6~吸血鬼に恋する乙女~
妖怪専門とよばみ探偵事務所6~吸血鬼に恋する乙女~
寒いな。
と弥太郎は思った。
二月だ。極寒の空気がぴんと張りつめるこの季節だが――それにしても寒いな、と思う。
こないだ弥太郎は風邪を引いていたのだが、それはすでに完治しているので、風邪のせいではないだろう。
――というか、むしろぶり返す心配をしたほうがいいかもしれない。
「寒いですか?」
目の前の依頼客が心配そうに弥太郎を見上げてきた。
ここはとよばみ探偵事務所の応接室で――本来ならば、事務所の主である弥太郎が客に「寒いですか?」と訊ねなければならないところなのだろうが、今回は事情が違っていた。
客はこの近くの高校の制服を着た、女子高生だ。――が、実はその正体は人間ではないのである。
齡二百を超える大妖怪。
今は少女の姿をしているが、本来の姿は妙齢――二百歳を妙齢と形容するのはおかしな気もするが――の美女だ。
彼女がいるだけで、部屋の空気が凍るのだ。
用意しておいた応接用のコーヒーも、すっかりと冷えている。
「いや、まあ、寒いのは仕方ないですけど。今日はどうしたんです?」
この客に会うのは初めてではない。
二百年も生きていると、人の世の知識に疎くなってくるそうで、この客は「高校に通いたい」と言って弥太郎に手引きを頼んで来たことがある。
女子高生の姿をしているのはそのためだ。
少女の姿をしていても見目麗しい顔であるが、短いスカートと淡い色の髪はいかにも現代風の女子高生だ。
――しかしこの客はたいていのことならば自力でなんとかしてしまうくらいの力は持っているから、今日ここを訪れたのはいったいどういう用件なのだろうとやや気になるところだ。
弥太郎が聞くと、客はすっと写真を差し出してきた。
写っているのは男だ。
客が着ている制服と揃いのもの。
学生。
「このひとの素行調査をお願いしたいんです」
「素行調査?」
そんなものは探偵に頼んだほうが――と言いかけて、弥太郎は自分がまさしくその探偵であることを思い出す。
普通の探偵の仕事など滅多に来ないものだから、自分が探偵であることなどすっかり忘れていた。
弥太郎はごほんと咳払いしてから、気を取り直して訊ねる。
「差し支えなければ、このひととの関係を教えていただけますか?」
客はかあっと顔を赤くした。
言う。
「わたし、このひとに片想いをしているんです」
「か、片想い……、ですか」
言われてみればそんな様子な気もする。
恋はひとを優しくするというが、確かに、この客も以前に会ったときよりもこちらに気を遣ってくれるし、優しい。
――そういえば友人の石名坂も最近やけに優しいから、もしかすると恋でもしているのかもしれない。
「ええっと……。素行調査をしてどうなさるんですか? もしこのひとを殺害する目的で調査を願っているのなら、こちらとしてはあなたの恋を応援するわけにはいかないんですけれども」
弥太郎は言った。
妖怪の中には愛する相手をとり殺して自分の下に据える性癖がある者がいるが、目の前の客はまさしくそのタイプの大妖怪なのである。
弥太郎としては殺人に加担するわけにはいかないから、もし客がそのつもりであるならばこの依頼は受けられない。
客はしかし、首を振った。
「いいえ、むしろ逆で――このひとが最近良からぬ人間に付け狙われているから、わたしが守ってあげたいんです」
良からぬ人間?
弥太郎は机の上のコーヒーを口に運びつつ眉をひそめた。
ストーカー?
それともやくざだろうか?
「それに――」
考える弥太郎をよそに客は言葉を続ける。
「告白はしていないんですけど……応援もなにも、わたしはすでに失恋しているんです」
ん?
と弥太郎はさらに眉を寄せた。
――今度は客も弥太郎の様子に気付いたらしく、「ああ」と頷いて、言った。
「彼の好きなタイプを聞いてみたんですが、わたしではどうやったって無理なんです。だって、彼は『若々しい女の子が好き』だそうなので」
あまりのピンポイントさに弥太郎はコーヒーを噴き出して、むせた。
***
――というやりとりを思い出して、迂闊だったなあと弥太郎はぼんやりと嘆いた。
じゃらり。
鎖。
弥太郎は今、がんじがらめに縛られて捕まっているところだった。
客に「良からぬ人間」の正体をきちんと聞いておかなかったせいだ。
相手はストーカーではない。
やくざでもない。
「――で、この写真の出所はどこなんだ? この写真の男は、写真には写らない……吸血鬼だというのに?」
祓い師だ。
それも一人二人ではなく、結構な団体らしい。
弥太郎が縄ではなく鎖で縛られているのは、吸血鬼は銀に弱いそうで――この鎖にも銀が使われているためらしい。
どうやら弥太郎のことを吸血鬼の仲間だと疑っているようだ。
弥太郎は溜め息をつく。
「ですから、依頼人のことは話せませんってば。その写真のことはなにも知りませんけど、写真に写せないって言うなれば念写でもしたんじゃあないですか?」
「念写だって?」
なにしろ大妖怪だ。普通にカメラを使っただけで写らないものが写ってしまうのだろう。
――しかし、それにしても。
「でもその写真は昼間に撮られたものでしょう? 吸血鬼は太陽の光で溶けるのではないんですか?」
今は夕暮れ刻だが、こんな時間に弥太郎が活動しているのは下校時刻を狙って行動していたためだ。
つまり、かの吸血鬼とやらは日中はきちんと学校で授業を受けているわけで。
「……溶ける種族もいる。溶けない種族もいる。あの男は後者だ。――もっとも、日の光の下では本来の力を発揮できないようだがな」
「彼の年齢は何歳ですか?」
「少なくとも百を超える」
「――最高三百歳くらいですか?」
「いや、おそらく二百は超えないはずだが……何故そんなことを聞く?」
もしかの吸血鬼が三百歳くらいならば、二百歳超えの弥太郎の客も、「うら若き乙女」に換算されるかもしれない。……と思ったのだが。
どうやら客の失恋は確定らしい。
「あなた方は彼をどうするんですか?」
「むろん、討伐するが、――おい貴様、自分が捕まっているということを忘れているのか? 質問するのは我々のほうだ」
しかし、弥太郎はこの場から逃げようと思えば逃げられるだろうから、そんなふうに脅されてもたいして困らない。
問題は、この者たちが例の吸血鬼にちょっかいを出せば客が怒ってこの者たちをくびり殺すだろうから、弥太郎はなんとか説得しなくてはならないということで。
――弥太郎は男の言葉を無視して、さらに聞いてみる。
「吸血鬼に血を吸われるとどうなるんですか? 吸われると吸血鬼になるとか、ミイラみたいに干からびて死ぬとか、別になんともないとか聞きますけど――」
「おい、そろそろ黙ったらどうだ?」
男がナイフを突きつけてきた。
これも銀製なのだろうか?
鈍く柔らかな光が美しい。
――が、こんな刃物で切られれば吸血鬼でなくとも死んでしまうから、やめてほしい。
弥太郎は溜め息をつく。
穏便にいきたかったんだけどなあ。――とつらつらと思った。
弥太郎は言う。
「ねづみ。――いるかい?」
どこへともなく話しかけると、遠くで「ちゅう」と鳴き声がした。
祓い師たちは弥太郎の言葉に首を傾げたが、弥太郎は目的の者が弥太郎の声に応えたことを知った。
――次の瞬間、がきん、と弥太郎を縛っていた鎖が切れた。
祓い師たちが驚いた顔で弥太郎を見てきたが、弥太郎は冷静に――一番怯んでいる若い男に向かって駆け出し、「ひっ」と身を竦めたその横を……通り抜けた。
「追え!」
祓い師の一人が言う。
しかし弥太郎はこの大人数を相手に追いかけっこをするつもりはないので、鞄から携帯電話を取り出した。
弥太郎は言う。
「――もしもし警察ですかっ?」
祓い師たちに聞こえるように、声を張り上げて、だ。
男たちがぎょっとした顔をする。
「助けてください! 不審な男たちに追われているんです!」
言いつつ弥太郎はきょろきょろと辺りを見回し、近くにコンビニを見つけたので、そこへ飛び込んだ。
店員が不審な顔でこちらを見てきた。
祓い師は――追っては来なかった。
振り返ってみると、すでに立ち去ったあとだった。
素早い。
「悪い奴だねえ」
近くで声。
「どっちが?」
弥太郎は携帯電話をぱたんと折り畳み、にやりと笑って、声の主――肩に乗った鼠に返事をした。
鼠は「根棲み」、黄泉の国の住民だ。
弥太郎は、警察は呼んではいなかった。携帯電話をかけた振りをしただけで、実際にはどこにもかけていない。
ハッタリだ。
やれやれ、と肩の上で鼠が首を振った。
弥太郎は言う。
「ところでねづみ。この男の居場所は分かる?」
弥太郎が例の吸血鬼の写真を見せると
鼠は「あっち」と学校の方角を示した。
「怖~い妖怪と一緒にいるよ。誰だっけ、ええと……ほら、弥太郎があの高校に入学の手引きをしてやった――」
どうやら客は吸血鬼と一緒にいるらしい。
邪魔するのは野暮だと思うが……祓い師も近くにいるだろうし、仕方がない。
「行くのかい? 野暮だねえ」
鼠が言った。
うるさい。と弥太郎は鼠の鼻面を指で小突いてやった。
学校。
校舎裏にいるらしい、との鼠の情報に従って弥太郎はそっとそちらへ回り込んだ。
――「校舎裏に女の子からの呼び出し」と来れば恋の告白が定番だが、客は「すでに失恋しているから」と諦めているらしく、これは、告白ではないらしい。
「……これは受け取れない」
吸血鬼の男が客から渡された包みを突き返しているところだった。
綺麗にラッピングされたプレゼント。
「なんで? ええと……やだなあ、そんなに真面目に考えないでいいよ。だって……義理だもん」
客がやや強張った顔に無理矢理笑みを作ってそう言い訳をしている。
ああ、そういえば二月か。そんなイベントもあったなあ、――と弥太郎は遠い目で二人を見つめる。
バレンタインだ。
プレゼントの中身はチョコらしい。
しかしバレンタインデーはすでに過ぎているから、本番には渡せなくて、今日、やっと渡す勇気を出した。というところか。
「義理チョコねえ」
鼠がにやにやしながらそう呟いている。
野暮はどっちだ野暮は。
――と弥太郎は思うが、喋ると覗き見していることがばれてしまうので言わないことにする。
男は溜め息をついて言う。
「お前には、おれの暗示が効かないのか? ずっと、おれに近付くな、と命じているというのに」
言う。
「――わたしは、きみとは違う生き物だから、きみのそばにいるわけにはいかないのに」
男の喋り方が変わった。
いつの間にか夕日が沈み、残光を受けた男の瞳が黄色く輝く。
髪や影は黄昏の闇の中でもなお黒く、肌は死人のように白く――。
――吸血鬼。
魔力を秘めたような微笑は、弥太郎にこの男は畏れるべきものであることを感じさせる。
確かに、祓い師たちが吸血鬼を危険なものだと判断する気持ちも分かる。
この者と対峙した人間は魅了されてしまうのだろう。
――しかし。
あいにく彼と対峙している者は、人間ではないわけで。
「お前とは違う生き物だ……? 嘘でしょう? わたし、完璧に化けてたはずなのに、バレてたの?」
客は目を丸くしてそう言った。
「いつから気付いてたの? 近付くな、って、もしかしてわたしが人間じゃないから? 近寄ると虫酸が走るとかそういう意味?」
まったく怯む様子もなく喋るのをやめない客に、吸血鬼はきょとんとした表情を向けた。
「は? 人間ではないだと?」
どうやら二人ともお互いの正体を知らずにいたらしい。
吸血鬼が、口を開きかけたとき――。
「それは聞き捨てならないな!」
と闖入者が声高に言った。
どこからともなくわらわらと現れたのは、先ほど弥太郎に絡んできた祓い師たちだった。
これはまずい。
弥太郎は飛び出して、客と祓い師たちの間に割って入った。
「殺人は駄目ですよ、殺人は!」
客の前に立ちはだかってそう言った。
祓い師に背を向けなくてはならないのはどうも不安だが仕方がない。――客は、彼らを殺さんと冷気をまとっているところだったから。
「誰だ貴様は」
「またお前か!」
「弥太郎、あなたどっちの味方なんです?」
吸血鬼と祓い師と客が同時にそう言った。
ん? と吸血鬼と祓い師たちが客の言葉に首を傾げる。
客はその様子を気にせずに言う。
「調査の結果はどうだったんですか? やっぱりそこの祓い師たちが、勝手に難癖つけて彼に付きまとっているだけだったんでしょう?」
「おおむねその通りみたいですけど、まだ調査中ですったら。……そこの彼は吸血鬼だそうなので、どういう被害があるか――」
「吸血鬼? 馬鹿なこと言わないでください。彼からそんな穢れた匂いがしたことなんてありませんよ。むしろそこの祓い師のほうが、たまに人の血の匂いがするんですもの。――吸血鬼と間違えて一般人を襲っているんでしょう?」
「うわぁ……」
弥太郎が白い目で祓い師を見やると、祓い師はおどおどと目を逸らした。
「ですから、そこを退いてください。あなたに免じて半殺しで済ませてあげますから。……というか、彼を連れて逃げてください。うっかりわたしの術の巻き添えにしたら嫌ですし」
ぼそり。
どうやら本気らしい。
弥太郎はその言葉を聞くと、自分が吸血鬼に畏れを抱いていたことも忘れ、慌てて彼に近寄ってその手をつかんだ。
吸血鬼は言う。
「待て。わたしならば平気だ。わたしは、彼女を巻き込まないために苦心していたというのに、ここで逃げるわけには――」
「逃げないと、彼女に殺されちゃいますよ」
「吸血鬼は心臓を杭で打たれない限りは死なないが――」
弥太郎と吸血鬼が会話している間に、客はひらりと手を振る。
ズドン――ッ!
爆音。
いや、その正体は吹雪だ。彼女の手から湧いた暴風と雪――いや、雹だろうか――が凄まじい勢いで祓い師たちを襲って、そのような音を立てただけだ。
「――が、逃げたほうがよさそうだな」
吸血鬼はそう言った。
鼠に至っては、早々と逃げ出したらしくすでに姿を消している。
弥太郎たちは逃げ出した。
祓い師たちが逃げる弥太郎たちのあとを追って来るが、客がそれを薙ぎ倒していく。
弥太郎は逃げるだけで精一杯だが、吸血鬼はそうではないらしい。
走りながら話しかけてくる。
「お前は何者なんだ? 彼女とはどういう関係だ?」
「探偵です。彼女が、あなたのことをあの人たち……祓い師から守りたいから、って依頼してきたので。――あれ? 彼女のことが気になるんですか?」
吸血鬼がかっと赤くなる。
彼が彼女に「可憐な乙女」とかそういう幻想を抱いていたら――その実態が齢三百云十の妖怪だと知ったら、気の毒な気がするので、弥太郎は息絶え絶えになりつつ忠告してやる。
「……彼女は、女子高生の姿が本性では、ありませんよ」
「それは分かる。……あれが彼女の正体なのだろう?」
指差す先を振り返ってみれば、とーん、と地を蹴って、ふわりと降り立つ客の姿が見えた。
白い着物に淡い髪。
きらきらと光が散る。彼女の周りがきらきらと輝いているのは、とても細かな氷の粒をまとっているからだ。
――雪女。
「美しい」
呆然とした様子で吸血鬼が呟いた。
客――雪女は言う。
「わたしは確かにあなたとは違う生き物ですけど、あなたのそばにいてはいけませんか?」
吸血鬼は、口を開きかけ――。
「――認めないぞ!」
と、またしても祓い師の声。
「妖怪など、存在するはずがない。お前も吸血鬼の仲間なのだろう!」
ああ、いるな。こういう人種。
と弥太郎は呆れた顔で祓い師を見る。
幽霊の存在は信じているのに宇宙人の存在は信じていないとか、自分が信じる世界こそが絶対だと思っている者だ。
雪女は微動だにせずに祓い師を見下ろす。
雪の化身。
その身に流れるのは血潮ではなく――死んだら溶けて水になる。それが雪女だ。杭で刺されたくらいでは死なない。
祓い師は雪女の眼光に一瞬ひるんだが、次の瞬間には、恐怖に駆られた顔で雪女に突進した。
弥太郎は雪女がそんな攻撃で死ぬはずがないことを分かっていたし、そもそも、彼女の身を守ろうと飛び出したところで到底間に合うはずもないから、その成り行きをじっと見つめていたが――。
「あっ」
――いや。
間に合う者がいた。
人間よりも遥かに身体能力の高い吸血鬼の彼が――。
彼女の前に飛び出して――。
***
「死んだの?」
と目の前の妖怪が尋ねる。
「いや、生きてるよ。一命をとりとめたんだ……は、はくしょんっ」
弥太郎は目の前の妖怪――常連客の一反木綿の、破れたところに針を通して修繕しながら、そう答えた。
ここは弥太郎のとよばみ探偵事務所で、弥太郎は訪れた妖怪たちに雪女の話をしているところだった。
弥太郎がくしゃみをしているのは、雪女のせいで風邪をぶり返したため……ではなく、すっかり季節は春だからだ。
三月。
――すなわち花粉症である。
例の吸血鬼は杭が心臓から僅かにずれて刺さったおかげで、死ななかった。
……のはいいものの、本当に危機一髪であったらしく、うっかり髪の毛の先から灰になりかけたものだから、雪女が慌てて彼を氷漬けにしてしまったのである。
全身凍傷。
彼が人間なら、手足を壊死で失っていたところだ。
ちなみに祓い師は雪女にこってり絞められたものの、死んではいない。
そちらも凍傷である。
「だから、凍傷に効く薬を知っていたら、教えてほし……いっくしゅんっ!」
「なーんだ。『依頼人の秘密は守る主義なんだ』とか言う弥太郎が、珍しく話をしたと思ったら……やっぱり仕事の話じゃないか」
「当たりま、え、えっふしっ……!」
――どうもくしゃみがひどいな、と思いきや、部屋の戸が開いている。
「ねづみ」
弥太郎は顔をしかめて言う。
「扉は、開けたら閉め、閉め……くしゅん、てくれないと」
いつの間にちゃっかりソファーに鼠が居座っているのである。
「くしゅん、くしゅんっ――あっ」
「ぎゃあっ」
手元が滑って、一反木綿の腕と胴体を縫い付けてしまった。
ぎゃあぎゃあとわめく一反木綿をなだめたりすかしたりする弥太郎をよそに、鼠は呑気に呟く。
「あの吸血鬼、多分ここの常連になると思うねえ」
「ぐじゅっ、――だから、ごめん今すぐ直すって――え? なんだって?」
「女って生き物は、嫉妬深くて難解な生き物だからさあ、あの吸血鬼、苦労すると思うんだ。ここに、愚痴りに来ると思うなあ」
最古の夫婦喧嘩をした女神を知る鼠が、そう請け合った。
「見てたのか? てっきり逃げははほっ……ぶしっ!」
コーヒーがこぼれた。
大惨事。
嫌な季節だ。
花粉症だし。
カップルは増えるし。
吸血鬼が刺されたとき――雪女は、彼を仮死にするために、言ったのだ。
――好きです。わたしのものになってください。
――はい。
弥太郎は溜め息をつく。
「痴話喧嘩なら、お断りだな。それどころじゃないし――っ、っしゅ、くしゅん!」
春だ。
「は、はっ――」
花々の咲く季節。
「――はっくしゅん!」
弥太郎は盛大にくしゃみをした。