諦めと
1
風子に空を舞わされた次の週、昼休みの教室で、政彦は、夜勤明けのホステスを気取って気だるげに窓の外を見ていた。
今日は月曜日で、帰宅戦の日ではない。訓練と休養の期間だ。
授業を受け、勉学に励む期間と主張する者もいるが、少数派だった。
政彦のやる気は、先週までとは、大きく異なっている。精々、イジメが原因で生徒が自殺したと報告を受けた、退職近い公立高校の管理職並みでしかない。先週の失敗と、帰宅まであと二歩のところで希望を砕かれた痛手から立ち直っていないからだ。
「やっちまったと言うべきか、やられちまったと言うべきか、迷うところだ」
「いやいや、やらかして、やられたってだけでしょ。黄昏ながら悩む必要なんて全然ないわよ。誤解も曲解も、しようもないわけだし」
軽めな悲劇のヒーロー気分に浸る政彦の横から、無粋な声が掛けられる。腰に手を当てた悠が、名前のように、悠然と政彦を見下ろしていた。
「やあ、赤羽か。いい昼だね。君の瞳に乾杯、の本来の英文と直訳を述べよ」
政彦は、観賞した経験がない映画のセリフについて、悠にネタを振った。無論、意味はないし、付き合ってくれると期待もしていなかった。
なんとなく、脈絡のないセリフを言いたくなったから、言っただけで、政彦の癖だった。
中学のころ、友人たちから「脳と口を直結させるな」と忠告を受けていたが、下らない癖は、治りそうもなかった。本人が治す気がないのだから、当然だろう。
「いつもの昼よ。どこらへんがいいかわからないから、返事に困るわね。ちなみに、カサブランカについては無視するから、そのつもりで」
悠は政彦のネタ振りを、ワザワザ無視をするぞと、どうでもよさそうに宣言した。誠実な行為と呼ぶべきか、政彦には全然わからなかった。
「いつもの昼なんて、ないさ。どっかしら変化があるんだ。鋭敏な人間だけが、理解できる、そんな微妙な変化が。たとえば、三十人のクラスメート全員が、誰かと入れ替わってる、とか、国籍が変わっている、とか」
「随分と大げさな微妙な変化ね。全員が入れ替わるって、つまり、わたしたちも違う人間になってるって意味?」
悠は、哀れんでいいのか、馬鹿にしていいのか、迷っているようだ。
昨日までは単純に馬鹿にしたり、呆れたりしていた。
つい最近までやる気に満ちていた政彦が、今はすっかり消沈している様子を見て、深刻な精神状態と理解してくれたようだ。
「俺の性格がウザイのは、仕様だからね。諦めてくれ。俺が物心ついた時には、自分はウザイって自覚できていた。慣れたんだ。君も慣れるさ。諦めなければ、きっとね」
政彦は軽薄に喋りながら、悠にウインクをしてやった。
「開き直ったガキの言い草と、子供が語った夢を汚い大人が肯定するみたいな台詞を、どうもありがとう。奇抜に腑抜けてないで、シャンとできないの? 今日は帰宅戦に備えての訓練日よ。忘れたわけじゃないでしょうね?」
「あー、それなんだけど。俺、今日は、なんか調子悪いし。保健室で寝ようかなって」
詰め寄る悠に、政彦は後ろめたさから顔を背け、喉から聞こえづらい声で応じた。
「あん? あんた、なに腰抜かしてんのよ。駒が減ると困るんだけど?」
「駒は困らない……駄洒落とか言うんだな、お前も」
政彦の指摘に、悠は怒りと羞恥で顔を赤くする。すぐに気を取り直すように首を振り、啄木鳥のように政彦の額を人差し指で突き始めた。
「い、い、か、ら、訓練には、ちゃんと出なさいよ。あんたには、部長の指名が入っているんだからね。返事は? はい、イエス、ダー、ポジティブ、ヤボール、好きな言葉で答えていいわよ」
「全部、肯定じゃないかって突っ込んだら、負けなのかな?」
「ええ、先週と今のアンタみたいにね」
肩眉をへの字にして見下ろす悠に、政彦は側面から受けてってやった。
「負け犬みたいに言われるのは、心外だウォン。撤回を要求するワン」
真面目な顔をして語尾を変える政彦に、悠は少しだけ好意的に苦笑しつつ、首を振った。
「ここで、あんた、やっぱり負け犬じゃないの、って言ったら、私の負けになるのかしら?」
「いや。そこで、負け犬ではなく、実は一匹狼でした、って俺がいうわけよ。オチがついて、教室中の人間がずっこけて暗転。次のシーンに移行、ってところだな」
政彦は、首を後ろに反らし、中指で眼鏡を押し上げた。内心では思う、実は負け犬なんだけどね、と。
政彦は、帰宅戦の厳しさと、ホームシックに打ちのめされている。それでも、クラスメートの女生徒に隠したくなるのは、人情だ。
「前にネットで見た、昭和のお笑い番組みたいね」
「どうすれば現代風になるかな?」
「無理ね。精々過去に生きてれば、いいんじゃない。化石センス野郎」
酷い言い草だなと、悠とのやり取りを、政彦は辟易し始めていた。
悠は口こそ悪いが、帰宅戦では意外に気を使ってくれる。なにより、美人だ。会話自体は歓迎するが、もう少し言葉を選んで欲しいものだ。
悪いほうの言葉を選ぶ場合の多い政彦は、自分を棚に上げて、悠の欠点を嘆いた。
「酷い言い草じゃないかな。赤羽さん」
不意に、笑いを含んだ野太い声が掛けられた。
振り返ると、太ったクラスメートが立っていた。昭和の柔道部員がしているような、坊主寸前の髪形をした、太い眉が体格以上に目立つ男だ。
外見と、実際に柔道初段であったため、ジュードーと呼ばれている。政彦は特別仲が良いわけでもないが、たまに話をするし、なにより、同じ帰宅部員だった。
「なにが? ただのコミュニケーションじゃない。少し毒があるだけで、悪口じゃないわ」
「かもしれんが、言い方は重要だろ。赤羽さんは、ちょっと口が悪いね」
「そうでもないわよ。虫歯はないし、舌に腫瘍もない。おまけに歯もこの通り、白くて並びがいいわよ」
悠は両手で口の端を開け、見せびらかした。言うだけあって、白い歯が綺麗に並んでいた。
ジュードーは困ったように笑いながら肯定した。悠の態度についていけないのかもしれない。俺は、悠にとって貴重な男のようだ。政彦は、貴重な友人に関する敬意について、悠に自覚を持ってもらうべきだと確信した。
「そうみたいだな。ちょっと最上君に話があるんだけど、いいかな」
悠の会話についていく意思と能力に欠けるようで、ジュードーは政彦と話す許可を求めた。
「これは、わたしの所有物じゃないわ。好きにすればいいじゃない」
悠は親指で政彦を指し示すと、そのまま自分の席に戻っていった。
仲が良いわけでも悪いわけではない、顔と名前は知っている程度の相手と二人で話す羽目になりそうだ。
政彦は、大き目な舌打ちでもしたくなった。流石に、まだ敵対関係にない相手を、わざわざ不快にさせる行為は、政彦の良心が許さなかった。
いっそ、ジュードーが無礼で不躾な嫌な奴でいてくれたなら、どんなによかったろう。失礼を働いても、微塵も気を使わずに済んだのに。俺に礼儀正しくさせる態度を採るなんて、厄介なやつだ。
「おーい。オッケー出たぞー」
政彦が内心で、理不尽な評価を下したジュードーが、後ろを振り向き、誰かに向けて声を掛けた。
ジュードーの視線を追うと、二人の人物が、政彦の目に止まった。
一人は、ジュードーより、かなり小さい、目つきの悪い男子だった。髪は茂みのようにもっさりとしていて、背丈と同じく、ジュードーとは対照的だった。制服のボタンはほとんど開いていて、だらしなさが目立っていた。
もう一人は女子で、背丈は女子の平均をわずかに超える程度、肩甲骨まで伸びた硬そうな茶髪を、後ろで無造作に縛っている。今時かなり珍しく、スカートは靴下に届きそうなほど長い。
顔の作りは整っているが、眉を八の字にして、空中の埃を追いかける猫のように目を明後日に向けている。下がり気味の肩が、自信なさ気な雰囲気を醸し出していて、特徴を備えている割に、地味な印象の女子だった。
二人共クラスメートにして帰宅部員であり、政彦との親しさは、ジュードーと同程度だ。
背の低い男子は元カポエラ部で、短い足を苦にせず、堂々と踊る姿から、揶揄するようにダンサーなどと呼ばれていた。
女子は第一か第二か、或いはそれ以上の数字が並ぶかは知らないが、元歴史研究部員だったはずだ。政彦が情熱的に視線を向けている、制服を押し上げる豊満な胸元には、北条氏の家紋「三つ鱗」を型どった小さなピンズが、控えめに光っていた。
これで、第一と第二歴史研究部の線はなさそうだ。名前を知らない政彦は、便宜上、女子をホージョーと名づけた。
三人は、帰宅戦の二週目から、元いた部活動を追い出され、帰宅部に回されたクチだ。接点が少ないため、どんな用向きか、政彦には判別がつかなかった?
「よお、話ぶった切って悪りーな」
訝しむ政彦を他所に、ダンサーはパーソナル・スペースを気にする素振りをみせず、近づいてくる。ダンサーは、上半身を大きく前に傾け、机の真正面から、政彦の顔を覗き込んできた。
こいつは、満員電車でも、苦痛を感じない類の人間か。嫌いなタイプが来たなと、政彦は、顰めそうになる顔筋を苦労して制御した。
「普段は話を、バブル崩壊後に中高年社員の肩を叩く人事部みたいに、切る側だ。たまにならいいよ、新鮮で。それより、どんな用だ? 宗教と自己啓発、高額を理由に断ると四割引きになるラッセンの絵、絶対に値上がりする債券、還付金を受け取るために手数料を振り込む銀行の口座番号には、興味ないよ」
「じゃあ、歴史はどう? 戦国史は? 六角氏の影が薄すぎる件とか、四天王が五、六人いる家の多さに、興味ある?」
ダンサーと同じ、いや、以上にパーソナル・スペースを、ホージョーは火のように侵略してくる。便宜上の仇名は、タケダかソンシにでもすべきだったかもしれない。
まさか、長たらしい嫌味を、完全に無視してくるとは思わなかったので、政彦は奇襲を許す形となり、河越夜戦における敗者のような気分になっていた。
ただ、勢い込んで上半身を突出させるホージョーは、豊かな胸を顔に近づけてくれている。制服の拘束を跳ね除けて、僅かに揺れる様子を間近で観察できるので、ダンサーの時と違い、政彦に不満は少なかった。
精々、熱っぽい声と唾を口から吐き出す様子が、少し怖いくらいだ。
「そういう話じゃないでしょ。方丈さん昼休みも少ないし、手短にね」
政彦が、メガネのレンズ上でつくる唾液の模様を気にしていると、隣から、ジュードーの諌める声が聞こえてくる。ホージョーは、本当にほうじょうと読む名前だと、クラスメートの名前を、政彦は初めて知った。
「そうね。お楽しみは後にとっておきましょう」
静かに残念がるホージョーに「悪いが、そのお楽しみは賞味期限切れだ。捨てておいてくれ」と、喉まで出かかったが、政彦は我慢した。
家に帰れないストレスがあるためか、抑制が利かなくなる場合もあるものの、なぜだかたまに、政彦は我慢強くなったりもしていた。
もしかして、追い詰められているのだろうか。政彦は、思っていたより、今の状況が精神に与える影響が、深刻なのではないかと危惧した。
「ちょいとズレたが、話は簡単だ。俺らは、正直、帰宅戦にうんざりしてる。敵が多すぎて、三島部長や赤羽以外は、賞金首クラスじゃないと、とてもじゃないが、帰れっこねー。おまけに、相手に、敵に怪我でもさせたら、元の部活に戻れても、気不味いなんてもんじゃねーから、全力は出せないときた。だから、俺らは、帰宅戦、いっそボイコットしてやるつもりだ。そんで、同じクラスの連中を、誘ってる最中なんだ」
ダンサーが、代表して話し始めた。
要は、現状に不満があるので、逃げちまおう。一人じゃ不安だ、皆でだ――ってところか。
政彦は、まず群れようとする堅実な連中に、侮蔑の視線を向けた。
「ボイコットって言っても、帰宅戦に参加しないと、単位を貰えないじゃないか。留年は御免だぜ。それに、北畑家を敵に回すと、親が困る連中もいる。俺だって、学費減免だから、我慢できてるってところもある。乗らない奴のほうが多いと思うぜ」
「そこは大丈夫だ。ボイコットっていっても、完全にバックレルわけじゃない。即効で捕まってしまえばいいんだ。そうすりゃ、怪我もしないし、させられもしない」
「キリングミー・ソフトリーってか? そう上手くいくとは思えないね。戦いの雰囲気と嗜虐心で興奮した体育会系の脳筋どもにボコられて、あっさり終了じゃないか?」
それに、俺はキャッチ・ミー・イフ・ユー・キャンのほうが好みなんだ。政彦は、心の中で付け加えた。
政彦の視線に気がついているのかいないのか、ダンサーは、ジュードーとホージョーを親指で示しながら、話を続けた。
「心配するな、話はついてる。俺の元いたカポエラ部や、こいつらの柔道部、第三歴史研究部に、捕まえてもらうんだ。部員に囲まれて、護送してもらえるから、安全に帰宅戦を終えられるって寸法だ。それだけじゃない。俺たち帰宅部員を捕獲した時に貰える報奨金から、小遣いまで貰えるんだ。悪い話じゃないだろう?」
「そうかい、そりゃ、魅力的だな。で、お前らに払われるキックバックは、いくらだ?」
政彦の直接的な物言いに、三人は三様の態度を示した。
「キック、なんだって?」
ジュードーは不思議そうに言葉の意味を探り、ダンサーは仕事に失敗して不貞腐れる詐欺師のように、口を噤んでいた。
「え? なんの話? わたしわからない。本当に、ええ本当に。キックバックってなに、後ろ蹴り? 空手? 利益供与の見返り?」
ホージョーは「女性の嘘は見破りにくい」という、心理学や法廷で示される事実を裏切る、わかりやすい動揺を見せていた。額に汗をかき、落ち着きなく首と目を動かしている。ずり下がったメガネを直さずに、上ずった声で説得力のない言い訳と自白を繰り返していた。
ただ、ホージョーは体を抱くようにしながら、落ち着かな気にくねらせている。豊かな胸を強調しつつ、免震構造の建物が地震の衝撃を和らげるように揺らす動作だ。
中々効果的な誤魔化し方だった。わかりやすく単純なやり口だが、視線を耐震性に優れた建物の土台さながらに固定した政彦は、効果的であると認める気になっていた。
グッジョブ・ベリーナイス。追求は、ダンサーをメインに据えよう。焦る女生徒を責めたてる行為で、嗜虐心を満たしたくなる可能性もあるので、確約はできないが。
「で? いくらなの、キックバック? 割合でもいいぜ、ダンサー。黙ってないで、よく動く足みたいに、舌を動かしてみたらどうだ」
政彦の煽りを聞いても、ダンサーは、そっぽを向いて黙っている。不貞腐れた子供そのものだ。
一応カマを掛けてみたが、ダンサーは仲間を食い物にするつもりだったらしい。政彦は、厭味ったらしく眼鏡を中指で押し上げ、鼻を鳴らした。
帰宅戦をボイコットするとは、帰宅部員であり続けるという意味だ。いくら帰宅が困難とはいえ、週に一度は、機会がやってくる。放棄するには、頻繁に機会があるわけだ。
まだ一年の一学期どころか、半ばにも達していない。諦めるには早すぎる時期だ。
「なあ、ダンサー。キックバックって、何の話だ」
口を噤むダンサーに、ジュードーがわからない単語を素直に聞く子供そのものの素直な態度で、問い掛ける。もし純粋に疑問を口にしているとしたら大したお人よしだ。
「ジュードーは知らないらしいから、親切な俺が教えてやろう。さっきホージョーがいっていたように、利益供与に対する見返りって意味だ。つまり、ダンサーは俺たちを自分の元いた部活や、知り合いのいる部活に捕獲させて、見返りに報奨金の一部を貰おうってわけだ。帰れそうもない帰宅部員が、学園生活を快適に暮らすための工夫だな。たった一つの、冴えたやり方ってところか」
政彦は、帰宅戦時の風子よろしく、悪役を気取ってせせら笑った。
棒立ちになったジュードーは、ホラー映画で超常的な生き物を見た登場人物のように、震える目でダンサーを凝視していた。
「べ、別に、キックバックなんて、ねーよ。俺は、ただ、皆を誘って、学園生活を楽しくやろうと、せめてマシにしようと思って……それに、最初に誘ったのは」
「酷い! サイテーね。信じられないわ! キックバックなんて、どうして思いつくの。そんな発想が出てくるなんて、人として終わっているわ」
ダンサーにチラリと盗み見られるや、ホージョーは被せるように、非難の声を上げる。政彦は、全てを理解できたような気がした。
ただし、ホージョーが、怖がるフリをして政彦に縋り付き、胸を押し当ててきているので、追及はしない。もちろん、振りほどきもしなかった。
ああ、俺のような男がいるから、ちょっと可愛くて、スタイルが良くて、おまけに全て自覚している女は、調子づくんだろうな――と政彦は、社会や集団における男女の関係について考えを巡らせ、調和の難しさを痛感した。
きっと、女の武器を使えば誤魔化せるような風潮は、正す必要があるに違いない。だが今は、仲間に裏切られたダンサーの心が痛んでいる最中に、背と腕に当たる、柔らかい感触を楽しめている立場だ。今度にしようと、政彦は、勉強机に着席した、不真面目な学生のように思い直した。
とりあえず、ダンサーに説教でもしようか。
「うん、よくない。よくないね。君は、うん」
政彦の意識が、戦後すぐの生産方式における鉄鋼と石炭並に背中へ傾斜しているため、不自然な台詞になった。
しかし、心情的に追い詰められているダンサーは、味方であるホージョーの裏切り方が効果大だと教えられた形となり、顔に絶望を張りつけていた。
「そうだよ、ダンサー。話が違う。最上君が怒るのも、無理ないよ」
ジュードーが、子供に言い聞かせるような口調で、ダンサーを諭した。
「だけど、いい考えだ。半分だけ乗せてもらおう」
「え? ちょっと、最上君?」
「俺はボイコットしない。キックバックの件だけ乗る、って意味だ。俺の取り分はいくらだ?」
唖然とするジュードーを他所に、政彦は笑いながら、共犯者に分け前を寄越すよう、脅迫した。
すると、すかさずホージョーが抗議してきた。
「ちょっと最上君、狡くない? わたしが考えた制度だよ」
「五月蠅い、裏切り者の女狐め。お前には、俺から少し分けてやる」
この女は、ホージョーというより、マツナガなんじゃないか? 政彦は、仇名の変更を考慮しつつ、懐柔を計った。
「大いに分けてよ。お願いね」
ホージョーはウインクを浴びせると、腕を組んで胸を強調して、政彦に見せつけてきた。
さっきから、工夫もなく、同じやり口だ。政彦は、呆れと軽蔑を覚えたまま、口を開いた。
「期待しとけ」
政彦は、胸の谷間に札を差し入れて、手の甲で叩く想像をした。あまりに魅力的だったが、半ば屈するだけで済ませた自制心を、政彦は自ら褒め称えた。
半分は理性の勝利だ。勝利のもう半分は、感情だったが、人間である以上当然だ。理性と感情、双方持ってこそ、人なのだから。
現実も、自己正当化と同じくらい簡単だったら良かったのに。
「最上君、、ううん。政彦君って呼んでもいい? これから、よろしくね」
「ああ。末永くよろしく」
見つめ合う二人。なんとも感動的じゃないか。政彦は笑いを堪えつつ、ホージョーに手を伸ばした。
政彦がホージョーと親愛の握手をしようとしたその時、突然、漫才師のツッコミ台詞と同時に、頭頂部が衝撃を受けた。
「いい加減にしなさい」
なにが起きたかと、見上げると一度は席を立った悠が、戻ってきていた。
「盗み聞きとは、いい趣味だな。赤羽」
政彦は、メガネを押し上げつつ、悠の無作法を咎めてやった。無論、やろうとしている不正行為には、目を瞑っている。他人を糾弾する際に、自分にとって不利な情報を、深刻に受け止めたままでは負けてしまう。
悠は、即座に襟で首を絞めに懸かってきた。
政彦は、手のひらで数回、相手の腕を叩いて「参った」を宣言した。
悠は薙刀だけでなく、柔術も使うようだ。そういえば、以前一度だけ訓練相手――というより標的――にされたとき、投げられたり、関節技を極められたりしたなと、政彦は、悠の腕を、タップの連打をしながら思いだしていた。
「わたしの机、あんたのと超近いから。聴こうとしなくても、聞こえるのよ」
「なるほど、盲点だった。うるさくして悪かったな。それじゃ」
「それじゃっ、じゃないわよ。下らない不正の相談なんてする暇があったら、これで握力を鍛えなさい。どこでもできて、効果的よ」
誤魔化そうとする政彦に、悠は、ゴム製の輪を投げて寄越した。握り込んで、手の力を鍛えろといいたいようだ。当り前だろうが、悠の強さは、地道な努力の賜物か。
「やだ。キツイし」
「あんたね。部長の練習に付き合ってるくらいだから、強くなりたいんじゃないの?」
「うん。でも一番の理由は、汗の染みたシャツの中で揺れる、部長の胸が間近で見られからだけどね」
政彦は、数学の公式を解説する学者のように、間違いのない事実を淡々と答えた。
「ああ、そう。御大層でない御託はいいから、言う通りにしなさい。それと、あんたら」
悠は効果を期待していないトーンで嫌味と命令口にすると、他の三人に向き直った。
「な、なんだい?」
ジュードーが、ダンサーとホージョーに押し出されるようにして、悠と相対した。
「帰宅戦を回避したいっていう、あんたたちの気持ちも、わからないでもないわ。武術や格技の素人が帰宅戦に参加すれば、ただじゃ済まないからね。でも、帰宅戦は真剣にやったほうがいいわよ」
「気持ちがわかる、ですって? いつも帰宅に成功していながら、帰宅部を辞めない赤羽さんと部長さんには、わたしたちの絶望を、理解できるはずないわ」
怒るどころか優しげに話す悠に、ホージョーが、ジュードーを押しのけて抗議する。目に浮かべている涙は、演技ではなさそうだ。
「あんたらは、帰宅戦で上手く立ち回ろうって魂胆みたいだけど。まず無理ね。一度でも帰宅部員になった以上、家に帰るためには、ううん、まともに生きるためには、戦って勝つしかないのよ」
こぶしを振り上げるホージョーの剣幕を、悠は一瞥するだけで流した。悠は絶対確実な儲け話を信じる、詐欺の被害者にむけるような声で諭した。
「なんでだ。帰宅戦ですぐに捕まれば、痛い思いも怪我もしないだろ。捕まえた部活は潤うし、俺は、いや俺らはキックバックで、少しお得な気分だ。ウインウインって奴だ。戦う必要なんて、ないじゃないか」
今度は、ダンサーがホージョーを押しのけて前に出る。ホージョーの肝煎とはいえ、グッド・アイディアを否定されて、文句の一つも言ってやりたいようだ。
「あんた、バカなの? 甘すぎね。カロリー・オフの炭酸飲料でも、砂糖水に思えるくらい。いい? あんたが、あんたたちが誰とどんな約束をしたかは知らないけど、約束っていうのは、守らせる強制力がないと、何の意味もないのよ。相手がその気になったら破れる約束なんて、何の役にも立たないわ」
「そりゃあ、そうだろうな、でも、こっちが人数を揃えれば、そう簡単には約束を破れないはずだ。なんなら、取引する部活を一つに絞って、集中的に捕獲さてやればいい。そうすれば、いざキックバックを値切ってきても、威圧できる」
悠の主張を理解した政彦も、反論に加わった。政彦も、想定していた懸念だからだ。なにもかも上手くいくと、能天気な発想を、政彦は持っていない。対策も考えていた。
「だから、甘いって言っているでしょうが。チキンは何人いてもチキンよ。威圧なんて、できるわけないでしょ。第一、キックバックを貰っているって知れたら、あんたたち、標的にされるわよ。帰宅部からも、そうでない部からもね。裏切り者は、敵よりも憎まれるのよ。まったく、あんたたち、角砂糖が人格を持ったみたいに、甘いわね」
「そこは上手く隠せないかな。箝口令とかで」
政彦は苦し紛れに、穴のある暴言を吐き捨てた。ともかく、悠の否定を、否定で迎撃してやりかった。自分も納得していない理論を、取りあえず口に出して、反論した体を取り繕う。すると、大抵の相手は黙る。納得したからではなく、呆れたためだ。政彦が最も嫌う類の人種がする行為だ。
悠には通じない遣り口だと理解できたが、無意識に口が動いていた。
予想通り、即座に反撃が来た。
「あんたたちが黙っても、取引相手の部員がバラしたら、それでおしまいよ。一度でも裏切ったら、他の帰宅部員は、あんたたちを許さないわ。結局、取引相手に保護してもらわないといけなくなる、ってわけ。そうなれば、当然、キックバックはなしね」
「そこは交渉次第だ。俺はカポエラ部に、他の二人もそれぞれの部活に、仲がいい奴がいる。間に入ってもらえれば、なんとかなるさ」
今度はダンサーが、大きな身振り手振りで、悠の反撃に応対した。
「馬鹿ね。優位に立てそうなのに、間に入ってまで助けてくれる奴なんて、いるわけないでしょ。それだけじゃない。下手をすると、取引相手の部からも、見捨てられるわ。ノーリスクで帰宅部員を確保するなんて、有志同盟の部からすると、裏切り者なんだから」
ダンサーとホージョーの裏切り志願者二名と、裏切り者に寄生しようとした政彦は、もはや反論できなかった。間抜けな被害者であるジュードーは、ただ首を巡らせて、把握できない状況を、飲み込もうとしていた。
四人を睥睨する悠は、さらに話を続けた。
「いい? あたしら帰宅部員には、二つの顔があるの。三好町に人を呼ぶイベント要員って顔ね。で、もう一つの顔は、自分で選ばなければならないの。三好高校生徒の厄介なパブリック・エネミーか、サンドバッグ、どちらかをね」
悠は言いたい内容を言い終えると、颯爽と去っていった。ただし、目的地の席が近いので、様にならなかった。どうせなら、トイレにでも行ったほうが、まだ格好がついたのにと、政彦は意地悪な感想による反撃で、矮小な満足感を得た。
まったく意味もない自己満足を、二秒ほど堪能してから、政彦は、落ち着かな気に立ち竦むダンサーたちを無視して、目を瞑った。身の振り方を考えるためだ。
悠の言う通り「キックバックを狙う下種を脅して三年間ウハウハ作戦」は実行不能だ。上手くいかない帰宅戦と失敗で焦り、目の前の餌に飛びつくような真似をしてしまった。大いに反省すべきだ。
キックバック作戦は、延期しよう。当面は、真面目に鍛錬を続けるしかないだろう。結局、政彦自身の武力が弱い間は、影響力も限定的だ。
もちろん、思考を止めるわけではない。平穏なり満足なりを獲得するためだ。
どんなロクでもない思い付きでも、必要と判断したなら、実行できるよう計画し、決心しなければならない。実行できるかどうかは、別の話だが。
風子から訓練を受け続けるとして、とりあえず、アプローチを変えてみるのもいい考えかもしれない。政彦は、無精ヒゲの男を、嫌々思い出した。