【10】青き春のイージス
* * *
「先生。日誌持ってきました」
「秋野か。戸締りは?」
「してきました」
「よし。ご苦労さん」
日誌を手に、やっと秋野がやってきた。下校三十分前には持ってくるはずだと思って待つこと、約十五分。下校を促す音楽の中扉を叩いたのは、待ちに待った秋野だった。大内あたりが代打で来るかとも思ったが、最初に聞いていた通り秋野が来たことにやっぱり、と納得する。あんな修羅場があったのに秋野は真面目に部活に出て、大内から伝言を受けたということだからだ。
教師内でも、実は秋野の評価は高い。一見するとしっかり者には見えないが、ノートを集めるにしても、わざわざ出席番号順に並び替えて持ってきてくれるし、細かい気遣いができると評判なのだ。少し遅刻癖はあるみたいだけど、部員とじゃれあってるところを見る限り、仲間に信頼されるタイプのようだ。マネージャーの内でも次期リーダーを務めると聞いている。
そんな秋野と日誌の確認をしながら観察していたところ、いつもとは雰囲気が違っていた。ううーん。うん、よし。
「秋野。ここ座れ」
「なんですか?」
一通り終わるとそそくさと帰ろうとした秋野だが、指示すれば大人しく椅子に座った。
ただの担任教師のくせに、余計なお世話かもしれない。でもそれならそれでいい。
慎重に言葉を選びたかったが、残念ながら国語は専門外。だから俺はできるだけ遠い存在――例えばオトナだとか、教師だとか――にならないようにだけ、気を付けることにして口を開いた。
「大丈夫か?」
「いきなり何の話……え、まさか」
「うん。見てた」
「……見られちゃいましたか」
あんなとこを、と察した秋野が諦めたように笑った。そう、実は俺も修羅場(仮)を見ていたひとりだ。
というのも、中庭はここの窓からばっちり見えるのだ。大内の後を追うように職員室を出た俺は、そのままこの準備室まできて、「あぁもう、いい加減離してください!」と叫ぶ女子の声を聴いた。窓からのぞけばうちのクラスの生徒と、学園で知らぬ者はいないだろう有名人のツーショット。
少し離れたところから一部始終を見ていた大内少年がいるのも、もちろん知っている。
そしてその、結末は言わずもがな。
「野次馬根性丸出しっていうのもわかってるんだけどね。聞いてもいいか」
「……私に答えられることなら」
「うん。なんで断ったのかなって」
「え」
いかんせんド直球すぎただろうか。秋野が虚を突かれたような顔をした。
「今朝の噂、聞いてたからさ。さっきのもそうだけど、別に嫌いとかじゃないんだろう?」
「……噂は、噂ですよ」
「そりゃそうだけど、火のないところには煙は立たないんだぜ」
「それ、さっきも同じこと言われました」
なんと、同じことを言うヤツがいたとは。
だけどこちとら、小娘よりは人生経験勝っているわけで、話を簡単に逸らされたりはしない。
「で、どうなの?答えにくければ、別に言うこともないんだけどさ。俺はただの担任のセンセーだから恋バナには向かないだろう。男だし。というかそもそもアイツとの関係も知らないわけだし」
「……」
「でも、秋野がいつもと違うっていうのはわかる。俺にもわかるくらいだから、部員とか、藍田だってすぐに気付くだろうな」
言外に、突っ込まれるのは嫌なんじゃないのと伝える。ちょっとやり方が汚いかもしれない自覚はあるけど、話しやすい状況が作れるならば、これでいい。
「その前にさ、何も知らない俺に話してみない?それだけでもマシになるかもよ?」
「……」
俯いた秋野の口は、固く結ばれている。でも俺は秋野が考え込んでいるのだということを察して、ちょっと行ってくると言って席を立った。それから一応、帰りたければ帰ってもいいぞ、とも。
自分が相談に値する人間かどうか審判されている、と感じていた。無駄に首を突っ込んでいる自覚があるから、大きなお世話とかとんだお節介と思われている可能性もある、ということも分かっていた。
それでももしかしたら。
ともあれ、もう突っ込んでしまったものは戻せないから、腹を括ることにする。
多少なりとも緊張しながらロビーの自販機で缶のコーヒーと紅茶を買って戻れば、秋野はまだ帰っておらず、大人しく座ったままだった。温かい紅茶を開けて渡すと、今度は向かいではなく、隣に座って缶を開ける。相談とかをするのに対面は緊張するというような、うろ覚えな話を思い出したからだ。
缶を握りこんだ少女は、しばらくしてやっと、不安なんです、と小さくつぶやいた。なにが、と返せば、ぽつりぽつりと、秋野は続ける。
「部長が。すごい人だってことがです」
「うん?」
「あの人は、正直アホかなって時もあるんですけど、やっぱり頼りになるリーダーだし、プレーしてるところも綺麗なんです。口さえ開かなければ、ってみんなでよく野次るんですけど、話してる声を気付けば拾っちゃうし。実際やることやってるとこ、すごいと思うし」
つらつら挙げられるのを聞いて、えー何これ要するにノロケ?という本心おくびに出さず、俺は無言で首肯するに留める。大人だもん、俺。
そしてなんとなく、秋野の言わんとするところを把握した。把握はした、けれど、そのまま話を続けさせる。
「だけど私は別に、普通の、平均点付近の女子高生にすぎないの、自分でわかってるから」
「うん」
「……あんな人の隣に立てるのか、不安なんです」
「うーん」
俺は思わずうなった。
なるほどね。自分が好きな相手との今後は、普通に想像するものだと思う。そしてその時絶対に避けられないものが相手の隣に立つ自分の姿なんじゃないかとは思う。相手が好いてくれる自分は、果たして相手に相応しいのだろうか、と。
一方で、両想いのくせに、わがままだとか。相手が好きなのは今の君であって、それで十分なんじゃないかとか。寂しい独り身の心には、いろいろと浮かぶ言葉はあった。
だけど、俺も一応教育者なわけですよ。年若い彼女と彼の今後とか、今の彼女の欲しい言葉とか、それなりの正解は分かっているわけで。
苦いコーヒーを一口含んで、これが美味しいと思えるようになってしまった自分に、少し笑った。
「大丈夫だよ」
背中を押した俺に、秋野は不満げだ。
「志井田先生、なんか無責任じゃないですか」
「いや、そんなつもりないよ。確かにアイツは並みの学生じゃない。秋野がそういう風に考えるのも、納得できるよ」
「それなら」
「いやいや、大丈夫だって。ヤツはお前とそんなに変わらないように見えるよ」
「……部長が私と、変わらない?」
「そう。不器用だし、不安だし。秋野からしたら絶対の部長かもしれないけど、俺からすれば、秋野よりたった一つ年上なだけの、少年だ。まだまだ青臭いガキだよ」
「……」
「……先生は大人だからそんなこと言える、とか思ってるでしょ」
「う、……はい」
「はは。それも一理あるけどねぇ。部外者の方が見えることもあるさ」
秋野は、納得したような納得していないような、微妙な表情をしている。
俺はもう少し、強めに背中を押すことにした。ちなみにこれが相手の方ならばケツを叩くくらいのことをするんだけど、女の子相手じゃセクハラになっちゃうからね。まだ退職はしたくない。
「自分に足りないと思っているなら、やれることはあるんじゃない?それとも、秋野は頑張る気はない?」
「そんなこと、ないです、けど……」
「できるよ、大丈夫。俺はこれでも、お前のこと割と買ってるんだ」
遅刻魔らしいけどな、と軽く付け加えると、秋野が言葉に詰まる。それを見て、俺は笑った。
秋野の表情が少し和らいだように感じるのは、気のせいじゃないと思う。どうやら俺は、やろうと思ってたことをしっかり果たせたみたいだ。
それから少し雑談なんかした。秋野が聞きたがったのは、俺の学生時代のピンクな話だった。必然的に青い話にも及んでしまったので、絶対に秘密だと約束させるのも忘れない。秋野がなんとなく嬉しそうにうなずいたので「俺はお前を信じているからな」と真面目な顔で釘を刺すと、笑われた。
最後の一口を飲み下した時、下校時間を告げる鐘が鳴った。
先生、ありがと。
秋野はそう言って、空になった缶を両手に持って帰って行った。やっぱりいい子だ。
これから彼女がどうするのかは、話さなかった。だけどきっと、いい方向に向かう気がする。それがハッピーエンドなら言うことはないけど、うまくいかなかったとしても、きっとそれは彼女の糧になる。
すっかり日が落ちた空をみて、昨日のことのように思い出すのは、恩師の魔法の言葉。
『大丈夫だ。志井田なら、大丈夫』。
受け売りながら、なんだか今日はいい仕事をした気がする。ビールがおいしく飲めそうだ。
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