月夜の草原
毎週月曜日に更新していこうと思います。よろしくお願いします.
『月夜の草原』
月のかすかな光が照らす夜の草原を、男を乗せた馬が駆けている。その頭上には、2つの火の玉が浮かび、男の周囲だけが明るくなっていた。手綱を握る男は、夜闇に溶け出しそうな黒い外套をはためかせ、まだ幼さの残る顔に、必死の形相を浮かべている。男の手綱裁きは立派だが、操る馬はふらふらと蛇行し、安定しない。追われているのか、その後方には何騎かの鎧を着た者たちが追走している。
追う者達は兵士なのだろう、身につけている揃いの鎧には、胸元にエンブレムが施され、1人だけ赤い縁取りがしてある。赤縁の男が隊長なのか、追従する兵士に指示を飛ばしていた。
5騎の兵士たちは、隊長を先頭にして五角形に並び、後方の2人が放つ火の玉が逃亡者を照らし、左右の2人が矢を射っている。
射手が数本目の矢をつがえた時、逃げる者は、そのタイミングを狙っていたかのように懐から水筒のようなものを取りだした。
黒い外套の男の行動を、いち早く察知した隊長が、右に逸れながら声を張り上げ、焦ったように指示を飛ばす。
「散開っ!」
隊長の掛け声より一瞬早く、逃亡者が中に入っていた液体を、放り投げるようにして撒き散らすと、水筒から火花がはじけ、巻かれた液体は意思をもっているかのように蠢き、炎の壁となって兵士たちに襲いかかった。
兵士たちは立ちはだかる業火に恐ることなく隊長の指示に従い、速やかに左右に別れることで、黒い外套の男から離されることなく、やり過ごす。このままいけば兵士たちが追いつくのも時間の問題に見えたが、手早く陣要を整えた隊長に余裕の表情はなく、眉間にしわを寄せ、どこか追い詰められているような顔をしている。
兵士たちが追い討ちをかけるように矢を射かけるが、逃亡者を照らしていた火の玉が徐々に弱り、その姿が夜に溶けるようにして霞んでいく。ぼやけ始めた男を見失わないように目を細めながら、隊長は口を開いた。
「射ち方やめ」
隊長の言葉復唱しながら、矢を射っていた兵士は悔しそうに弓を下ろす。兵士たちが構えを解いたことを確認した隊長から、再び指示が出された。
「灯球、次弾投射用意」
後方の2人は隊長の指示に従い、煤けた分厚い手袋をつけた手で、腰の後ろにくくりつけた筒から不格好な球を取りだすと、球を持った手で筒の上部にある歯車を勢いよく回した。歯車と筒の間で火花が散り、筒から取り出された球は兵士の手の中で火の玉となる。
2人の兵士は、互いに準備が出来たことを確認するように頷きあうと、右側にいる兵士が風の音に負けないように声を張り上げた。
「次弾準備完了!」
部下からの報告を聞き、隊長が右手を振りかぶると、それに追従するように2人の兵士は右手を逃亡者の頭上に向ける。僅かに静止したあと、隊長は勢いよく右手を振り下ろしながら掛け声を発した。
「灯球投射!」
隊長の声と共に、打ち出された2つの球は真っ直ぐに飛び、黒い外套の男の上まで来ると、併走するように速度を落とす。隊長は灯球が不備なく定位置についたことを見届けると、僅かに開いてしまった距離に焦りを感じたのか、急かすように指示を出した。
「射ち方始め!」
光に照らし出された背中に、左右の兵士から再び矢が射かけられるが、逃げる男は巧みに馬を操り、ことごとく回避する。先程から幾度となく繰り返されている光景だった。
どのような仕組みかは分からないが、黒い外套の男は振り返ることもせず、絶妙なタイミングで矢を避けている。まるで、射られたことすら見えていないはずの矢が、全て見えているかのようだ。
馬上からとはいえ、矢が一度も当たらないせいで兵士たちも焦りを感じているのか、右にいる兵士は矢筒から取り出そうとした矢を落としてしまう。矢を落とした兵士は、小さな声で悪態をつくと、急いで矢をつがえ、左にいる兵士と僅かに間隔をずらしながら矢を射っていく。
兵士たちさらに数本ほど矢を無駄にしたところで、隊長からの指示で弓の構えを解いた。
勝算が低いのか、額に汗を浮かべ、かなり険しい表情の隊長が、焦りを押し殺したような声音で命令を出した。
「残弾確認」
隊長の声に反応して、後ろの兵士たちが手で合図を取り合い、右にいた男がやや上ずった声で答えた。
「灯球合わせて2発」
続けざまに、左右の兵士からも報告が飛ぶ。
「右翼6本」
「左翼7本」
隊長が確認をとっているあいだにも、灯球は弱々しくなっていき、逃亡者の姿が月明かりの中で霞んでいく。隊長が再び指示を出すと後方の兵士は火の玉を作り出し、最後の2つが放たれた。ただでさえ決め手にかけている状態で、光源までなくなれば、兵士たちが逃げる男を捕まえることは不可能といっても過言ではないだろう。
さらに、兵士たちに追い討ちをかけるように、木々の生い茂った森が迫ってくる。月の光が届かない夜の森に逃げ込まれては、たとえ灯球があったとしても、山火事の危険があるため使うことができず、追跡を諦めるしかない。きちんとした準備もなく、土地感もない森で追走を行えば、遭難してしまうこともありえる。隊長は最悪の事態を考えて、小さく舌打ちをした。
「やむをえん、爆烈弾を用意しろ」
左の兵士が驚いたように目を見開くと、構えていた弓を下ろして隊長に近づき、小声で訪ねる。
「隊長、よろしいのですか?」
恐る恐る、震えた声で告げられた忠臣からの進言に、重々しく頷き、隊長は眉間にしわを寄せながら答えた。
「かまわん、生け捕りが望ましいが、捕まえられないよりは殺してでも持って帰ったほうがいい」
隊長が苦々しい表情で森を見つめると、兵士は納得したように頷いた。
「了解」
隊長は兵士が元の位置に戻ったのを確認すると、右腰にくくりつけた革袋から、紙に包まれ柔らかそうな球体を取りだした。そのまま、流れるような動作で鎧に取り付けられた歯車を回し、火の玉を作り出す。作り出された火球は、先程の灯球より一回り大きく、激しく燃え盛っていた。
隊長の動作にならい、兵士たちも大きな火の玉を手に浮かべ、ゆっくりと男の背中に向ける。隊長は、兵士たちが構えたのを確認すると、意を決したように号令をかけた。
「爆烈弾、撃てっ!」
隊長の号令と共に、炎の塊が一斉に放たれた。5つの爆烈弾が火花を散らしながら山なりに飛び、逃げる男に迫る。黒い外套の男は、避けようと右にそれるが、同時に五方向から襲い来る炎弾になすすべなく、当たってしまった。着弾と同時に轟音があたりに響き渡たり、荒れ狂う火炎の暴力が外套を着た男を包み込む。一部だけ昼になったような明るさを取り戻し、兵士たちは目を庇うように手を顔の前にかざした。
生草が燻り、煙で視界が遮られるなか、飛び散った土に汚れた兵士たちは速度を落とし、爆心地へと向かった。そこには、炎に焼かれた男の死体はなく、何かに遮られたような、不自然な焼け跡が残っていただけだった。
「逃したか」
隊長は悔しそうにつぶやくと、兵士たちに見えるように片手を上げ、手のひらを返す。それが合図なのか、兵士たちは一斉に反転し、来た道を戻っていった。