第56話 《呪具の持ち込み事件》 4
黒い靄が廊下一帯を覆い、視界が閉ざされる。
息をするたびに、胸の奥へ冷気が流れ込むようだ。
「……位置を見失った!」
リディアが低く吐き捨てる。
「気配を探れ!」
アランの声が飛ぶ。彼の剣先が闇を払うように走った。
次の瞬間、靄の奥から疾風のような斬撃。
火花を散らしながらアランの剣と激突し、金属音が狭い廊下に響く。
「くっ……速い!」
アランが押し返される。
すぐさまオルフェが大剣を横薙ぎに振るう。だが影は低く身を沈め、信じられない反射でかわした。
その動き――どこかで見たことがある。
「今の……学舎の剣技だ!」
私の胸に稲妻のような閃きが走る。
その一言に、リディアが眉をひそめた。
「つまり、あいつは外部の刺客じゃなく……!」
影は答える代わりに、懐から札を抜き放ち、床へ叩きつける。
赤い炎のような紋様が瞬くと同時に、爆ぜる衝撃波。
「下がれ!」
アレンの指示に応えるようにレオンが即座に防御魔法障壁を展開し、全員が吹き飛ばされるのを防いだ。
靄が一瞬晴れ、影のフードがわずかにずり落ちる。
見えたのは、額に走る古い傷跡、そして鋭く光る瞳――見覚えがある。
「お前……!」
アランが目を見開く。
しかし次の瞬間、影は符を燃やし尽くし、再び姿を闇へと溶かす。
追跡の最中、影は回廊の角をすり抜け、月光が差し込む中庭へ飛び出した。
私たちはすぐさま追いすがる。
「待てっ!」
アランが剣を振るい、火花が夜闇を裂いた。
黒衣の影は後方へ弾かれ、覆面がずれた。
一瞬、額を横切る古い傷跡が月明かりに浮かぶ。
そして、眼鏡の奥に潜んでいたのは、鋭く光る双眸――。
「……っ!」
私は息を呑んだ。あの瞳を、私は知っている。
「今の顔……!」
リディアが小声で言いかけた瞬間、影は手をかざした。
符が宙に舞い、紅の光を放つ。
「伏せろ!」
アランの叫びと同時に、爆ぜるような音が響き、視界を覆う濃煙が立ちこめた。
咳き込みながら周囲を見渡す。だが、影の姿はもうなかった。
残されたのは、焼け焦げた符の灰だけ。
「……今のは、帝国式の符術です」
レオンが拾い上げた灰を握りしめ、険しい表情を浮かべる。
「それも、単なる呪詛ではありません。研究者レベルの高度な応用呪術……」
リディアが振り返り、低い声で告げた。
「額の傷……そしてあの瞳。セリウス、お前も見ただろう」
私の喉はひどく渇いていた。
――そうだ。あれは間違いなく、魔術理論教官のカミーユ・エストラン。
若い頃、魔導炉事故で負ったと言われる傷と、研究に執念を燃やす鋭い眼差し。
オルフェが低く唸る。
「どういうことだよ……教官が、裏切り者だってのか?」
「まだ断定はできないが、もしそうなら……学舎の要を担う教官が、帝国と通じていることになる」
アランが眉根を寄せて顎を手でさする。
「学長へ報告して、対応策を相談しよう」
胸の奥に冷たい不安が広がっていった。
学舎の内部に潜む裏切り。
それは、生徒たちの未来だけでなく、この国そのものを揺るがす脅威と言える。
「……本当に、報告するのか?」
オルフェが低くつぶやく。
その声音には、怒りよりも戸惑いが混じっていた。
「するしかない」
アランは短く答える。
「今見たものを隠しておけば、それこそ取り返しがつかなくなる」
扉の前に立ち、レオンが小さく息を整えた。
「ただ……証拠は符の灰と、我々の目撃だけです。これでは推測の域を出ません」
「それでも学長に伝えねばならん」
リディアの声音は冷徹だった。
「学舎の安全に関わることだ。報告するように言われているし、黙っているほうが罪だろう」
私の胸も張り裂けそうだった。
――本当にカミーユ教官が裏切り者なのか。
剣術を教わり、魔導理論の講義で耳を傾けた日々が頭をよぎる。
彼の叱責も、助言も、決して生徒を軽んじるものではなかったはずだ。
けれど――私の瞳に焼き付いた額の傷と鋭い眼差しは、何度思い返しても覆しようがなかった。
アランが重い扉を叩く。
しばしの沈黙ののち、中から「入れ」という低い声が響いた。
学長室の灯火はまだ消えていない。
机に向かっていた老学長ヴァルターが、我々を見上げた。
「……こんな夜更けに。何事かね?」
アランが一歩前へ進む。
「報告がございます。――学舎に侵入した黒衣の影について」
空気が張り詰めた。
私の喉はひどく乾き、声が出そうになかった。
「影は……帝国式の符術を用いていました」
レオンが灰を差し出す。
「さらに、学舎の内部構造に熟知している様子。偶然では片づけられません」
老学長の眼差しが、鋭く光る。
「……つまり、内部の者の仕業と?」
リディアがわずかに口を開きかけ、私の名を呼ぶように視線を寄こした。
私は小さく息を吸い込む。
「私たちは……その影の一瞬の顔を見ました。額の古い傷跡、そして――教壇でいつも見ていた眼差し。……カミーユ・エストラン教官でした」
部屋に沈黙が落ちた。
炎の揺らめきだけが、私たちの震える吐息を照らしている。
老学長はしばらく目を閉じ、深い皺の間から低い声を漏らした。
「……軽々しく口にできる名ではない。だが、君らが見たものを疑うわけにもいかん」
アランが眉をひそめる。
「処分を下すお考えですか?」
「いや……」
学長の声は思いのほか硬かった。
「この件は極秘とする。真偽を見極めるまでは、他の教員や生徒には一切漏らすな。――よいな?」
私たちは顔を見合わせ、胸の奥に重たい不安だけを抱えたまま静かに頷いた。
私たち五人が去った後、老学長ヴァルターは、夜更けの記録庫に足を踏み入れていた。
石造りの小部屋は冷え込み、並ぶ棚の奥に蝋燭の灯が心許なく揺れている。古紙とインクの匂いが鼻をつき、長い年月に積もった埃が、光の筋の中で舞っていた。
「鍵を」
低く告げると、秘書官が恭しく古びた鉄鍵を差し出した。
ヴァルターはそれを受け取り、扉の錠前へ差し込む。錆びた金属音が狭い室内に響き、重い扉がきしんで開いた。
中には、帝国との交流記録や、かつての研究論文が丁寧に綴じられている。
老学長はその一冊を引き抜き、古椅子に座るとそれを机上に広げた。薄く黄ばんだ羊皮紙をめくるたびに、乾いた音がする。
「……やはり、帝国との往来記録があるな」
細い指先で日付をなぞりながら、ヴァルターの目が鋭さを帯びる。
「カミーユ・エストラン、若き日に数度、帝都に滞在している……」
続けて、近年の研究論文に目を通す。
整然と記された魔導理論の一節に、帝国式呪術の記述と酷似した符号を見つけた瞬間、彼は眉をひそめた。
──これは、単なる学術的引用か。それとも……。
疑念が胸を重くする。だが同時に、証拠としては決定的に欠けていた。
「証拠としては、まだ弱いか……」
誰にともなく呟き、老学長は背凭れに身を預けた。
古椅子がきしむ音が、記録庫に響く。
「だが、生徒らの証言を無下にするわけにはいかん。……監視を強めるしかあるまい」
長い白髭を撫でながら、彼は蝋燭を一本、机の上に移した。炎が紙面を照らし、彼の深い皺に濃い陰影を落とす。
やがて立ち上がり、背を丸めながら記録棚を押し戻すと、扉に再び重い鍵をかける。
最後に灯を吹き消す。
小さな吐息で炎が揺らぎ、消える瞬間、壁には学長の影だけが長く伸び、やがて闇に溶けた。




