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ハッピー・デット・エンド 前編

「しっかり死ねますか?」


 僕の意識を浮かび上がらせたのは、そんな問い掛けだった。

 死ぬのなら返事などできないだろう、と思った。そして僕は返事をする事ができない。たぶん、死に近い状態なのだ。


 頬に硬い感触。目を開けようとして何度も失敗した。やっとの思いで開いた瞳に映ったのは、小さく平べったい、幾つもの岩山。それが地面のアスファルトだと気が付くのに数秒かかった。


 僕は地面に寝転がっていた。どうして。思い出せない。起き上がろうとしたが、無理だった。手足の感覚が無い。


 ぼやける視界が少し晴れ、足が見えた。素足だ。視線を上に向けると、次いで膝頭が目に映った。一人の少女がしゃがみ込んでこちらを見下ろしている。


 白い。真っ先に感じた印象はそれだった。白磁のような肌と、白金を紡いだような長い髪。

次いで見えた色は、紅。僕を見下ろす少女の瞳は、光にかざしたルビーのようだった。


 人間ではない。理屈でなく、理由も無く、心の深い所でそう理解した。人間の形をした、人間以外の何かだ。


 不意に場違いな電子音が鳴り響く。少女が携帯電話を取り出し、耳元にあてる。人外の気配を放つ少女に、現代文明を象徴するような携帯電話は、滑稽なほどに似合っていなかった。


「……はい、そうですね、恐らく成仏はできないでしょう。……はい、はい。確かに、まだ生きているので、私の管轄ではありますが……。え? 移し替え?」


 少女が意外そうな声を上げる。しかし、その表情に変化は少ない。喋る人形を見ているような気持になる。


「ああ、なるほど。例の案を試すのですね。入れ物の形は何でも良いのでしょうか。……はい。では、そのように」


 パタリと音を立てて携帯電話が閉じられる。今時二つ折りとは珍しいな、などと僕は呑気に考えていた。

 では、と少女が改めて僕を見下ろす。それだけで心臓を冷たい手で撫でられたような感覚に襲われる。


「いちおう、承諾を得る決まりなのでお聞きします」


 そこまで言い、少女が言葉を区切る。少女の足元に赤い水たまりが触れ、指を濡らしていく。どこから流れてきたのだろう。


「あまり時間が無さそうですね」感情を感じさせない声が響く。「ではお聞きします。貴方の魂は私の預かりとします。少々、私の仕事を手伝って頂きたいのです。よろしいですか?」


 魂を預かる。その意味を謀りかねて、心の中で首を傾げる。


「いかがですか? はいかイエス。またはOKとお答えください」


            ■


 目が覚めて、初めて眠っていたのだと解る。


 小さいころは、こんなことが割と多かった気がする。全力で遊び、全力で喜び、全力で悲しんで、何の心配も無く、心安らかに眠る。目が覚めればまた新しい一日。輝く明日。


 しかし、いつからだろう。眠る事を苦痛に感じて、朝日が昇るたびに絶望し始めたのは。


 眠らなければ明日は来ないと言うのなら、僕はきっと眠らないだろう。だが明日はやってくる。僕はその日を生きなければならない。まっすぐ立って、人の目を気にして。だから仕方なく眠る。


 辺りを見回す。見覚えの無い壁、知らない天井。古びた調度品はほこりにまみれ、もう百年も触れられていない、と言うようだった。


「お目覚めですか」


 鈴の音色のような声が響く。椅子に腰かけ、小さなテーブルに肘と本を乗せて少女がページを捲る。

髪も肌も透き通るように白く、薄く開かれた瞳は透き通った紅。どこか見覚えのある少女だ。高校の制服らしきものを身につけているので学生に見えなくもないが、白い髪と紅い瞳に日本の学生服は驚くほど似合っていなかった。


 何故気が付かなかったのだろう。目の前に、それもさほど離れてもいない場所に居るのに。まるで認識できなかった。


 そこで初めて気が付いた。少女は真っ直ぐ座っている。僕は寝ていたのだから、横になっているはずなのに。足裏に体重も感じる。僕は立ったまま寝ていたのか?


「良く眠っていましたね。貴方が寝ている間に、二冊読み終えました」


 はらり、と紙の擦れる音が流れる。


「……ここは? 僕は、どうなったんだ」寝起きの頭に火が入らない。状況を呑み込めず、僕は困惑した。「たしか、高い所から落ちて、それで――」


 落ちて、どうなった。


 ……落ちた? 高い所から? どうして……。


「ここが何処かと問われれば、日本のどこかとしかお答えできません。興味も無いので」少女がまたページを捲る。「部屋は廃屋を間借りしています。ここは静かでいい」


 日本の廃屋と少女は言うが、部屋の作りは洋風だ。美しい柄の入った壁紙は剥がれ、カーペットは汚れ、天上から下がる照明はガラスがくすんでいる。

 部屋は薄暗いが、何も見えないと言うほどではない。大きな窓にはカーテンが無かった。


「貴方は死にました」なんでもない事のように少女が言う。「高所からの落下に寄り肉体は破壊され、人としての生を終えました。覚えていませんか?」

「死んだ――って、何を、言って……」


 僕が死んだと言うのなら、ここに居る〝僕〟はなんだと言うのだ。


 つまらない冗談だ、と笑おうとして、失敗した。少女の言う事は冗談の類ではないと、心では理解していた。素直に受けいれようと言う意思がある事に、僕自身が驚いた。


「貴方の魂には不純物が多く、成仏はできないと判断しました。ただ現世を彷徨(さまよ)わせるのもなんですので、私が貴方の魂をお預かりした、と言う訳です。仕事の一環として」

「訳です、と言われても何が何やら。それに、不純物ってなんだ。それに、仕事?」

「不純物とは、一言で言えば〝未練〟でしょうか。生を思うように全うできなかったが故に、この世に魂がこびりつくのです」


 未練を残してこの世にこびり付いた魂。それが一般的にいう所の地縛霊や浮遊霊などの類なのだと、少女が言う。


「成仏できない魂が多すぎる。人の世は不純物を抱えた魂で溢れています。私の仕事は、人々が満足して死ねるようにお手伝いをする事です」


 本に視線を落としたままで少女が言う。


「生を全うし、滞りなく成仏する。そして輪廻の輪に還り、新たな命として生まれ変わる。魂をそのサイクルへ乗せるために、死の近づいた人間の願いを叶え、不純物を取り除く。それが私の仕事内容です」


 理解できましたか? と少女が言う。


 本当なら笑う場面だろう。頭がおかしいのか? 厨二病というやつを患っているのか? と腹を抱えるのが正解なのだ。だが、僕にはそうする事ができない。目の前の少女が〝そう言う存在〟である事に、疑いを持てない。


「君は、何なんだ」


 掠れた声で、絞り出すように言う。

 冗談ですよ、と少女が笑いだしてくれればと願っていた。しかし、それは叶わないだろうとも思っていた。


「貴方たち人間の常識に照らして言えば、死神……という所でしょうか」

「しに、がみ……」


 僕は困惑する。その言葉を、どう受け止めていいのか解らない。


 人々に死をもたらし、その魂をあるべき場所に連れていく。なるほど、確かにそれならば死神と呼ぶのが相応しいのだろう。だが「私は死神です」と言われて何と答えればいいのだ。


 背中を悪寒が走る。それは人が根源的に抱えている恐怖だ。

 しかし不快ではない。どこか心地よくすらある。それがまた、僕には恐ろしかった。


「その死神が、僕になんの用事があるんだ。魂を預かったって、どういう事だ」


 得体の知れない事態に、言葉の端が少し震えた。


「私の仕事を手伝って頂きたいのです」

「手伝う? 仕事を?」


 ええ、と少女が初めて僕に視線を向ける。


「不純物を取り除いて魂を成仏させると言いましたが、これが思うようにいかないのです」

「願いを叶えても成仏してくれないって事か?」

「そうです。富を求めるものには富を。権力を求められれば権力を。家族の幸せを願えばそれを保証し、しかしそれでも人々は成仏してくれません」

「そりゃあ、誰も死にたくはないだろうからね。いきなり、願いを叶えるから成仏してくれと言われても難しいだろう」

「そうです。そこが解らないのです」


 少女が小さく頷く。


「人間はいずれ死にます。一人の例外もありません。そんな事は知っているはずなのに、どうしてそれを受け入れられないのですか?」

「それは……、やっぱり、怖いからじゃないかな」

「怖い」少女は僕の言葉を繰り返す。

「死ぬと言うのは、全てを失うという事だろう。日々を必死に生きて来たのに、突然その全てを失うと言われても、やっぱり受け入れられるものじゃないよ」


 少女はゆっくりと首を横に振る。


「解りません。火は熱い、水は冷たい、人は死ぬ。当たり前の事です。何が違うと言うのですか」

「違わないさ。でも、生にしがみついていなければ、死を遠ざけなければ、幸せにはなれない。死は最大の不幸だ。どんな理由があろうとも」


 昔の哲学者が言っていた。人は死をどうにもする事はできない。人が幸せになるには、死について考えないようにしなければならないのだ、と。


「ですが、人は時に自ら死を選びます。そのくせ、現世に強い未練を残しているので、成仏してはくれない」少女が小さくため息をつく。彼女が始めて見せた人間に似た一面だった。「死に怯え、死を拒絶し、死を選ぶ。人間は矛盾だらけで、欲深い。満足せず、観念もしない。正直に言って、手に負えません」


 なるほど、と僕は頷く。ようやく話が見えて来た。


「人間の心理が理解できず、仕事がうまくいかない。だから人間の力を借りたい。そういう事か」

「その通りです」少女が首肯する。

「でもなぁ、人間の心なんて、人間自身にとっても摩訶不思議なものなんだ。力にはなれないかも知れない」

「構いません。駄目で元々、というやつです。上手く行けばそれでよし。駄目なら別の手を講じるまでです」


 ダメ元とは、死神も人間臭い言葉を使うのだな、と僕は少しおかしくなった。


「ちなみに、貴方に拒否権は存在しません。先に承諾は得ていますから」


 そういわれて、ぼんやりと記憶が蘇る。割と最初から拒否権など無かった気がするが……。


「名前は?」

「名前? 私のですか」少女が微かに首を傾げる。

「仕事のパートナーという事なら、互いの名前くらい知らないと不便だろう」


 それもそうですね、と少女が頷く。


「私には〝シェム〟という名が与えられています」

「シェム、ね。僕は――」


 言いかけて、喉が詰まった。自分の名前が思い出せない。


「やはり、記憶に残ってはいませんか」シェムが言う。「肉体から魂が離れると同時に、人は自我をほぼ失います。貴方の場合、魂を移し替えた時に記憶の一部が消えてしまったのでしょう」

「移し替えたって、どういう事だ」

「言葉の意味通りですが」


 ほら、とシェムがこちらを見たまま背後を指で示す。そこには一枚の大鏡があり、シェムの背と、一羽の黒い鳥が映っている。どうやらカラスようだ。


 状況が吞みこめず、首を(かし)げる。すると、鏡の中でもカラスが首を(かたむ)けた。

 はて、と思い、今度は逆方向に首を向ける。鏡の中のカラスも同様であった。


 まさか。いやそんな。


 右腕を上げる。カラスも羽を上げた。左腕。結果は同じ。


「……何をしているのですか?」

「う、移し替えたって言っていたよな。まさか、今の僕って……」

「そうです。飛べた方が何かと便利でしょう」


 言葉を失う。本人は合理的に考えたつもりであるのか、自信ありげに言い切る。


 確かに、誰もが一度は空を飛べたらと夢想をする事はあろう。しかし、それが現実になってしまうとは。いや、そもそもこれは現実なのか……。


「貴方の名前を考えなくてはいけませんね」驚きのあまり顎を落とす、正確にはくちばしを落とす僕を無視してシェムが言う。「そうですね、あまり捻っても面倒ですし、〝クロ〟とでも呼ばせていただく事にしましょうか」

「……もう、好きにしてくれ……」


 力なく肩を落とす。それ以外の選択肢は僕に残されてはいなかった。


            ■


 今、僕とシェムはとある中学校の屋上に居る。シェムは手すりを超えた屋上の淵に腰掛け、足をぶらつかせながら膝の上で大きな本を開いている。そして僕はといえば、シェムの後ろで手すりの上に立っている。現在の僕はカラスなので、止まっているという表現が正しいのだろうか。


 僕は大きくため息をついた。まったく、気が重い。というのも、シェムによれば今回の対象者は男子中学生だというからだ。


 いくらなんでも若すぎるのではないか、とシェムに言ったが、シェムは「私が対象者の選定をしているわけではありません」と本から視線を上げる事も無かった。管理部がどのような基準で対象者を選定しているかも知らないと言う。ダメ元という言葉を聞いた時にも感じたが、死神も割とアバウトだ。役割が役割であるので、少しも笑えないが。


 教室の一つを見下ろし、窓際に座る一人の男子生徒を見遣る。中肉中背。髪は黒く、何かから隠れるかのように背中を丸めている。なんというか、パッとしない印象だ。


 少年がびくりと震える。そしておずおずと立ち上がった。教師に指名され、回答を言わされているのだろう。授業ではよくある事だ。

 次の瞬間、教室から笑い声が溢れ出した。少年は唇を強く引き結び、俯いて席に着く。笑いを鎮めようとする教師の声も震えていた。


「彼らは何が楽しいのでしょう」シェムが本に視線を落としたままで言う。

「さぁ、な……」


 気分がますます重くなる。今回の対象者――死を届けられるのは、俯いて教科書を皺が寄るほど握りしめている、あの少年らしい。


 この仕事は実にハードだ。少なくとも、僕にとっては。


「なぁ、本当にあんな若い子に死を突きつけるのか?」

「死に年齢は関係ありません」


 そんなだから成仏率が低いんだよ、と僕は小さく呟いた。


「あの子はどうやって死ぬんだ。まさか、シェムが殺すのか」

「いいえ、死の形を決めるのは管理部の仕事です。私が直接手を下す事もできますが、望ましい手段ではありません」


 望ましい死などあるはずがない。事故死でも、病死でもだ。

 そして、僕の予想が正しければ、あの少年の死は恐らく……。


「そういえば、僕はどうして死んだんだ?」


 不吉な想像を断ち切りたくて、僕はそう尋ねた。


「貴方の魂には不純物が多かった、という事はお伝えしましたね」シェムの手元から紙の擦れる音が鳴る。「この世に未練を残し、更には高所からの転落死。説明は不要と思いますが」


 それだけでは事故かもしれないし、誰かに突き落とされたのかもしれない。しかしシェムは意識的に明言を避けた。つまり、そういう事なのだろう。


 僕は再び大きくため息をついた。気を紛らわすつもりが裏目に出てしまった。というか、質問が良くなかった。


「本、好きなんだな」シェムの薄い背中に声を掛ける。「どんな本を読んでいるんだ?」

「英雄譚や冒険もの、恋愛小説やミステリーにサスペンス。時にはホラー、です」

「なんでもありって事か」


 ふと、とある疑問が脳裏によぎる。


「シェムは人間の気持ちを理解できないんだろう? それなのに、物語を読んで楽しめるものなのか」

「いえ、全く楽しくありません。ですので、本が好きと言う事もありません」シェムがまたページを捲る。「人間は理不尽で、不条理で、不完全です。しかし、だからこそ様々な物語を紡ぎだせる。私は人間心理を知る為の手段として、本を読んでいるに過ぎません」


 不完全だからこそ物語を紡ぎ出せる。それは確かにそうかもしれないが、僕にしてみれば死神や、他の神様だって相当に不完全に思える。


「勉強はあまり成果を上げていないみたいだね。僕みたいな奴を頼るようじゃ、全然だ。しかも半ば以上、拉致みたいなものだったし」


 僕は茶化す様に言うが、シェムは少しも気にした様子が無い。


「人間に対する理解不足は神全体の問題です。神は創造をすることはできますが、想像をする事ができません。我ら神にあるのは始まりと終わりだけなのです。その中間は意識からすっぽりと抜け落ちている。だから、人に寄り添えない」


 ですので、とシェムが少し振り向いて紅い瞳で僕を見る。


「その中間を貴方に埋めてもらいたいのです。期待していますよ」


 これほど感情を伴わない期待を目の当たりにしたのは初めてだ。察するに、読んだ本の知識から得た言い回しなのだろう。覚えたての言葉を使ってみたいだけだ。


 それにしても、と思う。


 神が人間を理解できないように、人間も神を正しく理解しているとは思えない。神も人間も、自分の持つものさしでしか相手を量る事はできない。


 その橋渡しをしろ、と言うのか。神と人間の橋渡しを。しかも神の方は〝死神〟だ。

 とんでもない大役を仰せつかったものだ、と僕は何度目かも解らないため息をついた。


 いっその事、このままため息と一緒に魂も飛ばせてしまえれば良いのに、と僕は思った。




 僕たちは少年を観察し続ける。彼の学内の立場は、はたから見ていても気持ちのいい物では無かったが、それでも観察を続ける。


 観察を続ける理由は二つ。一つは話しかけるタイミングを見極める事。


 死神と言えど神の端くれなので、いつでも常識の垣根を越えて対象と接触する事は可能だ。しかし、突然に死を突き付けられて平静を保てる人間は少ない。やけになって事件を引き起したり、事故を起こしたり、自死に走ったり、引き籠ったりとろくなことにならないらしい。


 なので、対象をじっくり観察して適切なタイミングを見計らえ、と言うのが管理部からのお達しらしい。死神にそれができるのなら、最初から苦労はないと思うのだが。現場に理想論を押し付けてくるのはどこの世界も変わりがないらしい。


 そして二つ目。これは僕が言い出したことだが、対象の事を良く知りたいと思ったのだ。


 願いを叶えても成仏できないと言う事は、未練が残っていると言う事だ。自分でも意識していない願いが他にあるか、死ぬこと自体に未練を残しているか。

 そもそも、生への執着など簡単に断ち切れるものではないのだ。それをさせようと言うのだから、対象への理解は必須と言えるだろう。死神にはできない事だ。




 放課後。逃げるように帰途につこうとしていた少年は、数名の男子生徒に無理やり連れ出された。僕とシェムもその背中を追って屋上を移動する。少年は校舎裏まで引きずられ、チューハイの空き缶や煙草の吸殻が散乱する場所に、ゴミ当然に放り出される。


 そこから先は謂れのない暴言と容赦のない暴力の嵐。男子生徒たちは顔などの目立つ場所は避け、少年の身体へ執拗な攻撃を加えている。


「あれはイジメというやつですね。割とよく見ます」珍しい動物を紹介するようにシェムが言う。「相変わらず理解しがたい。同族をここまで執拗に痛めつける生物は、そうはいません」


 そう言ってシェムは少し眉根を寄せる。だが暴力に嫌悪感を覚えている訳では無さそうだ。〝また人間が不思議なダンスを踊っている〟という程度の認識でしかないのだろう。


「クロ。なぜ人間は同族をこうも攻撃するのですか。行動に意味を見出せません」

「怖いからじゃないかな」

「また〝怖い〟ですか。人間は怖がりですね」

「恐怖は人間にとって必要不可欠なんだ。もちろん、良い事ばかりじゃないが」


 知らない物は怖い、わからない物は恐ろしい。それが人間だ。そして、その恐怖こそが人間を進化させてきたともいえる。

 知らなければ知ろうとする。わからなければ理解に努める。そしてその知識を自分の手元で扱えるように技術を磨く。そうして人間は進化してきたのだ。


 そんな人間でも、未だに持て余している物がある。他ならぬ、人間自身の心理だ。


「イジメと言うのは、いつでも、どこでも起こりうるんだ。学校のクラス内ともなれば、それに近いものは必ず発生すると言ってもいい」


 そう。おぞましい事に。


「平和であればそれに越したことは無い。だけど、次第にその平和を恐れはじめる。〝誰かが平和を乱すんじゃないか〟〝些細な切っ掛けでイジメが始まるんじゃないか〟〝目立つことをすれば、自分がイジメられるんじゃないか〟とね」

「ふむ。それで?」

「平和でいる事に耐えられなくなる」


 平和を乱されるのが怖ければ、自分が乱してしまえばいい。

 イジメられるのが恐ろしければ、自分がイジメてしまえばいい。


「愚かしいですね」シェムは呆れたように息をつく。「なれば、彼は生贄と言った所ですか」

「生贄……。そうだね、そうかも知れない」


 軽んじられ、嘲笑され、謂れの無い暴力に晒される。誰もが恐れるそれらの行為を一身に受ける彼には、生贄という表現がぴたりと当てはまるのかもしれない。




「雨、降ってきましたね」


 シェムの言葉に空を見上げる。くちばしに一滴の雫が落ち、流れていく。雨脚は見る間に強まり、辺りを白く(けぶ)らせる。

 少年を足蹴にしていた男子生徒たちが猿のような声を上げながら去っていく。解放された少年も立ち上がり、痛む身体を引きずるようにして歩き出した。


 放り出された鞄と靴を拾い、少年は正門へと向かっていく。


少年が鞄から折り畳み傘を取り出す。広げられた傘からだらりと布が垂れた。どうやら刃物で切り刻まれたらしい。

 実に単純で、悪質な嫌がらせだ。少年は苛ただしげに舌打をし、傘を道脇へ放り捨てた。


「ポイ捨てとは、感心できませんね」シェムが言う。

「そう言ってやるなよ……」


 シェムが何かを掴むように手を上げると、どこからともなく、真っ赤な傘が現れた。僕は今更驚かない。

僕はシェムの肩に乗り、雨粒をしのぐ。翼が濡れては思うように飛べないからだ。


 不意に、とん、とシェムが前にステップを踏む。


「えっ」


 意識せずに間抜けな声が出てしまう。しかし、それも無理はない。今、僕たちが居るのは屋上の淵。つまり前に進めば――。


 落ちる。


「ちょっ! おまっ!? えぇっ!?」


 ぐいぐいと近づく地表。バタバタと悲鳴を上げる雨傘。涼しい顔のシェム。翼をばたつかせて飛ぼうと試みるが、濡れた翼は思うように動かない。僕はシェムの肩に爪を食い込ませる事しかできなかった。


「うぐっ――!?」


 視界が校庭の茶色で一杯になる。二度目の死を予感して、僕は目を瞑った。しかし覚悟していた衝撃は訪れない。

 墜落の寸前、僕とシェムの身体を不思議な揚力が包み込む。ふわりと浮いたシェムの身体は、ゆっくりと地面に着地した。


「うるさいです、クロ。それと、肩、痛いです」


 呆然とする僕に、平然とシェムが言う。もう大抵の事には驚かないつもりでいたが、流石にこういうのは勘弁願いたい。


「さ、行きましょう。ようやく訪れた接触のチャンスです」


 そう言って、不自然に丈夫な赤い傘をさし、肩にカラスを乗せた白髪紅目の少女は、ゆっくりと歩き出した。


           ■


 雨で煙る住宅街を一人の少年が歩いていく。全身はずぶ濡れで、時折前髪から落ちる雫をうっとおしそうに払っている。黒い詰襟の学生服は更に黒々と身体に張り付き、雨水の侵入した足もとからは、一歩進むごとに熟れた果実が潰れるような音があがる。


 なんと惨めなのだろう。少年の心を埋め尽くすのは、そんな重くて暗い感情だった。


 すれ違う人々の視線が突き刺さるようで、その度に少年は肩を強張らせる。雨の予報は出ていたのに、なんであいつは傘もささずに濡れ鼠なんだ。そんな事を思われているに違いない。


 どうして。いつもそう考えていた。


 解っている。理由なんてない。

 イジメに、理由なんていらない。

 俺は悪くない。誰も傷つけていないし、誰に迷惑をかけている訳でも無い。

 大人しく、誠実で、謙虚。それが人間の正しい姿であるし、そうあるべきだと思っている。


 だけど、あいつらは違う。横暴で、暴力的で、傲慢だ。

 授業は乱すし、いつもルールを守らない。誰にでも高圧的で、ろくものでは無い。

 それなのに。それなのに、あいつらは正義だ。

 誰もあいつらに意見しない。誰も逆らえない。教師ですら関わろうとしない。あいつらの行為の全ては黙認される。警察のお世話になる事をしなければどうでも良い。誰もがそう考えている。


 俺は正しい。俺は正義だ。それは間違いないはずだ。それなのに、あの〝学校〟という狭い枠組みの中では常識が逆転する。


 暴力に暴力で応えない。それは美徳であるはすだ。だというのに、学校でそれをすると弱者のレッテルを張られてしまう。意志の弱い奴、声を上げられない奴、社会不適合者。


 ではあいつらは何だ。あいつらこそ社会不適合者ではないのか。なのに、あいつらの行為は全て〝若気の至り〟で許される。子供の悪戯と同程度としか見られない。


 おかしい。理不尽だ。こんなのは狂っている。


 イジメはそんな生ぬるいものでは無い。誰も彼も、認識が甘すぎる。今まで幾つもの若い命がイジメに耐えかねて散っていったというのに、具体的に対策が講じられる事は無い。


 どうして僕だけ。


 正しくあろうとすると生き辛い。だけど、悪くも生きられない。


 どうして僕は救われない。どうしてあいつらは罰せられない。

 どうして。解っている。

 どうして。納得できない。

 どうして。どうして。どうして。どうして――。


 足元で水が弾ける。思い切り水溜りを踏んだその音で、少年の意識が引き戻された。

 目立つ事をしてしまった、と小さく心中で悔やみながら辺りに目配せする。


 そして、異変に気が付いた。


 いつもの帰り道。そうであるはずだ。だけれど、何かが明らかに違っている。


 人の気配がしない。いや、生き物の息遣いを感じられない。いくら雨が降っているとはいえ、夕方前に何の気配も無いとはどういうことだ。まるで精巧につくられたジオラマの世界にでも迷い込んだ気分になる。

 世界が遠い。不意にそんな表現が頭に浮かんだ。薄い膜を通して辺りを見ているような感覚。馬鹿な、と振り払う。そんな事があるものか。そうは思いながらも、焦るように歩調は早まった。


 十字路を右に折れた所で、ぎくりとして立ち止まる。人影があった。真っ赤な傘をさし、見慣れぬブレザーの制服に身を包んでいる。どこかの女子高生だろうか。


 女子高生は道の真ん中で、少年のほうを向いて立っている。まるで待ち構えるように。

 少年は一瞬たじろいだが、動揺を見せるのもはばかられてそのまま歩を進める。どうせ考え過ぎだろう。高校生の知り合いも居ない。


 近づくにつれ、女子高生の異様さに気が付いた。長い髪も、細い首も、実に白い。その白さが瞳の紅を際立たせている。息を吞むほど美しいが、まるで洋人形のように精気を感じない。

 そして、極めつけは肩に乗せた黒い鳥だ。いささか小ぶりだが、どう見てもカラス。まさかペットと言う訳でもあるまい。


 とても美しい。が、驚くほど不気味だ。少年はうすら寒い物を感じ、不自然にならない程度に距離を開けて女子高生とすれ違おうとする。そしてその横を過ぎる瞬間。


「こんにちは。良い雨ですね」


 そう声を掛けられた。


 例の女子高生が発した声であると理解するまでに間があった。突然人形が喋りだしたような感覚に襲われる。不気味で、恐ろしい。


 首を斜め上に傾けて、女子高生が肩越しに少年を見遣る。紅い瞳に見据えられて少年は身を固くした。

 人間では無い。少年は瞬間でそう理解した。理由は無い、理屈でもない。だが、目の前の女子高生が〝人間の形をした別物〟であることは、するりと理解の奥に入り込んできた。


 女子高生が少年へ向き直る。肩に乗ったカラスと目が合った。こちらを見透かそうとするような、意志のこもった瞳。あちらも、見た目通りのカラスでは無い。


 ごくりと生唾を吞みこみ、ひりつく喉を無理やり動かす。


「な……にか、御用ですか」


 たった一言を発するだけで息が切れた。こうして対峙するだけで、心臓を冷たい手で掴まれているような錯覚に陥る。


「一つ、伺いたいことがございまして」

「伺うって――何を」

「ええ、大した話ではありません。――貴方は、もうすぐ死亡致します」平然と女子高生が言う。「私は、貴方にしっかりと成仏して頂かなくてはなりません。ですので、この世に未練を残さぬよう、願いを叶える為にまいりました」


 少年はただ固まっている。突然の死の宣告に、理解が追いついていなかった。それを知ってか知らずか、死神の女子高生は言葉を続ける。


「とりあえず、願いを言ってみてください。大抵のことは叶えて差し上げます」


 白い死神が静かに問う。


「貴方の願いは――なんですか?」


            ■


 僕は少年を――中原(なかはら)誠司(せいじ)を観察する。


 誠司は苦しそうに切れ切れの吐息を漏らし、表情を硬くしている。突然の事態に思考が追い付かないのだろう。無理もない。


 貴方は死にます。


 普通そんな事を言われれば、怒るか笑うか、あるいは呆れるかだろう。だがシェムの放つ気配はそれを許さない。よほど心が強靭でなければ、その紅い瞳に見据えられただけで呑まれてしまう。


「あ、そうだ」シェムが場の雰囲気にそぐわない声をあげる。「死にたくない、という願いは聞き入れられません」


 死は必定(ひつじょう)である。シェムは静かにそう告げた。


 誠司は少し目を見開いて息を呑む。そして俯き、何かを考え込んでいる。やがて上げられた誠司の顔には、自嘲の笑みが張り付いていた。


 やはりな、と僕は思う。


 誠司は生を望んでいない。世の理不尽を恨み、何もかもと刺し違えても構わないと考えているのだろう。

 だがその一方で、手放してもいない。それは死を敗北と考えているからか、遺される誰かを思っての事だろう。


 少年は浅い深呼吸を繰り返す。たっぷりと時間を掛け、やがて口を開いた。


「――殺してくれ」誠司の言葉にシェムが微かに首を傾けた。「あんた、死神なんだろ。俺に成仏して欲しいんなら、先にあいつらを殺してくれ。そうすれば俺も素直に成仏してやるよ」


 誠司はあからさまに意識して気持ちの悪い笑みを浮かべている。だがふざけている訳でもないのだろう。こうして仮面を被らないと、まともに喋る事もできないのだ。


「あいつら、とは?」シェムが言う。


 誠司は忌々しげに四人の名前を口にした。校舎裏で誠司を痛めつけていた人数も四人。なるほど、つまりはそういう事か。


「本当にそれでいいのか」


 突然喋り出した僕に、誠司は肩を跳ね上げる。突然カラスが喋り出したと言うのに、しかし思ったほどは驚いていない。予測はしていたと言う事か。聡い子だ。


「それでいいと言うか、それしかないだろ」吐き捨てるように言う。「俺は死ぬんだろ? でもあいつらは死なない。そんなの許せないだろ!」


 怒りに身を任せ、誠司は声を荒げる。その言葉にシェムは「わかりました」と頷いた。まさか聞き入れられるとは思っていなかったのか、誠司は肩を震わせた。


「しかし、こちらにも都合というものがあります。直ぐに、という訳には行きません」


 僕はシェムの管理部という言葉を思い出す。何かしらの手続きが必要なのだろうか。


「時間、かかるんすか」

「そう長くはかかりません。せいぜい三日と言ったところです」シェムが僕を視線で示す。「それまで、連絡はこのカラスに任せます」


 なるほど、中々抜け目ない。これで誠司と僕の繋がりは保たれる。三日の期限は誠司の本当の願いを探るための調査期間か。


 ではと言葉を発し、シェムが一歩後ろに下がる。瞬間、誠司はハッとした表情になって辺りを見回し始めた。シェムと僕の姿を見失ったのだ。


 目の前に居ても見失う。視界に入っていても認識できない。見えているのに、見えていない。見ようとされない。シェムはそう言う存在だ。人間の死に対する認識と同様に。


 やがて諦めたのか、怯えた様子であちこちを睨みつけながら誠司が立ち去っていく。その背中を僕とシェムは静かに見送った。


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