銀のしおりを挟んだ日
「君との婚約は、今日限りで白紙に戻す」
その言葉が落ちた瞬間、王立劇場の灯が、いくらか暗くなったように見えた。もちろん、実際には何も変わっていない。天井の水晶灯は変わらず輝き、舞台袖では楽師たちが次の幕の合図を待っている。貴族たちは香油と絹の匂いをまとい、それぞれに優雅な沈黙を保っていた。
変わったのは、場の意味だった。
言葉は刃物ではない。だが、刃物より深く切ることがある。私は膝の上で指を組み、エドガー殿下を見上げた。殿下の隣には、淡い桃色のドレスを着た男爵令嬢ミリエラが座っている。彼女は小さく肩を震わせ、白い指で目元を押さえていた。泣いているように見える。けれど、涙は落ちていなかった。
「理由をお聞かせくださいませ」
私がそう尋ねると、エドガー殿下は一瞬だけ言葉に詰まった。私が泣き崩れるとでも思っていたのだろう。あるいは、許しを乞うとでも。だが私は、泣くにはあまりに多くの書類を読み、許しを乞うにはあまりに長く黙ってきた。
「君は冷たい。ミリエラが苦しんでいるとき、君はいつも書類ばかり見ていた。人の心を思いやることもできない女を、僕は王妃にはできない」
その言葉に、私はミリエラを見た。彼女はかすかにうつむき、殿下の袖を握っている。守られることに慣れた仕草だった。けれど、私は彼女を責める気にはなれなかった。宮廷では、美しさも、涙も、弱さも、武器になる。彼女は彼女の武器を使っただけだ。私の武器が、ただ別のものだったというだけで。
読めること。数えられること。黙って耐え、記録し、必要なときまで忘れないこと。
「承知いたしました」
私が答えると、エドガー殿下の眉が動いた。
「……それだけか」
「はい」
「君には誇りがないのか」
「ございます。ですから、これ以上は申し上げません」
劇場の空気が、わずかに揺れた。沈黙は、ときに叫びより雄弁である。誰かが息を呑む音がした。誰かが扇を閉じる音も聞こえた。私は胸元に差していた銀のしおりに触れる。それは、亡き祖母の形見だった。祖母は、王都から遠い東の領地で、飢饉と流行病と領主の放漫を見て死んだ。美しい物語は読まなかった。読んでいたのは、帳簿と薬草録と古い法律書ばかりだった。
幼い私に、祖母は言った。嫌なページは破ってはいけないよ。そこにしおりを挟んで、本を閉じなさい。続きは、自分で選べばいい。
そのころの私は、意味がわからなかった。今ならわかる。本を閉じるとは、逃げることではない。同じ物語に囚われないと決めることだ。
「殿下、確認いたします。婚約を白紙に戻すということは、私がこれまで婚約者として担っていた公務、代筆、外交文書の整理、儀典名簿の調整、予算案の下読み、領地報告の要約、ならびに殿下個人の執務補助を、本日をもってすべて停止するという理解でよろしいですね」
エドガー殿下は、露骨に苛立った。
「今、そんな話をするのか」
「今でなければ、いつするのでしょう」
「君は最後まで書類の話か」
「はい。王国は、恋情では動きませんので」
その一言で、周囲の貴族たちの顔色が変わった。踏み込みすぎたことは、自分でもわかった。けれど、もう引き返す気はなかった。王国は恋情では動かない。だが、恋情で滅ぶことはある。
「カイウス殿下」
誰かが、低くその名を口にした。
貴賓席の入口に、王弟カイウス殿下が立っていた。黒髪に、色の薄い瞳。若くして北方の反乱を鎮め、南部の財政を立て直した男。宮廷の者は彼を畏れた。彼は怒鳴らない。剣も抜かない。ただ、一度見たものを忘れない。その性質は、宮廷では勇猛さより恐ろしい。
「今の話は、正式なものと受け取ってよいか」
カイウス殿下は、エドガー殿下に向けて尋ねた。
「叔父上には関係ありません」
「ある。王太子候補である君が、公衆の前で婚約を破棄した。しかも理由は、政務上の問題ではなく、私情だ。これは王家の問題だ」
「僕は真実の愛を選んだだけです」
「真実の愛とは、便利な言葉だな。責任を捨てるとき、人はよく美しい名をつける」
誰も笑わなかった。笑えるほど、軽い言葉ではなかったからだ。ミリエラがかすかに身じろぎする。彼女もまた、この場の温度が変わったことに気づいたのだろう。
「カイウス様、エドガー様は、お優しいだけです。私が苦しいとき、そばにいてくださったのです」
「その間、誰が彼の職務をしていた」
ミリエラは黙った。カイウス殿下は、彼女を責めてはいなかった。ただ、問いを置いただけだった。だが、答えられない問いは、罪に似る。
宰相閣下が、ゆっくりと前に出た。顔色は悪い。
「リュシエンヌ嬢。念のため確認いたします。明日の朝議に提出予定だった港湾税制の草案は」
「私の手元にございます」
「北方公国との会談記録は」
「同じく」
「王太子府の支出超過に関する修正案は」
「私が作成中でした」
ざわめきが広がった。エドガー殿下は、そこで初めて周囲を見た。彼はおそらく、婚約を破棄すれば私が泣くと思っていたのだろう。あるいは縋ると思っていたのかもしれない。けれど、人は泣かないこともある。泣く暇がないほど、長く踏みつけられていた場合には。
「君は、僕を困らせるつもりか」
「いいえ、殿下。私はもう、殿下をお助けしないだけです」
それは、怒りの言葉ではなかった。むしろ、遅すぎた事務連絡に近かった。人を助けることは、美徳だと教えられてきた。だが、助け続けることで、その人から責任を奪うこともある。私は長い間、殿下を守っていたのではない。殿下が自分の無能を直視する機会を、奪っていたのかもしれなかった。その罪の半分は、私のものだった。
カイウス殿下が、私に向き直った。
「リュシエンヌ嬢。王弟府に来る気はあるか」
「私に、ですか」
「政務官として雇いたい。婚約者の奉仕ではなく、官吏の職務として」
私は即答できなかった。不思議なことに、自由を差し出された瞬間、人はまず足元を疑う。
「私は、婚約破棄された女です」
「それが何か」
「宮廷では、傷物と見られます」
「宮廷の目が正しかったことは少ない」
「私は、殿下のお側に長くおりました」
「だから必要だ。国を動かすのに必要なのは、美しい忠誠ではない。正確な記録と、不快な事実を差し出す者だ」
私は黙った。胸元の銀のしおりが、冷たく指に触れる。嫌なページは破ってはいけない。そこにしおりを挟んで、本を閉じなさい。続きは、自分で選べばいい。
「お受けいたします」
私がそう言うと、エドガー殿下が叫んだ。
「リュシエンヌ!」
その声には怒りがあり、焦りがあり、そして少しだけ恐怖があった。彼はようやく気づいたのだ。私がいなくなることにではない。私が戻らないことに。
「君は僕を見捨てるのか」
私は振り返った。殿下は、美しい人だった。金の髪、澄んだ青い目、民の前では優しく手を振り、子どもには菓子を与える。善良なところもあった。まったくの悪人ではない。だからこそ、たちが悪かった。悪人なら、憎めばよかった。けれど、善良な無責任は、悪意より長く人を傷つける。
「殿下。私は、殿下を見捨てるのではありません」
殿下の顔に、かすかな希望が浮かんだ。私はその希望を、静かに断った。
「殿下の物語を、殿下ご自身にお返しするのです」
その夜、私は王弟府に移った。部屋は広くはなかった。けれど、机があり、鍵のかかる書棚があり、窓があった。それだけで十分だった。誰かの顔色を窺うための椅子ではなく、自分の仕事をするための椅子が、そこにはあった。
カイウス殿下は、最初の仕事として三通の文書を置いた。一通は港湾税制の修正案、一通は北方公国との会談記録、最後の一通は王太子候補の適性審査に関する非公開報告書だった。私は三通目の封を見て手を止める。
「これは」
「読む権限を与える」
「私が読めば、戻れなくなります」
「戻りたいのか」
私は答えなかった。戻りたいわけではない。ただ、知ってしまえば、知らなかったころの自分には戻れない。それだけだ。封を切ると、紙の匂いがした。古い羊皮紙と、乾いたインクの匂い。そこには、エドガー殿下の怠慢だけでなく、王宮全体の歪みが記されていた。殿下の名で行われた支出の一部は、不自然に特定の商会へ流れている。ミリエラの父である男爵家は、その商会と深く結びついていた。
「単なる恋の騒動ではなかったのですね」
「婚約破棄は、幕だった。幕の裏には、別の芝居がある」
カイウス殿下の声は静かだった。その静けさが、かえって恐ろしかった。
「ミリエラ嬢は、駒ですか。それとも指し手ですか」
「まだわからない」
「裁くのですか」
「必要なら」
「必要とは、誰が決めるのですか」
カイウス殿下は、わずかに目を細めた。
「いい問いだ」
褒められた気はしなかった。問いがよいということは、答えが苦いということでもある。私は書類に視線を落とした。誰かを罰することは簡単ではない。だが、罰しないことで、さらに多くの者が傷つくこともある。宮廷で生きるということは、清くあることではない。汚れた水の中で、どの水路を塞ぎ、どの水路を残すか選ぶことだ。その選択に、無垢な正解はない。
翌朝、王宮は混乱した。エドガー殿下は朝議に遅れ、税制改革案の要点を説明できなかった。ミリエラは体調不良を訴えたが、宰相閣下は医師と監査官を同時に送った。優しさだけで開けられていた扉は、手続きによって閉じられていった。
一方で、私の机には温かい茶が置かれていた。誰が置いたのかと顔を上げると、カイウス殿下が窓辺に立っていた。
「砂糖は入れないと聞いた」
「誰からですか」
「君の侍女から。ついでに、夜更かしをすると頭痛を起こすことも聞いた」
「……殿下は、部下の体調まで管理なさるのですか」
「倒れられると困る」
あまりに実務的な答えだったので、私は思わず笑ってしまった。笑い声が出たことに、自分で驚いた。王宮に来てから、私はこんなふうに笑ったことがあっただろうか。誰かを安心させるためではなく、誰かの機嫌を損ねないためでもなく、ただ可笑しくて笑うことが。
カイウス殿下は、少しだけ目を見開いた。
「何か変なことを言ったか」
「いいえ。ただ、困るから大事にする、というのは、とても誠実だと思いました」
カイウス殿下は何か言いかけて、結局、黙った。その沈黙は、不快ではなかった。劇場の沈黙とは違う。責めるための静けさではなく、言葉を選ぶための静けさだった。
それからの日々は、穏やかとは言えなかった。監査は進み、男爵家と商会の癒着が明らかになった。ミリエラはすべてを知っていたわけではなかったが、何も知らなかったわけでもなかった。彼女は泣いた。今度は、本当に泣いていた。私はその涙を、美しいとも、醜いとも思わなかった。ただ、人は自分の選んだ道の終わりで、ようやく自分の足跡を見るのだと思った。
エドガー殿下は王太子候補から外された。処罰としては軽い、という者もいた。重い、という者もいた。私にはわからない。けれど、最後に会ったとき、殿下は以前よりも少しだけ人間らしい顔をしていた。
「君がいなくなって、初めてわかった。君が、僕を支えていたことを」
「いいえ、殿下。私は支えていたのではありません。隠していたのです。殿下の弱さも、私の不満も、この国の歪みも。だから、もう隠しません」
殿下は黙り、やがて深く頭を下げた。それは王族としては不器用で、遅すぎる礼だった。けれど、私はそれを受け取ることにした。許すためではない。終えるために。
季節が変わるころ、王弟府の庭に、小さな白い花が咲いた。執務室の窓から見えるその花は、昼のあいだは目立たない。けれど日が暮れると、花弁の縁だけが、月明かりを吸ったようにほのかに光った。
その夜、私は珍しく早く机を離れた。庭に出ると、石畳の先に人影があった。カイウス殿下だった。
「月燈花だ」
私が花の前で足を止めると、殿下はそう言った。
「昼間とは、まるで違って見えます」
「夜に咲く花ではない。夜になって、ようやく見える花だ」
「……私のようですね」
思わず口にしてから、私は少しだけ後悔した。けれどカイウス殿下は笑わなかった。
「そうかもしれないな」
「否定なさらないのですか」
「否定する理由がない。昼のあいだ目立たない花が、価値のない花とは限らない」
私は返事に困り、花へ視線を戻した。月燈花の光は、闇を追い払うほど強くはない。けれど、足元を見失わない程度には、確かにそこにあった。
「仕事を残して庭に出てしまいました」
「今日でなければならない仕事か」
「……明日でも、間に合います」
「なら、今夜は得をしたな」
私は思わず殿下を見た。
「殿下が、仕事を明日に回せとおっしゃるのですか」
「今日でなければならない仕事と、今日でなくてもよい仕事を分けるのも、政務官の仕事だ」
空は深い藍色で、風には水の匂いが混じっていた。月燈花は、近くで見るといっそう淡く光っていた。
カイウス殿下は少し離れた場所に立っていた。近すぎず、遠すぎず、こちらが黙っていても不安にならない距離だった。
「リュシエンヌ嬢」
殿下が私を呼んだ。
「はい」
「君は、これから何を望む」
以前なら、私は正しい答えを探しただろう。王家にふさわしい答え、政務官にふさわしい答え、誰かを失望させない答え。けれど、その夜の私は、少しだけ違っていた。
「眠る前に、明日の失敗を恐れずにいられることです」
カイウス殿下は、黙って聞いていた。
「それから、自分の仕事に給金が支払われること。温かいお茶を、遠慮なく飲めること。疲れたときに、疲れたと言えること。誰かに選ばれなかったからといって、自分の価値が減ったと思わずにいられること」
言い終えてから、私は少し恥ずかしくなった。あまりに小さな望みに思えたからだ。しかし、カイウス殿下は笑わなかった。
「それは意外と、国を立て直すより難しいかもしれない」
「大げさです」
「大げさではない。人は、国のためなら死ねることがある。だが、自分のために休むことは、なかなかできない」
私は返事ができなかった。胸の奥で、何かがほどけるような気がした。
しばらくして、カイウス殿下が小さな箱を差し出した。中には、しおりが入っていた。銀ではなく、白い木で作られている。表面には、小さな月燈花が彫られていた。
「祖母君のものを替えろという意味ではない」
「では、これは」
「古い本を閉じるためのしおりは、もう持っているだろう。これは、新しい本を読み進めるためのものだ」
私はしおりを手に取った。木の表面は、思ったより温かかった。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのものではない」
「では、困るから大事にしてくださる部下への、実務的配慮として受け取ります」
カイウス殿下は、わずかに眉を寄せた。それから、ほんの少しだけ笑った。その笑みは不器用で、宮廷向きではなかった。けれど、私は美しいと思った。
私は銀のしおりを胸元に、白木のしおりを手帳に挟んだ。一つは過去を閉じるために。もう一つは、これからを見失わないために。
王都の鐘が鳴る。それは祝福にも警告にも聞こえた。けれど今夜の私は、そのどちらでもよかった。先に何があるのかはわからない。国の歪みはまだ深く、私の傷もすぐには消えない。明日になれば、また難しい書類が机に積まれるだろう。間違えることも、迷うこともあるだろう。
それでも、私はもう、誰かの物語の余白ではなかった。
自分の名で働き、自分の足で歩き、自分の望みを小さく笑わない場所に立っていた。
月燈花の淡い光の中で、私は初めて、明日が来るのを少し楽しみに思った。




