迷いの森 1
朝焼けの光が、ルナフィアの街を黄金に染めていく。
陽が昇りきる前、宿の扉が静かに開かれ、二人の影が通りを歩き出した。
「昨日の果実酒⋯⋯あれ、絶対ジュースじゃなかった⋯⋯」
紗凪は頭を抱えつつ、足取りは軽い。二日酔いはすっかり癒え、宿を出る時には、ロゼリオから渡された濃厚な香草水が効いたのだと実感していた。
「ふふ、覚えていたんですね。昨日のこと、少しだけ」
ロゼリオは、歩きながらもちらと横目で彼女を覗く。
その微笑みには、どこか余裕と含みがあった。
「そ、そんなに何かした!?
ねぇ、言ってよ、ほんとお願い⋯⋯!」
「秘密ですよ?」
「うぅぅ⋯⋯!」
紗凪が顔を真っ赤にしながら身悶えている間に、街の門を抜け、広がる草原が視界を満たした。
目の前には、小高い丘がいくつも連なる緑の大地。爽やかな風が、二人の髪を撫でていく。
「気持ちいい⋯⋯!」
思わず走り出したくなるような草原に、紗凪の瞳がきらきらと輝く。
だが、ロゼリオは一歩先を歩きながら、低く呟いた。
「⋯⋯来ますよ」
「え?」
耳を澄ます間もなく、草むらが勢いよく揺れ、獣のような唸り声とともに三匹の魔物が飛び出してきた。
灰色の毛に覆われ、赤い瞳を光らせるそれらは、紗凪の腰ほどの大きさ。牙をむき出しにした、ネズミに似た魔物だ。
「げっ、なにあれ、めっちゃでかい⋯⋯!」
ロゼリオは紗凪の前に立ち、手袋を外す。
「後ろに下がって、目を離さないでください」
その声は、穏やかながら冷ややかだった。
次の瞬間、彼の指先から蔦が唸りをあげて飛び出す。
蔦は生き物のようにうねり、魔物たちの動きを瞬時に封じた。一匹は絡みつかれ、身動きを取れず地面に叩きつけられる。
もう一匹は空中に持ち上げられ、骨ごと締め上げられ、ばきり、と不気味な音を立てた。
残る一匹は紗凪に向かって突進するも――ロゼリオの一瞥を受けた瞬間、地面から現れた無数の棘に貫かれ、動かなくなった。
静寂が戻る。
風が草を揺らす音だけが、周囲に戻ってくる。
「⋯⋯すご⋯⋯」
紗凪は思わず呟いた。
ロゼリオは手袋をはめ直しながら、淡々と言う。
「森や草原のような場所は、私の力が最も活きる。魔物が哀れに思えるくらいにね」
その口調に、少しだけ狂気の熱が混ざっていた。
「⋯⋯で、でも、私も戦えるようにならなきゃって思ってるし⋯⋯」
「頼もしいですね。でも、あなたにはまだ死んでもらっては困ります」
「⋯⋯死ぬって⋯⋯」
「だって、生きていれば⋯⋯たくさんの味を知っていけますから」
「⋯⋯?」
ロゼリオの真意は、またもや分からなかった。
しばらくして、二人は草原を抜け、木々が立ち並ぶ森の入り口に辿り着いた。
紗凪はその森を見て、背筋に冷たいものを感じる。
枝は太く、葉は鬱蒼と茂り、朝なのに中はまるで夕暮れのような薄暗さに包まれている。
「⋯⋯ここが“迷いの森”?」
「そうです。この森は人間には複雑すぎる構造をしていて、一人ではまず出られない。けれど――」
ロゼリオは振り返り、微笑んだ。
「アウラウネである僕と共に入れば、森が道を示してくれます。迷うことはありませんよ」
「⋯⋯ほんとに、便利すぎるんだけど、ロゼリオって」
「もっと褒めてもいいんですよ?」
「⋯⋯はいはい、ありがとう」
紗凪は苦笑しつつも、その背にしっかりとついていく。
やがて、二人は静かに、森の闇の中へと歩を進めていった。