2人の兄 2人の妹
ふと吐いた溜め息が白い。
5月下旬ではありえない気温。
足首から下はガラスの様に透明な、しかし鋼並みに強固な氷によって囚われている。
「どうしてこうなった…」
事の発端は20分ほど前に遡る。
試験終了の鐘が鳴り、束の間の開放感を味わう。
(疲れた…肩と首が痛い。)
俺は確かに数学科が得意だが、1問1点で100問解かざるを得ない試験は疲れるのだ。
しかも、数学科の次の理科では無駄に精密な蛇のスケッチを求められ、首と肩に加えて目まで疲れる。
不機嫌そうな顔になるのも不可抗力であろう。
(…あ、氷魔法で首と肩冷やせば楽になるだろうか?でも、温めた方が良いのだろうか…?)
デスクワークに疲れたOLの様な事を考えていると、唐突に張りのあるバリトンが聞こえる。
「玲央!飯食おうぜ!」
「涼先輩…。なんで2年のフロアに居るんですか?」
成績順位1位、対人順位1位、もちろん総合順位1位で、私立東雲学園高等部第98代生徒会長を務める天才、鈴原涼。
まるで死角のない完全無欠の様に思われる彼だが、実は死角だらけである。
まず、凄まじい天然だ。それにお人好し属性とドジっ子属性が付与されているので、もはや手に負えない。
生徒会で会計を務める俺は、一体幾つのトラブルに巻き込まれたことか。
…悪意がなくても、先輩が何か壊したらその弁償とかの諸々の後始末は俺に来るので、自重していただきたいものである。
「今日は1年生にとって初めての試験だろ?妹に初試験はどうだったか聞きに行こうと思ってな。お前も1年に妹いるだろ?一緒に行かないか?」
…1つ言い忘れていた。
この人は極度のシスコンだ。
鈴原美月というらしい妹さんのことを、まるで天使か何かのようにいつも言っている。
真面目で健気なお兄ちゃん子なんだとか、運動も勉強もできてしかも美人な最高の妹なんだとか、妹自慢を聞くのは構わないのだが、それが30分を超えたらもはや拷問であろう。
同じく妹を持つ身としては、妹を自慢したいのも分からないわけでも無いが、あれはヤバい。
「な〜玲央、行かねえのか?」
先輩の言葉でふと我に帰る。
「あの、行くのは別に良いんですけど、どこに行くんですか?」
「食堂だ!美月は入学してからずっと昼食は食堂で摂っているからな。」
爽やかな笑顔でストーカーじみた発言をする先輩の将来に一抹の不安を覚えつつも、結局一緒に食堂に行くことになった。
「…賑やかですね。」
「そうだな、いつにも増して食堂が混んでいるな。」
「今日ってなんかあったけ?」
「何もねぇと思ったんだがな。」
「でも生徒会の予定には有りませんから、何か別のものでしょう。」
あんたらの所為だろと思いつつも、口には出せない。
食堂へ行く途中に何故か、3年の副会長である橋本結菜先輩や同じく3年で副会長の鏑木柘榴先輩、2年で書記の中山侑李、と生徒会役員が全員集合してしまったのだ。
1人でも目を惹くような生徒会役員が全員揃えばどうなるかなど火を見るよりも明らかなのに、何故こいつらはそれに気付かないのだろうか。
自分達で起こした渋滞を自分達で突破していると、ようやく食堂の中へたどり着いた。
…入ったはいいが、人間が多すぎて5月とは思えない暑さだし、何より騒がしい。
これは妹さんを探すのは一苦労だな、と思った次の瞬間。
「美月!」
涼先輩が広い食堂の中程に座る黒髪の女子生徒に向かって呼びかける。
よく見つかったな、あれが噂のシスコンレーダーか。
「…何、兄さん。」
思っていたより低く艶のある声で答えた妹さんが振り返る。
…確かに先輩がいつも言うように、妹さんは美人と呼ぶに相応しかった。
腰まで伸びた黒く艶やかな髪とほっそりとした肢体。
整った顔立ちの中で、つり目がちの黒曜石のような瞳が強い光を放っていた。
だが、しかし。
話が違うのではないですか、涼先輩?
先輩は確か、真面目で健気でお兄ちゃん子の可愛らしい妹だと言っていた。
だが、先輩への答え方とか先輩を見る瞳の中にありありと敵意が見えるのだが…。
しかも喧嘩したとかそういうレベルではなく、もはや親の仇を見るような目である。
(涼先輩から見て)仲の良かった兄妹に何があったのか。
「美月、初めての試験はどうだった?」
こちらの心中など知った事かとでも言うように普通に話しかける涼先輩。
…妹さんの顔が微かに歪み、更に敵意が増した気がする。
「別に。」
「そうか、大丈夫だったなら良かった。」
ニコニコと爽やかな笑顔を振りまく涼先輩と不機嫌そうに顔を歪める妹さん。
対照的すぎて、端から見たら会話をしているとは思えないだろう。
「兄さんはもちろん総合1位なんでしょ?」
初めて妹さんが自分から話し始める。
…嫌な予感がする。
「いや、まだ分からないよ。」
「ふ〜ん、でも1位になって貰わないと困るなぁ。」
「ん?何でだ?」
「…だって、1位の兄さんを超えなきゃ意味が無いじゃない。」
一呼吸開けて吐き出した台詞が引き金だったかのように、膨大な魔力が放出される。
キーーン
耳が痛くなるような高音に一瞬気を取られた。
そのほんの一瞬の間に彼女_鈴原美月によって食堂の床が凍りついた。
広範囲を一瞬で凍りつかせる強力な魔法、しかも無詠唱。
反則であろう。
そして今、冒頭の状況である。
「なっ…」
「うわっ!」
狼狽えるこちらの事など知った事かと言うように食堂で唯一、氷に囚われていない彼女は初めて笑みを浮かべた。
「じゃあね兄さん。…試験頑張って。」
凍りついた床の上をまるで女帝のように去っていった彼女。
こちらの事など歯牙にもかけない様子は兄妹で似ているのだなと、惚けた頭でふと考えた。
しかし、溺愛していた妹にあれだけの敵意を向けられた上に魔法まで放たれたら、さすがの涼先輩の防弾ガラスのハートも傷ついてしまったのではないだろうか。
「あ、あの…涼先輩?」
呆然と立ち尽くす先輩に声をかけると、先輩はゆらりとこちらを振り返った。
「なぁ、玲央…聞いたか?」
「何を、ですか…?」
戦々恐々としながら先輩の言葉を待つ。
「美月が、俺の美月が…俺に……『試験頑張って』って言ったんだ!」
満面の笑みでそう言い放った先輩の精神力は、数値化したら絶対カンストしてると思う。
「…そ、そうですね。」
「やっぱり美月は俺の天使だな!しかも高校生になったら、余計に可愛さが増している!」
…増したのは可愛さですか?迫力じゃなくて?
そこからは涼先輩の妹自慢3時間コースへ一直線だ。
誰かこの人を止めてくれという思いを込めて振り返ると、生徒会の役員は全員苦笑いか沈痛な面持ちを浮かべている。
駄目だ、先輩を止められる人間などここには居ない。
おいコラそこ、俺に向かって合掌するな。
結局、柘榴先輩の炎魔法で全ての氷を溶かして、発生した水の処理をし終えるまでの20分間。
ノンストップで続く涼先輩の妹自慢を捌き続けた俺は、全てのエネルギーを持って行かれた気分である。
「…ふぅ。」
ようやく昼食を摂る事が出来て人心地ついている俺の所に妹がやって来る。
妹というのはもちろん俺の妹、八田華音である。
俺と同じ限りなく銀に近い金髪と紫の瞳を持ちながら、俺とは違い柔らかな雰囲気を纏う、兄としての贔屓目を抜いても可憐で可愛らしい妹だ。
もし、華音が真顔で俺に向かって攻撃魔法を放ってきたら、俺は立ち直れないかもしれない。
「どうかなさいましたの?お兄様。」
遠い目をした俺を気遣う華音。
「いや、何でもない。ちょっと疲れただけだ。それで、どうかしたのか?」
「あの…美月が何処に居るか知りませんか?私がお手洗いから帰って来たら見当たらなくて…」
美月…?
「その美月さんとはどんな方なんだ?」
「クラスメイトですわ。ある一件でお世話になったのですけど、それ以来とても仲良くさせて貰っていますの。とても頼りになる方ですのよ。」
「へぇ…それはいい友人を持つことができたな。」
表面上妹と和やかな会話をしつつ、頭の中では警報がガンガンと鳴り響いていた。
華音のいう『美月』とは、多分…というか十中八九、さっき食堂を凍りつかせた人物である。
何ということだ。彼女は華音の友人だったのか…。
妹の意外な友好関係に無表情で驚いている俺が、昼休み終了のチャイムによって我に帰るまで後5分。