隙
1
東西から支隊が到着し、雪菜の本陣は、総勢二百五十名に守られている。今、本陣に攻め込んできている裏切り者の橘部隊は、百五十名弱でしかない。雪菜は、さして広くない住宅街北部と、三好駅南口を繋ぐ場所を抑えている。兵力差と地理的条件を鑑みれば、勝ちを確信するに足りる状況だ。
ところが、ハッキリと苦戦していた。
それというのも、帰宅戦でも部活動でも、これといって実績のなかった、橘の奮戦にあった。
橘は、自分の妻を抱いて障害物を超える競技、ワイフキャリングを行う部活動の部長だ。
有志同盟員の一人として丘を守っていながら、他部活の部長を率いて、どうしてか反乱を起こした男だ。
雪菜に理由は全く思い当らなかったが、舞の推測によると、少額の部費に対する不満が原因らしい。結局、違うとわかった。
「うおおおおおお、絹江~、俺だ。戻ってきてくれ」
筋張った丸太のような腕を、泣きながら振り回し、本陣前に敷かれた隊列にダメージを与え続けている大男が、橘雪之丞だった。
橘の奮戦は、味方であるはずのワイフキャリング部員を始めとする、仲間の部活動従事者が引いているほどだった。
遠目にもわかるほど、大勢の中で、橘は孤立していた。
だが、橘本人は意に介していない。ひたすら、絹江なる人物の名を、呼び続けていた。
「遠山さん、絹江という方、ご存知ですか?」
「はい。確か、本陣にいるはずです」
舞は困惑を隠さずに答えた。
「なぜ橘さんが執着しているか、知っていますか?」
雪菜の質問に、舞が答えようとした瞬間、高飛車な声が響いた。
「いい加減にしてくれる。あんたとは、もう、終わったのよ」
色の黒い、長髪を茶色に染めた女生徒が、隊列から身を乗り出している。その場にいた全員の注目が詰まった。スカート丈が極端に短かいため、見えはしないかと、雪菜を心配させた。
彼女が、件の絹江らしい。橘は、絹江を見ると、縋るような声で懇願を始めた。
「き、絹江~。誤解なんだ。話を聞いてくれ」
「誤解? あんた、あたし以外の女を抱いていたでしょう」
絹江の言葉に、衝撃が走る。不純異性交友か? 今時いくらでもあり得る話だが、学校行事中にする話題ではなかった。
内容如何では、停学くらいは有り得るぞと、息を呑む音がした。
「あれは、しかたがなかったんだ。急病人だったし、病院も近かったから。彼女として抱いたわけじゃない。信じてくれ!」
どうやら違うと分かり、場の空気が和んだ。
「嘘! わたしに飽きたんでしょう。だから、他の女を抱いたんだわ」
「違う! それだけはない。有り得ない、信じて欲しい。第一、助けた女性は、お婆さんだったぞ」
しばらく絹江の「嘘!」と、橘の「違う!」の応酬が続いた。
「馬鹿、寂しかった。どうしてすぐに、迎えに来てくれなかったの?」
「ゴメン、喧嘩してから、お前に許してもらえなかったらどうしようって、不安だったんだ。帰宅部から寝返りの要請がなかったら、予算不足で不満を持っている奴らがいなかったら、ここに、これなかったかもしれない」
「たっちゃん、あんた、本当に馬鹿よ」
「でも、吹っ切れたよ。約束する。もう一生、お前しか抱かないし、不安にもさせない。ワイフキャリングに出たら、必ず優勝してみせる。毎年だ」
「うん。大好き」
橘と絹江は、熱い抱擁を交わした。
周囲の者は、ポカンとしたマヌケ顔を晒して、二人を見ていた。
雪菜は意識して口を引き締めた。おそらく同じ顔をしていると、悟ったからだ。
「あれ? 仲直りする要素、あったか?」
「つーか、そもそも喧嘩する要素も、なかったような気がする」
「良かった。喧嘩から、仲直りまでの間なにがあったのか、皆、わからなかったんだな。俺と同じで」
「タイム・リープして、未来にきたのかと思った」
「誰か、なにが起って、なにが終わったのか、教えてくれないか?」
周囲の者は皆、口々に、雪菜の感想を代弁した。
敵味方に分かれてはいるが、この場には、有志同盟員しかいない。だが、心は一つになっていた。ちょうど、打撃系格闘競技の選手が、敵同士でも、リング上で心を通わせるかのように。
「じゃあ、戦おうか、きーちゃん。勝てば、部費が増えるかも」
「うん、たっちゃん。頑張ろうね」
橘は絹江を抱き上げ、悠然と、本陣に相対した。
これは、なんだろう? しばし考え、ああ、と、雪菜は思い当った。
良質の物語にしか触れてこなかった雪菜が、初めて出会ったエピソードだった。
なるほど、これが所謂、茶番というものですか。恋愛に詳しいわけでもない雪菜にも、なんとなくわかる。あの二人、帰宅戦を利用して、盛り上がっていただけだ、と。
「新城さんは、どちらに」
「今日も麗しい顔をして、ここにいますよ」
雪菜の問いに、一人の男が答えた。少し前まで、住宅街西側の守りを任せていた、支隊長だ。
ヒラヒラのついた、パジャマのような薄いシャツに、薄く長い黒いズボンを穿いている。橘と絹江が茶番を演じていなければ、酷く目立つ格好だ。
まだ、状況を把握しようと、多くの者が混乱する頭で考えている中、ひたすら鏡に映った自分の顔ばかり見ている、酔拳部長の新城だった。
新城は、自分で「麗しい」と言うだけあって、かなりの美形だ。それでいて、酔拳の腕前も、かなりのもので、賞金を懸けられている帰宅部員からも、一目を置かれていた。
酔拳は酔えば酔うほど強くなるという。ただ、酔拳を修業していても、酒が飲めない高校生では限界がある。しかし、新城の酔拳は、アルコールに頼らないで済むよう、改良されていた。
新城は、自分に酔い続けて、アルコールの不在を克服していた。
常に鏡を見て、自分に酔う新城は、いわば、常時酩酊状態、酔拳を修業する拳士にとって、理想的な状態をキープしているのだ。
「反乱軍の首領が、いい気になっています。新城さん、膺懲を」
「心得えました。諸君、行こうか。女王陛下が、戦果をお求めだ」
雪菜に優雅な一礼をすると、新城ほど自分に酔う行為に慣れていない部員たちに声を掛けた。
手鏡を懐に仕舞い、新城は、傍目には重力を無視しているかのような動きで、橘部隊に、跳び懸かっていった。
2
「勝ちましたね」
雪菜は、落ち着いた動作でマドレーヌに手を伸ばし、紅茶を楽しんだ。
心中は、まだ冷静さを取り戻せていない。迫りくる橘部隊を視認した際、体の震えを抑えようとして、かなり苦労した名残だ。
興奮が残っていて、指先が痙攣で跳ねないよう、努力しているし、腋は、汗で湿っていた。
「はい。流石は新城殿です」
雪菜の心情を知ってか知らずか、舞が何事もなかったように頷いた。
戦闘力が極限にまで高まった橘と、ヘイジョナウ派カポエイラ部員の絹江が示したコンビネーションによる奮戦は凄まじかった。一時は、雪菜のいる本陣へ突入する構えを見せたほどだ。
だが、橘と絹江が新城に捕縛されると、橘部隊は後退を始めた。
意外にも、完全な潰走にはならなかった。橘の下についていた弱小部の部長たちは、指揮官として優秀であり、秩序立った後退をしようと、努力したからだ。
だが、最後の足掻きにしかならなかった。副将格の、エクストリーム・アイロニング部長の腕がアイロンと共に砕けるや、組織も士気も崩壊した。
本隊の大半は、逃げ惑う橘部隊を追いかけ回している。今や、戦況は一方的なものとなっていた。
「栗原さんも、帰宅部後衛を撃破しました。これで、叛乱部隊も、挟撃されておしまいです。さて、残る敵は、三島風子部長のいる、帰宅部本隊だけですね」
雪菜が、風子の名前を出した時「噂をすれば影」あるいは「曹操の話をすると曹操が現れる」といった、故事の正しさを証明する者が現れた。
「敵襲! 住宅街西側から侵入する者あり。帰宅部本隊の模様」
天幕の外で警戒に当たっていた薙刀部員が、雪菜と舞の会話が聞こえていないはずなのに、叫び声を上げた。
「しまった! 橘に気を取られ過ぎた」
舞が失敗に青ざめた。
目の前に迫る橘部隊の対処を優先するあまり、帰宅部本隊に対する注意が、おざなりになっていた。元々、本隊は住宅街で大半が帰宅して、本陣まで来ないだろうと、思い込んでいた。
もちろん、部長にして最大に賞金首である風子率いる本隊を、全く気に懸けていなかったわけではない。ただ、部長の加奈子が率いる忍術部が迎撃に当たってからは、しばらくは大丈夫だろうと、注意を怠っていた。
舞が、慌てて天幕の外へ出ていく。不安に駆られた雪菜も、後に続いた。
遠目に、武器を手にした集団を確認できた。
先頭を走る、両手に竹刀を持った男子帰宅部員の血走った目が、雪菜に定められていた。
本陣前で隊列を組んでいた者たちはと、雪菜は目で追った。
遙か前方だ。一部は、本陣の異変を悟り、引き返してきている。間に合いそうもない。
打たれるのか、帰宅部員に身を窶した、弾かれ者どもに。雪菜は、背中に寒いものが走っていく感触を覚え、震えた。
後ろを見る。もう、他に味方はいないのか。
いや、いた。




