『王宮育ちの旅立ち』
『旅立つ王宮育ち』
朝日が昇り、鳥たちのさえずりが山々に響くころ、辺境の森に建てられた豪邸から鐘の音が響く。その屋敷の廊下を楕円形のパンと小さく切られた野菜が浮かんでいるスープを乗せたお盆を持ったネロが、どこか嬉しそうに歩いていた。
上機嫌なネロが書斎の隣にある部屋の前で立ち止まると、その動きに呼応するかのようにひとりでに扉が開いていく。部屋の中は窓がないため、その先は暗闇に包まれていたが、ネロが中に入ると天井に空いていたくぼみが輝きだし、部屋中を照らした。その部屋は客間なのか、窓がない壁には美しい湖が描かれた絵画がかけられている。中央には円形の机とその机を囲うように椅子が並び、奥には豪華なベッドが置かれていた。いきなり部屋が明るくなったせいだろうか、ベッドの上で寝ていたマクスウェルが嫌がるように顔を枕に埋める。まだ顔にあどけなさが残っていることもあり、その仕草は王子が子供であることを示しているようにも見えた。
「おら、朝だぞ起きろ」
ネロは幼子のようなマクスウェルに苦笑しながら、言葉遣いの割に優しい声音で呼びかける。声が聞こえたのか、王子は目を擦りながら上半身を起こすと、あくび混じりに返事を返した。
「おはよう、トラ」
マクスウェルはまだ寝ぼけているのか、ここにはいない誰かに向かって、舌足らずな口調で挨拶を返す。
「どうして今日は、こんなに日が昇るまで起こしに来なかったの?」
ネロは机の上にお盆を置くと、スープの入った器を持ち、ゆっくりとベッドに腰掛けた。
「なに寝ぼけてやがる、こいつでも飲んでさっさと目を覚ましな」
いきなり近づいてきたネロに驚いたのか、王子は何度か瞬きをすると器を受け取った。
「……はい。ネロさん、おはようございます」
マクスウェルは恥ずかしかったのか、そっぽを向いて挨拶しなおすと、スープ片手に何かを探すように辺りを見回す。マクスウェルの様子を見て疑問に思ったのか、ネロは弾むような声音で問いかけた。
「どうした、なに探してんだ?」
王子は不思議なほど上機嫌なネロに困惑しながら、おずおずと答えた。
「いえ、その……。スプーンが見当たらなかったので」
あまりにそれらしい理由だからだろうか、ネロは快活に笑い声を上げると、少し大げさな身振りをつけて言葉を返した。
「いやいや、そのスープはスプーンが必要なほど、具だくさんじゃねーと思うぜ」
「ですが……」
マクスウェルは幼少の頃から厳しく躾けられて来たのだろう、器に直接口を付けるのには抵抗があるようだ。ネロはどこまでも行儀良くこなそうとする王子様を鼻で笑うと、言い返そうとした言葉を遮るように声を続けた。
「ここには、うるさい躾係も、無作法に嘲笑を投げかける貴族もいない、行儀悪く食ったって怒られる心配なんてないだろ」
悪魔が囁くようなネロの言葉に迷いが生じたのか、王子はスープとネロを交互に見る。
「それに、たかがスプーン1本つったって、使えば洗う手間だって増えるし、こぼす危険性も上がる。効率悪いだろ?」
畳み掛けるようにして発せられたネロの言葉に、反論のするだけの理由を見付けられないのか、マクスウェルは何か言おうと口を開くものの言葉が出てこない。観念したようにスープを見つめると、そっと器に口をつけて飲み始めた。
「おし、それでいい。あと、コイツも食っちまいな」
どこか不安そうにスープを飲んでいる王子に、ネロは投げるようにしてパンを渡す。マクスウェルは突然飛んで来たパンをどうにか受け止めると、何かを確かめるように軽く握った。
「随分と、固いパンですね」
普段食べているものと違うためか、王子はまたも困惑したようにつぶやく。ネロは不満にも聞こえるその言葉を聞き流すと、端整な顔に不気味な微笑みを浮かべながら返事を返した。
「そいつは普段、一般庶民が口にする安物のパンだからな。王侯貴族が食ってたものと比べちゃいけねーさ」
ネロの説明を聞きながら、マクスウェルは興味深そうに手に持ったパンを見つめると、手に力を込めて千切ろうとするがパンには切れ目すら入らない。少しだけ考えるようにうつむいたあと、またネロを見てからパンを見つめた。そして、おもむろに口を開けてパンの端にかじりつくが噛み切れないようで、パンに口をつけたまま四苦八苦している。
「違う違う、そいつはスープに浸してから食うんだ」
ネロは固いパンと格闘しているマクスウェルを見て、呆れたように首を振ると、助言を与えた。王子はその言葉に天啓を受けたかのように大きく目を開いて、驚きをあらわにする。助言に従ってパンをスープに付け始めた王子を眺め、ネロは何度か頷くとさらに言葉を続ける。
「その食い方、今のうちに慣れときな。旅のあいだはもっと固いパンになるかもしれないからな」
もっと固いパンがあることに驚いたのか、夢中になってふやけたパンをかじっていた王子が硬直する。わかりやすく、素直な王子の仕草がツボにはまったようで、ネロは目尻に涙を浮かべるほど大笑いすると、おもむろに立ち上がり、不満そうにパンを食べる王子に声をかけた。
「それ食い終わったら隣の書斎に来な。今後の予定を説明してやる」
口いっぱいにふやけたパンをほおばりながら、マクスウェルは数度頷く。ネロは王子が頷いたのを確認すると部屋をあとにした。ネロが出て行ったあと、まだ半分以上残っている固めのパンを見て、王子は気合を入れるように息を吐くと再び食べ始めた。
王子は半刻ほどかけてすべてを平らげると、スープで汚れてしまった手を見て困ったようにあたりを見回した。しかし、見える範囲に手を拭くためのものはない。少しの間自分の手を眺めた後、何かを思い付いたように顔を上げるとゆっくりと両手を顔の横に上げた。そしてゆっくりとベッドから立ち上がり、手が他のものにぶつからないよう慎重に部屋を後にした。
客間から出たネロは書斎に入り、机の上から旅に使うものと何に使うかわからないものを長机の上にまとめて置いた。そして何度かまとめたものを確認すると、その中から人の頭ほどの大きさをした袋を取り出し、次々と長机の上にあったものをしまい始める。何かの魔法がかかった袋なのだろう、長机を埋め尽くすほどおかれていた道具がすべてその中に納まった。
「その袋には何が入ってるんですか?」
ネロが袋を確認をしていると、両手を顔の高さまであげたまま部屋に入ってきたマクスウェルが疑問を投げかける。奇妙な格好で歩く王子を不思議に思ったのか、ネロは少し首を傾げた。
「いや、それよりも……なんで手を挙げてるんだ?」
疑問に疑問で返す失礼なネロに、マクスウェルは恥ずかしそうに顔を背そむけながらも律儀に答えた。
「いえ、その、手が汚れてしまったので……。何か手を拭くものはありませんか?」
ネロはマクスウェルの言葉に納得したように頷くと、旅の荷物を入れていた袋から布巾を取り出して渡した。
「そうゆうことなら、コイツで拭くといい」
受け取った王子は驚きつつもすぐに手を拭き、机の前まで来ると、疑問とともにそれを返した。
「こんな湿ったまま袋に入れても大丈夫なんですか?」
どうやらその布巾は濡れていたらしく、王子が驚いたのはそれが原因のようだ。マクスウェルの質問に、ネロは頷くと説明を始めた。
「ああ、そいつは魔道具でな、常に清潔で、かつ適度に濡れてるんだよ。んでもって、この袋もただの袋じゃない。中に入れたものはいつまでも変わることがないし、大樽が10個も入るんだ。どうだ、すごいだろ」
ネロの言葉にマクスウェルは感嘆の声を漏らすと、興味深そうに袋を見つめた。
「すごいですね、こんな魔道具見たことないです」
しきりに褒める王子にネロは得意げに笑うと、本棚の中から折りたたまれた羊皮紙を引き抜いて長椅子に座る。ネロに促されるままにマクスウェルも対面の長椅子に腰を下ろしたが、袋が気になっているのか、いまだに袋の方を見つめている。
王子が座ったあと、ネロは長机に持っていた羊皮紙を広げた。広げられた羊皮紙は地図なのだろう、いくつかの単語が散在する大きな大陸のようなものが描かれ、角に東西南北を示すであろう記号が見て取れる。ネロはマクスウェルが見やすいように地図の向きを変えると、口を開いた。
「さて、これからの予定を説明しようか」
年相応というべきか、好奇心を隠す気のない王子に、ネロは苦笑しながら説明を始める。マクスウェルも真面目な話だと思ったのか、視線をネロに移し、聞く体制を整えた。
「まずは、ここからとなりの村へ向かう。そこで馬を借りて町に行き、長旅の準備をする」
ネロが机の上に広げられた地図を指差しながら説明していると、熱心に指の軌跡を追っていた王子が質問を返した。
「あの、そっちの街だと教国から遠ざかっていませんか?」
王子が疑問に思うのも無理はない、ネロが指差した街は明らかに目的地とは反対に位置している。
「確かに、陸路で行くならそうだな。だが、俺は海に面した隣国の港から船で向かおうと思っている」
マクスウェルはネロの答えを聞いて納得したように頷くと、続きを促した。
「分かりました、船でどこまで行くんですか?」
王子の質問に答えるようにネロが指差したのは、商人が世界一多いと言われている貿易国家だった。その国は大陸の中央から少し南に位置し、東西を行き来する行商人や、海を渡る豪商が集まって出来たとされている。
「ここまでくれば、この国の影響も少ないからな。あとは状況を見て陸路か、航路で教国まで行けばいい」
ネロは少し間を開けると、確認するように何度も視線を巡らせている王子に向かって軽い口調で呼びかけた。
「でだ、とりあえず今から出発するぞ」
ネロの言葉に驚いたのか、マクスウェルは地図を見ていた顔を跳ね上げると悲鳴のように声を上げた。
「今からですか!?」
「ああ、今からだ」
目を白黒させている王子に、ネロは笑いながら有無を言わせない口調で宣言した。
「さて、楽しい旅の始まりだ」
ネロは魔法の袋を持つと狼狽える王子を引きずるようにして、鼻歌まじりに屋敷をあとにした。