自分の作品群を客観的に分析してみる そのとき中高生のぼくは
自分の小説を自分で説明するのはこの世でもっとも恥ずかしいこと……というのは真理なんですけど、暇なのでタブーを破壊してやろうかと思った所存です。あと旅(それは人生)の恥は掻き捨て。それではスタート!
一人の人間が書いているわけだからどうしてもお話の内容にある種のパターンみたいなものが発生しちゃうんだなぁということに今さっき気がつきまして、ではそれならパターンを打破できないかななどと思いまして。クリエイターとしてオンリーワンはよくてもワンパターンはダメなんじゃないかなと。書いてみたら次に書くであろうお話たちにより良く反映されるんじゃないかな〜と期待して、この世で最も恥ずかしいことをしますですぅ。
学園ものに関していうと、大昔に考えたお話を二十年越しに今のぼくのスキルで書いています。ゴーストライターとかエタトラとか。これらはおそらく子どもの頃のぼくの願望とか苦悩とかを、当時は小説の形で表現していたのだろうと思われる。
そういう回りくどいことをしないで周囲の人たちにお前のことが嫌いだと言えるようなタイプじゃないからおれはクリエイターなのさ……!
閑話休題。
では、分析開始……。
ぼくの書くお話の主人公たちは、エタトラの光にしてもゴーストライターの志郎にしても、箱庭の魔法使いの秀明にしても鬼哭アルカロイドの時生にしても、どうもみんな学校の外部に自分の世界があるようだ。シャハシュピールとかアジトとか、新宿二丁目とか家庭教師の仕事とか。
プラス、親が死んでいるとか保護者が親じゃないとか、一人暮らしだったり友達と暮らしてたり。あるいは親の描写がほとんどなかったり。
それがゴーストライターや箱庭の魔法使いなんかだと、学校こそが自分の全世界、親は神であり自分を支配せし者、みたいな風に信じ込んじゃってる人々と、志郎や秀明は格闘する……という内容に、どうやらなっているようである。
なので、これらのお話たちを考えたのってぼくが中高生の頃なんですけど、客観的に分析してみると当時のぼくってよっぽど学校と親がキライだったのねと思います。まあ確かに居心地が悪かった悪かった。今はゴーストライターで総ちゃんのパパママを普通に書けるぐらいには親という存在を許容できていると思うんですけど、当時こういう設定の主人公ばっかり考えていたのは学校にしろ家庭にしろなかなかにストレスフルな日常を過ごしていたのでしょう。あるいは脇役やゲストキャラクター(あるいは彼らがぼくの本質)たちの苦悩を解消するための上位自我的なものとしてこれらの主人公たちは生まれたのかもしれぬ。そういう意味では物語を書くということそのものが当時のぼくのストレス解消あるいは心理療法だったのだなと本当に思います。
ということが分析できた以上今後書くお話ではぜひパターンを打破してみたいと思います。まだ子どもの頃に考えたお話いっぱいあるので今のぼくなりに全部書けたらいいな。
書きかけのオーマイガーが叫べないもそうなんですけど、フォレストシリーズとかハローザグッバイとかは大人になってから考えたお話なので主人公が大人もしくは実は大人というキャラなんですね。親というか家族親戚にはいろいろと思うところがあるぼくなのですが、少なくとも今はちゃんと諦めるためにはどうすればよいかということを考えるんですけど中高生当時はどうにもできないからそもそも登場すらしていなかったのね。うーむ創作とは今ここの自分自身が表現されるものなのだなとつくづく思います。
志郎も光も、大人になってから本格的に執筆に取りかかれたわけなので昔の自分と今の自分が混ざっているんだとは思うんですけどね。
子どもの頃に考えた話、の主人公たち、を、今のぼくなりに新生させられたらいいなーと思います。
というわけで分析ができたことだしこれからも頑張って書いていきますぅ。そんなこんなで自作説明の回でした。ここまでお読みいただきまして誠にありがとうございます。それではまたお会いしましょう〜。