秀長と秀吉書状(1584年、小牧長久手の戦い)
田中本家博物館(長野県須坂市)に、戦国時代の書状が収蔵されています。書き手は後の天下人である秀吉で、弟の秀長に送った書状と推測されます。記述内容から、小牧長久手の戦いがあった1584年のもの。
2026年のNHK大河ドラマが秀長主人公の『豊臣兄弟!』ですし、ここは他の書状もどんどん発見されてほしいと願って小説にしてみました。
夏。蝉時雨の響く中、男は兄からの書状に目を通す。
男の名は羽柴小一郎秀長。兄である秀吉の片腕として、政戦両面で活躍する万能武将として知られる。この時、四十代半ば。
『……昨日十七日書状并 瀧左より折紙 具令披見候、此方へも其通申委候、
則此面よりも人数を差着之、黒田・一宮迄令放火候、定煙可相見候』
秀吉は十七日の書状と瀧左こと滝川左近将監一益からの折紙を読んだと書き、その情報に従い、すぐに兵を出して尾張の黒田城とその南にある一宮の砦を放火したと続く。
『そっちからも煙が見えたかなあ?』という兄らしい諧謔に、秀長の口元がほころぶ。
秀長がいるのは尾張犬山城だ。黒田・一宮からの距離は五里(約20km)ほどだから、天気しだいでは、煙も見えなくはない。
秀吉が焼いた黒田城は、敵方の城だ。城主は沢井左衛門尉雄重。敵方である織田信雄の家臣で、こちらの調略にはのらなかった。城主に土性骨はあるが、城内に軍兵はいない。こういう時に周辺を放火するのはよい手だ。怒って飛び出せば討ち取れるし、引きこもるなら、所領を守る力がない城主の面子を潰し、しばらくは無力化できる。
『此方ニハ人数不入候間、秀吉廿日ニハ此方を可罷立候、廿一日ニハ日野まて……』
十七日に書状が届くや、動かせる手勢だけで岐阜城を飛び出して城を焼いて回るあたりが、剽悍な秀吉らしい。剽軽なだけのお調子者ではないのだ。兄のこうしたところを先主が高く評価していたことに、その息子たちはとうとう気づけなかった。
書状には、手持ちの兵が少ないから、二十一日には日野、つまり策源地としている岐阜城に戻るとある。
──兄ちゃんも、忙しないことだ。
秀吉陣営と信雄・徳川陣営の戦いが始まって三ヶ月が過ぎた。
三月。初手で徳川軍は秀吉陣営に楔を打ち込む形で小牧山城に進出した。有利な場所を先んじて占領し、守りを固める。兵力的に不利であればこそ、引くのではなく、まず押す。戦慣れした徳川軍らしい動きだった。
四月。仕掛けたのは今度は秀吉側だった。秀次を大将に、戦線後方へ回り込む、中入りを仕掛けたのだ。徳川軍の動揺を狙ってのことだが、素早く迎撃され、秀吉軍は手痛い敗北を被った。
五月は戦線を整理し、地形の弱いところには堀をめぐらせ盾を立て、お互いの機動と火力を封じるようになる。どちらも、相手を正面から突破することができず、戦いは膠着状態になる。
六月。そろそろ、別の戦線が必要だ。
そして、兵を動かすなら、まず米の道を開いてからだ。
『……近頃、其方之城と神戸城へ被相越候舟手之儀、無由断可被申付候事肝用候』
秀長のいる尾張犬山城から伊勢神戸城までは二十里(約78km)。軍勢で三日の距離だが、大事なのは、両者が舟運でつながっている点だ。
犬山城から川を下り海に出て、沿岸沿いに舟を走らせればすぐのところに湊があり、近くに神戸城がある。
牛馬では、一頭で麦米二俵を運ぶのがせいぜいだ。
舟なら、一隻で麦米百俵を運ぶのもたやすい。
輸送効率で、舟は牛馬を圧倒する。
今回の黒田城襲撃も、狙いは木曽川の水運を邪魔させないことにある。
「そういうわけでな。湊と舟手の手配をしたい」
「お任せください」
顔面に幾筋もの疵痕を残した中年男が、床に頭をこすりつける。
秀長より少し若いが、旧知の仲だ。津島四家七名字のひとつ真野家の当主、真野孫四郎。津島湊の差配をしている。
「わしら津島衆。筑前守さまには、父の代からお世話になっております」
「そうだったな」
秀長も、兄の秀吉も、出自は高くない。それでも実家の木下家は有徳人の一族だ。庶出子の秀吉・秀長の兄弟を、寺に送って読み書き算盤を学ばせる余裕があった。本家としては兄弟に寺で帳簿の付け方を学ばせ、ゆくゆくは政所の代官職を狙うつもりだったのだろう。それが予想外の大当たりになったのは、秀吉の大出世をみればよくわかる。
秀吉の出世の第一歩となったのが、津島の風流踊り興行だ。
津島で才覚をみせた秀吉は、人が集まる夏の天王祭に合わせて若衆を集めた風流踊り興行を打ち、連日連夜の大盛況となった。これに興味を抱いた信長が、女装して自分も風流踊りに参加したことが、秀吉が信長の知己を得るきっかけである。
「こたびの戦。相手は前右府の息子殿だ。津島衆に旧主との戦いに隔意を示す者はいないか」
「嫌がるヤツはいませんよ。前右府様は自分から風流踊りに参加してケツを振ってくれたし、揉め事があればケツをもってくれました。三位中将様は踊ってはくれませんでしたが、興行には必ず顔をだしてくれた。でも、北畠様はダメですね。えらくなっちまって、踊りもしなきゃ、顔もださない」
「ふむ」
「わしの下にいる舟手の若衆は、目に一丁字もない連中です。お偉い方にバカにされるのは気にしませんが、汚らわしいと思われてまで忠は尽くしませんぜ」
真野孫四郎はそっけない。
津島衆が尾張に数多いる奉行のひとりでしかなかった先々代から弾正忠家に頭を下げてきたのは、彼らが積極的に現場に関わってきたからだ。
頼り、頼られる。
世話をし、世話をされる。
すぐに結果につながらない日々の泥臭いやり取りこそ、人間関係を育む基本単位だ。権力は、その積み重ねの先にしかない。身分や官職で簡易化した形だけの上下関係は、重みが足りない。
信長はわかっていた。信忠もわかっていたが、本能寺で横死した。
信雄は頭ではわかってるようだが、無駄を嫌う潔癖症が、態度に出てしまう。
これでは、権力を維持できない。
守護が守護代に。守護代が奉行に。下剋上は、有能無能の差より、民のため無駄を承知で汗をかく覚悟があるかどうかで決まると秀長は思っている。
──北畠様をバカにはできん。私も、無駄は我慢ならないクチだからな。兄ちゃんみたいにはなれん。
自分が無駄に汗をかくなら、相手に利を握らせる。秀長は、自分の限界と得意技を心得ている。
「さて。頼みがある。そちらにも利のある話だ」
「聞きましょう」
「羽柴方が米を流したいように、織田・徳川方も米を流したい。兵は米の流れるところにしか、おれぬからな」
「道理ですな」
「なので、織田・徳川方だけ米の流れを止めたい。これだ」
書状を渡す。
孫四郎は一読し、疵痕を歪ませる。笑ったのだ。
「よろしいので?」
「この戦が続く間だけだぞ」
秀長が渡した書状は、私掠船免状だ。
海賊行為を公認する書状である。もちろん、誰でも襲っていいわけではない。
襲う相手は織田・徳川の船に限る。
「それで小一郎様に、何疋ばかりお礼を……」
「銭はいい。私の目的はあくまで米の流れに竿さすことだ」
孫四郎は書状を読み直す。
書状一枚につき、武装商船一隻を私掠船として使える免状だ。
拿捕した船、捕らえた舟手、そして積み荷は、まず私掠船が半分を取る。
残る半分は、津島湊が手にする。拿捕船と舟手は私掠船と湊が好きにしてよいが、積み荷は必ず、羽柴方の商人に卸すことが定められている。
──なるほど。津島湊が手にする半分は、仲裁手数料の前払いか。
私掠と名はついているが、略奪である。損害は出る。恨みも残る。欲にかられて私掠船同士が争うこともあるだろう。
「期間限定で略奪承認」という私掠免状は、目先の効果はあるが後に禍根を残す劇薬でもあるのだ。
仲裁には、牛頭天王の祭礼をもって手打ち式にもっていくしかない。
「私掠免状は十一枚用意した。四家七名字に一枚ずつだ」
「はっ──ははっ──」
頭を下げるが、もごもごと歯切れの悪い孫四郎を、秀長がちょいちょいと扇子を振って近寄らせる。声をひそめる。
「孫四郎が気にしていることはわかる。──家、であろう?」
「はっ」
津島の旧家である四家七名字だが、横並びではない。現時点で隆盛を誇る家もあれば、落魄した家もある。
秀長が口にした家は、北伊勢の戦禍で一族の多くを失った。まだ幼い後家が切り盛りしているものの、自力で私掠が可能な武装商船を用意する財と人は残されていない。
「筑前守の伝手で、九鬼の活きのいい舟手を何人か回してもらう。船はないが、私の名で借り上げてくれれば銭を出す」
「九鬼水軍が……何から何まで、ありがとうございます」
「なあに、こいつは引出物だ。孫四郎の三男坊。例の後家と再婚の話があるのだろう?」
「そこまでご存知でしたか」
孫四郎は舌を巻く。
「では、よろしく頼むぞ」
「ははっ。では失礼いたします」
孫四郎との打ち合わせが終わった後、秀長はぼんやりとした顔で庭を眺めて心を鎮めた。
──うまくいった。困っている家を助ける形で、私も出資者に回れた。
秀長は銭が好きだ。
銭儲けが大好きだ。
──私掠は銭になる。奪った米も銭になる。
秀吉に引きずられて武士になってはいても、秀長の心は今も商人のままである。
──秀吉に知られたら、また叱られるな。
秀長と違い、秀吉は銭より人が好きだ。
秀吉にとっての銭は、人に好かれるために使う道具でしかない。
──さて、どんな言い訳をしようか。
秀長は墨をすり、紙を広げた。
──十八日付けの書状を、十九日巳の刻に受け取りました。すぐに津島に使いをだし……
定型書式に沿って筆を走らせる。
蝉時雨が、ひときわ大きく響く。
OTTO ZHANG(@OdaTaketa)さんに書状を読み下していただいたので、こちらに引用しておきます。
尚以城之留守居
丈夫ニ可申付候、
不可有由断事、
昨日十七日書状并
瀧左より折紙
具令披見候、此
方へも其通申
委候、則此面よりも
人数を差着之、
黒田・一宮迄令
放火候、定煙可相
見候、此方ニハ人数
不入候間、秀吉廿日ニハ
此方を可罷立候、
廿一日ニハ日野まて
□可差障候間、
(――折 線――)
可有遣候、近頃、
其方之城と神戸
城へ被相越候
舟手之儀、無由
断可被申付候
事肝用候、尚
追々可申候、恐々
謹言、
筑前守
六月十八日秀吉花押
美濃守殿