ルナフィア 3
ルナフィアの宿の階段を、ロゼリオは慎重に、酔いつぶれた紗凪を抱えて上った。
少女の身体は熱を帯び、頬はりんごのように真っ赤。うわごとのようにロゼリオの名を呟きながら、身を寄せてくる。
「⋯⋯ん⋯⋯ロゼリオ⋯くん⋯⋯」
「はい、呼びましたか?」
彼は低く呟いたが、返事はない。
ただ、紗凪の指が彼の胸元の装束を弱々しく掴むだけだった。
部屋に入り、そっとベッドに下ろす。毛布をかけようと身をかがめた、そのときだった。
「⋯⋯ロゼリオ⋯⋯っ」
ふいに紗凪が腕を伸ばし、彼の襟を引き寄せ――柔らかな唇が、ロゼリオの口元に重なった。
一瞬、時間が止まったように感じた。
熱が、唇から喉元へ、そして胸の奥へと伝わる。
彼女は瞼を閉じたまま、ふわりとした息を吐き、またロゼリオの名を夢の中で呼んでいる。
「⋯⋯⋯」
ロゼリオはそっと彼女から離れ、立ち上がった。表情は、笑っていた。
いつもの優雅な微笑ではない。
もっと、深く、黒く、どこか狂気を孕んだ――ねじれた執着の色。
「ふふ⋯⋯これは夢ですかね。それとも、酔いの魔法でしょうか」
そう言いながら、彼は指先で自分の唇をなぞる。そこに残る温もりが、心の奥をじわじわと侵食していく。
「キスより⋯⋯先に進めますよ?」
誰にともなく囁かれた言葉は、紗凪の眠る耳元に落ちていく。しかし、当の彼女はもう眠りの底――無防備で、あどけない寝息を立てていた。
「⋯全く⋯⋯貴女って人は⋯⋯」
ロゼリオはため息をつきながらも、目元は笑っていた。
その視線はベッドに眠る少女の輪郭をなぞり、頬を、髪を、胸元を――確かめるように見つめる。
「どうしましょう、紗凪さん。
こんなことをされてしまっては、もう手放せなくなってしまう⋯⋯」
黒装束の男は、ベッドのそばの椅子に腰を下ろす。そして、まるで護衛のように、眠る少女を見守る。否、違う。
これは見守りなどではない。
これは――監視。
甘い夢の番人を装った、毒の蔓の静かな絡みつき。
月が窓辺に差し込む中、ロゼリオは静かに、植物の蔦を指先から伸ばした。
それは紗凪のベッドを囲うように柔らかく茂り、音もなく部屋の空気を密閉していく。
外部からの侵入を拒むため。
彼女の吐息ひとつ逃さぬように。
この夜は、誰にも邪魔させない。
「おやすみなさい、紗凪さん」
そう囁いた声には、どこか恋にも似た熱と、狂気にも似た静寂が宿っていた。
月は照らす。
少女と、彼女に恋をしてしまった怪物のような男を。
静かな夜が、じわりと狂い始めていた。