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『男装の令嬢は男になりたい』  作者: 米糠


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第57話 《呪具の持ち込み事件》 5


 記録庫を後にした老学長ヴァルターは、ゆるやかに廊下を歩き出した。

 石畳に杖の先が「こつり、こつり」と響く。夜の学舎は静まり返り、その音がやけに大きく耳に残る。


 彼は角を曲がり、詰所に控えていた秘書官へ低く命じた。

「アランデル老教士を……呼んでくれ」


 秘書官は一礼し、闇へ駆けていく。

 やがて、剣術教官であるアランデル老教士が連れてこられた。

 数十年にわたり学舎を守り続けてきた武人であり、学長が最も信を置く数少ない教員の一人だ。


「ヴァルター殿、急ぎとのこと……」

「静かに。内密の話だ。ここでは声を抑えてくれ」


 二人は人気のない回廊を進み、閉ざされた応接室へ入った。

 学長は扉を確かめ、重ねて鍵を掛けると、机に蝋燭を灯した。


 その炎に照らされ、老学長の目は一層鋭さを増す。

「アランデル。……学舎に裏切り者がいる可能性がある。一年生のアランたち五人がこのことを知らせてくれた。最近立て続けに起こっている事故との関連を含めてな」


 アランデルは眉をひそめた。

「裏切り者、ですと……?」


「そうだ。名を伏すが、ある教官が帝国呪術と関わりを持ち、密かに帝国式の呪術を仕掛まわっている疑いがある。まだ証拠は脆弱だ。だが、生徒らが目撃したのは確かだ」


「……放置すれば、学舎全体が呪いに呑まれましょうな」

 アランデルは低く呟き、無意識に腕を組んだ。


 老学長はうなずき、重い声で続ける。

「この件は極秘だ。外に漏らせば、学舎は動揺に沈む。おぬしには、密かに監視と護衛を任せたい。アランたちを守ると同時に、疑わしき者を見張れ」


「承知しました。老骨ではありますが、必ずや」


 二人の間に短い沈黙が落ちる。蝋燭の火がわずかに揺らめき、壁に映る影を大きくした。


 やがて学長は深く頷き、言葉を結んだ。

「――いずれ真実は暴かれる。だがそれまで、敵に悟られぬよう、我らは目立たぬように捜査するしかない」


 その夜から、学長とごく少数の信頼できる教員による極秘の監視網が動き始めた。

 誰も知らぬところで、学舎の空気はさらに張りつめていくのだった。


 ***


 夜が明けきらぬうちに、私は硬い寝台の上で目を開けていた。

 浅い眠りの中、何度も額の傷を持つ影が脳裏に浮かんでは消えていったからだ。


 学舎の鐘が朝を告げる。

 薄闇の中で身を起こすと、アラン、リディア、オルフェ、レオンの顔が次々に思い浮かぶ。

 ――みな同じように、眠れぬ夜を過ごしたに違いない。



 学舎に向かうとそこはいつも通りのざわめきを取り戻していた。

 生徒たちの笑い声、紙をめくる音、石畳を打つ靴音……昨夜の恐怖が幻だったかのように。


 だが、私たちの胸中は違った。

 そして――その人物は、教壇に現れた。


「さて、今日の講義では、帝国学派と我が国学派の理論的差異を取り上げる」

 カミーユ・エストラン教官は、何事もなかったかのように口を開いた。

 眼鏡の奥で瞳が光る。声も態度も、いつもと変わらない。


 ――違和感が恐ろしいほどにない。

 昨夜、廊下に黒靄を撒き散らし、符を操っていた同じ人物だとは、到底信じられなかった。


 リディアは硬い表情で筆を取っている。

 オルフェは腕を組み、じっと教官を睨みつける。

 レオンは震える指でノートを開きながら、教官の一挙一動を記録するように見つめていた。


「……」

 私は喉が渇き、視線を合わせることすらためらった。


 だが、カミーユ教官がふと黒板に数式を書き込む時、袖口から見えた手首に赤黒い痕跡が一瞬のぞいた。

 昨夜の符を扱った際に残った焼け痕――そう見えた。


「っ……!」

 私は息を呑みかけたが、すぐに唇を噛んだ。

 今ここで騒げば、逆にこちらが疑われる。


 教官は振り返り、冷ややかに眼鏡を直す。

「何か問題でもあるかね、セリウスくん?」


 背筋が凍りついた。

 まるで、心を読まれたかのように。


「……い、いえ」

 私は必死に首を振った。


 教壇に立つ教官の姿は、何も変わらない。

 だが私たちだけが知っている。

 ――この男こそが、本当に裏切り者であるかもしれないということを。


 講義が終わると同時に、アランが小声で囁く。

「……放課後、全員で集まろう。証拠を固めるんだ」


 リディアの瞳が鋭く光る。

「偽装の可能性もある。真実を掴まなければ、ただの濡れ衣になる」


 オルフェは苦々しく唸った。

「だがもし本物なら……あの教官、やべえほど強えぞ。俺たちでどうにかできる相手じゃねえ」


 レオンは深く息を吐いた。

「だからこそ、今は焦らず調べるしかないのです。……学舎を守るために」


 私たちは互いに頷き合った。

 揺らぐ心を押さえ込みながら、再び闇に踏み込む覚悟を固めるのだった。


 ――その時、教壇を片付けるカミーユ教官が、ちらりとこちらに視線を投げた。

 眼鏡の奥の双眸が、まるで私たちの会話を見透かしているように冷たく光った。


 胸の鼓動が跳ね上がる。

 影か、師か――真実はまだ見えない。


 だが一つだけ確かなのは。

 この学舎の中に、危険な闇が確実に潜んでいるということだった。



 夕刻。西日が学舎の回廊を朱に染める頃、私たちは人目を避けて旧塔の図書室に集まった。

 今は使われていない閲覧室で、埃をかぶった机と椅子だけが残っている。


「ここなら誰にも聞かれない」

 アランが小声で言い、扉に簡易結界を張った。


 私たちは円を描くように腰を下ろす。

 重い沈黙を破ったのは、リディアだった。


「……あの手首の痕。セリウスも、確かに見ただろ?」

「うん。間違いないと思う。ちょっと不安はあるけれど」


 レオンが首を横に振った。

「いや、見たのは君たちだけじゃありませんよ。僕も気づきましたしオルフェでさえ気付きました。それに、授業中に、ほんの一瞬ですが魔力の残滓が漂っていました」


 オルフェが拳を握り締める。

「つまり確定ってことだな? だったら今すぐ学長に――」


「待て」

 アランが遮る。

「まだ証拠が足りない。見間違いかもしれないし、別の理由で呪痕を負った可能性だってある」


「……じゃあ、どうする?」

 私の声は震えていた。


 アランは一人一人の顔を見渡し、低く言った。

「カミーユ教官を監視する。相手が本当に裏切り者なら、必ず尻尾を出す。その瞬間を逃さない」


 リディアが頷き、冷静に言葉を継ぐ。

「授業の後や夜間、……気付かれないように見張る必要があるぜ。そういうの、俺は得意だ」


「だが一人で見張るのは危険すぎる。かと言って、全員では目立って気付かれるか?」


「それでも全員で動かないと危険だよ。学長にもみんなで動くように言われてるじゃないか」

 私は、アランに意見する。


「そうだな。じゃあ、皆で動こう。リディアとレオンが、カミーユ教官を監視して、それを見えるところから私たち三人が見守るっていうのはどうだろう。三人が少し離れることによって、少しは気付かれ辛くなるんじゃないか」


「そうですね。僕がいれば、突然の魔法攻撃にも対処できますし、その組み合わせが良いでしょう」


「よし! それで決まりだな。今度こそ、カミーユの尻尾をつかんでやる」 


 こうして私たちの密かな作戦が決まった。

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