新入部員たち
1
一学期初週の授業と、恐るべき帰宅戦が終わり、三好高校に初の土曜がやってきた。しかし、政彦の気は全く晴れなかった。
寝心地の悪いベッドで目を覚ましたという理由だけではない。政彦が最も好きな曜日である土曜日は、後三時間で終わり、早くも、高校生活初の日曜がやってくるからだ。
同じ休日にしても、日曜日は土曜日と違い、月曜の顔がチラついてリラックスのできない曜日だ。
ある意味、日曜日は、不愉快で陰気な嫌われ者の月曜日を兄に持つ、容姿端麗な妹とでもいうべき存在だ。
好きだけど、好きじゃないなんて、少女漫画のようだ。
政彦が、まだ冴えない頭で、月曜日が美少女としたらどんな容姿かと、妄想しているところに、横合いから声が掛けられた。
「やれやれ、やっと起きたか。最上はお寝坊さんだな。これは、毎日モーニング・コールが必要か?」
風子が無表情な横顔のまま、嫌味かそうでないか判別の難しい平坦な声で、ベッドに横たわる政彦に声を掛けてくる。身長に不釣り合いな胸の前に差し出された、タブレット端末に、風子の目線は固定されており、政彦には感情が読めなかった。
「特に必要ないですよ。寝起きは良いんで。でも、したいっていうなら、断る理由もありませんね。好きなだけ、モーニング・コールをしに来てもいいですよ。さほど困りませんから」
中国都市部の空に掛かっているような頭の靄が、高度経済成長期の四日市くらいには晴れたところで、政彦は部屋を見渡した。
帰宅部員に、学校から与えられた、三畳ほどの小ぢんまりとした部屋だった。
ベッドと型落ちのパソコンが置かれた小さな机、冷蔵庫、細いクローゼットだけで、部屋はいっぱいになっていた。
初めは個室が与えられてホッとしたものだが、狭いは天井は低いはで、政彦はすぐに気が滅入った。
だからこそ、初週に帰宅を果たしてやろうとしたのだが、あの体たらくでは、これから先が思いやられる。政彦は、意識を失う寸前に感じた、様々な硬さと大きさのボールが、様々な音を立てて体にぶつけられる衝撃を思い出した。
暗澹たる思いで政彦は起き上がり、机に置かれた眼鏡を掛け直した。ボールをぶつけられ、地面に叩きつけられた割に、フレームの歪みは少ない。高校入学祝に買い替えた際、父親のアドバイスで、最も頑丈な材質と形状で注文していた。
政彦は、勧めた父親の先見性に感心した。
「減らず口が叩けるくらいなら、大丈夫だな。医者に見せていないから、断言はしないが」
風子は無表情のまま、不吉な台詞を混ぜつつ、曖昧に安心の言葉を口にした。
タブレットから目を離していないし、言葉も変わらず平坦なため、政彦は風子に心配されている実感を持てなかった。
水分を補給しようと、起き抜けの怠い体を動かしつつ、政彦は冷蔵庫を開く。帰宅を果たしたら、荷物を引き払う際、勝利の美酒として飲もうとしていたサイダーの缶が、なくなっていた。
政彦は、三好町の湧き水から作られたサイダー「三好サイダー」がお気に入りで、毎日、欠かさず飲む習慣があった。ないと、どうも気持ちが悪い。
「あれ、俺のサイダーが」
「君が寝ている間に喉が渇いてな、飲んだ。すまん」
チラリと風子を見ると、風子はタブレットから目を離し、右手で手刀を作った。
「いや、部長は寝てる俺を見ていてくれたんですよね。なら、飲み物くらいは別に」
「まあ、赤羽も勝手に持って行ったのだけどな。ちなみに、赤羽がこの部屋にいた時間は五分だ。一応、見舞いのつもりだったらしい」
「止めてくださいよ! 普通に窃盗じゃないですか」
「無理だ。こいつが、いいところだったんでな。それに、十本くらいは良いだろう。わたしも、二本飲んだぞ。減るもんじゃないし」
怒る政彦に、風子はタブレットを見せた。電子小説を読んでいて、盛り上がっていたようだ。
「減ってるじゃないですか。いつ、物理に法則が乱れたんですか? 後で買うからいいですよ。もお」
狭い部屋だと、脱力する時にも気を遣わなければならない。政彦は、風子にぶつからないように注意しながら、ベッドに倒れ込んだ。
「そう、イジケルな。サイダーでもコーラでも、奢ってやる」
「いいですよ。それより、俺が気絶した後、どうなりました」
低い天井を見上げたまま、政彦は、我ながら唐突だなと思いながら、風子に尋ねた。頭が冴えてきて、不意に気になった。
「わたしと赤羽、他には九名だけが、帰宅できた。残りの者は、皆、捕まった」
「じゃあ、部長は、退部ですか?」
政彦は、諦観を込めて聞いた。
帰宅戦前のミィーティングで、風子から帰宅部の制度について色々と聞かされていた。
帰宅部に在籍している限り、週一回の帰宅戦と入学試験、就職活動などの例外を除き、原則学校から出られない。たとえ、冠婚葬祭であってもだ。
かなり酷い校則だが、特典もある。三好高校の敷地は、土地の安い田舎にしても相当に広く、巨大な部室棟の他に図書館、映画館、食堂、温泉、ちょっとしたスーパー並みに充実している購買部など、施設は充実していた。
帰宅部員は、校内施設では割引サービスが受けられる。優遇された囚人のようなもので、慣れれば居心地がいいという、帰宅部員の先輩も存在していた。
だが、結局は籠の鳥だ。
学外の家族や友人、恋人と会うには、校内にゲストとして来てもらうしかない。政彦が帰宅部寮に入って、まだ数日だが、既に家や両親、妹が恋しくなり始めていた。
せっかく帰宅を果たし、娑婆に戻る権利を得たのなら、普通は、帰宅部を退部するはずだ。
「いや、わたしは辞めない。これからも帰宅部部長で居続けるつもりだ」
「え、なんでです。特典目当てですか?」
風子の淡々とした語り口を聞いて、政彦は、自分でも違うだろうと思う疑問を添えて、聞き返していた。
「特典も、嫌いじゃない。ここの温泉は広くて綺麗だし、食堂は安く、メニューは充実している。映画館で名作を観賞するのも、楽しみだ。だけど、それだけじゃない」
言葉を切る風子に、政彦は息を飲んだ時、ノックもなく、扉が開き、間延びした声が聞こえてきた。
「よう、やっと起きやがったか。いきなり入院する部員を出したかと、冷や冷やしたぜ」
肌年齢から見て中年の二歩手前と思われる男が、長身を持て余すように立っていた。
2
薄い無精髭に、手入れのされていない頭、緑のジャージにサンダル履きの男は、欠伸をしながら、部屋の主である政彦の許可もなしに部屋に入ってきた。
「お疲れ様です、先生」
「ま、中々目を覚まさない奴がいるってんで、一応だ。これでも顧問だからな。仕方ねえよ」
政彦が抗議する前に、風子は立ち上がり、やる気なさ気な男に挨拶していた。
「先生? 顧問がいるんだ、帰宅部って」
「そういえば、最上は初めてだったな。帰宅部顧問の、古賀先生だ。他の部員は、帰宅戦後に面通しは済んでる。後は君だけだ。さ、挨拶しろ」
「……初めまして、一年の最上政彦です」
風子に促されるまま、政彦は釈然としない思いを抱えたまま、頭を下げた。
「おう。俺は昨日の帰宅戦前のミーツに顔を出さなかったから、初めましてだな。帰宅部顧問の古賀だ。お前とは、長い付き合いになりそうな予感がする。よろしくな」
不吉な言葉を吐く古賀に、政彦は眼鏡を中指で押し上げながら、反論した。
「ショートか、妙齢の女教師とチェンジでお願いします。男と長い付き合いなんて、冗談じゃない」
「なに言ってんだよ。今のままじゃあ、次の帰宅戦でも結果は変わらないだろ」
「次は上手くやりますよ。若者は成長するもんです。たとえ顧問のやる気がなくても。ちなみに、タイトスカートの似合う女教師なら、無条件でやる気がでます」
呆れたように首を振る古賀に、政彦は嫌味で応戦した。
「女の先輩の前で、性癖をカムアウトとは、いい度胸だな……それはいいとして、上手くやるって、具体的どうすんの? プランはあるんだろうな? ちなみ、うちの学校の女教師は、熟れ過ぎたザクロみたいなのしかいないぞ。俺は、教育実習生に賭けてる」
古賀は、借金の申し込みを意地悪く断る富豪のように、ニヤニヤと笑っている。一瞬、焦る。
だが、ノープランの返済計画で金を借りに来た男のように政彦は開き直り、目についたもので適当に答えた。
「先生も同じ性癖、いや、フェチストですか。それはそれとして……三島先輩に、武器術を習います。先輩が使ってたのって、トンファーですよね。あれ、教えてください」
「これはまた、唐突だな。ふむ、まあ、構わんぞ。後輩の指導も、先輩の務めだからな。ただ、厳しく行くぞ。覚悟しておけ。我が三島家の人間は、敵と女教師フェチには厳しいのだ」
政彦の、突然で苦し紛れな答を、風子は快諾した。気のせいか、声のトーンが上がり、幾分か嬉しそうに聞こえる。
クールな外見からは想像できないが、意外に面倒見がいいのかもしれない。だから、最後の女教師フェチ云々は、冗談に決まっている。政彦は、三島家の過去を、気にしないようにした。
「三島、お前のトンファーは、唐手家の爺さんから習ったんだよな。いくつからだ?」
政彦が、自分は安全だと言い聞かせている中で、古賀が風子に質問した。
「物心つくころには、庭で祖父から指導を受けていました。正確には覚えていませんが、三歳くらいからだったと」
「十三、四年か。でだ、この一年生が、帰宅戦でお前くらい活躍できるようになるには、何年ぐらい掛かる? あるいは狭い道で、体育会系のバリバリ数名とやり合って勝てるようになるまで掛かる期間は?」
古賀は、間延びした声のまま、政彦がすべき質問を風子にした。
「わたしくらいなら二十年かかっても無理でしょうね。多人数相手に、限定的な状況でならなんとか勝てるようになるには、普通なら、五、六年でしょう。全ては、相手次第ですけど」
風子は、あっさりと政彦のプランを否定する答を出した。
「三島先輩、俺の高校生活は、後三年しかないんですけど」
「そりゃ、俺がお前に掛ける台詞だ。今更、武器術を習ったって、泥縄もいいところだって、分かったろう」
「じゃあ、どうすれいいっていうんすか? このまま卒業まで、帰宅部寮で暮らすなんて、御免ですよ。従妹が通ってる高校は、三年間ずっと寮で過ごすところなんで、そういうところもあるって知ってますけど。俺は、寮で無為に過ごすくらいなら、外で無為に過ごしたいんです」
「いや、最上、寮でも外でも、有意義に過ごせよ。少なくとも、そうなるように考えろ。高校生活が台無しになるぞ。時間は、あっという間に過ぎるからな。二十歳を過ぎると、特に」
古賀は堂々と後ろ向きな発言をする政彦を諭しつつ、呆れ戸惑った顔と声になっている。政彦は、勝ったと思った。
人生は負けそうだが、意思表示の下らなさでは、政彦に勝てる者は、中々いないだろう。政彦は、止めにキメ台詞を吐いてやった。
「人に台無しにされるくらいなら、自分でします。云わば、手柄首にされるより、自害を選ぶ武士の如き心境です。大谷吉継のようなものです。三成級の友人はいませんし、島左近のような家臣も、佐和山の城もありませんけどね。おっと、それは、もう武士じゃなくて、ただの可哀そうな奴だろってツッコミは、なしの方向でお願いします」
「ツッコミどころが多い上、ツッコミを禁止するとはな……最上、お前は見所がある。トンファーでも棒でも、好きな得物を教えてやろう」
感心したように腕を組む風子に、政彦は最敬礼で答える。風子と心が通じ合ったような気がした。
まあ、気のせいなんだろうけど。
「あのさあ、三島。お前は先輩だろう、変なところに感心してないで、諭せよ。それと、最上。俺に、どう行動するべきか聴け。今後の対応と対策について相談しろ。年長者の頼れる大人から意見を聞くって、そんな流れだったろ、途中くらいまではさ。俺は答を用意して、待ってるんだぞ。そろそろ話を戻してよ。もう」
古賀が呆れと疲れからか、弱々しい声で、政彦に相談を促してきた。律儀にツッコミを入れているところから見て、変なところで真面目なようだ。
「これは失礼しました。三島。古賀先生は、帰宅部OBだ。帰宅経験も多数ある。アドバイスを受けるといい」
風子の推薦を受け、政彦は、うだつの上がらないように見える古賀を、頼ってみようかと思い直した。
無論、風子の顔を立てるためだ。それにしても、古賀が帰宅経験者とは、意外だ。
よほど運がよかったのだろうか?
しかし、帰宅経験って、面白い言葉だ。家に帰れたら、桜にも教えてやるかな。政彦は、妹に帰宅する大変さを説明する自分の姿を想像した。
止めておこう、帰宅戦参加経験のない者には、帰宅の困難さを話しても、通じそうもない。アフリカの秘境で、道なき道を、片道二時間かけて学校に通う子供でもない限り、三好高校帰宅部員の気持ちは、理解できない。
「えっと、じゃあ、俺、帰宅部を辞めたいんですけど、どうしたらイイっすかね」
本来は自分のためなのだが、政彦はボランティアと敬老の精神で、相談してやる。言葉に熱と敬意がこもっていないが、そのくらいは、古賀の外見同様に、目を瞑って欲しい。政彦は声と同じ程度の熱量を込めて、古賀に視線を向けた。
口に出してから、古賀が不機嫌になりはしないかと心配した。だが、政彦の杞憂に終わった。
腕を組み、難し気な顔をして、古賀は悩む振りをしている。生徒及び若輩に対する、教師として大人としての態度を強く意識していた顔つきだった。
「そうだね、まず基本に立ち返ろう。帰宅部を辞めるには、帰宅戦で家に帰らなければならばいわけだ。つまり、帰宅戦における目的は、家に辿り着く、この一点にある。オーケー?」
「そりゃ、まあ、そうですね。帰宅部ですしね」
政彦は、なんとなく話の筋が見えたなと思いながら、同意した。
「ならば、話は早い。最上は、三島の真似をして、戦って帰路を切り開くべきだと考えたようだが、間違いだ。ともかく、逃げ足を鍛える。これだ。逃げて逃げて、逃げまくれ。具体的には」
「あ、もういいです。参考にします。ありがとうございました」
政彦は、冷酷な面接官のような言葉で、古賀の台詞を遮った。それから、首振りながら両手の平を見せて「オ~ウ」と呟く、ウザったさを加えた。
ただ逃げるだけなら、古賀に指摘されるまでもない。無論、逃げ足の強化は行うつもりだったし、政彦は、中学時代陸上部だったので、そもそも足には自信があった。
今回は初の帰宅戦であったので、緊張して醜態をさらしただけだ。
逃げ足の強化方法なら、受験でサボりがちだったトレーニングを、再開すればいいだけだ。
加えて、数の多い敵に対応するために、武力を得る必要がある。帰宅戦では、殺傷力が強すぎる物でなければ、武器の使用も認められているのだから、使わなければ損というものだ。
帰宅経験者から、どんなアドバイスが貰えるかと思ったら、この程度か。政彦は期待をしていなかったなりに、小さく失望した。
「おい、話は最後まで聴け。慌てる乞食は貰いが少ないと言うぞ」
「その言葉は、乞食に言ってやって下さい。今のところは、学生ですんで。俺は。将来なったら、参考にさせてもらいやすぜ、旦那」
政彦は、モミ手しながら追従するように笑い、古賀を仰ぎ見た。
「参考にするな。と言うか、既に卑屈になっているが、まさか、もう乞食になる準備を? 考え直せ、最上。お前の未来は輝いているとは言わないが、辛いだけじゃないさ。根拠はないけど」
本気で心配する風な古賀に、政彦は理不尽な怒りを覚え、吐き捨てるように拒絶の言葉を吐いた。
「冗談ですよ。とにかく、敵の数が多いんだから、逃げるなんて当たり前すぎて、真面目に聞く気にはなれませんね。俺は元陸上で中距離は走ってましたから、逃げ足には自信があるんで、先生のアドバイスは要りません。三島先輩の指導で、逃げも戦えもする、パーフェクトな帰宅部員になるんで、ご心配なく」
「トラックを走る陸上競技と、市街地は公園を走る帰宅戦は違うんだ。良く話を聞け」
「結構です。おっと、否定の意味ですよ。ま、見ててください。遅くとも一学期以内に、おうちに帰ってごらんにいれますよ。じゃ、俺は寝るんで、先輩以外は出ていってください」
「おいおい……しょうがねえな。まあいい、顧問としての責任は果たしたぞ。失敗しても、恨むなよ。じゃあな」
政彦のにべもない言葉に、古賀は低い天井を仰ぐ。
古賀は首の角度を元に戻すと、政彦を極め台詞を言う前の弁護士のように指を差してから、部屋を去って行った。
古賀が出ていくと同時に、風子も席を立った。
「あれ、三島先輩も帰っちゃうんですか? 特訓は?」
「今日はもう遅い。明日から、厳しく指導してやる。それに、本来なら、とっくに女子寮で寛いでいる時間だ。ここは男子寮だぞ。本来は、もう女生徒は入れないところだ。ただ、お前が目を覚まさないから、古賀先生の許可を貰って、今までいたってだけの話だ」
風子はタブレットを学校指定のカバンにしまうと、滑るような動きで部屋を出ていった。
背は小さいけど、美人で胸の大きい先輩と、楽しくお喋りしたかった。でも、今回は諦めよう。政彦は、温泉施設へ行こうか迷い、どうせ明日は日曜日、朝風呂でいいかと思い直し、ベッドに潜り込んだ。
目を閉じるが、気絶と睡眠の中間で、長い時間ずっと意識を失っていた政彦は、中々寝付けなかった。
寝ようと頑張っていると、ふと、古賀が話そうとしていた内容が気になり始めた。
古賀は、最後に何か言おうとしていたはずだ。
果たして、なんだったろうか? ま、どうでもいいかと思い直し、政彦は目を瞑り続けた。
結局、朝の四時にやってきた風子と、おまけの悠に、過剰な訓練を施されて、気絶するまで、政彦は眠れずに過ごした。