新しい朝
1
初めて帰宅戦に参加してから、三週間、政彦は歴戦の勇士を気取って、四度目の帰宅戦に挑もうとしていた。
まだ三週間とはいえ、陸上で体を鍛えていた政彦は、初日を除いて風子の訓練にもついていけていた。訓練生ではなく、サンドバックとして、ではあるが。
帰宅戦も更に二度に亘って経験している。捕獲されはしたものの、ボールにノックアウトはされなかった。その上、風子に仕込まれたお陰で、空手部員などを相手に死闘を演じられていたので、政彦は自信を持つようになっていた。
映画の登場人物なら、ニヒルにタバコでも喫いながら佇み、戦いとなれば活躍する、主人公より人気の出る脇役くらいには、強くなっているとみなしていた。
体に悪そうな趣味は持たない主義なので、政彦は、有害な煙を吸うような真似はしない。肝臓に悪影響を及ぼす飲料を摂取して、酩酊を楽しむ野蛮人でもなかった。法律や倫理以前の問題だ。
政彦は、視線を校門から、まだ明るい夕方の空に向けた。
心地よい風が頬を撫でる中、政彦自身に対し、ネイティブ・アメリカンの戦士が使う、とっておきの台詞を口ずさむ。
「帰宅するには、いい日だ」
「あんた、なに変な言葉遣いして黄昏てるの? 馬鹿なの? もしかして、カッコイイとか思ってる? うわあ、キモッ!」
いつのまにか隣にやってきた悠が、ポニーテールと首をゆっくりと左右に振ってから、吐き気を催すジェスチャーをした。
何が気に入らないのか、悠は政彦に冷くなる時があった。
「やあ、今から帰りか。奇遇だな、俺もだよ」
「なにをスルーしようとしてるの? 顔、超真っ赤だし、汗凄いし、大失敗してるわよ。あんたが恥ずかしいところ、思いっきり目撃したわ。ちなみに、あたしの後ろにも既に帰宅部員が集まってるからね。それと、今は放課後で、今日は帰宅戦の日なんだから、帰るに決まっているでしょ。って、あんた、一々ツッコミどころ多いのよ。鬱陶しい」
政彦は、脇から流れる汗と、恥ずかしい台詞を意識しないようにするが、悠は律儀にも、一々ツッコミを入れてくる。ある種の親切心や、真面目さの表れかもしれないが、迷惑な話だ。
「そういや、三島先輩もだけど、赤羽も帰宅部を辞めないのな。初回も前回も前々回も、帰宅に成功しているのにさ」
「あたしのツッコミを頑なにスルーした挙句、あからさまに話題を変えるとは、いい度胸ね。まあ、誤魔化しのためとはいえ、場に即した話だから、別に良いけど」
悠は帰宅戦直前なのに、既に脱力している。得物の競技用薙刀は、小指と薬指でしっかり保持できているところから見て、武術家らしく余計な力が入っていないだけのようだ。
「帰宅部を辞めないのは、そりゃ、楽しいからよ。坂道、砂利道、市街地、競技じゃ味わえない、実戦の妙が、帰宅戦にはあるのよ。競技武道だと、平坦でごみ一つ落ちてなくて、障害物もない床の上で、審判に守られて一対一でしょ。おまけに、同じ武道だから、相手の手の内もある程度わかるしで、緊張感がないのよ。それに比べて、路上は何が出てくるかわからない、ちょっと過激な玩具箱みたいなものなわけ。戦えもしないのに、精神論を振り翳す馬鹿もいないしね」
気を取り直したように鼻息を短く吐くと、悠は獰猛な笑みと共に理由を説明してくれた。
以前、肉食獣は、獲物を前にする歯を剥くと、政彦は聞いた。まさか、動物園ではなく、学校生活で見るとは思わなかった。政彦は都会に潜む危険を見つけた記者のような気分になった。
政彦も訓練で武器を手に入れてはいる。それでも、悠に比べれば、羊が山羊になったくらいなものでしか、ないのかもしれない。結局被捕食者でしかないのだろうか? 手の中の得物が、急に頼りなく思えてきた。
「そういや最上は、どうして竹刀で、しかも、二刀流なわけ? 部長から琉球唐手の武器術を習っているはずでしょ? てっきりトンファーか、棒あたりと思ったんだけど」
「ああ、俺もそう思ったし、三島先輩にトンファー術を教えて貰おうと思ってたんだ。カッコいいし、教えてやるって言ってもらったし。実際、先週まではトンファー術を教えて貰ってたんだが、三日前の朝起こされた時、大小の竹刀を渡されて。今日から使えって言われた。しかも、持つ手が逆なんだ」
政彦は、左肩に担いだ長い竹刀と、右手に握られて短い竹刀を、顎で交互に指示した。
「二刀流だけでも珍しいのに、逆二刀とは。益々珍しいわね。普通、右手に長い奴で、左手に短い奴でしょ。あんた左利きだっけ?」
「いんや、オーソドックスだ。逆宮本武蔵にでもなれっていうんかね。三島先輩なりの、考えがあるんだろうけど、俺に想像がつかないな。みやむーは実戦では二刀流を使わないで、身体操作の訓練のために二刀を練習してたらしいし」
政彦は、腕を組んで頭を捻ろうとするが、竹刀のせいで失敗した。
「時間だ。全員、準備はいいな」
風子が、手首の調子を確認するかのように、両手のトンファーを軽く振りながら現れた。
腕の振りと手首の返し、股関節の操作と足首の力で放たれるトンファーの威力は、素人目にも威力を想像させるには充分だろう。ホンの三週間とはいえ、武術の手解きを受けた政彦にも、良く理解できた。
もし、あのトンファーカーボンでなかったら、もし、金属製で、自分に向けられたら……政彦の背中と脇から、冷汗の滲む感触がした。
風子は、背は小さくとも、帰宅戦の戦姫と称すべき、威風堂々としたものだった。
政彦は、眩しいモノを見るように目を細め、逆二刀を奨めた風子の言葉を疑わないでおこうと心に決めた。
「ロンもちです。三島先輩。いつでも行けますよ」
政彦は、信頼を込めて風子にサムズアップを送る。両手の竹刀を、小指と薬指で器用に保持できていると、示してみせたのだ。
「さっきまで、頭ぁ捻りまくって奴の態度とは、思えないわね。なに媚びてんの? あんた、小物臭がきつすぎ。鼻が死にそうになるわね。後で、耳鼻科への通院代を請求するから」
政彦の風子に対する態度が、癇に触ったらしい。悠は、風子に目礼してから、顔の前でワザとらしく手を振る仕草をしている。ご丁寧に、鼻を抓みもしてもいた。
不快な仕草をする悠に悪態をつき、政彦は、風子に信頼を込めて大小の竹刀を掲げた。
「媚びてねーし。尊敬する部活の先輩に挨拶しただけだろ。部長、俺、今日こそ帰宅して見せます。部長から貰った、この二刀で」
「う、うん。フォローはしてやるが、無理はするなよ。今日が駄目でも、来週があるわけだしな」
テンションの高い政彦に話しかけられると、風子はどこか落ち着かな気に、目を逸らした。急に消極的な発言をする風子を、政彦は訝しく思った。
だが、気を取り直して、もう一度、声を掛けようとした。
「よおーっし、皆、帰宅戦だ! 気合い入れて行くぞ!」
風子は、先ほど政彦がしていたように、あからさまに目を逸らし、少し掠れた声で、気勢を上げた。
続いて悠が、競技用の薙刀を掲げる。人数が先週の倍以上に増えている上に、殺気立っている帰宅部員を、任侠の姐御よろしく煽りに懸かった。
「さあ、皆、楽しい帰宅タイムの始まりよ。皆殺しの雄叫びを上げろー!」
「うおー! やってやるぜ」
「今日こそ、帰宅を果たすぞ!」
煽られた帰宅部員は、歴戦の戦士がするように腕を突き上げ、ウォー・クライを上げていった。
帰宅部員の士気は、一部を除いて異常に高まっている。それというのも、帰宅部の新入部員は、皆、無理やり帰宅部員にされた者ばかりだからだ。
急に、部活改革なる施策が生徒会によって施行された結果だった。
つい一週間前の帰宅戦後、生徒会により、一部の弱小部活動は、一度は解体された。ただし、活動内容の見直しを生徒会に報告後、復活するはずだった。
帰宅部の新入部員は、元いた部を廃部にされ、他の部に入れなかった者や、一度は廃部にされた部活が復活する際、再入部を部長に断られた者ばかりだった。
実力の劣る者や、実力はあっても協調性が著しく欠ける者は、帰宅部に強制入部にされた。
端的にいえば、新入部員たち生贄と、元嫌われ者の部内不穏分子の集まりだ。
荒れもするだろう。政彦は、被害者に同情する振りをする、ありふれた女性のような感情を抱いた。
自分より憐れな連中を見て、他人の不幸とは、本当に楽しいなと、政彦はシミジミと思った。
この喜びで、一句を詠みたいところだが、政彦に俳句も短歌も、狂歌も川柳も、詠んだためしはない。帰宅部を退部できたら、歌の同好会にでも入ろうかと、政彦は実行する気のない予定を立てた。
「ぬふう、有志同盟の奴らに、目にもの見せてくれようぞ」
「左様、這いつくばらせて、我らに膝まづかせてくれるわ!」
「ほほほ、我ら三好三天狗を帰宅部に追いやった暴挙、後悔させてあげるわ」
元体育会系と思われる、二・三年生たちの中には、気勢と奇声が混ざったような声と、不可解な言葉を吐いている者もいた。
帰宅部員たちは、元気というより、狂気を感じさせる気勢で盛り上がっている。高校生とは思えないほど荒ぶる仲間たちを見て、風子は静かに笑みを浮かべた。
ならず者の傭兵部隊を率いる指揮官がするような、余裕ある笑だった。
風子は、ゆっくりと、トンファーを握る手を挙げた。
「総員、帰宅活動に、移れ!」
風子は、トンファーを握る手を振り下ろしながら、叫んだ。同時に、下校時間を告げるチャイムが鳴った。
顔をいからせた帰宅部員の群れは、一斉に校門へ殺到していった。
2
帰宅部員の中でも、健脚の持ち主たちが、校門前の坂を、先頭集団を形成して、駆け下りていく。続いて、風子と悠が率いる、本隊。更に、後でバラケル予定の後方集団が続いていた。
人数は、先頭が二十名、本隊が五十名、後方が九十名くらいだ。
政彦は本隊前部で、疾走する先頭グループの背中を見ていた。
両肩に長短の竹刀を担ぎながら、政彦はぎこちなく首を捻った。
「前の奴ら、帰宅部員の癖に、やけに足が速いな。鯖並だ」
「奴らは、元陸上部だ。それに、二年生も混じっている。ちなみに、腐っちゃいないぞ。性格が腐りやすいだけだ」
政彦の独り言風の疑問に、少し前を走る風子が、意外にもユーモアを混ぜて答えてくれた。
やはり、風子は政彦の目を見ない。走っているし、少しだが前にいるからでもあるにしろ、風子の様子が、政彦の目には、不自然に映った。
「そろそろ、いつものが来るぞ。散れ!」
悠が叫ぶと、バット、足、ラケットなどにボールが当たる音が無数に響く。まだ昼といっても通じそうだった空が、急に明度を下げた。
球技系部活動の部員によって行われる、帰宅阻止攻撃が始まった。
各種スポーツのボールがミックスされた、人工の嵐、いや、霰と称すべき、魔弾の雲が、次々と帰宅部員たちに襲い掛かる。先頭集団は速度を上げ、本隊と後方は散開した
頭を打つ者、地面で跳ねたボールが腹に命中する者が、散見された。
政彦は運よく、生き残っていた。
初週に気を失った、坂の半ばは既に過ぎ、坂の下が見えてきた。
住宅街への最短ルートである北に向かえば商店街、東から迂回すれば、公園、丘、更に東には、工場地帯があった。
「お、そろそろ商店街に入るぞ。ここからが本番だ。部長、気合い入れて行きましょう。今回は、俺、やりますよ」
「気合が入っているのは結構だが、口ではなく、体で証明してくれ」
風子は、喜びを抑えて声で、政彦を諭した。
恐らく、もうすぐ暴れられるという、状況のためだ。
風子も、悠と同じく闘争を好む性質のようだ。
無理もないかもしれない。薩摩武士に支配されていた頃の沖縄でもなければ、琉球唐手の技術を使う機会など、あるはずもないからだ。
帰宅戦の初週で、政彦は僅かだが風子のトンファー捌きを目撃している。
ボールを足捌きで避け、味方に向かったものは、トンファーで叩き落としていた。相当な修練を積まねば、できない芸当だ。
せっかく身に着けた技術なら、使いたいと思うのは人情だ。だが、路上で使えば、逮捕間違いなしときている。
帰宅戦は、風子のような、或いは悠のような、現代に生きる武術家にとってありがたいものに違いなかった。
どんな場所でも、楽しみを見出せる人間はいるようだ。政彦は嗜好や人生の多彩さの一端に触れられた気がした。
政彦が、物思いに耽っている数秒の間に、先頭集団は坂を駆け下り、商店街入口に差し掛かっていた。
三好町商店街、には「ホップスキップ通り」と書かれた看板が、アーチ状に架かっている。ただ、帰宅戦の日は、美術部謹製の「この門を潜る者、全ての希望を捨てよ」と、黒っぽい紫の地に赤い字で書かれた看板に、差し替えられていた。
きっと、書いた奴は無性に楽しかっただろう。
政彦がウンザリしていると、風子が声を張り上げた。
「本隊は商店街をそのまま北上、強行突破する。後方は東から迂回、住宅地へ向かえ。訓練通り、三人一組だ。以上」
「おう!」
「う~す」
風子の指示に、元気よく答える者と、そうでない者に分かれている。悠などの一部を除き、前者も後者も、無理やり帰宅部に入れられた口だ。
ただ、前者は怒りに燃え、後者は諦めと悲しみに支配されている。持って生まれた性質の違いが、顕著に出ていた。
怒りに燃える者のほうが、ずっと多く、仲間である政彦にとっては、幸運だった。
最後の、政彦に対するものと思われる発言は、悠の恨み言だ。
政彦は、帰宅を果たすためにも、悠の怒りを逸らすためにも、力戦を誓った。
「先頭集団が、敵と接触したぞ」
後ろの誰かが叫んだ。
先頭集団が、商店街の入口に入ってすぐ、左右の路地から、手に棒状のものを持った者たちが現れた。
「本隊、わたしに続け!」
風子の、指揮官然とした声が響く。先ほどまでの武術家らしい凜とした発声ではない。明らかに悦びの成分が多めに含まれていた。
戦いを楽しむ、肉食獣の声だ。
政彦は、風子に恐れを抱きつつ、訓練の成果に感謝した。
風子の声に悦びが混じる瞬間に、まだ三回しか立ち会っていない。だが、その変化を楽しめる者は、最初の帰宅阻止攻撃を凌いだ者だけだ。
帰宅戦が佳境に向かえば、風子の声は、更に高揚していく。帰宅に近づけば近づくほど、あの美しい声に浴する権利が得られる。小さい体に秘められた力と、男を自暴自棄にさせる声、双方を最高の環境で鑑賞するには、先に進むしかない。
政彦は、胸を高鳴らせながら、仲間たちとともに、商店街に殺到していった。
3
三好町の商店街は、田舎でありながら、広く、清潔で、愉快な場所だった。
田舎にありがちな、シャッター街と化した「なんとか銀座」のような、侘び寂びではなく、ただ貧相な虚しさしかないところとは違った。
レンガで舗装された、中央に桜が植えられた道の幅は、三十メートルにもなり、広々としている。清掃は行き届き、ゴシック風の街灯は、明かりが灯っていなくとも、風景として美しかった。
商店街西側にある川の更に西には、国道に繋がる私道と、近隣の住宅地や駅に向けてのシャトル・バス停車場まで、三好高校理事長によって整備されていた。
店は、若者向けの娯楽施設から、生活雑貨を幅広く扱う大型量販店など、近隣の商業施設及び小店舗を絶滅させるほど、多岐に渡る。中でも、道の広さに支えられたオープン・カフェの多さが、目を引いた。
目を引くというより、政彦の目の前に迫りつつあった。
興奮した様子で政彦たちを見ていた、老若男女の客たちは、顔色を変える。興奮を強める者、逆に青褪める者の二分されていた。
客たちの変化は、行動のほうがより多彩だった。
ただ目を見開いて硬直している者、飛び上がって店の中に素早く避難する者、近くの家族や恋人を守る者、無様に這いつくばる者など、だ。
中でも飛び切り不幸だった者は、逃げようか隠れようか迷っている間に、両の手に竹刀を持ったまま暴れ回る政彦と、正面から激突する羽目になった者だった。
「すいませんしたー! マジすいませんしたー!」
帰宅戦を観戦するためにやってきたであろう女性に、敵に囲まれて脱出を図る政彦は、勢いよく突っ込んでいた。
女性は椅子ごとひっくり返ってしまっていた。
椅子から転げ落ち女性は、倒立に失敗したかのように、壁に凭れている。真っ白な足の両膝裏と、黒いレースの下着を、展示物のように晒していた。
政彦は、普段、素直に謝ったりはしない。捻くれ者だし、謝って許してもらえる確率が低い男だったからだ。
だが、黒髪ロングに白いワンピース、麦わら帽子姿の楚々とした女性を「あられもない姿」として、博物館送りにできそうなほど見事に辱めた身としては謝る他なかった。
もっとも、帰宅戦を観戦する以上、危険は承知しているはずだし、怪我をしても治療費も慰謝料も出す必要がないと知っている。店の修理代も、政彦個人に支払い義務はない。帰宅戦の後援者である、好高校理事長が持ってくれる。
口先で謝るくらいなら、いくらでも謝ってやるつもりだ。ただし、相手が納得するかどうかは、政彦は関知しない。
「なにを転がってるのよ、最上、最上政彦。そこの、ワンピースの女性にぶつかった、七三クソ眼鏡の最上政彦。三好高校普通科一年二組の最上政彦。さっさと立ちなさいよ」
競技用薙刀で、カーボン製の銃を構える銃剣道部員をKOした悠が「そこの女性を辱めたのは、最上政彦という男です」とアピールしながら、政彦に近づいてくる。
「名前を連呼するな。俺がなにをしたっていうんだ」
女性に名前を憶えられては堪らない。政彦は、少林寺拳法部員の側頭部や脛を、竹刀で打ち、オープン・カフェを脱出する。
「かなり最低の行為をしてたでしょうが。女の子のパンツを晒すなんて、何を考えてるのよ」
「事故だ。俺のせいじゃない。それにしても、下着は黒なのな。全身、白かと思ってたのに、裏切られた気分だ」
自分を敵視する空気を読まず、政彦は反論をする。すると、後ろから被害者の女性が抗議の声を政彦にぶつけてきた。
「この痴漢。下着まで白だと、透けるからよ! 毛とかが!」
「なるほど。勉強になったよ……剃るって手はないの? ボーボーのままより、いいんじゃないかな」
雑学を教えてくれた女性に、政彦はお礼の意味を込めて、一つの解決策を提示した。
反応は散々だった。
「死ね! 不治の病に侵されて、親兄弟に見捨てられて死ね!」
「サイテー」
「ブログに書いてやろうぜ。最上なんだっけ?」
「最上政彦だってよ。晒してやれ」
反論は許されそうもない正当な雑言を、女性と周りの客から浴びせられながら、政彦は駆け出す。
口で嫌がらせをしつつ、援護もしてくれる悠と合流し、北を目指して走り出す。途中、囲まれ、苦戦する味方を見るが、助ける余裕は少ない。下手に立ち止まれば、敵の餌食だ。
それに、三人一組と言いながら、先行しがちな風子に、追いつかなければならない。一応、政彦を気にしてくれているようで、たまにフォローもしてくれていた。
だが、段々とヒートアップしてきたようで、今は背中を追いかけるのに精一杯だ。意外に面倒見のいい悠がいなければ、とっくにリタイアしていただろう。
もし、早めに捕獲されていれば、先ほどの女性に訪れた悲劇はなかったかもしれない。政彦は、罪を犯さざるを得ない立場に追いやられた男を描いた、刑事ドラマの主人公のように、運命の妙に感じ入った。
「ほら、急ぐ急ぐ。南部を抜けたら、少し休めるよ」
悠は、嗄れ始めた声を張り上げて、政彦と、まだ従いてこられている十数名の仲間を励ました。
商店街は北部と南部で境界が敷かれている。有志同盟所属の子各部活は、担当区域が明確に分かれているため、南部担当の部活動は、北部での帰宅戦に参加できない。北部と南部の境には、二十メートル四方の中立地帯があり、休憩ができる状態になっていた。
中立地帯では、最大十五分休憩ができる。一度の帰宅戦では、入れるのも出るのも一回だけなので、最大限に活用する必要があった。
政彦は前回、中立地帯寸前で捕獲されていた。今回はなんとしてでも、辿り着いていやると、決意した。
「おい、援護してやる。さっさと中立地帯に滑り込め」
一人前に出ていた風子が、ワザワザ戻ってきてくれた。汗は滝のようだが、肩で息はしていない。目の輝きは、強い戦意を示していた。
南部では今回、集団で突きと打ち下ろしを仕掛けてくる銃剣道部と棒術部、打撃と立関節技で接近戦を担当する少林寺拳法部と合気道部が中心の組み合わせだった。
四つの部活動は、合気道部を除いて、いいところ中規模だが、練度は高い。他にも、中小の部活動がサポートに回っており、戦うにはかなり厳しい組み合わせなはずだが、流石は帰宅戦慣れした風子だ。先行していながら、戻ってこられるだけの余裕を維持していた。
「よーし、俺に続け」
風の来援に気を強くした政彦は、後ろを振り返り、偉そうに命令を下す。悠を筆頭とする帰宅部員たちが「なに様?」と眉を寄せる。政彦は不愉快な視線を受けながら、バーゲン・セールでワゴンに殺到する、飾らない淑女たちのような真摯な気持ちで、中立地帯へ駆け込んだ。
4
初めて中立地帯に辿り着いた政彦は、いち早く木製のベンチに倒れ込んだ。
涼やかな風が吹き、政彦の頭と汗を冷やす。まだ商店街南部で戦っている者たちと、東の迂回路に回った後方グループの連中が奏でる戦闘音楽を聞きながら、大きく息を吐く。別界のようだ。
政彦が、人生に疲れたサラリーマンを意識して項垂れていると、不意に、声が掛けられた。
「家庭科部で~す。レモネード、いかがですか? スポーツ・ドリンクも、レモンの蜂蜜漬けも、ありますよ」
横を見ると、大きなクーラー・ボックスを肩で吊り、バッグを背負った女生徒が立っていた。
女生徒は制服の上に「家庭科部」と黒字で刺繍された赤いエプロンを着て、同じく赤い三角巾を巻いた三好高校の女生徒が、政彦の顔を覗き込んでいる。昭和の女学生のように長い黒髪を三つ編みにしている女生徒は、垂れ下がった目とソバカスのため、柔和な印象を強く政彦に与えた。
今時こんな女生徒がいるのかと、政彦は感心し、同時に今いる場所に気が付く。すぐに女生徒へ質問した。
「え、なに。ここ、中立地帯じゃないの? なんで他の部活の人間がいるんだ」
政彦は慌ててベンチから立ち上がり、女生徒から距離をとった。
「あれ、知らないんですか? つい先日、生徒会から、帰宅戦に参加しない文化系の部活動に、営業許可が出たんです。場所は一部の中立地帯だけですけどね。ここの他にも、公園とか工場地帯とかで、わたしたち家庭科部や料理部、清涼飲料水研究会が、店を出してるんですよ」
女生徒は「ニッコリ」と、音が出そうなほどの笑顔で、政彦に説明した。
「なんだ、そうなのか。生徒会も味な真似をするね。料理だけに」
「ふふふ、上手いですね。上手いついでに、美味しい飲み物と食べ物はいかがですか?」
得意気に冗談を言う政彦に、女生徒は上手い返しをしてくる。政彦は苦笑しつつ、財布を取り出した。
「商売人だね。じゃあ、レモネード、それから、レモンの蜂蜜漬け。いくら?」
女生徒は、クーラー・ボックスとバッグを道路に置いて、中からレモネードと紙コップ、タッパーに入ったレモンの蜂蜜漬けを取り出した。
小さな紙コップにレモネードを注ぎ、手の平サイズのタッパーと共に、女生徒は政彦に差し出した。
「はい! ありがとうございます。合わせて、五千円です」
「はいはい、五千円ね……って五千円? この、ちっちゃい紙コップに入ったレモネードと、一辺が四センチくらいのタッパーに、数切れしかレモンが入っていない蜂蜜漬けが? 値段の桁、間違えてないか」
政彦は、紙コップとタッパーを前に、何度も首を往復しながら、女生徒に正当な抗議をした。
「間違いないですよー。ほら、ここに値段が書いてあるでしょう? はい、虫眼鏡をどうぞ」
女生徒は、クーラーボックスの蓋に貼られた、小さな紙を指さす。
政彦が手渡された虫眼鏡で覗くと、米粒に書けるくらい小さな文字で書かれたメニューが確認できた。
メニューの値段は、非常識なまでに高く設定されていた。
レモネード千円。レモンの蜂蜜漬け四千円。スポーツ飲料二千円。バナナ一本八百円。ゼリー千二百円などなどだ。
政彦は、酸欠に似た眩暈に襲われながら、抗議を続けた。
「映画館の売店どころか、富士山の山小屋に置かれた自動販売機すら、可愛く見える値段設定じゃねーか。飲み物と果物だけで、非常識なレベルの豪華なランチが食べられるぞ。それともなにか、俺の知らないところで、第一大戦後のドイツみたいに、ハイパー・インフレでも起きたって言うのか?」
「いやー、そう言われましても、うちはこの値段でやらせて頂いてますんで」
女生徒は、会計直後の、悪徳キャバクラ従業員のような態度をしている。
「ふざけるな! 適正価格ってものがあるだろ! 常識で考えろ」
政彦は唾を飛ばしながら、労働組合のアジテーターのような強い態度で、抗議を続けた。
抗議を受けた女生徒はしばし俯くと、舌打ちを一つして、不意に三つ編みを解いた。
急に何をと注目する政彦に、女生徒は首を振ってウェーブのかかった長髪をなびかせてくる。
政彦が思わず後退りすると。女生徒は顔を上げ、荒んだ三白眼で睨み付けてきた。
「あ? しゃーしわ、ダボが。なに眠たい台詞ぅ吐いとるじゃ、おうコラ。ここがどこだか、理解した上で、うちに、うちらにイチャモンつけとうか。おう? よか度胸じゃ。おんしら、出てこい」
ほんわか田舎娘といった雰囲気は一瞬で吹き飛び、日本最凶と名高い、九州ヤクザのような喋り方をしている。女生徒は、悪徳商人が用心棒を呼ぶ際にするように、手を二回叩いた。
政彦が戸惑っている間に、東西の路地から、手に手に、武器になりそうな料理道具を携えた男女が現れた。
「どうしたとですか。姐やん」
二メートル近い、腹の出た料理部員が、両手に包丁を持って現れた。スカートを穿いているところから考えて、恐らく女生徒と思われるが、あまりの巨体故に、政彦には完全には判別できなかった。
「おう、こいつが、売り物ぉ受け取っておいて、金ぇ払わんっていっちょるのよ。どげんしたもんかと、思うてな」
小売り店の垢抜けない新人店員のようだった女生徒は「姐御」と称すべき貫録で、部下を率いていた。
「ぬしゃあ、わしら家庭科部のシマで、随分はのぼせた真似してくれやっとのう。ええ覚悟しとるな。姐やん、わしにやらせてくんしゃい。きゅうは出刃の調子がよかやろから、ええごとができますばい」
「姐やんに恥ぃ掻かせるような奴は、ワシの俎板でド頭ぁカチ割ったるわ」
女生徒改め、姐御の後ろから、家庭科部のエプロンを着た二人組が前に出てきた。
一人は二メートル近い巨体で、マグロ解体用の長大な包丁を両手で握っている。もう一人は百四十弱と逆に小さく、側面に筋金の入った俎板を、両手に持っていた。
両極端な二人の家庭科部員は、どちらも目に殺気が籠っているところは、共通していた。 冷静でありながら、集中と鎮痛を促す脳内麻薬を出すために興奮もする、武術家のような、熱い氷とでもいうべき殺気ではない。町のチンピラが見せる、最低限の制御すら怪しい、ただ殺伐とした暴力衝動だった。
恐れおののく政彦を一瞥すると、姐御は突然、巨体の脛とチビの頭を打った。
「阿呆が、なにを勝手に前に出とうとか! いやー、御免ね。おいがつい、大きな声ぇ出してしもうたから。こいつら、おいのためなら、退学も怖わくなかって奴らばかりでね……トコで、お兄やん。勘定は、まだじゃったね?」
瞬きをしない姐御の目に射竦められ、政彦は余計な一言を口に出す発想すら起きず、財布を開こうとした。
「そこまでだ。最上、品物を返せ。金は払うな」
政彦の背後から、風子の落ち着いた声が聞こえてきた。
「げえ、三島風子」
「トンファー無双の風子やなかか」
姐さん後方の家庭科部員たちは、動揺の声を上げた。
「その名前で呼ぶな」
部長、二つ名とかあったんだと、政彦は感心しつつ、むず痒い思いがした。格好悪かったからだ。
呼ばれた風子も、不満を表明している。顔が上気している理由は、格闘戦をしていたからという理由だけではなさそうだ。
「これは、帰宅部長の三島さんじゃなかですか。なんが気に入らんのかは知らんですけど、部活動の邪魔は、せんでもらえます?」
姐御は渋い顔をしつつ、風子を睨み付ける。政彦に対するより、幾分怯みが見えた。
風子は、凄む姐御を真正面から見据えた。
「部活動? お前たち行為は、商売だろう。しかも、悪質な。話は聴いていた。うちの部員に吹っかけるつもりなら、生徒会に報告させてもらうぞ。それが不服なら、次回の帰宅戦の参加しろ。相手になってやる」
風子の言葉を聞いて、政彦は、先ほど姐御が言っていた「生徒会から営業許可が出た」という主張を思い出した。
聴いていたという風子の言葉に、政彦はもう一つ気が付く。どうやら、ベンチと桜並木の陰に隠れて政彦を助けに入る、ベストなタイミングを窺っていたようだ。
風子は、特撮ヒーロー的なものに、憧れを持っているのかもしれない。助けに入ってもらっておいて勝手を言わせてもらえば、様子を窺わずに、もう少し早くきて欲しかった。
政彦は、恐怖でマヒしていた頭が冴えていく感覚と、冷めていく興奮とを同時に味わっていた。
「それは勘弁してくんしゃい。さっきのは値段は、ホンの冗談ばい」
姐御は、慌てた様子で風子の機嫌を取ろうと、引き攣った笑いを浮かべている。反応から見て、やはり無許可営業だったようだ。
よく考えたら当たり前だ。あんな非常識極まる価格設定で、許可が下りるはずはない。いつの間にやら姐御は、家庭科部長の女生徒に戻っていた。
女生徒の後ろでは、大小の舎弟改め家庭科部員が、女生徒の左右で髪を三つ編みにし、三角巾を着けさせている。芸が細かいところは、流石に家庭科部だなと、政彦は皮肉な思いで笑った。
よほど生徒会が怖いのか、それとも風子が怖いのか。
「そうか、なら、適正価格はわかっているな?」
「もちろん。レモネードとレモンの蜂蜜漬けですね。合わせて四千五百円で結構です」
女生徒は値段に未練があるようだ。風子の問いかけに、一割引きで答えている。
風子の眉が僅かに痙攣する。なにを意味するかは、付き合いの短い政彦にもわかる。もし怒りでなければ、なにかはわからないが。
「五千円でいいから、バナナとスポーツ飲料もつけろ」
「もう、帰宅部長さんは商売上手なんですね。しょうがないですね。五千円でいいです。サービスですよ」
意外にも、風子から譲歩が示され、女生徒に受け入れられた。
どのみち高くないかと、政彦が不満に思う間もなく、成立した交渉は、実行へと移されれいた。
「よし、受け取れ。五千円だ。勝手に貰っていくぞ」
「毎度ありで~す。ってあれ?」
風子は、女生徒の担いでいたバッグとクーラー・ボックスを持って、中立地帯に辿りつつある味方の元に向かっていった。
慌てて止めようとする女生徒を、風子は凄みの利いた一瞥で押し留めた。
立ち尽くす家庭科部員たちを尻目に、風子は威風堂々と去って行った。
十数名の栄養補給で五千円。なるほど、適正価格だ。
風子は、中立地帯に入った帰宅部員たちに、クーラー・ボックスとバッグを渡し、スポーツ・ドリンクとバナナで水分と栄養を補給している。腹がもたれないよう、少しづつ食べる様は、戦慣れした軍人のようだ。
「やあ、そこにいるのは、味方を援護しないで真っ先に中立地帯に逃げ込んだ、最上政彦じゃないの。部長のオゴリは貰った? あっちで配ってるわよ。あんたと同じくらいしょっぱいレモンも、蜂蜜漬けだから、美味しいわよ」
クーラー・ボックスに、レモネードを取りに行こうとする政彦に、スポーツ・ドリンクを飲む悠が、棘のある声で話しかけてきた。
「大きな声で、外聞の悪い話と絡めて俺の名前を喧伝しないでくれ。それと、レモンは、しょっぱいんじゃなくて酸っぱいんだ。クエン酸の効果でね。部長からの振る舞いは、これから貰いに行くところさ。一応、ワザワザ知らせに来てくれてありがとうと、言わなければいけないかな?」
政彦はついでに「汗で首筋に張り付いたポニーテールと制服が、セクシーだね。でも、もう少しボリュームが欲しいな」などと言ってやろうかと思った。
でも、賢明にも口にしなかった。セクハラはよくないし、中立地帯で競技用薙刀を振り回したら、失格になるのではないかと、心配したからだ。
決して、悠の武力を恐れたからではない。「礼を言いたければ、言えばいいんじゃない? あたしは、あまり困らないわ。むしろ、あんたの嫌らしさ百パーセントの視線に困っているところよ。眼球を抉っていい?」
「目をほじくる許可を眼科医以外にする奴がいたら、この目で見てみたいね」
凝視しているとバレたので、政彦は遠慮せずに悠の胸元に視線を這わせた。堂々としていれば、嫌らしく思われないはずだ。
「ピンクのレースか……意外に可愛いじゃないか。膨らみ加減は過熱していないポップコーンみたいだけど、赤羽から初めて、女を感じたよ」
口に出した瞬間、政彦は、我ながら最低だなと思ったが、既に遅かった。頼みとすべき味方に、何を言っているのだろう。政彦は、鴻毛よりも軽い己の口に、絶望的な気分になった。
なんとなしに楽しいので、反省も後悔もしていなかった。救い難い性格だと、政彦は頭上に迫りくる悠の競技用薙刀が作る残像を見ながら、ニヒルに笑った。
「最上、セクハラしてないで、飲んで食べろ。お前が中立地帯にいられる時間は、あまり残っていないはずだぞ。悠も栄養を取って休め。体をほぐして、筋肉を休めておけ。こんな奴でも戦力だ。最上への制裁、いや、反省会は、後日にしろ」
風に、千切れた数本の毛が吹かれ、中を舞う。
悠の競技用薙刀が政彦の命中する寸前、風子が冷たい声と「不本意」と書かれたような顔をして、止めてくれていた。
セクハラ発言を聞かれたらしい。風子の誤解、ではなく、正解を解かなくてはならないなと、政彦は日本語に自信をなくしながら考え始めた。
体育会系部活動における反省会とは、言語か肉体、あるいは双方に対して行われるリンチに等しい。帰宅部が体育会系かどうか、議論の余地はあるが、安心はできそうもなかった。
政彦は戦慄しつつ、逃れる術はないかと、脳内のデータベースを調べ始めた。
見つかるはずもないので、すぐに諦める。政彦は、神がかりに等しい、日本的努力至上主義者ではない。努力しても、持っていない情報を脳内から引き出すなど、不可能だ。
政彦は、チビチビと小鳥のようにレモネードを啜り、甘じょっぱいレモンの切り身を食んだ。
一人でベンチに座る政彦に対し、他の部員は談笑している。半ばとはいえ、帰宅戦を共に乗り越えつつあり、結束が強まっているようだ。
失敗したなと、軽く後悔をしながら、政彦は空を見上げる。しばし、赤くなりかけた空に首を固定した。なぜか、政彦を恨みがましく睨み付ける家庭科部員たちの視線から、逃れるためだ。
気まずさに耐えられなくなった政彦は、できるだけ自然な動作で、顔を家庭科部の逆方向に向ける。中立地帯と商店街北部の境に立つ風子の背中が、目に入った。
風子は、すでに栄養補給を済ませていて、政彦と悠を待ってくれているようだ。
もしかして悠だけかもしれないが、政彦は風子の責任感に期待した。急いで飲食を済ませ、風子の隣に並ぶ。
「準備万端、いつでもいいですよ」
政彦の自己評価では、爽やかな笑顔を浮かべ、風子にサムズアップを送る。親しみの印は、京風の懐石よりもあっさりと無視された。
きっと、戦いを前に精神統一をしているのだろう。政彦は精神の安定を守るため、風子の態度を、都合よく解釈した。
「部長、お待たせです。そろそろ、行きます?」
悠が口を動かしながら、政彦と風子に合流した。
恐らく、悠は風子だけと合流したつもりだろう。だが、政彦は敢えて、心の中の判断に訂正を加えなかった。
「よし、行くぞ。赤羽……それと、そこのお前」
政彦に対する風子の二人称が変化していた。
女の涙はイージスの盾であり、ネプチェーンの鉾だが、男の涙は価値のない塩水でしかない。だから、男は泣かないものであるという昔からも価値観は理解できる。
しかし、憧れを抱いた先輩に軽蔑された時くらいは、泣かせてくれてもいいのではないか。たとえ、自業自得であったとしても。
5
政彦は、美化された昭和の男がするように、涙を堪え、商店街北部へ打って出る。風子の背中が、南部での戦いのときよりも遠くに見えた。
悲しんでばかりもいられない。商店街北部の半ばに差し掛かろうとした時、左右の路地から有志同盟の部員が現れた。
身構える政彦だったが、敵は攻撃してこない。政彦は忙しなく首を左右に振って罠かと警戒した。
風子は僅かに眉を寄せ、悠はあからさまに顔を顰めた。すると、一人の角刈り男が、木製の分銅鎖を振り回しながら、敵の群れから現れた。
「俺は、分銅鎖部長、長良英一だ。南部の同志たちを振り切ったようだな。褒めてやろう、貴様らの健闘を。そして!」
角刈り男は、芝居がかった大げさな仕草で笑いかけ、突然、目を大きく見開き、叫んだ。
「悲しんでやろう。貴様らの最後を! やれ!」
号令が懸かると同時に、周囲から分銅鎖が、政彦たちに投げつけられた。
「帰宅戦は芝居をするところじゃないですよ。先輩ら、いつから演劇部になったんすか?」
政彦は悪態をつきながら、とっさに竹刀で鎖を弾く。
すぐに失敗に気が付き、舌打ちをする。鎖が竹刀に巻き付き、身政彦は動きが取れなくなってしまった。
「ああもう、油断した」
横を見ると、長柄持ちの悠は、政彦よりも深刻に鎖の制約を受けていた。
「ふはははは。馬鹿め。分銅鎖に得物を絡ませるとは、とんだ素人だな。貴様はそこで、竜巻トンファーが捕まる様を見ているが良いわ! 者ども、奴を倒して名を上げろ!」
変な日本語になるけど、部長の二つ名は、一つでないんだな。政彦は変に感心した
角刈り男は気分よく哄笑している。だが、肝心の風子は、分銅をトンファーで弾き、軌道を変えていた。
「その名で私を呼ぶな」
「つ、強い」
自分に与えられた二つ名が気に入らないらしく、風子はかなり手酷く角刈り男をトンファーで打倒す。返す刀で、いやトンファーで、政彦と悠を鎖で封じていた分銅鎖部員たちも、当たるを幸いと薙ぎ倒していった。
「三島部長、ありがとうございます。よっし、もう距離とタイミングは掴んだわよ。覚悟しなさい」
悠は風子に礼を言いながら、競技用薙刀を上段に構え、うろたえる分銅鎖部員に突撃していった。
「さすがです、部長。さながら、トンファーの竜巻のようでした」
政彦も感嘆と感謝の声を上げる。すると、風子は、角刈り男に向けていた視線と同じ熱量で、政彦を睨んできた。
やはり、風子にとって二つ名は地雷らしい。無理もない。家庭科部も分銅鎖部も、ネーミング・センスが悪すぎる。政彦は、不機嫌になった風子の視線を振りきるために、悠の背中を追って、分銅鎖部員の群れに飛び込んだ。
「さあ、敵の増援が来る前に、さっさと鎖野郎どもをぶちのめしてやりましょう!」
政彦は、動揺する分銅鎖部員たちを、竹刀を振り回し、叩きのめしていった。
分銅鎖部の大半を倒したところで、商店街北部担当の部活動の増援が、次々と現れた。
「吉田の奴、分銅鎖部だけで、帰宅部どもを捉えると言っていたくせに、他愛いもなくやられるとはな。情けない奴だ」
黒胴衣の両肩をワイルドに破った坊主の頭の男が、太い眉をいからせ、割れ鐘のような声で、分銅鎖部を罵った。
「ふん、しょせん奴らは、我ら北部で指揮を執る、四つの部活動中では最弱。トンファー無頼の風子の首を挙げられたら、我らの指揮権を預けよと、大言を吐いておいてこの体たらく。数が多いだけの、猿山の大将か」
新選組の隊服を着た、長身で長髪の女性が、不健康な顔色で、商店街北部の有志同盟における分銅鎖部の立ち位置を、なんとなく説明してくれた。
腰に刀を差しているが、恐らく鞘付竹刀だろう。帰宅戦用に作られた湾曲した竹刀を、プラスチックでコーティングしたものだ。
「所詮、その程度の男よ。帰宅部の鼠どもめ、我らを分銅鎖部の雑魚どもと一緒にせぬようにせい。さもなくば、瞬きする間もなく、地を這う羽目になるぞ」
真紅の鎧を身に纏ったハスキーな声の女性が、続いて罵る。カーボン製の槍を、歌舞伎役者のように大げさな動作で振り回し、クマの濃い目で、政彦たちを威嚇していた。
敵が示すキャラは、無駄に濃かった。
政彦は、胃を悪くしている際に、使いまわしの限界を越えた油で揚げられた、ロース・カツレツを出されたような気分になった。
「あの、部長。あそこで腕を組んでいる、無駄にキャラの濃い三人は、どこの病院から逃げてきたか、わかりますか? 通報しますんで」
「ここは三好町だ。大きな収容施設は、北畑病院にしかない。だが、奴らは、今のところは、患者ではない。将来はわからないが、な」
深刻に話しかける政彦に、風子は同じようなシリアスな顔をして答えた。
「いやいや、三島部長まで、このセクハラ馬鹿と同じノリで、しないでくださいよ。真面目にお願いします。それとも、部長も知らない相手なんですか?」
呆れ顔の悠が、政彦をディスりながら、風子を諌めた。
「そうだぞ。俺たちは部長だから、会議とか、ちゃんと出るし。筋トレも蛋白質補給も計画的だし」
「生意気な後輩がいても、ちゃんと指導するし。隊服は、わたしの手縫いだし」
「活動報告書もちゃんと提出してるし。この鎧も、ダンボールに紙を巻いて糊で固めて塗装した力作だし。部員は少ないけど、アットホームで、笑いが絶えない部活だし」
悠に便乗する形で、テンションを下げた有志同盟の三人が、端的に抗議してくる。一人だけ求人誌の常套句を言っている者が、政彦は少し気になった。
気になっただけで、詳しく聴く気はないが。
「なんだか釈然としないが、すまん……あー、気を取り直して、真面目に説明する。黒胴衣がグローブ空手部長、新選組と赤備えは、それぞれ第一、第二歴史研究部長だ」
「第一、 第二? 歴史研究部は、二つあるんですか? 統合すればいいのに」
政彦が何気なく呟いた正論を聞くと、歴史研究部の両部長は、口をへの字に曲げ、眉を寄せた。
第一歴史研究部長が、政彦に抗議の声を上げた。
「聞き捨てならんな。我が第一歴史研究部は、誠に殉じた男たちの生きざまを後世に伝える活動を、学校創立のころから続けている。チンピラ・ヤクザのような戦国武将をやたらと美化し、持ち上げる第二の連中と、一緒になど断固なれるものか」
「前半はともかく、後半は同意だ。ホモ趣味の貴様ら第一とは、違うんだ。我ら第二歴史研究部は、戦国時代の考証を行っている、真面目な部活動だ。この鎧の作り方も、本物に準じているしな。木や鉄の板をダンボールで、漆を糊で代用しているが、実際に雑兵用の鎧は、簡易な造りだったのだ。現在は、本格的な鎧の製造のために、小札の量産化を進めている。新選組のコスプレ集団と一緒にされたくないな」
第一歴史研究部長が、人差し指を向けて罵倒すれば、第二歴史研究部長は、腕を組んで受けて立つ。しばし、周囲の者たちを無視して、二人は鼻がくっつきそうになりながら、怒鳴り合いを続けた。
「なにをいう、ホモ趣味はそっちだろう。戦国時代は男色の話多過ぎだ。それと、コスプレとは違うぞ。われら第一は、天然理心流の稽古を、自主的にしているのだ。帰宅部の前に、貴様を刀の錆にしてくれようか」
「戦国時代の男色は、結束のために必要だったの! たまにもつれて、殺し合いになるけど! それより、沖田も斎藤も美形でないという史実並に、不都合な真実を指摘してあげる。お前ら第一の天然理心流は、コスプレは余所でやれって、宗家から入門を断られたから、しかたなく見よう見真似で作った紛い物だ。偽の技術で、竹刀の錆にできるものなら、やってみるがいい」
「言ったな! その玩具みたいな槍を構えろ。我ら第一歴史研究部一同が頑張って作った天然理心流の恐ろしさ、とくと味わうがいいわ!」
「ふん。貴様のなんちゃって天然理心流、もしくは人工理心流など、我らの敵ではない。味わおうにも、無味無臭のフェイクでは、不可能だ。師範を派遣してもらってまで修得した、尾張貫流槍術、操出槍の威力、思い知らせてやる!」
「何が尾張貫流よ。赤備えは武田なのに、どうして尾張なの、おかしいでしょうが。頭が終わりって意味? 己を良く知っているようね。ウケルわ」
最初の時代がかった話し方を、少しづつ地の喋り方に戻しながら、二人は言い争いを続けている。
「おい、止めろって。皆が見てるだろ」
「いいぞー、やっちまえ。勝ったほうが正義だー」
慌てたグローブ空手部長が止めに入るが、すかさず政彦は煽りに入る。悠のの「うわぁ」と言いたげな顔は、可能な限り無視した。
「あんた、なに煽ってるのよ。話が進まなくなるじゃないの」
「いや、あれだ。離間の計だよ。仲間割れさせたほうが、やり易いだろ。なんとなく面白そうだからって理由じゃないよ。本当だよ。ハハッ」
それでも流石に気になったし、怒り顔の悠が口を出してくので、言い訳はしておいた。
政彦の誰も信じていない言い訳をよそに、二人の歴史研究部長は、まだ、しつこく言い争っていた。
「あんたって、いつもそう。せっかく同じ高校に入れて、同じ歴史研究部で活動できると思ってたのに。第二に行っちゃうし。そんなに戦国が好きなの? どうして幕末じゃダメなの?」
「幕末がダメってわけじゃない。歴史を広く探求してこそ、歴史研究部でしょう。貴方が第一で幕末を専攻するなら、わたしは第二で、戦国時代を中心にした、より広い範囲で歴史を楽しみたいの。後、鎧とか着たかったし」
「いい加減にしろ。今は帰宅戦の最中だぞ!」
ついに、二人の歴史研究部長は、互いの胸倉を掴み合う。グローブ空手部長がすかさず割って入るが、両側から顔を引っ掻かれ、苦戦している。
政彦は、グローブ空手部長の手が、第一歴史研究部長の胸に当たる回数を数え、三回目を目撃してから、行動に移った。
「ファイ! ドゥーイット! ドゥーイット!」
「煽るなって言ってるでしょうが! どう収拾つけるのよ」
両手でメガホンを作って煽る政彦は、後頭部を悠の手刀に叩かれて制止された。鈍痛がしてふらついた。
だが、面白かったので、反省は一切しない。ただ、風子の、殺気すら籠る、射るような視線を受けては、やり過ぎたと、政彦を後悔させた。
更に数分の言い争いの後、グローブ空手部長に諭された二人の歴史研究部長は、無理やり握手させられている。小学生を仲直りさせる小学校の担任のようだと、政彦は、グローブ空手部長に同情した。
二分か三分間、二人の歴史研究部長は髪を整え、衣服の乱れを直し、鼻をかんで立ち直る準備をした。最初の登場時より、距離の開いた位置に立つ三人は、再び帰宅部員たちに向き直った。
「待たせたな、諸君。では、再開しよう。一心不乱の帰宅戦を! さあ、ショータイムだ!」
必死に場を盛り上げようと、声を張り上げるグローブ空手部長だった。
しかし、場は冷え切り、皆が白けている。宣言は熱っぽいものだったが、シベリア並に冷えた空気の前では、ただ、雲散霧消するしかなかった。
義務感で構えた武器と、衣擦れの音はチラホラとするが、どうにも居心地が悪かった。
「ねえ、最上、この空気、なんとかしてくれない。あんた、得意そうじゃないの。空気を読まずに発言するとか」
悠が、助けを求める成分半分、詰る成分半分な声で、政彦に無茶な振りをしてきた。
「いや、俺に言われてもなあ。こう見えて常識人なんだ」
「あんたとの付き合いは一ヵ月もないけど、常識人ではないって、流石にわかるわよ」
「いや、俺は間違いなく常識人さ。常識の範囲で行動してるんだからさ。基準は俺のだけど」
「自己判断の常識? グッド・ニュースね。この世に非常識な人間はいないってわけ」
悠は、アメリカの報道番組で政治家に詰め寄る司会者がするように、嫌味ったらしく口を曲げ、大げさに首を振った。
「そうだ。皆、自分なりの常識で生きてるわけさ。不自然でも、なんでもない。ただ、客観性が伴わないだけだ」
「ああ、そう。じゃあ、あんたの常識の範囲内でいいから、さっさとこの状況をなんとか処理してくれる?」
「必要ない。空気を読まないなんて芸当は、俺の専売特許じゃないんでね」
政彦は、指先で悠の視線を誘導してやる。指の先には、痺れを切らした風子と、自分たちの醜態によって発生した空気を払拭しようと思ったのか、二人の荒れ狂おうとしている歴史研究部長が、まさに激突せんとしていた。
6
一人、地を這うようにして飛び込んでいく風子に釣られて、帰宅部員たちが、得物を掲げて突撃を開始する。一歩遅れて、有志同盟の部員たちが、それぞれグローブを構え、柄に手を掛け、棒と管を持ち、迎撃の武器を振るい始めた。
あっという間もなく、乱戦となった。
「なるほど。いいわね。フラストレーションが溜まってたのよね。発散と行きましょうか」
悠は、ほっと安堵しつつ、同時に興奮する器用さを示しながら、戦いの渦中に飛び込んでいく。
「今回は相手が楽そうだ。二刀流の練習台にしてやる」
政彦は背後を守る振りをしながら、競技用薙刀を縦横に振るう悠を、盾にする。セコイが堅実な手段で、人の波に対処していった。
初めこそ、風子の指導を思い出しながら、政彦は長短の竹刀をテンポよく振るっていた。短い竹刀でグローブ空手部員の顎を打ち、長い竹刀で歴史研究部員の竹刀を払い、両手の竹刀を細かく動かして、操出槍を牽制する。
ところが、時が経つに連れ、滅茶苦茶に振り回すばかりの、無様な動きになっていく。ちぐはぐな動きに四苦八苦している政彦を、風子や悠が、たまにフォローをしてくれた。
風子は気まぐれに、悠は一々舌打ちでビートを刻みながらではあったので、素直に感謝しきれないところはあったのだが。
仲間の助けもあり、者の数分で、政彦は、落ち着いて戦えるようになっていった。
結局、張り切り過ぎるくらい張り切っていた風子が、開幕から十秒未満で三人の部長を血祭りに挙げたため、十分足らずで決着がついた。
副部長クラスは踏み留まっていたが、平の部員は大半が逃走し、戦いにならなくなったからだ。
「よし、こいつで最後だ。胸-!」
政彦は、木刀を折られて慌てる、第一歴史研究部副部長の側頭部を、短い竹刀で弾いた。
「胸―ってなによ? 側頭部じゃない」
奇妙な政彦の気合いを聞いて、悠が、すかさずツッコミを入れてくる。
「気合いを入れたんだ。薩摩武士風にさ。意味わかる? お前にはないモノさ」
「なにがないって? うちにはバスケット・チェストも、キャスター付きチェストもあるわよ。うん? うん? うん?」
悠が睨みつけてくるが、さほど迫力はない。本気で怒っているわけでもないようだ。
さわやかな運動の後で、気分が良かったからだろう。悠が政彦の胸倉を掴んでする往復ビンタは、九割程度の力だった。
「じゃれてないで、さっさと行くぞ。商店街北部には、まだ残党が残っているはずだ。油断するな。帰宅部員集合! まだ終わっていないぞ」
悠がトンファーを掲げて、集合を促す。三々五々、帰宅部員が集まってくる。政彦と風子、悠の他には、九名だけとなっていた。
「そんなに力まなくても、いいんじゃなですか? 商店街北部には、もう弱小部活動しか残ってないですよ。突破は楽なもんです。後は、ちょっと広めの道路と、橋を渡ればすぐに住宅街だ。勝ったも同然だぜ」
ニヤニヤ笑いを浮かべるお調子者の一年生が「考え過ぎですよ」とばかりに、赤いグローブを着けた両手を広げながら、風子の忠告を制した。
「油断するなと言った。家に帰るまでが、帰宅戦だ」
風子の弁に、遠足かよと、失笑が起きる。皆、既に勝者のような顔をしている。政彦も同じ気持ちだった。
「あんたたち、暢気ねー。ほら、あれを見なさい」
悠が、手近なオープン・テラス内部のモニターを指さした。
戦いに夢中で、政彦は気がつけなかったが、カフェの中や、街灯の近くなどに、モニターがいくつか設置されていた。
モニターには、帰宅部の達成人数と、帰宅部員の捕獲人数が映し出されていた。
「おい、マジかよ。放送部の連中、更新サボってるんじゃねえか?」
「今回、迂回ルートは、きつかったみたいだな」
「薙刀部の遊撃部隊にやられたかもしれん。あいつらは、担当区域を出られるからな」
「女子が中心の薙刀部は、そこまで体力のある奴は少ない。人数が多すぎて、練習に参加できる時間とスペースが限られているし、元々が走り回る部活じゃないだろ。一つのルートを潰せても、よほど戦力の偏りがない限り、二つ以上は難しいはずだ」
モニターを見た、帰宅部員たちから、呻くような悪態と、自分たちは当たりを引いたと安堵の声が漏れた。冷静に分析する二・三年生は、少数派だった。
帰宅部員の数が前回より増えているにも拘らず、今のところ、帰宅達成人数はゼロ名。対して、捕獲された帰宅部員は、百二十名を超えていた。
うん? 政彦は首を傾げた。もしかして、この人数だと……。
「皆、見たな。今も生き残っている帰宅部員は、ここにいるわたしたちだけだ」
風子の淡々とした言葉に、戦慄が走る。公園・丘・工場地帯の迂回ルートは全滅させられていた。
「理解できた? 今までとは違うみたいね。油断してると、いえ、しなくても、今回はヤバいわよ。今日は、賞金首も少ないし」
悠の、脅すような体で発せられた忠告を聞いて、居並ぶ帰宅部員たちは、深刻に受け止めていた。
「よし、締まったな。わたしたちが先陣を切る。三人一組を守り、全周警戒。長柄持ちは外、他は中に入って、互いに守り合え」
三人って、俺も入っているのかと、政彦は緊張しつつ喜びを覚えていた。もしかして、風子は信頼してくれているのだろうか?
「はい、部長。背中は任せてください」
政彦を除く帰宅部員たちは、静かに頷き、商店街北部を見据えた。
チラホラと、左右の路地から覗く、腰の引けた弱小部活動の部員の姿が見える。特に大会などで結果を残せず、部員もやる気がない連中ばかりだ。
風子と悠がいる上、激戦を生き抜いた猛者もいる。特に問題はないだろう。問題があるとすれば、その後、帰宅戦に備えて通行規制されている道路を渡り、住宅街と商店街を分ける三好川にかかる、百メートルを超えのコンクリート製の橋、通称《遠過橋》がある。
夕闇に侵食され、視界が効かなくなりつつあった。先に見える橋の背後は薄暗く、禍々しい景色を作っていた。
政彦は、橋に関する怪談を、幾つか思い出していていた。
そういえば、橋って、境界を分ける存在だから、妖怪とか悪霊の話が、残ってるんだよな。国民的RPGでも、橋を渡るとモンスターのレベルが跳ね上がる。やはり、橋は特別な存在だ。
政彦は、馬鹿馬鹿しい思考を巡らせながら、嫌がる足を進める。誰もが緊張していた。ただ、風子と悠は、緊張を楽しめているようで、早足で進んでいく。羨ましい限りだ。
嫌な予感を払拭しようと、政彦は大股で進んで、風子と悠に並んだ。
風子は無理をしなくてもいいと、目で語り、悠は「男の子じゃ~ん」と、陽性の笑みを浮かべて、からかってきた。
どちらも、奇妙な恐れに取り憑かれつつある政彦には、ありがたいもので、膝を上げる股関節を鼓舞してくれていた。
この二人がいれば、きっと大丈夫だ。
政彦は、急に吹いてきた風を負けまいと、足に力を込めた。
7
商店街北部最後の五十メートルとなると、オープン・テラスのカフェは減り、スーパーや本屋などが軒を連ねていた。
今なお帰宅戦の真っ只中なためか、客は疎らだ。
政彦たちは、微弱な抵抗を排除し、あっさりと道路に到達した。
後は、遠過橋を渡れば、すぐに住宅街だ。
見晴らしのいい遠過橋には、人はもちろん、犬猫の一匹も、一羽の鳥も見受けられなかった。
政彦は、先ほどの嫌な予感は、ただの考え過ぎだったかと、安堵する。
そういえば、霊感なんてなかったなと、呆れて息を吐く。政彦の家は、住宅街の北西、最も奥まった場所に存在するため、元々、完全に安心できるわけではない。ただ、最後の住宅地周辺での決戦を前に、体力を温存できるとわかっただけでも、収穫だった。
他の帰宅部員の中には、既にゴールしたかのように悦びを露わにする者もいた。
「やった。悪いけど、俺が一番乗りだな。次の帰宅戦では、狩るほうに回るけど、ま、手加減してやるよ。ボクシング部に戻ったら、俺は一年で副部長になって、他の一、二年生を指導する立場になるからさ。じゃ、お先」
家が近い者なら、橋を出て二十か三十メートルも歩けば、帰宅できる。お調子者の一年は、幸運にも家が近いらしく、帰宅部を退部した後、元いたボクシング部に戻った後について、自慢気に語っている。目は、獲物を観察するハイエナのようで、既に、他の帰宅部員を、かつては仲間だった者として見ていた。
お調子者の一年生は、勝ち誇った笑みを浮かべると、独り無人の遠過橋へ駆け出した。
「待て。まだ帰宅戦は終わっていないと、言ったはずだぞ。油断するな」
風子の警告が飛ぶ。政彦は「好事、魔多しって言うぜ」と、心の中で、先人の言葉が正しいと証明されるよう望んだ。
政彦たちが橋に足を踏み入れ、三分の一を走破したところで、事件が起きた。幸か不幸かでいえば、政彦個人にとっては幸であり、帰宅部員としては不幸な事件だった。
「うわああああ!」
お調子者の一年生の手足に、木製の分銅鎖が巻き付けられる。と、次の瞬間には、分銅鎖で簀巻きにされたお調子者の一年が、ミノムシのように地面を這っていた。
気がつけば、紫がかった黒装束で全身を包んだ、男か女かもわからない者が三名、ミノムシを囲んで立っていた。
いずれも中肉中背で、顔は覆面に覆われている。立ち姿に気配も隙もないところから、政彦でなくとも、三人は相当な手練れと、理解できた。
「やはり、ここで来たか。大儀見加奈子」
風子が、ハスキーな声を、更に低くくして、黒ずくめに話しかけた。
「知っているんですか。あの黒い奴ら」
「忍者だ」
「ああ、そうですか。凄いですね。それで、奴らは何者なんです?」
風子の冗談を聞き流して、政彦は質問の答を促す。こんな時に冗談とは、流石は帰宅部長、余裕があるな。でも、今は危機的な状況だから、自重してほしかったと、政彦は感心しつつ、呆れた笑みを浮かべた。
政彦の心情が正しく伝わったようで、風子は不機嫌そうに口をへの字に結んだ。
「夢見がちな女子中学生を見るような目をやめろ、最上。お前がその失礼な目を向ける相手は、忍者アニメの影響で忍術部を立ち上げた痛々しい女、大儀見加奈子にこそ、相応しい」
風子は「ビシッ!」と効果音が鳴りそうな動作で、加奈子を指さす。政彦は、風子の真偽不明な言葉を、とりあえず真に受け、加奈子を勝手に分析した。
「ああ、行動力のあるバカ、もとい、バイタリティ溢れるエネルギッシュな、ネットの動画サイトによくいるタイプですか。真紅のカンフー着を着て、両手に青竜刀やらヌンチャクやらを持って飛び回って忍者を名乗る、アフロの黒人みたいな」
「そうだ。バック転を繰り返し、怪鳥音を発しながら、いい加減な空手の型を演じて、アイム・ニンジャ! と叫ぶレッドネックとかと同類だ。本来なら、鉄格子のある開放病棟に入院しているはずだが、どうしてか、娑婆で蠢いている。忍者というより、UMAだな」
普段はクールで物静かな風子が、立て板に水とばかりに悪口を垂れ流すものだから、政彦はつい、尻馬に乗ってしまった。
「ちょっと~、ふうちゃんったら、酷い~。まるで私が、なんちゃって忍者みたいじゃないの~。わたしたちは~本物よ~」
政彦と風子の酷い言いように、加奈子が頭の弱い女子高生そのものの口調で、抗議してくる。
覆面姿の人物から聞こえてくる、甘くて緩い発音の言葉は、酷く不自然に聞こえた。
実は本物に忍者に会えるのではと、ホンの少しだけ期待していた政彦は、内心ガッカリした。やっぱり、ラピュータもサンタクロースも存在しないのだ。
「忍者は江戸時代の中期には、形骸化しているはずだ。第一、お前のような頭の緩い忍者がいるか。先週のようにボコボコにされたくなかったら、道を開けるんだな。ついでに似非忍者なんてやめて、彼氏の大場君と結婚した後の名前について、懊悩する仕事に戻るがいい」
大場? 名前? ああ、加奈子との組み合わせか。加奈子に対する、風子の罵倒を理解し、政彦は納得して頷いた。
「駄目よ~、そんな硬直した考えじゃあ。忍者は色々な顔を持つから忍者なのよ~。それに~。ボコボコにされたのは、ふうちゃんのほうでしょう? 服の下は、まだまだ痣だらけ。かわいそう~。そうそう、次、大場君について言及したら、殺すわよ」
風子と加奈子は、しばし睨み合う。数秒後、風子が世間話でもするように、親しげな様子で、加奈子に話しかけた。
「加奈子、そういえば、他の部員はどうした。お前ら忍術部は、零細弱小とはいえ、十人くらいは物好きが所属していたはずだが? 愛想でもつかされたのか? 無理もないが、同情するよ。これからは、袖を切られた真っ赤でミニスカな忍装束を着て、バク転でもしてろ。子供と外国人観光客に人気が出るぞ。部員は増えないだろうがな」
「あらら~、ふうちゃんったら、その歳で、もう呆けたの~? あなたが、先週、派手に暴れたせいで、怪我人が出たからじゃないの~。伊賀市の職員がする、見せるアクロバットではなくて、真面目に鍛錬をしていた、いい子ばっかりだったのにね」
加奈子の口調が途中から変わる。内容から考えて、意外に仲間思いなのかもしれない。政彦は、風子の顔を盗み見た。
風子はサディスティックな笑顔を浮かべていた。
傷を負わされた仲間を思い、怒る加奈子の顔を見ると、どちらが敵役かわからない。いや、間違いなく風子が敵役だろう。しかし、仲間であるうちは頼りになるので、政彦は、不都合に目を瞑った。
敵役だっていいじゃないか、人間だもの。皆、違って、皆、いい。政彦は、空虚な言葉を心に浮かべて自己完結した。
「なあ赤羽、俺は先週の帰宅戦、途中でリタイアしたから知らないけど、あの忍者? たちとも戦ってたのか?」
政彦は、尊敬すべき先輩にして、信頼できる仲間に対する疑念を脇に置いて、悠に話しかけた。
「そーよ。先週は住宅街に入ってからだったけどね。あの覆面どもの連携が、かなり取れていたから苦戦してたけど、流石は部長だったわ。気持ちよくボコッてたわね。あたしもボコッたけど」
悠は油断なく周囲に気を配りつつ、面倒くさそうにではあるが答えてくれた。
やっぱり親切なんだよな、悠は。ぶっきらぼうなお母さんっぽくて。などと、政彦が、年頃の娘であるところの悠に、少し失礼な感想を抱いている間も、風子と加奈子の会話は続いていた。
「ああ、そうだったな。覆面コスプレ集団の分際で、調子に乗って鎖を振り回してくるものだからな、少し強く叩きすぎた。すまんな。つい、カッとなってやった、今は反省している。これで許してくれるか?」
風子は、両手のトンファーに向けて、少年犯罪者のする空虚な反省の言葉を掛けながら、頭を下げた。怪我人の関係者ではなく、あくまでトンファーに謝っていた
「も~、ふうちゃんったら、うっかりやさんね。頭を下げる相手が違うんじゃな~い」
全力で舐めた態度をとる悠に、加奈子は変わらず緩い口調で、ツッコミを入れる。ただし、覆面から覗く加奈子の目が放つ光は、触れれば切れる、刃の心を示していた。
「おお、そうか。済まなかった。では、改めて」
風子はトンファーを目の前に掲げ「成仏してくれ」と呟いた。
「……もう、いいわ。風子、あんたちょっと、不慮の事故で死になさい」
据わった眼で死の宣告をする加奈子に、風子はトンファーを持った左手で、器用に手招きした。
加奈子は鎖を鳴らしながら、前に出てくる。
風子と悠は、他の帰宅部員が後ずさる中、微妙に間合いをずらし、得物や肩を動かして、迎え撃つ体勢を作った。
政彦は、風子の前でいいところを見せようと、先頭に立った。
瞬間、後ろから間の抜けた悲鳴が上がる。後ろを振り返ると、忍術部員の投網により、残った六名の帰宅部員全員が、絡め取られていた。
風子にアピールしようという単純思考により、政彦は助かっていた。
「ぬふう、こは、罠か」
「左様、謀られた」
「ほほほ、我ら三好三天狗に、かような仕打ち、ただで済むと思うな。冥土の門を潜るとき、我らの存在を思い出すがいいわ」
絡めとられた六人のうち、三人は言葉にならない唸り声を上げるだけだった。残りの三人は、なにやら時代がかったような、芝居がかったような怨嗟を吐いている。後者の三人は、余裕があるのかもしれない。なんか、演技臭いし。
「投網とはな。忍者を廃業して、漁師にでもなるつもりか? いい歳して、忍者ゴッコもないものな。お前にしては、建設的な人生設計だ。応援するよ。北海道で羆でも狩っているがいい」
背後に一瞥もくれず、音と気配だけで察した風子が、加奈子に嫌味をぶつける。よく見れば、僅かに間合いを狭めてもいた。
「随分な余裕じゃなーいのー。ふうちゃんさー。状況が見えてるぅー? 数的な有利は消えたのよ。ってゆーかー、今は、こっちが有利なわけよ。舐めた口を利いてると、イジメちゃうぞ」
加奈子は、漁師と猟師の違いにはツッコミを入れず、足腰と頭の弱い女子高生のように、膝を内側にして、ただ立っている。隙だらけに見えて、本当に強いのかねと、政彦は内心で馬鹿にした。
「たった五人で。先週の半分で、わたしに勝てると?」
「充分よ~、先週と違って、今週は橋の上だしね~。来週も楽しみにしててー。出られなかった五人と一緒に、全力で歓迎してあげるから~。今日これからふうちゃんの身に起こる事件と同じくらい情熱的にね」
頭の緩そうな喋り方をする、人の帰路を邪魔する悪役の癖に、風子が部員の数について言及すると、熱い氷とでも表現すべき、冷たい殺意を目に宿していた。
明らかに風子は悪役だ。
風子は自分が傷つけ、打ち負かした相手について、残酷な狩猟者の笑みを浮かべながら言及している。サディスティックな顔をした風子は、特撮モノで主人公たちに怪人を嗾ける、悪の組織で辣腕を振るう幹部のようだった。
悪役のような顔をしていようとも、やはり風子は、いい女だった。
ちょっと惚れそう。胸大きいし。政彦は一人、手の甲でメガネを押し上げながら、頷くのだった。
「赤羽、後ろは任せた。最上は、まあ、頑張れ。行くぞ、加奈子。しばらく、硬いものが喰えると思うなよ」
政彦の身勝手な妄想を他所に、風子はトンファーを振って、楽しげに見栄を切った。二重に胸を弾ませる風子を眺めながら、政彦は首を捻った。
「二人くらい楽勝です。任されました」
心情的な意味での胸とポニーテールを弾ませながら、悠は二人の忍術部員に競技用薙刀を振るった。
「あれ? 俺に指示はないんすか?」
政彦は、風子に言われた通り頑張ろうと、両手の竹刀をクワガタのように構え、加奈子ほど強くなさそうな、忍術部員に向かっていった。
ここを突破すれば、帰宅できる。家に帰れる。帰宅できる喜びに、政彦は全身に力が漲ぎる感覚を味わった。
家を出て、そろそろ一ヶ月が経つ。こんなにも家に帰りたかったのかと、政彦は、自分が意外に寂しがりだと、初めて知った。
脳裏に、父や母、妹の顔が、幾分か美化されて浮かぶ。待ってろ、武勇伝を土産にして、帰ってやるぞと、政彦は忍術部員に向かって、両の竹刀をしならせた。
右手の短い竹刀は空を切ったが、小気味良い音が鳴り、左手には鈍い手応えがあった。
政彦の目の前では、中程度の長さの竹刀を持った忍術部員が、目を見開いている。驚きを露にするとは、忍者の癖に修行が足りないなと、政彦は視線の先を見た。
左手の長い竹刀が、背の低い風子の後頭部を、強かに打っていた。
膝を突く風子の頭上を、突きを繰り出していた加奈子の竹刀が通り過ぎ、偶然、風子が避けた形となった。
一瞬、場の時間が凍りついた。戦いの最中であれば、単純に付け込んできただろうが、高揚した気持ちのやり場に困ったのか、加奈子さえ体の動きを止めていた。
二秒に満たない時間の後、最初に動き出した者は、風子だった。
「最上、なにか言うべき言葉があるなら、聞いてやるぞ。舌が回るうちに、話しておけ」
「ええと……忍者の攻撃、避けられてよかったですね」
「そうか。最上、お前、ちょっと飛べ」
トンファーで顎を打たれた政彦は、空中で風子の言葉を聞いた。
回転する景色を見ながら、政彦は、部長の怒った声もセクシーだなと、思った。