第60話 《呪具の持ち込み事件》 8
カミーユ教官の瞳が、氷のように冷え切った光を帯びる。
外套を裂かれ、帝国の織り地を露わにされた瞬間、彼はもう仮面を被ることをやめていた。
「小僧ども……調子に乗るなよ」
低く響いた声と同時に、彼の掌から噴き出した血煙が一瞬で空洞を満たす。
赤黒い靄が脈動し、池の水が沸騰するように泡立った。
「こうなったら――貴様らを口封じのために死んでもらうしかないな」
轟音とともに、水面から影の柱が立ち上がる。一本、二本ではない。無数の腕のような影が一斉に襲いかかり、石柱ごと薙ぎ払った。
「うわっ!」
リディアが弾き飛ばされ、崩れた石片の下敷きになりかける。私は慌てて肩を取って引き寄せたが、その隙に別の影が背後へ回り込んでくる。
「セリウス、避けろ!」
アランの怒声。私は反射的に身を低くし、背後の影の爪が壁を抉る。火花のような粉塵が散った。……守るはずのアラン様に私はいつもかばわれている。こんなはずじゃないのに。
レオンの詠唱が響く。
「――〈氷結槍〉!」
数本の氷槍が走り、影を裂く。だが裂かれてもなお影は再結成し、倍にも増えたように押し寄せてくる。
「くそっ、数が減らねぇ!」
オルフェが歯を食いしばり、大剣で必死に払い続ける。だがその腕すら影に絡め取られ、動きを封じられかけていた。
――このままでは押し潰される!
私の胸に焦燥が走る。
カミーユ教官は中央で悠然と印を結び、血を垂らし続けている。その身の回りには見えぬ壁が張り巡らされ、オルフェの剣もリディアの槍も届かない。
「諦めろ。お前たちは、ここで死ぬのだ。お前たち知った秘密も闇に消える」
その言葉に、背筋が凍りつく。
私たちの疑念も、真実も、この場で握り潰されようとしている。
影の奔流が迫り、レオンの結界が悲鳴を上げるように軋んだ。
「……もたない……!」
カミーユ教官の血走った瞳が私たちを射抜く。
――本気だ。この男は本当に、私たちを皆殺しにするつもりだ。
「セリウス!」
アランの叫び。
「生き残ることを優先しろ! 全員で突っ切るぞ!」
だが、突っ切る隙すら与えぬほどに影がうねり、通路を塞いでいく。
黒い水面の中心、さらに巨大な影が形を成し始めていた。角を持ち、翼のようなものを広げた異形の巨影――。
心臓が喉に突き上げる。
これまでとは違う。次の一撃で、本当に誰かが死ぬ。
剣を握る手に力を込める。
私は喉の奥で言葉を絞り出した。
「……まだ終わってない!」
影の巨体が立ち上がり、私たちへと覆いかぶさった。
巨影が大口を開け、空洞全体を呑み込まんとする――。
その瞬間、耳を裂くような鋭い金属音が響いた。
ギィンッ!
黒い腕の一本が、真っ二つに断ち斬られて宙を舞う。
赤黒い靄が飛び散り、影の群れが悲鳴を上げたかのように後退した。
「……ほう。やはり臭うと思ったら、こういうことか」
低く枯れた声が闇を裂いた。
現れたのは、白髪を背に束ねた老剣士――アランデル教士だった。
彼はいつもの簡素な修道服の上に外套を羽織り、その腰に佩いた細身の剣をすでに抜いている。
「ア、アランデル先生!」
私が思わず叫ぶと、老剣士は片目だけこちらに向けてニヤリとした。
「おい小僧ども。訓練で叩き込んだ型を忘れてないだろうな? 死ぬ気で守りを固めろ」
次の瞬間、彼は人影のように速く駆け、影の柱へと剣を振り抜いた。
閃光のごとき一閃――ただの鋼の刃ではない。鍛え抜かれた剣技が、影を裂くたびに光の軌跡を描く。
「な、アランデル。どうしてここに……!?」
カミーユ教官が血煙の向こうで呻く。
「お前が一連の事故を起こしていたのか……」
アランデルは冷ややかに吐き捨て、さらに二閃、三閃。
押し寄せる影が切り刻まれ、結界に押し付けられていたレオンたちの圧が一気に軽くなる。
「今だ、立て! 生きる意思を捨てるな!」
老剣士の叱咤に、胸の奥が熱く燃え上がる。
「……はい!」
私たちは一斉に剣を構え直した。
その瞬間、再び巨影が咆哮を上げる。しかし今度は違う。
アランデル老教士の剣先が、迷いなくカミーユ教官へと向けられていた。
「教え子に剣を向ける外道……貴様には、この老いぼれで十分だ」
そう言い放った老剣士の背中は、闇をも切り裂くように大きく、力強く見えた――。
カミーユの口端が歪み、血で濡れた掌が再び印を結ぶ。
「……ふん。老いぼれがしゃしゃり出たところで、状況は変わらん。貴様ら全員、ここで――」
言葉の終わりを待たず、アランデル老教士の影が疾った。
次の瞬間、甲高い音が鳴り響き、カミーユの手首に閃光が走った。
「ぐっ……!?」
細身の剣の切っ先が、血煙を操る手の動きを正確に止めていた。
まるでそれ以上印を結ばせまいとするかのように。
「小僧ども、いまのうちだ! 拘束しろ!」
「了解!」
オルフェが素早く駆け寄り、カミーユの背後から羽交い締めにする。
レオンも結界魔法を即座に展開し、黒い靄が漏れ出さぬように閉じ込めた。
「やめろ! 私は帝国の――」
「黙れ!」
アランデル老教士の一喝が響き渡る。
その声には老いを感じさせぬ迫力があり、カミーユは思わず息を詰まらせた。
リディアと私は駆け寄り、予備の拘束具を取り出す。
鋼鉄の枷が両腕を封じ、さらに符のついた鎖で胸を縛りつける。
カミーユの全身を包んでいた血煙が霧散し、空洞の空気がようやく澄んだ。
「くっ……貴様ら、わかっているのか。私は帝国の――」
「裏切り者だろう」
アランデル老教士は冷然と告げる。
「どんな名分を並べようが、教え子を犠牲にする師など、教鞭を預かる資格はない」
カミーユの瞳が血走り、怒りと悔恨の入り混じった色に染まった。だが、もはや抗う術はない。
オルフェが肩で息をつきながら問う。
「……アランデル先生、こいつをどうするんです?」
「ヴァルター学長に引き渡す。裁きは公の場で受けさせればいい」
老剣士は剣を収め、私たちをぐるりと見渡した。
「お前たち、よく頑張ったな」
緊張が一気に解け、膝が震える。
アランデル老教士の背は、やはり揺るぎない壁のように頼もしかった。
その後、ヴァルター老学長に連絡を取り、カミーユを引き渡し一件落着となった。




