濡れた王子と辺境の魔術師
プロローグだけでは寂しいので第1話を投稿します
月が西側に傾き、東の空が白み始める。そのような、多くの人々が目覚め始める頃、近くの村でさえに馬でかけても半日はかかる森の中で、ずぶ濡れの男が白い息を吐きながら、震えの止まらない足で歩を進めていた。泥汚れが付いているため分かりづらいが、フード付きの外套の首元からは、細かな刺繍の施された襟が見える。夜明け近い辺境の森を歩くにはあまりにも身なりがよく、場違いに見えた。
衰弱した体を引きずるようにして歩いていた男が不意に足を止める。その視線の先には辺鄙な森にあるとは思えないほど立派な屋敷があった。貴族の別荘と同じくらい大きいが、森と家の敷地を隔てるものが塀は愚か柵さえない、ちぐはぐな木造の豪邸である。
ずぶ濡れの男は、水滴が滴る黒い外套を抱きしめるように抑えながら、一歩一歩進み、木々の合間を縫うようにしてようやく扉の前までたどり着くと、その戸を叩いた。
「朝早くにすみません、こちらに、凄腕の何でも屋がいると聞いて来ました」
男は震えた声で、いるはずの家主に問いかける。水に濡れて重くなった服と、吐いた息が白くなるほど低い外気が、男の体力を奪っていたが、絞り出すように言葉をつづけた。
「あなたに依頼したいことがあるんです」
反応がないため、男が再び戸を叩こうとしたところで、少しくぐもった声が家の中から聞こえてきた。
「凄腕かどうかは知らねえが、ここらで何でも屋って言ったら俺のことだ」
ずぶ濡れの男は、寒さのせいで青白くなっていたが、その返答を聞くと外套の(コート)のフードを外し、どこかあどけなさを残す顔に、安堵の色を浮かべる。
「話を聞いてやるから、入ってきな」
その声とともに、扉が壁の中に引き込まれるように開いた。しかし、開け放たれた家の中には誰もいない。男は驚いたように辺りを見回したあと、恐る恐る中に入っていく。中に入ってみると、窓がないためか非常に暗い。ちょうど、男の頭の高さに石が吊るされており、その石には円の中に幾何学模様が絡み合う、印のようなものが描かれ、わずかに光を放っている。
黒い外套の男が戸惑ったように立ち止まっていると、今度は壁から扉がせり出し、たった今入ってきた入口が閉ざされた。同時に壁に開いているくぼみから光が溢れ、部屋の中が照らされていく。
光るくぼみは、等間隔で設置されているようで、玄関広間から続く廊下の先まで明かるく照らされていた。外から見えていたように、辺鄙な場所にあるとは思えないほど広く、いくつかの扉と通路が見える。その光景に圧倒されたのか、ずぶ濡れの男は閉じていた口をだらしなく開き、意味もなく視線をさまよわせる。
男が呆けている間に、今度は輝く紋様が床に現れ、廊下の先にまで伸びていく。それは、道しるべのようにも見えた。
「おい、いつまで突っ立ってんだ。ちゃっちゃと光に沿って進みやがれ」
再び、人影がないのにも関わらず、家主らしき声が部屋に響く。来訪者は声の聞こえた方向を見るが、そこには吊るされた石しか見当たらない。黒い外套の男は生唾を飲み込むと、慎重に光に沿って歩き出した。
当然のように、廊下の壁にも規則的に光るくぼみが並び、足元まで明るく照らしている。道しるべに従い、何度目かの角を曲がると、扉の前で文様が途切れているのが見えてきた。
男は、一度深呼吸をすると、扉を叩いた。
「おう、待ちくたびれたぜ」
部屋から聞こえてきた、くぐもっていない声と共に扉が開く。その部屋は書斎なのだろう、壁は本棚で埋まり、廊下や、玄関広間の壁にあったくぼみは、天井に取り付けられていた。依頼の相談などに使っているのか、高級そうな長椅子が、向かい合うように置かれ、その間に膝の高さほどの長机が置かれている。さらに奥を見ると、何に使うのかわからない物が散乱している机に、先ほどまでの乱暴な口調からは想像も付かないほど、中性的で整った顔立ちの家主らしき人が頬杖をついて座っていた。部屋着なのだろうか、着古したようにぼろぼろなのに裾には泥などの汚れが見当たらない長衣を羽織っている。
「お邪魔、します」
見るからにみすぼらしい格好をしているのにも関わらず、どこか威圧感のある家主に、来訪者は気後れしているのか、ゆっくりと部屋に入った。客人が部屋に入ると、ひとりでに扉が閉じた。
「ようこそ、わが屋敷へ」
家主は恰好を変えることなく歓迎の言葉を贈ると、一度うなずいて身なりとは正反対の優雅な動作で立ち上がった。
「とりあえず、濡れたまんまじゃ寒いだろ。乾かすからじっとしてろよ」
そう言いながら、来訪者の返事も待たずに机の上にある袋に入っていた何やら怪しい粉を黒い外套の男にふりかけた。
「な、何をっ!」
長衣の男は咳き込みながら後ずさる客人を鼻で笑うと、机の上にあった水筒のよなものの蓋を開けた。途端に、来訪者にかけられていた粉がみるみるうちに吸い込まれていき、全て吸い込んだところで再びふたを閉じる。すると、先程まで水が滴るほど濡れていた外套が(コート)が、まるで日向で干していたかのように乾いていた。
濡れていた男は、瞬く間に起こった見たことのない魔法に、唖然としている。家主は興味深そうに自身の外套を触ったり嗅いだりしている来訪者に、苦笑しながら、座るように勧めると、自らも対面のソファーに座った。2人が席についたところで、何でも屋が口を開く。
「まずは、自己紹介から始めようか」
依頼主の反応を見るように間を取ると、試すように視線を合わせる。
「俺はネロ。しがない何でも屋をやっているが、見ての通り、魔法具の研究や開発なんかも手がけている」
ネロはそう言いながら周りの本棚を指し示す。よく見れば、本棚を埋めているほとんどのものが、魔法に関する論文のようだ。一部の棚には英雄譚や聖書などもわずかに混じっている。
「そうなのですか。だから、こんなすごい家に」
客人は納得したように頷くと、続けて口を開いた。
「僕は、マクスウェル・イルミナーレ。分かるかもしれませんが、この国の王子です」
お供は連れていないが服だけはそれ相応の気品があると言えなくもない男が、いきなり王子の名を語ったというのに、ネロは動じることなく軽く頷いただけですませる。普通であれば、まず信じられない話だというのに、驚いた素振りを一切見せなかった。
あまりに動揺が見られないせいか、マクスウェルは訝しむように眉を寄せた。
「驚かないのですか?」
当然とも思える疑問にネロはため息をつくと、おどけたような仕草をしながら質問で返した。
「何に驚けって?」
ネロは困惑したように首をかしげる王子を尻目に、馬鹿にするような身振り手振りをしながら言葉を続けた。
「そんなことは、その服、もっと言えば胸元の模様見れば王族だってのはわかんだよ。自己紹介ってのはその確認でしかねえ。そんなどうでもいいことで、いちいち驚いてんじゃねーよ」
今さら気付いた、とでも言うように自らの胸元をみるマクスウェル。ネロはソファーの背もたれに両肘をかけて上を向くと、続きを促した。
「で、依頼ってのはなんなんだ? まずはそいつを聞かなきゃ何にも始まらねえ」
ネロの言葉にマクスウェルは弾かれたように視線を戻すと、ゆっくり深呼吸してから話し始めた。
「依頼は、聖ホリング教国までの護衛と、道案内です。路銀は十分ありますが、旅の装備や保存食などは一切持ち合わせがありません。お願いできるでしょうか?」
ネロは口元に右手を当てながら少し考えたあと、その手をマクスウェルに向けながら口を開いた。
「まずは、なんで護衛を俺に頼むのか聞かせてもらえるか? そもそも、ここまで来るのに護衛のひとりもいないってのがきな臭くていけねえ」
ネロが疑問に思うのも無理はない。服の模様から王族であることは確認できたが、王子が1人でこんな辺境にいるという不自然さは残る。
鋭い指摘にマクスウェルは気まずそうにうつむいたが、再び顔を上げると険しい表情で説明を始めた。
「つい1週間ほど前の夜中、王妃様が何者かに殺されかけたのです。幸い、護衛していた近衛騎士が気付いて撃退したため、大事にはいたらなかったのですが、問題は暗殺者が使った魔法にあります」
マクスウェルは一旦口を閉ざすと、ネロに見せるように掌をテーブルの上に置き、集中するように目をつぶる。ネロが不機嫌そうに目を細めていると、マクスウェルの掌が淡い光を放ち始めた。
「光魔法か、そういえば、王族は伝統的に発現しやすいんだったか」
マクスウェルはネロの言葉に頷くと、再び話し始める。
「そうです。そして、暗殺者が使った魔法も光属性でした。現在、この国で光の攻撃魔法が使えるのは僕とお父様のほかには、教会の年老いた神父様のみ。偶然にもその日は父が公爵家に呼ばれていたので……」
マクスウェルの苦痛に耐えるようにして紡がれる言葉の何が面白いのか、ネロは愉快そうな笑顔を浮かべていた。話が進むにつれて、限界が来たのか、笑声をあげながら、王子の言葉を奪うようにして口を挟んだ。
「そんで、あんたに容疑がかかったてのか、見るからにはめれてんじゃねーか」
その小馬鹿にしたような物言いに、マクスウェルは反論しようと顔を上げたが、言い返す言葉がなかったのか、再びうつむいてしまう。
本来であればきちんとした調査がされるはずだが、わざわざ王族をはめた相手がしっぽを出すようなヘマをするとは考えにくい。今ここにいる時点で、調査がなされなかったか、あるいは、王子の犯行を否定するような証拠が出てこなかったことが伺い知れる。
「で、光魔法使いを無条件で保護してくれる聖ホリング教国に逃げ込むわけだ」
「はい、おそらくですが、道中もこの国の兵士たちは追ってくるでしょう、大変危険な旅になると思いますが、引き受けてくれますか?」
ネロは頼み込んでくるマクスウェルを鼻で笑うと、呆れたように額を手で押さえた。
「なあ、依頼の内容も、経緯もわかったが、肝心なもんが抜けてないか?」
王子は困惑したようにつぶやく。
「肝心なもの……?」
ネロは大げさにため息をつきつつ首を振ると、いやらしい微笑みを浮かべながら口を開いた。
「報酬だよ、報酬。まさか無償でやれってんじゃないよな、うん?」
「ああ、確かに忘れていました、すみません」
ネロの露骨な要求にマクスウェルは慌てて謝ると、いそいそと腰に指していた短剣を鞘ごと取り外すし、長机の上に置いた。
煌びやかな宝石に彩られた鞘とは対照的に、短剣の柄にも鍔にも一切の装飾がなく、まるで鞘だけ後から取ってつけたかのような代物だった。
「この短剣では、足りないでしょうか」
ネロは長机に置かれた短剣を値踏みするようにじっくりと眺めたあと、王子に確認を取るため声をかけた。
「抜いてみてもいいか?」
マクスウェルは緊張のせいか、青白い顔に無理やり笑顔を浮かべて頷いた。
「どうぞ」
了承を得たネロは短剣を手に取ると、慎重に鞘から引き抜いた。現れた刀身は、片刃でわずかにそりがあり、柄や鍔と同様に無駄な装飾などがない。何かを確かめるように刀身を眺めたあと、ゆっくりと鞘に収めた。ネロは随分と興味を持ったらしく、食らいつくようにして質問を投げかけた。
「こいつは、いったいどんな魔法具なんだ? かなり強力な物ってのはわかるんだが、どうやって使うのかが全くわからん」
あまりの食い付きに驚いたのか、マクスウェルは愛想笑いを引きつらせながら壁を作るように両手を挙げ、限界まで後ろに反ったまま答えた。
「はい、どんな魔法でも、1度だけ切り裂くことができると聞いています」
「1度だけ、か」
ネロは悩むように口に右手を当てる。一度だけと言われてしまえば、うかつに確認することができない。たとえば、込められた力が強力なだけで使いようのない魔法であったとしても、使ってみるまでわからないため、その気がなくともこれを持っていた王子でさえ騙されている危険がある。
「それは、確かなのか?」
詰め寄ったまま脅すように聞いてきたネロに、王子は力強く頷き返すと、どこか懐かしむような笑顔を浮かべて答えた。
「その短剣は、父の古い友人が作ったもので、私の誕生日に、わざわざその方が持ってきてくれたのですが、その言葉に偽りはありませんでした」
ネロは納得したように頷くと、長椅子に座り直して、楽しそうに笑った。
「光魔法の看破か。それも二重にかけられたんじゃ嘘もつけないってわけだ」
王子はネロに釣られて笑いながら、大きく頷いた。
初めて笑顔を見せた王子に、ネロは立ち上がると右手を差し出した。
「よし、わかった。あんたの依頼、このネロが引き受けた」
マクスウェルは差し出された手を握り返すと、満面の笑顔で答える。
「よろしくお願いします」
ネロは手を握ったまま倒れそうになるマクスウェルを驚きながらも支えると、聞こえてきた寝息に苦笑をこぼす。
そして、面倒くさそうに頭をかくと、どうにか王子を抱えながら書斎をあとにした。