第58話 《呪具の持ち込み事件》 6
作戦は単純であるが危険を伴っていた。講義が終わると同時に、私たちは席を立ち、誰にも不自然に見えないように教壇を離れた。五人がばらばらに。だが――できるだけ離れすぎず、しかし十分な間隔を保ってカミーユ教官を尾行する。カミーユ教官を直視するのはリディアとレオン。少し離れて私とアラン、オルフェの三人が続く。互いの視界に仲間が入ることで、万が一の合図や援護がすぐに行えるはずだ。
カミーユ教官はいつもと同じ足取りで講堂を出る。黒の外套を静かに翻し、突然立ち止ると、眼鏡越しに書類をめくる。その所作を、リディアとレオンは息を殺して見守りながら、リディアは手で私たちに止まれの合図を送り、私たちは廊下の陰に身を潜めて距離を詰める。五人の連携が自然に機能していた。
カミーユ教官が再び歩き出し、建物を出て中庭を抜けると、私は心の中で速やかに位置を調整する。影と影の間合い。石畳に落ちる靴音。冷えた夕暮れの風が、私の髪を揺らした。カミーユ教官は意識してか無意識か、学舎の抜け道を選んで歩いている。まるで構内の構造を血肉のように知り尽くしているようだ。
私たちは距離を保ちながらも確実に追う。講堂前の群れを避け、裏口を回り込み、古い蔵書棟の影を利用して身を隠す。今は見つかる訳にはいかない。確実に証拠を掴むことだけに集中するのだ。
カミーユ教官が小さな石造りの回廊へ入る。灯りが少なく、反響音だけが大きくなる場所だ。一度、身を低くして壁沿いの継ぎ目を確かめる仕草を見せた。――その瞬間、リディアがわずかに前へ出て手招きで合図する。私たちはほんの一歩だけ前へと詰め、死角に潜んだ。
回廊の角を曲がると、カミーユは急に速度を上げ、裏階段へと消えた。
「いそげ!」
リディアの言葉で私たちはためらわず一斉に動く。
五人が固まって階段を下り、石の匂いと冷気が混じる地下通路へと続く。足音を殺すため、靴の裏に意識を集中させる。
地下通路の突き当たり、カミーユ教官は古い鉄製の扉を開け、室内へ入って行く。扉は小さく、普段は授業用具の保管に使われるだけの場所のはずだ。教官の姿が扉の内側に消えると、私たちは息を合わせて扉のそばで身を潜める。五人の気配だけが、薄暗い廊下に静かに溶けていった。
レオンがかすかに首を振る。彼の表情はいつになく真剣だ。私たちは互いに目で確認し合い、いよいよ決行の瞬間を待つ。外套の下で、私は剣の柄に指を回した。心の奥にある確信と恐れが混ざり合う。そこにあるのは――真実か、それとも罠か。
扉の向こう側で、何らかの物音がする。紙が擦れる音、低い呪文のような囁き。カミーユ教官の声が、小さく、でも確かに聞こえた。
扉の隙間からは、僅かに細い光が漏れている。……開いている。気取られぬように覗こう。
私はリディアと視線を交わすと、そっと扉に耳を寄せ、わずかに隙間を広げた。錆びた蝶番が軋む音に、心臓がひやりと跳ねる。だが幸い、部屋の中の呟きにかき消された。
そこにいたカミーユ教官の姿は、授業で見せる冷静な学者のそれではなかった。
床に描かれたのは血のように赤黒い線で構成された円環――精緻な魔法陣だ。蝋燭がぐるりと立てられ、火が揺らめき、不気味な影を壁に映し出す。その中心で、カミーユ教官は外套を脱ぎ、掌に刃をあてて血を垂らしていた。
「……これで、封は解ける。あの愚かな連中に知られることなく……」
教官の声が低く響き、魔法陣の紋様が赤く脈打つ。
紙束や魔導具が床に散らばり、その中の一つ――学院の公式印章が押された文書を、彼は迷いなく裂いて燃やしていた。
リディアが息を呑む気配を、私は隣で感じ取る。
これ以上の証拠はない。学院の権威そのものを破壊し、禁呪の儀式を行う姿――まさに現行犯だ。
だが、次の瞬間、カミーユの目が、ふいにこちらを射抜いた。まるで、最初から尾行に気付いていたかのように。
「……やはり来ていたのか。随分と子供じみた真似をしてくれる」
囁きと同時に、魔法陣から黒い煙が噴き出し、扉の方へと迫る。
レオンが即座に防御の結界を展開し、オルフェが私たちを押しのけるように前に出た。
「見つかったか……! 逃げ場はない。ここで押さえるぜ!」
そう言ったオルフェの表情は、なぜか嬉しそうだった。……こいつ戦いたくて仕方なかったな。
狭い地下室の前で、私たち五人は剣と魔法を構え、カミーユ教官と正面から対峙する。
黒煙はまるで生き物のように形を変え、蛇や手の形を象りながら襲いかかってきた。
レオンの結界が火花を散らして揺れ、彼の詠唱がそれに重なる。
「――〈雷撃散弾〉!」
閃光が炸裂し、黒煙を切り裂いた。回廊に白い閃光と轟音が響きわたる。
だが、切り裂かれた煙はすぐに再び形を取り戻し、二重三重に覆いかぶさって迫ってくる。
カミーユ教官は魔法陣の中心から一歩も動かず、冷静に手を掲げていた。その眼差しには焦りがない。むしろ、こちらを見下ろすような薄笑いが浮かんでいる。
「子供の尾行ごっこで終わると思ったか?」
掌から滴る血が魔法陣に吸い込まれると、石床が低くうなりを上げた。
赤黒い光がさらに強まり、床板が脈打つように震えている。
「レオン! 結界がもたねー!」
リディアが叫ぶ。
「わかってます!」
オルフェが剣を抜いて一歩踏み込む。
「なら斬って止めるしかねえ!」
その刹那――カミーユ教官は片手を振りかざし、魔法陣の一部を崩した。
轟音。
地下室に張り巡らされた封印が解放され、光と煙が爆ぜた。私たちは一斉に壁際へと跳ね飛ばされる。視界が真白に染まり、耳に刺すような衝撃音が響いた。
必死に体勢を立て直し、煙の向こうを見やる。
だが――そこにカミーユの姿はなかった。
床の魔法陣は崩壊し、血と蝋燭が焼け焦げた跡だけが残されている。
そして壁の一角、ありえないはずの石造りの隙間がぽっかりと開いていた。隠し通路だ。
「……逃げられた!」
レオンが悔しげに歯噛みする。
私の胸にも、抉られるような悔しさが広がった。証拠は掴んだ。だが――犯人を取り逃がした。
リディアが震える声で呟く。
「学院の内部に……こんな通路を作れるなんて。やっぱり……」
オルフェはまだ興奮冷めやらぬ顔で剣を握りしめ、レオンとアランは険しい視線を交わす。
「やつは、この通路の先に違いない。追いかけよう!」
アランが決意を固めた表情で言った。
「おう!」
オルフェはもう走り出していた。




