1~豊喰弥太郎とパンドラの箱~
妖怪専門とよばみ探偵事務所1~豊喰弥太郎とパンドラの箱~
その日の客は一風変わっていた。
爪は鉤爪のように長く、服は襤褸を纏ったようにぼろぼろで、瞳は猫のように鋭く、口からは牙、頭には角。
――のような客が、ここ『とよばみ探偵事務所』の普段の客だが、その日の客は、パリッとした身なりの良い紳士だったのだ。
とよばみ探偵事務所は妖怪専門の探偵事務所である。相談に来るのはたいてい、「うっかり太鼓のばちを落とした」雷神様でであったり、「最近野犬が増えて迷い人を安全に送れない」送り狼であったり、「台風で倒壊した」塗り壁であったり――その他もろもろ魑魅魍魎であったりすることが多く、きっかりきっちり人の姿をした妖怪が来ることは非常に稀なのだ。
人間である豊喰弥太郎を気遣って人の姿をとってやって来る者もいるが、豊喰弥太郎の千里眼をもってすればその正体を見分けることは容易だ。
妖怪専門とは言っても、「妖怪絡み」の事案であれば人間からの相談にも乗るから、「愛猫(猫又)が迷子になった」などという依頼か? とも考えられないこともないが――。
いかんせん、その客は毛色が違っていた。
文字通りの意味である。
「外国人は珍しいですか?」
きれいなブロンドの髪、彫りの深い顔の紳士だ。
「まあ、初めての対応ではありますね」
少々じろじろ視すぎたか、と内心反省しつつ、にっこりと弥太郎は答えた。「ここに普段来るひとは人間でないことが多いですから」
おや? と紳士はやや笑みを浮かべる。
「ではわたしもあなたの普段の客と大差ないでしょう。わたしは普通の人間ではありません」
「そうなんですか?」
「ええ。わたしは英雄の民です」
「英雄?」
随分と丁寧な客なのに、なんだかいきなり尊大な単語が出てきたな、と思う。
弥太郎が微妙な表情を浮かべたのを見てとって、紳士はくつくつと笑った。
「……誤解ですよ。そういう意味ではありません。『英雄の民』というのは、区別するための単なる用語なのですよ」
言う。
「あなた方のことを『鉄の民』と言います。それは、あなた方が鉄を使って勢力を伸ばしてきたからです。――一方、われわれ『英雄の民』は、鉄よりも己の力を使う。なぜなら、鉄を使わずとも素手で岩を砕けたり空を飛べたりすることが多いのでね。……『英雄の民』は神の血が混じっている人間のことを言います」
「なるほど」
神話の世界の人物だったのだなあ、と弥太郎はしげしげと紳士の顔を見つめた。
紳士は言う。
「今日相談に来たのは、ある物を探してほしいからです」
すっと懐から取り出して弥太郎と紳士を挟む机の上に置いたのは、一冊の本だ。
絵本。
「この話はご存知ですか?」
「ええ。はい」
日本語の本ではないが、なんとか読み取れた。
題名は――『パンドラの箱』。
弥太郎もかろうじて知っている話だ。
パンドラという女に「開けてはならない」箱を神が贈ったが……パンドラが箱を開けると、恐怖や怒り、悲しみや憎しみ――ありとあらゆる絶望が箱から飛び出してきた、という話だ。
「……もしかして、この箱を探してくれ――というのが本日のご依頼ですか?」
「ご名答!」
満足げに紳士は頷いた。
弥太郎は首を傾げる。
「失礼ですが、そういったことならば、そちらの本国で探されたほうがよろしいのでは?」
なぜわざわざ日本に――と弥太郎は思うのだ。
世界広しといえど、欧米諸国とアジア諸国の区切りはわりと深いと思う。最近は夜になると吸血鬼を見かけたりすることもあるが――。
さすがにおはこ違いだ。
紳士は頷く。
「ええ。もちろん、探しましたとも。探し尽くしたと言ってもいい。ですがその結果……この箱が一番新しく使われたのは、どうやらここ日本のようだということが分かりましてね」
「本当ですか?」
聞いたことがないが。
……首を傾げる弥太郎を前に、紳士は再び懐から別の絵本を取り出す。
「これです」
取り出された本を見て弥太郎は驚く。
こちらも日本語の本ではなかったが、題名はローマ字書きの日本人名なのですぐに分かった。
というよりもむしろ、腰蓑を身に着け釣竿を持って巨大な亀に乗った漁師の表紙を見れば一目瞭然だ。
「――浦島太郎?」
この話はさすがに知っている。
知っているが……パンドラの箱とやらとなんのつながりがあるのだろう? と弥太郎は疑問に思う。
紳士はそんな弥太郎の顔を見ずにぱらぱらと二冊の絵本をめくり、とある頁を指し示した。
「ああ、確かに……箱ですね」
パンドラの箱はパンドラの箱。
浦島太郎は――玉手箱。
パンドラの箱には『絶望』、玉手箱には『止められていた浦島太郎自身の時』が入っていたわけだが、――開けて出てきたのは、どちらも『不都合なもの』だ。
「まさか――?」
「はい。確証はありませんが、同じ箱でしょう」
思いもよらなかった。
紳士は言う。
「この箱には特定の概念や事象を一種だけ詰め込むことができます」
パンドラの箱は、最後には箱の中に希望が入っていた、というオチがつくが……そもそも絶望あっての希望なのだから、『絶望』が箱の中から出されて初めて生じたのだとも言える。
人と妖怪の関係に似ているな、と弥太郎は思う。
妖怪は人の心の『畏れ』から生まれるものだ。たまに、神から妖怪に堕ちるものもあるが、そもそも神というのも『畏れ』の産物――ただし神の場合は『畏れ』というよりは『畏怖敬愛』といった気色が強いが――なのだから、神も妖怪も、根本は同じものだ。
希望絶望とは違って、妖怪の存在が人間を発生させているわけではないから、妖怪がいなくなっても人間が滅びることはないだろうが……。
まあ、人間がいる限り妖怪は生まれ続けるだろうから、たいして変わらないな。と思う。
「うーん」
弥太郎は唸る。
「でもこれは……探すのには相当な時間がかかりますよ」
なにしろ浦島太郎は有名な昔話だ。発祥の地というのはあるだろうが、それでも相当な数だろう。日本は島国で狭いが、それゆえに海岸線は多く、――しかも浦島太郎はまさにそこが舞台の話なわけで。
それに、箱がまだ日本にあるとは限らない。大層なものだから使われれば噂や――それこそ昔話や神話になっていたりするだろうが、しかし使われずに――あるいは使い方すら分からずに――「由緒正しい御神体云々」といってぽんと売り飛ばされている可能性だってある。
まあ、ここは八百万の神々の国。
なんでもかんでも祀りたがる日本だから、どこかの杜にひっそりと祀られている可能性もおおいにあるが――。
「ええ」
紳士は頷いた。
「構いません。調査のほうも、あなたのお手透きの、合間合間でやっていただければ結構です。必要経費も出します。何年でも待ちますよ。……あ、もちろん、わたしが生きている間に見つけてくださると嬉しいですがね」
いたずらっぽくウィンク。
「はあ」
弥太郎は話の大きさに思わず生返事をした。
金って、あるところにはあるのだなあ、としみじみと――つくづくと、感心。妖怪相手のこの商売は金にならないことも多いからなおさらだ。
さてと話はまとまったかと紳士はさらさらと小切手にサインをして――その金額に弥太郎はまた驚いた――「前金です」と弥太郎に渡して立ち上がる。
「では、くれぐれもお願いします」
「はあ」
弥太郎はまた生返事。
狐に騙されているのではないだろうか、という気分。
いきなりの大金話だが、実は金は木の葉だったというオチのあれ。
気をつけてはいるが、弥太郎はまんまとこれに引っかかったことがある。弥太郎が千里眼で相手を――あと金も――必ず確認するようになったのはこのせいだ。
――いや千里眼で見ても紳士は紳士、狐が本性なんてことはないし、渡されたのが現金ではなく小切手なのだから銀行に行けば嘘かどうかなどすぐに分かるし……この依頼はどうやら本物だ。
どうしてここまで?
小切手の「前金」の金額に頭をくらくらさせていた弥太郎は、ふと思う。
そして、考えて――。
「あの」
部屋の戸の取っ手に手をかけて出て行こうとしている紳士に、弥太郎は思わず声をかけていた。
紳士は振り向く。
その瞳がかすかに水のようにゆらめくのを弥太郎は見る。
そう。
どれほどこの紳士が普通の人間と変わらないように見えても。
この依頼も、確かに異形。
弥太郎は息を吸って尋ねた。
「――パンドラの箱を……もし、手に入れたとしたら。あなたは――なにを『閉じ込める』つもりですか?」
紳士は驚いた顔で弥太郎を見つめた。
瞳のゆらめきは、今度はしずしずと、ゆっくりと弥太郎を焦がすような色に変わり――。
――ふっと紳士は笑った。
「やはり、この依頼はキャンセルしましょう」
「え?」
「その小切手は、キャンセル料にしてください」
「え?」
弥太郎はきょとんした。
にっこりと紳士が笑顔を作って言う。
「いやあ、思わぬ誤算だ。なかなか鋭い。お察しの通り、人には言えない用途に使おうと目論んでいたのですがね、悪いことはできませんなあ。お手数をかけて申し訳ない。今日の話は忘れてください」
「はあ」
紳士の瞳からは、炎が消えている。
……肩の力が抜けるのを弥太郎は感じた。
紳士は「では」と手を上げた。
「くれぐれも頼みます。どうか速やかに『忘れて』くださいますように」
「この小切手、口止め料ですか」
尋ねる弥太郎に、紳士はふっと暗い笑みを浮かべる。
しいっと人差し指を口元にやって。
「――『キャンセル料』、ですよ」
「分かりました」
弥太郎は頷いた。
「今日のことは残念ですが、なにか――また機会がありましたらよろしくお願いします。きっと、また来ましょう。あなたとは友達になれそうだ」
紳士はそう言ってまたあのいたずらっぽいウィンクをした。
ひらひらと手を振って出ていく。
――ぱたんと閉まった戸を、弥太郎はしばらくの間ぼうっと見つめていた。
「あ」
ふと思う。
紳士は、英雄の民だった。岩を投げ飛ばしたり素手で砕いたりするという、あの。
……思えば随分軽率な発言をしたなあ、と弥太郎は自分の言動に今更ながらひやりとする。
「うっかり捻り殺されなくて良かったなあ」
呟き――。
「なにが?」
いきなり背後で声。
ひゃっと奇声を上げつつ振り返ると、ぼろ布のような妖怪がふわふわと弥太郎を見下ろしていた。
「一反木綿……窓から入って来るなってあれほど言ったろうに」
「ごめん。ついうっかり」
このぼろぼろの一反木綿はよく身体の修繕を依頼しに来る常連客だ。
長いからよく木に引っ掛かって破けるのだ。それから、車に轢かれてタイヤの跡を作ったり、鳥にふんをかけられたりもする。
「電線に引っかかって半焼した」と言って瀕死のていで弥太郎の元に転がり込んできたときには心底肝を冷やした。
妖怪も大変だな、と思う。
弥太郎は一反木綿の修繕に取りかかりつつ話す。
「今日は珍しい客が来てたんだ」
「へえ、どんな客?」
「……依頼者の秘密は守る主義なんだ」
「ぼくが弥太郎のとこに来ると、みんなすぐに分かるようだけど」
「それは見ればすぐに分かるじゃないか。常連客だし」
言いつつ、弥太郎は紳士のことを考える。
また来ると言っていたか?
――友達になれそうだ、とも。
「風変わりな客だったなあ」
呟く。
一反木綿が呆れたような顔で弥太郎を見てきた。
「……ここに風変わりじゃない客が来ることってあるの?」
「それもそうだ」
きょとんとして弥太郎は頷いた。
弥太郎が一反木綿を縫っていると、ふいにばたんと勢いよく戸が開く。
「わああ弥太郎ー!」
飛び込んで来たのはまたまた常連客の小鬼。
「はいはい」
苦笑しつつ対処。
――あの紳士、また会ったときには名前を聞こう、と弥太郎は決心する。
たまには人間の友達もほしいからねえ、と心の中で呟く。
神の血が流れているようだが、人間には違いない。少々風変わりなくらいがここにはちょうどいいだろう。