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海と歌  作者: 機里
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プロローグ~風の歌~

 太陽が地面を焼き焦がす。夏の真ん中。夕暮れの陽射しが俺の部屋へと潜り込む。開け放った窓から熱気までもが、やすやすと進入する。汗でTシャツが張り付いている。煩わしいが構わない。今の俺にはどうでもいいことだ。ただ両の指を動かす。縦横無尽に気の向くままに誘われるままに、黒と白の板の上を走らせる。

 奏でる旋律は『風』。世界を旅して回る大気の化身。優しさと荒々しさを内包した自然(もの)。『風』そのものを俺は表していく。身体は外側から流れてくる波に流される。自分が一個の歯車のように感じる。自分が自分の意思とは無関係に動いている。眼を閉じる。その強い流れがより一層自分の方へ歩み寄る。憧れとも畏れともつかない感情が、俺の胸の奥へとやって来る。穏やかな流れを、溜めに溜めたフェルマータで応じる。嵐の様を、連符の重なりで応える。追いつかない。その自然(もの)の想いには到底及ばない、届かない。それでも、俺は手を動かす。巧くできない自分への歯痒さに胸を焦がす。腕を後二本と渇望する。いや、それでも足りない。足りようがない。

 焦燥と苛立ちの中に投げ込まれようとしている俺の耳に、部屋のドアが開く音が聞こえる。雑音だ。しかし、眼を開き、入ってきた人物を見て歓喜しそうになる。

 長い栗色の髪が揺れる。カッターに緩めたネクタイ、赤いチェックのスカートの学生服に身を包んだ女性。音も立てずに俺の傍らへと歩み寄る。ちょうど茜色の陽射しが彼女の顔を照らす。綺麗な横顔に見惚れる。けれど、俺の思考と別の意志を持って動く両手は、止まる気配を見せない。

 彼女が瞳を閉じる。輝くまつ毛が眩しい。背筋を伸ばし、胸が膨らむ。俺は訪れるべき瞬間に一足早く陶酔するために、彼女から視線を引き剥がす。自分の未完成な音色を完成させてくれる存在に胸を打たれる。そのために、真摯になる。向き合う。

 彼女が声を発する。いや、唄を奏でる。俺の演奏に、彼女の(うた)が乗る。この瞬間、俺の充ち足りない想いは完成する。彼女は間違えない。俺が求めているものを正確に歌いあげる。俺だけでは到達できない場所へと引き上げる。

 俺は、『風』そのものになる。そう思ってしまうくらいに溺れてしまう。彼女は、そんな俺に気づきもせずに歌い続ける。瞳を閉じたまま、空に歌うようにどこか遠くを見つめている。綺麗な顔立ちとは違った、深みのある低い声が心地よく耳に届く。

 頬を撫でるような微風を表すと、彼女もその声を震わせて付いてくる。いや、俺が追いかけているのか。それすらもわからなくなる。二人の意思はいつの間にかなくなっているのではと思う。いつまでも、この快感の中に居たいと、懇願する。

 しかし、終わりは近づいている。俺の指はもう痺れている。頭の芯がぼうと揺れている。彼女の声は静かにフェードアウトしていく。風が止む。ペダルを踏み込む。最後の小節を優しく奏でる。音が静かに伸びて、そして消えていった。

 彼女を見た。瞳は、まだ閉ざされていた。陽射しは真横から差し込んでいる、彼女の顔を半分だけ照らす。俺が感じているような、気だるく甘い余韻に浸っているのだろうか。いつまでだってそのまま固まっていそうな彼女から目を離し、俺は鍵盤の上を丁寧に拭い、布を敷き、音を立てないようにそっと蓋をした。そして両親からの形見であるグランドピアノをそっと撫でる。

 俺のその動きで呪縛が解けたのか、横で彼女が身体を動かす微かな音がした。


「言い忘れてたけど、(たく)ちゃん。夕ご飯だよ。早く来ないと冷めちゃうよ」


 恥ずかしいのか、急にちゃらけた風に彼女は言う。俺は大げさにため息をつく。こんなにも高揚した後だと言うのに、たった一言で興を削ぐとは、恐るべし。俺が芸人だったならずっこけている。


「わかったよ」


 その言葉を聞くと満足したのか、彼女は慌ただしく部屋から出て行った。俺はその姿を見送ったあと、山へと沈んでいく太陽に目を向けた。徐々に収まりつつある気持ちを丁寧に仕舞って置くために。












 俺の名前は青木託(たく)()。両親はいない。小学校の頃に事故で亡くなってしまった。今は、先ほどの彼女、()(たか)(まさ)()の家の養子である。同い年ということもあり、今ではもう、兄妹のようなものだ。

 俺が今この家で暮らせているのは、ここの家主である優詠の母親、優子さんのお陰だ。両親を亡くした後、親戚付き合いも希薄だったせいで引き取り手のなかった俺を、なぜだか知らないが引き取ってくれた。

 それからこの家で、この三人で暮らすことになった。そう、三人だ。優詠に父親はいない。優詠から聞いた話では、優詠も知らないくらいに幼い頃に離婚したらしい。俺はそれ以上詳しいことは聞いていない。本当の家族でない俺には、それに触れる権利はないと思うからだ。


「託ちゃ~ん。早くしないと本当に冷めちゃうってば!」


 ダイニングの方から、優詠のよく透る声が響く。少し、呆けていたらしい。せっかくの夕食を冷ましてしまうのは優子さんに悪い。俺は、メガネを掛け直しベッドに置いてあったタオルで汗を拭うと、急いでダイニングへと向かった。



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