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ハッピー・デット・エンド 後編

「さて、どう思いますか」


 空き家に帰るやいなや、シェムが僕に問いかける。誠司の件だろう。僕はシェムの肩から飛び、曇った窓際に置かれた安楽椅子の背もたれに降り立つ。


「まぁ、本当の願いじゃないだろうね。他人の死を願うタイプには見えなかった」

「一目見ただけで解るものですか」

「ある程度は。彼は耐える事に慣れた目をしていた」


 そもそも、そうでなければイジメに遭う事も無かったのかもしれないが。


 侮辱されれば怒り、嫌な事は嫌だと言う。自衛の第一歩は自己主張。早い話が面倒くさい人間になれ、と言う事だ。しかし、日本は個性を際立たせる事を良しとしない。群衆の中の一片ある事を是とし、はぐれた弱者に対しては攻撃的。イジメはもはや国民病と言えるのではなかろうかと思う。


「耐える、ですか」暖炉前の椅子に腰かけながらシェムが言う。「解りません。耐えてどうすると言うのでしょう。クラスという集団に馴染む為でしょうか。しかし今更でしょう。彼がとるべき行動は、闘争か逃走の二択だと思うのですが」

「どちらも選べないから、イジメは怖いんだ」

「なぜですか」

「知りたければ、それこそ本を読めばいい」


 僕の仕事はシェムにイジメ問題を解説してやることでは無く、誠司の本当の願いを探り出す事だ。


 彼がイジメの首謀者を恨んでいると言うのは本当だろう。しかし、観察している限りでは彼に対して悪意を向けていたのはその四人だけではない。他のクラスメイトは場の雰囲気に呑まれているだけだから見逃した、という考え方もできるが、恐らく違う。誠司は突然の問いに演技まで加えて〝それっぽい事〟を言っただけだろう。


 あれは本心ではないはずだ。そして本当の願いには、誠司自身も気が付いていないのではないか。


「そういえば」ふとした疑問が僕の脳裏を過る。「どうしてこんな面倒な事をする必要があるんだ。魂が成仏しないと、よほど不味い事でもあるのかな」


 本を開きかけていたシェムが僕を見る。


「世界が混ざります」

「世界? ……混ざる?」


 唐突な発言に僕は首を傾げる。


「そうですね、人間の常識に照らして言えば、あの世とこの世の境が無くなる、と言った所でしょうか。魂とは、元々は一つの大きな意志なのです。それが輪廻転生をする事で二つの世界の均衡は保たれています」

「しかし魂が成仏しなくなり、その均衡が崩れ始めている、と?」


 その通りです、とシェムが静かに頷く。


「世界が混ざると……、その、どうなるんだ?」

「別にどうと言う事は。しいて言えば、全てが混沌に還るだけです」


 僕は元々丸い鳥目を更に丸める。混沌に還る。それはつまり、この世が滅びると言う事ではないのか。


「……はっ。冗談はよしてくれ。〝世界が危ない〟だなんてフレーズは聞き飽きている」

「冗談ではありません。このまま魂の比率が偏れば、こちらの世界に神の世界が墜ちてきます。生者と死者、人と神の境が失われ、全ては原初の土に還るでしょう」


 喉が引きつる。話自体は良くある滅亡ものだが、それが真に神性の存在であるシェムの口から発せられているのだ。真実味が違う。


 ふと脳裏に閃く物があった。誠司の願いに関してだ。


「もし、あいつの本当の願いが解らなければ、シェムは四人を殺すのか?」

「そうですね。一応、それが彼の願いであるのですから」

「おかしいだろう。そんな死に方をすれば、そいつらだって成仏なんてしないはずだ。それは不味いんじゃないのか」

「そうでもありません。死神の鎌に刈られた魂はその場で消滅します。その後に彼――、誠司さんが成仏しなくとも、結果的には〝悪くない〟という判断になります。決して望ましくはありませんが」


 差引三人分軽くなりますから、とシェムが言う。無感情なその言葉に、僕は背中が冷える思いだった。死神たちの適当さは十分に知っているつもりだったが、まだ認識が甘かったらしい。適当さもここまで来ると邪悪と変わらない。


「魂が成仏しないのが問題だっていうのなら、生きている人間よりもそこらを漂っている魂をなんとかしたほうが早いんじゃないのか? 消滅させることも厭わないんだろ?」

「いえ」シェムは首を横に振る。「前にお話しましたね。人は死を迎えた瞬間に自我の大半を失うと。自我を失った魂は湖面の月と変わりません。散らせど消えず、掬えど納まらず。夜が明けるのを待つように、浮遊する魂が自然に輪廻へ還るのを待つしかありません」

「どれくらいの時間がかかる?」

「何事も時間で測るのはよろしくありませんね。それは人間特有の考え方です。多くの場合で通用しません」


 僕は小さく溜息をついた。彼を、誠司を救う事は考えていない。彼自身がそれを望んでいないと思うからだ。助けるだけが救いではない。


 だが、ただでは死ねないという意思も感じた。恐らくは普段から死を意識して過ごしてきたのだろう。

 僕の役目は、彼に幸せな死を遂げさせる事だ。最善の願いで、最良の死を届ける。


「調査はどの程度待ってもらえるんだ?」

「そうですね……」シェムは小さな丸テーブルに目を向ける。「では、これらの本を読み終えるまで」


 シェムは未読の本はテーブルやソファーの上に、読了済みの本は床に積み重ねる癖がある。丸テーブルの上にある本はどれもが、百科事典かと思えるほどの巨大さと厚みを備えていた。それが三冊。僕なら一生をかけても読み終えるとは思えないが……。


「貴方に合わせて言えば、三日という所ですね」


 シェムが言い添える。そういえば誠司にも三日程度必要だと伝えていたな、と僕は思い出した。


「それまでに良い答えが見つけられなかったときは、彼の最初の願いを叶えます」


 それはつまり、四人の命が失われると言う事だ。そしてその後に、もう一人。

 四人に関しては罪無き、と言うつもりはないが、心情としては捨て置ける物ではない。


 僕は細く、長く息を吐く。


 この仕事は本当にハードだ。いっそ非情に徹する事ができたなら、気持ちも割り切れただろうに。


            ■


 玄関の扉を慎重に開ける。また肩にカラスを乗せた白い少女が待ち構えては居ないかと思ったからだ。


 いつも通りの薄暗い廊下を見て、少年はほっと息をつく。いつも通りの光景だ。非日常はここには無い。


「誠司? 帰ったの?」


 廊下の奥から声が届く。誠司は言葉を返し、母親の部屋へと足を進める。

 扉を軽くノックし、開ける。ベットの上には一人の女性が居た。年齢は四十にも届かないのに、枯れ木を連想させる細い腕と首は老女のようだった。


 そして何より目を引くのは、全身に広がる火傷の痕だ。焼け固まった皮膚と筋肉は、彼女の身体からあらゆる自由を奪っていた。


「おかえり。雨、大丈夫……じゃ無かったみたいね」


 そう言われて、誠司は自分がずぶ濡れだった事を思い出した。振り返れば濡れた足跡が続いている。

 あっ、と声を上げて慌てる誠司を、母親が優しく見つめいている。


「とりあえずシャワーでも浴びてきたら? 風邪ひいちゃう」


 くすくすと笑う母親に、誠司は「ごめん」と言葉を残して背を向ける。


 誠司がまだ小さかった頃、彼の家族はとある交通事故に巻き込まれた。

 ある夏の日の高速道路。彼の両親と誠司の三人でささやかな家族旅行に出かけた時の事だ。一つの追突事故から始まった玉突き事故に巻き込まれ、運悪く大型車に挟まれた彼の自動車はひしゃげて炎上した。


 父親は即死し、母親は自らの身体が焼けるのも構わずに彼を車外へと逃がした。幸いにして彼女は一命を取り留めたが、それ以外の物は全て失った。


 誠司の母親は、一人では歩く事もままならない。毎日彼は母親の身体を拭き、一日に何度もトイレに連れて行き、食事の準備も全て彼が行っていた。大変な苦労ではあるが、仕方がない。どこかで楽をしようとすればどうしてもお金がかかる。国から補助は受けているものの、大黒柱を失い、働き手を欠いた一家の生活は楽ではない。


 母親の世話を焼く事を辛いと感じた事は無かった。年相応に遊び回りたいと言った欲求は持ち合わせていていなかったし、何よりこの役目は当然の義務だと感じていた。

 そう考えなければ、生きては来れなかった。


 ただ、一つだけ――。


「ねぇ誠司。学校はどうだった?」

「……うん。まぁ、ぼちぼちやっているよ」


 母親に背中を向けたままで応える。


 この瞬間だけは、堪らなく辛かった。




 自室に入り、ベットへ投げ出すように身体を横たえる。

 仰向けに寝転がり、腕で目を覆う。囁くような雨音が少年の心を浮かび上がらせる。


 もしも、と思う。もしも俺が死んだら、お母さんはどうなるのだろう。


 自活ができない人だから、きっとどこかの施設に入る事になるのだろう。頼れる親戚も居ない。それでも、今よりは人間らしい生活が送れると思う。施設ならば、俺よりもよほど上手く面倒を見てくれるだろう。お母さんにとっても悪い話じゃないはずだ。


 ――そういえば、俺はどうやって死ぬのだろう。病で、という気配はない。やはり事故だろうか。


 しかし交通事故であれば加害者は一生を棒に振る責任を負う事になるし、それ以外の事故でも責任を取らされる人間は必ずいるだろう。

 それは避けたいな、と思う。俺の命にそこまでの価値があるとは思えないし、顔も知らない誰かにそんな重荷を背負わせたくはない。


 となれば、やはりあの白い少女が殺すのだろうか。


 ぞくり、と肩が震えた。背筋に悪寒が走る。


 一目見た時に理解した。あれは〝死〟だ。

 悪意も敵意も無い、純然たる死。いっそ邪悪であってくれたなら、抗おうと言う気持ちにもなれたかも知れないが、あの少女に関しては畏れしか抱けない。とはいえ、何もかも言いなりと言うのも面白くない話だ。


 何一つとして思うようにならなかった人生だ。最後くらいは自分で終わらせるのも悪くない。


 こつり、と音がした。方向からして窓の方だ。風に巻き上げられた小石でもぶつかったか。


 首を巡らせてそちらを見遣り、ぎくりとした。窓辺には一羽の小ぶりなカラスがとまっていた。


 間違いない。あのカラスだ。


 誠司は跳ね上がるように起き上がり、警戒するようにカラスを見つめる。コツコツ、と音がした。カラスが嘴で窓をつついているのだ。まるで「開けてくれ」とでも言うように。


 一瞬ためらい、恐る恐る近づく。窓を少し引いてやると、冷やりとした春風を引きつれて小ぶりなカラスが部屋に入ってきた。三つ又の足跡が部屋のカーペットを飾る。


「いやぁ、死ぬかと思った。雨の日に鳥が飛ばないのは、ちゃんと理由があったんだな」

「――っ!?」


 思わず息を呑んだ。普通のカラスではないとは思っていたが、言葉を話すとは考えなかった。


 目を剥く誠司を見て、カラスは「あぁ」と得心したように頷いた。


「そういや、こうして話すのは初めてだったね。僕は……まぁ、死神の使いだ。名を呼ぶ必要があるなら、クロとでも呼んでほしい」

「あ、あぁ……。うん。」

「驚いている所を悪いんだけれど、身体を拭いてくれないか。翼が重くて仕方がない」


 言われるままに風呂場に向かい、タオルを二枚持って部屋に戻る。羽を広げて大人しくしているクロを丁寧に拭いてやる。そうしているうちに、幾らか気分も落ち着いてきた。


「って、なんで俺がこんな事をしてやらなきゃいけないんだ」


 思わず突っ込みを入れる。とたんに馬鹿らしくなってきた。しかしクロはくつくつと楽しそうに喉を鳴らしている。カラスも笑えるのか、と俺は思った。いや、こいつはカラスなのか?


 二枚目のタオルで仕上げ拭きをしてやると、クロは満足そうに翼を羽ばたかせた。


「すまないね」

「……良いさ。大した手間じゃないし、こういうのは慣れている」タオルを畳みながら応える。「それで? 死神の使い様がどんな用事だよ。俺の死因でも教えに来てくれたのか」

「それなんだけどさ。誠司、君の本当の願いを聞きに来たんだ」

「――願いなら、伝えただろう」

「いいや、聞いていない」クロはきっぱりと言い切る。「君は他人の死なんて望まない。それどころか、たいして他人に興味も無いはずだ」


 ぎくりとした。クロの言う事は的を射ている。


 確かにあいつらは許せない。見て見ぬふりをしてばかりのクラスメイトにも腹が立つ。イジメに気が付いているくせに、放置をしている教師連中にも怒りを覚える。


 だが、どうでも良い。本当はどうでも良い。


 所詮は後一年と少しの付き合いだ。元々、卒業後は進学をせず働きに出るつもりだった。後の学校生活を心配してなどいなかったし、今は何より死を告げられたのだ。今更どうして他人に興味がもてようか。


 誠司は動揺を隠す様にため息を付いた。確かにアレが本当の願いかと言われれば首を傾げるが、全くの嘘と言う訳でもない。


「いきなり願いとか言われても、困る」

「そんな事はないだろう」クロの瞳が真っ直ぐに誠司を見つめる。「例えば、母親の事とかさ」


 誠司は片眉が跳ね上がる。


「知っていたのか」

「覗き見をするつもりは無かったけどね」


 恐らくはしばらく前から家の周辺に居たに違いない。誠司へ声を掛けるタイミングを計っていたのだ。


 苛立ちを含んだ溜息が誠司の口から溢れ出る。


「お母さんの火傷が治れば良いなんて、これまで何度も願ったさ。治ればきっと全てが上手く行く。元通りにはならなくても、普通になれると思ってた」

「それなら――」

「遅いんだよ」クロの言葉を遮って誠司が言う。「今更手遅れだ。俺は小さいころから家事の全てをしてきた。誰とも遊んだりもせず、学校と家の往復だ。それが当然だと思っていたし、義務だとも思っていた」


 ふっ、と瞳に影が差す。誠司は視線と声のトーンを落とした。


「それが辛いとは今でも思っては居ない。けれど、それだけじゃ駄目なんだと気が付いたのは、イジメが始まってからだ。初めは〝根暗〟だとか〝キモイ〟だなんて影口だった。次第に教科書やノートの私物が標的になって――」


 不意に誠司は言葉を区切った。


「いや、止そう。話しても仕方のない事だ。とにかく、今更普通になったところで俺はもう普通の学校生活になんて戻れないんだ。そのつもりも無い。お母さんだって、火傷が治ったからってすぐに社会復帰できるわけじゃない。落ちた筋力を取り戻すためにリハビリもしなくちゃならないし、それにはまたお金がかかる」


 そうかも知れない、とクロは思った。社会は一度レールを外れた者には、徹底的に冷徹だ。冷え固まった誠司の心が学校生活に適応できるとは思えないし、このご時世、母親もすぐに仕事を見つけるのは難しいだろう。誠司たちは国からの補助を受けているのだろうが、快復したとなればそれも減額されるかもしれない。生活はより苦しくなる。


「それでもさ、ずっとこのままって訳には行かないだろう。お母さんだって、自分で動ける身体が欲しいんじゃないのか」

「俺の命と引き換えでもか」


 今度はクロが息を吞む番だった。誠司の暗く重い声が落ちる。


「はっ。死神。神、神様……か。笑える。全能はおろか、万能にも程遠い。なんの役にも立たないじゃないか。それに解ってない。願いを一つ叶える? だから成仏しろ? ふざけるな! そんな簡単な話なわけが無いだろう! たった一つの願いで、何もかもに区切りが付けられる訳がないだろうが!!」


 それはクロも解っていた事だ。生と死の中間が抜け落ちている神たちには想像もつかないだろうが、人生とは複雑に絡み合った糸に似ている。単純に引っ張っただけでは余計に絡まるだけだ。


「そもそも成仏ってなんだよ。俺は生きていない。俺は俺の人生を生きていない! それで成仏しろって? ふざけんな!」


 心を殺して日々を生き、ようやく現れた神様は死神だった。何かと思えば一つ願いを叶えてやるから人生に区切りをつけ、大人しく成仏しろなどと言う。怒りえを覚えて当然だ。


 誠司は何もかもが手遅れだ。全てを一息に解決する魔法の杖は見当たらない。

 どこかから、女性のか細い声が聞こえてきた。心配そうに誠司の名を呼んでいる。


 顔を跳ね上げ、誠司が部屋のドアを開ける。階下から名を呼ぶ母親の声が響いてきた。


「誠司、誠司? どうしたの大きな声を出して」

「な、なんでもないよお母さん! ほら、あの、黒いアイツが出てびっくりしちやったんだ」

「あら怖い。お母さん身動きが取れないから困っちゃうわ」


 楽しそうに誠司の母が言う。っておい、俺はゴキ扱いかよ、とクロ思った。骨格が許すなら肩でも竦めたいところだ。


「帰ってくれ」後ろ手で扉を閉めながら誠司が言う。「俺の願いは変わらない。自分の命と引き換えに、少しでも恨みが張らせるなら儲けもの、というくらいにしか考えていないんだ」


 そんなことは無い、とクロは確信していた。自分では気が付かないのか、見えない振りをしているのか。


 ともあれ、方向性は掴めた。しかし叶えた所で意味が無いと言うのも本当だ。

 彼は、誠司は遠からず死を迎える。それは覆らない大前提であった。


 死は終焉だ。何かを得ようとも、死してしまえば全てがお仕舞。


 クロは未だ暗雲の立ち込める空を見つめる。誠司の心を晴らすのは、この大空を埋め尽くす雨雲を散らすのと同じくらい、難しい事に思えた。


          ■


 翌日。誠司はいつも通りに登校し、そしていつも通りの扱いを受けた。

 一挙手一投足を監視され、咳払い一つで〝気持ち悪い〟と眉を顰めて嗤われる。どれだけ慣れたと思っていても、不快な気持ちは拭えない。


 しかし、今はもう違う。どうせ自分は死ぬのだ。この程度の辱めは今更気にもならない。


 落書きだらけになった教科書を広げ、ボロボロに破られたノートの無事な部分を使って板書を写す。真面目に授業を受けても仕方がないが、何もしないのは暇に過ぎる。


 体育の授業の時間になった。誠司は他の生徒より先んじて教室を出る。彼の外履きが無事に下駄箱に収まっている事は稀だった。今日もゴミ箱の中から外履きを見つけ出し、汚れの程度が軽い事にほっとする。


 外履きの汚れを払う誠司の隣を、薄ら笑いを浮かべたクラスメイトが通り過ぎていく。幾らでも嗤えばいい、と誠司は思った。今のうちに嗤いたいだけ嗤えば良い。その顔が恐怖に凍り付く日が楽しみだ。


 放課後、相も変わらずな四人に連れ出され、誠司は校舎裏に転がされた。

 滑稽な罵声と気の抜けた暴力が誠司を襲う。


 痛みに耐えるうち、誠司はなんだか可笑しくなってきた。笑いたい気分だ。

 こいつらは何をしているんだ? 俺と違って自由があるのに、その自由をこんな事に消費するなんて、馬鹿なんじゃないのか。


 こいつらは知らない。自分の命が僅かである事を。


 他ならぬこの俺が望んで死ぬのだ。残された僅かな時間を、こうして俺を痛めつける事に消費している。本当に馬鹿みたいだ。


「ふっ。ふふふ」


 突然の笑い声に、四人の男たちがぎくりとした。誠司もまた、それが自分の声だと気が付くのに少しの時間を要した。


「な、なに笑ってんだ!」


 男の一人が叫ぶ。それに続いて、歪んだ笑みを浮かべて他の者達も声を発する。


「こいつマゾなんじゃねぇの?」

「うーわマジかよ、気持ちわりぃ」


 まずったか、と思ったがもう遅い。まぁいい、構うものか。むしろいい機会だ。


「なぁお前ら、貴重な時間と体力をこんな事に使って、虚しくならないのか」


 四人の顔を順番に眺めながら言う。突然の反抗に狼狽える様子が可笑しかった。


「は、はぁ!? なんだ突然てめぇよ! 意味わかんねぇんだよ!」

「意味が解らないのはこっちだよ。毎日毎日、飽きもせず。よくやれるよね」

「うっぜぇんだよ!」


 乱暴な蹴りが誠司の鳩尾みぞおちを捉えた。一瞬視界が暗転し、意識が飛びそうになる。


「マジ気持ちわりぃこいつ! 超うぜぇ!」


 暴力の嵐が誠司を襲う。いつもなら背を丸めて耐えるのみだが、今日は違う。後の事など知った事か。


「そうやって悪ぶって、いつも誰かを馬鹿にして、無駄だとは思わないのか。お前たちは俺よりもよっぽど自由なくせに、何もかもを無駄にして――」


 硬い爪先が誠司の頬を蹴り上げた。口の中が鉄さびの味でいっぱいになる。


 段々と腹が立ってきた。不平不満を並び立てて喚くだけの連中に、どうしてこれ以上卑屈になる必要があろうか。


「ばっ! お前、顔は目立つから止せって――なっ!?」


 誠司は起き上がり、肩を掴まれて横を向いた男の頬を殴りつける。人を傷つける事に慣れていない誠司の拳は弱々しい。それでも、狼煙としては十分だった。


「てめぇ、ふざけんな!!」頬を殴られた男が怒号を発する。

「ふざけてるのはそっちだ! 自分がどれだけ恵まれているかも知らないで! 喚き散らすだけのガキになんで俺が怯えなきゃならないんだ!」

「てめぇが気持ちわりぃのがいけねぇんだろうが!」

「気持ち悪いのはお前らだ! いつも守られてて、何もかもを与えられて! それに唾することがカッコいいだなんて勘違いしているお前らは大馬鹿だ!」


 激昂した男の顔が見る間に真っ赤に染まっていく。猿みたいだな、と誠司は思った。


「うっっっぜぇ!! マジでぶっ殺すかんなてめぇ!」


 もう一方的なイジメは存在しなかった。誠司は生まれて初めての喧嘩を経験し、人生初の気絶も同時に味わう事になった。


 切れのある拳を顎に喰らい、誠司の膝が折れる。男たちは倒れた誠司の身体を思うさま踏みつけ、捨て台詞を吐いて立ち去っていく。


 薄れゆく意識の中で、誠司は隣に誰かが立ちすくみ、自分を見下ろしている気配を感じた。


「お前――」


 一人だけなぜか喧嘩に参加しなかった飯田(いいだ)一志(かずし)は何かを言いかけ。つい、と目を背けて三人の背中を追いかける。その姿を誠司はぼんやりと眺めていた。視界の端で小ぶりなカラスが羽ばたく。


 やがて意識は泥沼に沈み込み、眠るように瞳を閉じた。


            ■


 声を張り上げる誠司を、僕は驚きと納得が入り混じった奇妙な感情で見つめていた。


 自らの死と他人の命を握っているという優位感が、遠慮と耐える事に慣れた彼の心を解き放ったのだ。今の姿こそが、彼の本当だ。


 おや、と思い、誠司に暴行を加えていたうちの一人に目を止める。誠司の言葉に動揺し、激昂する他の三人とは距離を取って、何かを考え込んでいるように見えた。


 確か、飯田一志という生徒だ。誠司へのイジメの主犯格四人については、昨日のうちにある程度の調べを進めていた。そして、飯田の家庭環境は――。


 なるほど、と思う。飯田の言葉に思う所があるのだろう。そして自分の勘違いに気が付いたのだ。


 これは光明だ、と僕は思った。魔法の杖を見つけ出したかもしれない。


 立ち去っていくその背中を追って、僕は曇り空へと飛び立った。


            ■


 痛む身体を引きずり、誠司は翌日も変わらず学校へと向かう。


 喧嘩という物は大変な作業であると思い知った。普段は使う事のない筋肉を使ったせいで、全身が錆びついたかのようだ。おまけに頬は腫れ上がっているし、眼の横には誤魔化せない青痣がくっきりと残っている。何より苦労したのは母親への説明だ。階段から転げ落ちた、と使い古された言い訳をしてみたが、それで母が騙されてくれたとは思えない。しかし今更気にする事も無いだろう。どうせ自分は余命いくばくもないのだ。


 下手に反抗をしたせいで、今日は一際苛烈なイジメが待ち受けているのだろうと覚悟していた。ところが蓋を開けてみれば、誰も彼もが誠司を遠巻きにし、まるで紛れ込んだ野生動物を見るような興味と警戒が入り混じった視線を向けている。


 放課後の一件は、次の日にはクラスのほぼ全員が知る所となっていた。そのせいでクラスメイトの間では誠司の評価に変化が生じていた。つまり、侮れない奴と認識されたのだ。


 彼は何かを吹っ切った。クラスメイト達はその気配を敏感に感じ取ったのだ。下手に手を出せば噛みつかれる。


 威嚇など馬鹿馬鹿しいと誠司は思っていた。それは弱者の強がりだ。しかしこうしてその効果を得てみると、割と悪くないなと思う。特に意識しての行為では無かったのだが、実に有効であったようだ。とはいえ、積極的にそうしようとはとても思えないが。やはりそれは恥ずべき行為だ。


 教室の最後方に陣取った例の四人組が視界に入った。あちらも気が付いたようで、遠慮のない舌打ちと敵意の視線を向けてくる。だが、それ以上の事はしてこない。面倒事になると解った以上、慎重にならざるを得ないのだろう。


 僥倖だ。このまま俺の人生の終わりまで平穏であって欲しい、と誠司は思った。それがいつなのかは正確には解らないが、そう遠くない事だけは何故か解る。これが死期を悟ると言う奴だろうか。


 しかし、誠司の平穏であってほしいという願いは、その日のうちに砕かれた。

 夕飯の買い物を済ませ家路に付く。行く先に人影があるのに気が付いた。近づくにつれ、それが間違いなく自宅の前に居る事と、身に着けた制服から、同じ学校に通っている生徒である事が次いでわかった。


 嫌な予感がした。そしてそれは思い過ごしではなかった。


「何してんだよ、飯田」

「遅いと思ったら、買い物してたのか、中原。夕飯の支度か」


 誠司は肩を竦める。会話にならない。しかし、飯田が自分を待っていたのは間違いがないようだ。


「何か用かよ」


 乾いた喉を震わせて問う。しかし飯田一志は迷うように黙ったままだ。


 ややあって、飯田は突然「お前、喋るカラスに心当たりあるか」と言い出した。誠司は思わず「はぁ?」と言いかけて、その手前で言葉に詰まる。心当たりがある、程度では済まない程知っている。


 その様子をみて、飯田は納得したように、心を整理するように震える溜息をつく。そして。


 勢いよく、深々と、頭を下げた。


 驚きのあまり息がとまった。目の前の光景が信じられず、混乱する。


「――はっ!? ちょ、飯田。おまえ何――、え?」

「すまなかった」はっきりとした声で飯田が言う。「俺、勘違いしてたんだ。お前の方こそ、恵まれているくせに毎日をつまらなそうに生きている嫌な奴だと思ってて――」

「い、いやいやいや。なんだよお前、わけわかんねぇよ!」


 誠司は思わず言葉を荒げる。混乱が怒りに転化されつつあった。なんだこいつ、いきなり家にまで押しかけてきて訳の分からない事を――。


「誠司? どうしたの、外で大声を出して」


 がちゃり、と音が響き、玄関が開かれる。そこには見える皮膚の殆どを赤黒く爛らせた、誠司の母親の姿があった。


 飯田が息を呑む気配が伝わる。無理もない、あの姿を見れば誰もが凍り付く。


「あら? あらあらあら。 もしかして、誠司のお友達?」

「え、いや、その、俺は……」

「まぁまぁまぁ。ほら、そんな所で立ち話なんてしていないで、お上がりなさいな」

「ご、ごめんお母さん。こいつ、もう帰る所だから送ってくるよ!」誠司は慌てて言い、飯田に指を向ける。「買い物を冷蔵庫にしまって来るから、少し待ってろ」


 やがて二人は無言で連れ立って歩き、住宅街にぽつんと佇む小さな公園を目指した。茜色に染まるベンチに腰掛け、組んだ自分の手の指を無言で見下ろしている。


「昨日の夜」飯田が口を開く。「小さなカラスが部屋の窓をつついたんだ。夜なのにおかしいなと思って、それに、怪我でもしてるんじゃないかと思って部屋にいれたら」


 飯田の言う小さなカラスとは、間違いなくクロの事だろう。


「そいつに、色々聞かされたのか」

「――あぁ。中原の家庭環境とか、普段の苦労とか聞いてさ。俺、とんでもない勘違いをしていたって気が付いて」

「よく信じたな」

「俺だって、初めは頭がおかしくなったのかと思ったさ。でも、お前もそのカラスを知っているって解って、さ」


 つまり、本当に信じたのはついさっきと言う訳か。


「勘違いってなんだよ」


 誠司の問いに、飯田は小さく咳払いをする。


「ありがちって思われるかも知れないけど、俺の妹がさ、病気なんだ」

「病気?」突然の告白に思わず聞き返す。

「病名を聞いても、難しすぎてよく解らないんだけどさ。とにかく、臓器を移植したりしないと危ないって」飯田は苦笑いを浮かべながら頬を掻く。「でもさ、臓器移植ってめちゃくちゃお金がかかるんだよ。普段の治療費も結構な金額でさ」


 誠司はうなずいた。自分もそういった事情に明るいわけではないが、お金がかかるという点は理解できる。


「うちは本当に普通の家庭でさ、延命のための費用を工面するだけで精一杯なんだ。移植費用をあちこちから掻き集めてもまだ足りなくて、親父もお袋もずっと働きづめでさ。俺、高校行けねぇかも。そんな金ねぇもん」


 大学なんてまず無理だな、と飯田は力なく笑う。鏡を見ているような気分だった。


「なんて言うかさ、色々あるんじゃないか? ほら、募金とかさ」


 誠司の言葉に、しかし飯田は力なく首を横に振る。


「駅前で妹の写真を抱えて、お願いしますって頭を下げるのか? 俺は良いけどさ、両親はそういうの、馬鹿にしてきた人たちだから、絶対にそれは駄目だって」


 馬鹿はどっちだろうな、と飯田が呟く。


「結局、〝難病を患った娘の為に奮闘する親〟を演じたいだけなんだ。悲劇の舞台で踊っていたいんだよ」


 飯田が咳払いをし、身体を揺らして居住まいを正す。ようやく本題に入るようだ。


「俺さ、ずっと前から妹の面倒で、毎日毎日病院と家の往復でさ。両親は働きづめだから家事もやらされてて。それを褒めて欲しくても〝妹はもっと大変な思いをしているのに〟とか〝お前は五体満足なのに贅沢を言うな〟とか、逆に責められてさ」


 誠司は少し顎を引く。どこかで聞いたような話だ。違いがあるとすれば、他人から責められるか、自分で自分を責めるかの一点のみだ。


「他の奴らが羨ましかったよ。本当に。怒って泣いて、我儘言って。悩みなんて無いみたいに遊び回って。俺はその背中を見てるだけ。せめて学校では俺もそうあろうとしてたけれど、虚しいばかりでさ」


 誠司は鼻を鳴らして視線を泳がせる。飯田は誠司が良く知る誰かに似ている。

 飯田が不意に顔を上げ、ちらりと誠司を見遣る。


「お前もそうだと思ってたんだ。恵まれているくせに、ふくれっ面でそれを足蹴にして。毎日をただ無気力に、つまらなそうに生きている。贅沢で、我儘で、横暴で、嫌味な奴だって思ってた」

「……お互い様だね」


 口端を歪めて誠司が言う。飯田も合わせるように不器用に笑って見せた。


「お互い様。そう、お互い様だったな」飯田は紅く焼ける空に目を向け、夕日の眩しさに目を細めた。「母親の火傷、酷かったな。想像以上だった。……大変なんじゃないのか」

「まぁね。まともに歩くのも難しいよ。病気はしていないから、健康と言えばそうなのかも知れないけれど」誠司がこたえる。

「人間って、脆いよな」

「でも簡単には壊れたりしないから、周りの人間が苦労する。こんな事、誰にも言えないけれど」

「わかるよ」噛みしめる様に飯田が言う。


 誠司は息を吐いて空を振り仰ぐ。帰路につく鳥の群れが目に入った。俺にもそんな翼があったなら。


 思わず手を伸ばしそうになって、胸の奥から笑いが込み上げる。


 何をしているんだ、俺は。こんなに弱ったのは久々だ。


 不意に飯田が立ち上がる。そして誠司の前に立ち、再び深々と頭を下げた。


「やめろって。お互い様だって言っただろう」

「別だ」すぐさま飯田がこたえる。「それとこれとは別だ。謝っただけで済むとは思ってない。好きなだけ殴れ。気の済むように蹴れ」

「は、はぁ? なんだよお前。そんなキャラじゃねぇだろう」

「俺だって解んねぇよ!」飯田が顔を跳ね上げる。


 突然張り上げた飯田の声に、誠司は思わず背筋に力を込める。


「俺だってらしくないと思っているよ。でもさ、お前だけは別なんだ。なんつーかさ、こんな事言える奴、そうそう居ないだろ。他に奴に言ったって「へぇ大変だねー」で済まされちまう。言うだけ損ってもんだ」


 それはその通りだと誠司も思う。人は他人の不幸話は聞きたがるくせに、決して共感はしない。せいぜいが〝かわいそう〟と憐れむだけだ。そんなもの、こちら求めていない。


 誠司は大きく溜息をつく。呆れている風を装うが、本当は自分だって動揺している。


「結局、飯田はどうしたいんだよ。もうイジメはしませんから、許してくださいって?」

「……許してもらえるとは、思ってねぇよ。そんな簡単じゃねぇだろ」

「だったら――」

「たまにこうやって話を聞いてくれれば、それで、いい」


 視線を逸らして飯田が言う。誠司は言葉に詰まった。


 簡単じゃない。それも飯田の言うとおりだ。身体は癒えても、心の傷は頭を下げられたくらいでは癒されない。謝罪は鎮痛剤にもならない。


 だけど――。


「……考えさせてくれ」

「あっ、ちょ」

「夕飯の支度をしないといけないんだよ。お前も、この後病院行くんだろ」


 名残惜しそうな飯田を横目に、誠司は公園の出口へと向かって足を進める。


 また明日な、という声が背中を叩き、胸まで抜けた。


            ■


 誠司は上の空でじゃがいもの皮を剥く。でんぷんで指を滑らせて三度もシンクへ落とした。

 今日のメニューをカレーにしたのは正解だ。これならば多少失敗しても不味くはならない。


 自室に戻り、ベットに身体を投げ出す。右腕で目を覆い、意識を深い所へ落としていく。


 悪くない、と思っていた。確かに悩んではいるが、飯田の申し出を断る理由は無い。悩んでいるのは、今までの恨みを無かったことにするような気がするからだ。簡単ではない。


 本当なら、じっくり時間を掛けたい問題だ。随分とボタンを掛け違えて来たようだ。一瞬では直せない。


 しかし自分には時間が無い。なにせ、死神から死を宣告されているのだ。


 素直に首を縦に振れない一番の理由はそこだ。死を目前にして、新たな人間関係を築くことは裏切りではないのか。


 死。そう、死だ。死は全てを終わらせる。何もかもを手の届かない彼岸へ追いやる。


 ふとした閃きに胸を焼かれた。


 死。そうだ、思い出した。というか、なぜ忘れていたのだ。


 死ぬのは自分だけじゃない。成仏の条件として死神に提示した俺の願いは――。


 焦りと不安に脳髄が煙を上げるようだった。体当たりをするように窓に飛びつき、へし折る勢いで鍵を降ろして乱暴にガラスを引く。


 眼と首をぐりぐり動かして辺りを見回す。ややあって――見つけた。小ぶりなカラスが闇夜に溶け込むようにして電線にとまっている。


「クロ!」


 誠司は名を呼ぶ。死神の使い魔の名を。一羽のカラスが夜風と共に部屋に飛び込んできた。器用にカーペットに着地し、首を巡らせて誠司を見上げる。


「クロ、俺――」

「わかってる」


 クロは頷き、静かにそう言った。誠司はほっとして息をつく。


「シェム――。あの白い死神が誠司の願いを叶えようとするまでには、まだ時間があるはずだ。願いを変える。それで良いんだな?」


 クロの言葉に、誠司はゆっくりと頷いた。




 僕は根城にしている廃洋館を目指して飛び立った。眼だけは特別製のようで、星明り程度の光があれば飛ぶことは可能だ。

 開け放たれている窓から部屋に入り、ソファーの背もたれに降り立つ。


「……あれ?」


 首を巡らせるが、現家主――シェムの姿が無い。トイレにでも行っているのだろうか。死神にも生理現象はあるのかな。


 それにしても本だらけだ。剥き出しの床面の方が少ないのでは、とすら思える。


 本屋で平積みにされているような新書。表紙の色褪せた文庫本。駅の売店で売られていそうなペーパーバック。図書館の奥底で息を潜めていそうな、重厚な装丁が施された書物。


 まるで本の博物館だ。これほどの書物を読み漁っても、人の心と言うのは理解しがたいらしい。


 いや。だからこそ、か。それほどまでに難解だからこそ、あらゆるものに無関心なシェムですら、その真理に指を掛けようとページを捲り続けるのだ。


 そんな事を考えて部屋を眺めていると、不意にとある違和感を覚えた。シェムがいつも本を置いているテーブルに、今は一冊の本も無い。ソファーの上も同様だ。


 〝これらの本を読み終えるまで――〟そう言ってシェムが示した三冊の本は、おびただしい数の書物に混じって、今は全て床に積み上げられている。つまり、既に読了済みと言う事だ。


 まさか――。


「……まずい。もう動き出しているのか!?」


 弾かれるように飛び上がり、僕は再び夜空へと身を躍らせた。

 死神にとって、時間という概念は酷く曖昧な物だというのは承知していたが、まさか前倒しもありうるとは考えていなかった。


 早鐘を打つ心臓に急かされ、僕は夜空を駆ける。




 中原誠司は夜道を駆けていた。クロから事情を聞かされ、家を飛び出した。


 あの死神は間違いなく〝願い〟を叶える為に動き出した。根拠は無い、勘違いならそれで良い。だが本当にそうだとしたら、今度こそ全てがお仕舞だ。


「くそっ、どこに――」


 息を切らし、膝に手をついて俯く。


 考えろ。考えろ考えろ。あの死神はどこへ行く? 例の四人の元へ向かうとして、誰の所へ行くのだ。


 情報が少なすぎる。状況は絶望的に思えた。そもそも、あの四人は今どこに居る? 住所すら知らない。


 背中を伝う汗を感じながら、ひとつ深呼吸をする。落ち着け。考えろ。必ず答えはある。


 視点を変える必要があると思った。たとえば自分があの死神だったして、どういう順番で向かう? 四人のうち、一人でも居場所の解る奴は居ないか?


 ちり、と脳裏にとある考えが浮かぶ。自分はあの死神に、四人の名前を名簿順――五十音順で伝えた。特別な理由でもない限り、リストは上から潰していくものではないのか。


 一番目に挙げた名前は〝飯田一志〟だ。確率はどれほどかは解らないが、賭けるしかない。だが、飯田が何処に居るのかまでは――。


「そうだ、病院……!!」


 飯田の妹は、臓器移植を必要とするほどの難病だと言っていた。この街でそんな患者を抱えられるような病院は一つしかない。


 僕は携帯を取り出して時間を確認する。八時手前――。面会時間はとっくに終わっているだろうが、上手く行けば家路に付いている飯田を見つけ出す事ができるかもしれない。


 なんにせよ、他に案も無い。一点賭けの大勝負だ。


            ■


 暗闇が渦巻いた。闇はゆるりと波打ち、その中から女学生の制服に身を包んだ白い死神が姿を現した。


 つい、と視線を上げ、巨大な病棟を見上げる。一人目の目標、飯田一志はここに居るはずだ。さっさと済ましてしまおうとシェムは思った。


 肩にかかる髪をはらって一歩踏み出す。そこで背後から駆け込んでくる足音が聞こえてきた。シェムはピクリと片眉を上げて、振り返る。


「人払いはしたはずですが」

「け、気配が、はぁ、したんだ……。近くまで来たら、ここに居るって、何となく、解った」


 そこには息を切らし、肩と腹を激しく上下させている中原誠司が居た。


 そうか、とシェムは心中で頷く。今、自分と誠司は関わりを持っている。それも命のやり取りだ。繋がった(パス)は太い。


「どんな御用でしょうか」


 ルビーのような紅い瞳が誠司を射抜く。細められたその瞳は、〝邪魔をするな〟と言外に語っていた。


「願いは、取り下げる。飯田を、あいつらを殺すのは待って欲しい」


 シェムは黙って、少し顎を引く。訝しむような視線を誠司に向ける。ややあって、ゆっくりと首を横に振った。


「それは受け入れられません」

「ど、どうして! 変更できないとか、時間制限があるなんて話は聞いていないぞ!」

「キリが無いからですよ」ぴしゃりとシェムが言い放つ。「貴方たち人間はいつもそうです。気まぐれで、移り気で、一定ではない。それとも、本当の願いを見つけ出したのですか? そうであるならば、また話は別ですが」


 誠司は息を呑み、目を見開いた。

 拳を握りしめ、胸の奥から絞り出すように声を上げる。


「……生きたい」


 誠司の言葉に、シェムの眉が再び跳ね上がる。


「ようやく解った。俺は生きたいんだ。俺は、俺の人生を生きたい。誰の為でもなく、自分の為に生きていきたい」

「死は必定だと、お伝えしたはずですが」

「やっと見つけたんだ。やっと理解しあえそうな奴が。その。と……と、友達が、できそうなんだ」

「はぁ。それで?」

「初めてなんだ。初めて〝明日の事〟を考えられるようになった。明日何をしよう、明日誰に何を話そう。俺はようやく俺になれそうなんだ。俺は――。俺はまだ、死にたくない」


 雛が殻を破るように。朝日が地平線から顔を出すように、誠司は言う。


「あいつを、死なせたくない……!!」


 シェムはただ黙って誠司を見つめる。そして深く溜息をついた。


「クロめ、一体何をしたというのですか……。何でこんなに、ややこしい事に」


 そして再び向けられた紅い瞳を見て、誠司は背筋が凍りついた。


 シェムの――、白い死神の紅い瞳は、静かな殺意に満ちていた。


 不意に腕を伸ばし、シェムは闇を掴むように拳を握る。その拳を引き寄せると闇は一枚の外套になり、ふわりと白い死神を包み込んだ。そして闇の一部が鋭く伸び、魂を刈り取る大鎌となる。


 黒い外套のフードの奥で、紅い瞳が爛々と輝く。大鎌の刃が月明かりを反射して、妖しく煌めいた。

 正しくそれは、伝承に伝え聞く死神そのものであった。


「まったく、面倒事が更に面倒になっただけではないですか。こんな事になるのなら、さっさとマイナス三つで手を打つべきだったのです」

「ま、マイナス……って、何を言って」


 誠司は後退ろうとして、失敗した。足が地面に縫い付けられたように動かない。圧倒的で決定的な死の体現者を目の前にして、身体が死の恐怖に凍りついた。


「中原誠司。貴方の魂は浄化不良――成仏不可と判断します。よって、この場で無に(かえ)します」


 ゆっくりと大鎌を斜め後ろに引き上げ、シェムが構える。斜めに袈裟切りにする形で振り下ろすつもりだ。


 誠司を見下ろすシェムの瞳に感情は無い。草を刈る。大根を切る。豚を屠殺(とさつ)する。人を殺す。同じことだ。シェムにとって、それらには何の違いも無い。


 絶対的で、暴力的に押し付けられる死。


 大鎌が唸りを上げて振り下ろされる。

 迫る刃を見て、また俺は失敗したのか、と誠司は思う。


 気を使い続けて、感情を押し殺して、声を潜めて、何もかもを失った。

 素直に言えば良かったのだ。自分もクラスメイトみたいに遊びたいと。友達が欲しいと。言えば良かった。伝えれば良かった。


 きっと母親は頷いてくれただろう。好きにして良いと言ってくれたはずだ。それなのにすまし顔で強がって、全てを見逃して来たのは、他ならぬ自分自身だ。

 ああ、また失敗した。下手に粋がって見逃した。手を伸ばすのが遅すぎた。


 刃は容赦なく迫り来る。恐怖に凍り付いた誠司の身体は動かない。


「だああぁぁぁ――――!!」

「どわぁ!?」


 誠司の頭に、何かが勢いよく衝突した。突然の真横からの衝撃にバランスを崩し、誠司は地面に倒れこむ。空を切る刃の鋭い嘶きが鼓膜を震わせた。


「いってぇ! な、何だ一体!」


 誠司は地面に手をついて上体を起こす。見回すと、少し離れた場所でうずくまる、小さな黒い影があった。――クロだ。


「や、やばい……。鳥は衝撃に弱いってマジだったんだ……。骨、何本か逝ったかも」


 うめき声を上げてクロがもがいている。クロにも死があるのかは解らないが、無視できない重傷である事には疑いも無い。


 誠司はクロへ手を伸ばそうとして、動きを止めた。白い死神がクロの嘴を大鎌の背で持ち上げ、見下ろす。


「何をしているんですか、貴方は。邪魔をしろ、と言った覚えはありませんが」


 その声音には明らかな怒りが込められていた。しかしクロは怯えた様子も無く、真っ直ぐに死神を見つめ返す。


「仕事ならきちんとこなしたさ。誠司の本当の願いを引き出した」

「〝死にたくない〟――ですか?」


 馬鹿な、と死神は鼻を鳴らす。


「クロ。貴方は私の役割を忘れたのですか? 見逃すはずは無いでしょう」

「解っているさ。だけど――別に今すぐじゃなくても、良いんじゃないか?」


 死神が小さく顎を引く。


「どういう意味ですか」

「そのまんまさ。人は死ぬ。それは変わらない。だけど時間にルーズな神の事だ。〝正確な日時までは決めていない〟んじゃないのか」


 黒いフードの奥から微かに呻く声が漏れる。大鎌の刃が下げられ、クロの喉元が解放された。


「誰が死ぬのかは〝管理部〟とやらが決めているんだろう? しかし、いつ死ぬのかはお前に託されているんじゃないのか、シェム」


 クロが人の名前らしき言葉を発する。あの死神の名なのだろうと誠司は察した。


「……確かにその通りです。管理部は死にゆく者を指名するだけ。死に方が決められるのも、私のような死神が死の執行を管理部に要請してからです」

「誠司を手にかけようとしていたな。現場の死神は執行権も与えられているのか」

「そこは曖昧です。要するに、私たちは魂の比率が少しでも改善されれば、それで構わないのです」


 クロの予想通りだった。いや、正確にはクロの予想以上に死神はルーズだ。


 目的は一つだけ。手段は問わず、過程も気にしない。最終的に帳尻が合えばそれで良いのだ。


 しかしそれで良い。ルーズだからこそ、付け入る隙もある。


「シェム。誠司の願いを叶えよう」

「何度も言わせないでください。死にたくないだなんて願いは――」

「だからさ、十年後でも、二十年後でも良いだろう。その時間を誠司は自分の人生として生き、最後は死を受け入れて成仏する。お前たち風に言えば、悪くは無い、と言う所じゃないのか」


 死神は、シェムは考え込むように沈黙している。それを好機とみてクロはたたみかけた。


「お前にとっても悪くは無いはずだ。未来の死を受け入れ、覚悟し、積み重ねていくこれからの誠司の人生。どれだけの本を読んでも、そうそう触れる事のできる代物じゃない」


 誰にも綴られていない、未来の物語。生と死にまつわる人間心理を理解しようと努めるシェムにとって、得難い教材となるはずだ。


 その価値をシェムも正しく理解したのか、対応を悩む様子が伏せられた瞳から見て取れた。


 カードは全て切り尽くした。賭けられるものは、もう何もない。


 事の行く末を誠司は祈るような気持ちで見守っていた。

 この期に及んでも俺は無力だ。決定権も交渉権も、自分には無い。人は死に抗えない。


 だが、生きる事ができるのもまた人間だけだ。


 泣いて笑って、悩んで怒って。


 生きて、死ぬ。


 それができるのは人間だけだ。自分の人生は、自分にしか生きられない。


「……シェム」


 クロが死神の名を呼ぶ。そして、銀糸が流れるような美しい溜息が響いた。


            ■


 空に夜の帳が落ち始める頃。沈みかけた太陽に照らされた校舎裏で一人の男子生徒が地面に転がされていた。その周りには三人の男子生徒。いわくイジメであった。今時珍しい、暴力によるストレートなイジメだ。


 いや、今時だからこそ、とも言える。今や教師と生徒のパワーバランスは完全に逆転している。教師は生徒の、ひいてはその背後に控える保護者の顔色を気にしてばかりだ。どれだけあからさまなイジメが横行していたとしても、教師はそれを見て見ぬふりするしかない。下手に関われば教師人生に傷がつく。


「相変わらずじゃないですか」


 そうぼやくのは女子学生の制服に身を包んだ、白髪紅瞳の死神だ。屋上の縁に腰掛け、黄色いペーパーバックを手にして文字と少年を交互に見遣る。


「いいや、そうでもないみたいだ」


 僕は手すりの上で声を上げる。視線の先には、最近金髪を黒く染め直した飯田一志の姿があった。今まさに腹を蹴り上げられようとしている中原誠司もとへ駆けていく。


 飯田一志が駆け込んだ勢いそのままに、誠司を囲んでいた男子生徒の一人を殴り飛ばす。シェムが小さく「ほぉ」と呟いた。


 怒号と罵声が入り混じる。やがて太陽が沈み、暗闇に包まれた校舎裏には二人の男子生徒が仰向けに寝転がっていた。


「負けましたね」シェムが言う。

「ま、二対三じゃあね。誠司は喧嘩慣れもしていないし」


 二人は瞼を腫らし、切れた唇からは血を流している。しかしそれでも、その表情は晴れやかだった。


「何が面白いのでしょう。理解できません」


 くつくつと不器用に笑い合う二人を見下ろし、シェムが呟く。


「理解する事だけが、全てではないと思うけれどね」

「どういう意味ですか?」

「それは自分で考えるべき事だと思うよ。時間はある」


 シェムが中原誠司に与えた猶予時間は二十年。


 三十過ぎ、人生の盛りで彼は死ぬ。そして彼はその事を理解し、受け入れている。


 かわいそうだとは思わない。不憫だとは思えない。彼の人生の価値は、彼自身がこれから築き上げてゆくのだ。僕にできる事と言えば、誰の目にも触れない世界の裏側で、陰ながらエールを送る。せいぜいがそんなものだ。


 願わくば、その人生が良き終わりを迎えんことを。


「そういえばさ、シェム」

「なんです?」面倒そうにシェムが応える。

「僕は成仏しなくても良いのか」


 シェムが首を巡らせて僕を見遣る。


「したいのですか? 成仏」

「いや、そういう訳でも無いけれど」

「もし成仏したいのであれば、〝願い〟を見つけ出してください」

「願いって……、誰の」

「何を言っているんですか。他ならぬ、貴方のですよ」


 僕の、願い。


 何もかもに区切りを付けられるような、魂からの願い。


 僕は絶句する。他人の願いは見つけられても、自分自身の願いにはとんと思い至らない。想像もできない。


「まぁ、じっくり考える事です。時間はあります。それまでは、私の相棒でいてください」


 そういってシェムは静かに微笑む。


 それは彼女が僕に見せた、初めての笑顔だった。



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