人達はソファに座っていた。皆、なんとか浮いたような感覚の腰を落ち着かせようと努力していた。

「なんで――?」未空が枯れたような声で問う。

「……小枝ちゃんがいるからだ」珍しく、ツトムは言いにくそうにしていた。「警察に小枝ちゃんの存在を知られる訳にはいかないだろう」

「なら」小枝は立ち上がって喋った。彼女が一番パニックになっていた。しかし大きな声は出せず、それでも小さな声で必死に訴えようとしていた。「なら、私が……捜査が終わるまで、どこかに隠れていればいいんですよね。部屋の物なら、全部処分しても構わないから――」

「そういう問題じゃないんだよ、小枝ちゃん」ツトムがなだめるように言い聞かせた。「いいか、警察にこの屋敷の指紋を採取されてみろ。必ず、君の指紋が出てくる。相手はプロだ。君の存在がここになくても、君がいたことを隠しきるのは、正直難しいと思う」小枝ははっとして、言葉を失った。「何より、警察にこの事態を知られたらどうなるか、残念ながら全く想像もつかない。これは異例の事態だ。……俺たちはクローン人間をかくまっていたようなもんだ。俺たち全員例外なく、小枝ちゃんをクローン人間だと知っていて接していた……。ペナルティがあるかどうかすら判らない。そして何より……、国から小枝ちゃんへの処置がどうなるか……、これも全く想像ができない」

 ツトムが簡潔に問題点をあげただけで、誰も反論ができなくなった。誰かが舌打ちをした。未空は小さく息を吸ってから言う。「なら、どうするんですか」

「天宮城未空。君だって知っているだろう。こういう状況下に陥った本の中の主人公達は、どうしてきた」

 未空は立ち上がった。咄嗟に叫ぶのを抑えることができたのは、彼にとって奇跡みたいなものだった。「ツトムさん……僕はフィクションの話をしているんじゃないんですよ」

「じゃあ逆に訊こう。君はどうする? ……どうしたい?」 

(……どうしたいって?)気づけば、未空は無意識に彼の言葉への抵抗を諦めていた。

「そういうことだ。奇麗な言葉しか吐けないなら、黙って聞いてろ」ツトムは決心したように、中央の机に向かって一歩踏み出す。

「待ってくれ、ツトム」秤は低い声で言う。「……君は……、君は一体、何を言おうとしているんだ……?」

 ツトムは呆れたように目を瞑って、ゆっくりと息を吐く。「……そうだね。あえて言うなら――」彼は軽蔑するような目で、座っている人々を見下した。「――逃げるな……って言いたいね。真実奏が死んだ――死んだんだよ、皆。なぁ、判ってるのか……? まだ自分だけは綺麗な体していたいか? そこまでして世間体を守りたいか。目ェ逸らして判らない振り続けるなら、俺が直々に言ってやるよ。本当は知っていることを、わざわざとね」

 勝ち負けの条件すら整っていないまま。

 ツトムはついに宣言した。

「――犯人探しを、するんだよ」

 内心、誰もが受け止める準備をしていた筈の言葉だったのに、全員、まともな返答は用意できていなかった。

「……犯人?」秤の目が泳ぐ。「この中にいる皆を疑えって……そう言うのか?」

「もう一度質問されるなんて思わなかった」ツトムはより鋭い口調を選んだ。「そう考えるのが、自然だろう」

 秤が立ち上がって、ツトムを睨む。「部外者がやったという可能性が残っている」

「完全に否定はできない。だが現実的じゃない。部外者が何かしらの方法でこの屋敷の二階の部屋に移動して、殺害した。……考えるだけで馬鹿馬鹿しい。秤零士。ここにいる誰かを疑うことすらできないなら、あんたはただの臆病者だ」

「それでいい」秤は首を振って断言した。「ここにいる誰かを疑うなんて、できるわけないだろう。……君だって知っているじゃないか。……僕は君の言う通り、ただの臆病者なんだ」

「知ってるよ。だってあんた、逃げ出したんだもんな。本当の事から」ツトムは両手を広げる。「けど、あの時――逃げ出した時に置いて行ったものが、いまもこうやって、後ろからずっとついてきているんだよ。……だからこういう事になったんじゃない? あんた……きっと逃げられないんだよ。ずっと」

「――頼むからさぁ」遠くの方から声がした。階段をおりてきた旺次郎が、やってきた。彼は死体を調べていた。「そんな判りにくい言葉ばっか選んで二人きりで会話するの、やめてくれ。皆困ってるじゃないか」

「旺次郎――」小枝が安心したように彼の名前を呼んだ。

 ツトムは旺次郎を見る。「悪かったよ。……で? 何か判ったのか」

「何が知りたい?」旺次郎の長い舌が口からはみ出る。

「知ったこと全て」

「オーケェー」旺次郎は小枝の横に座る。「まず、死亡推定時刻だ。死後硬直のピークだったから、およそ八時間前。今は大体、午前十一時半ってとこだから、およそ午前三時から午前四時の間ってところかな……」

「死因は?」ツトムがリードする。

「あまりに明白だ。……胸の刺し傷。傷口のサイズからして、凶器は横にあったナイフで間違いない。助かったね……あまりに念入りにチェックするのも気が引けるし、裸にしてあちこち解剖するようなことになったら、皆に顔が合わせにくいから」

「動かされた形跡とかは?」

「流石だねぇ、ツトム。質問が冴えてる。参考書はミステリー小説かな」

「茶化すな」

「可能性はゼロだ」旺次郎が断言した。「あそこで殺された。これは一応ってことで言うけどぉ――抵抗したとか、争った可能性もなさそう。……眠っている時に殺された。部屋の中にさえ侵入できれば、殺すのは容易かっただろうね」

「……侵入経路は?」

 旺次郎は負けを認めたように首を横に振って、両手をあげる。「……それは、俺の専門じゃあないからねェ」『けど』、と旺次郎は言葉を繋げる。「一つだけ判ることはある」

「何?」

「密室殺人」誰もがその言葉にくいついた。言われる前から、薄々理解していた人もいただろう。「……窓も、部屋の鍵も、ロックがかかっていた」

「でも、窓からの侵入なら、簡単に密室がつくれるでしょう」未空が意見を出す。「あの窓には、少し隙間があります。窓と、壁の間にある隙間です。その間から細いもので、下からフックを持ち上げれば、簡単に部屋の中へ侵入できます。外に出る時も同じです。予め、細いものでフックを少し持ち上げておいて、窓を閉めてから、持ち上げていたフックをおろせばいい」

「――前提の着眼点がまず、ずれてる」ツトムが即反論した。「そんなことは馬鹿にでも判るんだよ、天宮城未空。仮に外から侵入したってなら、どうやって二階のベランダまで上ってきたか。証明して欲しいのは、その方法なんだよ。知っての通り、屋敷周辺の地面はコンクリートで、あそこには登ってベランダへ飛び移れるような木は近くにない。その上、この屋敷にはハシゴやロープだって、ないんだぜ?」

「山に住んでいるのに?」未空は『ずれた』ことを言っていないか、心配になった。

「必要ないんだよ。ここには近くに木の実や果実のなる木があるわけでもないから。それに、仮にハシゴがあったって、リスクが大きい。なんせ、この屋敷にはカーテンがない。大がかりな用意をしてたら、小枝ちゃんに見つかる」秤が言うべき台詞まで、

ツトムが独り占めする。

「なんで、小枝さんに?」未空が訊く。

「後で話す」ツトムは苛々しているようだ。「……まぁいい、判った。……以上が、星七田旺次郎の調査結果ということでいいなら、次の段階に移行しよう」

 ツトムが確認するように旺次郎を見た。旺次郎は「いいよ」と言わんばかりの態度を取って見せた。

 ツトムの次の段階とは、アリバイ調査だった。けれど日付が変わるか変わらないかくらいの時間には、全員がそれぞれの部屋に戻っていたため、皆それぞれ似たような証言になった。

 部屋に戻って風呂に入って、部屋の中で大人しく自由行動を取って、寝る。ツトムは一人一人の証言に対して、細かい部分まで追及していったけれど、得られた情報は無かった。

 唯一起きていたのは、小枝だけだったらしい。彼女は不眠症で、それはここにきてからなってしまったらしい。夜中は研究所時代の事を思い出してしまうようだ。初めて星空を見たこと、大地を踏んだこと、抜け出して朝まで走り続けていたこと――。それは、ここにいる全員が知っていたことらしい。未空はツトムの言っていたことを理解した。

「寝たのは、何時くらい?」

「午前五時くらいかな……」小枝はおよそ五・六時間しか睡眠をとっていないということになる。

「外から、何か見えなかった?」

「いえ……。何も見えなかった」

「じゃあ、音はしなかった?」

「……それも、何も。上からもしなかったし、外から――ハシゴとかそういう、細工するような怪しい音とかも」

「もう少し、よく思い出してほしい」

 小枝は記憶の中に潜るように目を閉じる。「……駄目。ごめんなさい、やっぱり何も……」

「抵抗や争った可能性は考えられないってば」小枝の隣にいる旺次郎が助け船を出す。小枝は安心したような表情をして、旺次郎の服を掴んだ。「それにさぁ、君だって知ってるだろ、ツトム。この屋敷はそれなりに構造が良い。仮に一度二度倒れたりしてたとしても、大して音は響かない。隣の部屋の人が起きていたって気づかないだろうさ。壁や床に何度も強くぶつかるほど激しく争ったのなら、流石に気づくかもしれないけど」

「そうは言うけれど、今は彼女だけが頼りだろう。他の全員は、似たような証言になる」ツトムが粘る。

「だからって、このまま無理な注文させるわけにもいかないでしょうに……」旺次郎は小枝を横目で見る。「大きな音が無かったと小枝が言っている以上、もう仕方のないことなんだよ」

 ツトムはうんざりして、頭をかいた。「判った。……じゃあ小枝ちゃん。もし、これから何か思いだしたら、必ず教えると約束してほしい」

「勿論」小枝が頷く。

「で? 現時点、誰も確実なアリバイ証明はできていない。なら、どうする?」旺次郎が先を急ぐ。

「犯人の候補を絞ろうか。現時点のね」ツトムは建前もなく宣言する。

「そこまでするってのかよ……」四郎が低い声で言う。

「そこまでしなきゃいけないだろう。もう一度言うけれど、人が死んだんだ。この中に犯人がいる可能性が極めて高い以上、もう上っ面だけの友達ごっこはできないんだよ」ツトムが秤零士をみる。「まず、あんただよな」

「そうだね」秤はあっさりと認める。「マスターキーを持っている」

「ミステリー小説としてこのオチはタブーだけれど、しかし現実問題では、こうオチをつけるのが、一番手っ取り早いからね。手っ取り早いだけで、真実かどうかは、確かめられないけど」ツトムは無駄口を挟んでから、創を見た。彼は戸惑いながらも言った。「……もう一人は、言わなくても判るね」

「気を遣ってくれるんですね。わざわざ全部言わないってことは」創は乾燥したような声を絞り出す。「不思議ですね」と、創は、はじめて自らの意志で発言した。皆に問いかけているようだった。「姉が死んで、その上犯人の候補に挙げられているっていうのに、私は泣きもしない。怒りもしない。狂ったりもしない。取り乱しもしない」創は顔をあげる。「私が犯人で、それで事件が終わるなら、是非ともそうしてほしいくらいです。……今は、そういう気分です。死刑にでもなってみたい」

 動機という正攻法から辿っていくのなら、彼女が犯人という形が一番、型にはまる。同情をくれてやっている場合でないのは判るが、それでもツトムとはいえ、この状況には考えてしまうところがあるようだった。

「……問題は、方法と動機を両立させる人物がいないわけだよ」ツトムは申し訳程度に付け足す。「秤零士は方法だけで、真実創は、動機だけ……」ツトムは自分の発言に一旦区切りをつける。「いいや、判った。うだうだ言っていても仕方ない。じゃあ決めなきゃいけないところを、とっとと決めよう」

「決めなきゃいけないこと……?」宇未が口をあける。「……どういうことですか」

「これからの事だよ、当然。事件が起きてしまった以上、俺たちは予防をしなければならない。もう一度、殺人が起きることを前提として行動するべきだろう」宇未は納得したようだけれど、反応を取らなかった。「俺たち一階の住人はクレセント錠だけれど、二階の住人はフック式だろう? なら、フックを何かしら開かないようにするしかない。ガムテープを張り付けるでも、接着剤をつけるでも――そういう気休め程度でも、やらないよりはマシだ」

「……一階の人達は、クレセント錠なんですか?」未空が手をあげてから訊く。

「そうだよ」秤が答えた。「この家の構造を企画した人の案だったんだよ。その人はデザイナーでね。クレセント錠よりも遥かに値段が安かったし、見た目もフックの方がお洒落だったし、俺もそこまで執着するところもなかったから。一階は流石に危ないからって、二階だけにしたんだ」

 ツトムが全員に語りかける。「いいか、夜に誰かがノックしてきても、絶対に開けないこと。ノックされた時は、のぞき穴で誰が来たか確認だけして無視するってのもアリだな。正直、人目の無い時間帯に扉を開けることすら、避けたほうがいいね」

「――このマスターキーは、どうする?」話が終わりそうな頃を見計らって、秤が発言した。

「捨ててもらおうか」ツトムは即答した。当たり前なことを言う時に使う、フラットな口調だった。「幸い、天竜川もある。そこに投げ捨ててもらう。あそこに投げ入れさえすれば、流れていくし、もう取り戻すこともできないだろう」

「判った」秤も迷わず了承した。

 ツトムは一同の表情をうかがう。「死体を見たあとだ。食欲もでない人ばかりだろうから、飯はそれぞれ別々に取ろう。秤、食堂貸してくれ。空いた時間に、俺が皆の分の料理を、作り置きしておくから」

「ツトムさんは、どうするんです?」宇未が訊いた。

「犯人を探す側に回るかな」それから彼は声量をあげる。「さっきは、逃げるな、なんて言ったけれど、何もしたくないなら、もう何もしなくていい。ただ、そう決めたからには、何もしないでいることだ。真実を知りたがっている人の邪魔をしないことだけを考えて、じっとしていること。何もしたくない人にできる最善の手は、それだけなんだから」

「あの……」宇未は目を泳がせながら立ち上がる。「……私達は、帰れるんですか?」

「犯人が判るまでは無理だ」ツトムは即答した。「ここにいる全員に言えることだ。しかも、急いだ方がいい。もしも長い間、事件が解決できなくて、このまま夏焼集落に籠っていたら、俺たちが帰ってこないのを不審に思った誰かが、ここまでやって来るだろう。その時に警察に来られて、小枝ちゃんの存在を見られてみろ。俺たちは一巻の終わりだ。警察が来るまでには何としても、この事件を解決する。……犯人を特定する。その後の事は、犯人が判ってから考えよう」

 それからいくつかの細かい事項を説明してから、解散することになった。未空は立ち上がらず、部屋に戻っていく人達の表情を見ていた。

 全員、昨日と真逆の表情をしている。

 昨日は皆、笑っていた。

『――君はどうするの?』

 誰かが囁く。それはきっと、大人になりたがっている自分の声だ。

「楽しみじゃないか」ツトムは棘のある声を吐く。「いつまで犯人が人間の振りを続けていられるか」

 

 2


「私のせいだ――」エントランスに残っている宇未が言った。「……私のせいだ」

「宇未姉――」

「だってそうでしょう……?」宇未はフォローを入れようとしていた未空を遮る。「みぃくんだって知ってるじゃない……私のせいだって。みぃくんだって、判ってるじゃない……! だって、だってこれって、《あの人》の言った通りってことなんだよ?」

 《あの人》――。未空は嫌なことを思い出した。

「宇未姉が殺したの?」宇未は黙る。「……違うでしょ? なら宇未姉に何の責任もないだろう」

「……判ってない。みぃくんは何も判ってない」

「判ってないのはどっちだよ」未空は意図的に鋭利な声色を選ぶ。未空がこういう口調や声色を使うのは、彼の記憶が知る限り初めてだった。宇未を黙らせるためにはこれしかないと判断してのことだったが、必要以上に宇未を怯えさせてしまう。未空は後悔して謝り、優しい口調に切り替える。「今はやめよう。こういう状況の中で言い争っても、いいことないから」

「……ごめんね、取り乱して。なんか急に――色々実感わいてきて……怖くなって……」

 思春期以降の宇未の取り乱した姿を見るのは初めてだった。なんとか平静を取り戻そうと意識するこの態度が、大人の女性らしさを感じさせた。未空は彼女の手を握ることすらできなかったのが苦しかった。

「本当だったんだね。……《あの人》に会ったっていうのは」

 エントランスに残っている秤が言う。あと一人、動く気配を全くもって見せない、真実創がいる。彼女は信者に祀られる何かの像みたいに微動だにしない。

「――譜詠江夏」未空はその名前をついに口にした。

 譜詠江夏。

 二〇一五年に突如現れた自称予言者で、それが今や世界規模での有名人となっている。特に悪い方向における予言の的中率は、限りなく十割に近いと言われている。

 譜詠江夏は芸名で、本名は明かされていない。どころか譜詠江夏は、中世的な容姿ときわどいラインの声の持ち主であるため、性別すら明らかになっていない。赤と黒の混ざったミディアームストレートヘアーは、当然人工的に加工されたもの。本人の口から明らかになっているのは、身長は一七〇センチ、国籍は日本だということのみ。

 ファンや考察者が多い中、どうしてだかその正体の尻尾すら未だにつかめていないままとなっている。目撃証言が東京に多いことから、その近辺が住所だという説が上がっているが、確信的な情報は誰の手にもわたっていない。

 テレビ等メディアにも多く出演しているが、本人の傾向でフリーな時間を多く作っている。本人の気分次第で、サインを求めてきた人や、夢に出てきた人に直々、予言を施したりしている。

 ――今年の三月一七日、未空と宇未の二人は、譜詠江夏に出会った。

 未空の高校卒業式の直後、家に帰る途中だった。

「……卒業式の日に?」秤が問う。

 何の変装もしないで、道の真ん中に堂々とその人は立っていた。

「はい。『待ってたよ』――最初に、そう言ったんです。あの人は」未空が話を始める。「譜詠さんの夢に、僕と宇未姉が出てきたらしくて。夢で僕たちに出会って、僕たちがどういう人間か、そこで大体把握したって……」

「ふざけているね」

 未空は同意した。「えぇ、全く……。……ただ、本命の用があったのは、宇未姉になんですけれどね」未空は横にいる未空を見る。宇未は黙ったままだった。

「宇未ちゃんに……? 彼女が、どうしたの?」

「にわかには信じられないことなんですけど……」未空は一度秤の様子を見る。「勿体ぶるのは苦手なんで、一気に結論まで言いますね」

 秤は落ち着くために、火をつけた煙草を口に咥える。そしてそのまま頷いた。

「――呪われてるらしいんです」

 秤は真顔のまま、口にくわえていた煙草を落としそうになった。彼は心底おかしそうだった。「……呪いって」

「霊とか、そういうのが憑いている訳じゃないらしいんですけれど……。こう……、ニュアンス的には、おまじないみたいな感じらしいです。どうしてそんなものにかかっているのかは、譜詠さんにも判らないらしいんですけど」

「あの人に判らないことがあるのか。好き勝手言ってくれたもんだね……」秤は譜詠に苛ついているみたいだった。「それは、どういう呪いなの?」

「……彼女の周りで、災厄が起きるって」未空は譜詠江夏の言葉を思い出そうとする。「どういう風に言われたかまでは覚えてないんですけど……、要するに、人が死んでもおかしく無いくらいの規模の災厄だって、言ってました」

 秤は数秒の間、言葉を噛みしめた。「……成程ね」小枝をかくまった話を聞いたときにはもう判っていたけれど、秤はこういう非現実的なエピソードに対する飲み込みが非常に早い。話す側からすればありがたいことこの上無いけれど、スムーズ過ぎて逆に戸惑ってしまう。「それが今日って言っていたの?」

「いえ、明確な日にちを指定されてた訳じゃなかったんです。そのトリガーの役目が、どうやら僕だったということで……」

「トリガー? 引き金?」

「すみません……恰好つけました。意味が変わってくるな……。トリガーっていうよりも、合図の役目です」

「どっちにしろ、判らないな……」

「あの人が、僕の見る夢を予言したんです。譜詠江夏が予言した通りの夢を僕が見たら、災厄の始まりの合図だって……」

「……夢、ね」

 未空はわずかに黙って、この十二年間、同じ夢を見続けていたことを告白した。黒い煙の夢だ。「譜詠江夏に、それを言い当てられました。『君は六歳の時から、同じ夢を見続けているんだね』って。そして――次にこう言いました。『――君は変わらず、葬式の日の夢を見る。けれど決定的に違うのは――お母さんの骨を見るんだよ。そして、その夢を見たら、不幸が始まる』って」

 宇未には譜詠の予言した夢の内容までは話していなかったので、彼女は声を漏らすほどに驚いていた。秤もあの日の葬式には出ていたので、手際よく話を飲み込めただろう。

「……見たんだね?」秤が確かめてきた。

「はい。……見ました」未空は夢で見た骨を思い出す前に、無理にでも話題をつくる。「……夢を見たのが昨日だったので、てっきり昨日の内に何かが起きるんだと、思っていたんですけど」

「メディアで言う譜詠江夏は、百パーセントに限りなく近い確率で、災厄の予言を的中させる予言者、らしいね」創が発言した。突然喋り出したので、三人は驚いた。「……予言、していたのね。譜詠江夏は……」創は目を閉じる。

 宇未が無理やり声を出した。「創さん……私が――」

「何も言わないで」創は静かに優しく言った。「あなたのせいじゃない。大丈夫……。大丈夫だから。悪いのは、犯人でしょう? あなたが手を下していないのなら、あなたには何の責任も無いの。……むしろ、あなただって、呪いを受けた被害者じゃない」

「違う、違うんです! だって――だって……」

 宇未は取り乱す。すると創は立ち上がって、座っている宇未の方まで近づいて、音もなく細い両腕で彼女を抱き寄せた。それは未空には到底できないことだった。

「頑張ろ」創は宇未の頭を撫でて笑った。「辛いのは、お互い同じだから」

 創は宇未を離すと、自室まで戻っていった。すると宇未は耐え切れなくなって、号泣しだした。

「――最悪だ」宇未の声は罪悪感に満ちていた。「……あんなボロボロの状態の人に気を遣わせた。今一番辛いの、あの人なのに……。お姉ちゃんが死んで、その上犯人の候補にまでさせられてる人に……」

『君は家に帰ったら、何するの?』

 あの時、譜詠江夏は未空に訊いてきた。譜詠は、未空の髪の毛に触れていた。

『……その黒い髪の毛……どうするの?』

 最後に譜詠江夏は、軽蔑するように未空の耳元で囁いた。

『――君はいつまで経っても、六歳のままだ』

「宇未姉」未空は彼女の背中をさする。「……戻ろ」

 宇未が泣いている。

「――君はどうするの?」

 誰かが囁く。


「雪桜宇未」

 あの日、譜詠江夏は語った。

「夢で見たよりも相当美人さんだ。相当もてただろうね。スタイルも完璧だしね。……君は確か、英語と中国語とドイツ語が話せるんだよね。中国語とドイツ語なんて、大学に入って一年の間でマスターしたらしいじゃん。相当記憶力に恵まれてるんだ。……えぇっと、英語検定準一級も持っているのか」

 宇未は無言のままで戦慄していた。

「高所恐怖症、暗所恐怖症、集合体恐怖症、先端恐怖症持ち。ただし、先端恐怖症のみ、図工のトラウマによって植え付けられたもの。きりで手を刺しちゃったんだ。……まぁ、大きな怪我にならなかったから良かったじゃない」

 譜詠江夏は二人の顔色も窺わずに、好き放題話した。

「自ら何かを創作する能力や、見出す能力は極端に低いようだ。そのため、図工や作文が苦手。模写は得意だけれど、見る材料がなければ絵は描けない。クイズやIQテストも不得意、と。暗記系はやっぱり得意らしいね。……へぇ、理数系もできるんだ、意外だね。まぁ確かに、公式を覚えてそれに則ってやればいいだけだもんね。答えが用意されていないものを学習することはできないから、そういう類のものが不得意なんだろうね」

 未空は思い出すだけで不快になった。

 宇未の事をどうでもいいと思っているくせに、自分や彼女の両親よりも、そしてこの世界にいる誰よりも、宇未の事を知り尽くしていた。

「……みぃくん、みぃくんは、どうするの?」宇未は未空の部屋の壁にもたれていた。彼女の目は乾燥していて、赤く腫れあがっている。未空は起きてから今までの記憶を一通り巡回し終えていた。「さっきから怖い顔してる」

「怖くないでしょ。こんな顔した奴がむすっとしても」未空は状況をわきまえずに冗談を混ぜた。早く彼女に笑ってほしかったからだ。

「……そうだね」宇未はおかしそうに小さく笑ったので、未空は嬉しくなった。「じゃあ、その……、そんな顔してどうしたのって、訊いた方がいいのかな」

 未空はメモに落書きをした。あの八つの扉にいる人物についてだ。

 一階の住人の順番は、右から、

 ・星七田旺次郎

 ・マナブツトム

 ・秤零士

 ・秤小枝


 そして二階の住人の順番は、右から、

 ・真実奏

 ・真実創

 ・雪桜宇未

 ・天宮城未空。

 となっている。


 未空はメモにこの屋敷の構図を簡潔に描いた。この配列は、昨日の内に秤から聞いたものだった。

「宇未姉」

「……ん?」

 未空はわずかに黙った。楽譜の中にある休符みたいに、必要な隙間だった。「……僕は、犯人を捜すよ」

 折角つくった宇未の笑顔が消えてしまった。彼女は苦しそうに未空を見た。「……なんで?」未空はまだ言葉を探そうとしなかった。宇未がまだ何かを言いたそうにしているのに気づいていたからだ。宇未は再び取り乱して未空に近づき、彼の両肩を掴んで揺らした。「そんなの駄目だよ……! 危ないよ……!」

「危ないことなら、もうとっくに始まってる」

「……そうじゃない――そうじゃないよ! みぃくんだって、私の言いたいこと判るでしょ?」宇未はまるで、弟を心配する姉のようだった。

「判るよ。宇未姉ことだから、判る」未空は当然のように言う。「偉大なことをしているわけじゃないというのは、判ってる。僕のやることは、この屋敷の人達の関係を、完全に叩き壊すだけの行為だから」

「……その役を引き受ける意味はあるの?」

「……いや。意味はないと思う。メリットも」未空は乾いた下唇をなめる。小枝はどういう人間関係を望んで、それを築き上げる努力をしていたのかを、自分達に話してくれた。それを知った上での、次の発言だった。「……それでも僕は本当の事を見つけて、皆の前にその真実を提示する。……これでみんなから恨まれようとも、誰かの心に一生癒えることの無い傷を埋め込むことになろうとも。……宇未姉、僕はね――」

 未空は悲しい声を纏って言う。

「僕はただ、宇未姉を泣かせた奴が許せないだけなんだよ」 

 宇未は未空の肩から手を離した。「……それだけ?」

 未空は立ち上がる。両足が震えている。多分、怖いのだと思う。

「――君はいつまで経っても、六歳のままだ」譜詠ではない。未空が言った。「あの人が、言ったんだ。『そうやって嫌いな現実から逃げる事しかしてこなかったから――君はいつまで経っても、六歳のままなんだ』って」

 譜詠のこの台詞が、今もまだ、彼の耳元で鳴り響いている。

「前に進みたかった」告白するまでもなく、譜詠にはそれを知られていた。「母が死んでしばらくして――気が付けばずっとそれだけ考えていて――でも止まったままだった。いい加減、大人にならなきゃいけないのに。……今はもう、誰も見えないんだ。同級生は皆、大人の準備をはじめている。それなのに僕だけがずっと、ずっと六歳のままなんだ」 

 宇未は何を言っているか、判っていないみたいだった。「本当の事を知れれば、それでいいの? 大人になれれば、それでいいの?」

「それは判らない」未空は正直に答えた。「けれど皆、どういう形であれ、現実とぶつかっていた」未空は一呼吸置く。「――皆、傘を作っていた」もう一度、一呼吸分の間をつくる。「色や形は違えど、皆が色々な方法で作った傘を使って現実を受け止めて、前を歩いてた。誰にも訊かず、自分だけが編み出した傘で。……僕だけが卑怯者だった――。だから――置いて行かれた。嫌なものや許容できないものからはすぐに目を逸らして、見なかったことにしてきたから、傘をつくることができなかった。そうやって傘をつくることを諦めて、辛辣な現実から逃避し続けていくうちに――誰の背中も見えなくなっていった」

「それでいいじゃない……。それで十分だよ。逃げてるだけの――そういう、助けられるだけの人間がいたって、いいじゃない。……悪いことじゃないよ」

「そうだね。悪いことじゃない。けど、僕はありがとうを言い続けているだけの人間には、なりたくない」未空は断言した。「……誰かにありがとうと言われて――そしてその上で、誰かにありがとうと言える人間になりたい。前にいる人の背中に隠れて守られているだけじゃ駄目だ。肩を並べて、肩を抱き合って、互いに助け合うことのできるような人間を目指すべきなんだ」

 宇未は視界にいる人物が本物の彼かを疑っているようだった。「逃げないことが……、必ずしも正しいことだとは、限らないんだよ?」

「そんなのは知ってる。……だから、これから少しずつ学習して行かなきゃならない。何から逃げて良くて、何から逃げてはいけないのか。そして少なくとも、今の僕は、これは逃げてはいけないことだって確信してる」

 未空は無理したように笑う。

「僕は行くよ。……まだ足は震えたままだけど」

 小さく息を吐く未空。『何が何でもやる』という態度を示しながら、宇未の返答を待ち続けていた。

「生まれてからずっと、みぃくんを見てきた」宇未は遠くの景色を見ているみたいだった。「……可愛らしくて、弱いところが沢山あった。それは昔から変わらない。私は、そんなみぃくんと一緒にいられるだけでいいって――本当に、そう思ってた」大きな沈黙が生まれる。宇未は服の胸元部分を握りしめてから言った。「……でも、それじゃあ、駄目なんだね」

 未空は言い訳をしないままだった。

 宇未はその彼の顔を見て、立ち上がる。

「……一緒に行くよ」宇未は折れたのを認めるように、肩を竦めた。「……可愛い弟がやるって言ってるのに、私がやらないわけには、いかないからさ」

「……宇未姉がやる必要はないんだよ?」

「やるよ。……なんか、逆に置いていかれたような気がしたから」

「……置いて行かれた?」

「……なんでもない」

 宇未は寂しそうにしているように見えた。

 

 3


 殺人現場はそのままにしてあった。死体もそのままだった。流れ出ている大量の血も処理されていないので、靴をぬがないまま部屋に入ることになった。

 心なしか寒い。未空は肌で感じた。まるで後ろに気配があるようだった。

「赤い体」

 未空は肌で感じた恐怖のショックで、今朝に見た夢を思い出した。

(赤い体――)

 未空は早足で部屋の奥へ進んでいく。部屋の中には、ツトムがいた。彼はいままで一人で調査をしていたということになる。大した精神力だ、と未空は感心した。

「なんだ、天宮城未空じゃないか」ツトムは少し嬉しそうだった。宇未にはあまり関心がなさそうだったが、宇未の名前も呼んでくれた。そのくらいの気遣いはできるらしい。「ここに来たってことは、あれか。君もその気になったってことだ」

「そのつもりです」未空は答える。

「君が来てくれるとはありがたい」ツトムはさっきから未空の方しか見ない。やはり宇未にはあまり関心を持っていないみたいだった。「今までは俺一人だけだったのさ。こうやって真実を解き明かそうとしているのは」彼の手には重たそうなカメラが握られていた。「これは元々は取材で使うやつだよ。嫌なほど鮮明に良く撮れるカメラだ。俺の部屋にプリンターがあるから、あとで写真をプリントするつもりさ」二人は適当に相槌を打った。「あんたらも現場をおさえたいなら、写メでも撮ればいい。言ってくれりゃ、俺のプリンターでプリントしてやる」

「はい。ありがとうございます」未空は携帯を取り出した。一応確かめたけれど、やはり圏外だった。

(嫌なものまで写りそうだ)

 さりげなく宇未を見る。彼女もおおよそ同じことを考えているだろう。怖がっているが、何とか隠そうとしているみたいだった。

「何か、手がかりらしきものは、ありました?」宇未がツトムに訊く。

「いや、駄目だ」ツトムがシャッターを押すと、刺激の強いフラッシュが発生する。「……一度、外に出て、ベランダの方を確認してみたけど、怪しい跡とかも無かったし……。マニアとは言えないけれど、これでもそこそこ、ミステリー小説は読んできたんだがね。もうちょっと読んでおけばよかったかな。参考になったかもしれない」

「ファンタジーが主ですからね、あなたの作品。ミステリーを読んでも、あまり参考にはならなかったでしょう」未空は言う。昨日、ツトムは酒を飲んでいる時の勢いで、宇未にまで自分の正体を話してしまっていた。

「あぁ。……しかも、現実の殺人現場の捜査と来れば、尚更素人だ。さっきから読んだ本の内容を思い出して、それに従ってヒントをあさってるけど、全部空回りだよ。……いっそ超常現象だって結論付けたいくらいだね」

「飛躍しすぎですよ」未空が呆れる。

「天宮城未空――あんた、チャールズ・フォートとか読まないのか?」

「……チャールズ?」

「流石に知らないか。超常現象の第一人者」ツトムは菓子の置いてある机に向かった。「一応、鍵も調べたんだ。鍵穴にさしてね。……見事この部屋のものだったわけだけれど。作家としては、癖みたいなもので調べたくなっちゃうんだよね。すり替えトリックみたいな」

「僕はミステリーとか読まないんで、そういうのは、よく判らないんですけどね」未空が呟く。

「読まないのか」ツトムは意外そうに未空を見た。

「今まで読んだのは、あなたの『ホワイトルーム』だけです」

「ツトムさん」宇未の声だった。

「ん?」

「共犯の可能性は、あると思いますか?」

 ツトムは写真のデータを確認しながら言う。「全く無いとは言えない。けれど、今それを検討するのは、正直時間の無駄だ」

「……動機の方は、どう考えます?」質問を変更する宇未。

「今のところ、確実にそれを証明できるのは、真実創しかいないだろう」ツトムは眠る真実奏の死体を見る。「ただ、『こいつ』は知っての通り、酒を手にすれば相当面倒くさい奴になる。……どっかで喧嘩を売ったり、心にもないことを言ったって可能性も捨てられない」

「でも……、人を殺すほどですよ?」未空は遠慮混じりに口を挟む。

「そう。だから、やはり動機から辿っていくと、真実創こそが最大の候補となる。方法から行けば秤零士だけれど、奴と真実創は接点が薄いから。去年知り合ったばかりだし。姉妹のすり替えトリックとかも考えたけど、当然これはあり得ない」

「すり替えって?」気が付けば未空はボールペンを取り出していて、それを指先で回していた。

「この事件で例えるなら、死んだのが真実奏で、生きているのが真実創だろう? だが実は、死んでいたのが真実創で、生きていた真実奏が、創の振りをしていた――みたいなオチ。これも、現代ミステリーではタブーらしいけどね」

「でも、実際にそういう小説もあったってことですよね。……そういうのって、普通気づきませんかね。いくら姉妹って言っても、体形とか特徴とか、結構違ったりするものじゃないですか」

「案外気づかないかもな。……けど幸い、今回に至ってそんなナンセンスなトリックはなさそうだ。あの姉妹は髪の毛の色も長さも違うし、『こいつ』は口元に火傷跡もある」

 未空は赤い体に近づいて、眠る顔を見続ける。怪しい臭いがする。アルコールではない。腐敗が始まっているのだろう。

「……なんか、勝ち逃げされたみたい」未空が呟いた。

「勝ち逃げ?」宇未が首を傾げる。

「言いたい放題言われて、普通の時の奏さんと話せなかったから」

「あぁ……」

「宇未姉はさ、奏さんと話した?」

「……話さなかったな。お昼の後も、体調優れないからって、何度か抜けちゃってたし」

「だから何度も言ってやったのに。せっかく新入りが来るんだから、変な第一印象与えないようにしろって」ツトムは死体を見ながら呆れていた。「ところで二人ともさ。ちょっと提案があるんだけど」

「……提案?」未空が先に反応した。

「先にこっちを訊こうかな。……君たちは現時点で、誰が一番怪しいと思う?」訊かれたものの、二人はそれに答えることができなかった。「判った。じゃあちょっと、頼まれちゃくれないかな」

「頼み、とは?」

「何、この死体、どうもここに埋めるらしいんだ」ツトムは『この死体』呼ばわりした。

「……ここって。夏焼集落ってことですよね」

「そう。……山奥に。……秤零士が倉庫にある木材を使って、棺をつくるらしい。インスタントなものになるらしいけれど」ツトムは未空と宇未を交互に見た。「もうすぐ死体も腐ってくるだろうから……それで、さっき真実創が頼んできたんだ。でね……、俺はやっぱり、彼女が犯人なんじゃないかって疑っているわけだよ。聞けば棺を山奥まで運んで行って埋めるのは、彼女らしいし」

「それで? 僕らにどうしろと」

「是非ともそこに尾行していってほしい。何か細工するかもしれないからね」ツトムには容赦も遠慮もなかった。

「正直、気が引けますね……」未空が自信なく言う。

「……けど、彼女が怪しいのは事実だろう?」

 未空はさりげなく宇未を見た。真実創に慰められた彼女は、当然乗り気ではなさそうだった。未空は観念したかのように長い息を吐いた。「判りました……。じゃあ……、それは僕一人でやります。一人いれば、十分でしょう」

「本当か!」ツトムは場違いにも嬉しそうにした。「よしよしよし、決まりだな。棺ができ次第、彼らがこっちまで死体を引き取りに来ることだろう」

「そっちは、どうするんですか」

「彼女を借りる」宇未を見るツトム。「これから一緒に撮影したデータをプリントする。それでもう一度、彼女と二人でおかしな点がないか、話し合ってみるとしよう。事情聴収もするかもな。もう一度、皆の話を聞く必要が出てくるかもしれない」

 未空は宇未と別れるのに抵抗があった。未空から見れば、ツトムも平等に犯人候補の一人の内に入っている。そんな彼と宇未を二人きりにするのを、未空が簡単に許す筈もなかった。

「考えてることは判る。……安心しろよ。彼女は俺が責任を持って守ろう。マナブツトムならともかく――殺器銘はファンに対して、嘘はつかない。殺器銘の名を告げた相手へとなれば、尚更だ。もし彼女に危害が加わることを許してしまった暁には、その時点で俺を犯人として吊るしあげてくれて構わない」

「大丈夫だよ。行っておいで、みぃくん」宇未が援護射撃をするよう、ツトムに続いた。

 未空は宇未が心配で仕方なかった。しかし、いつまでもこんな場所にいたって仕方ない。気の引ける結論ではあったが、未空は創を監視することをファナルアンサーとした。

「……気を付けてね」未空は意図的に、いつもより真剣な口調を使った。

「みぃくんも」

 ノックが聞こえた。

 秤と真実創が、遺体を引き取りに来た。


 秤零士は、かつて刑事だった。

 非常に優秀な、刑事だった。

 彼は小さい頃は本当の事を探すのが大好きな少年で、好奇心の塊と評されることも多々あった。彼はクイズやIQテストも得意で、本質を見抜くのが上手い子供だった。

「まるで、お前の生まれ変わりみたいだよ」かつて未空の父が、実の息子を見て、そう言った。未空がまだ小学生にもなっていない頃の話。

「僕が死んだみたいじゃないか、天宮城」秤が苦笑した。

「……じゃあ、小さい頃のお前を見ている気分だって言った方がいいか」彼は静かに笑いながら訂正した。「お前の息子として生まれてきたほうが良かったかな」

 秤は、遠くにいる二つの影を見る。彼の妻と、息子である未空。


「――真実を見ることが、怖くなりました」

 退職願を出してそう言った時の風景は、今でも正確な形でよく思いだせる。妻と離婚して、一年くらいが経過した時の事だ。 

 自分には力がある。かつて刑事だった秤は、必要な分だけそれを自覚していた。巻き起こる犯罪を根絶するために、容赦なくその大きな剣を振り続けてきた。誰もこの剣を受け止め切ることはできなかった。誰がどんな細工をしようとも、秤の大きな力の前には、何の意味も成さない。

 正しい正義だった――秤は自分の振りかざす、この名前の無い剣の使い方を疑ったことなんてなかった。誰も間違ったとは言わなかったから――そして実際、間違ってなんていなかった。足りなかったのは、力を行使した後に訪れる真相を受け止める覚悟だけだった。

 気づくのが遅かった。

 彼はそれを受け止める支度もできていないまま、考えずに真相を暴いてきた。

 事件の真相は、どれもが汚物の象徴みたいだった。

 目も当てられないほどに醜い業の塊だった。

(……僕の知りたかった真相は、こういうものだったのか?)

 繰り返していく内に、真相を暴いた瞬間――あるいは真相の一歩手前、そこで足を止めることを覚えた。真相にたどり着いても、それを口にしないことを覚えてしまったのだ。

 数年越しに、秤の暴いた事件の犯人の中に、裁判で死刑になる人も何人か出た。秤は犯罪者とはいえ、罪悪感を感じずにはいられなかった。死んだ彼らが、何度も夢にでるようになる。

 ところが同情という概念までもを覆すような殺人犯を、秤は知った。

 秤の功績によって死刑宣告された、犯人の一人。その人物は裁判所で好き放題叫び、笑い、死んだ者を侮辱し、その場にいた遺族にまで深い傷を負わせたという、自らの内に潜む悪魔を容赦なくさらけ出す行為を乱発した。

 その場には、秤もいた。

 彼の笑い声は、今も鼓膜のまわりをうろついている。

 何が正しかったのだろう。

 秤零士は、一人になると、時折そう口にする。

 気づけば自分は、真実を探すことをあきらめていて――。

 一人きりでいることが多くなった。全てから逃げようと決めて、夏焼集落に家を建てさせた。けれど時折寂しくなるだろうと、心の底では理解していたのだろう。だから、秤はこんな豪邸をつくって、時折ここにいる皆――そして未空の父や、黒動を呼んだりもした。あの二人は多忙なので、あまり家に来る機会は訪れない。

(本当は、気づいていた)

 ここに招待する人達こそ、かけがえのない仲間だった。


 4


 遺体の入った棺が、荷台に乗せられる。荷台の中には収まり切らないので、取っ手に立てかけるしかなかった。あまりにも不安定だったので、秤がなんとか補強しようかと提案したが、創が断ったらしい。創が山奥に向かって荷台を押す。辛そうだったが、予め創が「一人で行く」と宣言していた。

「そういえば、倉庫なんてあったんですね」未空が小さい銀色の倉庫を見て言う。創は出発したばかりだし、彼女を追いかけるのには、まだ早すぎるだろうと考えた。

「あぁ」秤は力の無い声で応答した。

「倉庫には、何が入っているんですか」

「木材とかばっかだよ」秤は体をどけて、未空に倉庫の中を見せる。中には実用的と言うには程遠いものばかりが収納されていた。「暇な時は、これでいろんなもの作ったりしてたから」

 ハシゴや土台らしきものは作れそうだ。未空はふと思い浮かべる。

「……昨日、倉庫に鍵はかかっていましたか?」

「あぁ、かかっていたよ。僕がさっき、ここを開けた時もね。マスターキーとここの倉庫の鍵は厳重に保管していたから、誰かに使われたってこともない」

「棺を作る前、木材の量は、昨日までと同じでしたか?」

「少なくとも、俺の記憶では同じだよ」

(密室に関与していないのかな)未空はさりげなく、創の方を見て確認した。(倉庫に行っても、ハシゴを作る作業も必要になるし。夜中だから作るにしても金槌とかの音も響く。……夜中にわざわざハシゴを工作するってのも、現実味がないかな)

 そもそも殺人事件そのものに、現実味の欠片も無いのに気づく。未空は人差し指の上に顎を乗せて考えてた。この線は無いだろうと早々に割り切りたいところだが、折角捕まえたわずかな可能性を捨てきれずにもいた。未空の中で、秤が犯人だという可能性は極めて低い。それは昔からの知り合いだという個人的な理由が大きかった。

 未空は秤に礼を言って、その場を離れた。屋敷に戻るように見せかけて、創の背中を追っていく。かなりの距離が開いたが、これならほぼ確実に気づかれることはない。向こうも荷台を押しながらの移動なので、見失う心配もない。

 創の背中はかなり小さかった。見る限り、彼女が辺りを警戒しているような様子は全くないし、何か細工するような気配も見せない。創は途中から疲れてきたのか、一度休憩を挟んだ。息切れしているようで、荒い呼吸音がこちらまで聞こえてきた。

(それにしても、随分奥まで行く……)

 この辺りは木が多くて、人を埋められるようなスペースがない。恐らくはそれが関係しているのだろう。いつもよりわずかに体が重い――上に登っていっているのに気づいた。創は静かに荷台を押していた。彼女はさっきから無言で、雰囲気も変わっていて別人みたいだ。まるで仕事内容をインプットされたロボットのようだった。

 荷台の車輪が石か何かをひいたのか、棺がひっくり返って、大きな音が響く。その拍子に創も倒れしまう。ミニスカートだった彼女の膝に泥がかかる。

 手伝うべきだろうかと苦悩したが、抑えて彼女を見続けてた。創は瀕死の虫みたいな動きでゆっくりと立ち上がり、棺を荷台に立てかけなおし、再び歩き出した。次第に創の呼吸がまた乱れ始める。

 遠くにまっさらな地平線が見えた。創はそこを目指していたらしい。創はそこにたどり着く直前にバランスを崩し、また棺をひっくり返してしまう。創もまた倒れる。彼女はしばらく膝をついたまま、棺を静かに見つめていた。すると突然創は我に返ったように棺にかけより、汚れた両手で必死に棺を持ち上げて、荷台の上に乗せた。

 何も無い広い空間にたどり着いて、手入れに使うような小さなスコップをにぎり、彼女はそれで穴を掘りはじめた。最初、未空は自分の目を疑ったが、間違いはなかった。それでも尚、信じられなかった。この屋敷にはスコップはあれしか無かったのだろうが、それで死体を埋めるには、いくらなんでも時間がかかりすぎる。

 しかし創は、何度もそれで土をすくう。

 掘り続けた。

 長い時間をかけて。

 無心。

 ずっと。

 ずっと掘り続けていた。

 空が色あせてくる。

 オレンジ色になる。

 未空は彼女の行動をまだ見続けていた。

 創は無表情のまま、棺の蓋を開けて、死体をその穴へと収めた。

 それから数時間かけてできた土の山を、穴へと戻していく。

「――――」土を戻している最中、創は何度も鼻をすすった。それから何かを否定するように激しく首を横に振り、作業のペースを一気に上げた。

 気が付けば、作業のほとんどが終わっていた。眠る奏の顔だけが土から出ている。創はスコップですくった土を地面に落とす。すると、その顔は完全に見えなくなった。

 彼女は動かなくなった。

 しかし突然創は両膝をついて、スコップを遠くに投げ飛ばした。汚れきった両手で土をかきわけ、奏の顔を露わにさせた。死体の後頭部の後ろに両手を伸ばし、強引に死体の上半身を出した。死体は当然、泥だらけだった。

 彼女は何度も否定するかのように首を横に激しく振った。時折何かを叫んだりもしていたが、言葉になっていなかった。創は確認するように辺りを見回した。しかし、やはり未空には気が付いていないみたいだった。

 数秒間だけ、静かになった。

 創は泣きだした。

 恐らく、この確認は、誰にも見られたくなかったからなのかもしれない。

 創は奏に負けないくらい汚れきってしまっている。

 置いて行かれたくないかのように抱きついていた。 

 未空は彼女の何かを『見た』。 

 魂がない。それだけなのに、それではいけないのだろうか。

 それでは、いけなかったのだろうか。


「なんか遅くないかな、あいつ」

 ツトムが自室に置いてあるパソコンをいじりながら、独り言のようにつぶやいた。彼の部屋にある机は、他の人の部屋にあるものよりもずっと大きくて立派なものだった。

「……遅いですね」宇未は液晶タブレットのアプリのメモ帳を使い、状況を整理していた。彼女は完全なデジタル派で、電子書籍も持ち歩いている。宇未はタブレットを机に置く。「……大丈夫かな」

「こんなところで死んじまうような奴じゃあなさそうだけど」

 宇未はいまいち同意できなかった。彼女は立ち上がる。「……私、やっぱり見てきます」

「見てきますって……。どこに行ったのか判るのかよ」ツトムは馬鹿にしたような言い方だった。しかしその通りだったので、宇未は座りなおす。「そーゆーことだ。黙って自分の責務を果たせ」

「……ツトムさんは怖くないんですか? こういう状況」

「俺はいやしくも作家の頂点を目指す身だ。死ぬなんてまっぴらごめんだね」

 答えになっていない。けれど彼は怖がっていないのだろうと、宇未には判った。

(正直言うと、この人と二人はやりにくいんだよなぁ……)宇未は我ながら珍しいと実感した。宇未は大抵の人とはすぐに仲良くなれるけれど、尖りすぎた人種の扱いはどうも苦手みたいだった。

「俺の前でそーゆー顔しない方がいいぜ。すぐ判っちまうんだ」ツトムは得意げだった。

「え、あれ……」宇未は指先で自分の顔をなぞる。「……どういう顔してました?」

「苦手意識の表情」

「……すみません」

 ツトムは二本指を立てる。「いいか、俺は死ぬほど嫌いな人種がある――二つだ。一つ目は、生意気な奴。もう一つは、理由もなく俺の作品に難癖つけてくる奴。俺に嫌われたくなければ、今言ったこの人種になることを避けな。そーすりゃ心の中でボロクソ言うのだけは勘弁してやる」

「わけわかんないですね」

「『ばれるくらいなら』と言わんばかりに堂々と口に出すその態度には、好感が持てるよ」

 宇未はごく自然な疑問を思い浮かべた。何故、あの喋り下手な未空(いささか失礼だが)が、こんな尖った人物と上手くやっていけているのだろう。未空が殺器銘のファンなのは知っていた。しかしそういった類の話題を除いても、昨日の集団行動の時、未空とツトムの間で交わされた会話はかなり長続きしていた。

「あの、ツトムさん……」

「なんだ」

「ツトムさんから見て、みぃくんってどう思います?」

「――は?」ツトムは真顔になって、色の無い声を出した。

(そりゃそう反応するか)宇未は自分のトークスキルに自信を失いつつあった。「……つまり、その。ほら、昨日、みぃくんと仲よさげに話してることが多かったじゃないですか。なんか、他の人とも接し方が少し違うようにも見えたから」

「あぁ、あぁ、そういうことか」ツトムは機嫌を良くする。「単純だよ、彼が気に入った」

「何故?」

「彼は本質を見抜くのが上手い。俺の作品の意図に、すぐ気づきやがったのさ」ツトムはやはり機嫌がよさそうだった。「俺からも訊いていいかな」宇未は承諾すると、ツトムは真剣な顔をして宇未に答えを求めた。「彼さ――何か見えてる?」

「……?」宇未は薄々感付いていたが、あえて戸惑ったふりをした。

「あいつの目は何かある。一寸の曇りもない瞳だ」

「綺麗……ってことですか?」

「そんな生易しい言葉で済ませる気は無いね。あれは俺からすれば、何よりも恐ろしい瞳だ」ツトムは興奮している。宇宙人の発見を報告している児童みたいだ。「ダ・ヴィンチ、ニュートン、ガリレオ、エジソン、アインシュタイン……そういった偉人達と同じ目をしている。……いいかい、雪桜宇未。こういう偉人達の共通点はね――概念を肉眼で捉えていることなんだよ」ツトムの語りに熱が入る。はきはきしていて、自信のある口調だ。そこには、自分の言葉を伝えようとする意志が見えた。「重力、質量、ベクトル……例えは別にどれでもいい、重要じゃない。あいつはそれと同等か、それ以上のものを見ている――俺はそう九九パーセント確信しているんだ――だからこそ、最後の一パーセントを確かめたい。彼は俺たちには見えない何かを見ている――俺は俺のその確信が真実かどうかを確かめたいんだよ」

 事件の捜査をしている時とは比べものにならないほど、ツトムは興奮していた。その全身を使って、自分の気持ちを精いっぱい伝えようとしていた。 

 宇未は胸騒ぎみたいなものを覚えた。それから「成程」と、心の中で呟く。彼がただ者でないことは既に知っての通りだったが、『ただ者』の裏の印象を上書きする必要があった。今まで宇未は、彼を変態か何かだと思っていたが、天才の二文字で上書きすることにした。彼は相当観察力が高い。未空の瞳を『綺麗』以外で評したのは、彼が初めてだった。それは、あの譜詠江夏にだってできなかったことだ。

「彼の目、見たでしょう?」宇未は細くて途切れそうな声で言った。「あれは、心の内側に一番近いところを見ている目です」

 ツトムは興味深そうに、顎をさする。「心……? 内側?」

「みぃくんは他人の心の内側を、無意識に観測してきました。彼は、それができる唯一の人間だったと思います」

「詳しく聞かせてくれ。細かすぎるところまで――隅々まで」彼は続きが待ちきれないようだった。

「小さいとき、私が何かに困っていた時がありました。どうして困っていたかは、もう思い出せませんけど。……えぇっとですね――とにかく私はその時、平気な振りをすることにしたんです。平気な振りをして、『大丈夫だよ』って、隣にいるみぃくんに言ったんです。なのにみぃくんは――」宇未は幼い未空の瞳を思い出す。「なのにみぃくんは、当たり前のように訊いてきたんです。『なんで辛いのに、笑って大丈夫って言うの』って」

 いつの間にかそれが、宇未にとって、かけがえのない記憶の一つになっていた。

「恐ろしいね」ツトムの表情は真剣そのものだった。

「……えぇ、恐ろしかったです。だって……だって、まるで確定しているかのように、そういう風に訊いてきたんですよ」宇未は手振りしながら話す。「普通、平気な振りをしているんじゃないかって疑うところから始めるじゃないですか。嘘ついてないかなって、考えるところから始めるじゃないですか……」 

 宇未は目を逸らしながら、未空の正体を告げた。

「――彼は、他人の痛みを、完全に理解できる人間だった」

 ツトムは口をあけたまま、喋らなかった。

「痛みを、『見る』ことができたんです。昔からみぃくんは、すごく優しかった。お母さんが死んでからは、あまり他人と関わらなくなったんですけど、その前までは、不器用なりに他人を助け続けてきていたんです。他人の痛みを見てしまうと、それが自分のものとなって、完璧に伝わってくるから。だからみぃくんは、他人の痛みを一緒になって痛んで、一緒に背負うのを手伝ってきていたんです。何度も何度も、その痛みを消そうと背負い続けていました。その人が痛みから立ち直れるまで、ずっと――ずっと、背負い続けてくれていたんです」

 気が付けば、窓から紅の光が差し込んできていた。外はすっかり夕方を表現している。それだけの時間を消費して、自分達は何をしているんだと宇未は考えた。

 早く未空に会いたかった。だけどもし今未空に会ったら、きっと自分の内側にある痛みの全てばれてしまうのだろうと警戒してしまう。彼は母と死別しても、宇未だけは助けようとしてきた。多分、葬式の日の恩を返そうとしているのかもしれない。

「そういうことだったのか」ツトムは長い時間、一人で何かを考えていた。

「何がですか」

「四郎の奴が言っていたんだ――。彼は恐ろしくも優しかったって。言い訳できないほど当たり前のように全部ばれて……、まるで、自分が死ぬまでずっと背負わなければならなかった痛みを全部、代わりに背負ってくれたみたいだったと」初めて四郎と会った時に話していたのはこの事だったのだろうかと、宇未は推測した。「心が軽くなった気がしたって、言っていたよ」

 宇未はそれを聞いて素直に嬉しくなり、自分の事のように誇らしく思えた。

「きっとみぃくんなら、隠したもの全部、その気になれば見ることもできるんだと思います。喜びとか怒りとか、他人のそういうものも全部、みぃくんの意志次第で」

「判らないな」ツトムは早口で割り込む。「……俺はそういった力を手に入れようと、ずっと努力してきた。俺には物語の人物をつくる才能があった。そしてそれに努力を付け加えれば、簡単に人間なんざ再現しきれると考えていた。しかし俺は他人を完璧に理解することなんてできなかった。結局、他人の内側の全てなんて理解できなかった。何故彼はその力を行使しない?」

「……判りません?」

「さっぱりだ」

「だって、気持ち悪いじゃないですか」宇未は未空の姿を思い浮かべた。「ツトムさん、あなたは小説家だから、みぃくんのこの力が必要なのでしょう。けど、多くの人間には必要の無いものなんです。いいですか、簡単な話です。他人の全てを理解できてしまったら――他人の黒い部分の全てを常に理解できるようになってしまったら、地球の上を歩いていることさえ、覚えていられなくなりますよ?」

「俺は作家の玉座に座りたい。そのためなら、悪魔に身をささげたって良い」

「強いですね。迷いもない……。みぃくんが聞いたら、きっと羨ましがるでしょう」

「そうだろうな。俺は迷わないし、いつだって自信に満ち溢れている」ツトムは恥ずかし気もなく言いきった。

「みぃくんも、最初は無自覚だったでしょうね。……少しずつ、少しずつ、自分の力の異常さに気づいていって、そして最後には、目を逸らすことを選んだ。痛みを知っても、全ての人間を助けることなんてできないって、気づいたから。けど――」

「けど、自分の意志に関係なく見えてしまうときがある」ツトムは容易く先を読み当てた。宇未は頷く。「彼の体は、まだ諦めていないんだろうね。そしてまだ意志があるんだよ。他人の痛みを背負おうとしている意志が、まだ残っている」

 宇未にも判っていることだった。

 彼は母親が死んで、他人と距離を置く性格になった。母親の真似をするようにもなった。

 けれど、天宮城未空の本質は、何一つ変わっちゃいない。

「本当はもう、やめてほしいんです。お母さんの死んだ事件だって克服しきれていないのに。他人の心配なんて、している場合じゃないのに……」

 きっと、彼の母の言葉が関係しているのではないだろうか――宇未はそう思う。

 他人の為に生きる。

 その言葉が、どれだけ彼を苦しめてきたか。

 宇未はそんな未空を見るのが、辛かった。

 その時、ノックが聞こえた。音の堅さで判る。未空のノックだ。ツトムが廊下の方へ歩いていき、出迎えに行く。部屋の中に入ってきたのは、予想通り天宮城未空だった。

「ただいま、宇未姉」未空はどこか辛そうな顔をしていた。向こうでも何かあったのかもしれない。「……宇未姉?」

 未空が宇未の表情を見て、更に深刻そうな表情をした。

「ごめん、みぃくん」まずいと慌てた。見られるかもしれないと思った。「今だけは見ないで」

「俺からも頼む」ツトムが加担してくれた。「むしろ、君の為の警告だ。見ない方がいい」  

 ツトムは未空の正体を知ったせいか、彼を警戒しているようだった。

(……あぁ。そういう言い方をすればいいのか)

 宇未は嫌な知識を蓄えた。


 それから互いに、それぞれの報告結果を発表した。

 結局、互いにこれといって得られるものはなかった。宇未とツトムはプリントした写真を改めて隅々まで確認したが、不審な点はやはり見当たらなかった。

 未空は創が犯人だという線は無いと自分なりの意見を話す。

「断言できるかい? 真実創には気づかれてないと」ツトムは疑っている様子。

「そこには一番、注意しました」

 その上、未空だけが知っている確信があった。無意識に彼女の傷を見てしまっていた。耐え切れないほどに辛いものだった――真実創は、今もあの燃え上がるような痛みと戦っているに違いない。

「はっきり言って、どうしようもないかな」ツトムは自分に怒りを向けていた。「自分でも気づかなかったけれど、こういう状況になって初めて判ったよ。俺は真実創がやらかしてくれるのを期待していたんだ。くっそ! 現実の殺人に関しては、俺はあまりにも無能だったみたいだよ……」不覚を取ったその表情を右手で覆い隠すツトム。

「期待するのも無理ないですよ。今のところ、何も証拠が掴めていないんですから……」宇未がフォローを入れる。

「……あぁ、そうだな。認めたくないけど、今、初めて自分に失望した瞬間に立ち会ったよ。あぁ、畜生!」ツトムは怒りだしたかと思えば、すぐに深呼吸して平常心を取り戻した。「――まぁいい、まだ未熟な点があったってだけの事だ。失敗するのは恥ずかしいことじゃない。その失敗を生かせないことが恥ずかしいんだ……。あぁ、よし、そういうことにしよう。納得しないけど、意地でもそう思うことにしよう」

 二人はツトムに感心を示した。何にしてもそうだけれど、失敗を悔やむよりも、それを認めてとっとと立ち直れる人間の方が全ての意味で得をする。有意義な時間の使い方を知っている証拠なのかもしれないと、二人は学習した。

「一旦解散するとしようか。次にどうするかというプランが無い以上、一つの空間でグダグダしてても仕方ない。君たちは君たちなりのやり方で情報を集めてくれ。俺も、何か判り次第、すぐに教えると約束する」

 二人は了解して、彼の部屋を出ていくことにした。

 誰かの叫び声がしたような気がした。


「未空くん、宇未ちゃん!」部屋を出て早々に、小枝がやってきた。叫び声は彼女のものだった。「ぬいぐるみ、ぬいぐるみ、見なかった?」

 二人は彼女が小枝だと判るまで、いつもの数倍時間がかかった。取り乱している彼女の印象は、あまりにも変わり果てていた。

「ぬいぐるみ――?」宇未はやっとその単語が頭の中に入ってきた。「えっと……あの」

「ほら、ほら――あの机の上にあった……!」小枝は右手で宇未の肩をつかむ。左手の人差し指は、エントランスの机を指していた。

 未空は宇未を見て言う。「あれじゃないの? ほら、ここ来た時にあった、あの猫の――」

「そう!」小枝が深刻そうに未空の肩をつかんできた。

「……あの――ごめんなさい。えっと……、その……、知らないです」未空は言いにくそうな態度を取った。

 宇未も同じくと言いたそうに頷く。するとようやくして小枝は、自分を落ち着かせることを思い出した。「……ごめんなさい。そうだよね」

「さっきまではあったんですか?」未空の問い。

「……さっきって?」

「皆が集まって、事件の事を話していたときです」

「……あぁ、えっと……零士さん曰く、その時には無かったって……」

 未空は一秒考える。「じゃあ、事件の犯行の時と一緒に、犯人が奪ったってことかな」

「やっぱり、そうなるのかな」小枝は両足を揺する。やはりまだ落ち着かないようだ。

「でも、何の為にでしょう」未空は誰にでも思いつく疑問をここで出し切る。「犯人が持ちだしたとして……それを奪って、どうする気だってところから始まるじゃないですか。そもそも小枝さん、どうしてあのぬいぐるみが無くなって、そんなに戸惑っているんですか?」

「あの……」小枝は赤面した。「……真実姉妹に、もらったものなの」

「それは聞きました。創さんが作ったって」

「――正確には、奏さんがデザインして、創さんが作ったもの――なんだけどね」小枝の両目は遠くを見ているようだった。

「友達の証として、みたいなものですか?」未空がナンセンスな訊き方をする。

「そう。まさにそれ。……あれは、この秤屋敷の象徴みたいなものでもあって。何より私の個人的な経験上、こういう特別な物を人に貰うこと自体が初めてだったから、すごく嬉しくて……」

「そんなに大切だったんですね」宇未が横から言った。

「うん。すごく気に入っていた。デザインした奏さんは、あまり気に入ってなかったみたいなんだけど」

「奏さん?」未空は反射的に訊いた。

「そう。奏さんは一度、私に『ぬいぐるみを返してほしい』って言ってきたことがあったの。ぬいぐるみをくれた、次の日の事かな」

「変な話ですね」未空が可笑しそうに意見を出した。

「ほら……、奏さん、負けず嫌いじゃない? 創ちゃんに対して……。ぬいぐるみをくれた日、奏さんは机の上に置いておいたぬいぐるみを、ずっと眺めていたの。それで、やっぱり自分の設計したクオリティーに納得ができないって。もっといい物を作るからって」

「あの人らしい……」未空は昨日の会話を思い出した。今はもう実在したかどうか確かめられない人だ。「なんか、裏のありそう人だったな」

 未空は失言だったと我に返るが、「……そう思う?」と、小枝から意外な同意を得た。

「……こんなこと言うのはあれなんだけどね。どこかちょっと、距離を置いている部分のある人だなって、思うときはあったの」

「……それは、どういう時?」宇未が尋ねる。

 小枝は考える。「正確に言えば、自分そのものを抑えつけているって、感じ。自分の事を話すのを、ちょっと我慢している……、みたいな」

「――ふむ」未空はもう一度、真実奏との会話を思い出す。ここまで謎を残して死んでおおくのは、恐らくミステリー小説なら生き残っているパターンだろうなと考えた。だが未空はミステリーの基礎さえ理解していない素人なので、自分の予想にあまり自信は無かった。

「そういう性格だっただけかもしれないけど」話題を落ち着かせるため、小枝は半ば無理やりと言った感じにオチをつけた。

「けど、確かにそうですよね。そういう性格だったのかもしれない」未空が半分だけ上の空の状態で呟いた。「……ただ――」

「……ただ?」

 二人の声が重なる。未空は言葉を中断した。「……なんでもない、です」

(誰かに殺されるくらいの恨み、ね……)

 あの時、奏は確かに言っていた。

 一番身近なのは、やはり創――だが今となって、その可能性は、未空の中で否定されつつある。言うまでもなく、現時点で既に彼女に多くのディスアドバンテージが積み重なっているのも事実だし、それに未空の見た痛みは、裁判では何の役にも立たない感情論そのものだということも、認めなくてはならない。

(けれど、それでも、あの痛みだけは本物だっただろう)

 未空は今まで見てきた他人を思い出す。自分は彼らの中にあった乾いた涙の跡や、砕けて残った魂の残骸を見るに値する人物にはなれなかった。それでも選ばれた意味だけは知りたいままだった。選ばれたのには必ず意味があるのだと、愚直にそう信じていたかった。

 何故自分だった?

 何故自分がこの才能に選ばれた。

 この力は自分にではなく、最大限に力を生かせられる、マナブ・ツトムに与えられても良かった筈だった。

「ぬいぐるみですよね。こっちでも探してみます。見つけたら、そっちまで行きますから」未空は無理やり閉めるように言った。

「……ごめんなさい、お願いね」

 話に区切りをつけると、小枝は別のところへぬいぐるみを探しに行った。未空と宇未は歩けないままだった。どこに向かおうか、決めていないままだった。


 最終的に落ち着いたのは、自室だった。未空の自室。宇未の自室にはあまり行っていない気がすると未空はふと思い出したが、どうでもよくなって別の事を考える。

「……昨日の夜、秤さんは部屋に戻ってからは、明日の計画をもう一度再編集していた。……寝たのは、午前一時くらい。でも、午前六時に一度起きている。この時、お風呂に入り忘れていたことを思い出して、入る。お風呂から出たら、すぐに寝てしまった。ツトムさんは部屋に戻ってから、冷蔵庫の中の食材で軽く夜食を作って食べて、執筆作業をしていた。布団にもぐったのは午前二時三二分、そこには一分の狂いも無いと、はっきりと断言した。創さんは、奏さんを寝かしてからすぐ部屋に戻って、お風呂。それからはちょっとした読書をしてから、就寝。午前一時くらい。小枝ちゃんは、ほとんど皆と同じような行動。比較的早めに布団に入ったものの、眠れたのは午前五時くらい」宇未はもう一度、皆の証言を再確認した。未空はその記憶力には感服するばかりだった。「……やっぱり、皆ほとんど同じ証言だよね……。なんか、もうちょっとこの特技も役に立てればいいんだけど……」宇未は残念そうに膝を抱えて、壁にもたれる。

 相変わらず、未空はフォローが苦手だ。その証言から矛盾を指摘することはほぼ不可能だったし、現にかなわなかった。宇未はプリントした写真を床に広げて、もう一度二人でおかしな点を探すことにした。未空は間違い探しが得意だったが、こんなにも難易度の高いものは初めてだった。何より、これらの写真に間違いがあるという保証はされていない。そこが今までの間違い探しとの決定的な違いだった。

 会話を忘れるほどに集中してきた頃に、ノックが鳴る。未空が出る。赤紅四郎だ。未空は久しぶりに彼に会ったかのような感覚を味わう。

「よ」四郎は明るく振る舞っていた。「なんか、久しぶりに会ったような感覚を味わってるよ」

「偶然ですね、同じことを思いました」

 宇未が後ろからやってきた。「……どうしたんですか? 四郎さん」

「あぁ、今、暇かなって思ってさ」

「……暇なのかな」宇未が未空を見る。

「宇未姉が決めな」

 宇未は曖昧な表情を四郎に向ける。「じゃあ、暇です」

「えぇ……」四郎は苦いものを食べたかの様に開いた口を歪める。「わかった。じゃあ、付き合ってもらっていいかな」

「お、なんですか、告白ですか」宇未は雰囲気を明るくするために冗談を入れた。

「やめて。未空がすごい目するから」

 宇未が未空を見る。未空はいつも通りに戻っている。宇未はデジャヴを感じたみたいだった。「……それで、何するんですか?」

 四郎はポケットから、何かのコントローラーらしきものを取り出した。「ゲームだよ」


 四郎の部屋はまるで戦争だった。あちらこちらにプラモデルや特撮ヒーローフィギュアが散らばっていて、まるで小宇宙とも言える少年の心を表現したかのような空間となっていた。

 部屋には小枝と旺次郎がいた。

 大きなテレビの前には様々なカンパニーの様々なハードが並んでいる。

 プラモデルらは四郎が子供の頃に流行ったものではない。むしろ、彼の親が子供だった頃に流行ったものばかりだ。テレビには、ゲームのスタート画面が表示されていて、今は中断されている状態だった。恐らく、ゲームをしている最中に、自分達を連れてこようと誰かが提案しだしたのだろう。

(本当にゲームしてたのか)未空は複雑な気持ちになった。

「小枝ちゃん」宇未が小枝に話しかける。「……ぬいぐるみは、見つかった?」

「……いや」旺次郎が代わりに答えた。気づけば、さっき小枝と会話をしてから、もう一時間近くが経過している。「駄目だよ。俺も一緒に探していたんだけどねぇ」

 心なしか、小枝と旺次郎の距離は近かった。心を許しあっている距離なのかもしれない。

 今やっているゲームはレーシングゲームだった。未空はそのゲームのタイトルを知らない。釈然としないまま、未空は筐体から伸びているコントローラーを握った。操作は案外簡単だった。直感で覚えていけば、ある程度張り合える。四郎が隣でコントローラーを握る。二人はしばらく、何回がゲームを繰り返した。

「今まで殺人なんて、別の世界の出来事だって思ってた」突然、四郎が零す。誰も彼の語りに口を挟まないけど、皆が耳を澄まして聞いていただろう。「今、すごい置いて行かれてる感覚なんだ。……実はさ、今までずっと俺、部屋に閉じこもってて、なんとか気を狂わせないようにって、ゲームしてたんだ。馬鹿みたいだろ」四郎は自分を笑っていた。「昔から知ってた感覚だった――だから自分は何もできないってのは判ってた。孤独感とは少し違うけど、普段感じない部分に痛みが生じる感じ。……なんだろな、本当、昔からそうだった。皆が授業で問題が判って手をあげてるのに、俺だけが判んなくて、皆の挙げてる手を見てることしかできなくて……。……なんか俺って、ほんとに異常なんだなって悲しくなるあの感覚。ただでさえ体がこうだってのに、こういうところでも、皆と違うんだなって」

「誰にだって、判らなかった」

 未空は曖昧な口調で返す。四郎は否定した。

「皆、手際が良かったよ。ツトムは率先して皆をリードして、オージローは、死体を調べて……。俺だけが何も判んなくて。エントランスに皆で集まってた時、俺だけずっと、なんもわかんないまま、話聞いてて……。気が付けば、話が終わってた。それで聞けば、ツトムも未空も、謎を解こうとしているって」

「僕らだって現状、何もできていないです」

「――いや、俺からすればそうじゃなかった」四郎は非力を自覚しながら首を振った。「俺はどういう方向を目指して行けばいいのかさえ、わかんないんだよ。馬鹿だから何の役にも立てないし……、それ以前に、誰かを疑う勇気だってない。ツトムに言われた通り、じっとしていようかと考えた。……でもそれも、やっぱりそんなの嫌で……。でも、何もできなくて……」

 フォローはできなかった。

 宇未に任せる結果になってしまったけれど、頼みの彼女でさえ、気の利いた言葉はでてこないみたいだった。ゲームの音だけが、しばらく部屋に反響する。未空は目が疲れてきたので、宇未と交代した。

「……ところで、皆から見た奏さんって、どんな人でしたか」暫く経ってから、未空は訊く。本心から、興味があったことだった。

「……普段は、そうだねぇ。聞き上手な人だった」旺次郎が言った。「でもなんか、言いたいこと我慢しているようにも見えたなぁ」

 それはさっき、小枝からも聞いた台詞だった。

「やっぱ、皆そう言うよね」小枝が同意した。「距離を置いてるって感じたことはあったな。……旺次郎は、彼女とどんな話したの?」小枝が旺次郎を見て問う。

「……そういえば、彼女の病気を見てほしいって、頼まれたことがあったよ」

「……病気?」未空がくいつく。

「なんでもあの子、字が読めないんだとか。当然、彼女はちゃんと、一通りの学習は終えている」

「字が読めない……? 失語症ってやつですか?」未空が顔をわずかに寄せる。

「シツゴショウ……?」小枝は不思議そうな顔をして旺次郎を見た。初めて聞く言葉だったのだろう。

「物理的な原因――例えば、頭を打ったとかが原因で、読み書きや聞くこと、話すことにに障害が出てくる病だよ」旺次郎が説明した。「……でも、彼女のは、違う。どうも精神的なものらしい。……困ったことに、俺はそっちの専門じゃないから、そういう方面では力にはなれない。去年の交流会の後に、一応友達に調べさせたんだ。すると、そういうケースはあると報告が入った。俺も調べてみたけど、確かにそういう人はいた」

「それも、病気なんですか?」未空は前髪を分ける。

「曖昧なライン。正確な病名はない。ただ、やっぱり失語症の仲間として取り扱われているみたいだ」旺次郎の長い舌が見える。

「全く読めなかったんですか? 奏さんは」

「特定のものが読めないって言っていたね。娯楽関連のやつだったら、なんの問題も無いらしい。例えば、トランプの数字は見れるし、ダーツのポイントの数字も見れる」

「あぁ、そういえば……」未空は記憶を振り返って、納得する。「例えば、どういうものが読めないんです?」

「えっとねぇ……なんだっけ。なんかの契約書とか、パスポート、保険証……、ちょっと小難しいものが苦手みたいだねぇ……。小説は、ギリギリ読めるらしいけれど。だから、そういうのは創ちゃんが全部やってたんだって」

「気構えしちゃうような書類とかが無理だったってことですかね」

「判らない。前に俺の友人の病院を紹介したんだけどねぇ、結局そこにも来なかったんだ。真実姉妹は千葉県の方に住んでてねぇ、俺の友人の病院も、幸いその近くだったってわけ。けどソーちゃんも最終的には、別に治らなくても、デザインしていられれば、それでいいって」

「いつ頃に発症したんですか? その症状」宇未が質問した。

「……三年くらい前にって、言っていたね。今から数えてね。だからかなり最近だね。けど、原因は彼女にも判らないみたいで……」

 宇未は上を向く。「ふぅん……」

 ひとまず話が終わると、旺次郎と小枝がコントローラーにぎる。しばらくして、旺次郎は思い出したかのように、また話をはじめた。

「病気といえば、あれだよね。確か創ちゃんの方は、幼い頃、喘息にかかってたんだよね。すごく重いの」

「え、そうなの?」小枝が驚く。「旺次郎。私、初耳だよ、それ」

「だって、言ってないもん」旺次郎は『ひひっ』と笑った。二人の距離は、やはり近い。「ソーチャンが言ってた。相当ひどかったらしい。喘息死寸前だったってさ」

「……喘息で、人が死ぬんですか?」宇未が横から話に加わる。

「あぁ。珍しいケースだけど。国内でも年に数千人しか、死者は出ない。今は技術が進んで、かなり少なくなっている」

「あのさ。双子で片方だけに病気が発症するって、そんなことあんの?」四郎が手をあげて質問した。

「普通にあるよ。珍しいことじゃない。創ちゃんはね、とんでもない免疫力をつけていって、十歳になる頃には喘息との縁を完璧に切ったんだ。あの姉妹、なんだかんだで相当絆が厚いみたいだ。ソーちゃんは、創ちゃんの事をとても想っていた。ぬいぐるみをつくると決めたのも、創ちゃんが入院してた時になんだってさ」

「……それも初耳」小枝は両手を合わせて、言葉の続きを待っていた。

「創ちゃんがすごいそういうの好きな子でね。彼女らの母親は手先が器用で、見舞いついでにぬいぐるみを作ってあげてたんだって。創ちゃんはね、お母さんみたいなものを作れるようになりたいって、ソーちゃんと話をしてたわけ。それでソーちゃんが先に言ったんだ。病気治したら、一緒につくれるようになろうって」

「……小さい時の事だろ? よく今まで続いたもんだ」四郎が感心していた。

「ねぇ、すごいですよね」宇未も同意する。

「死を間近にしていたからねぇ。それほど強いきっかけにもなったんじゃないかね。似たようなものは、俺も何度か見てきたから」

 未空は記憶をたどる。全ての意味を亡くして、ただの容器となったそれを抱きしめて泣いていた創の姿。彼女はこれからどうするつもりだろう。生き続ける理由は見つけられるだろうか。今の彼女は、生きがいだった研究テーマを完全に否定された学者みたいなものだ。自分の中で形成されていった生きがいみたいなものを打ち砕かれた。未空の見た彼女の痛みは、そういうものだった。

 午後十一時。

 未空は昨日の幸せを思い出す。

「宇未姉」未空は宇未を見た。「戻ろっか」

 宇未は頷いた。「そうだね」

 二人は四郎にお礼を言って、それから小枝と旺次郎の二人に挨拶をしてから、部屋を出て行った。

「みぃくん」

「ん?」

 宇未は視線をどこに向ければいいか迷っているようだった。「……お願いがあるんだけど」

「いいよ」

「……おい」宇未は拍子抜けしていた。

「……で、何?」

 宇未の頬が赤い。初めてみる表情だった。「……一緒の部屋で寝ていい?」宇未は慌ててつけ加えた。「ほら――やっぱ、怖いから……」

 未空は腕を組んだ。「やっぱ怖いからの部分を撤回するならいいよ」

 宇未はおかしくなって笑う。「何、それ」

 未空は肩を竦めた。「何でもない」


 5

 

 エントランスの電気は既に消えていた。

 小枝と秤は、例のぬいぐるみを探し続けていた。さっきまでは旺次郎と創も手伝ってくれていたが、限界が近そうにみえたので、小枝が遠慮して二人を部屋に戻るよう促した。

 ぬいぐるみはやはり見つからなかった。もう日付は変わろうとしている。

「……仕方ないよ」秤は不本意な事を言ってしまったと後悔する。

「……あれは、奏さんに貰ったものでもあるから」

「そうだね。諦めたくはないだろうね」秤と小枝はソファに座った。「……けど、びっくりしたよ。あのぬいぐるみ、そんなに大切にしていたなんてね」

「秘密にしてたし。だって知られたら、からかわれるって思ったから……」

「誰がからかうのさ。君を」秤は小枝の頭を撫でた。

「……からかってるじゃん」小枝は拗ねている子供みたいに頬を膨らませた。

「しかし、旺次郎さんも知らなかったとはね」

「誰にも話してないもん」小枝の口調が幼くなる。秤と二人きりの時の彼女は、これがデフォルトだ。

 会話が弾まなくなったところで、秤は煙草を取り出した。この屋敷で煙草を吸うのは、秤零士と真実奏だけだった。秤は煙草を吸う仲間がいなくなったことに、この時はじめて気づいた。

 沈黙はしばらく続いた。徐々にこの沈黙すら、心地よいものになっていった。

「――最初は、二人だった」秤は急に沈黙を砕きたくなった。秤の言う最初とは、この屋敷の出来上がった日の事だ。「……それがいつの間にか、こんな大勢になっていったんだ」小刻みに煙草の煙を吐く。天井に、小さな煙がいくつも昇っていく。「今年はそれに、未空くんと宇未ちゃんも加わって……、とうとう食堂でご飯が食べれなくなってしまった。最初、ここはとても静かで、食堂は二人で食事するには広すぎるくらいだったのにね」

 この時秤は気づいた。現状に似あわない綺麗事で空気を固めて、無理やりにでも気分を良くさせようとしている。それは小枝も気づいている筈だったが、彼女は何も言わなかった。

 秤は奏の真似をして、半分ほど残っている煙草を灰皿にこすりつけて火を消した。

「僕はただ、それが嬉しかったんだ。君の笑う回数も増えたから。僕は今のこの気持ちを否定するくらいなら、真実を投げ捨てるさ」小枝は真面目に秤の言葉に耳を傾けていた。「自己満足なんだろうね、こういうのって。……やっぱり、ツトムは正しいよ。仲間が殺されたっていうのに、僕はまだ、綺麗なままでいたいだけなんだ」

「……零士さんは、優しいんだよ」

「それは違うよ、小枝。僕は自分勝手なんだ。正確に言うなら、僕は自分を優しい人間なんだって、信じたいんだ。だから、今もこういうことを言っている」

「零士さんは、嘘を言っているの?」秤は黙った。二本目の煙草を咥える。「零士さんは自分の為に嘘はつかない。困った時は、今みたいにそういう風に黙るもの」

 秤は小枝の成長に驚いていた。「君は、他人の事を正しく考えられるようになったね」

「……ずっと零士さんが教えてくれてたから」

「僕は何も教えてない。君を変えたのは、皆だ」

「確かに皆だよ。零士さんを含めて、皆」小枝の言う皆には、未空と宇未も含まれていただろう。

 秤は六年前の自分の姿を思い浮かべる。あの時の自分には、一かけらほども想像できなかっただろう。自分が再び、こんなにも皆という単語の意味について考えるようになろうとは。

「元々は、一人でいようとするための、この屋敷だったのにね」秤は六年前の自分を笑った。「……本当の事からも、皆からも――妻からも逃げて、一人になろうとしたのに」秤は小枝を見た。「君と出会ったのは、あっちの世界にいる祖父からの贈り物だったのかな……。それか――」秤は言葉を中断した。

「祖父。前に、話してくれたよね」小枝は案外楽しそうに、話に乗ってきた。

「世界で一番尊敬する人物だったよ。今は、もういない人だけど」

「学者だったんだよね」

 秤は微笑んでから頷く。「そう。僕からみた彼は、この世の誰よりも天才だった。様々な賞を取っていて、部屋に沢山のトロフィーがあって……、遊びに行く度、その数が増えていってね」

「……ノーベル賞?」小枝は知っている単語を口に出しただけみたいだった。

「ノーベル賞じゃないな。祖父は、発明家ではなかったから」小枝はちょっぴり残念そうだった。「……彼の素晴らしいところは、感情論が多いところだった」

「学者なのに?」

「そう、学者なのに」秤も小枝も、可笑しそうにしていた。「あの人はね、学者の癖に矛盾のあることばっか言うんだ。愛だの正義だの、困った人がいたら助けろとか……、彼は生きる少年漫画みたいだった。……けどね、六年前、君を助けようと思えたのは、きっと、祖父にあこがれ続けていた自分がまだあそこにいたからだったんだ。祖父はずっと、僕に言葉を教えてきてくれた。特に覚えてるのは――幸せになる方法だった。あれが、祖父の口癖みたいなものだったから」秤はこの話を何回か彼女にした事があったのを思い出した。小枝も覚えているだろうが、恐らくは気を遣って、話を中断させるようなことは言わないでくれたのだろう。「『最愛の人を見つけなさい』って。決断はいつになったって構わないから。そういう人と出会えれば、その瞬間に君の幸せは確定するからって」

「……おかしな人」小枝の黒い目が、わずかに光った気がした。

 二人はまた沈黙の中に浸った。秤は話したいことが山ほど出てきたが、余計なことで小枝を疲れさせたくはなかった。小枝はまだ黙っている。祖父のことを考えているのかもしれない。もしそうならば、嬉しい。

 二本目の煙草が尽きた。取り出した煙草の箱が思いの外、軽くなっていた。残弾を確かめる素人のスナイパーみたいに焦った。煙草は、残りあと三本だった。秤はその内の一本に火をつける。

「ねぇ、零士さん」小枝は恥ずかしそうだった。「……結婚って、どういうもの?」

「すれば判るさ。結婚して、家族ができて、子供ができる。不思議な体験としか言えないけど、それでもかけがえのない経験になる」

「……私には無理だよ」

「どうして?」秤は知っていながらも訊いてしまった。問いは反射的なものだったのだ。

「……正しい方法で生まれた命じゃないから」小枝は下を向く。「……正しくない命が、正しい命と結婚して、私が正しい方法で人の子を産む。そんな資格なんて、無いと思う」

「君の生きたこの六年は正しかっただろう」秤は優しく断言した。秤は本当に伝えたい言葉は、こういう口調を使って届けることにしている。「……それだけあれば、もう十分じゃないかな」

 秤はまた小枝の頭に手を置いた。小枝はわずかに震えたが、秤は気づかない振りをした。小枝は気づいてほしくなさそうにしていたからだ。

 吸っている煙草が短くなっていく。秤は灰皿の中にある、半分残して殺した煙草の死骸を見つめる。勿体ないことをしたと、後悔する。

「……今でも好きなの?」小枝の声は、静寂の中でも聞き取りにくいほど小さな声だった。

「ん?」

「……別れた奥さんの事、今でも好き?」

「好きだよ」秤は即答した。まるで自動返信みたいに速くて正確だった。「当たり前だよ」

「当たり前なの……? 別れたのに?」

「うん」

「……じゃあ、どうして別れたの?」

 さっきみたいな即答はできなかったが、最終的に秤は告げた。「……お互いに、お互いの顔をみるのが辛くなったんだよ」

「……どういうこと?」

「なんだか、さっきから訊き返すのが多いね、君は」

 秤はここにきて初めて、いちゃもんをつけた。それはどうしても答えたくなかったからだ。小枝も秤の意図に気づいていたようだった。秤はにこにこしながら、タバコの先端部分をもみけした。

 煙草は二本になった。秤はその一本に火をつけ、煙と一緒に言葉を吐いた。「正直言うとね、答えは今も出てないんだ」

「最愛の人?」

「……そう」秤は自分の矛盾を自覚する。「おかしな話だろう。妻と付き合ってる時、なんとなくだけど、『この人と結婚するんだろうな』って、予感していたんだ。仲も良かったし、喧嘩もしなかった。……沈黙さえ心地よい時間だった。でもきっと、どこかで疑っていた部分があったのかな……。正直、僕にあの人は勿体ないくらい素晴らしい人だったから。裏があるんじゃないかって、疑念を抱いていたのかも。今思えば、僕は祖父のあの言葉に散々振り回されてきた。けど、僕にとっては信条みたいなものでもあって……、大切な約束みたいなものでもあった。だから、意外と後悔とは、そういうのはないんだ。間違っては、いただろうけどね」

 小枝がわずかに空いていた距離を詰めてくる。「……答えは見つかりそう?」

「迷ってる」

「誰で?」

「……妻と、君で」小枝は驚愕して、そのまま固まった。見ていて飽きない表情だった。「……どうしたの?」

「いや。……意外だったから」

「そう?」

「だって――」小枝は言葉に詰まる。何かを思い出して、続きを言うのを躊躇ったようだった。

「クローンだから」秤は口調をきつくする。「そういうつもりだったのなら、僕は君を許さない」

 小枝はうつむいた。「……未空くんに、言われたの。卑屈なことを言うと、秤さんが悲しむって」

「……未空くんが」

(成程ね)

 それで口ごもっていたのかと、秤は察した。

「君から見て、彼はどうだった?」秤は優しい口調に戻す。

「どうだろう。簡単にどうとは、言いきれないな」小枝は語を継ぐ。「でも、ちょっと思った。多分、若い頃の零士さんは、あぁいう風だったんだろうなって」

「僕より繊細な子だよ。良くも悪くもね」小枝は何か考えているみたいに、天井を見上げていた。「どうしたの?」

「そういえば、まだ、彼とは友達になれていないなって……」

「……そうなの?」秤にとって、それは意外なことだった。「何か、話はした?」

「私がクローンだってことくらい。宇未ちゃんとは、結構仲良くなれたんだけどなぁ」

「彼も中々に口下手だからね」

「零士さんが言わないでよ」小枝はおかしそうな顔をした。

 釈然としないまま、煙草の灰を灰皿へ落とした。小枝はまた何か考えだしたので、秤は

煙草を楽しむことに集中した。口の中が苦い。何故これが好きなのか、自分でも判らない。気が付けば指の間に挟んでいた煙草は用済みの域に達していた。その煙草を灰皿に入れて、念のため先端の弱い火を揉み消す。

「零士さん」今度は小枝が沈黙を崩した。

「ん?」

「未空くんね……、今、この事件を解決するために動いているの」

 秤は棺を工作していた時にやってきた彼の姿を思い出す。

(まさかとは思ったけれど……やっぱり)

 あえて秤は、気づかない振りをしていたのかもしれない。

「彼を見て、何か思わなかった?」今度は小枝がそう問ってきた。

 ついに、秤は最後の煙草を咥えた。それからもう一度、未空の姿を思い浮かべた。

「まるでお前の生まれ変わりみたいだよ」

 秤は、未空の父との会話を思い出す。

(――天宮城……)衝動的に大きく煙を吸い込んでしまったせいで、秤はせき込んでしまう。(……嫌なこと思い出した)

「きっとさ、昔の零士さんも、あんな感じだったんじゃないのかなって、考えたりしたの。零士さん、前に昔の事話してくれたじゃない。子供の頃の話とか、刑事の頃の事とか」

 刹那、秤の視界に映る景色が移り変わる。

「知ってるよ。だってあんた、逃げ出したんだもんな。本当の事から」脳内にその声が、突然降り注ぐ。ツトムの声だ。ツトムは両手を広げている。「けど、あの時逃げ出して置いて行ったものが、いまもこうやって、後ろからずっとついてきているんだよ。……だからこういう事になったんじゃない? あんた……きっと逃げられないんだよ。ずっと」

 きっと天宮城未空には、自分達の絆を壊す覚悟があった筈だ。皆から恨まれる覚悟もある。彼は何としても、本当の事を見つけてくるつもりだろう。秤は膝が熱いのに気づいた。見れば煙草の灰が落ちていたが、不思議と気にはならなかった。

 今の自分と天宮城未空を照らし合わせる。自分達は完璧に一致するほどに合同な輪郭を描いていた筈なのに、半面、鏡に映しだしたように対照的な存在にもなってしまっている。その決定的な差の正体は知っている。天宮城未空には、守り続けてきた自分だけの正義や信念が存在していた。

 それは今の秤零士と昔の秤零士との差でもあった。

 今まで生きてきた時間が形成してきた価値観が徐々にその形を整えていき、その姿こそを疑うことのない信念と決め、自分の中にある正義だと確信させてきた。

 今の自分には、そういうものが失われている。

(あぁ、思い出せた……。そして判ったよ)

 本当の事が知りたくて、そのための力もあって、力を行使する。

 だからこそきっと、小枝は昔の自分と天宮城未空を同じだと言った。

「昔の僕を知らない君が……。まるで、生まれた時から一緒にいた幼馴染みたいなことを言うんだね」秤はようやくして言葉を発せられた。

「最初は判らなかったよ」小枝は何かに怯えているように言った。「……いや。実は、私はほんの少し前までは、零士さんの事、何も理解できちゃいなかった」

「何もってことはないさ」

「違うの……。過言じゃなくて、本当に何も理解できていなかった」小枝の口調が、突然必死なものに変わっていった。「……気づいたことがあったの。理解できていなかった――当然だって。……だって私は、実のところ、怖くて歩み寄ってなかっただけだったんだもの。自分では努力したって言い訳して、それで納得させるしなくて……。そういう風に、悩んだ振りして人間の振りを続けていれば、今度こそ本当に本物になれるって信じていた」

 人間の振りというワードに秤はかっとなって、小枝を叩きそうになった。それは初めての事だった。その手を振り下ろす直前、小枝は囁いた。「叩いていい」小枝が呼吸を整える。小枝の声は消えそうだった。「最後まで聞いたら、叩いていい。……だから言わせて」

 秤は止まった手をソファに置いた。

「……皆の真似をしただけだった。造られたやり方だった。見よう見まねで知った距離の詰める方法を使った。勇気は少し足りないけど、心の内側に近づきたかったから。……造られたのやり方でも、努力した甲斐はあったよ。……無駄じゃなかった。あなたの事をわずかに理解できるところまでは、上達できたから」

 小枝がゆっくりと目を閉じた。

 数秒間の静寂は美しかった。

 囁いた。

「……零士さんはさ、本当は、すっごく暗い人間だったでしょ?」秤はもう一度、彼女の成長を驚いた。最後の一本の煙草は空気を読んだみたいに、いつもよりかなり長持ちしているようだった。「はじめて会った時から、零士さんは笑うことの多い人だった。……最初は判らなかった――でも、皆の笑顔を見ているうちに本物の笑顔との差異に気づいた。……きっと、私そのものが偽物みたいなものだったから、それを一番に気づけたのかな」

 秤は何としても続きを言わせないようにしたかった。「小枝――」

「私の為だったんだね」けれどあっさり、小枝は秤の聞きたくなかった言葉を放つ。「最初は二人だった……」小枝は今にも泣きだしそうだった。「……私を捨てることだってできた。そうすれば、始まりが二人になることもなかった。零士さんは今だって、一人だったかもしれない。……私を捨てれば最初から何も始まらなかったし、あなたが今まで無理して笑う意味や理由だって生まれなかった。元々、何かが始まるのが嫌で――全部嫌いになって――この屋敷こそが、憎しみの象徴になる筈だった。……それでも――それでもあなたは、私を助けてくれた……だからこの屋敷の意味はまるで変わってしまった! ……思い出してよ――。あなたの勇気を奪ったのは、何だった?」

(……奪われた日――)

「あの時私を捨てていれば、完全に過去から逃げることだって、できたんじゃないの?」

 小枝の――そしてツトムの言葉がエコーした。後ろを振り向く。昔の自分と天宮城未空が、並んで今の自分を見つめていた。彼らは自分のすぐそこまで追いついている。

「私を助けてくれたのは、どうして?」

 秤は彼女を叩く理由を失った。こっちは心理の鉄槌で脳天を叩かれた。

 煙草が尽きた。

 時間を稼ぐ手段が、この絶妙なタイミングで失われてしまった。

「祖父の言葉を、まだ正義だと信じて、守ってきたから」

 小枝は力強く頷く。「あなたはその答えを出さなければいけない……。この事件の解決は、昔の自分に任せればいいから……。あなたが今向き合うべき現実は、そこじゃない」昔の自分。いうまでもなく、天宮城未空のことだろう。「私は選ばれなくていい。選ばれたいわけじゃなかったから」

 小枝が泣きだしそうだった。秤は優しく微笑んでしまう。「小枝、もうやめよう――」

「――お願いだから」小枝の黒い目から涙が出る。「……もう、笑わないで」何かの引導を渡すみたいに、今度は小枝が笑った。「私ならもう、大丈夫だから」

 知らない間に強くなっていた。

 彼女の涙を見て、秤はようやく確信が持てた。

 小枝の頬を触る。

 まるで蜃気楼の輪郭に触れているみたいだった。

 秤は笑おうとしたが、もうそれができなくなっていた。

 最後に独り言のような虚しさだけが残った。

「…………おとうさん……」小枝の涙が止まらない。「気づけなくて……ごめんなさい……」

「言わなきゃ何もわからないし、どんなに努力しても、奥に隠した嗚咽も、聞こえない」秤は優しく語り掛ける。けれどやはり、もう笑うことはできなかった。「……皆が皆、未空くんみたいな人間じゃないんだ」

 小枝は何かにすがるように、秤の手を自分の両手で握った。

「彼の力は、世界一優しいものだったね」それは過去の自分にもないものだ。秤は羨ましく思う。「全ての人間が憧れていた色をしていた。けど誰もその色の正体に気づけない。それなのに君が知っていた色だったんだ。……たった今、君が僕に教えてくれた色だ」

「……私は、彼みたいになりたかった。そうすれば、もっと早く色々なことに気づけた」

「それは無理だよ。君は彼にはなれない」秤ははっきりと言う。「……けど他人の幸せの為に涙を流せるほどに、君は成長したんだ。……それは、今の人間には難しい。誇っていいことだ」秤は背中をまるくして、目線の高さを小枝に合わせる。「君はね。今の人間が忘れていることを思い出させるために、生まれてきたのかもね」

「……生まれてきた意味?」小枝にとっては、新鮮な言葉だったかもしれない。

「時間を無駄にしないで、生きた証を残そうとしていた。上辺だけの関係をつくらないで、本当の友達を探し続けてきた。一人一人の出会いを大切にした。……ここにいる皆がそれを知っている」

「私はそれが正しいと思ってた。自分の中にあった価値観に、嘘はつきたくなかった」涙をぬぐう小枝。「この価値感こそが、この六年間の証だった。皆から少しずつもらって、ようやく完成した。そしてこれこそが私の築き上げてきた全てだったから……。……今はその中に……、未空くんと、宇未ちゃんもいる……」秤には、六年前の小枝と今の小枝が別人に見えた。「迷ってるなら皆を頼ればいい。そうすることで、私は今まで心をつなげてこられたから。自分の正しいと思っていたことが、本当に正しかったんだって判るから。この屋敷を優しさの象徴にできたのなら……、零士さんにだってできるから……。怖くは……ないから……。私は……。こわ……、怖くなかったから……」小枝はこの期に及んで、その涙を隠そうとしていた。

 答えは永久に出せる気がしなかった。小枝がここまで訴えているのに、いまだに自分は正義に嘘をつきつづけている。

 小枝は一人になりたいと言いだした。部屋に戻りたがっていた。秤は一緒にいたかったけれど、一緒にいたら、余計彼女を傷つけてしまいそうで怖かった。

「……最初は二人だった」

 小枝が自分の部屋のドアノブを握る。

「一番大好きな人は、六年間、ずっと変わらないままだった」

 

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