私の見る先に 4
「⋯でも⋯⋯」
紗凪は、泉の向こうに広がる懐かしい世界に背を向けるように、ゆっくりとロゼリオへと顔を向けた。
その目元は濡れていたが、そこには迷いとは違う、別の色が宿っていた。
「いつの間にか⋯⋯あなたに、心まで捕まってたみたい⋯⋯」
言葉にするたびに、自分の中で何かが崩れていくようだった。
けれど、それと同時に、ずっと張り詰めていた感情の糸がふっと緩む。
——帰りたい。確かにそう思った。
地球には家族がいて、友達がいて、未来があった。
何も考えずに笑っていられたあの頃が、確かにそこにある。
でも今、自分の隣にいるのは——ロゼリオだった。
自分を守ってくれた人。
何も知らない異世界で、最初に名前を呼んでくれた人。
どこか掴みどころのない癖に、時折見せる真っ直ぐな優しさがたまらなくて、目が離せなかった。
(私は、あの人に⋯⋯惹かれてる)
紗凪の頬に、また一滴の涙が流れる。
それは悲しみではなく、決別の涙だった。
「⋯⋯バカだよね、私⋯⋯」
唇が震えた。
もし今、泉に飛び込めば、すべてが元に戻る。
だけど、それをしてしまえば、もうロゼリオには会えない。
——それだけは、嫌だった。
「私⋯⋯」
何かを言いかけて、けれど言葉が喉に詰まる。
その時、ロゼリオの蔦が静かに動き、紗凪の肩からそっと離れた。
「⋯⋯本当に、戻らないのですか?」
声は震えていた。
ロゼリオの目は、普段の妖しい光を失って、ひどく人間的な弱さを晒していた。
その姿に、紗凪はぎゅっと胸を掴まれる。
「戻らない」
はっきりと、言葉にする。
すると、泉の光がふわりと揺れ、やがて景色が淡く滲んでいく。
紗凪は静かに泉の方へ歩み寄り、膝をついた。
映像はもう消えかけていた。
それでも、そこに手を合わせ、静かに目を閉じた。
「お父さん、お母さん⋯⋯私、こっちに残るね」
唇が震える。
けれど涙は、もう流れなかった。
「ごめんね。でも⋯⋯私、自分で決めたから。後悔しないって、信じてるから」
最後に、そっと泉の水面へ手をかざす。
映像は完全に掻き消え、ただ静かな水のきらめきが揺れていた。
それを見届けてから、紗凪は立ち上がり、ロゼリオの方へ振り向いた。
「ねえ、ロゼリオ」
「はい⋯⋯?」
「ちゃんと責任、とってね」
そう言って、そっと微笑んだ。
それは、涙を流した後に咲いた、ほんの少し大人びた微笑だった。
ロゼリオは一瞬、言葉を失ったようにその表情を見つめていたが——
やがて静かに歩み寄り、手袋をはめた掌を紗凪の頬へ添えた。
「⋯⋯この上なく、光栄です」
その言葉と共に、風が二人の間をそっと吹き抜けた。
月と泉が重なった一瞬の奇跡は、静かにその幕を下ろし、
選ばれなかった“帰還”は、永遠に閉じられた。
けれど——
その夜、紗凪の胸の奥には、確かな“決意”が根を下ろしていた。
(私は、ここで生きる)
ロゼリオと共に、この世界で。




