消沈
1
先週の帰宅戦において、政彦は誇張なく、帰宅成功まで一歩のところだった。それが、いい歳をして、ドン引くくらい本気の忍者ごっこをしている連中に捕まってしまった。
その瞬間、政彦の心は、骨粗鬆症の骨より脆くも折れた。
土日を帰宅部寮で過ごした際の記憶は、ない。悠の話によると、ルーチン・ワーク的に、風子と訓練をしていたらしいが、どうでもいい話だった。
翌週の月曜朝には、ダンサーに以前に持ち掛けられた八百長に乗ると、話し掛けていた。もはや訓練など、受け身や演技意外には、意味をなさない。それでも訓練を続けているのは、ただの貧乏性だ。
体に技を教え込むには、酷く時間が掛かる。それでいながら、ホンの数日、下手をすると、一日二日訓練をサボっただけで、技は衰える。政彦は、時間を掛けて身につけた技術を、失いたくはなかった。たとえ、使う必要がないとしても、だ。
「いつまで死んでるつもりよ。演劇部にでも入って、ゾンビ役でもゲットしたいわけ? 再入部の当てもないのに」
机で生ける屍と化している政彦を、ケースに入った競技用薙刀を背負う悠が、見下ろしてくる。悠の目は器用にも、左右で男女を区別するトイレの標識のように、呆れと怒りを半分づつ示していた。
悠なりに心配してくれているのかもしれない。恩知らずにも、政彦は、御ふざけで返した。
「どうせアンデットになるなら、もう少し高位の存在になりたいな。ヴァンパイア・カウントとか」
「あんたが不死者の伯爵? ダウン・カウントとられてそうな死に体の癖に、図々しいわね」
「はい、上手い例えが入りました。赤羽さんマジ半端ないっす……首を絞めないでください。死んでしまいます」
タップする政彦を机に投げ出すと、悠は腕組みして、嫌味を言ってくる。責めるような声色が、苛立ちを示していた。
「それで、伯爵志願者様は、何を呑気に寝てるのよ。八百長のブック作りに励まなくていいの?」
悠のいう「ブック」とは、プロレスの台本を意味している。今時の女子高生の基礎知識には、通常では見受けられない。
良く知っているなと、政彦は知識の出所を疑った。
「その八百長で、ちゃんと報酬が支払われていれば、伯爵は無理でも、男爵くらいは気取れそうなものだったんだけどな」
以前、悠とした会話にあったように、八百長の報酬は、二度しか払われなかった。裏切らせて、取り込んみさえすれば、こっちのものだと考えているようだ。
八百長に乗った他の帰宅部員も、政彦と同じ扱いとあって、窓口となったダンサーは、ホージョーを筆頭とする皆に詰め寄られていた。それも当初の話で、ダンサーも同じ騙された立場であると知られると、無視されるだけ、となった。
「言わんこっちゃない。だから、前に忠告してやったでしょうが。なんで、見えてる地雷原に踏み込むの? 馬鹿なの?」
悠は片手の平を、頭上で左右に振った。馬鹿にしているようだ。
「先々週の帰宅戦で、心がいい感じに折れたんだよ。小気味よい音はしなかったけど、ダンプに突っ込まれた家みたいに、衝撃を感じたね。知ってるだろう? あと一歩で帰宅できるところだったんだぞ。あと一歩、昔の選挙で使われた常套句じゃなくて、だ。やる気も、真夏に常温放置された鯖の新鮮さくらいの早さ、でなくなりもするさ」
「あと一歩なら、また頑張ればよかったでしょう」
簡単に言う悠に、政彦は苛立ちと少しの諦観を覚えた。気が付くと、自分でも呆れるくらい投げやりな声で、反論していた。拗ねた子供のような、甘ったれた声だった。
「ほぼ毎週、帰宅できてるお前には、わからないよ。俺は入学から今まで、一度も家に帰れていないんだぞ。このままじゃ、一学期中、いや、卒業までの三年間、帰れなくてもおかしくないんだ。絶望的だよ。まったく」
「だ~か~ら~、次があるでしょ。頑張って帰れるようにしなさいよ。一応、まだ三島部長と訓練してるんでしょう? 顧問としてる、パル何とかの訓練とは別に」
「パルなんとかじゃなくて、パルクールな。パルクールも含めて、訓練は続けるよ。休むと、苦労して身につけた技術やらスタミナやらが、あっという間になくなっちまうからな。勿体ないの精神だよ」
悠の問いに、どうしてか気恥ずかしさを覚えた政彦は、明後日を向いて、言い訳めいた言葉を口に出した。
「勿体ない、ねえ。ふーん。へー」
政彦の言い訳に、悠は揶揄するような返事をしてきた。
「何だよ。文句でもあるのか」
「別に。なんもないわよ。それより、そろそろ三島部長のところ行かなくていいの? 勿体ないから、まだ続けるんでしょ。訓練」
「あ、ああ。行ってくる」
政彦は、敗走するような惨めな気持ちのまま、気怠い体を起こし、扉に向う。今日は風子との訓練日だ。
遅刻は厳禁だ。ダルくても早足で行こう。政彦は努力して、左右の足を前後させる。手を掛ける寸前に、誰かが扉を開けた。
「お、最上、まだ教室だったか」
帰宅部顧問の古賀だった。珍しく緊張した面持ちをしていた。
「何か用ですか?」
「ああ、ご家族から電話があったぞ。カードをやるから、帰宅部寮のロビーで、電話してみろ」
古賀が差し出す「三好高校、外部連絡用カード」と、銀で印字された青いカードを、政彦は受け取った。
帰宅部員は、携帯電話を学校に預けさせられている。外部に電話する際は、顧問の許可を示す「連絡カード」必要としていた。
「はい、わかりました。ところで、どんな用件か、聴いてますか?」
「俺は、家族間の話に立ち入らんよ。学校と最上の間に関わる問題なら、改めて話してくれ。じゃあな」
古賀は片手を上げると、去っていた。
両親と妹は、政彦が入学して、帰宅部寮に入って以来、一度しか電話してきていない。今更なんの用だろう? 政彦は早足で帰宅部寮のロビーに向かった。
2
帰宅部寮は、校舎からやや離れた、広い敷地に建てられている。帰宅部員を校内に隔離する、ある意味、監獄のような建物だ。
ただし、帰宅できないストレスを和らげるためか、内部は意外にも快適だ。
窓はかなり広く採られており、外部から光を積極的に取り込んでいて、いつも明るかった。淡いクリーム色の壁と、ふんだんに配置された間接照明により、落ち着いた雰囲気を楽しめる。
ロビーに置かれている机や椅子は、学生が使うにしては中々の良品で、高い天井と柔らかい照明により、開放感に溢れていた。
図書館や映画館、遊戯室、雑貨屋など、併設された施設も豊富だ。ために、帰宅部寮は、住んでいる帰宅部員たちから「スウェーデンの刑務所に匹敵する」と、高く評価されていた。
「いつ見ても、陰気なところだ」
評判のいい帰宅部寮で、唯一の低評価である電話ボックスの前に、政彦は立っていた。
政彦は、真っ白なドアに手を掛ける。すぐには開かず、一呼吸してから、防音使用の重い扉を、力を込めて引いた。
電話ボックス内部は、車椅子でも入れるよう、広く作られている。ただ、通常の電話ボックスより広い程度でしかないし、壁は打ちっぱなしのコンクリートとあって、酷い圧迫感がする。たとえ家族や友人と電話するにしても、長々と話し合う気にはなれそうもなかった。
どうせ、大した用事ではないだろう。政彦は、灰色の電話機に、連絡カードを差し込んだ。
ディスプレイに「10」と数字が浮かぶ。僅か十分しか話せないのは、ただの仕様だ。
家族と長々と話して、帰宅部員のホームシックを加速させないようにする目的と、以前教師の誰かが言っていた。
生徒のためのような言い草だが、外界との接触を最低限にし、帰宅寮の生活に慣れさせる狙いだろう。或は、より、帰宅戦に熱が入るようにしたいのかもしれない。どちらにしろ、下種な話だ。
ボタンを押し、家に架ける。放課後の今の時間なら、母親は仕事でいないはずだ。出るなら、在宅の仕事をしている父が本命で、体が弱いため、早退するケースの多い妹が対抗だ。
「はい、三好です」
年々高くなるタバコ税にめげず吸い続けた男の嗄れた声が、受話器からする。父の最上勝彦だった。
「オレオレ。政彦。ユア、サン。古賀先生から聞いたんだけど、電話したんだって。なんか用? 時間制限ありだから、手短にね」
「政彦か。久しぶりだな。電話できなくて悪かったな。元気にしてるか?」
久しぶりに聞く父の声は、こちらを伺うようなもので、どうしてか、政彦の癇に障った。
「ああ、ここは施設が整ってるからね。家より快適なくらいだよ。で、用は? あと、九分くらいしか話せないんだけど」
「そうか、すまんな。実は紗奈が、東京の病院に入院するんだ」
「は? 入院はともかく、なんで東京? こっちの病院じゃ、駄目なの?」
政彦の妹の紗奈は体が弱く、原因不明の体調不良で学校を早退したり、倒れるたりするケースが、ままあった。
以前から「環境を変えたほうがいい。できれば環境が良く、検査機器の整った施設のある場所に」と、医師から転地療法を勧められていた。
費用が掛かり、学業に差し障りがある。それでいて、確実に健康が良くなるわけでもないとあって、紗奈を心配する両親も、踏み切れずにいた。
「お前が三好高校に、正確には、三好高校帰宅部に入部してくれたからだ」
「俺が帰宅部に入ったから、紗奈が東京で療養? 意味が分からないんだけど」
「……三好高校理事長の、北畑欣也氏が斡旋してくださったんだ。学校も併設されている病院をな」
「コネでもあったの? なら俺も、なんとかならないかな。もう、帰宅部なんて辞めたいんだ。入学からこっち、一度も家に帰れていないんだぜ。全寮制でもないのに、善良な俺が囚人みたいな生活をさせられるなんて、おかしいだろ」
気まずげに話す父に、政彦は勢い込んで頼んだ。コネがあるなら、活用してもらいたいものだ。
「それは、無理なんだ。病院の斡旋は、息子を帰宅部に入れて、理事長の孫が主催するお遊びの帰宅戦に参加させた、ご褒美なんでな」
「なんだよ、それ! おやじは、俺を売ったって言ってるのか。それで、三好高校受けさせたってわけだ」
「違う。そうじゃない。俺の勤め先は教科書会社だろう? 三好高校にも卸してる。その縁で、お前の入学前に偶々理事長にお会いした際、話したんだ。息子がお世話になりますって」
「理事長に会ったから、なんだっていうんだ」
「聞け。その時は、特に何もなかった。つい先日、理事長は、息子が、お前が帰宅部員になって、忍者? 相手に活躍した、と聞いたらしいんだ。それで、学費免除か、他になにか特典でくれてやろうって、言ってくださってな。紗奈の入院先の斡旋をお願いしたんだ」
「よく、そんな願いを、取引先の理事長に、する気になったな」
「ダメ元だったが、金持ちの気まぐれだな。そのお陰もあって、格安で入院できるようになったんだ」
「あっそう。お役に立てて何よりだけど、じゃあ、まさか、俺が帰宅部を辞めたら、紗奈の入院は、なしになるのか?」
「それは、わからない。だけど、大丈夫だと思う。理事長にとって、帰宅戦はあくまで孫の遊びだ。お前は、もう二か月ほども帰宅部寮暮らしだし、子供の遊びに介入しようとは思わないだろう。多分。だから、家に着きさえすれば、帰れるぞ。おそらく」
「心強い情報をありがとう。精々、頑張るよ。帰れたら、寿司くらいとってくれ」
「お安い御用だ。ああ、そうだ。紗奈の入院は、再来週の土曜だ。入院は久しぶりだからか、ちょっと不安がっていてな、お前に会いたいそうだ。外出許可を貰ってき」
不意に、電話が切れた。
ディスプレイの表示は、赤いデジタル表示で、ゼロを示していた。
「無理を言うなよ。クソ、あの馬鹿オヤジめ、三好高校帰宅部を、理解してないな」
政彦は、電子音と共に排出される連絡カードを乱暴に引き抜き、無理解な父親の言葉を聞いて、不満を吐き捨てた。
家族の見送り如きで、三好高校が、外出許可を出すとは思えなかった。なにせ、帰宅部員の外出許可は、冠婚葬祭ですら、出るかどうか怪しいからだ。
政彦は、受話器を叩きつけると、外出許可を断わられるために、古賀の元へ向かった。帰宅部寮一階の東端にある、顧問室にいるはずだ。
ロビーからなら一分と掛からない。嫌な要件を早く済ませようと、政彦は早足で歩き、ノックもそこそこに、顧問室へ侵入した。
古賀は椅子に座り、スマートフォンをつまらなそうに弄っている。政彦は、半ば義務感で、外出許可を求めた。
「入院する妹の見送りをしたいので、外出許可をください」
「無理だな」
予想通り、一秒未満で古賀に却下された。
入学試験に落ちたと確信する、予言者を気取る浪人生のような、ヤケクソの昂揚感を、政彦を覚えていた。
政彦は降伏するように両腕を上げ、得意気に答えた。
「でしょうね。知ってましたよ」
「じゃあ、なんで来たんだ? 俺も暇じゃないんだぞ」
古賀は、椅子の背凭れに寄り掛かりながら、胡散臭いものを見るような顔をしている。難関校を進路希望調査書の志望校欄に書く、身の程知らずな生徒を見るような目をしていた。
「父が、外出許可を求めろって、言ってきましてね。で、一応」
「そうか、じゃあ、もう一枚カードをやるから。うちの高校の馬鹿気たルールを教えてやれ」
机からカードを取り出そうとする古賀を、政彦は両手で制した。
「結構です。時間の無駄なんで」
「伝えるだけ伝えんで、いいのか?」
「外出許可が出ないって事実に。変わりはありませんから」
政彦は、教師に暴言を吐かないようにするために、古賀に背中を向けて顧問室のドアに向かった。
「最上」
古賀に呼び止められる。政彦は、即座に嫌味を返した。
「なんです。慰めの言葉でも、いただけるんですか? 間に合ってますんで、他に回してください」
政彦の嫌味に付き合わず、古賀は静かに確認してきた。
「お前、帰宅したいんだよな」
「もちろんです。できれば再来週、無理なら三年弱で達成する予定ですけど」
投げやりな政彦の言動を無視して、古賀が続けた。
「再来週だ。再来週、お前は家に帰るんだ」
「は? 無理を言わんで下さいよ」
古賀の声色は、冗談には聞こえなかった。政彦は、できもしないのにと、不満を込めて反論した。
「俺の言う通りにすれば、できる。帰れるぞ」
「前にもこんなやり取り、しませんでしたっけ。それでパルクール習っても、駄目だったじゃないですか」
「少し、いや、かなり早いが、応用編を教授してやる」
政彦は、以前、父に絶対に確実な儲け話を持ってきた、見知らぬ男を見た時と同じ目をして、古賀を睨んだ。
「応用? 実際、早すぎますよ。三歳児に性教育を施すくらいに。基本だって、まだまだなんですよ。馬から落馬するくらい、危険が危ないってもんです」
古賀の突然な宣言に驚いたせいで、抗議する政彦の日本語は、怪しいものとなった。
「その代り、どんな地形障害でも、乗り越えられるようになるぞ。なあに、リスクはつきものだ」
「ハイリスク・ハイリターンの概念は理解しますけどね。問題は実現性ですよ。俺、先生に教わるようになってから、パルクールを調べましたよ。ネットでね。えらく危険で、ダイナミックなスポーツじゃないですか。あんなの、本気でやったら、誇張抜きで死にますよ」
政彦は、ネットで拾った、パルクールの映像を思い出していた。
高い壁を、想像上の忍者がするようによじ登り、飛び降りては受け身で衝撃をやり過ごす。階段の手すりを滑り降り、植え込みや噴水を軽々と飛び越えていく。
平地にあっては捻り込んだ側転バク転で、ギャラリーにアピールする。高い身体能力に裏打ちされた、敏捷な男たちの姿は、素直に格好が良かった。
陸上で体力を養い、古賀から基本の手解きを受けた政彦だからこそ、よりわかる。生半な鍛錬で身に着く技術ではない、と。
パルクールの技は、全身の鍛え上げられた筋肉を、高いバランス感覚のもと、柔軟に連動させなければならない。加えて、状況を理解する視野の広さと、高い心肺能力を必要としている。
言葉にすると簡単だが、実行は困難を極める。よほどの夢見がちな者でない限り、理解できるはずだ。
パルクールを齧るどころか、匂いも嗅げていない政彦に、できるスポーツではない。
「勘違いするな。別に、パルクールの応用技を、全て教えようってわけじゃない。調子に乗った素人じゃあるまいし、そんな無理をするわけないだろ。これでも、玄人だからな。第一、二週間弱で、身に着くと思うか? お前と同様、俺も思わん」
「じゃあ、どうしようっていうんです。何を言っているのか、わからなくなってきましたよ」
「今までより特別高難度の技を覚えろなんて言わんよ。陸上と、パルクールの基礎訓練、両者の延長だけ、やってもらう。ごちゃごちゃ言ったが、訓練を積んだ技の中から一つ、登って降りるだけ、集中して磨き上げるんだ。今のままなら、帰宅成功率は一パーセント弱だ。か細い可能性を、十パーセントくらいには上げてやれるぞ。どうする?」
古賀は、人差し指を立てて、政彦の顔を覗き込んでくる。無精髭と、とっちらかった前髪から覗く、古賀の挑むような目に、政彦は躊躇した。
信じていいのだろうか? この前は、上手くいかなかった。もしかして、今回もまたと、政彦の頭に疑念がよぎった。
「お願いします」
背に腹は代えられない。政彦は、頭を下げていた。
3
周囲が暗くなりかける中、政彦は帰宅部寮内の武道場で、トンファーを構える風子と相対している。政彦は、いつものように、風子の組手に付き合わされていた。
「なるほど。古賀先生も考えたな」
風子との訓練は、一割の解説と九割の組手で組み立てられており、風子曰く「実戦的」な内容となっていた。
「ええ。全く、です。希望が、見えて、きましたよ」
荒い息を吐きながら、政彦は、両手の得物を細かく上下に動かし、風子の動きを牽制していた。
政彦に与えられる武器は、風子の気分次第で、棒や鎖など、多岐にわたる。間合いを測るのに、便利だからだそうだ、
要は、体のいい実験台にされているわけだ。
今、政彦が構えている得物、メイン・ウェポンとなっている、竹刀二刀流にしても、風子の趣味だった。カッコいいからだそうだ。
政彦のために選んだみたいな顔をして、部長も中々お茶目じゃないと、政彦は軽い恨みを込めて笑った。
「うん。気合も入っているようで、なによりだ。今日は、中々いい受けをしているな」
風子の息は全く乱れず、額に汗は、ほとんど見受けられない。声には疲れどころか、楽しみさえ感じられた。
「お陰様で、実戦形式の、経験値は、大分、積みましたから。防御は、上手く、なりましたよ」
政彦は、一方的に攻撃を受けるばかりだった風子との訓練の日々を思い出し、得意になって笑った。まだ息が整わないので、どうにも様にならなかったが、風子との鍛錬で、膝以外が笑ったのは初めての経験で、貴重な瞬間だった。
訓練の間中、風子は、政彦を武器の間合いを測るための人形として扱っていた。一応、防具を着けさせてくれてはいた。とはいえ、ヘッドガードやプロテクターでは、内臓を支える横隔膜と、脳を揺らす衝撃は、完全に遮断できない。痛みと振動を受けた脳の警報が、政彦を真剣にさせた。
恐怖に打ち勝つために、政彦は必死に防御法を探った。
幸い、風子は打突を繰り出す間にも、対応を口で教えてくれていた。
「重心を指先に乗せるな。親指と小指の根本、踵の三点でバランスを意識しろ」
「バックステップが速いのはいいが、真後ろに下がるな。相手が前に出した腕側へ、斜め後ろに下がれ」
「攻撃を中途半端に受けるな。避けるか、腰を据え、肘を折り畳んでしっかり受けろ」
「得物は握るんじゃない。小指と薬指で引っかけるんだ。振り回しても、外れなくなるぞ」
「居つくな。動け」
「上下運動のフットワークは最低限にしろ。内臓が揺れると、疲れやすくなるし、地面が平らとは限らん。転ぶぞ」
「好機であっても、剣道の試合みたいに、膝は伸ばしてまで攻撃するな。次の動きがとれなくなる」
「対集団戦を意識しろ。周囲を観察して、地形を利用できなければ、袋叩きに遭う」
「転んだら、すぐ起きろ。尻に力を入れて、足裏を意識して垂直に立て」
「足の先はやや外側に向けておけ。転びにくいし、方向転換も容易になる」
「最初に狙うのは、弱そうな奴か、ビビってる奴だ。派手に吹っ飛ばして、他の奴を警戒させろ」
「視線と発声、得物の位置を巧みに使えば、敵の動きを操作できる」
「上を攻めるには下を、下を攻めるには上を意識させろ」
「得物が当たった瞬間、前足の膝の力を抜けば、体重を乗せられる。大柄な相手に、有効な技だ」
「スタミナがない奴は、どんなに力が強くても、集団戦では役立たずだ。ランニングとダッシュを繰り返せ。心肺機能は、比較的短時間で強化できる。ただし、少しサボるとすぐに弱くなるから、継続しろ」
「筋トレは漫然とするな。筋肉に、予想外の刺激を与えろ」
高速でトンファーを繰り出しながら、あるいは、補強トレーニング中に叩き込まれた、戦いの作法だ。
短い期間に、結構な数の教えを、風子から得ていた。
最初は、別の生き物のように揺れる、風子の胸目当てに、訓練を着けてもらっていた。今はその比重は、半分程度まで下がっている。ムッツリな高校生としては、相当な人間的成長だった。
「よし、今日は始めた時間も遅かったし、この辺にしておこう。さっさとクールダウンを済ませて、シャワーでも浴びるといい」
「ありがとうございました。って、あ、あの」
疲労により、すっかり寮のベッドが恋しくなっていた政彦は、言われるままに、うっかり帰りそうになる。慌てて、風子を呼び止めた。
「なんだ、扱かれ足りないのか? 明日はもっとキツくしてやろう」
胸の大きい風子に、扱くだのと言われると、なにか良からぬ妄想をしてしまいそうになる。今は下劣な楽しみに浸っている場合ではないので、後回しにして、政彦は本題を切り出した。
「是非お願いしたいところですけど、また今度にしてもらうとして、実は相談があるんです」
「ほう、言ってみろ。内容にもよるが、力になるぞ」
予防線を張りつつも、風子は力強く頷き、聴く姿勢をとってくれた。
「ええ、実は」
政彦は、再来週の土曜、妹の紗奈が、療養のために東京へ行く。今のままでは見送りに行けない。帰宅を果たしたいので、力を貸してほしいと、手短に話した。
「事情は分かった。それで、力を貸すというと、最上が家に帰れるようにしろという意味か?」
「はい、できれば。集団の後方に置いてもらって、家までエスコートしてもらえるなら、幸いです」
「負んぶに抱っこか? それなら断るしかないぞ。帰宅戦は集団での戦いだが、帰宅道は、一人でも帰れる力を養うためのものだからな。自力で帰還を目指す意思が、まず大前提だ。それに、お前の家は、部員の中でも一番遠い、北西の住宅街最奥にあるだろう。個人的理由で、そこまで他の部員を付き合わせるわけにはいかん」
風子はハッキリと、政彦の身勝手な願いを却下した。
無理もない。皆、帰りたくとも帰れないでいる。八百長に手を染め始めた政彦を助けるために、帰宅できるタイミングを逃して、最後まで過酷な帰宅戦の渦中に身を置く馬鹿がいるはずもなかった。
「ですよね。虫のいいお願いをしてしまって、すいませんでした」
恥ずかしくなった政彦は、紅潮する顔を隠すように、シャワー室へ逃げ込もうと、風子に背を向けた。
「ただし、わたしは別だ。部長として、最後まで付き合ってやる」
風子の気負わない声が、政彦に掛けられる。
「部長として当前だ」と、後ろに付け加えそうなトーンだった。
「あたしも、付き合ってやるよ」
突然、帰宅部寮への扉が開き、壁の寄りかかる悠が現れた。
悠の口調は、風子と似て「帰宅部員として当然」とでもいった風情だった。
風子への身勝手なお願いを聞かれたかと、政彦はバツの悪さを誤魔化そうと、つまらない質問をした。
「赤羽、なぜここに?」
「帰宅寮の敷地内に、帰宅部員がいちゃ、おかしいって言うの?」
「おかしいとか言わないが、盗み聞きは良くないと思わないか?」
「偶然、通りかかっただけなんだから、無罪ね。ま、話は聞かせてもらったって奴よ。映画でスーツ姿のおじ様が、よく言う台詞よね」
「いつから、あー、ショーン・コネリー辺りを例に出していのか? みたいなオッサンになったんだ。胸の代わりに腹でも出始めたか? なに、出産に備えてるの? 牝になる準備なの?」
最低なセクハラを口にしてから、しまったと思う。悠なら、拳で答えると理解できたからだ。
「なに!」
国孝を含む三人の驚きで息を呑む声が、同時に漏れた。
顔面に、悠の右ストレートが炸裂する寸前、政彦は膝の力を抜いて躱す。ボクシングでいうところのダッキングを、政彦は自然に行い、悠の攻撃を避けていた。
頭頂部の髪をかすめた音からして、悠は本気に近い力で、右ストレートを放っていた。今まで一度もできなかったのに、突然できてしまった。
意外な展開に、しばし、沈黙が流れた。
「体が勝手に動いたか、最上。良かったな」
風子が、真剣な、それでいて、どこか優しさのこもった声で、労ってきた。
「はい。自然に体が動いたんです。部長相手の練習じゃ、全然、避けられなかったのに。思わず声が出ましたよ」
徐々に、いつの間にか向上していた自分の技術に感動し、政彦は興奮気味の声を出していた。
「技とは、そんなものだ。わたしの持論だが、RPGのレベルと経験値の関係と、似ているな」
「RPG、ですか?」
武術一辺倒と思われた風子の口から、意外な単語が出た。政彦は戸惑うのも失礼かなと思いつつ、聞き返した。
「子供のころ少々遊んだくらいだから、あまり詳しくないが、RPGでは、経験値を積んで、レベルが上がると、技を覚えるだろう」
「そうですね。魔法とかも」
「経験値が一ポイントでも足りないと、技は覚えない。経験値が閾値に達した瞬間、技が身についている。武術の技も、同じだな」
「なるほど、ゲームで例えられると、わかりやすいですね」
「全身が連動せず、ぎこちなくしか技が出せない。できるようになるのかと、師匠や先輩の教えに疑問を抱き始める。ある日、何気なく出した技が、突然、鋭くなっていた……なんて場合も多い」
「先輩の経験ですか?」
「そうだ。最上、一度、技を身につける経験をしたら、単調でキツイ訓練にも耐えられるようになるものだ。その感覚、よく覚えておけ。お前は、武術家として、スタート・ラインに立ったぞ」
「部長。ありがとうございます」
政彦と風子は、しばし見つめ合った。ここ二か月ほど、訓練を共にしてきたが、初めて心が通った気がした。
「最上の癖に、三島部長から認められたのね。生意気」
師弟愛か同志愛が醸し出す、いい雰囲気をものともせず、悠が不機嫌に茶々を入れてくる。だが、続けて笑みを深くした顔を上げた。
「でも、あんたの帰宅に、協力する価値はあるみたいね」
悠の笑みは、スポーツ少女のポジティブなイメージを裏切らない、快活なものだった。眩しい白い歯が、政彦に披露された。
「協力してくれるのか?」
「話は聞かせてもらったって、言ったでしょ。万事、任せておきなさい。他の帰宅部員を動員する件は、何とかするわ」
「ありがたいが、難しくないか? ちゃんと帰宅活動してる奴らからすると、八百長に手を染めた俺を快く思ってないだろう」
無理やりか、騙されて帰宅部員にされた者が大半を占めるが、風子と悠以外にも、帰宅活動そのものを楽しむ者も存在した。
圧倒的戦力の帰宅阻止有志同盟と戦いながら、ストイックに帰宅を求める部員からすると、政彦は薄汚い卑怯者でしかなかった。
「大丈夫、大丈夫」
心配する政彦を他所に、悠はサムズアップなどしながら、笑顔のまま、力強く頷いた。
「助かるけど、どうやって?」
政彦のもっともな疑問を聞くと、悠は、笑みを陰謀家のように変えた。
「それは、結果を見てのお楽しみね。まあ、不沈戦艦に乗った気持ちで、ドーンと構えてなさい。前から、仕掛けは考えていたのよ。だけど、タイミングが合わなくてねー。いい機会だわ」
話を聞く限り、協力するといっても、政彦のためだけではないらしい。むしろ、ついでの感すらあった。
ついでといえば、不沈とつく戦艦はよく沈むと知っている政彦は、不吉な思いに捉えられた。しかし、口に出すと実現しそうなので、黙っておいた。
「仕掛け、前から?」
代わりに、気になった単語について聞いた。
「まんまの意味よ。じゃ、あたしは、用事があるから」
悠は、元きた道を取って返し、帰宅部寮内に戻って行く。いつの間にか、空は暗くなっていた。
追いかけても、問い質してもいいが、悠は喋らないだろう。政彦は、帰宅部長である風子なら知っているのではないかと、率直に聞いた。
「部長は、なにか聞いていませんか?」
「聞いているが、今は何も教えてやれないぞ」
つい数瞬前まであった、保護すべき帰宅部員に対する温かみが、風子の目から霧消した。政彦の質問は、拙いものではなかったはずだ。恐らく、風子は表情から感情を決して、政彦に意図を読まれないとしているのだろう。、
「何で、ですか?」
「どんな計画も、事前に知る者は少ないほうがいいし、仕掛けの絵を描いた悠が話さないんだ。わたしからは、なにも言えない。第一、聴こうが聴くまいが、お前に干渉する権利も能力もない。黙ってその日を待て。以上だ。わたしはいい加減、シャワーを浴びて、さっぱりしたいんだ」
風子は、汗で濡れ、体に張り付いた制服を、指で示した。
帰宅部員は、体育の時間と、帰宅寮で過ごす際を除き、常に制服着用を義務付けられている。帰宅戦ですら、制服を着ていなければ、帰宅と認められなくなる。より実戦に近い経験を得るため、訓練中でも、風子は胴着やジャージに着替えず、制服姿だった。
制服は、作りが良い割に、購買で買う分には、帰宅部員限定で安く手に入る。帰宅戦や訓練で損傷しても、特に困らなかった。
お陰で政彦は、濡れた制服姿を着て、体の線を露わになった風子の鑑賞する機会に恵まれていた。
「わかりました。精々、悶々としながら、訓練に励みます」
「うん。わかればい。じゃあな」
悠の仕掛けが気になって悩む様と、訓練中に風子の肢体を見せつけられる状況を掛け た政彦の台詞は、風子に届かなかった。
政彦は皮肉の通じなかった皮肉屋のように、少し虚しくなりながら、シャワー室に向かった。




