4話
ドブ川色の鬼は、のばした手を陽子の身体の中へ、何かを探るように滑りこませた。
「かなり弱っているな? お前が吸いつくしたんだな?」
陽子の身体から手を抜き、戒めるように青鬼を見た。
やばい、やばいぞう。こいつは相当強い。陽子が持っていかれるのはええけど、このままやったらわしまで取って食われるやないかあ。どうしよ、まずいなあ。
睨まれた青鬼は生きた心地がしない。さっきまでは陽子の恨みをはらし、報酬として陽子の命と人生を自分のものにできる喜びに興奮していたのが一転、自分の命が危ないことに気付いた。
ドブ川色の鬼は陽子の方に向きなおすと、少し考えたすえに、
「こんな弱った人間は使い道もないな、ビルから飛び降りてもらって、残った命の炎を全部いただくとするか、おい女、自害しろ」
そう言われた陽子の目が急に虚ろになり、小さく細い声で、
「死にたい…」
ドブ川色の鬼にとって、命の炎がローソクの先ほどにしかなく、気持ちの整理がつかずに自分を見失いかけている人間を操ることなど容易いことだった。
「そうだろそうだろ、そうしたほうがいい、くだらない悩みもなくなって楽になるぞ」
ドブ川色の鬼は、立てという合図なのか陽子を人差し指で指し、その手を上に動かした。
陽子は手の動きに合わせてゆっくりと立ち上がった。
「やめなさい」
びっくりしたあ! すぐこいつの存在忘れてしまうわ。青鬼は飛び跳ねるほど驚き、白鬼に目をやった。
「その子をはなしなさい」
白鬼は表情をかえることなく、ドブ川色の鬼を見ている。
「なんだお前、存在感無さ過ぎて気持ち悪いやつだな、お前もこの女が欲しいのか?」
「はなしなさい」
じっとドブ川色の鬼を見る白鬼は、不気味なほどに表情がない。
声は美しく、命令口調のわりに威圧感がないが、それがまた薄気味悪くもある。
「馬鹿か、はなすわけないだろ、めんどくせえな、薄っぺらいお前から消してやるよ」
そう言うとドブ川色の鬼は、陽子を指していた指を白鬼に向けた。
青鬼の頭に、さっき自分が切られた光景が鮮明に浮かぶ。
あかん、切られる。ちょっとでも白鬼が戦れるんやったら、どさくさにまぎれて逃げるけど、こいついっぱつで切られるやろなあ。
青鬼は逃げることだけを考えている。
白鬼を指した指の先から、黒い煙が吹き出て、剣のような形をつくった。ドブ川色の鬼はなにも言わず、一気に間合いを詰め、白鬼の頭上から剣を振り下ろす。
剣は白鬼の頭の上から足元まで、真っ二つに走る太刀筋を見せた。
が、白鬼は先程と変わらない、表情のない顔をしてそこに立っている。
切った鬼と、それを見ていた鬼、どちらも口をあけて思考が停止しているが、切ったドブ川色の鬼が一瞬早く我にかえった。
状況を察したドブ川色の鬼の身体は、部屋の隅まで跳び下がり、すでに黒い煙に包まれようとしていた。
くそっ、なんだこいつ。まったく手ごたえがない。よくわからないが、逃げた方がよさそうだ。
「ぐぇっ!」
奇妙な声を上げたのはドブ川色の鬼だった。
ドブ川色の鬼の身体全体が、大きな半透明の白い美しい女性の手に、その美しさとは対照的なほど力強く握られ、今にも潰されそうになっている。
白い手の中で、締め付けられながら自分の過ちに気付いた。白いやつは薄っぺらい存在感のない奴なんかじゃなかった。
あまりにも清々しく、透明感のある空気をまとった存在。見えないはずの空気がきらきらと輝いているように見せるほどの存在。そんな、自分とは真逆の存在を感じ取る技量がなかったのだ。
「や、やめてくれ」
そんな命乞いなど全く意に介さず、半透明だった手ははっきりとした白い美しい手となり、容赦なくドブ川色の鬼を握りつぶした。
青鬼はドブ川色の鬼が煙となって消えてゆくのを見て、逃げたのではなく、この世から消されたことを肌で感じた。
青鬼は逃げることを諦めた。
鬼が潰されると同時に、目が虚ろなままの陽子がぺたんとベッドに座り込む。
鬼を握り潰した白い大きな手が、陽子を優しく包むように、ゆっくりと動く。
白い手の中で、陽子の目は光を取り戻し、ほほには赤みがさす。
急に目が覚めたように陽子が意識を取り戻し、ゆっくりと白鬼を見た。
陽子は白鬼に弁解するかのように、
「違うの、私、誰かが死ねばいいなんて思ってないし、死にたいなんて思ってない」
「わかっていますよ」
鬼を握り潰したとは思えない、優しさの溢れた声で応えた。
無表情だった白鬼の口元は、優しく口角が上がっている。こころなしか、目元にも優しさがこもっているが、まん丸な目からは表情が読み取りづらい。
「あなたがお父さんを大好きだったことも知っています、でもね、それを証明するために人を憎むようなことをする必要はありません」
「だって…… そうしないと嘘みたいじゃない」
白鬼の優しい視線に罪悪感を覚えたのか、視線を外し、自分の膝に置いた手を見た。
「あなたはお父さんが亡くなった時から、ずっと悲しみを抱えていますね、それもとても大きく深い悲しみです、そのことはあなた自身がよくわかっているのではありませんか?」
それに答えるかのように、うつむいた陽子の目に涙が溢れ、ぼたぼたと膝の上の手を濡らし、声を出すまいと口は力いっぱい閉ざされ、唇がわなわなと震えている。
それを見た白鬼が、
「それほどの悲しみを内に秘めていることのほうが、どれほどお父さんに対する愛情を証明するでしょうか、愛情は悲しみで証明できています、それを憎しみで証明する必要はありませんし、できません」
陽子は涙を拭うこともせず、顔を上げて白鬼を見る。
白鬼は陽子へ一歩近づき、
「お父さんへの愛情の大きさ、深さが、悲しみと同じだけあることを私は知っていますよ」
陽子は白鬼の言葉を聞き、ベッドに顔を押し付け、心の底から全てを洗い流すかのように声を上げて泣いた。