第18話 図書館の幽霊書記事件
その噂は、騎士養成学校の寮に暮らす生徒たちの間で密かに囁かれていた。
「図書館の奥にある古文書に、夜ごと“新しい記述”が現れる」――と。
六月の夕暮れ。
湿った風が窓から吹き込み、外では雨粒がときおり屋根を叩いていた。
寮の共用ラウンジでは、蝋燭の灯りがぼんやりと揺れている。
テーブルを囲んで談笑していたセリウスたちの前に、ひときわ艶やかな声が響いた。
「みなさま、聞いたことはなくて?」
フィオナが涼やかな扇をぱたりと開き、長い黒髪を揺らして腰を下ろす。
「図書館の古文書が……夜になると勝手に書き換わるそうですのよ」
「……また噂話か」
アランは書物を閉じて、眉をひそめた。
「君は本当に、そういう話をどこから仕入れてくるんだ」
「あら、わたくしはただ、面白い真実を皆さまにお伝えしているだけですわ」
フィオナは唇に笑みを浮かべ、雨音を背景に一口、紅茶をすする。
「えっ、マジかよ!」
リディアがフィオナの話に食いつく。
オルフェが椅子から身を乗り出した。
「幽霊が本に書き込みしてるってことか? だったら俺がぶった斬ってやる!」
「馬鹿を言うな」
アランが即座に切り捨てる。
「だが……記述が増えているというのが事実なら、何者かが夜中に書き込んでいるんだろうな」
「僕もそれ、気になりますね」
レオンがおずおずと手を挙げる。
「古文書って、魔法史で扱うような大事な資料ですからね。もし誰かが勝手に書き込んでいるのなら大問題です」
「ほら! そうでしょう?」
フィオナは目を細め、楽しげに頷く。
「ですから、皆さまで確かめに行きませんこと?」
「決まりだな!」
リディアがにやりと笑った。
「どうせなら今夜、図書館に忍び込んで一泊調査だ!」
「おい……勝手に決めるな」
アランは額に手を当てる。
だが、窓の外で雨脚が少し強まる中、セリウスが口元を緩めて言った。
「でも、確かに気になるよね。……よし、今夜行ってみようか」
湿った風と雨音が夜を呼ぶ。
六人の視線が合い、自然と頷きが交わされた。
「では――“幽霊書記”の真相を、わたくしたちで暴きましょう」
フィオナが扇子をぱちんと閉じ、挑むように微笑んだ。
夜。
人気のなくなった図書館は、木造の壁に取り付けられたランプの明かりだけが揺れ、まるで別世界のように静まり返っていた。
高い天井に届くほど積み上げられた本棚は、昼間の学びの場とは違い、巨大な影の迷宮を形作っている。
「……昼間とはまるで雰囲気が違うな」
セリウスは低く呟き、仲間たちとともに足音を忍ばせて奥の古文書閲覧室へと進んだ。
そこは重厚な扉に守られた一角で、石床の上に長机が並び、壁には古びた書棚がびっしりと並んでいた。
蝋燭の灯りに照らされたその中央――机の上に、一冊の分厚い古文書が鎮座している。
「……これか」
セリウスが慎重に本を開くと、羊皮紙に記された文字が現れる。
騎士団の歴史や条約の記録が細かく記されていたが――末尾の数ページだけ、場違いな文が挟まっていた。
『――あなたに会いたい』
『月明かりの下で待っています』
「まあ素敵……恋文かしら?」
フィオナが目を丸くする。
「古文書にラブレター? 変わってるな」
リディアは笑ったが、アランは眉をひそめ、紙面を指でなぞった。
「うーむ……これは最近の筆跡だ。羊皮紙の古さと全く釣り合わない」
「誰かが勝手に書き込んだ……ってこと?」
レオンが不安げに囁く。
「ふふ、幽霊が筆を取ったにしては、やけに人間臭い文章ですわね」
フィオナが唇に笑みを浮かべながら、室内をぐるりと見回した。
「それに、この部屋――妙に壁の厚みが気になりますの」
リディアが耳を澄ませ、壁を軽く叩いた。
コン、コン……と鈍い音。
だが一か所だけ、微かに空洞を思わせる響きが返ってきた。
「……ここ、響きが違う」
リディアが小声で告げると、皆の視線が集まった。
「やはりか」
アランは冷静に頷く。
「書き込みの謎は、この隠された空間と関係している可能性があるな」
「秘密の通路……!」
オルフェがわくわくした様子で拳を握る。
「ええ。幽霊の正体を暴く手がかりは、この壁の向こうにありそうですわ」
フィオナは扇子をぱちんと閉じ、妖艶に微笑んだ。
重苦しい静寂の中、古文書に刻まれた恋文と、壁の奥に潜む秘密が、六人の胸に一つの予感を抱かせる。
その時だった。
本棚の奥から――かすかな衣擦れの音。
「……誰かいる!」
セリウスが剣に手をかけ、リディアが素早く短槍を構える。
アランが合図を送り、オルフェが力任せに本棚を押すと――ゴトリ、と音を立て、隠し通路が現れた。
そこにいたのは、学園の一年生の少年だった。
青ざめた顔を真っ赤にし、震える手で隠そうとしたのは――束ねられた手紙。
「す、すみません! どうしても……どうしても彼女に想いを伝えたくて……!」
少年は、崩れるように膝をついた。
話を聞けば、彼は司書助手の少女と人目を忍んで恋文をやりとりしていたのだという。
図書館の古文書は交換日記として利用され、秘密の通路はその隠れ蓑となっていた。
「な、なるほど。幽霊どころか、ラブレターかよ」
オルフェは呆れ半分に頭をかき、苦笑した。
「……気持ちは理解できますが、公的な古文書を使うのは許されませんよ」
レオンが真面目に口を開く。
「まったくだ」
アランは溜息をつきつつも、厳しい声色を和らげた。
「だが……若気の至りというやつだろう。私たちから教員に報告しておこう。ただし、寛大な処置になるよう口添えはしてやる」
少年は深々と頭を下げる。
「ありがとうございます……!」
「で、どうなの? 彼女に気持ちは伝わったの?」
フィオナが、微笑みながら聞く。
「……は、はい。でも、内緒にしてください!」
六人は顔を見合わせ、自然と笑みを交わした。
「幽霊より恋のほうが、よっぽど騒がしいんだな」
リディアが肩をすくめると、皆の緊張が解け、柔らかな笑い声が石造りの図書館に響いた。