【11】勝率と衝動は共存できない
* * *
下校時間を過ぎて、誰もいない下駄箱。不意にその角から、影がひょこりと飛び出した。長く長く夕陽に伸ばされた影は、もったいぶるようにゆっくり近付いて来る。それをじりじり、もどかしいような、永遠に続けばいいような、どっちともつかない気持ちで、俺は見つめていた。
そしてついに現れた本体は、思った通り、待ち人だった。
俯き加減で歩いてきた彼女が、俺の視線を感じたのか、ふわりと顔を上げる。
「……高野くん」
「日直あったからって、遅すぎ。約束、忘れてないよな?」
「え。あ」
朝、話があるといったのをやっぱり忘れていたらしい。彼女はぽかんと口を開けたけど、どうやらすぐ思い出したようだ。「部活の時に、帰りにしようって言ったんだよね。ごめん!」と勢いよく手を合わせた。廊下に、そのぱちんという音が木霊する。
「だと思った」
「もうほんと、ごめん!なんかバタバタしてて」
それは途中で部長に連れ出されたことを言ってるのか、と訊きたくなるのをどうにか呑み込む。しばらくして帰ってきた秋野はどう見ても上の空で、ひそひそ見てくる後輩たちの視線も、いつも以上に絡んでくる宮井先輩も総シカトだった。あ、それはいつものことか。
さっき志井田先生の元へ向かった時よりもなんだか元気になっている気はするけど、なんとなくのモヤモヤは晴れない。
「で、えーと、なんだっけ?話があるんだっけ?」
「いや、用事がある、と言ったはずだけど」
「あー。そうだね、そうだったね。でももう出なくちゃだし、どうしよっか」
「途中まで一緒に帰らないか」
俺はできる限り平然と聞こえるように、だけど恩着せがましくて断りにくいように、心では必死になって提案した。負い目のある秋野は当然断ることもなく、二つ返事で了承してくれた。靴を替える秋野を待つと、二人で自転車置き場に向かう。
「一緒に帰るのはいいけど、この後何か予定とか無いならどっか寄ろうか?」
「別にそこまでしなくていい。すぐ済むから」
俺はかばんの中身を思い浮かべて、肩にかけたかばんのベルトを握る手に少し力を込めた。
ぐちゃぐちゃと、いろんなことが頭を巡る。買う前から、買った後から、昨日も今日も今も、ずっとぐるぐるしっぱなし。いわく。
これは一体なんだ。プレゼント?でも何の?いつもお世話になっているからか。誕生日が近いからか。だけどどちらも今更だし、というか急にどうしたって感じだし、えーと、うーん。
その瞬間、ふわりと、秋野の首元の暖色が風を含んではためいた。目をそらしたいそれに、目がひきつけられる。傲岸不遜なあの人に喧嘩を売られたと、そう思った。そうだよ、ためらってる場合じゃない。先手を取られたのはこっちで、追い上げなくちゃいけないのもこっちなんだから。
これは、秋野に選んだ、秋野のためのもの以外ではありえないから。
俺は素っ気ない風を装う。装えていてくれと願う。
「これ、秋野に」
俺は昨日藍田に手伝ってもらって選んだマフラー、いやストールが包まれた紙袋を秋野に差し出した。驚いた顔をした彼女が足を止める。
「え?何、これ。私に?」
「そう」
「急にどうしたの?まさか、昨日言ってた誕生日うんぬんってやつ?!」
「そ、うだな」
「いきなりどうしたの?というかそんな昨日の今日で!えー、うーん、気持ちは嬉しいけど……」
けど、なんだっていうんだよ。でも声には出さずとも、その続きのどうしよう、という心の声はダダ漏れだ。心よりもおしゃべりな視線が、右往左往してそう告げている。
俺はとりあえず受け取ってもらわないことには、とダメ押しすることにした。
「他にあげる人もいないからな。秋野が受け取らないならゴミ箱行きだぞ」
「うっ!そんなひどい言い方を!」
「何とでも言えばいいから。ほら、受け取れよ」
ずいっと、それを押し付けた。
困惑する秋野が見える。その首を守る、暖かなストールも目に入る。当たり前のように巻かれて、なんの違和感もなくそこにあって。秋野を独占するように。そしてそれを俺に見せつけるように、また風が吹く。なんだよ、風も部長の味方なのかよ、と頭のどこかで思う。
全てを持つような男に勝てるとは、正直思えない。でも他の男にもらったような、そんなものをまとう姿は見たくないんだ。
だからこれを、受け取ってくれよ。
秋野。俺、秋野が好きだ。
「……え?」
秋野の息を飲んだ音で目線を上げれば、俺は自分が何を洩らしたかを悟った。
あーあ、言うつもりなんかまるでなかったのに。
やってしまった、と思ったと同時に、意外にも清々しい気分もあった。
仲間だと思っていてくれるのを知っていた。頼ってくれるのも知っていた。表情が出にくくて苦手だと思われている俺を、好意的にとらえて話しかけてくれることに感謝していた。
気付けば目で追っていた。部長が、秋野を見ていることに気付いた。だけど俺だって、秋野のことを見ていた。俺だって、秋野のことが好きになっていた。
俺は表情だけじゃなくて、口にも出さないけれど。でも感じてないわけでも考えてないわけでもないと、秋野は分かっていてくれたと思っている。君が伝える目にも口にも態度にも、何もかもにはかなわないけど、今、口よりは主張する俺の目に、そこに映るものに、欠片でも気付いてくれたらいいのにと思う。
仲間だと思っているのも、頼っているのも、俺の方なんだ。だけどもう、仲間じゃ嫌なんだ。
そんな熱情にかられている俺を、秋野は言葉もなく見つめていた。見つめ返せば、伝えたいことが伝わっているんだとわかって、嬉しくて困った。でも受け止めた秋野はさっきのように動揺するのではなく、まっすぐ俺を見つめて、何と言おうか迷っているように見えた。
それを見て、俺は憑き物がすとんと落ちたような気がした。ふと、気付いてしまったのだ。秋野の中で、とっくに答えは決まっているんだということに。
だけど俺に、同級生で、仲間で、同志で、そんな俺に対して、どんな風にそれを伝えようか。それを悩んだいるんだということにまで、気付いてしまった。
今この瞬間に、秋野の中が俺だけなのが、嬉しい。それが悩みだろうと、それでも。
そんな甘美な、ちょっと苦い気持ちは、長くは続かなかった。
「ごめん。やっぱり、受け取れない」
長くはなくとも、俺にとっては悠久の時だったけど、それを破った秋野の返事ははっきりしていた。
何をかは言わなくても、俺の気持ちを受け取れないのだと、そう意味していることも間違えようがないくらい。
「……そうか」
「ごめん、先に帰るね」
「分かった」
一言だけを絞り出した俺に、返事はまたで良いと逃げる隙なんて与えられなかった。冗談だと、なかったことにする勇気もなかったし、自分の全力をそんな風に汚すなんて、俺自身が許せなかった。
それでもすがるような真似をしないだけのプライドだけは残っていたから、物わかりのいいふりをした。
そしてどうにか、口角を上げてみせた。
「じゃあまた、部活で」
「うん。また、明日」
いつもならパタパタ元気よく、というか威勢よくなる足音が、今日は少し静かで。
俺は小走りで去っていく秋野に、「さよなら」と小さくつぶやいた。わかっていたことだ。
だって秋野が俺のことを好きだなんて、一瞬だって、思ったことがなかった。
それでも溢れてしまったんだから、仕方ない。止まらなかったんだから、どうしようもないじゃないか。
だから、さよなら。
さよなら、俺の初恋。
* * *
楓と部長がこれまでのままだったら、高野は何も言わなかったはず。
「恋は焦らず」だよ、高野くん!