あるいは一人の人間としてより良く生きていくために
同性愛者として、または一人の人間として思うことを徒然なるままに。
同性愛の話っていまいち誰にもわかってもらえないなぁ……ということを大昔からいつも思います。
友達にも家族親戚にも、およそゲイ以外は誰にも。
その“誰にも”というのは、主治医の先生とて例外ではない。
ぼくは精神科に通ってるんですけど、そこの主治医の先生はとても優秀な人で、先生のわからないことでもキャッチボールができるし、知っていることはこっちにわかりやすく説明してくれるというすごい人なんですね。
その先生が同性愛の話にはまるで対応できない。対応できていない。同性愛者としての悩みを話すといつもどうも的外れである。それは看護師さんも同じなんですが。
具体的なことでいうと、ぼくの話に対して先生はよくグラデーション理論の説明をしてくれるんですね。同性愛と異性愛の関係はグラデーションだと。それはそうだと思うんです。
でも、今その話をされたところで別にぼくの苦悩がなくなるわけではない。
(あとグラデーション理論って男女二元論の原則に従っているわけだから、ぼくとしてはやっぱり浅いなこの人と思ってしまう)(ただわたしも不勉強なのでここは突っ込まないでね)
ただ、いまいち“わかってもらえない”具体的なエピソードは出てこなくて、とにかく同性愛者としての苦悩の話をしてもいつも“わかってもらえない“。直感的な問題なんだろうな。
他の悩み事や愚痴や相談と比べてとにかく“わかってもらえた”って感触が弱いんです。
それは看護師さんも同じで、ちょっと近況ノートにあるように、ぼく今好きな子がいて、会えなくなっちゃってるんですけど好きで、その子もゲイなんですけど、ゲイ絡みの問題でトラブルになって会えなくなって。細かいエピソードはさておき。
ぼくとしては、あの子はあの内気で引っ込み思案な性格上もしかしたら今生の人生で自分以外のゲイに出会うことはもうないかもしれない、と思ってて、だからそれって悩ましいことなんじゃないだろうかと思って、でも看護師さんは「その子もゲイとして悩んでいるかどうかはわからない」と言う。
確かにそれはそうだと思うんです。その子は友達と遊んだりお部屋でゲームしてたりすれば満足なのかもしれなくて、自分以外のゲイとの交流を必要としていない可能性はある。
でも、その子も日常生活においてぼくと同じで「嘘をついている」わけで、「ゲイであることに関して嘘をついている」わけで、
「嘘をついている」のに悩んでいない、というのはやっぱり麻痺しているんだとわたしは思う。仮に交流を必要としていなくてもやっぱり、悩みはいつも絶えないのではないかと。
“わかってもらえない”と思うばかり。
(ちなみにこういうこと言うと「私は(私の友達は)ゲイだけど困ってない」って人出てくると思うんですけど、今ここでぼくは一人一人の個人的な問題には言及してなくて今ここでは“社会”の話をしているので悪しからず)
以前、看護師さんに対してちょっとヒートアップしちゃったことがあって。なんでわかってくれないんだと。
そしたら彼女は「じゃあ君はどうしてほしいの?」と訊いてきたんですけど、
でも困ってる側のぼくがどうしてそんなに頑張らないといけないんだろうとか思っちゃったり。相手が精神科の医療従事者であるっていうのがより大きいんですけど。
彼女との話の中、「結局ゲイのことはゲイ同士じゃないとわからない」っていう話の流れになったんですけど、ぼくのモヤっとは消えなくて、
ただ、それが先日ちょっと解消されてきて。
例えば女性だったり視覚障害者だったり、なんでもいいんですけどあるマイノリティの苦悩に関して、「わからないからしょうがない」って風に大概は終わらないと思うんです。わからないならわかろうとするだろうし、わからないならわからないなりに工夫すると思うんです大概。
それがこと同性愛ではそうならない。共感できる者同士じゃないとわからない問題だからわからない、となってしまう。でもそれは根本的なことであって、基本的なこととしてはやっぱりわからないならわからないなりになんとかするんじゃないかと思うんです。
精神科の医療従事者としてなら尚更。そして二人とも普段はそうしてくれている。
もちろん精神の病気のプロは精神の病気のプロで、同性愛は精神の病気ではないわけだから先生たちにわかってもらえないのは当然ではあるんですけど、
ただ“他の話ならなんでも対応できるのにどうしてこの話題に関してだけ……”というのが、同性愛者としてのわたしの苦悩。
考えてみればテレビとかでも他の話題に関してだったらいくらでも複雑な話が論理的にできる人がこと同性愛やLGBTの話題に関しては何にもわかってないって様子はしょっちゅう見てきているので、悩ましい、というのが、同性愛者としてのわたしの苦悩。
とにかく“どうも的外れ”で“誰にも”“わかってもらえない”。
同性愛の話を「あくまでも恋愛の話」だと思う人が多い。
以前いとことゲイとしての苦悩の話になって、その流れで話が噛み合わなくて口論になって、そしたら彼女が「私も大好きな人がいて、でも別れて、五キロ痩せました!」とか言ってきたんですけど、
それは失恋の話でしょ? ということであって、ぼくの悩みとは関係のない話である。
同性愛の問題を「あくまでも恋愛の問題」だと思う人が多い。
同性愛の問題は「同性愛の問題」なのに、それがわからない。“わかってもらえない”。
もしかしたら自分がゲイであることにこだわりすぎている、考えすぎの悩みすぎだと思われているのかもしれないけど、でもうつで悩んでいる人に「うつであることにこだわりすぎ」と先生方が思うことはおそらくないであろう。
他の問題に関してなら、些細なことだろうがそれこそ妄想だろうが本人が悩んでいるという事実が全てだ、と、普段だったら二人ともそう動いている。
(もちろん個人的な心の中のことまではわからないけど、この二人はそれをわたしたち患者に悟らせるような愚鈍な医療従事者ではない)
とにかく、それが同性愛の問題だとそのように動いていない。
でも、先日ふと降りてきて。
「この先生にもわかってもらえないぐらいこの問題は難しい問題なのだ」だから「傾聴という単語自体を知らない世の中の大多数の人たちにわかってもらえなくても何も不自然ではない」ということがふと降りてきたんですね。
そしたら「あ、ぼくって割とひとりぼっちなんだな」と。
でも全然悲観的絶望的な感じはしなくて、すごくスッキリと、ポジティヴに、自分がひとりぼっちであることを受け入れ始めて。
精神科医の益田裕介先生が「仕方がない」「生まれてきてよかった」とおっしゃっていて、なんだかちょっぴりその領域に辿り着けてきたかなぁという感じというか。
世界をあるがままに受け入れ始めたというか。とにかく「あ、ぼくって割とひとりぼっちなんだな」という厳然たる事実を受け入れ始めて、なんだか世界をあるがままに受け入れるというか、そういう領域に辿り着けてきたかなぁと。
ぼくは主治医の先生を尊敬していて全幅の信頼を置いていて精神的なことに関して言えばぼくを助けてくれる確率は相当高いと思ってて、だから安心してるんですけど、なんというかやっぱりその「なんでもできるこの先生にすらわかってもらえないんだ」っていうのはぼくにとっては相当な絶望で、となるとその先へと進んでいけばそこにはある種の達観や諦観があるわけですよ。
そしたら、看護師さんに相談事をすることもなくなったし、地域活動支援センターに通ってるんですけど、そこの福祉士さんたちに話をすることもなくなって、殊更に救済を必要としなくなったというか。
いや助けはいつも必要だし人はいつもいつでもいつまでも助け合って生きているものだとは思ってるんですけどね。
ぼくは割と昔から「世界はうまく組み立てられていない」という風に思ってるんですけど(そのように言語化できたのはもっと大人になってからなんですけど)、それをいよいよぼくにとっての世界の真理として受け入れ始めて、
だから、それならそれでその上でどうすればいいのか、って話になるのよねと。
だからわたしはクリエイター志望なので、達観しました諦観しました世界をあるがままに受け入れられるようになりましたでは終わらない。やっぱりその次のステップに進んで小説を書きたいと思う。
それに達観や諦観をしたところでお腹は空くし、お腹が空いたらご飯を食べなきゃいけないし、ご飯を食べるためにはお金が必要だし、だからま、そんなわけで日々一生懸命働きます。
……という領域に辿り着けてきたなぁ、と。ニート時代とはだいぶ違うなぁと思います。
そうよね、達観しても諦観しても生活は続いてゆくのよね、で、まあそれが人生なのよねみたいな。そしてわたしの場合はそれを小説に書くことができたらいいと思う。やっぱり相当長い日記になりましたけど、まあつぶやきの日記なので徒然なるままに書いてみました。この文章が誰かの役に立てたらなおいいと思います。おしまい。