決定打
1
政彦は、髪を七三に分ける以外には、これといって外見に拘りを持っていない。髪型に関しても「高校生なのに、リーマンみたく七三分けにして、しかもちょっとだけボサボサな俺、超個性的」程度のもので、オシャレに気を遣う性格ではなかった。
だが、これから以降は改めようかなと、政彦は考え始めていた。
政彦の目の前には、職員室の片隅で、安物の椅子にだらしなく座る、帰宅部顧問の古賀がいた。
古賀は、すでに放課後なのに、寝癖が治っていない。汚い無精ヒゲを気だるげに撫でる姿は、日常生活における清潔感の重要性を示している。政彦にとっては、下手な説教よりも、教育的効果が認められた。
「おい、黙ってないで、要件を言え。俺も暇じゃないんだぞ」
心の中で反面教師と認定された古賀が、さして長くもない爪を細かく切りながら、政彦に文句を言ってきた。
「前に、逃げ足を鍛えるって言ってたじゃないですか。詳しく聞きたいんですけど」
「物凄い暇そうですね」と言いたくなる気持ちを抑えて、政彦はさっさと本題を切り出した。
断られるにしても、そうでないにしても、時間が有限である以上、誰にとっても、話は早いほうがいいはずだ。
「うん? 興味が湧いたか。別に、いいぞ。以前に俺の言葉を遮って帰った過去は、水に流してやろう。俺は寛大な男なんでな」
前に蔑ろにされた屈辱を、古賀は覚えているようだ。
古賀は、顎の無精髭を撫でながら、政彦を見下すように顎を上げた。偉そうにしやがってと、政彦は不満だったが、文句を言うにはまだ早い。この前、古賀が言いかけていた内容を聞いてからでも、遅くないだろう。
政彦は取りあえず口を閉じ、神妙に見える態度で、古賀の言葉を待った。
「逃げ足を鍛えるって聞いて、前回は帰ったんだろう? だが、早計だったな。俺がお前に教える逃げ足は、コソ泥みたいなものじゃない。高度な技術に裏付けされた逃げ足についてなんだ。その名も、パルクール。おフランス生まれの、スポーツだ」
古賀は、物語で主人公に技を教授する、賢者のような厳かな態度で、パルクールなるスポーツ名を唱えた。
全く聞いた例のなかった政彦は、内容がまったく想像つかなかったため、ただ、言葉を待った。
「パルクールっていうのは、簡単に言うと、街中でする障害物競争の技術だ。本当は色々、歴史とか逸話とか、大事な理念とかがあるんだが、それはググってくれ」
「障害物競争ですか。それで、逃げ足の訓練ってわけですね」
「ああ、だが、ただの障害物競争じゃない。ハリウッド映画で、海兵隊の新兵が、木製の壁を乗り越えたり、ロープをよじ登ったりしているシーンがあるだろう?」
「ええ、そういのもあったかと思います」
「パルクールは、そういったアスレチック的な障害はもちろん、階段など、ストリートの障害も超えていけるよう、身体能力を強化するスポーツだ。走ったり跳んだり、掴んだりで、全ての障害を越えていく。どんな障害であっても、身一つで、だ」
古賀は、最後の言葉の後に「どうだ! 凄そうな競技だろう?」と言わんばかりの、得意げな笑顔を浮かべた。
パルクールを説明する古賀は、とっておきの玩具を自慢する子供のように、政彦の瞳に映った。古賀にとって、パルクールは、ただのスポーツではなく、特別なものであると、付き合いの浅い政彦にもわかった。
帰宅部なんてロクでもない部活動の顧問になるくらいだから、ただの風采の上がらないオッサンと思っていたが、そうでもないらしい。政彦は、少しだけ古賀を見直した。
政彦は静かに続きを待った。だが、古賀は話を中々再開しない。その間に、古賀の顔は段々と曇っていった。
どうやら「どんな障害であっても、身一つで、だ」は、古賀的に決め台詞だったようだ。
一見、神妙か無反応か区別のつかない政彦の態度を、古賀は後者と判断したらしい。
普段なら、他人に悪く見られても、勝手にしやがれと思うところだが、今は、目的がある。無関心と決め付けられ不利益を被るなど、堪らない。ここは、関心を持っているとアピールするためにも、質問したほうがよさそうだ。
「なるほど、凄そうですね。それで、どんな練習をするんです? 是非、身につけたいんですけど」
「おう、そうか。興味が湧いたか。いいだろう。俺は一度は拒絶されても許してやるくらい度量の広い男だ。てらいなく教えてやろう。あまり詳しく教えると、時間が掛かりすぎるし、一度にはできないから、今日は導入部だけだがな。どうだ、俺は優しくていい教師だろ?」
古賀の嫌味を聞いて、政彦は、中学のころ体育の授業で読んだ教科書を思い出した。
柔道などの選手の性格を調べたところ、大成する者は、よく言えば粘り強く、悪く言えば粘着質な性格だと書かれていた。
おそらく、他のスポーツでも大差ないだろう。古賀が帰宅戦で活躍した理由も、アメーバのような性格が幸いしたに違いない。なるほどなと、人の、それも教師の話を遮って踵を返した事実を無視して、政彦は古賀の粘着質と断定した。
それでも政彦は、表面上だけ恭しく、古賀に師事すべく、頭を下げた。
「はい、ありがとうございます。お願いします」
満足したようで、古賀は滔々と語り始めた。
「と、言っても、基礎トレーニングだけでも結構、大変だぞ。全身の筋肉を、柔軟に使う必要があるからな。取りあえず、平均台の上での前進後退だ。細く狭い場所でも機敏に動けるように、バランス感覚と姿勢保持に関わる筋肉を鍛えておけ。平均台は、第三体育館にあるから、勝手に使っていいぞ」
平均台と聞いて、政彦は、小学校低学年のころは得意だったなと、懐かしく思った。高学年になると、体育の授業で使われなくなり、残念がったものだった。
「それと、ロープを使った鯉のぼりで、背筋と握力を鍛えろ。高い塀や柵を越えるには、体を持ち上げなきゃならないからな。特に握力は重要だ。格闘戦にも応用が利くから、よく鍛えておけよ」
古賀も、悠と同じく握力押しとわかり、地味でもやるかと、政彦は仕方なしに決意し、続きを促した。
「なるほど、参考になります。他には、どんな練習法がありますか?」
「そうだな。着地の練習もしておけ。障害物を乗り越えた際に、膝のクッションを最大限に利かせるんだ。それと、受け身もだ。ただし、柔道式じゃない。古流柔術のような、回転して衝撃を逃がすやり方だ。パルクールは、危険を伴うスポーツだ。練習のための練習をしておかないと、怪我をするからな」
「わかりました。できる範囲で、早速やってみます。ありがとございました」
「おう。詳しい内容は、三島に聞け。あいつは一年の夏休みか、帰宅部に入って、パルクールの訓練をしている。どうせ、武術の指南も、受けるんだろ? ついでに色々教わるといい。俺も、気が向いたら教えてやる。なにせ、寛大な男だからな」
「そうします。ありがとうございました」
用は済んだ。政彦は適当な挨拶をして、さっさと職員室を出た。
2
風子のいる武道場へ急ごうと、政彦が廊下を競歩の要領で早歩きしていると、階段の踊り場から、声が掛けられた。
「ヘイ、もしもし、そこの人。ちょっと、いいかな」
政彦が、声のしたほうに振り向くと、長身の、どこか中性的な美しさを持つ女子生徒が、どこを見ているのか分かりにくい、茫洋とした目をして立っていた。
「なにか、用ですか?」
上履きの色から二年生だと察し、政彦は丁寧に応対した。尋ねた声は、テリトリーに入られた田舎者のような、訝しがるトーンとなっていた。まだ若いのだから大目に見てもらうしかないと、政彦は開き直った。
「イエス。帰宅部員のユーに親切な先輩のわたしが、耳寄りな情報を教えてあげたくて、んね」
政彦の非友好的な声を気にして様子もなく、茫洋とした目の先輩女子は、人差し指だけを伸ばした両手を振りながら、腰を上下させて近づいてくる。激しく動いている割に、赤に近い茶髪はやたらと固いようで、全く揺れていなかった。
先輩女子の奇妙な踊りのような移動方法に、軽い恐怖を覚えながら、政彦は疑問を口にした。
「どうして、俺が帰宅部員って知ってるんですか? どこかで会いましたっけ」
「いや、初対面さ。君は結構な有名人だからね。帰宅部長の三島ちゃんと訓練したり、帰宅戦で一緒に戦ったり、後頭部を竹刀で打ったりっていうんで」
「そりゃあ、どうも。嫌味をいいたいだけなら、用事があるんで、帰りますよ」
先輩女子の無礼を理由に、風子の元へ急ごうとする政彦の背中に、何かを企むような声が掛けられた。
「おっと、いいのかい。そんなつれない態度をとって。帰宅部員のユーに、イヤー寄りのインフォメーションがあるんだけどなー」
政彦は、先輩女子の似非外国人風の話し方が気になったが、最初に要件を聞いた時とは言い方を変えた、耳寄りな情報という言葉のほうが、より気になった。
声の調子と、奇妙な行動から考えて、先輩女子を信頼できるとは、とても思えない。だが、風子と会った際の、土産話くらいにはなるだろう。政彦は、得意げに口角を釣り上げる先輩女子の望みを叶えてやるべく、振り返った。
「どんな情報で、どんな対価が必要ですか?」
「お足は、おっと、江戸時代でいうところのお金は要らないよ。わたしは後輩思いな、いい先輩なのさ。もちろん、ロハだよ。君がどうして何かしらを支払いたいというなら、受け取ってやってもいいけどね」
先輩女子は「お足」と、わざわざ古い言葉で、しかも鬱陶しさを覚えるほど得意げな顔で金を表現し、続いて手を出してきた。貰えるものなら、貰いたいというところか。
「是非、謝礼を受け取ってください。タダより高いものはなさそうなので。噛みかけのガムとかどうです。仄かに甘いですよ」
「そいつは魅力的だね。君のような、外見は真面目そうな生徒が好みなゲイを知ってる。写真付きでプレゼントさせてもらおう。大丈夫、彼はノンケかどうか、あまり気にしない男だからね。ちなみ、この学校の三年生だ」
「やっぱ、今朝買ったレモン味の喉飴とかで、どうです」
「惜しい。コーラ味の飴なら、よかったんだがね」
「どっちもあまり変わらないのでは? レモン味でも、コーラを飲みながら舐めれば、レモン・コーラになって、おいしいですよ」
「それなら、コーラだけを飲むよ。ちなみに、君が舐めかけの飴でもいいよ。前述のゲイに渡すから」
「今回はロハでお願いします」
身の危険を感じた政彦は、舐めた態度を引っ込め、観念して頭を下げた。
「よかろう。君は、帰宅道連盟を知っているかね?」
「なんですか、それ。もしかして、帰宅部の全国組織ですか?」
帰宅道ってなんだと、政彦は裏返った声で、素直に驚きを表現した。
アメリカのホーム・ドラマ並にわかりやすい、政彦の驚愕した様子を目の当たりにして、先輩女子は、満足気に頷いた。
「最近できた、帰宅部の活動をサポートする全国組織だ。そこのサイトに行ってみるといい。色々と有益な情報が掲載されているぞ。ふむ、これだと、耳寄りな情報の情報だな。まあ、いいか。結果は同じだしね。では、さらばだ。幸運を祈る」
先輩女子は、ニヒルな笑みをガラス越しの夕日に映すと、踵を返した。政彦は、ゆっくりと遠ざかる背中に、声を掛ける。
「先輩は、何者なんですか?」
「さっきも言ったろう? 親切な先輩さ」
先輩女子は一度ちょっと立ち止まり、顔だけで振り返ると、片手を上げて、廊下の向こうへ去って行こうとした。
「いやいや、ちょっと待った」
逃がすかよとばかりに、政彦は先輩女子走って追いかけ、襟首を右手で引っ張った。
「グヘ。何をする。苦しいだろうが」
先輩女子は首を絞められる形となった。ニヒルさとほど遠い、潰されたヒキガエルのように、苦しげな呻きと抗議の声を上げた。
「いや、本当に親切な先輩なら、それでいいんですけどね。やっぱり、先輩が何者か、気になるじゃないですか。有志同盟の糞虫どもと、繋がりがあったら、困りますしね。名前と、どこの部活に所属しているか、教えてくれます?」
「やめろ! 首が絞まる」
政彦は、先輩女子の襟首を右手で引っ張りながら、背中を左手で押した。
たちまち、酸素を求める掠れた声が、先輩女子から上がる。しかし、政彦は気にせず、追い詰めに懸かった。
「そんな些末な情報はいいから、さっさと教えてください」
「こんな真似をして、ただで済むと思っているのか」
「さっきは、ロハでいいって言ってくれたじゃないですか。嘘つくんですか?」
先輩女子の、正当かつ切実な抗議を受け流し、政彦は手に力を込めた。
「お前、おかしいぞ。普通は、夕日に笑みを浮かべて去っていく女を追いかけないし、襟首を掴んで首を絞めたりもしないんだからな。常識だぞ」
「そりゃ、失礼。でも、首は絞めてないですよ。ライバルの足のように襟を引っ張って、恋に恋する女子中学生を応援する友人のように、背中を押しているだけです」
「結果的に、絞まっているじゃないか」
「こいつはしまった。真に遺憾です」
政彦の舐めきった言葉を聞いて、先輩女子は腕と足を振り回して、脱出しようとする。だが、政彦は、先輩女子の体を、すかさず壁に体を押し付けて、動きを封じた。
先輩女子の意外なほど弱々しい反応に、政彦が楽しくなり始めたところで、後ろから声を掛けられた。
「なにをしている?」
振り返ると、古賀がリアクションに困った風に、口を開けて立っていた。
「叔父さん。やった、助けて」
「叔父さん? え、誰が?」
「ん? ああ、こいつは兄貴の娘だ。つまりは、俺の姪だ。ついでに名前は由香里な。で、どうしてお前、俺の姪の首を絞めてんの?」
古賀は犯罪者を見る目で政彦を見てくる。完全な事実だったが、政彦は誤魔化そうと口を開いた。
「やだなー、先生。逃げようとしてたんで、ちょっと話を聞こうと。襟を引っ張っただけですよ。それに、むしろ絞まっているのは、俺の首です。社会的な意味で」
「……自覚あるのかよ。まあいい、さっさと襟を離せ」
「よくないよ! 全然よくないよ。叔父さん、こいつ退学にしちゃって。もしくは社会的に抹殺して」
「やだよ。こいつは、俺が顧問をしている部の一員だ。不祥事は困る。それに、抹殺とか無理だ。泣き寝入れ」
古賀は、姪である由香里の無理からぬ怒りの矛先を、武術の達人がするように、あ見事に受け流した。
「そうですよ、由香里先輩。貴方が黙っていれば、丸く収まるんですから。みっともなく騒がないでくれます?」
「最上。流石に、お前が言う台詞じゃないぞ。それと、名前で呼ぶな。馴れ馴れしい」
政彦が、性犯罪の加害者側に立つ地方有力者のような、ゲスな台詞を吐くと、すかさず古賀が、裏拳でツッコミを入れてくる。体罰は良くないと思う政彦だが、胸を抑えて我慢し、親切にも見逃してやった。
「わたしが加害者みたいに言うな! 叔父さんもどうして可愛い姪の味方をしてくれないの? そんなに保身が大事?」
「うん。査定に響くと、管理職途用とか、転勤とかで、色々不利になるし」
縋るような姪の視線と言葉を受けながら、躊躇なく切り捨てた古賀を、政彦は男らしいと、心の中で褒めた。立場が違ったなら、酷いと謗っていたかもしれないが、そこは、内心の自由だ。
「死ね! 二人とも、寿命でなく、病院のベットでもないところで死ね! 覚えていろよ。バーカ、バーカ!」
由香里は、ハスキーな声とスラリとした長身に似合わぬ幼稚な言動で罵倒すると、廊下を走り去っていった。
「いやあ、危ないところを、どうも。助かりました」
「お前の言動を聞いていると、姪以上に心配だよ。で、本当のところ、なにがあったんだ?」
古賀の問いに、政彦は由香里から聞いた帰宅道連盟について、素直に話した。
「ほう、帰宅道連盟? そんなものがあるのか。帰宅部顧問の俺でも、初耳だな」
古賀は顎に手を当てて、信じられないといった風に、首を捻った。
「ええ、それで、なぜ知っているのか問いただそうと思ったら、あんな感じになりまして。失礼しました」
「そうか、由香里は昔から変な娘だったからなあ。いや、言動は痛いが、昔は素直でいい子だったんだがな……。おっと、帰宅道連盟な、一応こっちでも調べておくが、ガセかもしれんし、あまり気にするな。それより、三島が待ってるんじゃないか?」
「ですね。それでは、失礼します」
政彦は、今度こそ、風子の元へ走った。
無駄に時間を食って、遅れてしまった。しかし、帰宅道連盟という土産がある。おかげで少し、政彦の気は楽になっていた。