第67話 晩餐会の事件 2
瞬間、鋭い風圧が頬を掠めた。
覆面のスパイが投げた短剣が、セリウスの耳元を通り抜け、背後の木の幹に深々と突き刺さる。
刃は淡く青い光を帯びていた――毒か、あるいは呪符付きの暗器。
(速い……! こいつ、訓練された暗殺者だ)
セリウスは反射的に身を低くし、マントを翻す。
闇の中で、草木が擦れる音と共にもう一つの影が動いた。
風のような足取り。姿を見失ったと思った瞬間、背後に殺気が迫る。
「っ――!」
咄嗟に剣を抜き、振り返りざまに受け止めた。
金属がぶつかる乾いた音が夜気を裂き、火花が散った。
「やるな……訓練生の剣じゃない」
覆面の男が一歩退き、月光の下で構え直す。
その動きには無駄がない。軍人というより、暗部――影の諜報員のそれだ。
「お前……帝国のスパイか」
セリウスの問いに、男は笑った。
「知っているか。なら話が早い。王国の未来はすでに帝国の掌の中だ」
言葉が終わるより早く、男の手首が閃いた。
短剣が三本、扇状に飛ぶ。
セリウスは横跳びでかわし、一瞬の隙を突いて間合いを詰める。
「せーい!」
セリウスの横薙ぎを後ずさり、笑いながら男は躱す。
連続技で追い詰めようとするが、男はまるでそれを読んでいたかのように、煙玉を放って視界を奪った。
白い煙が広がり、空気がざらつく。
(視界が……!)
次の瞬間、横腹に衝撃。
蹴りを受け、体が石畳に叩きつけられた。肺の空気が抜ける。
「ぐっ……!」
だがセリウスは即座に転がり、剣を構え直した。
その瞳には恐れよりも冷静な光があった。
「……いい動きだ。訓練生にしては上出来だな」
スパイが笑いながら近づく。
その足音のリズム――セリウスは気づいた。
(……左足に重心。片膝を少し引いている。前の蹴りで筋を痛めたか)
ほんの一瞬の観察をもとに、セリウスは決断した。
敵が踏み込んできた瞬間、わざと剣を弾かれたふりをして、懐に飛び込む。
距離がゼロになる。男の目がわずかに見開かれた。
「そこだ!」
セリウスの掌が光る。
「〈閃撃符〉――!」
掌に貼り付けた小型符が起動し、閃光が炸裂。
目を焼くほどの白光が中庭を満たし、スパイが思わず顔を庇う。
「ぐっ……!」
その隙を逃さず、セリウスは体勢を立て直し、相手の手首を払った。短剣が地に落ちる。
「降参しろ。ここはお前たちの戦場じゃない!」
セリウスが叫ぶ。
しかし、スパイは薄く笑い、懐から黒い札を取り出した。
「甘いな、少年。任務は――すでに果たした」
札が光り、魔法陣が展開する。
セリウスが身構えた瞬間、男の姿が闇に溶けるように掻き消えた。
残ったのは、焦げた草の匂いと、黒い灰だけ。
セリウスは剣を下ろし、肩で息をした。
(逃げられた……だが、『任務は果たした』とは? 一体、何を――)
夜風が吹き抜ける。
ふと見ると、学院の塔の一つの窓が、かすかに開いていた。
月明かりに照らされて、紙片がひらひらと落ちる。
拾い上げると、それはヴァルター学長の研究記録の一部だった。
そこには――『魔導通信石の改良計画』の図面。
セリウスの背筋に、冷たいものが走った。
(……まさか、狙いは学長の命じゃなく、これか)
風が強まり、紙片が闇に消える。
セリウスは夜空を見上げ、静かに呟いた。
「……残念。逃げられたか」
***
セリウスが寮に戻ったのは、夜もすっかり更けた頃だった。
中庭での戦いの名残り――焦げた匂いがまだ袖に残っている。
アランの扉を開けると、部屋の中にはすでに仲間たちが待っていた。
ランプの光が低く揺れ、テーブルの上には地図とメモが散らばっている。
「……セリウス!」
最初に立ち上がったのはフィオナだった。
「遅かったじゃない。何があったの?」
セリウスは無言で椅子に腰を下ろし、額の汗を拭った。
「敵と遭遇し、戦った。……帝国のスパイだ」
その一言に、全員が息を呑む。
「やっぱり……学長を狙ったのは奴らか」
リディアが唇を噛み、拳を握る。
「倒したのか?」
アランが短く問う。
「……逃げられた」
セリウスは悔しそうに首を振った。
「戦闘中、一度は優位を取った。だが、やつは転移札を使って姿を消した。去り際に、『任務は果たした』と言っていた」
「任務だと……?」
オルフェが眉をひそめる。
「それって、学長暗殺以外に目的があったってことか?」
セリウスは懐から、一枚の紙片を取り出して机の上に置いた。
風に舞い落ちたそれ――焦げ跡の残る、設計図の断片。
「これを拾った。……ヴァルター学長の研究記録だ。『魔導通信石の改良計画』とある」
「魔導通信石?」
フィオナがすぐに反応した。
「確か、王国軍が各地で情報伝達に使ってる新型の通信装置よ。
これが改良されれば、国境防衛や戦略の根幹が変わる……!」
「つまり、学長はその研究の中心人物だったということですか?」
レオンが低く呟く。
「スパイの目的は、暗殺じゃなく――機密の奪取」
その言葉に、全員が沈黙した。
ランプの炎が小さく揺れ、部屋の中の緊張を映す。
「……セリウス。『任務は果たした』って言葉は鵜呑みにすべきじゃないな」
アランが腕を組んだまま、じっと私を見据える。
「その敵が、もう学院の外に逃げたとは限らない。通信石の資料を持ち出すだけでなく、こっちの研究をじゃまするはずだ。――つまり、まだスパイが学内に残っている可能性は高い」
フィオナが顔を上げた。
「じゃあ、まだ帝国のスパイはまだここに……」
「そうだ」
アランが頷いた。
「俺たちの任務は終わっていない。……むしろ、これからが本番だ。魔導通信石の研究を邪魔するスパイを捕まえよう」
沈黙のあと、オルフェが小さく笑った。
「スパイ狩り、第二幕ってわけか。いいぜ、やってやろうじゃないか」
「でも慎重にね。敵は一枚も二枚も上手よ」
フィオナが釘を刺すように言い、地図の上に小さな赤印を付けた。
「私の情報網から察するに、通信石の試験装置が保管されているのは、旧研究塔の地下室。警備は厳重だけど……内部の者なら、出入りは可能なはずよ」
……凄いな。
「フィオナって、何処からそういう情報を仕入れてくるの? すごいね」
私は思わず疑問を口にする。
「あら、セリウスったら。そんなに私に興味があるの? 情報源は秘密だけど、セリウスと一夜をともにしたらしゃべっちゃうかも……」
「遠慮しとくよ。そこまでして知りたくはない」
「……つまり、次の狙いは旧研究塔の地下室だ。奴は必ずそこに現れる」
アランが話を戻す。
「セリウス、君とオルフェが先頭で動け。私とレオンは裏手を抑える。フィオナとリディアは塔の監視を頼む」
全員が頷いた。その表情に迷いはない。
窓の外では、夜明け前の薄明が空を染め始めていた。
長い夜が明ける。だが、戦いの幕はこれから上がるのだ。




