第52話 新学期
次の朝は、抜けるような青空が広がっていた。
澄んだ風が校舎の白い石壁をなで、寮の中庭に並ぶ花壇を鮮やかに照らし出す。夏休みが終わり、新しい学期の始まりだ。冒険者としてダンジョンに潜るのはしばらくお預け。今日からは、学生としての生活が再び優先される。
私は窓を開け、深く息を吸い込んだ。空気は冷たく、胸の奥まで透きとおるようだったが、心の中は昨日の出来事でまだざわついていた。落札価格――一億五千万ゴールド。そして、王国軍総司令ゼルディア将軍との対面。
夢とも現実ともつかないその記憶を、私は何度も反芻していた。
「おはよう、セリウス」
背後から軽やかな声がかけられる。振り返れば、隣室の扉が開き、フィオナ・ド・ヴェルメールが姿を現していた。朝の光を浴びて、絹糸のような黒髪がさらりと揺れる。その笑みも仕草も、どこからどう見ても女性そのものだ。だが実際には男性――本人曰く「美は性別を超えるもの」だそうで、確かにその存在感には誰も逆らえない。
私とはまるで正反対の人間だが、だからこそ妙な親近感を覚える。そして同時に、彼ならば私の内心や秘密を見抜いてしまうのでは、と警戒心も拭えなかった。
「昨日はだいぶ真剣そうに話していたわね。私、少し心配になったわ?」
フィオナの瞳が、柔らかくも探るように細められる。
「おはよう、フィオナ。昨日はちょっと、色々あってね」
私は肩をすくめて答える。
「そうらしいわね。オルフェの大声で、大体のことは聞いていたわ」
……オルフェの大声。確かにあいつの声は。
思わず私は苦笑した。
「あの声じゃ、フィオナには全部知られちゃったみたいだね」
「でも、内容がちょっと信じがたくて。本当なの?」
フィオナは小首をかしげる。光を反射する長い睫毛が影を落とし、その眼差しにはからかいよりも真剣さが混じっていた。
「一億五千万ゴールドのこと? ゼルディア将軍のこと? どう聞こえたかわからないけど、どちらも本当だよ」
そう告げながらも、胸の奥にじわりと重みが広がる。言葉にすればするほど、それが現実であることを再確認させられるからだ。
「昨日のオークションで出品した魔石が一億五千万ゴールドの値がついたこと。落札者がゼルディア将軍で、落札後に呼ばれて面会したこと。全部本当なのね?」
「そうだね。でも、ここだけの話にしておいてね」
私は少し身を乗り出して声を落とす。こんなことが広まれば、学舎中がひっくり返る騒ぎになりかねない。
「分かっているけど、たぶんすぐに噂になると思うわよ」
フィオナは肩をすくめ、朝の光に透ける笑みを浮かべた。
「聞いてたのは私だけじゃないもの」
「だよねー」
私は頭をかきながら、ため息をつく。爽やかな朝の空気とは裏腹に、今日一日が波乱に満ちる予感がしてならなかった。
フィオナとの会話を終えて、食堂へ向かう。
朝の陽射しが窓から差し込み、木製の長机に反射して眩しい。香ばしいパンの匂いと、スープの湯気が漂う中、すでに多くの生徒たちが集まっていた。
扉を開いた瞬間、ざわめきが耳に飛び込んでくる。
「聞いたか? 一億五千万ゴールドだってよ!」
「まさかあの五人が、そんな大金を?」
「しかも落札したのがゼルディア将軍だろ? これはただ事じゃないぜ」
声を潜めているつもりなのか、妙に抑揚のある囁きが食堂のあちこちで交錯する。
パンをかじる生徒、スープを啜る生徒、そのどちらも耳は完全にこちらへと傾いているのが分かった。
視線。
集まる視線。
好奇心、羨望、そして嫉妬と警戒が入り混じった色が、まるで熱気のようにこちらへと押し寄せてくる。
オルフェが「ほらな?」と言いたげに肩をすくめ、リディアは静かにスプーンを置いた。
私は深呼吸しながら、食堂の空気の重さを噛みしめる。
噂はもう止められない。
昨日の出来事は、すでに学舎全体を揺るがす「物語」として独り歩きを始めていたのだ。
***
新学期が始まって数日。
囁き合う噂が完全に学舎の日常に溶け込んだ頃、《ヴァルロワ学舎》では、夏休みを経て再び訓練が本格的に再開された。
訓練場に並ぶ生徒たちは、剣を振るい、魔法を練習し、汗を飛ばしている。
だが、その光景に違和感が混じりはじめた。
訓練場に漂う空気は、いつもより張りつめ、どこかぎこちない。
「ちょっ……! 剣が折れた!?」
金属音と共に、一本の訓練用の剣が根元から真っ二つに砕けた。使っていた生徒は慌てて手を放し、目を丸くする。
「おいおい、まだ新調したばかりだろう。あんなに脆いはずが……」
別の場所では、魔導演習用の装置が突然赤く点滅した。
起動したはずの防御結界が展開せず、放たれた火球が木製の人形を焼き焦がす。
結界のはずの透明な光が一瞬ゆがみ、まるで“外部から干渉された”ように消え失せたのを、私は見逃さなかった。
「な、なんだよこれ! 正常に動かない!」
「危ない、下がれ!」
監督役の教官が慌てて制御を試みるが、装置は唸り声のような魔力音を発し、制御盤が煙を吐いて沈黙した。
教官の額に汗が滲み、生徒たちはただ呆然とその背中を見つめるしかなかった。
ざわめきが訓練場に広がる。
偶然や老朽化と片付けるには、あまりにも頻発しすぎていた。
私は剣を収めながら、胸の奥に冷たいものを感じていた。
これはただの不調ではない。あまりに不自然なことが二度続いた。三度続くようなら、誰かのいたずらかもしれない。悪質過ぎる悪戯? ……もっと悪意を持ったなにかか?
その日を境に、訓練場では小さな異変が頻発しはじめた。
木剣が振り下ろされた瞬間に柄が割れ、持ち主の手の甲に深い裂傷を残す。
魔導演習で放たれた雷撃が標的を逸れ、近くにいた生徒の肩をかすめる。
弓の弦が唐突に切れ、隣で構えていた生徒の頬を赤く裂いた。
「うっ……!」
「大丈夫か!?」
訓練場のあちこちで悲鳴と駆け寄る声が繰り返される。怪我は命に関わるほどではないものの、決して無視できるものでもなかった。
しかし、教官たちは眉をひそめつつも言葉を濁す。
「整備の確認を怠ったのだろう」
「魔力の調整不足だ、注意すれば防げる」
「弦も金属も消耗品だ。偶然が重なっただけだ」
そう言い切って、事態を個別の不注意として片付けていった。
だが、生徒たちの胸には不安が積もっていった。
仲間が倒れる光景を見た者、かすり傷で済んだ者、そして偶然居合わせただけの者までもが、ひとしく同じ思いを抱き始める。
――これは本当に偶然なのか?
訓練場に吹く風は、いつしかざわめきを運ぶ不気味な囁きへと変わりつつあった。




