2~消えた人魚姫~
妖怪専門とよばみ探偵事務所2~消えた人魚姫~
石名坂松平は弥太郎の数少ない「普通の人間」の友達であるが、随分と変わった趣味をしていた。
――というとなにやら矛盾したように感じられるが、実を言えば、弥太郎の元を訪ねて来るのはそもそも「人間」ですらないことの方が多いのだから、その表現は矛盾ではない。
豊喰弥太郎の経営するとよばみ探偵事務所は妖怪絡みの事案を専門に扱う事務所であり、訪ねて来るのも魑魅魍魎。
この前も神の血を引くという外国の紳士――素手で岩を砕けるとの噂がある――が「友達になれそうだ」と言ってきたし、先ほどもよく飼い主のことを愚痴りに来る猫又が客として来ていた。
それと比べれば石名坂などは可愛いものだ。
石名坂は「鬼の手」や「河童のミイラ」など、一般では見向きされないような珍品――ただしそのほとんどは眉唾物である――を収集して売り捌くことを生業としている。
昨日も人面魚のミイラを博物館に売り捌いたことをわざわざ電話で自慢してきたが……。
――しかし石名坂は普通の人間だ。
そう、たとえ今こうして弥太郎の目の前に座っている客が、いくら普通の人間のように見えるとしても、その本性は人間ではないわけで。
石名坂は弥太郎にとっては貴重な「普通の人間」の友人なのである。
いや。
目の前にいる客はどう見ても普通の人間に化けているようには見えないな。――と弥太郎は心の中で訂正。
なにしろ客は、「普通」とひとくくりにしては失礼なほどの、かなりの美女だったから。
弥太郎は向かい合っている美女の足をちらりと千里眼で視る。
客の中には人間である弥太郎を気遣って人の姿をとって訪れる者もいるが、どうやらこの客は、気遣いだけが理由で人の姿をしているわけではないようだ。
「――それで、あなた方の姫を最後に見かけたのは、双ツ島の根の辺りでよろしかったでしょうか」
「はい。あまり岸に近付くと、打ち上げられますよとご忠告申し上げましたのに、姫様は軽く笑い飛ばして、わたくしに心配いらぬとおっしゃって……」
言いつつ目頭を袖で押さえる美女は――垣間見える腕に、鱗。足元に目をやれば、人の足をしているが、本来は魚のそれである。
すなわち人魚だ。
半身が魚では陸は歩けない。人の姿で弥太郎のところへ来たのはそういう理由もあってのことだろう。
「姫様が、自分の守りばかりでは退屈だろうと労ってくださったので、わたくしは御言葉に甘えて一足早く沖へもどったのです。その後、姫様を見かけた者はありません」
ふむん、と弥太郎は頷く。
今年は台風が随分と猛威を奮っている。
聞いたところ、くだんの姫は先週の台風二十八号のおりに行方不明になったらしい。
おそらくはうっかり岸に打ち上げられてしまったのだろうなと弥太郎は予想する。
石名坂などは、台風で打ち上げられたもので色々と稼いだらしく、「俺が博物館に売った人面魚がテレビで宣伝されるから観ろよ」と言っていたくらいで――。
「あの、例えばの話なのですが、もし姫がすでに……その……お亡くなりになられていたら、どうします?」
弥太郎はおずおずと、美女の顔色を窺いつつ慎重に訊いた。
美女はきょとんと目をしばたかせる。
「姫様が? お亡くなりに?」
「いや、例えばの話ですよ、もちろん」
「でも姫様は死んでいるはずがありませんよ」
きっぱりと自信たっぷりに言う。
……どうやら怒りに触れずに済んだようだが、どうも妖怪というのは、会話が食い違うなあと弥太郎は思う。
「もちろんです。けれど……例えば、姫がどこかの博物館に売られて、展示されるような事態になっていた場合は?」
「姫様が見世物に?」
ざわりと美女の髪が逆立った。
まるで揺らめく海藻のようだ。ダイビング中にうかつに引っかかると身体中に巻きついて溺死の原因となる、あれ。
「例えばですよ」と弥太郎がまた付け加えるが、聞いている様子はない。
すうっと息を吸って。
「そんなことをする不逞者は八つ裂きにしてやりますっ!」
美女は叫んだ。
びりびりと部屋が震えた。
……なだめるのには時間がかかりそうだな、と弥太郎は首をすくめた。
***
美女をなだめ帰してから弥太郎がやって来たのは、石名坂の住み処だ。
住み処と言っても石名坂は基本的に住所不定無職であるから、ひとときの住まいだ。――今は、例の台風での稼ぎがなかなかのものであったらしく、電話で聞いたその「住み処」は、なかなか立派なホテルのようだった。
「珍しいな、お前が俺を訪ねてくるなんて」
ロビーに現れた石名坂は――石名坂の部屋はたいてい足の踏み場もないほど汚いので弥太郎は入室を遠慮することにしている――にこにこと笑みを浮かべて弥太郎に手を振ってきた。
今日の石名坂はいつもとは違って小綺麗な身なりをしていて、「おごってやるからそこのカフェで話そう」とロビーの隣、ホテルの一階のカフェを指したので、嵐が来るのではないだろうかと弥太郎は心配になった。
弥太郎は、これから話すことを考えて、なんだか申し訳ないなと思いつつ、石名坂に案内されてカフェに身を落ち着ける。
「聞きたいことがあるんだけれども」
弥太郎は言う。
「昨日電話で自慢してきた例の人面魚って、どこで見られるんだ?」
「なんだ、まだ宣伝見てないのか?」
「見る暇がなかったんだ。色々忙しくって」
昨日は、弥太郎の常連客の一反木綿がうっかり水溜まりに落ちて泥まみれになったと言うので、一日がかりで洗濯していたのだ。
「ふむん。まあいいけどな。しかし、わざわざ俺に直接聞きに来たってことは、なにか、やばい話があるのか?」
「うん。まあ」
弥太郎は美女の剣幕を思い出しつつ頷いた。
くだんの人魚姫は、石名坂が売り飛ばした人面魚だと弥太郎は見当を付けていた。
西洋のマーメイドとは違い、ここら近海を縄張りとしている人魚は石名坂が間違えるように、人面魚に近い姿をしている。
おそらくは日本の固有種だ。
姫だというくらいだから、相当由緒正しい血筋のものだろう。
依頼人の美女は姫を見世物にするような不逞者は八つ裂きにしてやるとのたまっていたが、ミイラで――しかも人面魚として展示などされたら、怒りの余り博物館の係員だけでなく観覧客すらもくびり殺しそうだ。
「俺があの人面魚を売ったのはここの県立博物館だぜ。ちょうど妖怪展をやるらしくってなあ、俺みたいな怪しい輩からも買い取りをしてくだすったが、普段は閑古鳥が鳴くくらいの平凡な博物館だ。あの人面魚だって、偽物だっつーことは重々承知の上買い取ってくれたんだし。何が問題なんだ?」
「うん、まあ博物館がどうこうってのは興味がないんだけれども。あの人面魚、本物みたいなんだ」
「は?」
きょとんとした顔。
石名坂は、自身が妖物収集なんぞしているくせに、妖怪の存在を信じていないのだ。
「お前なあ、まーたそういうことを……」
やれやれと呆れた表情で首を振る石名坂だが。
実を言えば石名坂がこうやって危険物を売り飛ばすたびに弥太郎が先手を打って対処しているわけで……。
いや、よそう。
と弥太郎は口に出しかけた言葉をしまう。
とにかく姫の居場所は分かったことだしさっさと博物館へ向かおう、と弥太郎は立ち上がる。
「あ、おい」
立ち上がった弥太郎を石名坂が呼び止める。
「なんだ、おごってくれるんじゃなかったのか?」
「ああ、それはそうだが。ちょっとあれ、見てみろよ」
石名坂はカフェの窓から見える町通りを指差した。
指し示した方向には、電気屋が見える。
大画面のテレビ。……の販促のためだろう、その電気屋のテレビは民間放送が流されていて――。
「あ」
映っていたのは人面魚のミイラだった。
いやいや人面魚ではない。
人魚だ。
しかも姫だ。
「まずいな……」
弥太郎は思わず呟かずにはいられなかった。
なにがまずいかといえば、弥太郎が見た視線の先、電気屋のテレビの前に、見覚えのある美女の後ろ姿を見つけてしまったことに他ならない。
ゆらゆらと髪の毛を宙に漂わせているさまは異様だ。
相当の怒りらしい。
――おそらく尾けられたのだ、弥太郎は予測した。
弥太郎の態度になにか感じるものがあったのだろう。きっと弥太郎が姫の誘拐に絡んでいる――と疑って、追って来た、と。
今回のこれは、単なる事故のようなものなのだが、果たしてそれを言って通じるとは思えない。
「うわっ、なんだ、あの……」
石名坂も、テレビの前に立つ女の様子に気が付いて言いかけたが、次の瞬間、女がものすごい勢いでどこかへとすっ飛んで行ったので、言葉を途切らせたまま口をぱくぱくさせた。
「なん、だ、あの……?」
「だから、やばい話だって言ったじゃないか」
弥太郎はため息。
しかし、こうしてはいられない。
弥太郎は目を丸くしたままの石名坂に言う。
「ついて来てくれ。のんびり行っている暇はなさそうだからな、道に迷いたくはないから、博物館まで案内してくれ」
半ば強制的に石名坂を引っ立たせて車に乗り込んだ弥太郎は、女を追った。
それにしても、文明の利器というものは頼もしい。
妖怪の中には時速百キロで走るものもいることはいるが、今、人間にはとても出すことはできない速さで走っている人魚の女に追いつくことは、どうやら可能らしい。
まあ、相手は本来水の中の生き物なのだから、当然といえば当然だ。
……とはいえ追い越して逆に道案内役にされるのは遠慮願いたいので、弥太郎は女に追いつく前に道を曲がった。
「お前、弥太郎っ、前、お前、安全運転っ……!」
がたんごどどッ! と揺れ揺れる車内で石名坂が舌を噛みつつそう訴えてきたが、弥太郎は、無視。
「どっちだ?」
「次の次、右だっ」
石名坂が観念したのか涙目になりつつそう声を張り上げた。
見えた。
博物館の裏手に出てしまう――妖怪ならばともかくまっとうな人間である弥太郎は裏口から乗り込むとはできない――らしく、車を表へ回す。
自動販売機の近くのスペースが空いていた。
移動している間に、どん、と轟音。
振り返って見れば博物館の割れた――たった今割られた窓から、女の髪がゆらゆらしているのが見えた。
「……あの中に乗り込むのか?」
石名坂がこちらの顔をうかがってくる。
弥太郎は車から降り――。
自動販売機に金を入れる。
ごとん。取り出し口から取り出したのは、ミネラルウォーター。
「……当然。そのために来たんだからな」
くるりと振り返って石名坂に言った。
「なんだそれ。武器のつもりか?」と石名坂が弥太郎の握るペットボトルに目をやって言うので、弥太郎は「まさか。和平しに行くんだよ」と言葉を返し、館内へと乗り込んだ。
入場券が必要なはずだが、人魚の女が暴れているので、当然、受付には人がいなかった。
「避難客が少ないのが気になるけど……」
「当たり前だろう? 県の博物館なんだから。来月の県民の日に、入場無料だ。しかも今日は平日の昼間だしな」
「詳しいな」
弥太郎はぱちくりと面食らった様子で石名坂を見つめた。
石名坂は「俺はまっとうな県民だからな」と胸を張る。
まっとうな県民がこんな厄介ごとの原因を持ってきたのではさぞかし迷惑だろうなと思いつつ、弥太郎は女の髪を追って二階へ。
――女は、スーツを着た初老の男を締め上げていた。
初老の男は襟首を掴み上げられ、両足が宙に浮いている。……が、「ぐええ」と呻き声が聞こえることからすると、どうやらまだ手遅れではないらしい。
よくも! よくも――!
女の口から人の言葉ではない言葉が漏れている。
「おいあれ、この館の職員だぜ」
石名坂には女の声が聞こえないらしい。
「それからあれが例の人面魚だな」
指差したのは、締め上げられた初老の職員と女の間から見える、正面の壁に置かれた特別展示用の棚だった。
弥太郎は――。
頷いて、そこへ、ゆっくりと歩み寄った。
おい、と困惑ぎみな石名坂の声が上がるが、弥太郎は、歩みを止めずに――いや。やはり立ち止まって、ぽん、と女の肩を叩いた。
「落ち着いてください」弥太郎は言う。「あなたはなにをしているんです。姫を助けるのが先でしょう?」
その言葉に女が振り向く。
「今、それをしているところです。邪魔し給るな。姫様の仇を討つのだ!」
「干からびている姫の前で悠長に仇討ちなどやっている場合ではないでしょう。いいですか、見ていてください。――ほら、職員さんは放して」
落ち着き払ってそう言う弥太郎に毒気を抜かれたのか、女は怒りの顔を保ちつつも初老の職員を床に降ろした。
弥太郎は職員が解放されたのを見届けると、職員に話しかける。
「すみませんが、このケース、開けていただけませんか」
ガラスを割ってもいいが、弥太郎がそれをやると姫の上にガラス片が落ちてまた女の怒りを買いそうなので、遠慮したいところだ。
職員は困った顔。
「上のふたを持ち上げれば開くんですが、重いので、私の力では持ち上がらないです」
聞くところによるとどうやら二人がかりで開けないといけないらしい。
「じゃあ、あなたはそっちのほうを持ってください。あと、石名坂――」
人手が足りないので石名坂に手伝わせようと振り向くと、その隙に、女がひょいと片手でふたを開けて干からびた姫の身を取り出した。
「……ああ。ありがとうございます」
弥太郎は言った。
女は、それでどうするのだという顔を弥太郎に向けている。
弥太郎は――。
***
弥太郎がミイラ状になった姫に、買っておいた水をかけると、姫は息を吹き返した。
文字通り、水を得た魚だ。
――今日は、その事件から二日後だ。
その事件の顛末はと言うと、息を吹き返した姫に暴走した女をお叱りいただいて、二人揃って海にお帰りいただいた――というだけなので、特筆すべきことはない。
弥太郎にとって問題なのは、今日がとよばみ探偵事務所の定休日なのをいいことに、我が物顔で部屋に居座っている石名坂をどうやって追い返すかということである。
「俺の理想の人魚像を返せ……ぶつぶつ。あれのどこが人魚なんだ?」
石名坂がぶつぶつと呟いている。
言いつつちゃっかりとコーヒーに――弥太郎が自分のために注いだコーヒーだ――手を出しているので、弥太郎はげんなりとため息をつく。
「そりゃあ人魚にだって地域差はあるんだから。仕方ないじゃあないか」
「地域差ねえ。……ミイラから生き返っちまうのも地域差か? なんだあれ。妖怪じゃないか」
「うん。まさしくその通りだよ」
一部の地域で「人魚の肉を食べると不老不死になれる」という伝承があるが、その人魚が、今回のそれだ。
食べると不老不死になるくらいなのだから、当の人魚自体も生命力が高い。
姫は台風で岸に打ち上げられたのち、生命維持のために仮死状態になっていただけだ。
「石名坂だって、そのつもりであの博物館に売ったんだろう? 妖怪展用に」
「だって人面魚は妖怪だろ」
「……それ、本人の前では言うなよ?」
今回、妖怪の怒りで人が死にかかった――幸い死人が出る前に片付いたが――というのに、石名坂はそれをケロリと忘れているらしい。
気楽なものだ。
妖怪絡みで、今までに何度も気付かれないように石名坂の窮地を救ってきたというのに、……こんなことならばもっとおおっぴらにやれば良かったな。と弥太郎は石名坂を恨めしげに睨む。
そんな弥太郎の様子には頓着せずに、石名坂は、うーんと伸び。
「しっかし、それにしてもお前、表の看板は冗談じゃなかったんだなあ」
――『妖怪でお困りの方、お困りの妖怪の方はこちら! とよばみ探偵事務所』である。
実はこの謳い文句はよくある「壁に顔の形のシミが!」とかそういう霊障だ。……この文字は消しても消しても浮かび上がってくるのだ。
この看板のせいでまともな依頼が来なくなってしまったので、仕方がないので、妖怪専門の探偵事務所だと割り切ることにしている。
「ここに来る妖怪ってどんなんだ?」
「……依頼主の秘密は守る主義なんだ」
「ちっ」
石名坂は舌打ち。
ふと、こんこん、と部屋の戸を叩く音。
表には定休日の看板がかかっているから、新聞の集金かなにかか? と思って弥太郎が戸を開けると、誰もいない。
「弥太郎。急患、急患」
……いや、足元にいた。
見れば、猫又の背に怪我をした猫が乗っている。
「こいつはおれみたいに猫又じゃなくて、普通の猫なんだけど。うっかり、おれ、縄張り争いに巻き込まれてさあ。ちょっとやり過ぎちゃったっていうか」
うちは病院じゃあないぞ。と弥太郎は顔をしかめるが、「友達じゃないか」と猫又が見上げてくるのでどうにも断れない。
弥太郎はちらりと石名坂を見る。
「石名坂」
言う。
「友達としてなら、紹介するよ」
ん? と石名坂が身を起こして猫又を見て――猫又が石名坂を見上げて「なんだよ、先客かよ」と言うのを見て、目を丸くした。
「つ、使い魔か?」と言う石名坂に「違げえっ」と猫又が猛烈な勢いで猫パンチするのを見て、弥太郎は、今日一日石名坂のせいで暇が潰れそうなことは多目に見てやろうと思った。