第一章 忘れられた彗星
はじめまして、ちゃどと申します。
気分転換に、以前投稿して見事落とされた作品を載せてみたいと思います。
ライトノベルなどと比べると幾分堅苦しいところがあると思います。みなさんの気分転換や、今までと少し違ったものが欲しいという時にでも読んでくれればとおもいます。
ここに登場人物を書いておきたいと思います。
【登場人物】
〖主人公〗
天宮城 未空:主人公。江岸大学に通う一年生。十八歳、男。
雪桜 宇未:もう一人の主人公兼ヒロイン。江岸大学二年生。十九歳、女。
〖屋敷関連〗
秤 零士:屋敷主。無職。四九才。
秤 小枝:クローン技術によって誕生した《異端》の女性。二四歳
赤紅 四郎:四つの腕を持って生まれた《異形》鳶職人。二四歳、男性。
学 事:十三歳にして小説家になった《異彩》。二二歳、男性。
真実 奏:老化を知らない《異質》。四三歳、女性。
真実 創:同じく老いることを知らない《異質》。奏の双子の妹。
星七田 旺次郎:人間の構造の九九・九%を理解した《異能》の医者。
〖その他の登場人物〗
黒動 弓弦:江岸大学の教授。文化交流サークルの顧問。四九歳、男性。秤零士とは幼馴染。
譜詠 江夏:数年前に突如現れた自称予言者。今や世界規模での有名人になっているにも関わらず、正体の何もかもが謎に包まれている。
天宮城空:未空の父親。弁護士。
長い時間殴られたのを覚えている。
青い痣ができて、それを見てから気づいた。
本当は、母親を好きになりたいだけだった。
第一章 忘れられた彗星
1
殺人が起きる。アテはあった――《あの人》の予言した通りの夢を見た。そしてそれは今日だった。
静岡県浜松市、天竜区にある夏焼集落。そこは都会に住む人からすれば、何もかもが目新しい。トンネルの前には錆びれた看板がある。雨が降るとダムの水位が上がって冠水する恐れがあるという警告。夏焼隧道は一キロ以上の長さがあって、子供達の間では《おばけトンネル》という名称で親しまれていたらしい。ネットから借りた知識――天宮城未空がそれを左の助手席に座っている雪桜宇未に話すと、左袖をつかまれる。怯えている彼女は非常に可愛らしかった。
トンネルの中はぞっとするほどに不気味で、さっきまでの歓迎を、引き返せという警告に変えているようだった。一キロ限りの闇は終わる――抜けてすぐに見えた天竜川は、写真で見たよりもずっと鮮明な色使いで向かえ入れてくれた。川に沿った道を長い時間滑ると、駐車場が見えた。比較的最近備え付けられたようで、既に数台の車が先にとまっていた。
駐車は目も当てられないほどに酷い有様だった。車から出なくても判る。未空が車を運転すること自体非常に珍しい行為だったし、長い時間運転するのはこれが初めてだったので、事故が起きなかった一点だけを見て妥協するしかない。
「お疲れ」宇未が頭を撫でてくれる。悪い気はしなかった。
「ありがと」未空はレンタカーのエンジンを切る。思い切りシートに背中を叩きつけて、両目を抑える。「今何時?」
「エイエム・七時二三分」左腕に巻いた腕時計を見て宇未が答えた。
「スムーズに来れたな。初めての長時間運転だったから、一応念のため時間に余裕持って行こうと思ったんだけど……」二〇一九年、七月二七日、土曜日――夏休み初日。未空は夏休みの渋滞を過大評価していたようだと低く唸った。「……全然渋滞しなかったなぁ」
「出たのが午前三時くらいでしょ? そんな時間からじゃあ渋滞しないよ」
「十時に着くようにしたかったけど」
「見事に快速だったね」
男の声がした。「おぉい」と、遠くから呼ぶ声だ。気のせいだと思ったが、未空は車のドアを開けて外に出てみた。すると、また声がした。
「あぁ、やっぱり未空くんじゃないか」会うのは大体十年ぶりくらいなのに、未空はすぐに判った。秤零士だ。彼は嬉しそうに両手を広げていた。「大きくなったね。髪、茶色に染めたんだ。はは、お母さんそっくりになってきたんじゃない?」
「お久しぶりです、秤さん」秤が手を差し出してきたので、未空は手を握った。
「何歳になった?」
「僕が十八。宇未姉は十九になりました」
宇未が車から出てきたので、彼らも似たような挨拶を交わして握手をした。秤零士は未空の父親とは幼馴染だった。
「変わらないですね、秤さん。全然老けてない」宇未が言う。
「よく言われるよ。周りばっか老けちゃってさ」
秤がそんなジョークを言うと、宇未は笑った。未空にそれがジョークだと判った頃には手遅れだった。
未空と宇未は荷物を持つ。秤が案内するように前へ出た。長い階段を上るにつれて、徐々に宇未の定位置は秤の隣になっていく。
宇未の髪の毛も茶色だが、彼女のそれは地毛だ。彼女の髪が肩につくくらいの長さまで伸びていたことのに、この時初めて気がづいた。秤の髪は黒い。男性にしては長めだけれど、宇未ほどではなかった。癖の強い髪質なので、本来は宇未と同じくらいの長さまであるのかもしれない。
「でもよくわかりましたね、私たちが来たって」宇未が両手を合わせる。
「近くを散歩してたんだ。誰も起きてないから暇でさ。けど、十時くらいに来るって言ってたのに、早かったね」
「みぃくんが念のためにって、早く出たんです。夏休みだから混むかもしれないって」
「みぃくん?」
「未空の事です」
「あぁ、昔そう呼んでたっけ」秤が後ろにいる未空を見た。「相当、注意深く見積もってきたね。……だから夜の到着でもいいって言ったのに。午前三時から出発したんじゃ、寝るタイミングも計れないだろう」
「でも、《皆》が起きるのがそれくらいだって、秤さんが言ってたから。せっかくだから、それくらいに到着した方がいいかなって」
「気にしなくてよかったよ、そんなの。皆、事情は判ってくれているからさ」
涼しいフィトンチッドの匂いが、森の中にいることを実感させてくれる。歩いていると、ところどころで陽だまりの中に入る。
「絵葉書みたいな場所だろう」秤が未空の目色に気づく。
「はい。ネットの画像で見た時は、結構汚いところが目立っていたから、驚きました」
「ここらへんは手入れしたからね。けど、今はもう僕たち以外、誰も住んでないんだ」
「誰も?」宇未が反応した。
「一昨年あたりまでは、それなりに住んでたんだけどね」
階段を上りきってすぐのところに屋敷はあった。未空は立ち止まって、白を基調としている大きな屋敷を見上げた。未空と宇未は四泊五日で、ここに泊まることになっている。白い屋敷は辺りの廃墟の家とは格別だった。今の日本の持てる技術を最大限に生かされて造られたような屋敷。小さい頃に見たドラマで、丁度こんな感じの家が出ていたのを思い出す。どこかの姫様が別荘と言って、友達を招待していた。その別荘は海の波打ち際に建っていた。未空は少なからず自分が興奮しているのを自覚した。
「宇未姉」未空が言う。
「何?」
「これってあれだよね。豪邸ってやつだよね」
宇未は微笑ましいものを見るように笑った。未空は彼女が何故笑っているのか判らなかった。もしかしたら他人から見た今の自分は、自分で思っている以上に嬉しそうにしているのかもしれない。
「そうだね」宇未はまだ笑っていた。
「秤さん。名前は、あるんですか?」未空が問う。
「名前?」
「なんかこう……、この屋敷の名前です」『ずれた』質問をした――そう後悔する。未空はこういう風に『的外れ』な発言をしてしまうことが多い。
「……あぁ、そういうことね。言っても、単純に僕の家だからね。――あ、でも、秤屋敷って呼んでる人がいたな」
「安直ですね」
「捻る必要もないさ」秤も笑い、屋敷の扉を開けた。
隔離されて狭まった筈の空間は、むしろ一層広くなったようにすら感じた。床は灰色だった。この屋敷はどうやら靴を脱ぐ必要は無いらしいので、そのために選ばれた色だろう。
目の前の大きな壁には八つの扉が見える。一階には四つの黒い扉、二階にも同じく四つの黒い扉。一階の右端の扉のすぐ横には>形をした木製の曲がり階段があり、そこから直接二階まで上がれるようになっている。各階の四つの扉は等間隔に並んでいて、一階と二階の扉はそれぞれ真上真下の関係性を築いている。
「二階までしか、ないんですか?」未空は驚いた。外から見た限りでは、大きさからして三階くらいまであるように見えた。
「うん。でも、それぞれの部屋はかなり広いんだよ」秤は当然のように淡々という。
エントランスの中心に大きな丸テーブルと、それを囲うよう四方にソファが設置されている。談話スペースらしい。テーブルの上には、菓子の他に猫のぬいぐるみが一体、隅で遠慮気味に座っていた。宇未は荷物をソファの横に置くと、一番にそのぬいぐるみを抱え上げた。
「よくできてるだろう」秤が宇未の横に来て言う。
「すごいです、最初本物かと思いましたよ!」宇未は興奮しながら話している。
「真実創が作ったんだ。後で会ってみるといい」
「はい。……なんていうのかな。これ、なんだか本物より本物みたいじゃない?」
同意を求めてきたのか、宇未は未空を見る。未空が評価を下す前に、秤は二人を座るよう促せた。二人がソファに座ると、秤は反対側のソファに座った。秤は姿勢を整えてから言い開く。
「さて。改めてだけど、ようこそ」秤は優しく笑う。控えめな人だけれど、昔よりずっと明るくなっている。少なくとも昔から彼を知っている未空にはそう見えた。記憶違いではないだろう。「簡単に状況を整理しようか。僕もいきなりの依頼だったから、確認もしたいところだし」
「そう、そうですよね。……すみませんでした、いきなりこんな」宇未は早口で謝って、頭を下げた。未空も便乗して頭を下げて謝罪した。
「大丈夫。君たちだってどちらかと言えば被害者だろう。……いや、そうでもないのかな。どっちでもいいや。全く……、黒動も詰めが甘いよ」黒動弓弦――江岸大学の教授で、彼もまた、未空の父親の幼馴染だ。秤を含めた三人で、よく遊ぶ仲だった。「奇妙なタイミングだよ。君たち二人が江岸大学に入学して揃った瞬間に、あいつも江岸大学に転属。で……、なんだっけ、君たちのサークル……」
「文化研究サークルです」宇未が答える。
「そう、そこの顧問になったってわけだ。しかし、なんでそんなサークル入ったの」
「江岸大学は、必ずサークルに所属しなければなりません」未空が応答した。秤が未空を見ていたからだ。「僕も宇未姉も、体を動かしたり、活発的なことするのが苦手だったので。宇未姉に聞いたら、一番何もしなくて済むサークルが、これだって……」
「で、とうとう何もしてなかったのが上にばれたと」秤は笑いをこらえていた。隠そうとしていたのならば効果は薄い。「黒動が手紙をよこしてきたんだ。しかもかなり汚い走り書きの文字でね。『夏休み、お前の屋敷に二人を預けさせてくれ』って。わけが判らなくてさ……。で、結局再度連絡したわけだ。……公衆電話で」
「わぁ、本当に携帯持ってないんですね……!」宇未は原始人を見るような眼差しで秤を見た。何故だか嬉しそうだった。
「第一ここ、電波通じないし。だから基本手紙だし、長いやりとりが必要なら、公衆電話で話をつけることにしているんだ。街の方まで行ってね」
「生きにくくないですか……?」未空が『ずれた』質問をする。
「生きにくくはないさ。不便ってことはあるけど」
「時間が勿体ないとは、思いませんか?」これは『ずれた』質問だろうか。一々自分の発言を気にするのは悪い癖だと、未空も認めている。少なくとも、会話が下手な証拠だ。
「思わないね。そんな月並みじみた事。事実、僕は時間を大切に扱う必要の無い人種だ。君だって知ってるだろ? 僕はニートだ」
苦笑しながら未空は頷いた。「……生涯で四回、宝くじで大金を当てたんですもんね。……しかも四回買って、その四回全部当たってる」
「そう。一回目は、中学生の時、親と一緒に大晦日に買ったもの。二回目は、高校の修学旅行の時の記念に。三度目が大学合格の記念の時のもので、四回目が最近で」
「全部で何円なりました?」宇未が目を光らせながら訊く。
「覚えてないけど……、全部で四億くらいかな」
宇未は目を細めて前かがみになる。「秤さん何か憑いてますよ、絶対」
「よく言われる」秤が可笑しそうに笑ってから、一呼吸整える。「いいや、話を戻そう。……一応訊いておくけど、この屋敷の人達については、知ってるね」
核心を話すような口調だった。気のせいではないだろう。
「異形、異質、異能、異彩、そして異端――そういった《異》なる人達の集まり、と聞きました」差別するような言い方になってしまったかもしれない。未空は発言を部分的に取り消したかった。「そもそもは、どういう会なんですか」
「ただ遊ぶだけの会さ。皆、元々僕の友達でね。去年から入った真実姉妹は、別だったんだけど……、まぁそれは今度話す。夏休みとか冬休みとか、長期的な休みが取れた時に、ここで集まって遊ぶことにしてるんだよ。僕が皆に招待状出したり、電話で連絡とったりしてね。趣味が良いとは言えないけれど、黒動は尖り者ばかり集まったここを、サークルの課題レポートに使えないかと考えたわけだ」
「そういうことになります」宇未が控えめに言う。
「上の人達は、それでいいって言ってくれた?」
「はい。おかげさまで……」
「よかった。でも、文化研究の対象になりそうもないけど」秤がもっともなことを言いながら顎をさする。
「許可が下りたんで、よしとしますよ。私だって同じ意見ですけど」と、宇未。
秤が「うんうん」と数回首を縦に振ってから立ち上がる。「そうだ、部屋の鍵を渡さなきゃね。君たちの部屋は、二階の左端の部屋と、その右隣の部屋だ」
宇未は正面の壁にある八つの扉を見る。二階の左端と、その右隣の部屋。
「一人一部屋ですか?」宇未が問う。
「そうだよ」
「贅沢ですね」
秤が八つある扉の、一階の左から二番目の部屋に向かう。屋敷の主だというのに変な位置に住んでいるいるなと、未空は可笑しそうに見る。ついていく雰囲気だと未空は解釈して、背中を追う。それは間違っていなかったようで、宇未も同じタイミングで秤を追おうとしていた。
部屋は、玄関で靴を脱ぐようになっている。廊下が真っ直ぐ伸びていて、奥の部屋は畳になっていた。部屋の中は質素で、まるでどこかの仕事部屋みたいだった。部屋の右端にあるデスクの上には写真が二つ立てかけてある。一つは秤零士と、彼のかつての妻の写真。しかし秤零士は、すでに妻と離婚している。もう一つは、妻と赤ん坊の写真。
秤が引き出しを開けて鍵を渡した。
「離婚したことは、聞いたっけ」秤は未空の視線に気が付いたようだった。
「はい、聞きました」未空は気まずそうに返答した。
「宇未ちゃんは?」
「あ、私も……えっと、聞きました」
「ならよかった。ここではじめて聞いたんじゃ、暗い気分にさせちゃっただろうからさ」実のところ、子供ができていたことについては、未空は何も知らなかったので、内心かなり驚いていた。恐らくは宇未も知らなかっただろうし、驚いてもいただろう。「じゃあ、部屋で寝ておいで。あ、別に寝過ごしちゃっても大丈夫だからね」
宇未が礼を言うと、先に部屋から出ていく。同じように未空も出て行こうとするが、秤に引き留められる。「あぁ、そうそう――未空くん」
未空は首だけを後ろに向けた。「……はい?」
「《あの人》に会ったっていうのは、本当?」秤は好奇心の眼差しを露骨なまでに見せてくる。
未空は少し間を空けてから返す。「はい」
(……余計なこと言ったな、黒動先生め)未空は舌打ちをこらえた。扉の向こうに出るまでの辛抱だ。
「余裕がでたら、詳しく聞かせてよ」
できれば言いたくなかったが、そう言うわけにもいかなかった。「わかりました」未空も一つ訊きたかったことがあったのを思いだす。「あの。こっちも一つ、いいでしょうか」
「ん?」
「異端の彼女について、なんですけど……」未空は途中から口ごもる。無意識に声量を抑えていた。「……その、本当なんですか?」
何の事を言っているのか、秤はすぐに判ったようだった。「あとで本人に聞いてみるといい」
「……判りました」
「……でさ、未空くん」
「……はい?」
「その髪は、さ――」秤は発言を中断させるか迷っているようだったが、結局その言葉は言い放たれた。「やっぱり、お母さんの……?」
未空はしばらく黙って、不器用にほほ笑んでから言った。「ご想像にお任せします」
扉を閉める。
母が死んで、もう十二年になる。
母に似ていると言われることが多くなった。髪の毛を染めたせいだろう。母と同じ、茶色の髪の毛。その茶髪は、黒い地毛を高校を卒業した直後に染めた結果だ。
未空は自室の部屋のトイレにある鏡に映っている自分の顔を見つめていた。前髪の分け目をかえて、銀色の髪留めをする。髪留めは死んだ母親がよくしていたものだった。
母親が鏡に映っていた。母親はいつも笑ってくれている、未空にとって何よりも暖かい存在だった――なのにこの母親は、笑う気配を一向に見せてはくれない。
母が死んだ時に食い込んできだ心の溝を埋める方法を、ずっと探してしてきた。こういった傷に塗る薬は思い出だと、未空もよく知っている筈だった。傷を癒してくれる友達との友情、溜まり濁った毒を暴露できる信頼――そういった小さな奇跡すら信じなくなったのは、大人になるよりもずっと前の事だった。
「今だって大人じゃないくせに」鏡の母親が糾弾する。死人のような冷たい声だったので、背筋が凍るようだった。
昔から似たような事を続けてきた。母親に会う行為だ。一人きりでいる時に髪留めをするようになったのが、そもそもの始まりだった。いつの間にかそんなことをして十二年という長い時間が経過してしまっているのに、未空は気づこうとしない。しかしこういった間違ったやり方をすることによって、かろうじて平静を保って来られたのも事実だった。女性寄りの顔つきを保ったまま十八歳になって、髪の毛も茶色になったので、より母親に似てきた――だから最近はより深く安心できるようになった。偽りでも母親に会って安心を得なければ、今すぐにでも呼吸するのを忘れてしまいそうで怖かった。
上手く笑えれば母親が完成するのに――しかし未空は確信犯で、これが間違ったやり方だと気づいていた。天国なんてものがあったら、母親は今頃こんな自分を見て泣いているに違いない。そう考えると、笑うことなんて恐れ多くて、とてもできるわけがなかった。
母親には二度と会えない。そんなことは判っていた。
髪留めを外して、布団の中へ潜る。
2
未空にとって雪桜宇未は姉のような存在だった。未空と彼女は生まれてから今まで家族同然の付き合いをして来たわけだけれど、もしかしたら未空にとって、彼女は何よりも大きな存在になっていたのかもしれない。
母との別れは理不尽で、誰も正当な理由を用意することはできなかったし、幼い未空を納得させることもできなかった。説明だってあやふやだった。未空が大人が無力だと知ったのは、この時が初めてだったかもしれない。
十二年前の三月二十日に東京で起きた通り魔殺人事件で、六人が死亡した。未空の母親はその犠牲者の一人だった。おかしなことだ、と今でも未空は思う。死んだ人達の共通点ははっきりしている――彼らの誰も、死ぬ必要は無かった。
葬式で動かなくなった母親の無色の表情が、最後に見た母親の顔だった。怖くはなかった。むしろ美しすぎたあまり、あの時の顔は今でも鮮明に良く思い出せる。ただ火葬して骨だけになった母親を見ることはできなかった。本当に母親が死んでしまったという実感がこれ以上近づいて来たらどうなるか、判ったものじゃなかったから――そして何より、醜くなった母親なんてもの、見たくはなかった。
「これからおかあさんは骨になる」
父のその言葉を聞いてすぐ、焼いた骨の匂いすら届かないところまで走って逃げていったのを覚えている。火葬場から一人で出ていき、その建物の煙突から出てくる黒い煙を見続けていた。それこそが昇ってゆく母親だと思うと、胸が苦しくなった。未空は自分が臆病だということを知っていた。だからせめて泣かないようにと決めていた。泣くことならいつでもできるし、泣いてしまっては視界が滲んで、逝ってしまった人を見送ることはできない。だから最後までしっかり見届ける――それこそが自分にできる最後の親孝行だと考えた。
未空はその黒い煙を見届けた。母親がしてくれたこと一つ一つを思い出し、それを口にした。料理をつくってくれたこと、一緒に遊んでくれたこと、絵本を読んでくれたこと、描いた絵を褒めてくれたこと、遠くへ連れていってくれたこと、星座の名前を教えてくれたこと、しゃぼん玉のように次々浮かび上がる小さな謎解きに協力してくれたこと。一つ一つの感謝を口にしているうちに涙が零れ落ちた。おかしいと思って「たんま」と言って、一滴の涙を取り消した。しかし尚更涙が溢れ出てきて、最後には立ち上がれなくなるほどに寂しくなった。
一人孤独になったみたいで、怖くなった。
未空を見つけてくれたのは、父親ではなく宇未だった。彼女は急いで未空のところへ駆けつけて、彼を抱きしめた。その時の未空は、ただ宇未にしがみついていることしかできなかった。
どれほど長い時間泣き続けていたのか、今の未空にはもう判らない。けれど、本当に、本当に、本当に――長い時間だったことだけは覚えている。この時、彼女が見つけてくれなかったら、自分はどうなっていたのだろう。
考えている内に、未空は十八歳になっていた。
午前十時丁度に目が覚めた。夢を見た――この十二年間、見る夢は決まってあの黒い煙の夢だった。未空は決まってその夢の終焉と引き換えに目を覚ますわけだけれど、それから今の自分が六歳でないことに気づくのに、一分ほど時間が掛かる。目が覚めると、今日が母を火葬した次の日だと思ってしまっている。だから未空の時計はいつまで経っても六歳のままなのかもしれない。
決まって見せつけられる、黒い煙の夢。
「……いや」
決まってじゃない、未空は上半身を起こして、一つ前に見た夢を思い出す。
予言通りの夢。《あの人》が、まるで押し付けのようによこしてきたものだった。母の死から今までの十二年間で、たった一度だけ見た別の現象。未空はその夢の内容を思い出すよりも早く起き上がり、敷布団を畳んで、部屋の隅に置いた。
酷く眠いのに、二度寝ができそうにもない。十八年の経験上、なんとなくそう思う。頭が痛くて働かないけれど、瞼だけは冴えている――そんな状態。
部屋は秤のものと同じで和室。床は畳になっていて、玄関で靴を脱ぐようになっている。部屋の端に寄せていた四角い木製テーブルを部屋の中心に戻し、座布団を敷く。玄関を入ってすぐ左にトイレと風呂がある。廊下の真ん中あたりに小さな台所があり、驚きの冷蔵庫まで備え付けられている。中には基本的な食材も一式揃っているので、小腹が空いたらこれで自炊して食えということだろうが、使うなら一度許可をもらったほうが良いかもしれない。寝る前に菓子とやかんを冷蔵庫の上に置いていたので、湯を沸かしてからそれを定位置だった机の上に置きなおす。
「……宇未姉起きてるのかな」未空はお茶を飲みながら呟く。早く彼女に会いたかった。
窓から光が差し込んでいた。茶飲みを置いて、窓へ近づく。窓は左右に一つずつあって、高さは床から天井の近くまである。窓を開けるために鍵を外そうとしたが、中央にクレセント錠が見当たらない。左の窓と、その左の壁の間に小さなフックが掛かっているのに気づく。フックはF字型で、今は真横に倒れている。左窓の左端に小さな出っ張りがあり、そこにフックが引っかかっている状態になっていた。窓はスライド式なので、フックがひっかかったままでは開かない。フックを上に持ち上げると、真上で止まる。これは九十度以上は動かないらしい。止まったフックはまんまFの形になる。どうやら左の窓だけがスライド式で動いて、右の窓は固定されていて動かないようだった。
(ヘンテコな造り)
左の窓を右にスライドして、ベランダにでる。下を見る――地面はコンクリートだ。すぐ近くには、天竜川が見える。
未空は二階の左端の部屋で、右隣が宇未の部屋だ。その間はコンクリートの壁で遮られていて、隣の部屋の様子は見えない。手すりにつかまって身を乗り出す。コンクリートは二メートル以上の厚さがあって、やはり隣は見えない。おまけにその壁は屋根に届くくらいの高さまである。どうあがいてもこの壁は越えられないだろう。
「飛び移るのは無理か」
可能だったなら、宇未を驚かそうという発想が浮かんだ。上手くいけば部屋の中まで侵入することもできた筈だ。隣の部屋の窓も、恐らくフック式だろう。壁と窓の間には少しだけ隙間があった。下から定規か何か薄いものでフックを持ち上げれば、簡単に窓を開けられる。そんな子供っぽい事を考えたが、当然、実現可能でもやらなかっただろう。年齢に相応しい行動かそうでないのかくらい、わきまえている。
ベランダから部屋に戻ると、いつの間にか中に宇未がいた。
「いやぁ、ノックしたんだけど……出なくて。鍵、かかってなかったからさ」宇未は言い訳じみた感じで言う。
「え、嘘。鍵、あいてた?」
「うん」
未空は記憶をさかのぼる。確かに閉めた記憶は無い。
「よほど疲れてたんだよ、仕方ないって」宇未は白いブラウスに黒い細身の七分丈パンツ。未空はこういう清楚な恰好をする女性が好きだった。優しい風に見えるからかもしれない。「みぃくんさ、体調大丈夫? 眠くない?」
「……体調は大丈夫。眠いけど」
宇未は可笑しそうに笑った。「じゃあ行こうか」
彼女は他の女性とは違う香りがする。香水のような胡散臭い匂いじゃない。柔軟剤のような、昔から知っている暖かい香り。一番好きな香りかもしれない。
部屋を出て、今度こそ鍵をかける。二階の手すりに手をかけてエントランスを見下ろすと、既に一人、先客がいた。秤でないことは判るが、それから先を確かめるには階段を下りるしかない。すぐに階段を下りて、遠くから人物を観察した。エントランスにいたのは金髪のオールバックの二十代くらいの男性で、漫画を読みながらメロンソーダを飲んでいる。こんな夏なのにぶかぶかな黒いジャンパーを羽織っている。顔つきはそこそこ怖い部類で、第一印象から言えば、好ましい部分が見当たらない。しかし宇未はそう思っていなかったようで、彼女は何も考えずに男へと近づいて行く。男は宇未が話しかけるより先に気が付いた。
「あぁ、新入りか」男は大きく張りのある声で言う。どうやらこれがデフォルトの声量らしい。
「初めまして」宇未が愛想よく言う。
男は二人を見てから本を閉じて、機嫌よく立ち上がる。それから早足で二人のところへ近づいて行き、突然羽織っているジャンパーを脱いだ。すると宇未は今まで未空が聞いたことの無いような奇声じみた悲鳴をあげ、それから数歩後ろに下がって、男の腕を見た。
男は、腕が《四本》あった。
両肩から伸びている通常の腕が二本。それと、両脇の下から更に二本の腕。
《異形》。
男は宇未の反応を見て満足しているようだった。しかし未空は彼を見て、少しだけ違和感を覚えた。
「驚いた。あんたは驚かないんだ」男は珍しそうに未空を見る。
「……いや。ただ、反応できないくらい突然すぎて」未空の声が震える。
「そういうことか」四郎は納得して宇未に近づいた。「俺なりのあいさつのつもりだったんだ、悪かったよ」
「いえ……、あはは、すごい……」宇未は興味深そうに男に近づく。「全部、動くんですか?」
「あぁ、この通り」四本の腕を器用に動かす。面白い動きだった。「俺の事は、聞いてる?」
「はい」未空が先に答えた。「赤紅四郎さん、ですね」
「そうだ。あんたが、天宮城未空だろう」それから宇未を見る四郎。「で、雪桜宇未ちゃん。ずっと楽しみにしてたんだ。短い間だけど、よろしく」四郎は宇未の手を握って握手をして、それから未空の手を握る。四郎はかなり興奮している様子だった。「四郎って呼んでくれ」
異形と聞いてどういうものかと思ったが、未空はどこか過剰に警戒していたようだ。なんてことはない、同じ人間の手だった。
「二人は、何歳?」宇未が自分と未空の歳を、四郎に教える。「大学生?」
「はい、二人とも」
「ふぅん。いいね、大学生か」なにがいいのだろうと、未空は疑問に思った。
「四郎さんはいくつですか?」宇未が手振りして訊いた。
「二四歳だよ。仕事は、鳶をしてる」
「トビですか」未空が繰り返す。
「あぁ、高校卒業してから、今までずっとだ。……あぁ、なぁ、未空」四郎は長年の友達に接するかのような態度だったので、未空は戸惑ってしまった。「君の名前は、どういう字を書くんだ」
「えっと……」
未空はいつも持っているボールペンとメモ帳を取り出す。ボールペンは母親の形見(興味本位で調べて知ったが、値段はなんと十五万円)で、彼女がいつも持っていたものだった。メモ帳は自分のものだが、これを持っているのも母親の真似だ。未空はそれで、自分の字を書く。口で教えてもよかったけれど、うまく話せる自信がなかった。
「未だ見ぬ空」宇未が説明する。未空は最初からこう言えばよかったと後悔する。「私は、未だ見ぬ宇宙で、宇未です。私の名前を未空の両親が気に入って、それで、未空にも同じような手法で命名したんです」
「空と宇宙か。すげぇなぁ、まるで姉弟みたいだ」四郎は大げさなリアクションをする。感受性が豊かなのかもしれない。「そうそう、思い出した。秤さんが、幼馴染って言ってたんだった」四郎が辺りを歩きながらつぶやく。宇未は彼の四本腕が気になって仕方ない様子だった。「しっかしあれだ。いいよな、こうやって美人が近くにいるってのは」
未空を見て言ってきたので、未空の反応を欲しがっているのだろう。しかし未空は気の利いた反応はできなかった。
「彼女、いないんですか?」代わりに宇未が反応した。
「彼女どころか、女性との関わりが全然無いね。仕事も鳶でオッサンだらけだし。関わりのある女性って言ったら、ここにいる人たちと、家の近くのコンビニでバイトしているレジのお姉さんくらいだしよぉ」
「絶望的ですね」未空はようやくして言葉を口にできた。
「未空も気を付けろよ。油断してると、その子、俺が取っちまうからな」未空は無意識に自分が怖い顔をしていたのだと気づいた。四郎がちょっとだけびくっとして後ろに下がったからだ。「いや、冗談だって。そんな怖い面すんなよ」
宇未は未空がどんな顔をしているのか気になったのか、未空の前に出てきた。けれど未空のチャンネルはもう変わっていた。
「そうだ、未空。あんた、小枝ちゃんに会いたいって、秤さんに言ってたらしいじゃんか」誤魔化すように話題を変える四郎。
「え? はい」未空はそんなことを言った覚えは無かったけれど、反射的にイエスを唱えてしまった。
「さっき俺と一緒のタイミングで起きてきたばっかだ。いつもの部屋にいるから、よかったら会って来いよ」
「いつもの部屋……?」と、宇未。
「遊び部屋。玄関から見て、右の壁の、一番奥の扉がその部屋だ」
必要は無かったけれど、未空はわざわざ玄関の方へ移動した。正面の壁には八つの扉。右の壁を見る――扉は三つある。>型の階段のすぐ近くにある扉がそれなのだろう。
「会いたかったの?」宇未が未空を見る。
「いや、なんていうか……」未空は言葉を探す。「興味があったっていうのかな。こんな言い方は、失礼だけど……」
《異端》――正確には、異端の象徴、秤小枝。
彼女は《技術の被害者》だった。
秤と名乗っているけれど、秤零士の実の娘というわけではない。未空はちょっとの事情ならば、黒動から聞いている。しかし、どうしてもその存在を、にわかに信じることはできない。宇未は彼女について、何も聞いていないようだ。
「技術の被害者……?」宇未は不思議な顔をして追及してくる。「どゆこと?」
「会えば判るよ」四郎が催促する。「彼女が一番君たちが来るのを、楽しみにしていたんだ。行ってあげなよ」
宇未は一言言ってお辞儀して、扉まで歩く。宇未は未空を待つけれど、未空はまだ四郎と向き合ったままだった。
「どうした?」
「……いや――」未空は戸惑っていた。「最後に、いいでしょうか」
「あぁ、なんでもきいてくれ」四郎はかなり機嫌がよさそうだった。だから引き返すことができなくなった。
「その体で生きるのは、大変でしたか」
未空は自分の『見た』ものを確かめたかった。これは『ずれた』質問じゃない。誰にでもわかる――タブーの一種だ。
「なんだ。その質問」四郎は怒っているわけでなく、ただ意外そうな顔をしていた。
「いえ」未空は、宇未を驚かせた瞬間の彼を思い出していた。
四郎は恐らく誤魔化そうとしていたのか、最初は笑って何かしようとしていた。けれど未空の瞳を見ると、次第にそれを辞めて、諦めて降参したように両手を上げた。
「最初だけだったよ。いつも、最初だけだ」
「最初? 何がです?」
「えぇっと……」四郎は下を向いて、口をみみずのように曲げる。「小、中、高、いつもクラスが変わるたび、最初だけいじめられて――」四郎はいつもの笑みを戻す。「けれど最初の一週間だけだ。一週間もすれば、誰とでも友達になれた。俺、馬鹿だったんだけど、かなり人気者だったんだぜ」未空はそれを聞いて、目を細めた。「――で。何で、そんな質問しようとしたんだ?」
「……言ってもいいですか?」
「むしろ聞きたいくらいだ」
未空は慎重に言葉選びをする。「さっきほら、宇未姉を驚かせたじゃないですか」
「あぁ、あぁ。……で、それが?」
「……なんかその時」わずかな時間が開く。それから目をそらしながら、未空は言った。「――悲しそうだったから」
四郎は拍子抜けしたようだった。「……それだけ?」
「……それだけです」未空はどういう表情をすればいいか困った。
「成程ねぇ……」興味深そうに未空を見つめる四郎。悩んでいるようで、それから未空に告白した。「確かに今でもやっぱり、コンプレックスな体で――だから、どういう形でもいいから、克服したいって考えてたんだ」
「……だから、さっきみたいなことしたんですか?」
「そう。友達をつくる第一難関が、この体を見せるところにあったから。ほらやっぱさ、相手から驚かれるのは、正直嫌だし」
未空は四郎を見た。じぃっと、彼を見て、それから頭を下げて謝った。「すみませんでした、訊いてはいけないことだとは、判ってました」
「そう謝んなよ。びっくりしたけどさ。けどすげぇな、なんで判ったんだ?」四郎は笑いながら、上下の両手を合わせて、二倍の拍手をつくった。「あんたはあれだ。一々自分の言ったことを気にするタイプだろう。……そう自分を咎めることはない。そういう奴は、何回か見てきた。優しい奴に多いんだ。相手を傷つけないように必死だったりするから」
「……いや。そういうのじゃないです」未空は誤魔化すように微笑んだ。「……そういうのじゃないです」
未空はどうすればいいか判らず、最後は逃げるように、待っている宇未のもとへ小走りで向かった。
宇未に会話の内容を訊かれたが、未空は答えなかった。四郎は気を遣ってあぁは言ってくれたが、内心どう思っているかまでは『見たく』ない。未空は反射的に、何かから目を逸らした気がした。さりげなく後ろを見る。四郎は部屋に戻っていった。
宇未は扉の前に立つと、一度何かを決心したかのように頷き、それから神経質なノックを三回転がす。未空は高校推薦の面接を思い出した。
「はい」内側から女性の声がした。どういう声だったかを分析するより早く、宇未が扉を開いてしまった。
最初に見えたのは、天井まで届く背の高いトランプタワーだった。実在するどこかの建物をモチーフにしたのだろうか。部屋の奥側には、高く積み重なったカードの山が東京タワーの形を維持し続けていた。部屋の中はその他におもちゃが目立つが、全てが整頓されていて、規則的に並んでいる。二人はトランプタワーを崩さないよう、注意深く奥に進む。しかしながら、どういう風にすれば、こんな形を維持したまま自立することが可能なのだろうか。もしかして、のりでも使っているのだろうか。
「崩しちゃっても大丈夫だよ。それ、また組み立てられるから」優しい透明な声。子守歌を聴いているようだった。それは部屋の中心にいる女性が発信源のようだ。
女性は黒いショートの髪の毛で、白いワンピースを着ていた。身長は平均的で、体の線が細くて色白い。目にはゴーグルに似たようなデザインのサングラスをしていて、ファッションを台無しにする要員となってしまっている。サングラスのデザインは評価したいところだけれど、やはり服装とはマッチングしていない。サングラスのせいで、彼女の瞳を見ることはできないし、実年齢の判断もつかない。
「座って」
椅子が二つ、用意してあった。どうしてだか、机は更にいくつも置いてあり、その上にはおもちゃのレールが敷かれている。二人は中心の机の近くにある椅子に座る。
宇未が緊張している。未空からすれば、かなり珍しかった事態だった。彼女は人見知りではないし、初対面の人とも上手くやっていける輝かしいスキルを持っている。目の前の彼女から何かを感じ取ったのかもしれない。
ワンピースの彼女が、手に持っていたボタンを押す。すると部屋の隅から何かの装置が起動した。それらはピタゴラスイッチのように様々なギミックが作動し、やがておもちゃの汽車が発進する。その列車の荷台の上に紅茶の淹れられたポットと、三人分のカップ、それと砂糖の入った容器が置かれた。汽車のおもちゃは、三人のいる机で停車した。
「わぁ、すごいすごい!」宇未は感激して、立ち上がって拍手した。未空は立ち上がりはしなかったものの、同じように興奮して拍手した。
ワンピースの白い女性は上品に笑った。「よかった、成功した。これで失敗したらどうしようかと思った」彼女はカップに紅茶を注いで、目の前に置いてくれた。「はじめまして。秤、小枝です。四郎くんと同じ、二四歳です」
「――二四歳!」宇未は驚いた。未空も同じように驚く。確かに実年齢の掴めない外見だったけれど、あえて未空に言わせるなら、十六から二十くらいかと推測していた。
「ね、皆、最初はそういう反応するの」小枝はまた上品に笑う。「無事にここまで来れてよかったよ。ここらへんは、迷いやすいからね。……ずっと楽しみにしてたんだよ」
「楽しみ?」未空が低い声で尋ねる。四郎は彼女が一番楽しみにしていたと言っていた。
「人に会って話をすること自体、私にとっては奇跡みたいなものなの。新しい友達と言えば、それ以上のものになる」
小枝は角砂糖を入れるか尋ねてくれた。二人が告げると、希望通りの個数をいれてかき混ぜてくれた。それから四郎の時と同じような質問をいくつかされたので、同じように答えた。
小枝は未空を見てゆっくりと立ち上がって身を乗り出し、未空の顔に自分の顔を近づけた。未空は驚きすぎて反応も身動きもできなかった。宇未は顔を赤くして絶句していた。
「綺麗な目をしているのね」小枝が未空の左頬に振れる。
「そう、そうですか?」未空は自分の心臓の音が聞こえてきそうな気がして焦った。
「よく言われない?」
「言われ――ない、ですねぇ」
反射的に言ってしまったが、実のところ、言われたことは何度もあった。未空本人は自覚していないが、それが初対面の時のお決まり文句みたいになっている部分もあった――それほど頻繁によく言われてきた。褒めるところがないから適当にでっち上げられた長所かと悲観的に捉えていたが、いよいよそうも言っていられなくなってきたかもしれない。
「なんかあれだね、宝石みたいだね。……宝石って言っても足りないかな。それよりもすごく綺麗な目だよ」
ここまで露骨に褒められたのは初めてだった。未空は顔が熱くなっていくのが判った。
「……瞳、瞳と言えば」未空がようやくしてまともな声を絞り出す。「あなたの瞳も……」
「やっぱり、聞いてる?」小枝は未空から離れる。椅子に座った状態になってから、話を再開する。「私という存在についても?」
「なんとなくですけれど……」
小枝が宇未を見る。宇未は首を横に振った。「ごめんなさい。私は、何も聞いてなくて」
「わかった」
小枝はサングラスに指をあてて、何かを警告する。未空はその正体を知っている。小枝がゆっくりサングラスを取り外すと、宇未は大きく開けた口を両手で覆う。
彼女の両目――眼球は、隅から隅までが《真っ黒》だった。未空はその瞳こそ宝石みたいだと思ったけれど、とても口に出せるような状況ではなかった。
「未空くん」小枝が言って、未空は短く返事する。「私の正体知っているなら、彼女に教えてあげて」
自分は重い使命を背負わされた気がする。未空は生唾を飲んだ。「いいんですか?」
「うん。いいよ」
「……じゃあ、本当なんですね?」未空はしつこいと言われようとも、確認を取りたがった。
小枝は無表情のような空っぽの笑みを見せる。「えぇ、本当よ」
宇未は未空を見て――それから小枝を。
未空は何度か重い深呼吸をして、小枝の異端を心の中で唱える。
「宇未姉」
体を宇未の方へ寄せる。
柔軟剤の匂いがした。
小さく。
それでもはっきりとした声で、小枝の正体を、宇未に告げた。
「彼女は、《クローン人間》だ」
空間が、写真みたいに動かなくなる。
未空も、宇未も。
現代技術、最大のタブー。
異端。
これこそが異端――異端の象徴。
宇未はまだ動かなかった。わずかに唇が動いたが、言葉は出なかった。それから何度か言葉を出そうとしていたが、声は発せないままだった。
小枝は宇未を見てから、持っていたサングラスに視線を落とす。「そんな深刻に考えなくていいの。ただ、それを判ってほしかっただけだから」
リード役の宇未が喋れないので、未空が進行役を引き受ける。「よかったんですか? こんなことを言うのはすごく気が引けるんですけれど……僕たちは今回、大学の課題でここに来ただけに過ぎません。みなさんは二週間ほどここに滞在すると、うちの先生から聞きましたけれど、僕たちは、四泊五日程度のものです。……あなたの正体をわざわざ話す必要は、無かったと思います」
「確かに、あなた達は課題でここに来た。友達になれる保証も無い。それは判ってる。友達になりたいというのは、現状、私の一方的な押し付けに過ぎないもの。だからせめて、友達になりたいというのが本心だって、判ってほしかった。嘘は、つきたくないからね」
小枝は目を閉じて口元を優しくつり上げる。
「言いふらすとは、考えませんか?」未空が下品な質問をする。すると小枝がおかしそうに笑う。子供のような笑い方だった。
「考えるわけないじゃない、やあねぇ。……どうするの? 交番に行って、クローン人間がいますーって言うの? ていうか、言わないでしょ? 零士さんまで売るような行為をするわけがないし」
「えぇ……確かに。そうですね」
未空は、きっと『ずれた』質問をしていたんだと実感した。次の話題に移行しようと思ったが、何を訊けばいいのか判らない。宇未とのコミュニケーションスキルの差を思い知る。
「話したいことがないなら、私が話していい?」
「話したいこと、あるんですか?」
「当然じゃない。さっきも言ったけれど、この屋敷であなたたちが来るのを一番楽しみにしていたのは、私なんだから」彼女は時折子供っぽくなる。未空はそれを魅力に感じた。「けど最初はやっぱり、私の抱えている問題についてだね。友達になりたいからこそ、一番に知ってほしい」
「クローン人間ってだけを知れば十分だと、僕は考えます」なだめるように言う未空。
「そういうわけにもいかないでしょう。そうすると必然的に、なんでクローンである私が、今ここにいるかを話さなければならないから」
小枝が今にも話をはじめそうだった。宇未を見て助けの合図を密かに送るけれど、今の彼女は役に立ちそうになかった。
「友達をつくる第一難関が、この体を見せるところにあった――」未空が独り言みたいに言いだした。突然割り込まれて、小枝は驚く。「……四郎さんは、そう言ってました」未空は自分でも驚くほど冷静に、彼女の目を見て話ができていた。小枝は未空から何か恐怖じみたものを感じ取ったみたいに見えた――もし本当にそうなのだとすれば、彼女は相当勘が良い。「……四郎さんにしてもそうですけど、やっぱりこういうコンプレックスを率先してさらけ出してくれるのは、少なからず嬉しく思います。……見せる必要の無かったものを率先してさらけ出してくれるってことは、自分達に近づきたいと、心の底から思ってくれているってことでしょうし……。でもやっぱり――その」慣れない饒舌で、頭が回らなくなる。「……僕は、あなたがクローン人間だろうとなかろうが、そんなことはどうでもよくて……、それは、あなたの過去にしても同じです。友達をつくる過程といっても、よりによって、こんな一番辛いようなやり方を選ぶべきじゃないです。友達っていうのは、あなたが思っているほど、何でもかんでも簡単に話すような関係を指すわけじゃない。友達同士だって嘘をつくし、上辺だけの友達同士って関係があることも、僕は知っています。だから、こんな――『律儀』って言われそうなやり取り、別にしなくていいんじゃないでしょうか」
小枝はしばらく静まり返ってしまっていたが、やがて穏やかに笑った。
宇未は正常に戻っていたようで、安心したような顔で未空を見ていた。
「……ありがとう。でもね、そうじゃないの」小枝は穏やかに笑った。ほんの少しだけ、顔を近づける。「四郎くんも同じ考え方をしていると思うのだけれど、やっぱり、知ってほしいっていうのが一番大きいの」
未空は理解しようと努力したが、目を瞑って首を横に振った。「……ごめんなさい。そういう気持ちは、僕には判らないです。僕の価値観は、結構そういうところ、ずれているので」
「正直な人ね」小枝が茶化す。「私なりの、最大の敬意のつもりなの。さっきも言ったように、私は人と対等に話をすることがかけがえのない奇跡となるから。この世には上辺だけの関係が大切であることも知っているけれど、私は普通の人ほど多くの出会いはないし、友達をつくる機会なんてもの、あと何回あるか判らない」急に小枝は真剣な表情に切り替えた。「……私の瞼が二度と開かなくなる日っていうのは、笑って誤魔化しきれるほど、遠い日の事を言うわけじゃないの」
小枝は自分の胸に手を当てて、二人を見る。未空は目の前にいる彼女がクローンだという実感が徐々にわいてきて、どうしてだか怖くなってしまう。恐ろしいわけではない――彼女の問題の深刻さを目の当たりにしたような気がしてしまったのだ。
「――寿命が短い、ってことですよね」未空は確認してしまった。
「そうね」小枝は受け入れているのか、簡単に顎を引いて認める。「テロメアが短いって、よく言うんじゃない? SF映画とかで。私の問題は、正にそれだね」
「テロメアが短い……」未空は確かに、クローン人間がフィクションに出てくる度、決まってその台詞を聞いてきた。けれどそれが実際にどういう意味なのかまでは、理解できていないままだった。
「みぃくん」宇未は深刻な口調で割り込んできた。「……簡単に言うとね、クローンとして造られた生物は、生まれた時点で、親と同じ年齢なの」
未空はわずかな時間、黙った。理解しようとしていた。「……どういうこと?」
「親っていうか、元となった生物……の細胞を、そのまま使う感じなの。だから生まれた時点で既に、クローン生物の体の細胞は、最初から劣化している状態でスタートしてる。例えば小枝さんの元となった人が四十歳だったとすれば、小枝さんは、生まれた時点で四十歳ってことになる」小枝は曖昧な表情を浮かべながらも、頷いて宇未の説明を肯定した。「ここではテロメアそのものについての説明は置いとく。判って欲しいのは、細胞分裂を繰り返すにつれて、このテロメアっていうものが、どんどん短くなっていくってこと。正確にはテロメアの短さによって知ることができるのは寿命じゃなくて、細胞の老化具合。その度合いを逆算して、おおよその寿命を知ることができるの――」
宇未の説明はそこで止まる。
未空は今の気持ちを訴える手段を知らなかった。
見えない壁ができて、遠い距離を作った気がした。楽器屋のショーケースに飾られているヴィンテージギターを見ているような気分。物理的な距離は零に近いのに、無意識に、一生縁の無いものだと区切りを付けている。ありふれた表現で言えば、世界の違いを一目で思い知らされたようだった。
「お母さんって言えばいいのかはわからないけれど、私は、私の元となった人の年齢を正確には知らない。当時の私はそれを知りたいっていう発想まで至らなかったし、どのみち、向こうも教える気は無かったみたいだったから」二人は何も反応できなかった。「六年前の六月十日まで、私は本物の太陽を見たことがなかった」小枝はとうとう話を始めてしまった。「今まだあるのか判らないけれど、長野県の山奥にあった研究所、そこで私は生まれた。外見はなんとも貧相な張りぼてだったけれど、地下の中はそれなりに立派なところだった」
「何故、あなたが造られたんですか」宇未が問う。
「さぁ」小枝は平然と肩を竦めた。「興味本位だったんじゃない?」
「そんなわけないじゃないですか!」
宇未が立ち上がる。
手で小さく制する小枝。
「そんなもんだよ。だって私、大した実験させられてなかったもの」宇未は目を大きく開く。未空は喉が乾ききっているのに気づいて、紅茶を飲んだ。「クローン人間は造ってはいけないというのは知ってるでしょう、宇未ちゃん」宇未は反応しなかったが、小枝は続けた。「そこに発展の可能性があるなら、やってしまうの。そういう考え方をする学者は、いつだっていたでしょう? 倫理に反することなんて、何とも思っていない――そういう考えをする学者は、こういうことをする生き物だったでしょう?」小枝は自分の胸に手を当てて、異端の意味を主張する。「人間のクローン複製を、科学進歩の発展としか考えていない――そういう人間の末期の輩が、私を造りあげた。『造れるかもしれない』で始まって――造ったら、それはそれであっけない対応だった。体調の変化とか、通常の人間と比べてどうとか。そういうちょっとした検査を毎日されただけ。思ったほど大した生き物だとは思われていなかったの。……当然ね、今の技術でクローン人間を造るなんて、本来なら造作もない、十分可能なのだから。本来はできたけど禁止されていたこと――それを隠れて試しにやってみた。それができた。……それだけだった」小枝は一度黙った。それから念を押すように、彼女はもう一度言う。「――それだけ」
長い時間、沈黙が部屋の中を制していた。そう信じ切っていたが、実際のところ、静寂は一分も経過していないようだった。
「……それまで、あなたは研究所で、何をして過ごしてきたんですか」未空の乾燥している声が、ようやく沈黙を壊した。
「さぁ。もう覚えてないや」小枝は目を瞑る。「十六歳の時にね、私のオリジナルの人に本をもらったの。その人は、黒雲さんっていうの。私の名前はその黒雲さんがつけてくれて、研究所での私の呼び名は、形式上、《黒雲小枝》となった」
小枝は話を整理させるため、一度わざと間をつくる。「彼女がくれた小説や、漫画――それをどういう意図で私に与えたのか、それだけが今でもよくわからないの……。黒雲さんは私と同じで、目が真っ黒だったわ。何かの病気だったのかどうかは、最後まで知ることはなかった」小枝はサングラスを見る。「これは、零士さんがくれたの。零士さんの友達に頼んで、つくってもらってね。外に買い物に行く時とかはこれがないと、色々とまずいから」
「どうして、研究所から抜け出せたんですか」いつの間にか、未空は彼女の全てを知りたがっていた。
「十八歳の誕生日に、私は処分される予定だったのを、聞かされていたの。六年前。振り返れば、それだけの時間が経過したっていう実感も沸くわ」
「処分――?」宇未の声だった。「処分って――?」
「処分は処分よ」
「それは、不要になった物を捨てる時に使う言葉です」未空が指摘した。
「私は物だったの。少なくとも、あの人達にとってはね」小枝は未空のカップを取って、紅茶を足す。「日付が変わって十八歳になった瞬間、私は何もかもが怖くなった。漫画や小説といった空想の物語を見ているうちに、自分のいる環境の異常さが、判るようだった。物語の主人公が『もしも自分だったら』ってページをめくっている内に、余計なものが混ざってきたのかもね」
「余計なものじゃない。……それは零士さんが聞いたら、悲しむ台詞です」未空が説得するように言い聞かす。
小枝は黒い目を大きく開いた。「……そうだね。撤回する」それから小枝は一度、大きく息を吐いた。「私は基本、自室に監禁されているような状態だったの。日付が変わって十八歳になった時、黒雲さんが私の部屋に入ってきて、私に訊いたの。最後に外を見てみないかって。私は外に出て、初めて自分の研究所の外装が、あそこまでボロボロだったのを知った。初めて地面を踏んで、初めて自然を感じて、初めて星を見た。星座をいくつか教えてくれた。それから黒雲さんは何かを忘れてきたみたいで、一度研究所に戻ろうとした。……そしてその時言ったの。『十五分くらいで戻ってくる』って」
「……おかしな話です。あまりにずぼらだ」未空は意見した。
「私もそう思った。多分彼女は、私を逃がすつもりだったんじゃないかな」
「……逃がす?」
「なんとなくそう思ったの。誰からの命令でもなく、ただ個人として、私を外に連れ出して来たみたいだったから」
「今更、同情でもしたっていうんですかね」未空の口調は厳しいものだった。
「どうだろう。……どの道、あの時逃げていなかったら、私は本当に処分されていた。それだけだよ」
「……あなたは随分と、自分に冷たいんですね」何かの感想のように、未空は呟いた。「さっきからまるで、嫌いな人の悪口を言っているみたいだ」
「…………」小枝は急に真顔になる。そしてカップの輪郭を指先でなぞりはじめた。「あなたに言われるまで、気づかなかった。……無意識に、卑屈になっていたのかも」
「秤さんが聞いたら、やっぱり悲しみますよ。そういうの」
「そうね。……気を付ける」小枝は頬杖をついて、未空を見つめる。「けれど零士さんが言った通り。本質を見るのがうまい人なのね」
今言う言葉としては適切だったのだろうか。未空の頭上で、ハテナマークが雲のように浮かぶ。
「秤さんとは、どういう風に知り合ったんですか」未空はあえて流し、話題を変えてみる。
「私は研究所を逃げ出してから、ずっと走っていたの。ずっとずっと。何の支度も、食料も無く、靴すら履いていない裸足の状態で。太陽が眩しいって感じる時間まで、ずっとね。下へ下へ目指して、とうとう山を降りることはできたけれど、私の意識は、そこで途切れてしまった。次に目を覚ましたのが、この屋敷の中だった。……奇妙な偶然よね。なんとこの日は、この屋敷が完成した日でもあったのよ。私が目を覚ましたのは、その次の日だったんだけどね。もっと言えば、それからしばらくの間は、歩けなかったわ。あんなに走ったの、初めてだったから」
「……よかったですね。下手に病院とか、連れていかれなくて。戸籍確認とかされたりしたら、どうなることか……」宇未は言いにくそうにしていた。
「そうだね。当時あんな恰好して、何も持っていない状態だったし、しかも裸足だったんだから。何か訳ありだってことは察していたのかもね」
「それからどうなったんですか?」宇未は進行役を取り戻したようだった。
「私はしばらく、零士さんに何を訊かれても喋らなかった。クローン人間なんて言ったところで信じてもらえないし、馬鹿にされるのがオチだって。そう思ってたから。零士さんも中々のお人よしだったな。私は警察も病院も嫌だって駄々こねて、それで私自身の事については何も言わないし。それでも文句の一つも言わずに、私をここに置いてくれていたんだから」
宇未は控えめに笑う。「でも、結局話したんですよね」
「うん、話した。比較的早く信じてくれたから、すごいびっくりした」
「そこから、今の生活になったんですか?」
「そうね。色々と馴染むまで、時間はかかったけど。私の苗字が秤に変わったのも、そのくらいの時」
小枝は空になった三つのカップを、汽車の荷台に乗せて、机の端に寄せる。「他に、知りたいことはある?」
「いえ」宇未が未空の意見を待たずに言う。「もう、十分すぎるくらいに、話してくれたと思います」
聞いている宇未も、少し辛そうだった。彼女も感受性が豊かな方の人間だし、話を聞いていて感情移入をしすぎた部分も多々あっただろう。聞いている方までもが辛い話になってしまっているのなら、続ける意味もないだろう。
未空は自分が知りたいと思っていたことの全ては話してくれたと、結論を出した。「僕も宇未姉と同じ考えです」
「……わかった」小枝は相槌を打った。「なら私の話は、これで終わりにする。二人とも、聞いてくれてどうもありがとう」小枝が頭を深く下げる。「一度、私との会話は、これで終わりにさせてほしい。……暗い話になっちゃったから。一度、間を空けたほうがいいと思う。ここから楽しい話が出来る自信、私にはないから。何より、早く皆に会ってほしいっていうのが大きいのかな。とても素敵な人達ばかりだから」
未空は潔く立ち上がった。あまりにあっさりした行動だったので、宇未は意外そうにこちらを見ていた。考えがあるわけではない。未空は自分のトークスキルの乏しさを認め切っている。
「できれば、次は楽しい話をしたいです」未空の言葉は申し訳程度のものだった。
「必ず」小枝は約束した。それだけで十分だった。未空からすれば、約束そのものが貴重だ。
未空は頭を下げて扉に向かった。宇未は部屋に残りたがっていたので、黙って先に扉の向こう側へと出て行った。宇未はこういうアフターケアのうまい人間だ。自分がいてはむしろ邪魔だと認めざるを得ない。閉めた扉に背中を預け、誰もいないエントランスを見続ける。誰もいないとなると、気が楽になる。空気を吸うのに抵抗がなくなるようだ。
宇未はきっとうまくやっていると信じていた。彼女のこういうスキルを羨ましく思う。他人を救うという偉業に等しい――貴重な能力だ。
未空は白い天井を見て、どこに焦点を合わせればいいか悩んだ。諦めるように目を閉じて、一人よがりの世界に閉じこもる。
「優しい人になってね。他人の為に生きられる人になってね」
聞いた母の言葉。こういう風に、何の前触れもなく、母親の言葉が聞こえてくることがごく稀にある。
母は物事を光や綺麗なものを表現につかうことの多い人だった。
母が教えてくれた光は、いつだって自分の行き先を照らしてくれていた。その光さえあれば、どこまでだって進んでいけると、昔の自分は、笑いながら前を歩き続けられていた。
今は、
そうじゃない。
限界を知らないまま進化し続けていた筈の何かの光は、いつの間にかその輝きを放棄していて、大切な役割までもを忘れてしまっていた。
なんの光だったのだろう。
3
宇未がほんの数分経過して出てきた。
「あのね、小枝ちゃんと友達になってきたの」宇未は嬉しそうだった。
(……小枝『ちゃん』、ね)
友達、そういうフォローの仕方があったかと、未空は関心した。自分が曖昧なままにして結局踏み込まなかったボーダーライン。
「よかったね」未空は素直に言った。宇未はよほど機嫌が良いのか、未空の頭を軽く撫でる。それから声を出して、未空の肩を揺らす。「あ、そうだ、忘れてた。みぃくんさ、車の鍵持ってない?」
「持ってるよ」未空はポケットから鍵を取り出す。「どうしたの」
「お土産。ここの人達への。車の中に忘れてきちゃってさ」
「――あ」未空は気まずそうに口を押える。
「どうしたの?」
「……いや」未空は下を向く。「買ってきたんだけど、持ってくるの忘れてきちゃった」
宿題を忘れた言い訳みたいな事を言う。小学生にとっては必殺技みたいな言い訳だった。乱発すると効果が薄くなる。
「あら。……仕方ない、私と二人で買ったことにしよう」
「……ごめん」
「いいよ、平気。……でも大丈夫かな。お土産、お菓子なんだよね。熱さにやられてなければいいけど……」
「急いだ方がいいね」
宇未は鍵を受け取る。「じゃあ一旦、別行動にしようよ。あぁ、嫌だったら、部屋で待ってて。それか携帯で……」
「携帯は使えないよ。圏外」
「あーそっか……。じゃあ、部屋で待ってて。もしそれで部屋にみぃくんがいたら、一緒にまた行動しよう」
未空は部屋で待っていようと、すぐに決めた。誰かと一対一で話せる自信はなかったからだ。
「じゃあ、後でね」宇未の声が遠くなる。
未空は血迷ったかのように、一人で誰かに会ってみようかと考えた。しかしすぐに却下した。誰かに迷惑をかけないことこそを、優先した。「他人のために――」、母の言葉。ずれたような解釈をしていることは明白だ。それでも母の言葉に従っていると自分に言い聞かせて、安心を得たかった。
「こういう考えしてるから、六歳のままなんだ」誰かが囁いたみたいだ。
おかしくなって笑い、足元のスニーカーを見る。それから階段を上がり、自分の部屋を目指す。自室がもうそこに迫ったとき、割り込むように目の前の扉が開いた。宇未の部屋の右隣の扉だ。
「あ、ごめんなさい……」鮮やかな栗色のショートボブの女性が、服をつまんで持って出てきた。瞼が少し垂れ下がっていて、眠そうにしているみたいだ。ピンクのカーディガンにロングスカートを着ていたので、上品そうな印象を頂く。「……あなたがあれね、宇未ちゃんね」
「いえ、自分は、未空です」
女性は、ぽかんとまん丸く口をあけて、数秒遅れで驚いた。「えぇ、男の子! やだやだ、すごい綺麗な顔……」女性は未空の全身を見るように、未空を軸にしてコンパスのように彼の周りを一周移動した。近くで見ると、あまり日本人のようには見えない容姿だ。「あ、ごめんなさいね。私ね、真実創っていうの」
「あぁ」エントランスの机にあったぬいぐるみを思い出す。「はじめまして。あなたが……」
「あれ、何か聞いてた?」創はゆったりとした口調で話す。
「エントランスのぬいぐるみを、あなたが作ったって」
「あぁ、成程ね。……ふふ、あれかぁー」
「裁縫が得意なんですね」
「うん、まぁね。お姉ちゃんもできるんだけど、私の方がうまいんだ」腰に手を当てて、胸を張る。大人しい外見だけれど、そこそこ自信家ではあるみたいだ。愛らしいギャップだ。
「お姉ちゃん――そういえば、秤さんが、姉妹がどうとか言ってたような……」
「そう、双子なの」創は楽しそうにかがんで、上目づかいで未空を見る。「ところでさ――私、何歳に見える?」
「――は?」
唐突だった。頭の中が空になる。女性に年齢の事を訊いてはいけないというのは、未空でも知っている。けれど向こうから振られた場合の対処は知らない。
創はからかうように笑った。「やだなぁ、そんな深刻に考えなくていいんだよ。別にちょっと気になっただけだから」
「はぁ」未空は直感のままに言う。「十八歳ですか?」
深くは考えなかった。
自分の歳をそのまま言ったに過ぎなかったが、実際に十八に見えないことも無い。創は信じられないような顔をして驚いて、それから微かに口元を歪めた。
「嘘でしょう?」
「いや……一応、本気ですけど」
「本気?」
「えぇ」
「――四三」
創がその数字を言う。未空には何の事か判らなかった。「何がですか?」
「歳」
「誰の?」
「私の」
「あなたが?」
「うん」
「四三?」
「うん」
「あっはは」乾いた笑いを強引に絞り出す。「――で、何が四三ですって」
「……戻ってる戻ってる」創は両手を前に出して未空をなだめる。「私たちが異質って聞いてない? 《異質》」
「あぁ、えぇ……」未空は思い出して、混乱から立ち直る。「ただ、具体的にはあまり」
「ふぅん」シニカル気味に笑い、意地悪気な顔をする。似合わない笑い方だった。「十二年間でたったの三人――老化しない人が存在するっていうのは、知ってる? 何年か前、とある科学誌で発表されたんだけど」
人差し指を額に当てられる未空。「いえ」
創は何故だか得意げになって、また胸を張る。「私たち姉妹、二人ともそうなの。もっといえば、若返ったりすることもある体質らしいんだけどね」
今度は未空が創の周りを一周する。どこからどう見ても、十代後半にしか見えない。「四三歳……」その数字が、8の字みたいに頭の中でずっとループしていた。「けれどこの体質、姉妹揃って同じって言ってましたけど、遺伝とか関係あるんですか?」
「んー、そういう訳でもなさそうだけどね。私達の親は、どっちも普通に老けてたし。そもそも、この老化しない体質の原因も、未だに不明とされてるらしいし」
「へぇ」
未空は自分が落ち着いて話ができていることに気づいた。当たり前かもしれない――あの尖った二人の後に彼女を見れば、何とも普通極まりない。老けないだけの女性だ。
「……それはそうと、ずっと思ってたんですけど。その服は何ですか?」未空は彼女のつまんでいる服を見る。白と紺色のボーダー柄のカットソーのようだった。
「あぁ、これね。お姉ちゃんに頼まれたの。お気に入りなんだけど、破れちゃってね」
「お姉ちゃん、ですか」
「お姉ちゃんにはまだ会ってないよね? 真実奏、って言うんだけど」
わずかな時間で記憶をたどる未空。「……えぇ。まだです」
「じゃあ丁度良かった。これさ、お姉ちゃんに届けてくれない? 遊び部屋にいると思うから」
「小枝さんのいる部屋ですか」
「あー違うの」創は首を横に振る。「あれは遊び部屋って言うより、小枝ちゃん専用部屋みたいなとこあるのよ」
「小枝さんの専用?」
「おー、さてはあれだなぁ。四郎くんに教えてもらったね」いつの間にか、彼女がつまんでいたカットソーは、綺麗に畳まれている状態になっていた。
(いつ畳んだ……?)
「四郎くんは説明下手らしいからね。私達姉妹は去年から入ったばっかだから、何とも言えないんだけど。あそこはね、《専用部屋》って呼んでるらしいから、まぁ、そのつもりで。玄関から見て右の壁の、一番手前の扉の部屋ね」
「はぁ……」
「じゃあ、お願いね」逃げるように創は部屋の中に戻っていた。内側から鍵がかかるような音がする。未空の両手にはいつの間にかカットソーが乗せられていた。
(だから、いつの間に……)
服は香水の匂いがした。
嫌いな匂いだ。
「えーっと」遊び部屋に入ってすぐ、その女性は未空に気が付いた。彼女の手にはダーツが握られていて、今まさに、それを的に向かって投げる瞬間だったみたいだ。「――宇未ちゃん」
未空は思わず吹き出した。姉妹お揃いの勘違いだった。「いえ、未空です」
「あぁーそうかそうか、すまない。その様子だとあれか、妹も同じ間違いをしたか」
「はい、えぇ」
「うんざりさせちゃったかな」
「いえ。そんな」
真実奏は、創と比較すると目つきが鋭い。口元のすぐ横に、小さな火傷跡のようなものがひとつ。髪の毛は栗色ではなく、黒色。ショートボブでなく、ロングのストレートヘアーを、赤いシュシュで束ねている。姉妹の違いは一目瞭然だった。無地のシャツにダメージジーンズと、恰好も真逆だ。それでもやはり、幼く見えるのだけは変わらない。女子高生、女子大生くらいにしか見えない。
部屋の中にはダーツとビリヤード。奥には卓球台やらボードゲームの類がズラズラと並んでいた。想像していたよりも奥に広い部屋だ。
「おつかい?」奏は持っていたカットソーを指さす。
「はい。創さんに頼まれて」
「悪いね、わざわざありがとう。変な頼まれ方したかな。あいつも結構強引なとこあるからさ」
「ちょっとだけ」未空は愛想笑いをしてみた。できているかは確かめられない。
造られた匂いのする服を渡すと、彼女はそれを広げる。満足そうに頷くと時間をかけてそれを畳み、隅の机に置いた。
奏はダーツを手の中で遊ばせる。「少年、ダーツはできるかね」
「いえ、ルール、判らないし」
彼女はダーツを『ぽい』と投げる。それは見事に的のど真ん中を突き刺した。「ビリヤードは?」
「もっと判らないです」
「はぁー? 大学生だろ? 大学生は異性たぶらかしてチャラチャライチャイチャウェイウェイして遊ぶのが使命だぞ。あー、じゃあポーカーだな。よし、ポーカーにしよう、そうしよう」
強く背中を叩かれると、ボードゲームの棚が揃えられているスペースに連れていかれる。拒否権はないらしい。適当な意味で選ばれた五枚のカード二組が机を滑る。未空は諦めて机に座る。幸いルールは知っていた。
「煙草は平気?」奏が机に乗っかっている灰皿を指で叩きながら訊く。
「大丈夫です、お気遣いなく」
「悪いね」
パッパと火をつけて唇で挟む。重量感のある銀色のジッポーと煙草が置かれる。彼女からわずかにアルコールの匂いがする。よく見ると、顔がやや赤い。こんな時間から飲んでいるらしい。
(変なテンションの時に来ちゃったかな)
記憶がなくて、もう一度自己紹介をするような羽目にならなければいいが。未空の困ることといえば、それくらいのものだった。
「裁縫をされるって聞きました」珍しく未空から積極的に場を動かす。
「あぁ。けど創の奴の方がうまいんだ。……だから、リペアも任せた」それは本人からも聞いた台詞だ。奏は手札を二枚を交換した。「彼女を見て、どう思った?」
「創さん」
「うん。建前はいいよ」
未空は素直に答えた。「大人しいですよね。性格的な意味でじゃなくて――尖った特性を持つ人ばかりですから、ここは。四本腕とか、クローンとか」
「あぁ、それ。それを言って欲しかった」機嫌よさそうに未空を指さす。「どうする? お互いチェンジ終わったけど」一度ポーカーに戻る。
「降ります」
「臆病だね」
「負ける気がしました」
「正解だ」手札を机に表向きに置く。未空はスリーカードだったけれど、奏はロイヤルストレートだった。「スリーカードを持ってして負けを見極めたか。どういうわけだか」
奏はおかしそうに笑うが、未空にとってはただの勘に過ぎなかった。
「で、それを言ってほしかったって、言いましたよね」
「そう、その話」奏が山札を混ぜて、五枚の二組を配る。「私からすれば、四郎はともかく、小枝ちゃんは普通の子にしか見えない」
「……どういう眼鏡かけたら、そうなるんですか」
「面白い表現するね」『まぁ、私は眼鏡かけてないけど』と当たり前な訂正をされる。「これからそれを教えてしんぜよう。創は天才なのだ」ふざけたような言い方をしてから、奏は手札を見る。「コミケって知ってる? ほら、同人誌とか、そういうの売るイベント」
「いや、知りません」
「……じゃあ説明が面倒になるな。まぁいい。うちらの職業はさ、デザイナーもどきなんだ」
「デザイナーもどき?」
「年に二回、服とかぬいぐるみとか展示したり販売したりする、そういう大規模なイベントがあるわけよ。そのコミケってやつに、よく似てるんだけどさ。それまでうちら二人、アルバイトして暮らしてて、今までぬいぐるみは趣味でつくってたわけ。で、試しにそこに参加したのよ」
「……はい」話が見えてこない。未空は黙って手札を見続けた。
「私たちも出品するわけだ。私がデザインして、彼女が制作。うちらがつくるのは、ほとんどぬいぐるみなんだけどね」
「……話が飛躍しますけど、今は、そのイベントのみで生活してるってことですよね。それだけだと、収入きつくないですか?」
「彼女は天才だと言っただろうに」奏は鼻で笑う。「二回目のイベントに参加した時にね。ちょっと面白い企画をたてたんだ。百万円するプレミアのぬいぐるみのレプリカをオークション形式で、値段を競争させるように販売する。創が一回やってみたいって言ったから。……当然、皆に一言『レプリカだぞ』って注意してからね」
奏が勝負に乗るか聞いてきたので、今回は乗った。互いに手札を見せる。未空がフルハウス、奏はツーペアで、未空が勝った。
「すごいな君。もしかして、こういうの得意?」
「いえ。ルールを知っている程度で、イカサマとかも判らないですし。本当に、普通に勝負してるだけです」
「まぁいい」奏が続ける。「で、その百万円のぬいぐるみのレプリカ、何円で売れたと思う?」
「……一万行けばいい方じゃないですか」
「私もそう思った」煙草の先端部分を擦ってを消して、新しいのを咥える。口元から『カリッ』と音がして甘い匂いがしたので、フレーバー系だと気づいた。「――百三万円」
煙を吐きながら答えた。てっきり煙がそんなことをつぶやいたのかと馬鹿な発想が閃いたりしたが、当然違う。
「……三万円?」
「――百三万円だって」奏は表現しがたい笑い方をする。「言いたい気持ちも判るけどさ。でも。事実は、百三万円」
「……おかしくないですか? だってレプリカですよ?」未空は自分の声が震えているのに気づく。それでも比較的冷静だったのは、あまりにも現実味の無い話だったからだろう。
「……君には判るか? なんでそれが、そんな『気ちがい』な値段を叩きだしたか」
未空は即答しようと思ったが、少し考える振りをすることにした。「……判るわけ、ないじゃないですか」
「だろうね。……私にだって判らんさ」奏は苛ついているようだった。「あぁいう価格のつくプレミア品っていうのはさ、なんかの記念に、レジェンド級の職人が、高価ななんちゃら素材ってのを使ってできたからこそ、価値の出てくるものだろう? あいつの腕は確かに、最高だ。けど、業界の有名人と言えるほどではないし、使った素材は一般的なものだ。果たして、どこで本物を超える要素があった? 私はずっとそれだけを考えているが、どうしても判らん!」『どん』、と机を叩く奏。未空はそんな奏が怖かった。「あぁ、すまん、訳もなく苛ついた。大人の悪い癖だ、気にしないでくれ……」酒が効いているのだろうか。未空は息を吐く。「創本人は判っているみたいなんだ。どうして本物を超えられたのか。その理由が」
「じゃあ、訊いてみればいいじゃないですか」
「簡単に言うな。私のプライドが許さないんだよ。私はあいつのパートナーだ、肩を並べて歩く存在だ。下手に出るような真似ができるか。ましてや、私は姉だぞ」感情を制御するように息を整える奏。自分がまた苛ついていたことに、ようやく気づいたみたいだった。「彼女は昔からそうだったな……うまく言えないけれど、偽物に関しての知識があったような気がする。……断言できるのは、今の彼女の偽物に関しての才能は、世界一だってことだよ」
「世界一?」未空はその言葉の裏にある真意を知りたがる。
「本物の価値すら簡単に潰すんだ」奏が背もたれに体重を預けると、軋む音が聞こえた。「彼女は、騙しているんじゃないんだよ。レプリカだと公表している――偽物だということを知ってもらっている。それなのに、誰もが彼女の偽物にくいつく。本物を超える偽物を作る……。後だしじゃんけんとはハードルがまるで違うってのに。……判るか? これは想像を絶するほど恐ろしい才能だ」
また、未空の言葉を探す作業が始まる。「僕には、創さんの才能、一生理解できないでしょうね。次元が、あまりに違いすぎます」
「賢いな、理解を最初から諦めるのは悪い選択じゃない。次元が違う――あぁ、正しい。私は愚者を絵に描いたような存在だ。私の似顔絵を描かれて、そのまま『愚者』というタイトルを付けられたみたいだよ……」
「……卑屈ですね」
「判ってはいるんだ、私は彼女の足元にも及ばない。――いや、彼女に踏まれるほどの価値もない。彼女に踏まれる土は幸せだ」奏は悟ったように天井を見上げていた。「それからもレプリカをつくるっていう企画は続いたんだ。収入の為ってのは勿論そうだけれど、創の奴がすごい乗り気でね。要望の声もヤバいくらい多くて、毎回レプリカのぬいぐるみを五、六個つくるようになった。どれもこれもが六、七桁の数字、叩きだすわけよ。オークション形式で値段が桁飛びで上がっていくあの様は、まるでお宝鑑定団みたいだよ」
「五、六個もレプリカをつくるって……。この世には、百万円するぬいぐるみって、そんなにあるんですか?」『ずれた』質問をしていたと、未空は気づいていなかった。
「……あ? まぁ、そこそこあるよ。でも、その五、六個がそれぞれ別の種類のぬいぐるみってわけじゃない。大体は同じものをいくつか作るってやり方だね。後は、ほら、前に作ったレプリカ品が欲しいからまた作ってれとか、再販してくれって要望も沢山もらうから。それに合わせたりしてね」
「良く判りました」
「……ここまで来ると、私はいらないなって思うけれど、でもやっぱり、私も負けてられないからさ。今や私は、ちょっとしたヒモの気分を味わっているよ」
「ヒモって……奏さんは女性ですよ」未空はまた吹き出す。
「判ってる。気分の問題さ」奏は『けらけら』笑った。「ま、あいつには感謝してるよ。おかげで今やこちとら大富豪の生活させてもらってるわけだからさ」
「大富豪ですか」未空の目が光る。
「――すまん、言いすぎた、そこまでじゃない。大人によくある大げさ発言だ、気にしないでくれ」
未空はちょっとがっかりして、彼女の今までの発言を振り返る。
「あの。……その大人のなんちゃらっていうのは、口癖なんですか?」これは『ずれた』質問ではないと、未空は信じたかった。
「……あぁ、そうかもね。外見がこんなんだからね。大人ぶりたくもなるわけよ」
「若く見られるのは、嫌なんですか? 僕は、素晴らしいことだと思いますけど」
「若く見られすぎるのが問題なんだ」奏は煙草で未空を指す。「私は見ての通り酒も煙草もたしなむ人間だ。けれどほら、こんな外見だから、一々買う時に年齢確認されるわけよ。判るかな? こんなやり取りが一生続くとなると憂鬱で、大人ぶりたくもなるわけよ。……ま、大人ぶるってのが、そもそも子供の証拠でもあるんだろうけど」
ありふれたことを言ったかな、と付け加えてから、もう一度ゲームを始めた。その後に沈黙を保ったまま二回戦行った。二回とも未空の勝ちだった。
「そいえば創もポーカーが得意なんだ。今度やってみるといい」
奏がポーカーをやめると言いだしたので、カードをしまって棚に戻した。それから奏は一度向こう側に戻り、酒とグラスを持って戻ってきた。
「……ちなみに創は酒も煙草もやらないんだ。あいつ、酒はすぐに酔っちまうし、煙草の匂いも駄目なんだ」
「……あなたは?」未空の声が弱く響く。
「ん?」
「あなたは自分自身の事は、話さないんですか? さっきから、妹の事ばかりじゃないですか。僕はあなたと話しているんだから、あなたの事を知りたいです」
奏はどうしてだか、急に悲しそうな顔をしだした。次の瞬間、何かが『見えた』気がした。「……私が一番、この屋敷で大したことのない人間だって。背伸びすることしかできない。大人になりきれない大人って言うのかね」
「結婚はしていないんですか?」
奏は三本目の煙草をつける。「するつもりもないね」
「どうして?」
「考えてもみなよ。私はこの通りの外見だ。同い年の奴と結婚したら、そいつは一生ロリコン扱いされるぜ? 事案に厳しい時代にもなってきたからね。そういう意味でも、夫には一生迷惑かけそうだからね。それにやっぱ――ほら。怖いじゃん」
「……? 何がですか?」未空には想像もつかない。
「さぁ、想像してごらん」奏は両手を控えめに広げる。「自分は老けないのに、周りばっか老けていく光景だ。私は既にそういう景色をもう何回か見てきたわけだけれど――あれは正直耐え切れない。夫なんて最大のパートナーができてそれを見てしまったら、今まで以上の苦しみを味わいそうで怖いんだよ。誰とも並んで歩けない苦しみだ」
機械的な口調に変わったその語りに、形容しがたい恐怖を感じ取った。目を逸らしたものの、どこに視点を当てればいいのかわからないままだった。「そんな怖がることはない」と言って、彼女はすぐに元の調子に戻った。
奏は半分以上残っている煙草の、先端部分の火をもみ消した。
「……勿体ないですね。半分以上残ってるのに」
「自分がつまらない人間だって思った時にやるんだ。こんな贅沢なことできるくらいの人間ではあるぞって、自分に教える為にね……」
ちょっと見てなと言ってから、奏は新しい煙草を出して、口にくわえないまま長い時間火につける。それを宙になげると、煙草は放物線を描いて落下。奏は落ちてきた煙草を、口にくわえてキャッチした。それから大きく息を吸うと、煙草の先端部分が入れ替わるように灰になる。
「……危ないですね」
「ここの火傷」奏は口の横にある火傷跡を指す。「これで失敗してできた跡なんだ」
「しょうもないことで、大切な顔に消えない跡残しちまいましたね……」
「はは、こういうつまらないことばっかする人間なんだよ、私は。結構ウジウジしてる性格なんだ、こう見えて」若干ながら、そういうところが自分と似ていると、未空は思った。「吸う?」奏が煙草の箱を差し出す。
「いえ、未成年なんで……」
「じゃあ酒」
「同じく」笑いながら手でストップサインを出す。
「でも、飲んだことくらいあるでしょ?」
「小さいころ、水と間違えて机の上にあったものを飲んだことが。えーっと、母さんが生きてた時だから、五歳くらいの時かな」
「あっはははははははは!」奏は大笑いして手を叩いた。長い時間、彼女は笑い続けた。「……私が言ったのは、自分の意志でってことさ。いや、いい子だな、君は。相当いい親に育てられてきたんだろうね。もしも私に息子ができるんだったら、君みたいな子がいい 頭に手を乗せられて、くしゃくしゃに撫でられた。恐らく馬鹿にされたのかもしれないが、未空はその手を拒絶できないままだった。すると徐々にその手の動きは優しくなって、ゆっくりになっていった。
「奏さんは、良い母親になれますよ」未空のそれは何の根拠も無い無責任な発言だった。
「それはない」痛く冷たい口調で即答される。「私は駄目だ」
「どうして?」
「なんとなく、そんな気がする」奏の声を聞いていると、段々寒くなる。「……君みたいな息子ができて、自分よりも老けていくっていうのは、どんな感覚なんだろうね」
未空は注意深く、慎重に、囁くように問った。「……その話は、さっきの続きですか?」
「そういうわけじゃない。一々気にしないでくれ。大人によくある意味深発言だから」
「――奏さん」未空はまた何かを『見て』しまった気がした。
「君はさっき、母親が生きている時と言ったね」奏は無理やり遮るような口調を使った。「……今は、いないってわけだ」奏は優しく未空の頭を撫で続ける。未空はほんのわずかだけ、眠くなった。
「……はい」
「甘え足りなかったのかな」
「どうしてそう思うんです?」
「君の歳くらいの子は、頭に手を置かれたらすぐ怒る」今度は、温かい声。奏の表情は、今までと違う。母を連想させる。「今の君は幸せそうだ」
――お母さんは好きだった?
天からの声かと錯覚した。
けれど、奏の口が、動いていた。
「大好きでした」
また天からの声かと思った。
けれど、自分の口が、勝手に動いていた。
「どんなことをしたかは、覚えてる?」
未空は催眠術にかけられた気分を味わう。それは当然違うわけで、未空がどうしようもないほどに、話したがっているだけだった。「全部覚えています。何一つ、忘れやしませんでした」
「聞かせて」
こればかりは言葉を探す必要はなかった。言葉はすぐに出てきた。「母は、僕が小さな疑問を見つけてくる度、一緒にそれを解明するのを必ず手伝ってくれました。……小さい頃の僕は、好奇心の塊みたいでした。子供は皆そうかもしれませんけれど、僕は多分、彼らより一層、本当の事だけ探し続けていた子供だったと思います。クイズとかが好きだったんです。判らないことが判るのは、楽しかったから。……その楽しさを教えてくれたのが、母親でした。母は、時に僕に色々な問題を出したりもしてくれました」
「勉強は好きだった?」
「全体で言うと、普通程度です。自分で答えを見つけるのが好きだったんだと思います。数学が好きでした。覚えるのは公式だけで、そこから先の答えは、自分で見つけなければなりませんから。僕はそれを探求するのが大好きで、数学のテストだけは、ずっと満点でした。母親も、数学が得意だったらしいです」未空は我に返る。胸ポケットに挟んでいたボールペンを握っていて、それを見つめていた。
「……それは?」
「母親のです」未空はあっさり告白してしまう。「母はいつもこれを持っていて、これで僕と一緒に絵を描いたり、はなまるをつけたりしてくれていたんです。母が死んだあとは、僕が欲しいってずっと聞かなくて」
「お母さんを、忘れないように?」
「……それもあるんだと思います。色々な想いがありすぎて、一概にどうとは、言いきれないんですけれど」
「辛かったね」奏の声がする――安心した。「母親が死んでからは、どうなった?」
「今と、そう変わりません」未空は認めてしまう。「僕が六歳の時に母はいなくなって――それから今までの間、ずっと、こんな人間のまま過ごしてきました。自分でも、よくもまぁこんなんで、図々しく生きて来られたなと……」
頑なに丸いと教え続けられてきた地球の上を歩いていく意味を、ずっと考えていた。
短くて細い二つの足で立って、たった一人きりで考えていた。
全てを一緒に探してくれた母親は、もういなかったから。
「そんなことはない。よく生きてこられたもんだ」奏は肯定してくれた。未空はそれが素直に嬉しかった。「君は今まで、多くの人にこういう事を話しては来なかっただろう」未空は首肯する。「……他人と話すのは怖い?」
「怖いとはちょっと違うかもしれないです。ニュアンス的には、そんな感じですけれど。ただ、遠ざけているだけじゃ駄目だって知ってて――。社会に出たら、もっと面倒くさくて複雑な――色々な人付き合いがあるから。その……、努力はしてきたつもりでした。嘘だと疑われるかもしれませんけど……、本当に……、努力してきました。……けど、十二年前から、何も進歩していません」
「……母親が死んでからの病ってとこかな」奏が呟く。「訊いていい?」
「なんでしょう」
「どうして、君は、今まで壊れないで生きてこられた?」
母が死んだ時に判ったつもりでいた。
自分以外の人間なんて、平等に他人だった――それなのに、彼女だけは捨てられないままでいた。黒い煙の前で壊れそうになっていた自分を助けてくれたのが彼女だったから、拒絶するよりも先にしがみつくことを本能が無意識に選んでいだ。
雪桜宇未がいたから。
未空はそれを、言わなかった。奏も言うつもりはないと理解してくれたみたいだったので、別の質問に切り替えて投げつけてきた。
「……四郎には会ったかい?」
「……四郎さん?」突然の話題の変換に、未空は戸惑った。
「彼をどう思う?」
奏は小細工なしで攻めてくる。本当に急な話題だったので、通常よりも返答が遅くなってしまう。
「羨ましいです」わずかに漏れた声が、一秒ほど部屋に残留する。
奏は顔を寄せてくる。作戦会議中みたいな、厳しい口調で言う。「……いいか、彼には大きな力がある――二つだ。誰とでも親しくなれる力。そして、愛される力。それは君が、喉から手が出るほどに欲しがっている能力だ」未空は認めざるを得なかった。「――しかしだ、未空。君にも力はある」
想定外のタイミングでやってきた声に、反射的に首を上げてしまう。「……僕に?」
「これも二つだ。そしてこれは、この屋敷にいる誰よりも恐ろしいものになる。下手をすれば、四郎――そして創すら遥かに凌駕するほどだ。人間としてあまりにも完成しすぎた力かもね。今の人間に必要な二つの能力――その両方を持っている」
それを言われたのは、《二回目》だった。最初に言った《あの人》は、その正体を教えてはくれなかった。
「二つ、質問をしていいかな」奏の声。
「……どうぞ」
「数学は実用的とは程遠いものだ。じゃあ、何故、数学が存在するか知っているかい?」
「……いえ」未空は質素は口調で答えた。
「わかった」答えを言わず。「もうひとついい?」
未空には拒否権はない――悟っていたのか、首は勝手にイエスを合図した。奏はグラスを持って、目線と同じ高さまで上げ、そのグラス越しに未空を見た。
「――何故、君は私にポーカーで全勝できた」
吸水性の悪いスポンジみたいに、その台詞を脳の内側まで吸収しきるのに、あまりにも時間がかかりすぎた。
「……え」
「私は創以外にポーカーで負けたことはなかった」未空は理由を捏造しようと努力した。「そして、こんなになるまで私を負かしたのは、君が初めてだ」
ふふ、と笑う彼女。
「……冗談だよ、大人の意味深発言だ。そこに意味は無い」
その冗談は二回目だ。未空は唇が乾いていたので、舐める。
「……とても冗談には聞こえなかったです」
「大人になると、こんなこともできるんだよ。君は知らないほうが良かったのかもしれないけど」奏はグラスに入っていた酒を一気飲みする。「卑怯なことは得意だったよ。昔からそうだったからね」
「……卑怯。卑怯……、卑怯。卑怯なことくらい、誰だってするじゃないですか」
「その内、誰かに殺されるかもしれない」奏の酔いがひどくなっている。立ち上がったが、足取りは滅茶苦茶だった。「それくらいのことは、してきた」奏は瓶と煙草を置いたまま、未空に背中を見せる。「冗談だ。マジにする必要はない」
奏は、船の上で見るような足取りで、部屋を出ていった。
どうやら、最後の冗談だけは、大人特有のものではないらしい。
4
右の壁の三つの扉。一番手前と、一番奥の部屋は入った。では、真ん中の扉はなんだろう――気になって中へ入る。
図書室。未空の好きな匂いがした。由緒正しき図書館の匂い。冷たくて乾燥していて、今にも喉が痛くなりそうなこの感触が、未空はたまらなく大好きだった。インクの匂い。酸化した紙の匂い。どこにあるか判らないけれど、少しだけカビの匂いもする。
部屋は遊び部屋と同じで、奥に広い。本は思ったよりも多いし、ジャンルも幅広い。
未空の足が自動的に移動したのは、小説のコーナーだった。一冊手に取る。『殺器銘』という作家の、『外宇宙への旅路』。未空はこの作者の描く物語が好きだった。棚には心なしかこの作者の本が多い。殺器銘は心情描写に定評がある。どの登場人物も最高の深みが出ていて、噂では人物一人を創造しきるのに、ノート一冊分の履歴書を書くらしい。人間の動きが非常に自然で、それでもって、一筋縄では行かない独自の信条や人間味が物語の深化に手を貸している。
扉が開く。未空がまだ会ったことのない人物がやってきた。
銀色の短髪。目は奏より細くて、俗にいう目つきが悪い。全身を包む黒いスーツ姿、きっと質の良い繊維で編まれたものだろう。そして革靴。大学生と社会人の境目の年齢くらいだろうかと、未空は推測する。
「あぁ、君か。未空っていうの」彼は、はきはき喋る。声が良く通る。
「はい。よく判りましたね。真実姉妹は、僕を最初、女だと見間違えてたんで」軽く世間話を混ぜてみた。
「だから宇未と間違えたと。男女一人ずつ来るって言っていたから。馬鹿にするなよ。こう見えて、観察力にはちょっと自信があるんだ」
「いえ、別にそういうわけじゃないんですけど。……あぁ、そうだ。はじめまして――」
彼は両手を前に出して遮る。彼は未空を睨んだ。「あぁ、いい、いい。そういうのはいい。天宮城未空だろう。俺の事は聞いてる?」
「いえ」
「学事だ、よろしく。二二歳で、来月で二三になる。皆はツトムって呼んでる」彼は睨んでいるのではなくて、もしかしたら、普通にただ見ていただけだったのかもしれない。
(尖っている人種の中でも、こういうタイプは特に苦手かもしれない)
「顔に出てるぞ」ツトムは遠慮もなく言いきる。
「……。すみません」
「で……、その恰好はなんだ」ツトムはゆっくり歩きながら未空を指さす。「他人事みたいな恰好してるじゃあないか」
「他人事?」
「あー……。嘘くさいって言えばいいのか? 君本人にマッチングしていない恰好だなぁ」未空は身構えた。ツトムは我に返ったようだった。「おっと悪い、忘れてくれ。俺の悪い癖だ。……けどもし気分を害したってことなら、それは図星ってことだぜ」
(謝る気あんのかな、この人……。面倒くさい人)
そんな感想を抱いたが、態度に出すよりも早くその感想を抱き絞め殺した。
突然ツトムは猫背になり、細い目をより細くして、未空の手に持っている本を確認しようとしていた。「……おいおい、なんだ君! 『殺器銘』を読むのか!」ツトムが踊るような足取りで、素早くこちら側までやってくる。
「あ……、はい。一番好きな作家です」
「そうかそうか! いや、本当に悪いことをした!」
突然態度を変える彼に、未空は焦る。いい脇役になれるかもしれない、そんなくだらない発想はすぐ捨てた。
「ツトムさんも好きなんですか。殺器銘」
「彼のどこが好きだ!」無視されて、逆に質問されてしまう。
「…………。やっぱり、心情描写です」
「詳しく聞かせてくれ」ツトムは急かす。
「その……」言葉を探す作業。『さぁ、何回目だ』と問ってくる背中の向こう側にいる自分。「全員が人間らしいですよね。……そう、所詮は全部つくりもので偽物なのに、本物そのものみたいな……。……すみません、表現が下手なもので」
「いや、構わない」ツトムは未空の手から本を取り上げる。「『外宇宙への旅路』。殺器銘の処女作。わずか十三歳にしてシリウス賞最優秀賞、受賞。ドラマ化、アニメ化、映画化、単行本化を果たし――そして今も尚根強い人気を誇っている作品だ。完結したにも関わらず、現在もスピンオフとか、アフターエピソードとかで物語を広げて行っているわけだけれど……」ツトムはまるで説明口調だった。「しかし俺個人としては、本当は好きじゃないんだよ。物語をダラダラと続けるのは。俺は終わらせるべきところで、作品は終わるべきだと考えてるんだ。これは単に俺の意見であって、他の作家のやり方を否定するわけじゃないけどね。仕事である以上、シリーズ物は作者にとって最高の収入源だからな」
「よく判ります。難しいところだと思います」
「話を邪魔したな。君は、彼の本で何が好きだ?」
「ミーハーって思われるかもしれませんけれど、僕はやっぱり、『ホワイトルーム』が一番すきです」
『ホワイトルーム』はベストセラーのひとつで、近年の彼の代表作として取り扱われた。昨年には二部作での映画化を果たし、そのクオリティーは日本の島を飛び立って、世界規模での話題となって羽ばたいていった。この映画を見に来るためだけに日本へやってきた外国人はあまりに多く、一時期日本行きのチケットが取れなくなるほどになり、挙句の果て、日本のほとんどの映画館の席が外国人に独占されることとなった。
ホワイトルームは、単純なミステリーとしての評価は並み程度だ。それをベストセラーにまで押し上げた最大の要因は、殺器銘の心情描写を最大限に活用して描かれた、犯人の動機の部分にあった。犯人の壮絶な過去と、殺人に至るまでの経緯……。その異常ながらも、多くの人間の同情を誘う、その動機こそが、ホワイトルームの見どころとなっている。
「殺器銘は、この作品について、『誰が何と言おうと、僕がミステリーを書くのは、これが最初で最後だ』と公言しています。続編を作る気もなければ、番外編もない、これだけの話だって」
「良く知っているじゃないか」ツトムは上機嫌な様子で言った。「……で、君はどう思う? 彼のこの発言について」
「正しいです。これが一番ベストです」未空は自信にありふれた声で断言した。彼にしては珍しいことだった。「ネットでは、殺器銘のこの発言には反対している人が多いんですけど。人気なだけに、当然でしょうけど」
「じゃあ、天宮城未空。君はどうしてこれが正しいと思う?」
「未完成の部分が多い状態ですが、それでもやはり、完成していると考えているからです」ツトムは真剣な眼差しで未空を見つめ、一つ一つの文字を真剣に聞いていた。「ちょっと物足りない感じで、終わっている。どこまでも完結しているんじゃなくて、少しだけ惜しい感じが残っています。当然、これは殺器銘の故意で」
「彼はそう言っていたか?」
「言っていません。けれど、これは彼の『性癖』みたいなものです」
「……性癖?」ツトムは、にやにやしている。好奇心の表情。あるいは未空の言い方が面白かったのか。
「僕は見つけたんです。殺器銘は、あえて未完にさせる部分をつくる癖があります。特にホワイトルームは、読者の想像にゆだねられている部分がかなり多いです。それでもラストをあそこまで綺麗にまとめたのは、感服するばかりです」
「……君はその『性癖』とやらの真意に気づいているのか?」
「気づいている、とは言えません。あるのは解釈――僕なりの解釈ということなります」
「聞かせてくれ」ツトムは子供っぽく体を揺らす。待ちきれないようだ。
「彼は大切な部分を濁します。誰もが知りたがるような、大切な部分をです。皆、ファンレターとか、そういう多彩な手を使って、何かしらの形で彼に質問する――けれど殺器銘は、頑なに濁した部分を答えようとしない。それは当然、捻くれた意地悪でやってるわけじゃない。彼は一日に必ずファンレターを読む時間をつくるほど、ファンを大切にする人間です。彼は、物語の本当の核心的部分を、読者の独自の解釈で補完させることによって、初めて作品を完成させることができるって、そう訴えている気がするんです」
ツトムはその細い目が綺麗な円になるまで開き、両手を大きく広げた。「素晴らしい、君は最高だ!」未空は何故そう言われたのか、何もわからなかった。「……いやぁ、すまない! 正直君を甘く見すぎていたよ。秤零士から聞いていたよりも、はるか想像以上だ」秤零士は何を言ったのだろう。未空はそれを長く考えている余裕はなかった。「そう、正解だ。その通りなんだよ、天宮城未空。続編を求む声が多いのは、とても嬉しいことなんだ。俺はそれを否定する気はまるっきりない。しかし殺器銘が求めていたのは、続編要望の声なんかじゃない。彼はその物語の最後の補完を、それぞれの読者自身の手にゆだねたんだ。続編を希望する人っていうのは、物語を完成させる権限を自ら放棄した人達さ。結局、殺器銘の書いた本は一般人の自分とは無関係だ、自分は部外者だと、読者自身が卑屈にそう割り切ってしまっている。けれどそうじゃない――そうじゃないんだよ。彼は読者に、自らの築き上げてきた物語の完成を託していたんだ!」
ツトムの額には大粒の汗が張り付いていた。「……あぁ、すまん、語りすぎた。いや、でもこの匂いのする空気を吸うと、すぐ元気になるよ」
「……あなたは、殺器銘の何を知っているんですか?」そう質問するつもりだったが、未空は言えず、代わりに内心で唱えた。『ぶっとんでる』人だ。
「……改めて自己紹介する必要がありそうだ。悪かったな――実は、学事っていうのは、偽名なんだ」
「偽名?」
「いや本名だ。けれど『俺みたいな奴』は、こっちの名前をクソみたいな世間から守らなければならないんだよ。『俺みたいな奴』は、本名と同じか、それ以上に大切な名前を持っているんだから。俺がこの名前を名乗るのは、『読者』に対する最大の敬意だと考えてもらって構わない」
ツトムは右手を差し出した。
「はじめまして。殺器銘だ」
「……サイン、もらっていいですか」長い放心状態の後、ようやく出た言葉だった。《異彩》という言葉が頭の中でループし続けている。
「あぁ、勿論だとも。とびきりなやつをくれてやる」
「……とびきり、とは」
「『親愛なる』、みたいな感じで書いてやる。あとで色紙でもなんでも持ってきな」
倒れそうになった。貧血のせいじゃないことはもう明白だった。
「そうします。はは、すごい……、ネットで言われていた以上だ……。すごい変わり者だって言われてたから……。常識に囚われない人だって……」未空の声は震え続けたままだった。未空は握手した右手の熱を忘れないように意識する。
「あぁ、それは褒め言葉として受け取っておくことにしてるんだ。俺は常識人なんてなりたくないからね。無限の可能性を持った少年心を捨てたくない」ツトムは机に座って、手に持っている『外宇宙への旅路』を開く。「同級生は皆、つまらなくなっちまったよ。小学校の同窓会にこの前行ったんだけどねぇ。奴ら、口開けば政治とか上司より俺の方が仕事ができるだとか……、そんなつまらんことばっか言いだしやがる。あまりにつまらんかったから、俺は一言言ってから帰ったね。『頭の良い振りして楽しむなら俺を巻き込むな』ってね。どいつもこいつも、社会に出てからは、ネクタイっつー首輪に飼いならされちまったんだろうさ」
未空は殺器銘の名前の並ぶ棚を見る。
「どうして、あそこまで本物を再現できたんですか?」
「その質問は嫌なほどされてきた」ツトムはそう言うけれど、得意そうな表情を見せつける。「……打算的なまでに、それだけを目指してきたからさ。そして俺には、その才能があるって知っていたから」ツトムは人差し指を立てる。「時に未空、君は美術館に行くかい?」
「美術館? ……いえ。興味が無いこともないんですけど」
「ならぜひとも行くべきだ。俺は美術館に行くよ。美術館はいいぞ、あそこはすごい。写真でしか知らなかったものを直で見るってのは、相当な価値がある。その迫力に圧巻されるのさ。村上春樹だってこう言っているぞ。『本物の作品の持っている重みというのは、美術書なんかで見るのとはずいぶん違う。そこには人が一生を生きることの激しさがあった』、とね。更にこうも言っていた。『僕らはふだんあまりにも多くの巧妙な《複製》に取り囲まれているせいで、《実物》の持つ荒々しさや激しさや重さを、つい見失っていく傾向があるのかもしれない』、と」
未空は深く納得した。「……表現の仕方が、やっぱり違いますね。言葉に力がある」
「……君は、好きなバンドのライブとか行かないのか?」
「それもあまり。ていうか、全く……」
「なんだ、それだけ本質を見抜く力がありながら、君は何をしてるんだ……。一度行ってみろよ。音が鳴るたびに胸を打ち掴まれるようなあの振動、あの感触……、絶対に病みつきになるぜ。本物にはそれだけの力があるのさ」
「……本物」
真実創とは対照的だった。
偽物を極限まで本物に変えてしまう学事こと、殺器銘。
偽物のままで、本物以上の価値を創る真実創。
(一見したら、後者の方がすごいように見えるけれど)
「君の考えていることを当ててやろうか」ツトムが得意げな表情をつくる。
「……勘弁してください」未空は困った風に口端をつり上げることしかできなかった。
ツトムは本棚に自ら作りあげた本を戻し、高価そうなゴテゴテの腕時計で、時間を確認した。
「あぁ、昼食の時間なってるじゃないか。おい、そんなとこにいつまでも突っ立ってないで、行くとしようじゃないか」
「はい?」
「なんだ、聞いてないのかよ。飯だ、飯つくるんだよ。外でカレーつくるんだって」
「……外で?」
「そうだよ。献立としては鉄板だが、いいぞ、こういうところで作って食べるカレーは。俺は林間学校やキャンプでつくったカレーを思い出すよ。秤零士と小枝ちゃんがつくるカレーはうまいぞ」
(小枝さんだけは、フルネーム呼びじゃないんだ)
ツトムは上機嫌そうに「行こうぜ兄弟」と言って、肩を組んできた。
宇未以外の人と並んで歩くのは、随分と久しぶりだった。隣の足取りは、一歩一歩が確信的なまでに自信に溢れている歩き方だった。次の一歩も、その次の一歩も、必ず地面を踏んで歩いていけると疑わない歩き方。
隣の人と歩幅が違う。それだけで他人だと判る。
一緒になりたかったから、歩幅をあわせた。
天竜川はすぐそこに見える。バーベキューの準備をしているみたいだと誰かが呟いたけれど、未空にはそういう思い出はなかったので、共感することはできなかった。受ける指令のままに準備を手伝って、大きな机を皆で運んで、人数分の椅子を並べ終える。
「なんかさぁ、こういうのすごく楽しいよね」宇未が手を合わせて未空に言う。
未空が同意する。「準備するの、楽しいね」
「そう、準備が楽しいんだよ。ほら、通販とかでさ、荷物が届くまでが楽しいとかって言うじゃない」
「あぁ、うん」未空はそんな気持ちは知らないので、適当な同意で済ませる。
「でも意外だったね。お土産取って戻ったら、部屋にいなかったから」
「いや、ちょっと不可抗力で……」未空は創を見る。彼女は包丁で食材を切っていた。
「……? まぁ、いいや。楽しかった?」
「まぁ、楽しかったよ」案外簡単に言えるものだった。楽しかったのは本当だった。
「よかった」未空の耳まで言葉は届かなかった。「じゃあ向こう手伝ってくるね。……さっき小枝ちゃんと、一緒にやろうって約束してたんだ」
「判った」
「みぃくんも来る?」
「いいや」
未空は首を横に振って、片手をあげる。一人になると、風の音と、水の流れるかすかな音を聞いていた。鼓膜が洗われるみたいで心地良い。自然そのままの風が肌を撫でてくれる。天竜川を挟んで見える向かい側の山々、古びた家。写真で見ている分には退屈だったけれど、こうして本物を見ていると、色々な興味が沸いてくる。未空はツトムが言っていた本物の一部分を理解したような気になる。
「未空くん」秤の声だった。「旺次郎さんと一緒に、向こうの川まで水をくみに行ってほしいんだけど」
未空はそっけなく応答した。具体的な使い道も知らされていないまま、渡されたバケツを受け取った。
隣には、星七田旺次郎。未空の会っていなかった最後の一人だった。旺次郎の年齢は見た限り六十代くらいで、身長は小学生と大差無しと言っても差し支えないくらい小さい。眉毛と髪の毛がなく、目は綺麗まん丸に開いていて、瞳孔が細い。規則的に出来たしわは鱗みたいに見えて、まるで二足歩行を覚えたトカゲみたいだった。
二人は大きなバケツをぶらさげて、山の奥にある川を目指す。
「はじめまして、星七田さん。天宮城未空といいます」歩き始めて、未空から言った。
「あぁ、はじめまして」とても甲高い声だった。トカゲが言葉をしゃべるなら、こんな声をするだろうと、そんな失礼な事を考えた。「星七田旺次郎だ、旺次郎でいい。医者をやっている」
彼の滑舌は悪い。呂律があまり回っていないようだった。言い終えると、『ひひっ』という笑い声。それと同時に、長い舌が口から露出する。
「その……疲れませんか? こんなことさせられて」
「いやぁ別にィ。俺、運動不足だからねぇ。ちょっとは歩かないといけないんだ」旺次郎は時折、語尾が少し伸びるようだった。「俺から秤に率先して言ったんだ。パシリさせてくれってねぇ」
また『ひひっ』と笑い、舌が見える。未空は苦笑した。
「それはそうと……、医者をしているって」
「そう。医者。この世で最も偉大な職業さ」
「……命を救うからですか?」未空は簡単に考えてから言った。
「勿論」旺次郎はあらかじめ準備していたように、首を縦に振った。動きがスムーズだった。「俺がなんて呼ばれているか、知っているかい?」
未空は爬虫類の目を覗き込んだ。「……《異能》」
旺次郎は満足したようにまた頷き、『ひひっ』という声。未空は反射的に、動物がいるのかと首を左右に振ってしまった。「あぁー、そうさ。必ず病を治す医者。だから、《異能》」旺次郎は少し前を歩いている。彼は要するに、案内役みたいなものだった。
「お忙しいでしょうね」未空はお世辞みたいに取り繕ったことを言った。
「そうでもない。実は、俺ンとこは、あんまもう依頼は入ってこないんだよ」
「絶対治せるのに?」
「うちの病院には優秀な奴が多いからね。俺は最後の砦ってわけ」
「……あぁ」未空は理屈的に理解した。「でもすごいですね。必ず治すって」
「人間の構造の九九・九%を理解した男って言われてるよ。いくらなんでも言いすぎだけどねぇ」それでも旺次郎は嬉しそうだった。そういう自らの軌跡を自慢したくなる年齢なのかもしれない。「体なんて単純なものだよ。簡単に治せる。問題は精神の方さ。あれは……一筋縄ではいかんなぁ……」
旺次郎は考え事をするように顎をさする。そこには髭はなかった。
「精神科もやっているんですか」
「いや、全く。友達の話を聞く限りってこと。やっぱり問題は多いみたい。特に最近は」
「どうして?」
「ほぅら、最近、問題になってるじゃないかぁ。将来のことについて煩い親が増大しているって」
「……そうなんですか」とぼけたわけではなく、本当に知らないだけだった。
「ニュースとか、あんまり見ない?」
「そうですね、あんまり。新聞とかも……」
「あぁーそうかぁ。ここ数年、親の押し付けに苦しむ子供が多いんだよ。やっぱ、そういう子が相談に来たりするのが多いんだってさ。あれだこれだと、行動に一々文句つけてくるんだとさ」
未空は話の軌道を読みあてようとする。「言うほど、束縛は、そう悪いことではないんじゃないでしょうか。……子供を大切に想っている証拠です」
「それが問題になっては仕方ないんだよ。教育と飼育の区別もまともにできちゃいないの。子供の夢を殺して、親好みに改造するの」
この辺りは手入れされていて綺麗な場所だったのに、突如、左側に莫大なゴミの山が見えた。目も当てられないほど汚くなっている。未空は反射的に目を逸らして、見なかったことにした。「……機械をいじってるみたいですね。その言い方だと」
「親は、そう思ってるんじゃないかな。子供の事、機械だって」
旺次郎は後ろを向いて歩く。後ろにいる未空を見つめていた。「……君は束縛されたかったの? そういうことを言うってことは」
束縛されたかった?
未空は一度唱えてから、自分がほんのかすか、考えているのに気づいた。
最初に浮かんだのは、母ではなかった。
宇未も違う。
黒い煙。
多分、そこにいなかった人物。
いてほしかった人。
「母親は、死んだんだってね」旺次郎はいつの間にか前を向いて歩いていたので、背中しか見えなかった。「じゃあ、父親は……?」
(簡単に当ててくる……)未空はこの気持ちにうんざりしていた。(エスパーばっかだ、この屋敷の人達は……)
未空は前の背中をにらんだ。「誰に聞きましたか?」
「何を?」
「僕の母親の事」
「宇未ちゃんに……。少しだけねぇ。そんな大したことは言わなかったけれど。口の堅い子だったよ」旺次郎は鼻息を漏らした。溜息だったかもしれない。「……こっちは答えたよ。次は君の答えだ」
空っぽのバケツが異様に重く感じた。バケツの中を見てみると、落ち葉が一枚だけ入っていた。ここに来るまでの間に、木からはぐれた一枚が入り込んできたのだろう。
「父は、昔から何も言わない人でした。それこそ、死んでるみたいに。……いや、これは過言ですけど……」
「いいよ、続けて」旺次郎がバケツを指先で『くるくる』回す。
「……昔から、あの人は僕の思い出の中にはいませんでした。母とは、正反対で。手をつないだ記憶すらない。色々忙しくて、家にいること自体、少なかったんですけど」
「君の父親は、何をしてるの?」
「あなたと同じような事をしている人です」
「……俺とォ?」唐突だったのか、旺次郎の声が裏返る。
「弁護士です」未空は父親の顔を思い浮かべようとしたが、うまくいかなかった。いつも通りの結果だった。「優秀な弁護士です。本人は、全然上手くいかないって言っていますけれど。昔から、家に帰ってくる暇もないほどに忙しくて、ずっと他人の罪の為に戦ってます」
「……仕事人間みたいなものかな」
「そうですね。たまに電話は、くれるんですけど」
「どんな内容?」
「どんな内容だったっけな……」未空はすぐに思い出せないことに対して、心細さみたいなものを感じた。「あぁ、そう。学校の近況をきいてきたりとか、宇未姉は元気かとか。毎回、同じ話題を振られて、同じ返答しかしか、できません」
「電話くれるんだろう? いい父親だと思うね」
「えぇ。少しは僕の事、考えてくれてるのかも」
甘ったれた事を言っている――すぐにそういう自覚が襲ってきた。きっと同意が欲しいんだと、自分の空の左手を辛辣な目で見つめていた。
未空は母の葬式の事を話した。宇未が来てくれたのに、父は来てくれなかったこと。
「……ままならないもんだよ、大人ってのはねェ」いつの間にか、川の音が聞こえていた。すぐそこに川が見えた。「仕事はどんなに重い理由があっても、特別扱いさせてもらったり、好きに休ませてもらえない。葬式だってそうだ。君のお父さんは立場上、場を投げ出して君を追いかけるわけには、いかなかったんだろう。あの日の君の父親の立場は、コンサートで言うところの指揮者みたいなものだ」
「愉快な表現ですね。けれど判りやすい」
水面に映る母の顔は、笑っていなかった。だから誰の顔か、すぐに判った。未空は嫌になって、舌打ちをした。水の流れる音よりも小さな音だった。
「でも、旺次郎さんは、そうじゃないでしょう」二人はバケツに水を入れる。「――あなたは、そんなことじゃ悩まなかった筈だ」
「皆、似たような形のした言葉を投げてきたよ」旺次郎は平たい小石を手に取って、投げる。水面を弾いて飛ぶ小石は、何かの魚みたいだった。「治せない病気は無い。……けどねぇ、助けられない人は、いるんだよ」二人は一度顔を合わせて、元の道を戻っていく。「小枝を助けてやりたいんだけどね」旺次郎がそう言うと、自然は空気を読んだみたいに静かになった。「あの子のタイムリミット……寿命を、なんとかしてあげたい。異能ではあっても、それくらいの無能さは残ってたってわけ」
未空から見た彼のその背中はあまりにも滑稽だったのに、とても笑う気にはなれなかった。少なくとも、自分よりはずっと正常で勇敢な背中に見えた。彼の握力は不安定で、今にもバケツをひっくり返しそうだった。
「笑うかい?」旺次郎は振り向いて訊いてきた。
「……あなたの言う無能がそんな高貴なものなら、僕は今すぐ死んだ方がいい」
「俺は医者だからねえ、そういう発言は聞き逃せないわけ」旺次郎の口調が鋭利になる。「間違っても、小枝の前で同じこと言うなよ」
厳しい物言いだった。職業柄、生死を軽視する者に怒るのは当然だとすぐ受け入れて、未空は謝罪した。
「寿命ばかりはどうしようもないと、そう割り切ることもできないんだ。長いと言われるくらいには生きてきて、『終わりがあって儚いから人間は素晴らしい』とほざく庶民の言葉も、ようやく理解できるようにはなった。でもねぇ……いくらなんでも、あれまでは、受け入れられない」旺次郎は息を継ぐ。「小枝をつくりあげた輩ども。何を考えてクローン人間なんてものを造ろうという経緯に至ったのか、ぜひとも聞いてみたいものだ」
発展の為に命を踏み台にする学者がいる。高みに行くためには例外なく必ずしも踏み台が必要だと考えていて、彼らからすれば命を踏み台にしたということは、近くに椅子やハシゴがなかったから、それを人肉で代用した程度の認識に過ぎないのかもしれない。椅子もハシゴも肉体も、彼らからすれば最低の意味で平等なのかもしれない。少なくとも、感情の演算処理はそうだろう。
「君には判るか。親友がそんな状況に置かれていたら、どれだけ苦しいか」
「親友?」未空は反射的に訊き返していた。
「あぁ。お互い、親友だと思っている。……おかしいだろう。なんたって、二四歳と六三歳――幾世代の差だからね」
(……違う)
これは嫉妬だ。感覚的な認識になった。胸のあたりを細かい棘でくすぐられたかのようなこの感触には、いつまで経ってもどうしても慣れない。
(親友がいる癖に、何が『人との出会い自体が奇跡』なんだ)まるで詐欺にあったような気分を味わう。
「あの子の目ェ、見た?」
「そりゃ……、えぇ、見ましたとも」
「今から軽蔑されるようなことを言うかもしれないけど、いいかな?」
「いいかな、とは、どういう意味ですか」
「俺の異常性を話すんだ。できれば軽蔑しないでほしいと、お願いしたい。理解してくれとは、言わないから」
わざと間を空けて、考えているように思わせた。「……努力します。約束は、しかねますが」
「あぁ、それで十分だ。ありがとう」旺次郎は勿体ぶりもせず、即座に告白した。「俺は、小枝が死んだらねぇ、彼女の目をもらう約束をしてるんだ」
笑う気も起きなかった。
ただすんなり言葉は入ってきて、理解するのも、驚くほど速かった。聞き逃しや勘違いも間違いもなかった。ただそういう、誰から見ても異常だと、誰にも認められないような約束も、二人にとってはかけがえのない唯一無二の絆の証明だったのかもしれない。
「目を、どうするんですか?」未空は自分が通常の心情だったのに引いていた。感覚が麻痺しているのだと信じたかった。
「解剖する」これはある程度予想できていた答えだった。そのせいか、さっきよりは現実味がにじみ出てきて、体温が下がった。
「解剖? 何故?」
「二つある。一つは、俺の純粋な興味だ。異能の俺でさえ、この真っ黒な目のカラクリが判らない。だから解剖して、あの目がどうなっているのかを確かめる。もう一つは、対策だよ。もしも彼女以外に目が真っ黒な人がいたとしよう。これから生まれてくる人でもいい。それが原因で苦しんでいたり、コンプレックスになってしまっている人。そういう人のために、対策を打っておきたい。正常に戻せる方法を、探すんだ」
「……出来ると思います?」
「このまま彼女を助けられなかったのなら、何としても、それくらいはやらなきゃいけない。俺たちに残された、一つだけの約束なんだから」
「そんなに大切な約束ですか?」
「大切なんてもんじゃない。彼女が死んでしまった後の世界で、俺に残された唯一の生きがいだ。俺が死ぬ時は、この目のカラクリを解いた後だと決めている」旺次郎は今までにないほど、声に力を入れていた。「……まぁ、彼女の寿命問題を解決して、先に俺がこのまま年老いて死ぬ方がいいんだけどね。医者らしくない、俺個人のエゴだけどさ」
未空ははじめて彼の告白に好感が持てた。「割り切れない部分もあるんですね」
「割り切れないって?」
「小枝さんを見捨てて目のカラクリを解明すれば、結果的には多分、より多くの人間を救えることになるじゃないですか。きっと、多くの医者は、そうするんじゃないかって思います。より多くの人を助けることを意識しているって、ずっとそういうものだと思ってましたから。……あぁ、いや。一人残らず全員を助けるべきだって言うのかな、医者って」
「理屈に任せた定型文だよ、それ。俺にとっちゃあ、自分の見てる景色だけが唯一の現実だったよ。狭い視野で見た脆弱な現実だったけど、それが全てだった」
旺次郎が興奮気味に話しだしたので、未空は「休みましょう」と言った。無事旺次郎も賛成してくれた。しかしバケツを道の脇に置いただけで、二人は立ったままだった。
「若い頃にも、似たこと考えた。寿命という概念を覆せれば、俺は真の異能となって、真の意味で神と呼ばれるようになるって。薄っぺらい意味じゃなくて、重みもある言葉で呼ばれる。そーすりゃ、今度こそ誰も俺を笑わないって」
未空は黙って話を聞く。
「笑われるのが、怖かったんだ。けど気づいた。……俺を笑う奴なんて、最初から一人もいなかったんだ。それ以前に、何と戦ってるのかさえ、把握しちゃいなかった。若い頃の野心だったから、すぐに飽きたよ。……つまらん努力だった。全部手に入って、こんなハゲになってから判った。名誉なんていらなかったし、欲しがってた異能の称号だって、手に入れたらなんてことはなかった。名刺の肩書きほどの価値もない。…………。……虚しかったね」
未空も同じような努力をしてきた記憶があった。
騙し騙し歩いてきたせいで、進んできた方向はあやふやになっていた。もしかしたら自分は今、あの時よりも後退してしまっているのかもしれない。時折、前の方向に気づいた日もあった。けれど進むのが怖かったから、前に進んだと嘘をついた。
そうしている内に誰も見えなくなって――置いて行かれた。
周りは皆、大人の支度を始めている。
「今は明確な努力ができているよ。けれど、あの時より辛い努力だ」旺次郎はうつむいて言った。「……少しだけ休ませられる時間を作ってあげたい。あの子、一秒一秒に全力を注ぎすぎていて、誰よりも必死になって、生きた証を残そうとしている。ネットにも機械にも頼らず、最後まで、あいつはあぁやって思い出を集めるんだ……。けど。……けどだよ。あんな調子じゃあ、せっかく集めた思い出も、振り返る暇もありやしないだろう? あいつ多分、思い出ってのは、振り返って楽しむものだってことすら気づいてないんだぜ……? ずっと律儀なやり方しか選んでこなかったから、ずっと意味のあることだけ探して、必ず自分の行為に意味を見つけたがる。……それじゃあ――それじゃ、疲れるだけだろ?」未空はまた何かを『見た』。今はもう見ることを諦めたものが、時折、この目の中に飛び込んでくる。「……見ていて、辛いよ」
今にも眠りについてしまいそうなほど弱い声だった。流石にしゃべりすぎて疲れたのか、旺次郎は尻もちをついて、太い木に背中を預けた。
未空は、旺次郎にはまだ救いがあると考えた。未空は、何の前触れもなく母親と別れた。だから彼らみたいに、人間の儚さそのものを詠うようなこの関係に、憧れをおぼえていた。終わりを知っていて、だからそれまで尽くしてあげようと、終わりへの支度を進めている。
(羨ましいなんて言えば、軽蔑されるんだろうな)
口にしたら『ずれた』発言だと思われる。未空はそれを知っていた。こういう時、どうすればいいのかを知っている。
黙っていること。
ここではげますのは、何も知らない無責任な奴の発言だ。未空は母親が死んでから、同級生にそういった言葉を贈られてきたことがある。なんとも粗い包装のされた贈り物だった。ただ高級な言葉を包んで送ってほしかったわけじゃなくて、いっそ無言でいてほしかった。そうすれば、必要以上に他人を恨む真似だってしなかっただろう。
「君は知っているんだね。こういう時ぃ、どうするのが正解なのか」旺次郎がうつむいたまま言った。旺次郎は立ち上がり、バケツを握る。「……すまなかったね。愚痴になってしまって。たしか、ソーちゃんの相手もしたんだろう?」
ソーちゃん。恐らく、真実奏の事だろう。「えぇ」
「あの子、飲んでる時に近づくと厄介だから。……けど、俺も似たようなことしちまったから、悪かったよ」
「……いえ」
いくらなんでも、水をくむだけで時間をかけすぎたかもしれないと旺次郎が言いだしたので、急いで戻ることにした。サボったと思われるのだけは御免だった。
「一つ下らんオチをぶちこんであげよう」
「オチ……?」
「さっきの話、覚えてる? 親に縛られる子供の話」
「覚えてますよ、そりゃ」
「俺もそうだったわけ」旺次郎は久しぶりに『ひひっ』と笑う。「母親が医者でね。その母親に、医者をやってみないかって言われた時があって」
「嫌じゃなかったんですか?」
「嫌では、無かったね。ただ、ちょっと後悔している部分もあったかな。自分の事くらい自分で考えて、自分のやりたいことくらい、自分で見つければよかったって」旺次郎は手が疲れたのか、数秒だけバケツを置いた。バケツの取っ手をもう一度握りしめて、また歩き出す。「けど、患者を助けて礼を言われるのが心地よくなってきたから、それでもういいかなって。……歳を取った。あれだけ野心しかなかった癖に」
長い時間が解決させてしまった結果なのかもしれない。未空は決して口には出さないようにと気を付けた。本当は別の夢が思い浮かんで、したいことが見つかった日もあっただろう。けれど彼は決して意識してそれを踏みにじったりせず、時間の流れによる摩擦だけでそれらを削り取っていったのかもしれない。川の流れで丸くなって平等な価値にされた数々の石みたいに、最後はすべて同じに見えてしまうまで、任せっきりにしてしまったのだろう。「多分、俺の母親も、縛っていたつもりは無かったんだろうねぇ。医者になるって言ったら、とんでもないほど嬉しそうに笑っちまったんだ。……失敗したね。厳しくて、あんま笑わない母親だったから、取返しがつかなくなった。ここで撤回したら、その純度の高い笑顔も撤回されちまうんだろうなって怖くなって。二桁の歳にもなってない、小さい頃の話だ。親の些細な笑顔に振り回されて、今まで生きてきたんだ。……しまらないオチだろう?」
「悲しいですね」未空は他人事みたいな口調で言ってしまった。「無自覚に縛るのも、無自覚に縛られるっていうのも」
「そう。けれど――それの何が怖いかって。本当に気づかないものなんだよぉ。全然気づかなかった。俺も、自分の力で知ったわけじゃない。友人に言われて、気づいたのさ。……なぁ、未空。気づいているか? 君だって、その一人なんだぜ?」
「……僕? なんで僕が?」
長い時間、鮮明に視界が奪われた。砂嵐のような音が鳴り響いて、色のない景色にいた母親。
自覚の無い唇が言う。
『優しい人になってね。他人の為に生きられる人になってね』
次に、現実の声が襲い掛かる。
「君だって、親の言葉に縛られているじゃないか」
視界が揺れ動いて、トカゲ人間のような医者が見えた。思い出す――今、自分は六歳ではないこと。
「――あ」
未空は今まで、ずっと気づいていなかった。気づくはずがなかった。母の生きた時間から生まれた、その優しい価値観を信じていたかった。その優しいだけの価値観が間違っている筈がないと、ずっと疑わなかった。それが一枚挟んだ視点から見てみると、おぞましいものに変わっていたようだ。心臓が体の中から出たがっているかのように暴れ狂っている。
「母の言葉だ。……それも宇未姉に、聞いたんですか?」
「あぁ……。そんなところ」旺次郎は肩を竦める。「ま、他人から見ればそういう見方もあったってだけのことさ。君が嫌だって思っていないなら、苦しくないなら、それが一番なんだ。俺は教えられてから、ちょっと後悔したから」
旺次郎は向こう側にいる皆を見て、それから未空の方を振り向いて何かを合図する。それがどういう合図なのかまでは察せなかった。
「……君から見てどうだった。ここの人達は」旺次郎の口調が穏やかになる。
「暗い話をする人が多いです」
「悪かったねぇ。大丈夫、最初だけさ。特に、真実奏のはマジで気にしなくていいよ。酔ってるあの子はあぁーゆぅーことしちゃう子だから。大人になれない憂さ晴らししてなきゃあ、やってられないんだ。俺の話は、単に話題を間違えただけだ。すまなかったよ」
向こう側にいる人たちの姿を見る。
言葉と理屈だけでは説得できない厄介な感情が、いまだにその輪に入ることを恐れている。なりいきだけで歩き続けた両足に頼って、そのまま歩みが止まらないことをただ祈っているしかなかった。
「何も考えなくていい」旺次郎は未空の肩をたたく。「楽しいものになるさ」
向こうにいる誰かが手を振った。
誰の手だったのだろう。
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思いの外、色々な事が楽しかった。
皆のところへ戻った後は、旺次郎が率先して野菜を切るのを手伝った。あろうことかメス(当然未使用品)を使っていたわけだけれど、腕は確かだった。動物の形に切られた野菜や林檎はどれもしっかりとした輪郭を描いていて、それぞれ何の形をしているか、はっきりとわかった。食事の前に、未空と宇未が自己紹介を済ませて、社交辞令みたいな土産を渡した。それから全員で同じ机に座って、好き勝手に話題を膨らませていった。
遅れてやってきた奏(頭痛で頭を抱えていた)が、未空のところまで謝りに来た。やはり先ほどの会話はいつもの悪い癖だったらしく、ここにいる全員がそれを知っていた。
「ばっかだねぇー、お姉ちゃん! まぁーたやったんだ!」創が腹を抱えながらも上品さを保って笑った。「なんて言ったの? なんて言ったの、ねぇねぇ」
「あれだろ、お前。大人の振りにつき合わせて困らせたんだろ」ツトムが大鍋に入ったカレーをすくいながら大声で言った。無駄に滑舌が良かったので、頭痛のひどい奏にも良く伝わっただろう。恥ずかしくなった奏は顔を伏せたが、耳まで真っ赤だった。
多くの飲み物が用意されていて、四郎はペットボトルに入っているメロンソーダを自分の紙コップに注いだ。あろうことかそのメロンソーダにガムシロップを三つもいれて(未空は内心、その四本腕で行われる作業の効率の良さを見て面白がっていた)、表情一つ変えずにそれを飲んだ。どうやらいつものことらしい。
「ブッ飛んだことしてますね」宇未がストレートに言った。
「飲む?」四郎が右上の手で握ったコップを楽しそうに差し出した。
「…………」宇未は新しい紙コップに四郎のメロンソーダを少量注いで、おそるおそるそれを飲んで、すぐに口元を覆った。「……あぁ、もう……、だめ……。二度と飲みたくないです……」
四郎はほとんど全くカレーに手をつけていなかった。聞けば、彼はほとんど辛いものが食べれないらしい。辛口にしたのは、単に秤の嫌がらせだった。辛いのが苦手なのは、この中で四郎だけだ。すると「一番暑苦しい外見なのに」と誰かがひっそりと言う。ムキになって四郎がカレーを平らげると、その後はしばらく、水の入ったペットボトルが手放せなくなってしまった。話題は好き勝手に変わっていったが、誰もが入れるような手軽なものばかりだったので、変に誰かが孤立することもなかった。時に誰かが好き勝手意見したり、馬鹿みたいな屁理屈で反論して無意味な戦いを繰り広げたりもした。
(……楽しいなぁ)
未空はあまり会話に参加しなかった。それでも話を聞いているだけで十分心地良かった。時折質問をされたりしたので、当たり障りの無い答えを返して、その場の空気を崩さないようになんとか努力した。幸い、『ずれた』発言はしなかった。
時々、笑うことが楽しくなる。
もう少しだけ他人に近づきたいと図々しくなる。
未空はこの時、《あの人》の予言なんて、すっかり忘れてしまっていた。
夕食はエントランスで行われた。屋敷の左の壁の扉が台所で、普段なら夜はそこで食事をするらしいけれど、この人数全員収容するとなると、流石に無理が生じてくるらしい。
どこからか大がかりな機材と、大きなスクリーンが運ばれてきた。シリーズものの映画を流しながら食事したものの、結局だれも映画に興味は示さず、話しこむのに夢中だった。未空の立場は変わらずで、大切な役割は隣にいる宇未に全て任せた。気が付けばいつの間にか食事が終わっていて、ソファには全員がそれぞれの体制で疲れをフルに表現しきっていた。
「宇未姉」未空が唸るように話しかける。
「ん?」宇未は放心しているみたいにぐったりとしていた。
「今……、何時?」
「えぇっとね……」宇未が左腕の白いデジタル時計を見る。「ピイエム・十時十二分」
「……うっそ、まだ十時?」
「ねぇ、私もびっくりだよ。なんか、昼食あたりから時間すぎるの早かったよね。そのくせ密度は濃かったし」
「昼食の後って何してたっけ」
「川いったり、廃墟の中探検したり。あと、ほら……」宇未の声が震える。「例のお化けトンネル……」
「怖かったね、あそこ」
「結局さ、あそこで誰かが見たっていう黒い人影は何だったんだろね。知らない人立ってるって言ってたじゃん」
「あれ嘘だよ」ツトムが手をあげて言う。酒を飲んでいたので、顔が赤い。
「え、嘘!」
「むしろ気づかなかったのかよ」馬鹿にするように笑うツトム。
「じゃああの足音は?」
「俺が鳴らしたんだよ。近くなんだから、それは気づけよ」
宇未が未空を見る。「……みぃくん気づいてた?」
「足音だけは気づいたから、連鎖的に人影もツトムさんの嘘かなぁって考えた」
「気づいてたなら言ってよ!」
「だって、ねぇ……」未空は後ろを向いて笑いをこらえた。彼女が時折見せるこういう子供っぽい部分が、非常に愛らしい。
「幽霊苦手なの?」秤の声だった。彼は映画を見ながら水を飲んでいる。
「……ちょっと」宇未は小声で言った。彼女の顔が赤くなる。
(ちょっと?)未空はまた笑いそうになった。
「そういえばね、私のいた研究所の山って、やばい心霊スポットだったらしいよ」小枝が楽しそうに近づいてきた。オイルの撒かれた地に火を投げ入れに来たらしい。「研究員が何人かいなくなったって騒いだ時があって、話してるの聞いてさ――」
小枝が話をはじめると、宇未と四郎が耳を塞ぎだす。どうやら四郎も苦手らしい。彼は上の二本の腕で耳を塞いで、もう二本の腕を前に出している。まるで何かに抵抗しているみたいだった。
それからまた一時間ほど経つと、ツトムが最初にエントランスから離脱していった。奏とサシで飲みをして勝ったものの、限界は近いようだった。奏は、その場で寝てしまっていた。
「あぁ、もう……」創が奏を背負い、二階へ上がっていく。しかし扉の前の手すりのところから、創の声がした。「ごめんなさい、誰か来てくれます?」
未空は自分が一番元気だと客観的に見れていたので、率先して二階へ上がる。創は奏を背負っていたせいで、鍵が開けられないらしい。
「……あはは、ごめんね。鍵、お姉ちゃんのポッケに入ってない?」
未空は奏の腰に触れそうになった自分の指を見る。「触っちゃって大丈夫ですか?」
「小心者だねぇ。別にいいよ」
未空はできるだけ控えめにポケットに手を入れて、鍵を取り出した。
「ありました」鍵をあけて、扉を開く。奏はお礼を言ってから部屋に入る。ゆっくりと奏をおろして敷布団を用意して、その上に彼女を乗せた。
「……あぁ、流石に年齢が年齢だから、こたえるねぇ」外見に似あわない事を言う。創は汗をかいていた。「あ、鍵なら適当にそこらへん置いといて」
言われた通り、お菓子と茶葉の置いてある机の上に鍵を乗せた。机は未空の部屋にあるものと一緒だった。
「お茶でもいれましょうか」未空が提案する。
「ありがと。でも、今は熱いから水でいいよ」
創は窓を開けて、自然の風をあびて涼んだ。未空は玄関付近の台所でコップに水をいれる。「氷を入れてほしいなー」と向こうから声がしたので、冷蔵庫の中にあった氷をいれる。
「ありがと、助かったよ」創がこちらまで来た。
「いえ」未空は顔を真っ赤にして寝ている奏を見る。「……よく、こんなことしてるんですか、奏さん」
「まぁね。必ず、夜はツトムさんと勝負するっていう暗黙のルールができつつあるから」
「……あなたがた姉妹って、去年からの参加だったんですっけ」未空は思い出したように言った。
「そ」
「何で知ったんですか? この交流会のこと」
「ネットで募集サイトあったから。どういう経緯で見つけたかは、もう覚えてないけど。ネットやりこんでる内に、迷い込んだんだろうね」
創はコップが空になったのを見て廊下まで移動し、もう一杯水をくんで戻ってきた。
「秤さんがつくったんですかね、そのサイト」
「いや。確か、君たちの先生が、代わりに作ってくれてたって」創は水を一気飲みした。
「先生?」
「なんだっけ……コクドー先生、だっけ」
「……あぁ」未空は呻くような声を出した。「変なところで繋がってるな、あの人」
「でも、要請出してからも大変だったんだよ。まさかの手紙でのやり取りだったからね。電話でもできたけど、ほら、向こうは公衆電話だから、テンポも悪かったし」
「よくそれでも交流会に参加しようと思いましたね」
「体にコンプレックスがある人は、尚更歓迎って、サイトにも書いてあってさ。私達もコンプレックスだったんだよ、この体質は。《異質》の事を他人に話すと、変に怖く考えられて、バイトとかも全然雇ってもらえなかったしさぁ」創が笑顔を崩す。「判ってくれる人がいるならって思ったんだけどね。予想以上だったよ。ここにいる人達みてたら、私達の悩みなんて可愛いもんだ」
「でも、来てよかったじゃないですか」
「そうだね。すごく、そう思う」創は幸せを噛みしめるかのように目を閉じた。
創は寒くなってきたのか、窓を閉めて、フック式の鍵をしめた。未空は早くも会話の種が無くなったのを認める。沈黙が長くなるのを恐れて、彼は早々に立ち上がる。「……じゃあ、そろそろ行きますね。なんか、今日はすごく疲れちゃったんで」
「そうだね。私も戻るとするかなぁ……」
創は奏を揺すり起こす。
「……おぉ、創か」奏が創を見て言った。
「創かじゃないでしょ」創は赤くなっている奏の額を軽くつつく。「謝罪しなさい。彼に。ついでに私にも」創は奏の上半身を無理やり起こして、未空の方を向かせた。
「ああー……すまらかった」奏の滑舌は曖昧だった。
「ほら、立って」創が無理やり奏の体を起こす。薄々気づいていたけれど、彼女は強引な部分が多い。未空と創は玄関で靴をはく。「私達、もう行くから。鍵、閉めてね」
創の厳しい口調がエントランスまで響く。こういう経験は何度もあったのだろう。うんざりしているようだった。下のエントランスの方から、『クスクス』と笑い声が聞こえる。
「……あぁ、悪かったよ。……おやすみ」
創と一緒に部屋を出る。内側から鍵のかかった音がするのを確認した。
「全く」創の赤い唇が『へ』の字を描く。
「なんかいいですね」未空はつぶやいた。
「……何が?」
「姉妹とか、そういうの」反応に困らせるようなことを言ってしまったかもしれない。未空は自分が笑っているのに気づいていなかった。
いくつかの間が空いてから、創は控えめに笑う。「……悪くないよ」それから苦い表情をして、肩を竦める。
「お姉ちゃんをよろしくね。……めんどくさい人だってのは判ったと思うけど。お酒飲んでない時に話しかけてあげて」
創は自室の扉の中をくぐった。
未空も自分の部屋へと戻る。通常時の真実奏と、ちゃんと話をしていないのに、ふと気づく。彼女は気分が悪いと言って、集団行動を抜けることが多々あった。
けれどこれからいくらでも機会は訪れるので、別に明日でもいいだろうと考えた。
その考えが過ちだった。
一章、お読みいただきましてありがとうございました。
もしもこの先興味が続きましたら、どうぞ第二章の方もお読みください。




