リップクリーム依存症
*
「鬱病ですね」と神経内科の医師はカルテを見ながら特に感情の籠もっていない口調で徹に告げた。その後ろでは看護師が神妙な面持ちで徹を見ている。鬱病と診断された患者にはそういう顔つきを心がけなさい、とでも指導されているのだろうか。どこか看護師の表情は芝居くさかった。
「はぁ……、やっぱり」
徹は焦点の合っていない目でぼんやりと医師の診断に答えた。鬱病と言われても何も驚かない。風邪だと思って病院に行ったら風邪ですねと診断されたようなものだ。
「えーと……今、板垣徹さんは……おいくつでしたっけ?」
パソコンの画面を上下させながら医師は尋ねた。画面の一番上に名前と年齢が書いてあるのにな、と医師が上下させる画面を覗きながら徹は気怠く答える。
「今年30になります」
「ご職業は?」
「漫画家です」
「……少し、休まれた方が良いんじゃないですかね」
「……」
そう言われるだろうと覚悟はしていた。最近は、思うように漫画を描き進める事が出来ないでいた。締め切りが間に合わず、連載している漫画を何度か休載にしてしまった事もある。やる気はあるのだ。だが身体が思うように動かない。今も、徹の喉の奥は何かが詰まっているかのように息苦しい。気を緩めればすぐに涙が目に浮かんできてしまう。そんな感情に苛まれるようになったのはいつからか。以前はどうやって笑っていたのか。何も思い出せない。
もし今、医師の後ろに立っている神妙な面持ちの看護師が「殺す」と暴言を吐こうものなら、描きかけの原稿や手に馴染んでいるペン、漫画のネタ帳、全てを投げ捨てて徹はこう言うだろう。「どうぞ殺してください」と。むしろ殺してくれてありがとう、と看護師に礼を言うかもしれない。
今の徹を生かしているのは、ほんの少しの自死に対する恐怖のみなのだ。誰かが殺してくれるなら、それに越したことはない。
あぁ、漫画が描きたい。
大量の処方箋を貰いながら徹は思った。漫画のネタは負の感情が強い時ほどよく思いつく。薬剤師の話しに頷いている振りをしながら徹は妄想する。淡々とした医師。表情が嘘くさい看護師。彼らも漫画に登場させよう。どんな役がいいだろうか。
――レン。
突然徹の目が見開き、金縛りにあったかのように身体が硬直した。
「……大丈夫ですか?」
徹の異変に薬剤師は不審な表情を浮かべている。だが徹は薬剤師の問いかけは無視して、処方箋を奪うように受け取ると、小走りで薬局を飛び出た。
レンの顔が浮かんだ途端、漫画のイメージが一気に膨らんだ。右の利き手がぶるぶると震える。
全て。全てを漫画に描こう、と徹は思った。正直じゃなくていい。嘘でもいいから。レンの全てを漫画にしてしまえば、自分の心は救われるかもしれないと。
夢が叶う世界。作者の思い通りになる世界。それが、漫画なのだから。
せめて漫画の世界だけは、レンを救うのだ。
心地良い風がカーテンを揺らす。部屋に流れてくる金木犀の香りに、夏が終わってしまったという若干の焦りが芽生えてくる。来月で徹は23歳になる。いつまでもフリーターでいる訳にはいかない。何度も聞こえてくるスマートフォンのシャッター音が、そんな徹の焦燥を表しているようだ。
新小岩駅から徒歩15分。築16年の木造アパート2階に徹は暮らしている。家賃は8万円。一度リフォームされているのでそこまで古さは感じない。2LDKの間取りを考えれば、この家賃は破格だ。さらに徹は、このアパートで幼なじみとルームシェアをしているので、家賃は半分の4万円で済んでいた。
徹とルームシェアをしている早見レンは、スマートフォンを持つ徹の前で奇妙なポーズを取っている。床に右手と右膝を付き、左手と左足は中途半端な位置で宙に浮かせ、まるでスタートダッシュに失敗した陸上選手のようだ。
「もうちょっと左腕下げて」
と徹が指示すれば、素直にレンは応じる。徹は奇妙なポーズを取るレンの周囲を周りながらひたすらに撮影していた。
「なぁ徹。いつまでこの体制でいればいいの? そろそろきついんだけど」
「もうちょっと、もうちょっとだから」
徹の欲に付き合わされているレンは、既に二分近くこの体制を維持していた。カシャシャシャシャというカメラの連写音が終わらない内に、レンの右手がプルプルと震えだした。
「あー、もうダメだ!」
柔道の受け身を取るように、レンはその場で派手に転がってしまった。
「ごめん、ごめん。お疲れ」
徹は適当に謝りながらスマートフォンの撮影フォルダを確認した。うまく撮れている。最後は間抜けな顔で床に転げるレンの顔が映っており、思わず吹き出した。その様子をレンは疲れた表情で見上げる。
「今の、一体どんなシーンで使うわけ?」
「敵が地面を這うシーンなんだけど、どうしても腕の角度とか足の感じがイメージ通りに描けなくてさ。ありがとう、助かったよ」
「いやいや、お役に立てて光栄ですよ」
「あ、今日の公演って何時からだっけ?」
「17時半開場、18時開演。モデル手伝ったんだからちゃんと見に来いよ」
徹とレンはお互いに夢を追っている。徹は漫画家、レンは俳優の卵だ。今日はレンが数ヶ月前から稽古に励んでいる舞台の公演がある日だった。
「行くよ。だから時間聞いたんだろ」
まだ無名だが芸能事務所に所属しているレンに対し、徹は未だに雑誌の漫画賞へ応募を続けている日々だ。レンに比べて夢への実現は遠い。
「それじゃ僕、時間まで部屋に籠もって漫画描いてるから」
「ん、わかった」
満足気にスマートフォンの写真を眺めながら自室へ入った。机に向かうと、シャープペンシルを手に持ちクルリと指で一回転させた。漫画を描く前の徹の癖だ。勢いよく目の前の原稿にシャープペンシルを走らせる。シャッシャッという心地よい芯の音が部屋に響いた。
レンと徹は小学校と中学校の同級生だ。高校は別々の所に進学している。大学進学の為、五年前に地元の静岡から上京した徹は、元々こことは別のアパートで一人暮らしをしていた。地元を離れて以降、会っていなかったレンとルームシェアをする事など当初は考えてもいなかった。
レンと再会したのは、4年ほど前に遡る。まさに偶然である。俳優を目指しているバイト仲間に誘われて、小さな劇場の舞台を観に行った。その劇の端役にレンが出ていたのだ。舞台の内容ははっきり覚えていない。ウェイター役であるレンが初めて登場した時に放った「お待たせしました。コーヒーをどうぞ」という台詞以外は。あまり笑えない喜劇だった気がする。
レンはその劇のストーリーには何も影響をもたらす事はないつまらない役だった。だが徹は久しぶりに見る幼なじみに興奮した。まさかレンが上京して俳優になっているなんて思いもしなかった。
レンが時々袖から舞台に登場し、少ない台詞を述べる度に、徹はレンと幼なじみである事が誇らしく思えた。徹には、主演の男性よりもレンの方が輝いて見えたからだ。
舞台終了後、出演キャストが一列になって廊下に並んでいた。レンはそのキャスト陣の一番端で、観客席のドアが閉まらないように手で押さえ、出てくる客一人一人に愛想良く律儀にお辞儀を繰り返していた。
主演の男性は花束を抱え、客に渡される差し入れをいくつも両手に持っていた。他のキャストも多かれ少なかれ、何かしらの差し入れを客から貰っている。観客席のドアを押さえているレンは何も貰っていなかった。
「差し入れです」
見かねた徹は、冗談でポケットの中に偶然入っていた未開封のガムをレンに渡しに行った。
ガムを手渡されたレンはキョトンとして、ガムと徹を何度も見比べた。そして目を丸くしてはっと息を吸った。
「もしかして、徹……?」
「久しぶり。ガム食べてね」
「ふざけんなよお前」
そう言って笑うレンの顔は美しく、くしゃりと目尻に皺が寄る笑い方は昔と何も変わっていなかった。まるで昨日まで会っていたかのような軽口に、徹も一緒になって笑った。
そのふざけて渡した小さなガムの差し入れが、今に至る全てのきっかけである。
「じゃあ俺、そろそろ行くから」
レンの声に徹はハッと顔を上げて時計を見た。時刻はもう少しで午前10時になる。自室に籠もり漫画を描き始めて1時間が経過していた。振り返るとドアを開けて壁に寄りかかっているレンがいた。
お互いの部屋に入る際はノックをするのが暗黙のルールになっているが、徹は集中すると物音が聞こえなくなる。恐らくノックをしても返事がないので、勝手にドアを開けて声をかけたのだろう。
「もう行くんだ」
「うん」
開演は18時だが、公演のリハーサルが12時かららしい。劇場までは電車で30分なのでどんなに遅くても11時には到着する。だが若手の俳優は、先輩の俳優よりも早く着いてなければならない業界のルールがあるそうだ。
「大丈夫か? 漫画描くのに集中しすぎて開演に遅れんなよ」
「大丈夫だよ。タイマーかけてるし」
レンはカジュアルな黒のトレーナーにジーンズを履いていた。特にセンスが良い訳でもない服が、レンが着るとやたら洒落て見える。壁にもたれて腕を組んだ立ち姿は、まるで雑誌の表紙を飾るモデルのようだ。街を歩けば誰もが振り返るだろう。
「何見惚れてんの?」
レンがおどけて言った。そんなおどけた顔ですら絵になるのだから悔しい。
「見惚れてないし」
照れくさくなり、背を向けた。そのまま漫画を描く振りをしてレンに尋ねる。
「差し入れは何がいい?」
「お、何か買ってくれんの」
「そりゃね。レンがずっと稽古を頑張ってた舞台の公演だし。本人曰く、今回は出番が多いそうなので」
「いやぁ、悪いね徹くん。実は前から欲しいと思ってる鞄があってさ」
「鞄?」
レンが徹の横に来てスマートフォンの画面をスッと見せてきた。
黒のレザーリュック。シンプルなデザインで使い勝手の良さそうな形と大きさだ。指で画面をスライドさせていくとリュックの値段が表示された。
「はぁっ!? 2万!?」
「ダメかねぇ……徹くん……」
「ふざけんなよ、こんな高いの買えるか」
「だって見ろよ、俺の鞄。もうボロッボロなんだぜ」
レンは背負っていたリュックを降ろして徹の前に差し出した。徹と再会する前から愛用しているその茶色いリュックは、確かに色が剥げ、生地は所々破けており、レンが言う様にボロボロだ。
「このリュック買ってくれたら10年は使うんだけど……」
大きな目で強請るようにレンは徹を見つめてきた。その子犬のような表情に徹はすこぶる弱い。
「はぁ……わかったよ、どこで売ってんのコレ」
パッとレンの表情が明るくなった。レンはすぐに感情が顔に出てしまうタイプだ。
「マジ!? やった! 劇場のすぐ側にある百貨店で売ってると思う!」
やれやれと徹は頷いた。レンはまるで子供のように満面の笑みだ。
「ありがとな、徹」
目尻に皺を寄せた可愛らしい笑顔で言われれば、何としてでもこの鞄を手に入れよう、という妙な使命感が湧いてくる。そんな風に思わせてくるレンの笑顔はとにかくずるい。だがそんな感情が芽生えている事をレンに悟られるのは癪だ。徹は呆れた表情を崩さぬまま「いってらっしゃい」といつもより低い声でレンを見送った。
徹は週に五回、塾講師のアルバイトをしている。その給料が毎月15万円程。そこから折半分の家賃を支払い、生活費を切り詰め、画材などを購入する費用を捻出している。給料が15万円の徹にとって2万円の出費はかなりでかい金額だ。
誕生日じゃあるまいし何故差し入れで2万もする鞄なんか、とは思うが既に芽生えている使命感はそんな感情を容易に無視できた。レンの嬉しそうな表情が脳裏にチラつく。とにかく徹は、レンにとことん甘いのだった。
開演5分前に、劇場に到着した。百貨店でレンが希望する鞄を探すのに手間取ってしまったが無事に入手する事が出来た。
既に客席は埋まっている。徹は最後に入った客で、リュックが包装されている大きな差し入れを抱えながら劇場内を歩く姿は中々に注目される。席は指定になっていて前から三列目という絶妙に目立つ座席だった。通路横の席で、通る際に足を避けてもらう必要がなく座れた事が唯一の救いだった。
席に着くと、ポッケからハンカチを取り出し汗を拭った。一息ついてから、周囲の様子を眺める。
観客はほぼ女性客で埋まっていた。徹の隣も女性で膝にピンク色で包装された徹よりも一回り小さなプレゼントを抱えている。男でこんなに大きな差し入れを抱えている人物は徹くらいだ。全くもって居心地が悪い。
開演のブザーが鳴った。舞台に集中しようと、徹は気持ちを切り替え前を向いた。照明が暗くなり、ゆっくりと緞帳が開いていく。
舞台は『ヒーローになりたい』という演目だった。学園物の少しダークなストーリーだ。
物語の主人公は根暗な高校生の少年だ。クラスのカースト制度では最底辺で、少年の数少ない友人二人(レンはこの主人公の友人役の一人を演じていた)も当然性格が暗い。友人といっても、仲が良い訳ではない。一歩校外に出れば他人のような関係性になる。少年たちが学校の中で生き抜くには、その場しのぎの関係性が必要だったのだ。友人ごっこと言ってもいいだろう。つまり主人公には本当の友人と呼べる者が一人もいなかった。
孤独な主人公の少年は、妄想が好きだった。正義のヒーローに憧れを抱いている。
例えば電車に乗っている時、少年は乗客を敵に見立て妄想する。その敵の中には腹立たしい担任教師、馬鹿にしてくるクラスメイト、口うるさい親戚がいた。正義の名の元、何の躊躇いもなくそれらの敵を切りつけ殺していく。少年は現実世界で嫌な事があれば、そうやってすぐに妄想の世界へと逃げ込み、敵に見立てた嫌いな人物を殺した。
妄想の中の少年は暗くない。頭が良く、運動神経も抜群で、さらに人気者であった(舞台では少年の妄想シーンと現実シーンの場面がコミカルに何度も転換されていた)
その内少年は、現実と妄想の境目が分からなくなるようになる。ある日少年はその場しのぎの友人二人の内の一人と些細な事で言い合いになった。次第に口論はヒートアップしていき、友人は少年を馬鹿にするように言い放った。
『お前は俺より全てにおいて才能がない』
そんなはずはないと少年は思った。何を言っているんだこの男は、と。
むしろそれは少年が友人に対して抱いていた感情である。格下に見ていた友人に馬鹿にされ、プライドが傷ついた少年は激昂する。
――俺はヒーローだ!! ふざけるな!! と。
少年の叫ぶ声で舞台は暗転した。
照明がつくと、友人役をしているレンが血まみれで倒れていた。教室の床に転がる血のついた包丁と騒然としているクラスメイト達。そして教師に羽交い締めにされている少年。
羽交い締めにされながらも少年はなぜか笑っていた。なぜなら少年は、これは妄想だと思い込んでいるからだ。何をしても許される自分の妄想。
だが床を伝って流れてきた生ぬるい血が、羽交い締めにされている少年の上履きに触れた瞬間、少年はこれが現実である事に気がつく。自分の妄想ではないと。
少年の叫び声と同時に舞台は暗転した。
長い暗転後、照明が付くと少年は精神病院にいた。だが少年は幸せそうに笑っている。誰にも邪魔をされる事なく、永遠に妄想の世界で生きることを少年は決めたからだ。罪を犯したのに現実を受け入れられない少年に真の幸せが訪れる事はないだろう。
少年の不気味な笑い声と共に緞帳は下がっていった。
何とも、後味の悪いストーリーだった。幸せな妄想と辛い現実の落差を上手に舞台で表現していた。
だが徹は、妄想で生きる事も一種の幸せになる方法だと思った。現実を受け入れる必要がないなら無理して受け入れなくて良い。妄想が少年にとって唯一の生きる術ならばそれを非難する事は出来ない。少年が妄想で生きる事を選んだのなら、その選択は決して間違いではない。ひどく自己中心的で世間的には間違いだったとしても。
主人公の友人役を演じたレンの芝居は引き込まれた。主演である少年役の男性とレンが言い合いになるシーンでは、少年を馬鹿にするレンの口調にこちらも怒りが湧いたし、レンが刺されて倒れるシーンでは、冷や汗で手がべっとりとなった。
レンとは真逆である性格の嫌味な友人役を見事に演じきっていた。大袈裟かもしれないが、まるで役が憑依しているようだった。役を演じている時のレンは顔が似ているだけの、全く別の人物に見えたのだ。
舞台を見て徹は自身の少年時代を思い出した。思い返せば、昔の徹も主人公の少年と同じように友達が少なく、妄想が趣味だった。唯一違う点は、徹は妄想を全て絵で表現できたし、妄想と現実の違いをはっきりと区別できていた。
同級生だったレンは徹とは反対に、明るくスポーツ万能でリーダーシップがあり、常にクラスの中心にいる太陽の様な存在だった。
『ねぇ、何描いてるの?』
小学校三年生のクラス替えで同じクラスになった時、レンに初めて話しかけられた言葉だ。
*
徹は小学生時代、一人で過ごす事が好きだった。母親には心配されたが、無理に友人を作って遊ぶ方が苦痛だった。当時から漫画を描く事が大好きで、60ページある自由帳に漫画を描いて、3日でページをなくした時は流石に叱られた。それでも母親はページがなくならないかこまめに自由帳をチェックし、なくなればすぐに新しい自由帳をランドセルに入れてくれた。
当時の徹は自由帳が一番の友人であり、妄想の中にいる時間が何よりも幸福だったのだ。
そんな徹にとって、レンは未知の生物だった。友人と常に騒いでいて、休み時間になれば校庭を駆け回り、テストの点数が悪くても何も気にしない。毎日楽しそうで、幸せそうで、いつも笑っていた。自分にはない物をレンは全て持っている気がして、いつしか徹は、レンに憧れを抱くようになっていた。
楽しそうに校庭を駆け回るレンの姿を2階の教室の窓からじっと眺める事が好きだった。当然2階からレンの姿を一生懸命目で追っても、その目が合う事はない。恐らく関心があるのは自分だけなのだと思うと、小さな徹の胸はキュッと締め付けられた。
だからこそ、レンに初めて話しかけられた時はとても驚いた。
「ねぇ、何描いてるの?」
給食を食べ終わった後の30分間の昼休憩。ほとんどの男子児童は体育館か校庭へ遊びに行き、教室に残っているのは自分と女子児童数人だった。
背後から突然声を掛けられ、ゆっくりと振り返った。レンの姿を確認して、一気に徹の身体は強張る。
レンは汗だくで、来ている白いTシャツは砂埃で茶色く汚れていた。小脇にはサッカーボールを抱え、不思議そうに徹の自由帳を覗き込んでいた。
「……え? ……何?」
滅多に教室で発しない徹の声は、緊張で痰が絡んだような声になった。
「だからさ、それ。何描いてるの?」
「……まんが」
ぶっきらぼうな答え方をしてしまう。もう少し明るく元気に、溌剌とした声を出したかったのに。
「ふーん……」
妙な間が生まれた。徹はギュッと拳を握り自分が描いた漫画をその小さな拳でゆっくりと隠した。母親以外で、初めて自分が描いている漫画に興味を持たれた。
憧れを抱いているレンに、貶されるのではないか、馬鹿にされるのではないか、恐怖が襲う。だがレンは何も言わず、徹が隠している拳の隙間から覗く絵をじっと見ているだけだった。
「おーいレン! 遅いよ、何してんだよ!」
校庭から叫ぶ声が教室に届いた。恐らく一緒にレンと遊んでいた友人だろう。レンは徹の背後から離れて窓際に行き、校庭に向かって叫んだ。
「ごめん! 水飲んだらすぐに行く」
そうか、水を飲みに教室に戻ってきたのか、と徹はレンの目的を知り、少し切なくなった。自分に興味があって戻ってきた訳ではない。たまたま教室に戻ったら徹がいて、何となく声を掛けたのだろう。
机の横にかけてある水筒から水を飲んだレンは、徹の事など忘れてしまったかのように走って教室を出て行ってしまった。
徹は拳で自由帳を隠した状態のまま動けなかった。もうレンに話しかけて貰える事は二度とないかもしれない。そう思うと、自分の情けなさに泣きたくなった。頭を切り換えて漫画を描こうと思っても、何かの拍子で涙が目に浮かんできてしまいそうだった。
じっと涙を堪えていると、去って行ったはずの足音がまた近づいてきた。徹は俯いていた顔を上げて、教室のドアを見た。
「そうだ!」
というレンの声で勢いよくドアが開いた。
レンは何か言いたそうに徹の側まで歩いてくる。徹は驚いた表情でレンを見つめた。
「あのさ」
と言って、レンは徹に顔を近づけた。日向のようなレンの汗の匂いと、微かに香る柔軟剤の匂い。徹の心臓は高鳴り、目をどぎまぎと左右に揺らした。
レンは小声で徹に言った。
「その漫画、描き終わったら見せてね」
秘密の約束でも交わしたかのように、レンはいたずらっぽくニコリと笑った。目尻に皺が寄り、思わず見とれてしまうほど美しい笑顔だった。そしてまた走って、教室を出て行ってしまった。
その時に感じた興奮を、徹は大人になった今でもはっきり思い出す事ができる。全身に嬉しいという感情が巡り、口元が自然と緩むあの感覚は、9歳の徹にとって初めての感覚だったのだ。
*
カーテンコールで舞台に登場したレンは、徹とルームシェアをしている表情が柔らかいいつものレンに戻っていた。お辞儀をして顔を上げる時に前から3列目の席に座る徹と目が合った。レンは自信に満ちた表情で徹に微笑んだ。徹も友人としてその笑顔が誇らしく、賞賛の拍手を送った。
客席を出ると、キャスト陣がロビーで出迎えてくれた。もちろんレンの姿もある。今回は観客席のドアを押さえていない。レンは並ぶキャスト陣の比較的真ん中寄りに立っていた。舞台では自然に見えたレンの顔がロビーで見るとかなり派手なメイクが施されている事が分かった。ドーランを塗られた肌はきめ細かく、眉毛も黒く染められ、アイラインがはっきり描かれているレンの目は、吸い込まれそうな程に大きく力強い。まるで美しい彫刻のようだった。
人気のある主演俳優は女性に囲まれ、多くの差し入れを手渡されていた。ガムを渡しに行ったあの時が嘘のように、レンもそれなりに囲まれている。有名な洋服ブランドの紙袋をレンへ手渡している女性もいた。
あまりの迫力に割って入る度胸が徹にはない。背伸びをしながらその様子を眺めていると、レンが徹に気がついた。囲む女性に一言詫びながら、レンの方から徹の傍へと歩み寄ってくれた。
「よっ徹」
「随分人気者だな」
「まぁね」
片頬を上げながら、どうでも良いというようにレンは軽く流した。照れ隠しだろう。
「で、どうだった?」
そう聞くレンの表情は褒めてくれと言わんばかりだ。
「面白かったよ、すごく。レンの演技に引き込まれた」
素直な感想を述べると、嬉しそうにレンは笑った。
「そうか、良かった」
「ほら、差し入れ」
大きな袋に包装されたリュックの差し入れをようやくレンへ手渡せた。レンは赤ん坊でも抱えるかのように、大事そうに受け取った。
「やったー。ありがとう」
「ったく、探すの苦労したんだからな。危うく上映時間に遅れそうになったし」
「ごめん、ごめん」
全く反省していない謝り方だった。だが、どの差し入れよりも大事そうに徹からのプレゼントを抱えるレンに、憎しみが湧く訳がない。
「ありがとな徹。またあとで」
元の位置へと戻ったレンに、共演者は笑いながら軽く頭を叩いていた。「ファンを置いてどこに行ってるんだ」と言われているようだ。そのやり取りに仲が良さそうだと徹は思った。主演の俳優ともふざけ合いながら話している。共演者に愛されているレンの様子が窺えた。
楽しそうに俳優として活動しているレンを見ていると、置いて行かれたような感覚に陥る。徹の右手が疼いた。漫画を描かなければ。
外に出ると、すっかり暗くなっていた。9月下旬の夜は少し冷える。劇場の外は繁華街が続いていて、多くの人で賑わっていた。その喧噪を裂くように、徹は早足で自宅へと帰った。
*
「ただいまぁ」
しんとした部屋に響くレンの声で、徹はハッと顔を上げた。
かなり集中して漫画を描いていた。主人公と敵が戦うとても細かなシーンだ。背景ひとつに至るまで決して手を抜かずにしっかりと絵を書き込んでいたら、時間の経過を忘れていた。既に時計の針はてっぺんを超えていて、日が変わっている。
ドン! と床に人が転がる音がする。その大きな物音に徹は慌ててペンを机に置いた。
ドアを開けると、玄関で靴も脱がず寝そべるレンがいた。大量の差し入れを放り投げてから寝そべったのか、有名店の名称が描かれてある様々な紙袋はレンの下敷きになり変形していた。レンが背負っているリュックは、ボロボロのリュックから徹が差し入れた新品のリュックに変わっている。さっそく使ってくれているレンを可愛らしく思うが、ファンからの差し入れを下敷きにして寝転ぶレンに可愛らしさはない。
「おいレン、大丈夫か?」
靴を脱がせ身体を起こそうとすると、酒とタバコの匂いに吐き気がした。むせ返る気分を我慢しながら、レンの身体を支えてリビングへと連れて行く。
「うへへ……悪いねぇ、徹君」
「どんだけ飲んできたんだよ、酒弱いくせに」
「舞台の打ち上げだもん、そりゃ飲むでしょ」
ソファの上に適当に寝かせて、水を汲みにキッチンへ入った。リビングでレンは呂律の回らない声で意味不明な言葉を発している。
「あーあ、明日からまたプー太郎かー」
唐突に、誰かに訴えているかのような言い方でレンは大声で叫んだ。水の入ったコップを持ちながらレンの傍へ戻る。
「プー太郎じゃないだろ」
「でも次の仕事決まってないもん」
ゆらゆらとレンは起き上がり、視点の定まらない虚ろな目で徹から水を受け取ると一気に飲み干した。そして再度ソファに倒れ込む。
「はぁ……またバイト……頑張らないと……」
気持ち悪そうに一度溜息をついてから、小さな声で続けた。
「徹……俺、有名になりたい……小さい頃からの夢なんだ……」
そう言って目を瞑った。しばらく様子を見ていると寝息を立て始めた。睫毛がうっすらと湿っている。徹は毛布をレンにかけてやり、額をゆっくりと撫でた。湿った睫毛を親指で優しく拭ってやる。
「知ってるよレン……心配しなくてもレンは有名になれる。大丈夫だよ」
囁くようにレンの耳元で言った。レンの息苦しそうな寝息は、次第に安心した呼吸に変わっていた。
*
神保町の大手企業が並ぶ街を歩く。街に植えられている木々は次第に色づき始めていた。姿勢良く歩くサラリーマンや、財布を片手に清楚な服装で華やかに歩く女性とすれ違うと、間違った地に迷い込んでしまったかのような居心地の悪さを感じる。グレーのトレーナーにジーンズ姿の徹は規則正しく並ぶビル群からかなり浮いて見えた。右手には先日の舞台の差し入れでレンが貰ったハイブランドの紙袋を持っている。折り曲がらないように丁寧に茶封筒に入れられた原稿が、その紙袋には入っていた。
高層ビルの前を歩いていると、丁度一年前の感情を思い出す。大学時代の同級生は皆、今年の春から新卒の社会人として働いている。皆が就職活動に励む中、徹は一人何もせず部屋に籠もり、漫画を描いていた。次々と仲間から内定を貰ったという報告を受ける度に焦りの感情が芽生えたが、同じように夢を追うレンと共に暮らした事でその気持ちを紛らわす事が出来た。もし当時レンがいなかったら漫画家の夢を諦め、同じように就職活動に励んでいたかもしれない。
出版社に到着した。入り口には大人気作品のパネルが置かれてある。いつかこのパネルが自分の作品に変わる日が来れば。そんな妄想が過ぎる。
館内には様々な漫画のポスターが壁に貼られている。その壁をじっと眺めながら受付へと歩いた。この床も多くの憧れている漫画家が踏んだのだと思うと、毎回足先に力が籠もる。
受付で漫画の持ち込みに来た事を告げて、ロビーに置かれている洒落たテーブルセットに座り待たせてもらった。原稿の入っている茶封筒を机の上に置き、紙袋を畳んでリュックにしまった。原稿を再度確認したい衝動に駆られるが、我慢してじっと編集者が来るのを待つ。
原稿をこうして出版社に持ち込むのは大学に入学した頃からで、数えれば今日で六回目だ。
今回描き上げた漫画は、別の出版社で発行している雑誌の漫画賞へ応募する予定だが、その前に他の出版社へ持ち込んでプロの意見を聞くのだ。漫画賞の締め切りまで時間があるので、ダメ出しをされても手直しが効く。
「お待たせしました」
背後から声をかけられ振り返った。徹の後ろにはやせ形で眼鏡をかけており、ヨレヨレのスーツを着ている男性の編集者が立っていた。過去五作品の内、三作品を読んで貰ったことのある編集者だ。
男性編集者は面倒くさそうに徹の向かい側に座った。
「それじゃさっそく見せてもらっていいですかね」
特に雑談はせず早々に任務をこなされる。漫画家志望の徹と編集者に馴れ合いは不要なのだ。
「はい」
徹は机の上に置いていた茶封筒から原稿を取り出し、編集者に渡した。彼は無言で受け取ると、丁寧に机の上で原稿を二ページずつ広げて、読み始めた。
徹にとって一番緊張する瞬間だ。
24ページのSFファンタジー作品。今まで以上に丁寧に絵を描き、コマ割りひとつにまで気を配って描いた。ストーリーにも自信がある。
呼吸音すら気になってしまうほど、無言の間が続いた。徹は編集者の表情に注目した。笑うべきシーンで笑って貰えるか、大事なシーンで手を止めて貰えるか、願うようにじっと編集者を見つめた。だが彼はピクリとも表情は動かさず、流すように10分程度で作品を読み終えてしまった。
「……うん、なるほどね」
そう言って原稿をトンと揃えると優しく置いた。彼の原稿に対する扱いはいつも丁寧だ。徹のような素人が持ち込む作品ですらいつも丁寧に扱ってくれる事から、徹は彼に絶大な信頼を寄せている。
「面白かったですよ」
その台詞を面白くなさそうに言ったので、徹は一瞬何を言われたのか分からなかった。
「え?」
聞き間違いのような気がして再度聞き返したが、彼は変わらずの無表情で答えた。
「今まで僕が読んだ板垣さんの作品の中で一番面白いんじゃないですかね」
「ほ、本当ですか!?」
「うん、本当です」
編集者は徹より10歳は年上に見えるが、徹に対して敬語を使う。だが作品の評価に遠慮はなく、この編集者に見て貰った三つの作品は散々罵倒されてきた。絵が下手くそだ、ストーリーがつまらない、キャラクターに魅力がなく芝居が下手くそだ、とズバズバ言われてきたのだ。他の編集者に比べ、この編集者は滅多に徹を褒めない。褒められた事よりもダメ出しを受けた事の方が断然多い。
そんな彼が作品を読んで開口一番に「面白い」と言ってくれた。こんなにストレートな感想を述べて貰えて喜ばない訳がない。
「ありがとうございます。嬉しいです」
満面の笑みで徹は言った。編集者はもう一度原稿を手に取りゆっくりと紙を捲りながら納得するように何度か頷き、同じ事を言った。
「うん、本当に面白いですよ」
徹の身体が脱力していくのが分かった。最近は寝る間も惜しんで作品と向き合っていた。そういえば今日は朝から緊張していて何も食べていない。安心した途端に空腹を覚える。
「ただ、やっぱりキャラクターの動きが硬いですね。ほら、特にこのシーンとか」
指摘している原稿を徹の方に向けてくれたので、徹は再度身体を強張らせ、身を乗り出して確認した。編集者は指を指しながら丁寧に説明した。
「この戦闘シーン、もう少し動きを出すように描ければ、場面に迫力が出ると思いますよ。コマ割りも単調なので、もう少し多様なコマ割りにするとか」
「なるほど……」
「まぁ、でもそのくらいですね、気になった所は」
そう言いながら、原稿を優しく茶封筒に戻した。
「このまま、この作品を来月号の弊社の漫画賞に投稿しても良いですかね?」
「え、い、いいんですか」
「もちろん」
本来は他社の漫画賞に応募する予定だったが編集者直々に言われて断る程、徹は出版社に拘りを持っていない。喜んで承諾した。
「それとコレ」
編集者はポケットからカードケースを取り出し、一枚のカードを抜いてそれを机の上に置いた。徹は小さく息を吸い、そっとそのカードを手に取った。それはこの編集者の名刺だった。『木元あきら』という名前が記載されていた。
「次の作品からは、ネームの段階から僕に見せてください」
こうして名刺を貰えたという事は徹に担当の編集者が付いた事を意味している。プロの漫画家になるには、まず担当の編集者が付かない事には話しにならない。担当が付くと作品を完成させるプロットやネームの段階からしっかりとアドバイスを貰えて、デビューに向けてのアシストが受けられるのだ。つまり徹は、夢の実現へ一歩前進した事になる。
「ありがとうございます」
お辞儀をして顔を上げると、木元が徹をじっと見ていた。いつも事務的な対応をされている木元と視線が合うのは今日が初めてだ。木元は徹の目を見ながらゆっくりと微笑んで言った。
「成長しましたね、板垣さん。デビューまで一緒に頑張りましょう」
一瞬にして視界が涙で歪んだ。泣かないように一度唾を飲み込んでから答えた。
「ありがとうございます。これからです。絶対に頑張ります」
最後は擦れたような声になった。徹は大切に名刺を財布にしまった。ゆっくりと立ち上がり、もう一度深くお辞儀をして出版社を後にした。
ビルから外に出ると、視界に入る景色が違って見えた。神保町の街並みに、いつものような居心地の悪さを感じない。
夢にまで見た担当編集者が自分についたのだ。
漫画家になれるかもしれない。
一気に夢が膨らんだ。興奮から徹は自然と早足になっていた。
電車に乗ると、財布から名刺を仕舞っては取り出し、何度も『木元あきら』という字体を眺めて喜びに浸った。
すぐにでもレンにこの喜びを報告したい。自宅に到着すると徹はただいまも言わずに、すぐさまレンの部屋へ駆け込んだ。
「レン、聞いてくれよ」
レンはベッドの布団に潜り込んで眠っていた。明け方までバイト先であるパチンコ店の仲間と飲んでいたらしく、二日酔いでダウンしていた。だがもう夕方だ。日も暮れかけている。レンは舞台が終わってからというもの次の役者としての仕事が中々決まらず、酔って帰る日が続いていた。そして飲んで帰ってきた日は必ずといっていいほど二日酔いで寝込んでいる。
酒が弱い癖に飲む事を好むレンの気持ちが徹はよく分からなかった。徹自身酒が飲めない下戸という点もあるが、何よりレンは酒癖が悪く酔っぱらうと面倒な事が起きる確率が高くなる。終電を逃してしまい道端で寝てしまう事はしょっちゅうで、役者仲間と酒の席で口論から取っ組み合いの喧嘩になり、決まっていた筈の仕事が飛んだ事もある。レンはその度に後悔しているのに同じような過ちを何度も繰り返しているのだ。さらにその面倒事は当然一緒に暮らす徹にも飛び火する。今朝も酔って帰ってきたレンが、トイレ前で我慢しきれずに吐いてしまい、その汚物を徹が処理した。しかもレンが二日酔いで寝込んでいると分担している家事は全て徹がやらなければならなくなるのだ。
そんな事が重なっている為、徹はレンの体調など一切気にかけず、布団を揺さぶりながら言った。
「おい名刺、名刺もらったんだよ」
「ん~……? 何だよ名刺って……」
「俺に担当の編集者が付いたんだ」
レンはもぞもぞと動きながら、具合が悪そうに起き上がった。目を擦り、不機嫌そうに尋ねる。
「それって、すごいの?」
「すごいっていうか、漫画家の夢が一歩近づいた感じだよ」
「デビューできた訳じゃないんだろ?」
「当たり前だろ。でもようやくスタートラインに立てたんだ」
「んじゃまだ喜ぶのは早いと思うけど」
そう言ってまた布団に潜り込んでしまった。レンの態度に、何だか名刺を貰えて泣きそうになっていた自分が恥ずかしく思えてくる。
「なんだよ、こんなに俺が喜んでるんだから、一緒に喜べよ」
「悪い、今はお前と喜ぶよりも気持ち悪さの方が勝ってるわ」
何だコイツは、と腹立たしく思えてくるが確かにプロとして漫画家デビューが決まった訳ではない。レンの業界で例えるなら、所属事務所が決まっただけで喜んでいるようなものだ。
「もういい、一生寝てろ」
わざとらしく大きな音を立ててレンの部屋を出た。すっかり気分が盛り下がってしまったが、高揚していた頭が冷静になってきた。確かにこんな事で喜んでいる場合ではないのだ。担当編集者が付いても創作活動を怠れば今と何も変わらない。
新たな漫画のネタを考えなければ、と勢いよく自室へ入った。ノートを広げ、指に馴染んでいるシャープペンシルをくるりと回して握ると、妄想の世界へと没頭した。
ブルッと身体が震えた事で妄想から現実に引き戻された。暗い部屋に徹の手元を照らす机のライトが灯っている。身体がかなり冷えていた。手足も冷たい。いくら集中していたとはいえ、気温まで感じなくなるとは我ながら呆れる。最近は特に昼と夜の寒暖差が激しいのだ。流石に身体の震えには逆らえない。
部屋の電気を付ける為に立ち上がった。白昼色に部屋が明るくなり眩しくて目を擦る。時計を見ると、時刻は21時を回っていた。
レンは起きたのだろうか。暖房のリモコン押すと同時に部屋がノックされた。
「はい」
「今……いいか?」
遠慮がちなレンの声だ。その声に反省の色が伺える。だが二日酔いの後、体調が戻る度に発する遠慮がちな声も最近は聞き慣れてしまった。
「どうぞ」
ゆっくりと部屋の扉が開く。手には湯気が出ているコーヒカップとコンビニの袋を持っていた。
「これ、差し入れ」
「買ってきたの?」
「うん、さっき行ってきた」
「もう具合悪くない?」
「うん、大分良くなった……」
レンは申し訳なさそうに差し入れを机に置いた。
「何か寒くない?」
「今、暖房入れたよ」
「付けるの今年初?」
正しくは今年度初の暖房であるが、特に突っ込まずに頷いた。机に置かれた袋の中身を見ると、菓子パンが三つ入っていた。
「ありがとう。今日コレが一食目だわ」
「ちゃんと食えよ。身体に悪いだろ……」
二日酔い続きのレンに言われたくはないが、それを本人も自覚しているのか尻つぼみな言い方だった。そんなレンに徹は少し笑った。
「あのさ、俺昨日吐いたよね?」
「昨日というか、今日の朝方ね。吐いたよ」
クリームパンの袋を開けて齧りついた。空腹の時に食べるクリームパンほど美味いものはないと徹は思う。空っぽの胃にクリームの甘みが染みる。レンが淹れてくれたインスタントのブラックコーヒーとも相性が良い。
「あー、美味しい」
自然と言葉が出てきた。レンは相変わらず気まずそうに徹の様子を眺めている。
「どこで吐いたの?」
「トイレの便器前。ぎりぎり間に合わなかったね」
「その後は?」
「上の服がゲロで汚れてたから脱がせて、部屋のベッドに引きずって寝かせた後に、お前が吐いたゲロ掃除した。ちなみにそれ、朝の4時だからな」
「あー……マジでごめん」
「もういいよ。つーかクリームパン食ってる時にゲロの話しするなよ。まずくなるだろ」
実際徹は然程怒ってはいない。むしろ俳優としての仕事が決まらず日々酒を飲んで帰ってくるレンを心配していた。だからこそ、体調が戻った後にいつも申し訳なさそうにするレンを、あまり責めないようにしている。
「新しい漫画のネタ考えてるんだよ。見る?」
レンの気持ちを切り替えさせるつもりで徹は言った。机に広がるノートには、走り書きされた文字とキャラクターのデッサンが描かれてある。
「担当が付いて良かったな。おめでとう」
ノートを覗き込みながらレンは言った。風呂に入ったのか酒の匂いは消えてシャンプーの香りがする。
「何だよ、さっきは喜ぶのはまだ早いって言ったくせに」
「いや、それは本当だろ」
ゲロを吐いて世話になった事と先ほどの発言は別、とでも言うようにレンははっきりと言った。
「まぁ、そりゃそうだけど……」
謝るべき事は謝り、間違っていない事は絶対に曲げない。徹はそんなレンの芯の強さを尊敬している。
レンはノートを手に取りゆっくりと捲った。その姿に小学生時代のレンが重なる。
「もし徹がプロになって、漫画がドラマ化したらさ、どうしような」
ボソリと呟くレンに、徹は頬杖を付いて溜息を吐いた。
「夢物語だよ、そんなのまだ」
「でも、もしそうなったら俺を主役に推薦してよ」
「もちろん。すぐにレンの名前を出すよ」
「やったね」
暫く会話に間が空いた。徹は二袋目のあんパンの袋を開けて一口囓った後、レンにも一口囓らせた。あんパンを落とさないように口を上手に動かしパンに齧り付くレンは、どこか色気があった。
「明日さ、俺出かけるわ。静岡に帰る。バイト休みだから」
頬をあんパンで膨らませながらレンは言った。目がどことなく曇っていたので、徹は何となく察して尋ねた。
「母親のところ?」
「うん……メシでも食おうって。すげぇダルい」
「そう言うなよ。お前しか甘えられる人いないんだろ」
「うん……」
レンが覆い被さるように背中から徹を抱き締めた。甘えるかの様に徹の髪に頬ずりをする。
「何? 重いんだけど」
「パワー充電中」
「やめろ、俺のパワーが減る」
冗談を言いながらも、徹はレンの好きなようにさせておいた。
「ごめん。ゲロ掃除させて」
「いいってもう。気にすんな」
レンは決して弱音を吐かない。悩みも一切ない素振りを見せる。天性の明るさを持っていると他人に思われがちなレンは、時折こうして気分が落ち込むと、徹の背に甘える事があった。
理由は聞かないようにしていた。聞いた所でレンは教えてくれないだろう。担当が付いた徹の喜びをレンが理解出来なかった事と同じように、徹には理解できないレンなりの苦しみがあるに違いない。
「舞台の演技も凄かったしさ、また次の仕事もすぐに決まるよ」
「今度ドラマのオーディションがある……」
「なんだ、やったじゃん。きっと受かるよ。レンなら」
「うん……」
徹を抱き締めるレンの腕に力がこもる。まだ他にも言いたい事があるような仕草だ。
「……母親に会うの、そんなにしんどいの?」
「……」
「そっか……」
徹は優しくレンの腕を撫でた。
レンの母親は静岡で一人暮らしをしている。レンに父親はいない。どこで何をしているのかも知らないらしい。父親の顔を生まれてから一度も見た事がないと言っていた。
レンの祖父母と母親は絶縁状態で、母親が頼る事が出来る唯一の肉親は息子のレンだけらしく、母親から電話で呼び出される度にレンは静岡へ帰っていた。
小学生時代、レンは徹に話した事がある。
母親が嫌いであると。
*
クラスの中で徹が漫画を描いている事を知っているのはレンだけだった。特に秘密にしていた訳ではないのだが、知っている人が自分だけという事がレンには嬉しかったのかも知れない。時折、まるで内緒話でもするかのように徹に話しかけてくる事があった。
「漫画は全部描き終わったの?」
「まだだよ」
「早く続きが読みたいな」
当時はレンと特別に親しかった訳ではない。だからこそレンとこんな風に話せることが徹は嬉しかった。
その日は少しだけ肌寒い日の昼休みだったと思う。徹は相変わらず自由帳に漫画を描いていた。いつも通り皆体育館や校庭へ遊びに行き、教室に残っている児童はほとんどいなかった。
レンはその日、珍しく友達の誘いを断り、徹の描く漫画を前の席で眺めていた。自分といるより友達と校庭へ遊びに行った方が楽しいのではないかと思ったが、ジッと徹の手元を見てくれるレンが嬉しかったので、特に何も言わなかった。徹とレンの周辺はとても閑かで、自由帳を撫でる鉛筆の音が心地よい。
しんとしている二人の空間で、徹はポロッと口にした。
「俺のお母さん、うるさいんだよね」
言い方にどこか重みを感じて徹は顔を上げた。レンは徹の自由帳を眺めたまま頬杖をつき、いたって普通の表情だった。
その表情に安心して徹はまた顔を下げ漫画の続きを描きながら答えた。
「僕のお母さんもうるさいよ」
「でも、お母さんの事好きでしょ?」
徹はまた顔を上げた。その質問に驚いたからだ。好きとか嫌いとか、そういう概念を親に対して持ち合わせた事がなかった。
「レンも好きでしょ? お母さんの事」
「嫌いだよ」
「何で?」
「嫌いだから」
短く呟いた。その後、徹はどう会話を続けたら良いのか分からなかった。何となく、それ以上レンに母親の事を聞いてはいけないような気がしたのだ。
大人になった今なら分かる。きっとあのポツリと呟いた母親に対する否定の言葉は、強がりのレンが唯一出せた弱音のサインだったのだと。
徹は、レンの母親と一度だけ会話をした事がある。授業参観の日だった。
授業が始まる前、ポツポツと児童の親が教室の前に集まりだした頃、学級委員だった徹は担当教師に授業の準備を頼まれ、30人分のノートを抱えながら職員室前の廊下を歩いていた。職員室と校長室は隣り合わせにあり、いつもシンとしている。用がない者は、この廊下をあまり通る事はない。
そんな場所に胸元まで開いた白のノースリーブカッターシャツを着て、タイトなスカートを履き、ウェーブのかかった茶色いロングヘアーの綺麗な女性が困ったように彷徨いていた。まるで女優かモデルのような人だった。
徹はその綺麗な女性を学校の関係者だと思った。お辞儀をして通り過ぎようとした時、女性に声を掛けられた。
「あ、ねぇ」
振り返ると、女性は徹の目の前にいた。近くで見る女性の美しさに徹の小さな胸はドキドキと音を立てた。家では嗅いだ事のないような花の良い香りがする。
「何年生?」
「三年生です」
「良かった」
何が良かったんだろう、と考えていると女性は言葉を続けた。
「早見レンって分かる?」
「あ、僕と同じクラスです」
「ホントに!?」
そう言って笑う女性の顔が、レンにそっくりだった。目尻に皺が寄った明るい笑顔。その笑顔を見て、徹はこの女性がレンの母親である事を察した。
「教室がどこか分かんなくなっちゃったの。案内してもらえるかな?」
転校生の親でもない限り、三年生の親が学校で迷う事はない。だがこれまで行事ごとにレンの親を見た事はなく、学校に来るのはいつもレンの祖父母だった。それを不思議に思うクラスメイトは多かったが、仕事が忙しくて来れないとレンが友人に説明していたのを聞いた事がある。
教室までの道中、女性はずっと徹に話しかけてきた。全て、レンに関する事だ。
「レン君は、すごく明るくて太陽みたいな人ですよ」
と徹がレンの印象を伝えると、女性はとても嬉しそうに笑った。その笑顔が、やっぱりレンと瓜二つだった。
「アタシね、レンのお母さんなのよ」
徹が既に勘付いていたことを、女性は改めて自慢するように言った。
教室に戻れば、レンの母親はとても目立った。どの親よりも派手な服装に髪型だったからだ。クラスの誰もが若くて美人なレンの母親を羨んだが、レンはずっと教室で浮かない顔をしていた事を徹は見ていた。
レンの母親がデリヘルという所で働いている人だと噂で聞いたのは、それから随分と後の事だった。
*
早朝、部屋をノックする音で起こされた。
明け方まで漫画のネタを考えていたので、起き上がるのが面倒臭い。塾のバイトも夕方からだ。
「……はい」
布団に入った状態のままで返事をすると、いつもより低いレンの声が聞こえた。
「そろそろ行ってくる」
随分早いな、と寝ぼけ眼で時計を見た。まだ6時半だ。
「こんな早くに行くの?」
「7時半の新幹線に乗って静岡帰るから」
「そっか」
徹は眠たい頭に喝を入れて起き上がり、ドアを開けた。レンは普段通りの軽装だった。秋っぽいチェック柄のシャツに黒のスキニジーンズを履き、徹があげたリュックを背負っている。
「気をつけて。帰りは何時になる?」
「夜までには戻るよ」
「了解」
レンはまだ何か言いたげだ。目を左右に揺らしている。言葉を待っていると、レンはゆっくりと両手を広げて遠慮がちに言った。
「また充電させて」
いじらしい仕草と言い方に、徹は思わず笑った。まるで子供のように甘えるレンを、徹は優しく抱き締めた。
「いってらっしゃい」
「うん……」
レンは思いきり徹の首筋辺りで息を吸い込んだ。そのくすぐったさが何故か心地良かった。徹も真似をして、レンの首筋辺りで息を吸い込んだ。爽やかな香水の香りと、幼い頃から変わらない日向の匂いがする。
レンはゆっくり身体を離し、いつも通りの明るい笑顔で「いってきます」と言い、静岡で暮らす母の元へと出かけていった。
レンが出かけた後、二度寝しようと試みたが、何故か眠れなかった。漫画の続きを描こうと机に向かうも、ネタの続きが何も浮かばない。
薄暗かった部屋に朝日が差し込んでいる。何をするでもなくベッドの上でごろついていたら、二時間近く経過していた。リビングでコーヒーを飲みトーストを焼いてバターを塗り食べた。ぼんやりとテレビを眺めているとスマートフォンが鳴った。画面を見るとレンからのメッセージだった。
――富士山が綺麗だった
その短い文を読み終わったくらいに、新幹線の車内から撮った富士山の画像が送られてきた。朝日に照らされた富士山は山頂の雪が朱色に染まり美しい。
東京にいても空が晴れていれば遠くの方に富士山が見える事があるが、静岡で生まれ育った徹の感覚からすれば、それは富士山と似て非なるものであり、やはり近くで見る富士山が本物だと徹は思った。画像とはいえ、久しぶりに見る富士山はやはり雄大だ。
徹は上京してから一度も富士山を肉眼で見れていない。漫画家の夢が叶うまでは静岡に帰らないと願掛けのように決めているからだ。大学へ入れてくれた両親に対して後ろめたさも当然ある。就職もせずに漫画を描いている事を、両親は快く思っている訳がない。
『いいな。綺麗だ』
『今度一緒に帰ろう』
レンの返信に、徹は少し泣きそうになった。「今度」がいつになるのか、気が遠くなる。
富士山の美しい画像に触発され、唐突に漫画のネタが頭の中に降ってきた。飲みかけだったコーヒーを一気に飲み干し、急いで机に向かった。クルリとペンを回し勢いよく絵を描き、気づけば夕方までプロットを描いていた。
*
徹がバイトをしている塾は少人数制で、主に中学受験を控えた小学生を担当している。学力別で三つにクラス編成されていて、一クラスの児童数は約7人、徹が教えている教科は国語だ。
今日は成績上位のクラスと成績下位のクラスに授業が入っており、バイトの拘束時間は約四時間になる。
「板垣さん、眠そうですね」
授業が始まる前の空き時間に事務所でコーヒーを飲みながら欠伸をしている所を女性のバイト仲間に見られた。
「あ、はは。はい、少し」
「寝不足ですか?」
女性はそう言いながら徹の隣に座った。
バイト仲間の女性は加藤しずるという名だ。彼女はよく徹が一人でいると声を掛けてきてくれる。年齢は徹より一つ年下の22歳で大学四年生だ。就活は無事に終了し、授業の単位も全て取り終えている真面目で優秀な学生である。最近は塾講師の他にカフェ店員のバイトも増やし、卒業旅行に向けての資金を稼ぐ事に勤しんでいるらしい。
「そうなんですよ、4時に寝たのに6時半に起こされて、そこから二度寝しようにも中々寝付けなくてね、今に至るって感じです」
「あ、ルームシェアしてるんですっけ」
「そう、大学一年の頃からね。今日実家に帰るらしくて。わざわざ行ってきますを言う為に僕を起こしたんですよ」
「可愛いじゃないですか」
「可愛いのは顔だけですね」
徹がそう言うと、彼女は少し身体を強張らせた。間を置いて、小さな声で言った。
「へー、美人な彼女なんですね」
思わず、口に含んでいるコーヒーを吹き出しそうになった。咽せて咳き込む徹を、しずるは不思議そうな表情で眺めている。
「いやいや、彼女じゃないですよ。男、男。幼なじみ」
「え、なんだー。だって可愛いって言うんだもん」
そう言って、しずるは声を出して笑った。確かに今の自分の言い方を振り返れば、レンを彼女だと誤解されても致し方ない。
しずるの綺麗に整えられた茶髪のセミロングヘアが、笑う肩に振動して美しく揺れている。しずるは大きな瞳が印象的な可愛らしい容姿をしているが、笑うとまるで糸のように目がにこりと細くなる。愛想が良く親しみやすい雰囲気があり、児童にも人気がある。
ひとしきり笑った後、しずるはどこか安心するように言った。
「そっかー、彼女じゃなかったんですね」
「ちがう、ちがう」
徹が照れながら訂正すると、しずるは「そっかそっか」と嬉しそうに頷いた。
予鈴が鳴る。徹は底に残っているコーヒーを飲んで立ち上がると、しずるも合わせるように立ち上がった。
しずるが担当している教科は算数だ。徹と同様、この後に授業を控えていた。塾内で行われる模擬テストで算数の平均点はいつも高い。算数を苦手とする児童は多いが、しずるは教え方が上手いのだ。その為、来年の3月末でしずるが大学卒業と同時に辞めてしまう事を塾長はかなり惜しんでいる。
「板垣さん、今晩空いてます?」
教室へ向かう廊下でしずるは徹に尋ねた。
「空いてますよ」
「一緒にご飯食べに行きませんか?」
「いいね、行きましょう」
しずるから食事に誘われる事は初めてだ。そもそも、徹にとって女性と二人きりで食事をする事自体が久しぶりである。
「美味しい居酒屋があるんです」
「へー、僕、酒飲めないんだけど大丈夫ですか?」
「大丈夫、お酒よりも食べ物が本当に美味しいお店だから」
しずるの方が先に教室に到着した。それじゃ、と軽くお辞儀をしてどこか嬉しそうにしずるは教室の中へ入っていった。
しずると徹はよく目が合った。徹が事務作業中に視線を感じてそちらを見ると、必ずといって良い程しずるが見ているからだ。目が合うと、しずるはいつも恥ずかしそうにその目を逸らした。恐らく自分に気があるのだろう、と徹は薄々勘付いている。
これまでに徹は、一人の女性としか付き合った事がない。その彼女とは中学と高校の同級生だった。中学2年の夏から上京する直前まで約四年間付き合った。長谷川彩花という名だった。
お互い全ての「初めて」を共有した相手だった。初めてデートをして、初めて手を絡めて繋ぎ、そして初めてセックスをした相手だ。
今でもまだ長谷川の事を思い出すと、胸の奥がチクリと痛む。徹の人生において、かけがえのない女性だった。
長谷川は高校卒業後、徹とは別の東京の大学に進学した。徹は上京したら長谷川と同棲するつもりでいた。ゆくゆくは、結婚もしたいと考えていた。だが、静岡から上京する一日前に、突然長谷川からメールが届いた。一度だけ読んだきりすぐに削除したそのメールを、徹は未だ鮮明に思い出すことが出来る。
『徹と一緒にいるとね、寂しいの。一緒にいるはずなのに寂しいの。もう別れよう』
そのメール以降、長谷川とは音信不通になった。一度も会えていない。
長谷川が一人暮らしをする部屋で亡くなったのは、去年の春だった。
*
長谷川の葬儀は身内のみでひっそりと行われたそうだ。告別式もなかった。その為、当時の彼女の関係者以外、彼女の死を知る者がいなかった。徹の耳に届いたのも、彼女が亡くなってから半年後の事だった。
長谷川は、アパートの2階の部屋で首を吊り自殺した。部屋の窓からは美しい桜並木が見えた。丁度桜が満開の頃で、見上げて並木通りを歩く人が多く、しずるが暮らすアパートの2階の窓も目に入りやすかった。一人の通行人が窓の奥に見える浮かんだ足に、たまたま気がつけた。奇跡的に早い発見だったそうだが間に合わなかった。
「徹はいつも私じゃなくて、レン君を見てるよね」
長谷川はいつもそう言って徹をからかった。だが徹は、いまいちピンときていなかった。なぜならレンとは中学からクラスが別になり、親しく会話をする事が減ってきていたし、高校も別の所へ行ったからだ。
中学二年の付き合いたての頃、一度困惑した質問をされた事がある。訃報を聞いた時、一番初めに思い出した長谷川との思い出がこの質問だった。
「もし私とレン君が川で溺れていたら、どっちを先に助ける?」
答えられずにいたら、長谷川は諦めたように笑った。そして、答えに困っている徹に「正解」と指を指した。どちらかを選んでしまうような人を私は好きにならないから安心して、と長谷川は慰めるように言った。
質問をした時、恐らく長谷川はすぐに自分の名を言って貰える事を期待していたはずだ。そうでなければ、こんな質問はしない。やきもち焼きで常に愛情を欲する彼女だった。私は家族に愛されていないの、とよく一人言のように呟いていた。寂しがり屋の長谷川を分かっていたはずなのに、なぜあの時彼女の名前を即答してあげなかったのだろうと徹は未だ悔いている。だが勘の鋭い彼女だ。例え即答しても、
「それ、嘘でしょ?」
と言われていたような気がする。
答えに迷う徹を彼女は責めなかった。同い年なのに、長谷川はどこか大人びていた。
久しぶりに長谷川の事を思い出した。いつも前触れなく唐突に思い出しては、悲しみが胸の奥からこみ上げてくる。目を瞑り頭を切り換えることに集中していると誰かに肩を叩かれた。
目を開けると、授業を終えたしずるが心配そうに徹の顔を覗きこんでいた。
「板垣さん、どうしたんですか?」
「あ、ごめん。何かぼーっとしてました」
「寝不足でしたよね? 眠いんですか? ご飯大丈夫?」
「ありがとう。大丈夫です」
「ホントに?」
「ホントに大丈夫」
「良かった」
ふわりと嬉しそうにしずるは笑った。なぜかちくりと、徹の胸が痛んだ。
*
しずるが連れてきてくれたお店は、塾のほど近くにある居酒屋だった。オーナーが元力士で、メインのちゃんこ鍋は一人前を二人で食べても満腹になりそうな量だった。
「どう? 鍋の量すごくない?」
しずるはビールを飲み、徹はジンジャエールを飲んでいる。
「うん、すごい」
「味はどう?」
「美味しいよ、とても」
敬語で話していた二人だったが、時間の経過と共にいつの間にやら砕けた話し方になっていた。
「友達がグルメでね、色々と教えて貰ってるの。意外とこの周辺は美味しいお店が沢山あるんだよ。今度は違う美味しいお店にも行く?」
「うん、是非」
「ふふ」
しずるは随分楽しそうだった。先ほどまでしずるは自分の生い立ちについて語っていた。鳥取県出身で初めて東京に来た時はその都会ぶりに驚いたそうだ。徹は相槌を打つだけで、自分の事は話さなかった。
しずるは頬と目元をほんのり赤く染めて、頬杖をつき上目遣いで徹に質問をした。
「板垣さんって東京に来てどのくらいなの?」
「五年目だよ」
「静岡のどこ出身なの?」
「静岡市だよ」
「血液型はA型でしょ」
「いや、O型だよ」
「部活はスポーツしてた?」
「特に何もしてないな」
すこぶる簡潔に答えて会話を続けようとはしない徹に、しずるは口を尖らせながら言った。
「何か私ばっかり質問してる。板垣さんは私に何か聞きたい事ないの?」
「うーん……何だろうな……」
「……」
ふと、しずるが徹の指に何かを見つけ、箸を持つ徹の中指にそっと触れて言った。
「ペンだこがある」
「え?」
「わっ、硬い。こんなに大きなペンだこがあったなんて全然気づかなかった」
ほろ酔いでうっすらと目を蕩けさせながら、徹の中指にボコリと出ているペンだこを擦るように触れた。前屈みになっているので、胸元が見える。
徹は胸元を見ないように視線を少し横にずらしながら、触れられている右手をゆっくりと動かし、しずるの指から手を離した。それは触れられたくないという意思表示のようで、しずるが驚いた表情で徹を見た。徹は、しずるの反応に気づかない振りをして言った。
「あぁ、絵を描いているからね」
会話に間が空いた。しずるは少しの間、行き場の失った自分の手を見つめていた。一度息を吐いて気を取り直すかのように何度か頷き元の体制に戻ると、緩んだ胸元を直した。
「……絵? どんな絵を……描いてるんですか?」
急に敬語に戻った事に違和感を覚えながらも、徹は素直に答えた。
「漫画だよ」
「えっ、すごいですね」
「プロだったらね。僕はただの素人だから」
「私、絵が全然描けないから漫画を描いてるって事だけで凄いなって思っちゃいます」
「ありがとう」
「漫画家が夢なんですか?」
「そう、実はね」
「へー……」
それ以上会話が続かなかった。しずるも、もう質問はしてこなかった。黙々と食べ、鍋が半分くらいまで減った所でお互いの箸が止まった。
「そろそろ出ましょうか」
「そうだね」
会計は二人で一万円弱だった。奢ろうとすると彼女はそれをきっぱりと断った。
「私、恋人以外の男性に奢られるの嫌いなんですよ」
そう言って、勢いよく五千円札を財布から取り出しトレーに置いた。どこか、棘のある言い方と態度だったが、彼女の気に障る事をした自覚があった徹は、しずるの態度に対して何も突っ込まなかった。
外に出るとひんやりと肌寒かった。薄手のニット一枚しか着ていないしずるがブルリと震える。
「寒い?」
「少し」
徹は羽織っているチェックのYシャツをしずるの肩に掛けてやった。華奢なしずるの肩に触れた途端、しずるの歩行がピタリと止まる。
「大丈夫です」
「え?」
「期待してもいいんですか?」
徹を試すかのように目を糸のように細くして微笑みながら、徹にチェック色のYシャツを返した。
「……」
「デートが終わるタイミングで優しくなるなんてずるいですね」
うっすらと、しずるの目尻に涙が浮かんでいた。徹は一瞬、しずると長谷川が重なって見えた気がした。長谷川もよく、徹といると泣きそうな顔をした。
「……板垣さん気づいてるんでしょ? 私の気持ち。気づいたから冷たくしたんでしょ?」
ここで中途半端な態度を取ってしまう事は余計に彼女を傷つかせてしまうと思い、徹は素直に謝った。
「……ごめん」
「やっぱり彼女いるんですか?」
「それはいない。いないんだけど……ごめん」
しずるの目が左右に揺れる。下唇を噛みながら首を振ると、「行きましょ」と短く呟き、徹よりも少しだけ前に出て歩き始めた。
「おーい、徹ー」
遠くから名前を呼ぶ声がして振り返った。3メートルほど後ろにレンが手を振り立っている。両手には静岡土産の紙袋を持っていた。目が合うと、少し小走りで徹としずるの元に近づいてきた。レンの吞気で明るい表情は、気まずい空気が流れる二人をまるで無視していた。
「……おかえり、レン」
「徹も今帰り? いつもより随分とバイト終わるの遅いじゃん」
「あぁ、ご飯食べてたから。同じバイトの子と……」
しずるはレンと徹に背を向けている。頭を垂れ、こちらの空気には交わらないという態度を示している。
「へー……」
レンが不思議そうにしずるの背中を見ていた。
「レン、先に帰ってて」
とにかくレンをこの場から離れさせなければと、徹は真剣な顔で言った。惨めな彼女の感情が背中からひしひしと伝わってくる。
だが、徹の気遣いは無用だった。突如しずるは下げていた頭を上げて、振り返って笑った。
「なんだ、本当に彼女じゃなかったんですね」
「ん?」
レンは唐突すぎるしずるの言葉に戸惑うような声を出した。先ほどまでの気まずさを払拭するような朗らかな雰囲気で、しずるは言った。
「わぁ、イケメン。板垣さんったら、可愛いのは顔だけって言ってましたよ。だから私、彼女かと思ったんです。男の人に可愛いって言うのなんか変でしょ」
恐らくしずるは、徹がレンに「おかえり」と言った事から、すぐにルームシャアをしている人物だと察したのだろう。
しずるは戸惑っているレンの反応を楽しそうに笑った。笑いながら自然に徹の腕に自分の腕を絡ませてきた。しずるの華奢な胸が徹の腕に当たる。思いがけないしずるの行動に徹は驚き、身体を強張らせた。しずるの頭頂部からコンディショナーの良い香りがする。しずるは徹の反応に白々しく首を傾げ、上目遣いで徹を見て言った。
「じゃあね、板垣さん。私、ここまでで大丈夫です。タクシーで帰るから。今日は食事を奢ってくれてありがとう」
「え……?」
しずるは絡ませていた腕を離し、レンの方を向いて軽く会釈をした後、後ろを向いた。その瞬間、今にも泣き出しそうな表情に変化したことを徹は見逃さなかった。しずるは足早に駅の方へと歩き去って行った。
「え、なに? 今の。徹、あの子と付き合ってんの?」
レンの戸惑いが隠せない質問に、徹は首を軽く振った。
「付き合ってないよ……」
徹の暗い言い方に、レンは何かを察したのか、少しおちゃらけるように言った。
「俺、なんかまずい瞬間に来ちゃった?」
「……」
反応がない徹に、レンは不安そうに徹の袖を掴む。
何故か分からない。レンのそんな甘える仕草が、徹は一瞬憎らしく思えた。だが無下に振り払うことも出来ない。説明ができない複雑な気持ちが徹を苛つかせる。拳を握り、一度呼吸を吐いて気持ちを落ち着かせる。
「……静岡、どうだった?」
苛つきを誤魔化すように、徹はレンの頭を撫でながら尋ねた。レンは頭を撫でられ気持ちよさそうに目を瞑る。甘えん坊の猫のようだ。
「ん……疲れた。すごく」
「そっか」
「今回も長谷川さんの墓には……行けなかった」
「……いいよ」
両手に持っている静岡のお土産を徹が代わりに持ってやる。静岡名物のうなぎパイと洋菓子だった。
「帰ろう」
徹が言って、二人は歩き出した。
無言の帰り道、レンはポツリと言った。
「さっきの子とさ……付き合わないの?」
「付き合わないよ」
「長谷川さんの事……まだ辛いの……?」
「さぁ……」
「そろそろ新しい恋もした方がいいんじゃない……?」
「どうだろうな……」
夜に吹く北風が冷たい。そろそろ防寒着が必要だ。いい加減夏服を仕舞わなければ。どうでも良いことを考えながら、徹は「でも……」と続けた。
「バイト先のあの子は、すごく魅力的だと思ったよ」
徹の言葉に、レンの歩行が止まった。むっとした表情をしている。新しい恋をした方がいいと言ったくせに、レンはこうやってすぐにやきもちを妬く。
徹はレンを見て優しく微笑んだ。
「ほら、行こう」
両手に持っていたお土産を左手に持ち替えて空になった右手を差し出すと、レンは仏頂面で徹の手を握り歩き出した。
「……付き合うの?」
「だから付き合わないって」
外灯がなく、車も人もほとんど通らない家までの暗い道は、本当に東京なのだろうかと疑いたくなる。右手に感じる温もりが、不気味な夜道を優しい夜道に変化させる。今日一日で疲弊した徹の心が、レンの手の温もりに癒されていくのを感じた。その安らぎを認めることは、なぜか悔しくて辛かった。
やはりしずるはその日を境に、春を待たずして塾のバイトを辞めてしまった。
*
徹の部屋は暖房の効き目が悪い。設定温度は28度。風量を最大にしているにも関わらず、部屋はひんやりと寒く、手足が凍える。
引っ越した当初から部屋に付いていたこの冷暖房機器は、恐らく大分古い代物である。
色は日光で焼けて黄ばみ、羽の動きが鈍かった。
時計を見て、そろそろ休憩に入ろうとPCでペン入れ作業をしていた手を休め、席を立った。冷たい指先を温める為に手もみをしながら廊下に出ると、玄関ドアが結露で濡れている。通るついでに、水滴まみれのドアを乾いた雑巾で吹いた。一日に何度も吹かないと、壁にカビが生えてきてしまう。
リビングへ入ると、自室よりさらにひんやりと寒く、徹はすぐに暖房を入れた。
季節はすっかり冬だ。
徹は相変わらず漫画を描く作業に精を出していた。担当の木元に貰うアドバイスをスポンジのように吸収し、日ごとに能力が上達している。その力量の変化が楽しくて仕方なかった。漫画を『描かなければ』という義務感から、『描きたい』という欲望へと切り替わり、遙か遠くにあるはずだった漫画家という夢が、手の届く所まで近づいてきている感覚が嬉しかった。日々、やる気に満ちていた。
レンも最近は順調だ。時折、エキストラの仕事が舞い込み、以前言っていたドラマのオーディションも無事に受かった。相変わらず酔って帰ってくる日も多いが、仕事が全くなかった舞台終了直後に比べれば段違いで酒の量は減ってきている。
今日は、そのオーディションで勝ち得たドラマの放送日だ。ちょい役らしいが、しっかりと台詞も貰えたらしい。徹はテレビの番組表を表示し、レンが出演するドラマのタイトルを確認すると、録画予約ボタンを押した。レンがエキストラ以外でテレビドラマに出演する事は今回が初めてだ。
レンは今、ドラマ鑑賞に向けて食料の買い出しに行っている。コーヒーを淹れて少しだけ口に含んだ時、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
レンが帰ってきた。マグカップを持ちながら、リビングから廊下へ繋がるドアを開ける。レンは両手に大きく膨らんだスーパーの袋を持っていた。靴を脱ぐ為に、重たそうに袋を床に置く。
「おかえり。随分と買い込んだな」
「お菓子とか飲み物とか総菜とか。食うだろ?」
「もちろん。ありがとう。めっちゃ腹減ってるよ」
買い出しの量からして、レンの張り切り具合が伺える。レンは朝からそわそわと落ち着きがなかった。ちょい役といえど、自分の初出演ドラマを見る事がよほど楽しみなのだろう。浮かれているレンが微笑ましく、徹の表情は自然と緩んだ。
「何笑ってんの? え、やっぱりちょっと買いすぎたかな……」
「いや、大丈夫だよ」
徹の何気ない表情を気にするレンが可愛らしくて徹はレンの頭を撫でた。外から帰ってきたばかりのレンは鼻の頭と頬がピンク色に染まっている。
「外、寒かった?」
「うん」
「お疲れ。荷物運んどくから早く中に入れよ」
「ありがと」
時刻は19時半。レンが出演するドラマは20時から始まる2時間の単発ドラマだ。交番勤務の新人警察官役で3シーン程の出番があるらしい。
荷物をリビングまで運び、テーブルの上に大量のお菓子や総菜、飲み物を並べた。まるで、ちょっとしたパーティが始まるみたいにテーブルの上が豪華になった。
「ほら、好きなやつ」
レンはブドウ味の微炭酸飲料を徹へ渡した。クリスマスや正月等のイベントで、酒を飲むレンに付き合う時に徹がいつも飲むジュースだ。
「お、ありがとう」
ペットボトルの蓋を開けて一口飲み、ビールのCMさながら、わざとらしく息を吐く。
「あー、やっぱりコレだね」
ふざける徹にレンは「小学生かよ」と笑った。そう言いながらレンも缶ビールを手に取りプルタブを開けて、これが本物だと言わんばかりに徹よりも大袈裟に飲んだ。
「あー、うっま」
「お、ビールのCMが決まりました」
「よっしゃ」
ケラケラと二人で笑い合う。ドラマが始まるまであと30分。レンとこうしてふざけて笑い合うのは久しぶりだ。漫画の事ばかり考え常に強張っていた肩の力が、すっと抜けていく感覚が分かった。
「楽しいな」
徹の口から自然と言葉がついて出た。
レンがじっと徹を見ている。徹もレンの方を見て、首を傾げた。
レンの整った顔が、徐々に徹へ近づいてくる。
まるで、徹だけ時間感覚がずれてしまったかのようだった。レンがゆっくりと目を瞑っていく様が分かった。その動きに釣られるように徹も思わず目を瞑った。
レンの柔らかな唇が、徹の頬に触れた。
「え……」
徹が声を上げると、レンはいたずらっぽく笑った。
「かわいいなーと思ってほっぺにチューしちゃった」
その口調と声色で、流れる甘い空気感が一気に解れる。唇にされるかと思ってしまった自分の顔がみるみる熱くなっていくのが分かった。誤魔化すように、徹は手の平で頬をごしごしと擦った。
「やめろよ、ばか。もう酔ってんの?」
「一口で酔うかよ」
「マジでダルい。そういうノリ」
「今度はお口にしちゃおうかな、徹くん」
「アホか」
そう言って立ち上がり、トイレへと入った。ドアを閉めた瞬間。
心臓が破裂しそうなほど一気に高鳴った。顔に汗が滲む。下半身が疼いている事を認めたくなくて、首を横に振り、無意味にトイレの水を流した。
「はぁ……ばか落ち着けばかばか」
息しか出さないとても小さな声で自身を鎮める。
これまで何度もレンから甘えるようなスキンシップはあった。今回もその一つに過ぎない。落ち着け、落ち着け。
必死に言い聞かせる。
レンはふざけていただけだ。
だが、もしレンが甘い空気を壊さなかったら……?
確実にそれ以上の行為をしていたかもしれない。
ゾッとして目眩がした。
「おーい、あと五分で始まるよー」
リビングからレンの吞気な声が聞こえてくる。
興奮しているのは自分だけだ。落ち着け落ち着くんだ、と頭の中で何度も唱える。
「分かってる。もうすぐ出るよ」
極めて普通の声を出すように意識して言った。
下半身は相変わらず、今にも身を起こそうと疼いている。般若心経を唱え、円周率を唱え、先週たまたま見てしまった恐怖映像の動画を思い浮かべ、何とか落ち着きを取り戻した。
トイレから出ると、既にドラマのオープニングが始まっていた。
「おせーよ」
「わるい、うんこ」
レンから少し離れた距離に座り、炭酸ジュースを飲んで喉の渇きを潤した。
「まだ出番きてないだろ?」
「うん、俺出るの終盤の方だから」
頬にキスした事は既に忘れ去られた過去のように、レンは至って普通だった。
――何も気にするな。いつも通りに。
何度も、何度も念じる。
徹とレンは、ドラマをほぼ無言で見続けた。時折食べ物をつまみながら、レンはドラマに集中していた。残り15分程度の所で突如興奮しながらレンが言った。
「あ、この後。この後だよ、徹」
主演の男性から画面が切り替わり、警察官の制服を着たレンが映し出された。
「やべー映った。ちゃんと演技してる。なぁ、これ俺だよ? すごくない?」
嬉しそうに、勢い良く徹を見たレンの身体が、突如強張った。
「え……?」
訳が分からないというレンの声だった。暫く間を開け、徹の顔を覗き込む。
「なに泣いてんの徹」
徹の視界はぼやけ、画面に映っているレンが歪んで見える。泣くな、と心の中で唱えれば唱えるほど、涙が止まらなかった。
集中するレンとは反対に、徹は心待ちにしていたレンの初出演ドラマの内容が、全く頭に入ってきていなかった。
頬にキスをされた。
たったその程度の事で勃起しそうになっている自分。何も気にしていないレン。いつも通りに、と何度も念じる自分。
惨めさと悔しさと切なさが一気に胸の中に広がる。堰を切ったかのように涙が溢れた。
「ご、ごめん。嬉しすぎて」
必死に涙を誤魔化す。だが嬉し涙にしてはあまりに不自然な泣き方だ。
「レンがテレビ出てる。嬉しい、嬉しいなぁ」
――辛い、辛いなぁ。
反対の言葉が浮かんでは胸に刺さる。ボロボロと泣く徹をレンは抱き締めた。
「どうしたんだよ……」
「ご、ごめん。ホント、嬉し涙だよ」
レンの胸の中で、籠もった声を出した。優しく撫でるレンの手の平を背中に感じながら、徹は必死に涙を止めようともがいていた。
レンは泣いた理由を聞かなかった。嬉し涙という下手くそな言い訳を信じたはずがないのに。
もう一度理由を聞いてくれ、誤魔化しのきく言い訳をさせてくれ、と徹は思っていた。
だがレンは何も言わず、徹の涙が止まるまでじっと抱き締めていただけだった。
*
電話が鳴ったのは、ドラマ鑑賞日から二週間後の事だった。
徹とレンはあの日から、まともに顔を合わせていない。徹は塾講師のバイト以外は缶詰のように部屋に閉じこもって漫画を描いていたし、レンもバイトに明け暮れ、ほとんど家にいなかったからだ。
その日、徹は珍しく昼の12時に起きた。
この二週間で徹の昼夜は完璧に逆転してしまっていた。朝7時頃まで漫画を描き、7時半頃に眠る。目を覚ますのはいつも15時頃だ。昼の12時に起きる事は、最近の徹にとってかなり早起きである。
ボサボサの髪と無精髭を生やした顔でリビングへ入ると、レンがソファに座りワイドショー番組を見ていた。最近は忙しなく外に出掛けているレンが、ゆっくりとソファに座りテレビを眺めている。それは徹の早起きと同じくらいに珍しい。
視線をレンからテレビに移すと、ワイドショーはどうでも良いことを報道している。また芸能人が不倫したそうだ。
だがレンはテレビ画面ではなく、どこか遠くを見つめているようだった。面白そうにタレントがテレビの中で笑っていても一切反応していない。そんな上の空でも、身なりをきちんと整え清潔感があるレンはさすがだ。
徹は、あの日からレンに対して気まずさを覚えていた。中々レンに声を掛けられずにいると、ふとレンが振り返った。そして徹の顔を見るなり、思い切り吹き出して笑った。
「何お前のその顔。超不細工だよ」
まともに会話をするのはあの夜以来のはずなのに、それを感じさせないくしゃくしゃの笑顔でレンは悪態をついてきた。だがレンとどういう風に接したら良いのか分からなくなっていた徹には、その悪態がありがたかった。
「うるせーよ」
徹も笑いながら言い返した。レンは子供の頃から徹の緊張を和らげてくれる力がある。
「今日、早起きじゃん」
「うん。また二度寝するけどね」
久しぶりの会話に徹はホッとしながらレンの隣に座った。レンが気に入って付けている香水の爽やかな香りが、徹をさらに安心させる。
「テレビ面白い?」
「あんまり。ただボーッとしてただけ」
「最近バイト忙しいの? いつも出掛けてるけど」
徹は何気なく聞いただけだった。だがレンは答え方を考えているかのように、返答に暫く間を空けた。
「んー……最近バイト変えてさ」
「え? パチンコ屋のバイト辞めたの? バイト仲間と楽しそうだったじゃん」
「うん、まぁ。オーディションとか急に入った時、融通効かない事あったし」
「新しいバイト先は融通聞くの?」
「うん、まぁね」
徹はさらに聞こうと口を開いたが、指先を弄り、視線を下に向けているレンを見て、それ以上聞くのは止めた。
視線をテレビにずらして、レンの頭を撫でながら言った。
「まぁ、どんなバイトでも危険な事じゃなかったら何でも良いんだけどさ」
「危険……ではないよ」
「そっか。良かった」
微笑みながら言うと、レンの瞳が左右に揺れた。どこか泣きそうになっているように見えたが、すぐにレンも徹に合わせて小さく微笑んだ。
「うん、ありがとな」
小さく呟くレンの顔をじっと見た。何かを隠されているような気がして、モヤモヤと嫌な感情が広がる。
「なんだよ。心配するなって。大丈夫だから」
徹の感情を読むようにレンが笑いながら言った。こういう時のレンはしつこく聞いた所で絶対に答えない。胸の引っかかりを残したまま、徹は話題を変えた。
「俳優の仕事はどう?」
「ん? んー……まぁ、何も……」
「そっか……」
会話に間が空く。
レンは、あの夜の事をどう思っているのだろうか。ずっと心待ちにしていたドラマの登場シーンで突然泣いてしまい、まともに見れなかった。レンの気持ち側に立てば訳が分からなかった事だろう。それなのにレンは徹を責めずにいる。
「レン、あの時のドラマさ録画してあるんだ。だから」
パッとレンの表情が明るくなった気がした。
もう一度見よう、そう言いかけた時、徹のポケットに入っていたスマートフォンが鳴った。
画面を見ると、徹を担当している木元あきらからだった。
徹は立ち上がり、キッチンの方へと移動した。レンの視線が追ってきているのを背中に感じながら電話に出る。
「もしもし」
『おめでとうございます』
電話に出るなり木元はそう言った。その意味を頭で理解するよりも早く、身体が沸々と興奮していく。
「え……?」
『この前、持ち込みから新人賞へ投稿した作品、佳作穫りましたよ』
「本当ですか!?」
自分でも信じられないくらい大きな声が出た。落ち着きなくキッチン周辺を歩き、味わったことのない興奮と喜びでスマートフォンを持つ左手が震える。レンが不思議そうな表情で見つめているが気にする余裕が徹にはない。
『編集長が板垣さんの作風を凄く気に入っててね。あと、もう一つ朗報』
「はい」
声も震えた。自分の心臓の音が耳に響く。
『今、僕と煮詰めてる作品、ネームを読んで貰ったら月刊で出している雑誌で短期連載が決まりました』
思わずその場に立ち止まった。驚き過ぎて言葉を発する事が出来ない。
『改めて、おめでとうございます。ついに漫画家デビューですね、板垣先生』
どこか冗談めかして木元は徹に呼称を付けた。ずっと憧れを抱いてきた呼び方に鳥肌が粟立つ。同時に視界が曇り、震えた息が漏れた。
『頑張りましたね』
その一言をきっかけに、大粒の涙が頬を伝う。鼻水をすすると、嗚咽が漏れた。右手で目元を覆って何とか落ち着きを取り戻してから口を開いた。
「ありがとうございます。木元さん、これからもよろしくお願いします」
『絶対に良い作品を読者の方に届けましょう。僕も精一杯頑張ります』
また連絡します、と言って電話は切れた。レンの気配を感じる。両手で顔を覆い視界が塞がっている徹には、レンの姿が確認できない。徹の背にレンの手の平の感覚がある。二週間前も同じように背をさすって慰められた。泣いてばかりいて申し訳ないと思いつつも溢れ出る涙は止まらない。
「どうした……? 大丈夫?」
電話で喋りながら突然徹が泣き始めたのでさぞかし驚いたのだろう。レンまで泣きそうな声だ。
徹は顔を覆っていた両手を外し、勢いのままレンに抱きついた。力強く抱き締め、首筋に顔を埋め興奮を抑えきれない声を出す。
「決まった……!!」
「え?」
「デビューが決まった!!」
「うそ……」
「本当だよ!!」
埋めていた顔を上げ、目の前にいるレンの瞳を見た。レンの大きな瞳の中に目と鼻を真っ赤にさせた自分の顔が映っている。泣いている自分はこんな顔なのか、とどこか冷静に思いながら徹は叫んだ。
「夢が叶った!!」
その言葉にレンの表情も歪んだ。溢れそうになる涙を誤魔化すかのように、今度はレンが徹を抱き締める。
「すげー! 徹すげーよ!!」
「子供の頃からずっとなりたかった漫画家になれるんだ」
「うん」
「短期連載だけど、俺の作品がレン以外の読者に読んで貰えるんだよ」
「うん、すげーって。ホントにすげー」
見えないが、くしゃくしゃの笑顔で言っているレンの表情が浮かぶ。レンも一緒に喜んでくれている事が嬉しくて、徹も泣きながら声を出して笑った。人は涙をこぼしながらでも笑える事を徹は初めて知った。今後の人生でまたとないこの感情を、徹は絶対に忘れまいと思った。
効き目の悪い暖房の音と、視聴されずに流れるワイドショー番組の音が抱き合う二人の間を流れる。
「俺も夢へ向かって頑張る。マジで頑張るからな」
徹をきつく抱き締めながら、一人言を呟くかのようにレンは言った。
徹は目を瞑った。
雪化粧をした富士山の山頂が瞼の裏に浮かぶ。今度一緒に帰ろう、と言ってくれたレンのメッセージを、徹は思い出していた。
だが結局、徹はレンと一緒に静岡へ帰ることはなかった。徹が漫画家として成功すればするほど、比例するかのようにレンは落ちぶれていった。
それはまるで、夢へ向かって頑張ると呟いたレンの言葉をレン自身で踏みにじっているかのようだった。
*
今晩から明日未明にかけて寒波が訪れ、都内では雪が降るらしい。ダイヤの乱れに備えて早めに帰宅するよう、店内で流れるラジオが注意喚起をしている。
「雪か……。やだな」
徹の向かい側に座る木元が、ネームを読みながら呟くように言った。
徹は今、出版社の近くにある商店街の喫茶店にいる。多くの古本屋が並ぶ昔ながらの商店街の一角にある木元行きつけの喫茶店で、最も好きな店の一つだと言う。ドアには鈴が付いていて、開閉の度に美しい音を出した。店内はコーヒーの香りとタバコの匂いが充満している。今時分煙ではないこの店のどこがそんなに気に入っているのか、木元のセンスが徹には分からない。
時刻はまだ15時だ。夜から雪が降るとはとても思えないほど、外は晴れていた。
徹はコーヒーを一口飲んだ。自宅でいつも飲んでいるインスタントコーヒーとは違う、深い味わいのあるコーヒーだった。
「板垣さん、ここの描写なんですけどね」
木元はネームの一コマを指さした。徹はコーヒーを味わっていた口元を引き締め、カップをテーブルに置き、ネームを手に取った。
「ここ……なんか変ですかね?」
木元が指さしたコマはストーリー上、あまり重要ではない描写だ。所謂モブキャラと呼ばれる超脇役キャラが主人公に対して台詞を述べているシーンである。ギャグ的なもので、特に突っ込まれるほどのシーンではない。
だが木元は顎を指で触り、とても大切なシーンであるかのように言った。
「この人は、なぜこの台詞を主人公に言ったんですか?」
「え?」
「理由、あります?」
「いや……あの、特には。漫画のテンポを良くする為に言わせただけというか……」
木元の鋭い眼力に萎縮するように、モゴモゴと言い訳をすると、木元は溜息を付いた。
「板垣さんダメですよそれじゃ」
「え……なぜでしょう。ダメと言われるほど、あまり意味がないシーンですが……」
「意味がないシーンを描いてはダメです」
ピシャリと言われ、徹は黙った。徹の反応を観察するように木元はじっと見つめてきた。担当になる前は一度も目を合わせてこなかった木元だが、担当になってからは徹を鋭い眼光で射貫くように見てくる。その視線は、徹への期待からくるものだ。
「漫画のキャラクターを現実に生きている人間だと思ってください。一人一人のキャラクターには主人公と出会う前にもきちんと人生が存在しています。ポンと魔法のように主人公の前に現れる訳じゃない。だからこそ全てのシーン、全てのキャラクターが発する言葉には、必ず何らかの意味を持たせるべきです。もちろん台詞の意味は後付けでも構わないけど、なぜこの台詞を言ったのか、なぜこの行動を取ったのか、その背景や、主人公以外のキャラクターの人生をひとつひとつ丁寧に考えてみてください。例えそれがどんな脇役であろうとも。そうすれば、漫画に深みが生まれてくる」
徹は木元の話しを聞きながら、指で指摘を受けた脇役キャラを触った。流れで何となく描いてしまったキャラで、もう一度描けと言われたら同じように描ける自信がない。それ程影の薄いキャラクターだ。だが、このキャラクターの人生を考えろと言われると、途端に愛情が芽生えてくる。
「モブキャラと決めつけるのは読者の方で、作者が漫画に登場するキャラクターを適当にあしらってはダメです」
「なるほど……」
「僕の言ってること分かりますか?」
「分かります。登場人物の肉付けを、もう少ししっかりしようと思いました」
「そうですね。隅々まで読むファンの読者は、こんな脇役でも愛情を持ちます。期待を裏切らないようにしましょう」
「わかりました」
木元はカップの底に残っているコーヒーを飲み終えると立ち上がった。会計票を持ってレジへ向かう。どうやら今日の打ち合わせはここまでのようだ。いつも木元は唐突に打ち合わせを終わらせる。
「あ、お代を」
「大丈夫ですよ。会社の経費で落ちますから」
木元が仙人のように真っ白な髭を生やした店主にお金を渡すと、店主はニコリと笑いながら「おまけ」と小さなチョコレート菓子を木元にくれた。
「いつもすみません」
木元がそう言いながら頭を下げた。
「そこの彼にも」
と店主は木元の後ろに立つ徹にもチョコレート菓子をくれた。チョコレート菓子は金色の包装紙に包まれていて、スーパーではあまり見かけないものだ。渡す時、店主は徹に「頑張ってよ」と小さな声で言った。会釈をしてお礼をすると、店主はまたニコリと優しそうに微笑んだ。もしかすると店主は、ここで木元と共に打ち合わせをする作家たちを何人も見てきたのかもしれない。こうして小さく声援をくれる店主に、胸が熱くなった。そして、木元がこの喫茶店を気に入っている理由が、少しだけ分かった気がした。
外へ出ると、空気が冷たく、ツンと鼻が痛んだ。
「あー、これは確かにもうすぐ雪が降るな」
木元が空を見上げながら呟いた。徹も見上げると、空は快晴で雪が降るとはとても言えない。
「まだ晴れてますけど」
「僕山形出身でね、わりと豪雪地で育ったんですけど、雪が降る前触れって何となく分かるんですよ。空気の匂いが変わる」
「へー。豪雪地帯出身の人は皆、雪が降る前触れって分かるもんなんですか」
「はは。さぁ、それはどうだろうな。僕の特殊能力かもしれませんね」
不思議がる徹をからかうような口調で木元は言った。
徹は、笑う木元を久しぶりに見た。思えば徹は木元の事を何も知らない。山形出身だという事も今知った。ふと、木元の左手の薬指に指輪が光っている事に気がついた。結婚しているのか、と徹は内心驚いた。木元はコミュニケーション能力が高いとはとても言えない。常に真顔で徹にダメ出しをする木元が、奥さんの前では今のような笑顔を見せているのかと思うと不思議だった。
木元は白い息を吐きながら、一人言のように言った。
「東京って色んな人がいますよね」
また表情を真顔に戻し、木元は続けた。
「さっきの店主、性別はどちらだと思いますか?」
「え、普通に男でしょ」
「実はね、女性なんですよ。性転換手術をされて、今ではどっからどう見ても男性ですがね。ただ毎月、男性ホルモンの注射を打ちに行っているそうです」
あの仙人のような白髭の店主が、と徹は驚いた。すると唐突に、木元が徹を覗き込み指を指した。
「漫画のネタになると思ったでしょ?」
「え?」
図星を言われ、徹はぎくりと肩を上げた。ネタになるなど口にする事は失礼に当たると思い言わなかったが、一瞬で店主を頭の中でキャラクター化させてしまっている自分がいた。そんな徹を見抜くかのように木元はやっぱりね、と頷いた。
「大丈夫ですよ。どの漫画家も今の話しを聞けばネタになると思うし、話しを降ったのは僕です。意外と近くに、僕たちとは違う感覚で生きてる人ってたくさんいて、それが漫画のネタになるんですよね」
徹はすぐにレンの事を思い浮かべた。
最近のレンは妙に色っぽくなった。その色気の理由を徹は考えないようにしていた。俳優の仕事がある訳でもないのに、一晩中どこかへ出歩き、早朝に帰ってくる日もあれば一日中帰って来ない日もある。
「僕の雪を察知する特殊能力の事も、漫画のネタになりそうじゃないですか?」
「確かに」
そう答えると、木元はまた笑った。木元の結婚生活の方がネタになる、とも思ったが口にしなかった。そんな事を言えばまた木元の表情が真顔に戻ると思ったからだ。今日は木元の笑顔を二度も見れて、少しだけ得した気分になれた。
別れ際、木元から宿題を出された。指摘を受けたキャラクターの家族構成や生い立ちを次回の打ち合わせまでに考えてくる事。木元に「なぜ?」「どうして?」と質問された時、どんな事でも具体的かつ明確に答えられるようにしておく事。この二つだ。
「ご自身を落語家だと思ってください。漫画を描く時、まるで落語のようにコロコロとキャラクターになりきって描いてみると、きっとうまくいきます」
そう木元にアドバイスを受けた。誰にでも出来る簡単な事でもあるかのように話す木元に、徹は苦笑いした。
「俳優の卵の友人に、キャラクターになりきる方法を聞いてみます」
「俳優の卵! 良い友人をお持ちじゃないですか。まさに漫画のネタになりそうな」
徹はもう一度苦笑いをして木元と別れた。
駅構内は、雪の予報の所為で早めに帰宅を試みる人たちでいつもよりも混み合っていた。普段だったら余裕で座れる時間帯なのに、今日は座れなかった。電車でつり革に揺られながら、徹は目を瞑った。
喫茶店で受けた木元からの指摘を反芻している内に、徹は昔の事を思い出していた。
幼い頃、この地球上で時を刻みながら生きている人間は自分だけかもしれないと妄想した事がある。他人は徹の視界に入る瞬間だけ人間に化け、徹の視界から外れた瞬間、時が止まる。まるで彫刻のように。
それは家族も同じで徹が一人になった瞬間、父と母は人間ではない何かの姿に戻り「今日も徹にバレなかったね」と話して一日を終えるのだ。
大人になった今なら、凄く馬鹿げている妄想だと笑えるが、子供の頃はその妄想をする度に不安に襲われ眠れなくなった。
だが成長するにつれ、時を刻んでいるのは徹だけではないと分かってくる。徹がこうしてつり革に揺られている間も、周囲の人間には別の時間が存在している。先ほどまで会っていた木元も今頃は会社へ戻り、徹の知らない同僚と話をして、徹の知らない上司に頭を下げ、徹の知らない妻の元へ帰るのだ。そう、最近まで徹という人間が存在している事も、木元は知らなかったのだから。
漫画のキャラクターも同じなのだ。漫画のコマに登場しなくとも、キャラクター達はそれぞれの人生を歩んでいる。登場しない間、キャラクターは彫刻のように時が止まっている訳ではない。
今まで登場させた漫画のキャラクターを思い浮かべ、それぞれの人生を考えた。目を瞑りながら漫画の妄想にどっぷりつかる。
そうすれば、あっという間に最寄り駅に到着してしまった。こうして妄想していると満員電車が苦と感じない。そう思うと、ある意味自分は妄想に浸れることで得な人生を歩んでいるのかもしれない。
あぁ早く、漫画が描きたい。
最寄り駅に到着した後も、ボーッと妄想に耽りながら道を歩いた。気がつけば、アパートの前に到着していた。疼く右手を堪えながら階段を登る。
レンは昨晩からどこかへ出掛けたっきり帰って来ていない。木元と打ち合わせの為午後から家を留守にする旨をメールで送ったが返信はなかった。
帰ってきたのだろうか。
鍵を差し込むと手応えを感じない。ドアが空いている。
「レン?」
声を掛けながら、家のドアを開けて中に入った。
その瞬間、いつもの家の匂いと違う事に気がついた。レンが絶対に付けないような甘ったるい香水の匂い。朝の女性専用車両の前を通る時に嗅ぐような、キツイ化粧の匂いもする。玄関にはバラバラに脱がれたレンの靴とは対照的に、ピンヒールの靴が一足、玄関の向きに揃えて並んである。
「……レン?」
もう一度声をかけた。家の中へゆっくりと入り、床が軋んだ音を立てた時、レンの部屋の扉が勢いよく開いた。
「おかえり」
部屋から顔を出したレンは呼吸が乱れていた。額にはしっとりと汗が滲んでいる。髪はボサボサに崩れ、白色のパーカーはフードの位置がずれている。いかにも慌てて着たような感じだ。目眩を起こしそうな程、とてつもない色気を放っている。
「……誰かいるの?」
「いや……」
否定しようとするレンの隙間から顔を傾け部屋の中を覗くと、裸の女性がベッドの中で布団を巻き、心配そうにこちらを眺めていた。
一瞬で徹の血の気が引いていくのが分かった。ぐにゃりと徹の視界が歪む。
「……何、してるの?」
精一杯に出した声でレンに問い質したが、レンは答えずに言った。
「ごめん徹」
嫌な鐘の音のようにガンガンと徹の脳内に音が鳴る。
「どこかで時間潰してきてくんない?」
小声を放つレンの言葉が徹には大きく響いて聞こえた。
予報通り、夜から都内では雪が降った。牡丹雪が空から舞い、あっという間に街を銀色の世界に染める。徹が辿ってきた道が分かるくらいには道路に雪が積もっていた。
家の電気が灯っている。子供が雪が降る景色を家の中から眺め、はしゃいでいる光景が見えた。徹のことを指さしている気がした。真っ白に降りしきる雪の中を徹は傘もささずにトボトボと歩いているからだろう。
徹の頭が雪で白く染まっている。それを払いのけるように一度大きく首を降った。
ポケットに手を入れると、喫茶店の店主から貰ったチョコレート菓子が入っていた。それを口の中へ放り、ゆっくりと舐めて溶かしていく。それなのにチョコレートの甘味は感じなかった。
徹は必死に漫画の世界へ没頭しようともがいていた。妄想していれば直ぐに現実から逃避できる。満員電車の車内のように。
だが浮かんでくるのは裸の女性を抱くレンの姿だ。レンの腰使いに嬌声を上げる女性だ。
今頃レンは抱いている。女性の胸を揉み、膣の中に勃起したペニスを入れている。
自分の下品な妄想に吐き気を催し、そのまま立ち止まって頭を抱えた。色々な考えが頭の中をぐるぐると巡る。
あの女性は一体誰だ。
彼女? 友達? 役者の仲間?
一瞬しか顔を見ていないが、30代半ばから40代の、年上の女性に見えた。
耳鳴りがする。心臓の音が落ち着かない。胸を抑え、一度大きく息を吐いた時、背後から声を掛けられた。
「大丈夫ですか?」
ゆっくりと振り返る。傘をさした女性が立っている。夜なのと雪が降っている所為で視界が悪く顔が良く分からない。
「え? 板垣さん?」
ぼんやりと歪む徹の視界がはっきりとしずるの姿を捉えた時には、徹はしずるに身体を支えられていた。
「板垣さん大丈夫ですか? 歩ける?」
その言葉で自分は目眩を起こしたのだと自覚した。
「ごめん、ちょっと気持ち悪くて」
自分でも驚くほど声が弱々しかった。寒さで手が震える。
「こんな雪の日に傘もささずにどうしたんですか。私の家、すぐそこなんです。とりあえず行きましょう」
しずるの優しい声に、徹の眼にじんわりと涙が滲んだ。最後に見た時は肩まで伸びていたしずるのセミロングヘアは、ショートヘアになっていた。
しずるが暮らすマンションは白を基調とした綺麗な3階建てのマンションだった。
しずるの部屋は2階で1K7畳、風呂トイレは別で家賃は9万5千円。上京した時からこのアパートで暮らしているらしい。
中に入るとラベンダーの香りがした。玄関に置かれてある脱臭剤の香りだった。先ほど嗅いだ甘ったるい匂いと比べれば遙かに良い匂いだと思った。
しずるの部屋は暖房が付けっぱなしになっていて、部屋の中はぬくぬくと暖かった。凍えるほど寒い外を歩いていたので、部屋に入った途端に自然と安堵の息が漏れた。
「適当に座ってください」
しずるに言われ、徹は茶色の二人がけソファと棚付きローテーブルの間の床に直接座り胡座をかいた。ローテーブルはガラス製で、棚に置かれてあるファッション雑誌が透けて見える。茶系のモダンに統一されたしずるの部屋はとても綺麗に片付けられ、洒落ている。
「紅茶でいいですか?」
「何でも……」
しずるはキッチンでお茶を沸かしていた。カチャカチャと食器を並べる音がする。
本棚に海外のファッション誌がずらりと並べられている。ラックに立て掛けられた雑誌の表紙になっている男性モデルがどことなくレンと似ていて、じっと眺めながらしずるを待った。
「どうぞ」
ローテーブルに置かれたティーカップは北欧デザインで紅茶の中にはレモンが浮かんでいる。そういえば昔、長谷川とデートした時に入ったカフェが北欧デザインの食器を使っていた。長谷川が、一人暮らしをしたらこういう食器を揃えて生活がしたい、でも高いんだよね、と言っていた事を思い出した。
横には可愛らしいイチゴの絵が描かれたしずるのマグカップが置かれた。マグカップを手に持ちフーと息で紅茶を冷ましながら、しずるは尋ねた。
「どうしたんですか?」
徹はじっと見ていた男性モデルから視線をずらし、項垂れた。
しずるは徹が話し始めるまで待った。時計の秒針がやたら大きく聞こえた。
「なんだろう……裏切られた気持ちなんだ」
徹がポツリと言った。
「でも、その裏切られたという感情はとても身勝手な感情で……」
「……誰かに、フラれたんですか?」
「フラれた、と表現する事もおこがましい程に身勝手なんだ……。構図としては、ただ僕が勝手にショックを受けてるだけなんだよ」
しずるはそれ以上聞いてこなかった。よく分かっていないのかも知れない。徹ですら、この感情をどう言語化していいのか分からなかった。
「……でも、びっくりしちゃった」
しずるは感情を切り替えるように明るい声で言った。
「愛用してるリップが切れちゃって、それを買いにコンビニに行っただけなのに、帰り道でフラフラ歩く板垣さんと会うんだもん」
「……リップ?」
「そうコレ」
しずるは履いているジーンズのポッケから、封が切られたばかりのリップクリームを取り出した。蓋を開けてリップを伸ばし、徹の鼻先に持ってきて匂いを嗅がせる。
「良い香りでしょ?」
しずるが言うように、柑橘系の良い香りがした。気持ちが癒される匂いだ。どこかで嗅いだことがあると思えば、レンが付けている香水の香りと似ていた。
「もう私、コレがないと生きていけないんです。買いに行くのなんて別に明日でもいいのに、切れたと思ったらいてもたってもいられなくて、こんな雪の日に買いに出ちゃった」
「……すごいね。リップの為だけに雪の中買い物に出かけるなんて僕には考えられない」
「私の中でリップって些細な物のようで、実は違うんです。私にとっては本当になくてはならない物なんです。だからといって常日頃リップの事を考えている訳ではないんですよ。でも、何か不安な事があるとすぐにリップをポッケから出して、唇に塗っちゃうんです。唇が乾燥してるわけじゃないんですけど、塗ると安心するんですよね。完全にこのリップクリームに依存してるんです」
ふふ、と笑いながらリップを唇に塗った。
「リップクリーム依存症です」
リップクリーム依存症。
その言葉が、妙に徹の頭の中に残った。
「僕も……リップクリーム依存症と同じかも知れない」
徹はポツリと呟いた。しずるが首を傾げている。
リップなしでは生きられなくなるほど依存してしまっているしずるに対し、ただの物質であるリップはしずる以外の人間に使われても何も思わないし感じない。それなのに柑橘の甘い匂いを放ち、唇を潤わせ、しずるを誘惑する。雪の日に買いに出なければならない程、しずるはリップに振り回されている。
そんな身勝手なリップクリームとしずるの関係性が、レンと自分の関係性に似ていると徹は思った。しいて違う点を挙げるならば、レンをリップの様に持ち歩く事ができない点だ。
「……そうだよ。最初から本当は分かってたんだ……」
自分の中の気持ちを整理するように、徹は誰に向けるでもなく言った。
「僕はレンに依存してるんだよ……」
別れた長谷川もそれに気づいていた。
中学時代、長谷川と付き合ってもレンに恋人が出来ていないかいつも気にしていた。彼女が傍にいるのに、目で追いかけているのはいつもレンだった。レンの下足箱に入っていた女子からの手紙をこっそり破り捨てた事もある。
自分は女の子と付き合っているくせに、レンが誰かと付き合う事はどうしても許せなかった。
自分に恋人がいることをレンに知られた時、レンは寂しそうにした。その寂しそうなレンの表情が、徹は嬉しかった。どうかその寂しいと思う感情が一生続きますように、レンにいつまでも彼女が出来ませんように、と神に祈りを捧げた。とても歪んでいる感情だと自覚はしている。
『徹はいつも私じゃなくて、レン君を見てるよね』
長谷川に言われたこの台詞は、正に図星だった。
気づかないふりをしていた。
長谷川に突っ込まれても鈍感なふりをしていた。
思えば小学校三年生の昼休み、初めてレンに声を掛けられたあの瞬間から、徹の心の中はレンに浸食されているのだ。
もちろん長谷川を好きな気持ちに嘘はなかった。だからこそレンと別の高校へ進学した。それでも無意識からくるレンへの依存は長谷川を幾度となく傷つけた。だから別れを切り出されたのだろう。
レンの呪縛から逃れたいと思いながらも、上京してレンと再会した時に感じたあの喜びは、その思いとは矛盾していた。
「レンってルームシェアしてる人? この前ばったり会った人ですよね?」
「……そう」
「そのレンって人に恋人がいたんですか?」
「分からない。考えたくもないんだ」
考えたくもない。だが現実は、徹の知らない年上の女性とレンは今セックスをしている。確実に。
最近のレンの色気はそれだと気づいてはいたのだ。だが狂いそうになるくらいの嫉妬心に怖くなり気づかない振りをしていた。
「……大丈夫ですか? 顔が真っ白ですよ」
「……ごめん、迷惑掛けて」
「気にしないでください。何か美味しい物でも食べたら、気が紛れるかも」
しずるはピザを注文した。雪の日で配達が混んでいるのか、ネットで注文してから2時間近く待たされた。
食欲など失せていたのに、半ばやけくそで胃の中に詰め込んだ。シーフードピザと照り焼きチキンピザ。味はほとんど分からなかったが、それぞれ2枚ずつ食べれた。しずるが冷えたビール、ワイン、ハイボールを次々に開け、コップが空になる毎に注いだ。大嫌いなはずの酒を勢いのままに飲んだ。
気がつけば、部屋の電気は付けっぱなしの状態で、しずると共に雑魚寝をしていた。
うっすらと眼を開けると、ぐにゃりと天井が歪んだ。気持ちが悪い。どのくらい飲んだのか、どうやって眠りについたのか、何も覚えていない。将来ファッションデザイナーとして世界に羽ばたきたい、と壮大な夢を語るしずるを、ぼんやりとした頭で聞いていた事だけは何となく覚えていた。
喉が驚く程に乾いていた。口の中の水分を全て持って行かれてしまったような感覚だ。
フラフラと千鳥足で立ち上がる。キッチンの横にウォーターサーバーがあり、適当に食器棚からコップを拝借し、一気に水を三杯飲んだ。四杯目をコップについで、コップを持ちながら寝ているしずるをまたぎ、窓の結露を手で拭いて、外の様子を伺った。雪は既に止んでいたが、まだうっすらと地面に積もっている。足跡が沢山ついて茶色く汚れた雪は、美しさと大分かけ離れていた。
壁に掛けられた時計を見ると、深夜2時を回っている。普段だったら机に向かい、漫画を描いている時間だ。ほぼ一日、絵を描かなかった。満員電車の中で考えた妄想がまだ形に出来ていない。それに気づいた途端、無性に絵が描きたくて堪らなくなった。
何でもいい。とにかく絵が描きたい。
ウロウロしているとベッドの横に隠すように置かれた古紙類入れを発見した。そこから裏面が白紙のチラシを見つけ出し、ペン立てからボールペンを借りた。飲み物や食べカスで散らかっているセンターテーブルの上を片付けて、絵を描いた。詫びの意味も込めてしずるの似顔絵にしよう、と黙々とペンを走らせる。ショートカットヘアのしずるではなく、馴染み深いセミロングヘアのしずるだ。髪を揺らして、楽しそうに笑うしずるの顔を紙一面を使って、丁寧に描き上げた。
描き終えると満足感でいっぱいになった。眠気が襲ってきたので元いた位置に戻り、そのまま目を瞑った。
「……板垣さん」
誰かが肩を揺らす。それがしずるだと分かるまでに数秒かかった。
目を開けると、ほぼすっぴんに近いしずるが徹を覗き込んでいた。
「おはようございます」
しずるの声はかすれていた。
「……おはよう」
起き上がると、毛布が掛けられている事に気がついた。しずるが掛けてくれたのだろう。硬いフローリングの上で寝たせいで身体の節々が痛い。大きく首を回すとボキボキと音が鳴った。
窓から光が射している。外からは子供達の遊ぶ声が聞こえた。今日は土曜日だ。既に昼近い。雪は全て溶けてしまったのだろうか。
「コレ、板垣さんが描いたんですか?」
しずるは徹が深夜に描いた似顔絵を持っていた。
「あ、描いたかも……」
「これ、私ですよね?」
「多分そう……」
「描いたこと、あまり覚えてないんですか?」
夜中に起きて描いたことは、何となく覚えている。だが、どんな構図でどんな顔をしたしずるの似顔絵を描いたかまでははっきり覚えていなかった。
「酔ってたから。でも何だかとても……」
「凄く上手」
何だかとても下手くそだ、と徹は言おうとした。だが言わせまいとするかのようにしずるが言葉を被せてきたので、徹は口を噤んだ。
しずるは、その絵をとても愛おしく見つめていた。徹からすれば、もう一度描き直したいと思う程に酷い出来であるのに。
「また……髪伸ばそうかな」
しずるはセミロングヘアの自身の似顔絵を眺めながらポツリと呟いた。
「きっと似合うよ」
徹がそう言うと、しずるは徹の方を向いてにこりと微笑んだ。その笑顔は、徹が描いた笑顔のしずるとは似て非なるもので、やはりもう少し上手に描けば良かったと思った。
「板垣さんってゲイなんですか」
「え?」
唐突にしずるは質問した。単刀直入に聞かれることは初めてで、徹は困惑し目を左右に揺らした。
「何で急にそんな事聞くの?」
「一晩女性と一緒にいて、お酒も入ってたのに何もしないって普通はないと思いますよ」
「……そうかな」
「それに昨日、レンって人に依存してるって言ってたじゃないですか。ずっと気になってたんです。何で私じゃダメだったのか」
真っ直ぐに徹を見つめてしずるは尋ねた。しずるの疑問に、何故か徹の心臓はドキドキと音を立てる。冷や汗で手が滲んだ。
なぜしずるではダメなのか。
なぜ長谷川ではダメだったのか。
「僕はゲイかもしれない……」
そして少しだけ間をあけて「でも」と付け加えた。
「レンが男でも女でも、そんな事は僕にとってどうでも良いんだ。例えレンが女性でも、僕は同じように悩んでいた」
「それじゃバイセクシャルって事ですか?」
「……分からない。僕はレン以外の人に魅力を感じない。もしレンが誰かと結婚すれば、僕は生涯孤独を貫くと思う」
そうだ。自分がゲイだろうが、バイセクシャルだろうが、そんな事などどうでもいいのだ。自分はレン以外の人間に興味がないのだから。
「……生きづらいですね」
「そうだね」
徹の全てはレンを軸に回っている。レンが死ねば徹も自ら死を選ぶだろう。そんなレンを中心に人生を歩んでいる生きづらさは自覚している。
しずるは哀れむように徹を見ていた。そして納得するように何度か頷いた。
「私がダメなんじゃないんですね。レンっていう人以外、皆ダメなんですね」
「……君は魅力的な人だと思うよ」
徹がそう言うと、しずるは少し泣きそうな目をした。
「私、板垣さんの事、まだ好きなんですよ」
声を震わせながら言うしずるに、徹はただ「ごめん」と謝る事しか出来なかった。
*
アパートへ戻ると女性の姿は既になかった。だが、まだ女性の残り香がある気がして、帰ると同時に徹はレンの部屋以外の窓を全て開けて空気を入れ換えた。
冷たい空気が通る中、レンは何も言わずにリビングのソファーで足を抱えて、気まずそうに徹の様子を眺めていた。
「ずっとどこにいたの?」
レンがか細い声で徹に尋ねた。徹はレンをじっと見ながら答えた。
「この前会った女の人いただろ。彼女の家に泊めて貰った」
レンは黙った。拗ねているようにも見える。
「泊めて貰っただけで、何もなかったよ」
付け加えるように徹が言うと、レンは心配そうな顔で言った。
「本当に?」
「本当だよ」
レンは立ち上がり、徹の手首を優しくにぎりながら徹の腕を揺らした。伏し目がちに子供のように甘える仕草をするレンは、酔っ払って失態した後シラフに戻った時と同じ顔をしている。
「ごめん、徹。怒ってない?」
「怒ってないよ」
「もう二度と女を家に呼ばないから」
「うん、わかった」
徹が優しくレンの頭を撫でてやると、レンは安心したように笑った。
「徹が心配で一睡もできなかった」
「僕を外へ出て行かせた奴が言う台詞じゃないから」
そう言って互いに笑った。
レンが質問したのだから、徹も質問をする権利が発生する。女の素性、どこで知り合ったか、二人の関係性。レンに聞きたいことは山ほどある。
だが徹はレンに何も聞かなかった。徹が質問出来ないことをレンは無自覚ながらも見抜いているのかもしれない。だからこそ、レンの方が先に徹へ質問したのだ。
依存している。レンへ依存している。抜け出そうとすればするほど、深みは増してく。まるで蟻地獄のように。
*
その日、徹は夢を見た。
小学6年生の時に行った日光の修学旅行の夢だ。徹とレンは同じ班だった。宿泊先のホテルで皆と温泉に入るのをレンは嫌がっていた。ごねるレンを徹は班長として必死に説得していた。
「ほら。行こうよレン。皆先に行っちゃったよ」
「やだ。絶対に行かない」
「班ごとに入れって先生が言ってたし、集団行動しないと先生に怒られるよ」
「いい。怒られても」
「お風呂入らないと汚いよ」
「部屋の風呂に入るもん」
レンは誰にも裸を見せたがらない。皆の前で裸になる事を常に避けていた。プールの授業は絶対に見学だったし、体育の授業で体操服に着替える時もレンはわざわざトイレで着替えていた。
それを分かった上で説得を試みたが、やはり無理だと徹は溜息をついた。
「じゃ、具合悪いって言っとこうか?」
「え?」
「そんなに嫌なら先生に適当に言っとくから、レンは部屋の風呂に入りなよ」
諦めてレンを置いて部屋を出ようとした時、手首を掴まれた。
「徹も具合悪いって先生に言ってさ、俺と一緒に部屋の風呂に入ろうよ」
徹はレンの言葉に驚いた。徹底的に隠す裸をなぜ自分にだけ見せようとしてくれるのか分からない。だが純粋に特別扱いが嬉しかった。何の迷いもなくレンの誘いを受け入れた。
脱衣所でゆっくり服を脱いでいくレンを見ながら徹は緊張していた。下半身が段々重たくなっていくのを感じる。互いに裸になり向かい合った。レンの裸を見て徹はギョッとした。レンの胸、脇腹、二の腕、太ももにはいくつもの赤い痕が付いていたからだ。その痕が一体何を意味するのか小学生の徹には分からなかったが、この痕を見られたくないからレンは皆の前で裸になるのを嫌がっていたのだと理解できた。
「痛そうだね」
徹はそっとレンの赤い痕に触れた。
その瞬間、一気に腰が疼いた。血流が全てそこに向かっていくように感じる。狼狽する徹をよそに、レンはじっと徹の下半身を見ていた。
「あんま見ないで。なんでこうなっちゃったのか分かんない。恥ずかしい。ごめん」
泣きそうになっている徹にレンは優しく微笑んで言った。
「大丈夫だよ」
レンは徹の手を取り、浴室に入るとシャワーを勢いよく出した。モクモクと湯気が立つ。
「皆、そうなるんだ」
レンの声が響いて聞こえる。浴室だからなのか、夢だからなのか。
「あのね、こうすると気持ち良いって教えて貰ったんだ」
「レンやめて。汚いよ」
「大丈夫。汚くない。俺のもほら、触ってみて」
湯気が浴室全体を曇らせ、視界が悪くなる。レンの顔もよく分からない。
ただ下半身に感じるレンの手の感覚だけは分かった。そして自分の手の感覚も分かった。
気が遠くなる程気持ちが良くて、目を瞑ると星がチカチカと弾けた。それは小学生の徹が初めて体感した気持ち良さだった。
*
徹は漫画を描いた。ひたすらに漫画を描いた。現実を見ないように、漫画の世界へと没頭し続けた。
解放された窓から爽やかな風が部屋に流れてくる。開花予想よりも早く桜が咲きそうだ。寒い日と暖かい日を繰り返しながら、確実に春は近づいてきている。
来月から徹の短期連載の漫画が雑誌に掲載される。ずっと木元と二人三脚で何度も打ち合わせを重ねてきた。木元の「なぜ?」「どうして?」という質問にもすぐに明確に答えられるようになった。今の徹は漫画に対して自信しかない。
ガチャッという玄関を開く音。その音に、徹の右手は止まった。漫画の世界へ入り込む徹をいつも現実へと引きずり戻すのはレンだ。
ふーっと息を吐き、椅子の背にもたれて時計を見た。
午前8時。今日も朝帰りだ。
「ただいま」
その声に、徹は部屋のドアを開けた。朝帰りのレンの色気は凄まじい。
「おかえり」
最近、レンの俳優としての仕事は一つもなくなった。熱心に通っていた事務所の演技レッスンも、今では全く行っていない。
レンはチラリと徹の顔を見ると、そのまま目を逸らし、リビングへと入った。徹もレンの後に続く。
「あー、疲れた」
レンはソファにどかりと座り、首を上に向けてもたれた。徹は黙って冷蔵庫を開け、アイスコーヒーをコップに入れる。
目を瞑り寝息のような呼吸を続けるレンの頬にアイスコーヒーのコップを当てた。レンは目を瞑ったまま徹の手ごとコップを掴んだ。徹の手を掴むレンの手は驚くほどに温もりがある。
「冷たくて気持ちいい」
それは掴んでいる徹の手を指しているのか、頬に当てているコップを指しているのか。
徹は黙ったままレンを見つめた。
「何? 無言で。怖いんだけど」
レンは掴んでいた徹の手を離した。アイスコーヒーを受け取り、一口飲む。喉が上下する様が妙に艶っぽく見えて、その喉の動きに合わせるように徹も唾を飲んだ。
「そうだ、ちょっと金貸してよ」
無言で立つ徹を見ないようにして、レンは軽い口調で言った。
「どうしても金が必要でさ。頼むよ」
徹はレンの隣に座った。徹もレンの方は見ずに尋ねた。
「いくら?」
「三万くらいかな」
少し前から、レンは徹に金を借りるようになった。初めは千円程の小さな額だった。貸す毎に額は増えてきて、今では総額十万はレンに金を貸している。
まだ漫画家としてデビューした訳ではない徹にとって、その金は大事な画材資金になるはずだった。
だが、徹はレンの頼みを断らない。漫画に集中する為に塾講師のバイトを週二に減らし貯金を切り崩して生活しているにも関わらず。
「……いいよ」
「ありがとう。助かるよ」
一体何の助けになっているというのか。何故レンはホッとした顔をしているのか。貸した金が一体どこに消えているのか。徹は何も知らない。
馬鹿げていると分かっている。
だがどうする事もできない。
「金は貸すけど、その代わりさ」
「ん? 何?」
ここでレンはようやく徹を見た。顔を覗き込むように見てくるレンの顔は無邪気で、醜さなど何も知らないように見える。泣きたくなるのを堪え、徹は言った。
「その代わり……」
「うん」
「久しぶりにモデルになってよ。どうしても上手く描けないシーンがあるんだ」
徹の頼みにレンは目尻に皺を寄せてニコリと笑った。
「うん、いいよ」
春の風がカーテンを揺らす。
レンは椅子に座り、足を組んでいる。揺れるカーテンを背景に椅子に座るレンを見ているとまるで絵画のようだ。徹はスマホを手に持ち、レンの周囲を回りながら写真を撮った。
「モデルするの久しぶりだな。最後にしたのいつだっけ?」
「半年前だよ。夏が終わったばかりの秋になる頃」
「あぁ、そうだ。金木犀の香りがした」
「そう」
金木犀の香りと夏が終わってしまった事への焦りを徹は覚えている。あの時はまだ漫画家という夢は果てなく遠くに感じていた。レンの方が順調に未来を歩んでいるように見えていた。
「辛かったなー、あの時の体勢。今日は楽だ」
カシャッ。
その瞬間、スマートフォンのシャッター音がやたら大きく聞こえた。同時に徹の頭の中にある硬い紐がプツリと切れた感覚が分かった。
徹の手は止まった。
急に動きを止めた徹にレンは首を傾げた。
「もう終わり?」
「レン」
レンの脳天気な声に対し、徹は鋭い口調でレンの名を呼んだ。その声に緩んでいたレンの表情が引き締まる。
「何。どうしたの?」
「夢は諦めたの?」
ストレートに聞いた。言葉を濁らせず。真っ直ぐにレンの目を射貫いて。
レンの大きな瞳が揺れる。
「何? 金借りたから説教?」
半笑いで誤魔化すような言い方をするレンに、徹は真顔を崩さずに答えた。
「違う」
「じゃあ何だよ。急にウゼェんだけど」
「レンは今、何をしているの?」
間が空く。レンの瞳がまた大きく揺れた。狼狽えているようにも見える。レンは下唇を噛み徹の質問には答えない。
夜遅くに家を出て朝帰りをするレン。朝帰りをした時のレンの色気は凄まじい。そして、服に染み付いた女の化粧と甘ったるい香水の匂いが毎回違うことに徹は大分前から気がついている。
もう、限界だった。
「芝居をするレンが、もう一度見たいんだ」
半年前に見た舞台で輝くレンは素晴らしかった。レンが演じるキャラクターに引き込まれた。レンには才能がある。だがその才能が蝕まれてしまっている。
「レン、お前……」
足先から脳にかけて冷たいものが走る。徹の身体は震えた。分かっていたことをレンに確認する行為がこれ程緊張するものなのか。
「男娼してるだろ?」
漫画にするなら『しん』という効果音を入れるだろう。沈黙に音がないのは嘘だ。
「金が必要ならいくらでも貸すから。身体を売るのはやめろよ」
「……お前に何が分かるんだよ」
椅子に座ったまま、レンは徹を睨んだ。上目遣いで徹を睨むレンの顔は何かに怯えているようにも見える。
レンはふらりと立ち上がった。そのままリビングを出て行こうとするレンを徹は大声で止める。
「俺がお前を養うよ!」
レンを引き留めたその声は今まで出した事がない程に大きな声だった。レンはゆっくりと振り返った。
「……は?」
徹は必死だった。レンがこのままどこかへ行ってしまいそうで考えるよりも先に言葉が出る。
「俺がお前を一生養う。金が必要ならいつでも貸すし、身体を売らなくてもいい。俺、絶対に漫画家として成功してみせるから」
違う。こんな事をレンに言いたいのではない。
レンがじっと徹を見ている。徹の呼吸は乱れていた。
「……頼むよ。ずっと俺の傍にいてくれ」
ため込んでいた本音がついに口から吐き出てしまった。押さえ込む為の糸が切れてしまった今、すぐに修復は出来ない。
「……俺だけのレンでいてくれよ……。お前がいないと俺は生きていけないんだ」
気がつけば徹は縋るようにレンの手首を掴んでいた。
レンの表情を見る事は出来ない。ずっと隠してきた想いを吐き出した今、一体どんな顔でレンは徹を見ているのか。それを知るのは恐ろしかった。
「何で皆さ」
徹の大きな声に反してレンはとても小さな声だった。
「俺がいなきゃダメなのかな」
「……え?」
徹は恐る恐る顔を上げ、レンの顔を見た。
レンは笑っていた。
レンの感情が分からない。
徹はゆっくりレンの手首を離した。頭の中が真っ白だった。レンの右手首は徹が握った手の痕で赤くなっていた。
「大丈夫だよ、徹」
レンはふわりと徹を抱き締めた。目眩を起こしそうな程の色気を漂わせて。そのまま徹の背を壁に押しつけ、レンはゆっくりと徹の耳たぶを甘噛みする。
一体何をされているのか。訳も分からず徹の身体は硬直した。
「俺はどこにも行かない……」
小声で言うレンの声に、ゾワリと身体が震えた。レンの唇が耳たぶから顎に移動する。まるで捕食するかのように、レンは徹の唇に噛み付いた。レンの右手がゆっくりと徹の腹へ移動していく。唇を奪われている徹の目は大きく見開いた。
「レ……レン! 何してるの?」
首を振り唇を離して、徹は声を上げた。レンの右手は徹の股間をゆっくりと撫でていた。
「大丈夫だよ徹」
そう言いながら、右手だけで器用に徹のジーンズのボタンを外しチャックを開ける。
レンは徹の首筋に唇を落としていく。その間もレンの右手の動きは止まらない。下着の上から、徹のペニスを撫でていく。
「俺、徹の首筋の匂い好きだよ」
レンの呼吸が徹の首筋に当たる。思わずあ、という声が漏れた。止めて欲しいと思う一方で快感が無慈悲に襲ってくる。
「徹、知ってた?」
レンは徹の服をたくし上げ唇を移動させる。胸、脇腹、臍と順に舐めていく。
疑問符を投げかけられているのに、徹は何も言葉を発することが出来ない。
「俺ね、小さい頃からやられてたんだよ。母親に言われて色んな大人と寝たんだ」
知っている。分かっていたのに何も出来なかった。助けられなかった。
徹は中学時代に気がついた。レンは既に経験しているという事に。レンは色んな悪い大人から性的な虐待を受けているという事に。
知らない大人とセックスをするレンを妄想する度に吐き気を催し胸が苦しくなった。同時に何故か興奮してしまう自分がいた。
最低だ。自分は最低な人間なのだ。
「ごめん。レン、ごめん」
「何で謝るの、徹」
レンは勃起した徹のペニスを下着から露わにさせ、扱いていく。
「今はね、静岡に帰る度に母親を抱いてるよ。気持ち悪い?」
そう言うと、何の躊躇いもなくレンは徹のペニスを咥えた。
「レ……レン! 止めてくれ……!」
だがレンは唇を離さなかった。
頭がクラクラする。
徹は壁に爪を立て襲い来る快感に堪えるが抗う事が出来ない。
絶頂を迎え、徹はレンの口内に全てを吐き出した。それをレンはゆっくり嚥下し、徹のペニスから唇を離すと、唇から溢れた精液を手首で拭った。
徹は腰が抜け、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。情けなさに涙が零れる。
「何で泣いてんの」
「……」
「気持ちよかっただろ? 得意なんだ、俺。人を気持ちよくさせるの」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で徹はレンを見上げた。
視界に映ったレンは目尻に皺を寄せた徹の大好きな顔で笑っていた。だがその笑顔はまるでしずるのリップクリームのように何の感情も持っていないように見えた。
徹はそのまま床に突っ伏し泣いた。声を上げて泣くことなど大人になってから初めてだった。
「……ごめんな」
詫びるレンの声が徹の泣き声でかき消される。
「泣かせてごめん」
泣きじゃくる徹の耳に二度繰り返された謝罪が届いて数秒後、玄関の開閉する音がした。
徹の暗い視界の中で、目尻に皺を寄せたレンの笑顔が浮かんでは消え、浮かんでは消える。その度に涙が溢れ、止まらなかった。
レンはとうとう帰ってこなかった。徹がいくら連絡してもレンは電話に出ず、そのまま二週間の時間が流れた。
*
徹の漫画が初めて雑誌に掲載された。
桜は既に散ってしまっている。木々は緑色に生い茂り、過ごしやすい気温が続いている。
徹は久しぶりに散歩へ出た。5日ぶりの外だ。ずっと現実を逃避するように漫画を描き続けていた。久しぶりの外の気持ちよさに徹は思い切り深呼吸をした。
近所の公園へ行き、ベンチに座った。鞄の中から雑誌を取り出し、自分のページを開く。扉絵には「期待の新人!」という謳い文句が太字で書かれてあった。だがその扉絵を見ても、何故かその漫画が自分の作品である実感が沸いてこない。ページを1ページずつ丁寧に捲っていく。何度も読み返したコマをいくら目で追っても文字と絵がしっかりと頭に入って来ない。
初めて自分の漫画が雑誌に掲載されたのだ。もう少し浮き足立って喜べると思っていた。だがそんな気分に全くなれず雑誌を閉じて溜息をついた。
レンは一体どこで何をしているのだろう。
二週間前を思い出し股間が疼いてしまう自分が酷く滑稽で醜くて仕方がない。頭をくしゃくしゃと掻き乱し、両手で顔を覆い項垂れていると鞄に入っているスマートフォンが鳴った。
レンかもしれない。
慌てて鞄からスマートフォンを取り出し、画面を確認して肩を落とした。電話の相手は母親だった。連絡が来るのは久しぶりだ。レン以上に母親とはさらに長い期間連絡を取っていない。
「もしもし」
電話に出てみて、少しだけ緊張している自分に気がついた。発した声がいつもよりも低い。
「もしもし」
母の明るい声が返ってきた。そうだ、母はこんな声だった、と懐かしさを覚える。
「久しぶりね徹。元気だった?」
「元気だよ。ごめん連絡してなくて」
「いいのよ、生きてたなら」
胸の奥から涙腺にかけてこみ上げてきそうになるものを、唾を飲むことで堪えた。
会話に間が空く。
恐らく母は生存確認だけで電話をかけてきた訳ではない。大学を出て就職もせずにいる息子の近況を待っている。
ふと脳裏に、上京する新幹線の車窓で見た富士山が浮かんだ。
「あのさ……」
「うん」
「僕、ずっと諦めてなかったんだ。漫画家になる夢」
「……」
「それでさ……」
「うん」
「その夢、叶ったよ」
「……え?」
「夢が叶ったんだ」
一度息を吐き、心臓を落ち着かせる。
「報告が遅くなってごめん。今月から漫画家デビューしたんだ。短期連載だけど、今日発売の雑誌に僕の漫画が載ってるんだよ」
徹が話す合間に、母親は何度も興奮混じりに「うん、うん」という相槌を打っていた。
その母親の喜びが電話越しからも伝わる。
「すごいじゃない」
単純な母の褒め言葉が、今の徹には心が震えるほどに嬉しかった。
「夢を叶えるまで静岡に帰らないって誓ってたんだけど」
それは4年間通わせて貰った大学は東京へ行く為のただの口実だった事を示唆しているのに、母は全て見透かしていたかのようにクスリと笑って言った。
「馬鹿な誓いね」
「もう静岡に帰ってもいいかな」
徹の言葉に母親は豪快に笑った。その笑い声に釣られて、徹の頬も緩む。同時にポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
「何言ってるの。帰ってきなさい。帰ってきて、ゆっくり話しを聞かせなさい」
「うん、わかった。帰るよ」
「待ってるからね」
電話を切ると、少しだけ気分が軽くなった気がした。ほぼ原稿は完成している上に、締め切りまでまだ余裕がある。
「……帰ろう。静岡に」
一人言を言って、徹はベンチから立ち上がり、足早にアパートへと戻った。
*
二日後、徹は東京駅のホームにいた。
静岡行きの新幹線は空いていた。平日だからだろう。自由席でも余裕で座ることが出来た。
10時7分に東京駅を出発し1時間後に静岡駅に到着する。隣にはスーツ姿のサラリーマンが座っている。疲れているのか、背もたれを限界まで倒し眠っていた。徹は窓側に座り、景色を眺めていた。下りの景色は徹にとって新鮮だった。
レンは母親に呼ばれる度にこの景色を眺めながら帰ったのだろう。本当ならレンと二人で静岡へ帰りたかった。
『今はね、静岡に帰る度に母親を抱いてるよ。気持ち悪い?』
突如レンの言葉を思い出し、吐き気を催した。窓に向けていた視線を前に変えた。無意味に電光掲示板の文字を読み、レンの言葉を思い出さないよう集中する。だが意識しないようにしても、一度思い出してしまえば無駄な足掻きだった。
木霊のように何度もレンの言葉が徹の脳内で再生される。
気が狂いそうになる。
声を上げて泣きそうになる。
一度大きく息を吐き、隣のサラリーマンのように背もたれを限界まで倒すと、目を瞑った。
妄想しろ。何でもいい。漫画のことを考えるんだ。
次々と漫画のキャラクターがひょっこり脳裏に浮かんでくる。自由に動き回りストーリーを作ってくれる。徹の右手が手摺りの上で自然と動いた。
新富士駅を過ぎた所で大分心は落ち着きを取り戻し、徹は目を開けた。乗客は半分ほどに減り、隣で寝ていたサラリーマンも下車していた。
少し躊躇しながらもう一度景色を眺めた。身体を起こし、少し斜めに覗きこんだところで徹は思わず、あっと声を出しそうになった。
富士山が見えた。
まさしく以前レンが送ってくれた写真と同じアングルだった。
5年ぶりに肉眼で見る富士山に徹は釘付けになった。ずっと徹の帰りを待ってくれていたような気がした。
あぁ、漫画家の夢を叶えたのだ。
その誇らしさは、何ものにも代え難いものだった。やはり肉眼で見る富士山は雄大だった。
母親は改札口を出た所で待っていた。白のカットソーに黄色のカーディガンを羽織り、ベージュのロングスカートを履いている。長い髪を後ろに一本で束ねたヘアスタイルは、徹が小学生の頃から変わっていない。
徹に気がつくと母親は笑顔で手を振った。5年ぶりに会う母は記憶より少し老けていた。
「おかえり。新幹線混んでた?」
「全然。余裕で座れたよ」
そう言いながら、徹は母親に東京土産を渡した。定番物をあまり好まない母の為に買ったチョコレートラスクだ。
「あら、東京のラスクね」
中身を見て、母親は満足そうに笑った。
駅を出て外に出ると、東京の空気とはまるで違うのが分かった。「空気がおいしい」とは東京に出て初めて意味の分かる言葉なのだと実感した。
駐車場に到着すると母親の愛車、白のカローラツーリングワゴンを見つけた。徹が上京する直前に新車で購入した車だ。5年経っても新車特有の艶が消えていない。大切に乗っているのだろう。
乗り込もうとする徹を母親はじっと見てきた。
「なに?」
「何だか背が伸びた気がする」
「そんな変わってないよ」
助手席に座り、母親も運転席に座ると、なおもジッと徹を見てくる。
「やっぱり伸びたわよ。圧が5年前と違うもん」
「なんだよ、圧って」
徹が笑うと、母親もどこかホッとしたように笑った。
静岡駅から実家までは車で15分ほどかかる。母親はずっと徹に話しかけてきた。徹は助手席の窓を開け、外の景色を眺めながら母親の質問に適当に答えた。心地よい静岡の風に打たれていると睡魔に襲われる。母親の「彼女はいるの?」という質問が聞こえたのを最後に、気づけば居眠りをしていた。
「徹、ほら、着いたよ」
母親の声で目を開けると車は家の車庫に駐車されていた。外に出て伸びをする。目の前には5年ぶりの我が家があった。駅前の喧噪から離れた閑静な住宅街にあるこの家は徹が生まれた時に新築で建てた家で、築23年の2階建て一軒家だ。5年ぶりに見る家のはずなのに、まるで昨日まで生活をしていたかのような感覚がする。むしろたった数時間しか離れていない東京のアパートの方が懐かしく感じた。
玄関には幼い徹の写真や、絵画コンクールで入賞した小学生時代の絵が飾られてある。上京する前は当たり前だったそれらが変わらず置かれてある事に、この家は時間が止まったまま動いていないようだった。
「ただいま」
「おかえり」
父の野太い声がリビングから聞こえた。途端に徹の身体に緊張が走る。リビングへ入ると、父は徹に背を向けてテレビを見ていた。上京前より白髪が増え、髪が薄くなっている。
「ただいま」
徹がもう一度言うと、父は「ん」とだけ返事をした。広くて大きいと思っていた父親の背中がとても小さく感じた。母が言うように背が伸びたのかもしれない。だが無言の父の背中には圧倒的な強さがった。
徹は座ることが出来ず、テレビを見続ける父の背中を見つめた。
徹は父から親としての愛情を感じたことがなかった。父は放任主義で子供に興味がないように思えた。本当に親子なのかと疑う程に父と会話をした事がない。
一方で父は母の事を心から本当に愛していた。普段感情を露わにしない父が激怒する相手は母親を困らせる相手だ。母がパート先の上司に悩んでいた時、そのパート先へ怒鳴り込みに行った事もある。
父は狂おしい程に、母を愛している。それを微笑ましいと思う反面で自分に向ける愛情の薄さに格差を感じて寂しくもあった。
「ほら徹。そんな所に突っ立ってないで、座りなさい」
母に背中を叩かれ、徹はゆっくりと父親と向かい合う位置に座った。母は、父の隣に座りテーブルの上に雑誌を置いた。それは、徹のデビュー作が載っている雑誌だった。
「あ……」
思わず声を出すと、母はテレビから目を離そうとしない父の肩を叩きながら言った。
「ほらお父さん、お父さんも読んだのよね。徹の漫画」
ドキン、と心臓の音が鳴る。父がテレビから目を離し、ゆっくりと徹の顔を見た。
相手の目を見たら父は絶対にその目を逸らさない。父に見られると全てを見透かされるような感覚になる。
皺が増えた。母同様に父も、時間の経過分だけ老けていた。
「……漫画家になるのか。徹」
「……うん、なるよ」
徹が言うと父は黙った。徹の顔を見ながら数秒の沈黙をした後、父は立ち上がりのそのそと歩き出した。どこへ行くの? という母の問いに父はぶっきらぼうに「便所」と答えた。
漫画家になると言った徹に、父は何を思い何を感じたのか。反対なのか賛成なのか。やはり徹には興味がないのか。父の態度からは何も読み解く事が出来なかった。
「徹」
突如父が名を呼び、徹は父を見た。父は廊下に繋がるドアの前で徹に背を向けたままピタリと足を止めていた。
「はい」
徹が返事をすると父は振り返り、徹の顔をじっと見ながら言った。
「漫画、面白かった。夢を叶えた息子を誇りに思う」
ぶわっと一気に鳥肌が立った。母にばかり向けられていると思っていた父による愛情を、徹は初めて感じ取ることができた。
「母さんに心配だけはかけるなよ」
それだけ言うと、父はリビングを出て行った。
――誇りに思う。
父の言葉が何度も頭の中で反芻される。母は、そんな父と息子のやり取りを柔やかに見ていた。
昼食は久しぶりに家族3人で食卓を囲った。父は黙々と食べ母が一方的に話し徹がそれに相槌を打った。上京前と変わらない光景なのに少し違うように感じたのはやはり父から貰った言葉がでかかった。たった一言、その言葉を貰えただけで静岡に帰ってきて良かったと心から思えた。
昼食後に徹は外出した。静岡へ帰ってきたのなら、どうしても行かなければならない場所があった。
目的地に向かう途中川沿いの土手を歩いた。高校時代、毎日のように長谷川と手を繋いで歩いた道だった。家が嫌いだという長谷川の為に徹の家へ帰るには遠回りになるこの道を通り、長谷川の家まで毎日送ったのだ。
他愛もない会話をして歩いた。何も話すことがなくなれば、しりとりやクイズを出し合って遊んだ。笑いながらも家が近づくにつれて長谷川の手が強く握られていくのを覚えている。
太陽に照らされ、川がキラキラと光っている。釣りをしている人やサッカーで遊んでいる少年達。高校時代から何も変わっていない光景だった。
長谷川の家は土手を降りた少し先の家だ。古い木造の家や古風な家が建ち並ぶ中、一軒だけ洋風な作りの家がある。真っ白で小さな窓がいくつも付いている黒い柵に覆われた家だ。
その家が長谷川の家だった。
当時は上品で綺麗な家だと思っていた。だが今は白い外壁が黒く汚れ、丁寧に手入れされていたはずのガーデニングは雑草が濛々と生い茂っている。玄関横のポストは何日分か分からない郵便物でぎゅうぎゅうに押し込められていた。
一見空き家のようだ。不安になりながらインターホンを押した。暫く待っても音沙汰がないので、その後2回押してみた。だが何も反応がなかった。
やはり空き家になっているのかと諦めて踵を返した時、プツッという電子音が聞こえ、慌てて振り返った。
『……はい』
とても暗く静かな声だった。
初めて聞く長谷川の母親の声だ。なるべく全身がカメラに写るように、徹は一歩後ろに下がり、インターホンに向けて普段よりも大きな声で話した。
「こんにちは。あの、僕、長谷川さん、長谷川彩花さんの高校時代の同級生で」
『……』
「板垣と言います。あの……」
『……はい』
緊張で声が震えた。母親の暗い返事から明らかな拒絶が伺えた。どういう言い方をすれば気分を害さないか、迷いながら声を放つ。
「彩花さんと中学2年生から高校3年生までお付き合いしていました」
「……」
「今までずっとお伺いできず、すみませんでした。手を合わせに来ました」
何も反応がなくなった。暫く立っていると玄関の鍵が解錠される音が聞こえた。ゆっくりとドアが開き、母親が俯きながら顔を出した。枝毛まみれの髪を適当に一本に束ね、首元がヨレヨレのトレーナーにジャージを履いていた。人の目など一切気にしていない格好だった。
「どうぞ……」
小さくそう言って母親は徹を中へ通した。会釈をしながら中へ入るとギョッとした。家の中全体がゴミ屋敷のようになっていたからだ。足の踏み場がない程に置かれたゴミ袋、アルコール度数の高い酒の缶や瓶で散乱している。
徹は靴を脱ぎ、ザラザラとしたゴミの感覚を足に感じながら、散乱したゴミを一切気にせず先へ進む母親の後に続いた。
カーテンは全て締め切られていて、家の中は薄暗い。リビングを通ると、対面キッチンのカウンターに写真立てが置かれてある事に気づいた。小学校の入学式で笑う幼い頃の長谷川だった。隣に映る女性が、今、目の前を歩くジャージ姿の母親だと気がつくまで数秒かかった。
写真の母親はブランド物の白いスーツを着てショートヘアの髪をきちんとスタイリングしており、姿勢をピンと伸ばし映っている。自然に笑う長谷川に対し、母親は笑顔が硬い。いかにも教育に厳しそうで、今の姿とまるで似つかなかった。
「ここです……」
リビングを出た先に一部屋だけ和室があった。五畳半ほどの仏間になっており、その部屋はゴミがなく綺麗に片付けられていた。中へ入ると線香の香りがした。
壁の高い位置に掛けられた長谷川の遺影は高校の卒業アルバムの個人写真だった。その遺影の隣には埃を被った古い老婆の遺影が飾られていて、長谷川の若さが際立っていた。
仏壇の前に座ると、中に幼い長谷川の写真が飾られていた。遊園地の様な場所でとても楽しそうに笑う、まだ4歳くらいの長谷川だった。
そこに座った瞬間、あぁ長谷川は本当に死んでしまったのだと思った。改めて実感すると不思議だった。感情にポッカリと穴が空いてしまったような感覚に陥る。
「その写真の娘がね、一番可愛かったの」
無言で仏壇の前に座る徹に向けて、母親が後ろから小さく言った。
上京する前に長谷川と別れ、その後一切連絡を取らなくなったので長谷川の自殺の経緯を徹は知らない。だが母親は徹が何も聞かずともまるで膿を吐き出すかのように自らポツポツと長谷川が自殺した経緯を語り始めた。
「失恋が原因なの、あの子。大学に入ってね、本当に大好きな人が出来て」
本当に、という言葉が引っかかった。お前が長谷川を救えたかもしれない、と遠回しに示唆された気がした。
「彩花は彼のことがすごく大好きだったんでしょうね。だけど彼には彩花の愛が重かったのかもしれない。フラれちゃってね」
ズキンと心臓が痛んだ。徹では満たせなかった長谷川の寂しさを埋める相手が見つかったのに、フラれて絶望に叩きのめされ死という感情に呑まれる長谷川を想像する。
「私は誰からも愛されないって遺書に書いてあったわ」
背中越しから母親が泣いているのが分かった。何度も震えた息を吐いて落ち着かせていた。徹は振り返ることが出来ず、長谷川の母の必死に絞り出す声に耳を傾けた。
「誰からもって書いてあったの。誰からもって」
「……」
「私があの子をもっと愛してあげていれば……何でもっと子供を愛してやれなかったのかしら。深く深く愛してやれなかったのかしら。子供の頃からあの子は大人で、それに私は安心してたんだわ。もっと甘えさせてあげればよかった。…あの子は本当はすごく甘えん坊だったの。赤ちゃんの頃から甘えん坊だったの。知ってたのに、私がむりやり大人にさせてしまったんだわ」
母親はとうとう声をあげて泣き出した。
徹は線香を立て、鐘を鳴らし、手を合わせゆっくりと長谷川に想いを馳せた。
長谷川は家族が嫌いだと言っていた。
だが母親は長谷川の事を想い泣いている。長谷川が嘘をついていたとは思わない。だが親の愛情を知る難しさを徹は今日初めて知った。徹には後ろで泣きじゃくる母親を責める事はできなかった。
2分近く、徹は手を合わせていた。その間母親はずっと後ろで泣いていた。
「ありがとうございました」
徹がそう言うと、顔を覆い泣いている母親は首を振り、
「こちらこそ、ありがとうございました」
と言った。
長谷川の家を出ると徹はしばらく周辺を歩いた。かなり長いこと歩いた。次第に辺りが朱色に染まっていく。土手の方まで行き芝生に座ると、沈もうとする大きな夕日をじっと眺めた。
静岡へは日帰りのつもりで帰ってきた。新幹線の時間の事を考えると、そろそろ実家へ戻らなければならない。だがどうも腰が重かった。この場を離れたら、また東京へ戻りレンがいない日常に戻るのかと思うと辛かった。
目を瞑り、長い溜息を吐いてゆっくりと立ち上がった。尻に付いた芝生を払い振り返ると、反対側から女性が歩いてきている。花柄のワンピースに肩から黄色のカーディガンをかけて、赤いヒールの靴を履き、少しだけ猫背の女性だ。かなり細身で長い黒髪が風で揺れている。遠くからでも美しい女性であることが認識できた。
特に気にせず、徹も女性の方に向かって歩いた。お互いがすれ違う瞬間、ふわりと女性の香りがした。その嗅ぎ覚えのある匂いに、徹の歩がピタリと止まった。
「あっ……!」
思わず振り返り、通り過ぎた女性に向けて声を掛けた。女性も同じように歩を止め振り返る。
夕日に照らされたその女性の顔は目を見張るほどに綺麗だった。時の流れを全く感じさせない美しさに徹は思わず息をのんだ。
何も変わっていない。
その女性は、小学校3年生の時以来に会うレンの母親だった。
顔を見たまま何も言わない徹に、レンの母親はふわりと笑った。
「なぁに? どうしたの?」
その言い方はまるで徹をからかっているようで、自分の容姿に自信があるからこその言い方だった。徹は一気に緊張しチクリと痛む胃を感じながら口を開いた。
「レン君と……」
レンの名を出した途端、微笑んでいた母親の表情がスッと真顔に戻った。
「レン君と一緒に暮らしている板垣徹です」
間が空く。レンに似た大きな瞳で徹の顔をじっと見てから母親は言った。
「何かあなた、見たことある……」
母親は徹の傍まで来ると、細い腕を伸ばしひんやりとしている手で徹の頬を触った。手首には薄紫色のパワーストーンのブレスレッドを付けている。うっすらと母親からアルコールの匂いがした。苦手な匂いに徹の顔が引きつる。
『今はね、静岡に帰る度に母親を抱いてるよ。気持ち悪い?』
突如レンの言葉を思い出し、反射的に母親の折れそうな程に細い手首を掴んで引き離した。母親は驚いた表情を一瞬見せたが、すぐにまたふわりと笑って言った。
「思い出した。あなた、昔小学校で私を道案内してくれた子でしょ」
まさか覚えているとは思わなかった。そんな徹を見透かすように母親は言った。
「あなたの事はすごく覚えてるの。だってレンを太陽みたいって褒めてくれたから。ちゃんと昔の面影が残ってる。レンから幼なじみと一緒に暮らしてるって話しは聞いてたわ。とても楽しそうに話してた。まさかそれがあなただったとはね」
また母親はじっと徹を見てきた。徹の顎の直ぐ下で、上目使いで見てくる母親に徹はぞくりと鳥肌が粟立った。突如母親は眉間に皺を寄せ、美しい顔をこれでもかと歪ませながらまるで脅すように言った。
「あなた、レンが好きなの?」
徹は一度唾を飲み込んだ。狂気じみた表情の母親を前に、ここで負けてはいけないと徹も母親から目を逸らさず真っ直ぐに射貫いて言った。
「はい。好きです」
初めて好きという言葉を使ってレンへの好意を表現した。その途端、心のつかえが取れて解放されるような感覚に陥った。
「やっぱりね。あたしそういうの鋭いの」
小さく母親は呟くと、突然両手で徹の頬を挟んだ。ギリギリと頬に爪が立てられる。母親は怒りに満ちた表情で徹を睨みながら言った。
「レンがあなたの事を楽しそうに話す度にあたしは怒りで気が狂いそうだった。レンがあたしから離れて行ってしまいそうで怖くて仕方なかった。何故だか分かる? あたしとレンはね、二人でひとつなの。あたしはレンがいないと生きていけないし、レンもあたしがいないと生きていけない。あなたがレンを好きな気持ちは尊重するわ。でもあたしとレンの邪魔はしないで」
とても早口で捲し立てるような言い方だった。
徹の口内はカサカサに渇いている。この母親は徹と同じ事を言っている。レンがいなければ生きていけないと。
徹は何の感情も持たないレンの笑顔を思い出した。あの時、母親と同じ言葉をレンに言ってしまったのだと思うとどうしようもない程に胸が苦しくなる。
徹と同じようにこの母親はレンに依存している。そして恐らくレンも母親に依存している。徹は目をつむった。自分の元で目尻に皺を寄せくしゃりとした笑顔で笑うレン。太陽の元、風に揺られ気持ちよく笑うレン。日向の匂いがレンには似合う。レンをこの母親に依存させていてはダメだ。この母親ではレンの美しい笑顔は引き出せない
「レンから……離れてあげてください」
何故か自分で言った台詞に傷ついた。レンから離れられないのは自分も同じなのに正義を気取って何をいっているんだと脳内にいる冷静な自分が突っ込む。瞬間、頬に衝撃が走った。叩かれた、と自覚するよりも先に母親は叫んでいた。
「離れてって何よ! あたしがレンを産んだの! あたしがレンの母親なの! あんたがレンから離れなさいよ! ふざけんじゃないわよ!」
叩かれた頬はじんじん痛み、口内から血の味がした。母親を見ると、般若のような顔で徹を睨んでいた。わなわなと震えている。
「レン君は夢を追っています。有名になりたいという夢です。僕はその夢を応援したいんです。だから……」
母親は徹に飛びかかった。徹は後ろに転がり、母親は徹に馬乗りになって何度も何度も頬を殴った。
「あなたに何がわかるの! あなたに……!!」
徹の頬に滴が垂れる。母親はボタボタと目から涙を溢していた。
「あたしだって……あたしだって……レンの事を応援したい……でもダメなのよ……」
それはとても小さな声だった。泣き出す母親を見て徹の熱が冷めていく。
――一体、何をしているのだ。
レンがいないこの場で言い合ったところで何も意味がない。自分もレンの母親も独りよがりだ。誰もレンの気持ちを考えず独りよがりでレンの事を言い合っている。
「おい! 何やってるんだ!」
たまたま通った警察が母親を羽交い締めにし、徹から引き離した。
「君、大丈夫か?」
「……はい」
立ち上がると、母親は羽交い締めにしている警察官に暴言を吐いていた。徹と目が合うと「あいつの所為よ! あいつは神が許さない!!」と訳の分からない事を警察に訴えていた。
「君、早く行きなさい」
警察に頭を下げ、徹はその場から離れた。甲高い母親の叫び声が後ろから聞こえたが、決して振り返らなかった。
徹の頬には母親の爪の痕が痛々しく残っていた。
*
「何だか頬がこけていませんか」
会議室で打ち合わせしている時に木元から突然言われた。
ザーという雨の音が室内に響いている。外の様子を伺おうと窓に視線を向けると雨による水滴でよく見えなかった。関東全域が梅雨入りしたと昨日の夕方のニュースで言っていた事を徹はぼんやりと思い出した。例年より10日早い梅雨入りだという。
レンが家に帰らなくなって二ヶ月以上経つ。徹は食に対する欲求が全くなくなり、漫画のみを描き続ける生活を送っている。
「そうですね。少し痩せました」
「何か悩みでも?」
「いや単に食欲がないだけです」
「……大事な身体なんですから健康には気をつけないと」
「そうですね。ありがとうございます」
短期連載している漫画は3話目にして実に好評だった。上手くいけば月刊誌から人気週刊誌のほうで長期連載をさせて貰えるようになるかもしれない。漫画家として今がとても大事な時期だった。木元が言うように健康には最も気をつけなければならない。
頭がぼうっとする。何の打ち合わせをしたかもよく分からなければ、どうやって木元と別れたのかも覚えておらず気がつけば傘をさして家の近くの道路を歩いていた。
雨の所為でまだ夕方前なのに薄暗い。レンのいない徹の生活は何かが欠けていた。やる気が全く芽生えず、このまま灰のように朽ちるのではないかと思ってしまう。
アパートの傍まで来ると、徹は足を止めた。階段の所にずぶ濡れで誰かが座っている。見覚えのあるリュックを背負っている。それは徹がレンにあげたリュックだった。
レン。
徹の冷たく冷えた身体の足先から徐々に熱が籠もっていく。暗くくすんでいた徹の目に光が宿った。徹は差していた傘を思わず放り、自身もずぶ濡れになりながらレンの所へ駆け寄った。
「レン! レン!!」
レンは頭を壁にもたらせて眠っているようだった。徹の声かけに反応を示さない。かなり痩せ細っている。右腕に赤いミミズが這ったような痣がり、よく見るといくつもの注射痕があってゾクリと背筋に冷たい物が走った。
「レン」
濡れているレンの頬を優しく撫でる。長い睫毛。透き通った肌。
あぁレンだ。レンだ。
どのくらいの間ここに座っていたのだろうか。レンからアルコールの匂いがする。それ以外の匂いも感じ取れて、その匂いの正体を考えるのは恐ろしすぎた。
うっすらとレンが目を開ける。虚ろな目で徹を見た。
「徹……?」
久しぶりに聞くレンの声はとてつもなく枯れていた。
「レン、大丈夫? 歩ける?」
「無理。歩けない」
そう言ってレンはまた目を瞑った。容赦なく雨は二人を打ちつける。徹は放った傘を拾いに行き畳んで階段の手摺りに掛けた後、レンをおぶり2階の家まで運んだ。酷く熱い。驚くほどレンの体重が軽すぎて徹は泣きそうになった。
家の中に入り玄関に座らせタオルを取りに行くと、先にレンの身体を拭いてやった。
「ずっとどこで何やってたんだよ」
「セックスだよ」
レンは端的に答えた。
徹はそのまま何も聞かずレンの身体を拭いた。髪の水滴を一つ一つ丁寧に拭いてやっていると、レンは徹の手首を握った。震えた息を何度も吐いている。
徹は思わずレンを抱き締めた。嗚咽のような声がレンの口から漏れた。
「とおる……」
「……うん」
「とおる……とおる……」
「うん……」
「何で俺……こんな風になっちゃったのかな……皆が俺を求めるから……俺が俺じゃなくなっていくんだ」
徹は抱き締める腕に力を込めた。レンは縋るように徹の背中のシャツを握りしめて言った。
「有名になりたい。有名になったら生まれ変われる気がするんだよ。助けてくれよ徹。有名にさせてくれよ」
「有名になれる。俺が有名にさせてやるから。漫画がドラマ化したらすぐにレンの名前を出すよ。きっと有名になれる」
まるで子供だましのような慰めだった。だが徹は本気で言っていた。絶対に徹を有名にさせてやる。心の底からそう思った。
「夢みたいだ……」
その後レンはポツポツと語り始めた。
母親が悪質な宗教にはまり金が必要だったこと。身体を売って金を稼いでいたこと。悪い人間と知り合い薬物を始めたこと。薬物を使って母親とセックスをしていたこと。全てを語って、子供のように眠った。
それから数日後、レンの母親が死んだと連絡があった。雨の日、酒に酔い傘を差しながらフラフラになって歩いていたら階段から滑り落ちた。打ち所が悪かったらしい。あっけない死だった。母親からレンへの依存は突如として解かれた。レンの母親に対する行き場のない依存だけが残り、レンはその日を境に心が病んでいった。
レンは幼いころから母親のために生きてきた。母親のために身体を売り、母親のために金を稼ぎ、母親がいたからこそ生まれ変わりたいと思った。有名になりたいという夢を持った。母親が亡くなった途端、レンの生きる指標が失われた。
時間をかけてゆっくりとレンは壊れていった。心も体も。何もかも。
*
都内ホテルの一室には多くの報道陣が集まってきている。一年に一度ある大規模な漫画賞の授賞式の為、多くの著名な漫画家が一堂に会していた。その中の一人に今日の授賞式で名前が呼ばれる予定の徹がいた。
徹は生まれて初めて高級なスーツに身を通した。15年前、大学の入学式の時に着用したきりスーツには全く縁がなかった。これからある表彰式にむけて、一昨日おろしたばかりのオーダーメイドのスーツである。
「きまってますね、板垣先生」
声をかけてきたのは木元だ。最近頭頂部がうっすら禿げてきた。
「緊張するな」
「大丈夫です。堂々といきましょう」
30歳の時に徹は鬱病と診断され、漫画家の仕事が続けられなくなった。しかしその1年後に発表した新作の漫画が、世間で多くの評価を得られた。
それはレンを主役にした漫画だった。俳優を目指すレンの物語。俳優としてどんどん成功していく華々しいレンを描いた。全ては現実と真逆だったが、これが評価されたのである。連載はまだ途中だが多くのメディアに注目され受賞に至った。
授賞式はそつなく終えることが出来た。途中インタビュアーにこんな質問をされた。
「とてもリアルな描写が話題の先生の作品ですが、レン役はモデルがいるとお伺いしました。もしかしてその方は今芸能界で活躍されている方なのですか?」
「いえ、全くの無名です。現実では彼は俳優という夢を上手く実現出来なかった。だからこそ漫画で、彼の夢を実現させてあげたかったんです」
徹は正直に話した。隠す理由は何もない。
だが徹はドラマ化や映画化の話しは全て断っている。当然だ。レンを演じることが出来るのはレンだけなのだから。
授賞式の帰り、徹はスーツのまま病院へ向かった。鞄の中には、まだ担当の木元にも見せていない来週号の雑誌に載る予定の完成した原稿が入っている。
複数の病棟が並ぶ中、奥に鉄格子で囲まれた閉鎖病棟がある。そこに、レンは入院している。すでに入院してから3年が経とうとしていた。2年前から週に一度、レンの精神が安定するという理由で徹との面会を特別に許されている。面会する際、徹は何もない真っ白な壁に覆われた個室へと案内される。閉鎖病棟からさらに隔離された特別な部屋だ。
数分後、医師が車いすを押し、部屋へ入ってきた。車いすに乗っているのはレンだ。大事そうに徹が10年前にあげたリュックを抱えている。チャックが壊れ、布がボロボロに剥がれているが決して離そうとしないらしく食事と寝る時以外は四六時中抱えているそうだ。
レンは歩行することも自分で物を考えることも困難になっていた。排便すら何もかもが介護なしでは出来ない身体なのに、リュックにだけは強い意志があった。
「ほら、レンくん。今日も徹さんが来てくれたよ。スーツ姿の徹さん、格好いいよ。顔をあげてごらん」
医師がレンに優しく声を掛けた。レンは項垂れている顔をゆっくりと上げた。無精髭を生やし、頬がげっそりとこけていて、目は焦点が定まっていない。口から涎が垂れている。その涎を拭こうと、徹はハンカチをポケットから取り出しレンの口元へ近づけた。それをレンは首を振り嫌がった。医師はそっと手の平を見せ、徹に向けて首を降った。「何もしなくて良い」という合図だ。徹は頷き、ハンカチをポケットへしまうとレンから一歩後ろに下がり、鞄から原稿を出してレンへ渡した。
「レン、先週の続きの漫画だよ。今週からレンは海外へ行く。日本で成功を重ねたレンは海外の舞台に挑戦するんだ。もちろんここから紆余曲折がある。でも大丈夫。必ず成功して海外でも有名になれるよ。レンには才能があるからね」
レンは器用にリュックを抱えながら渡された徹の原稿を読んだ。
次第にレンの顔色に赤みが増してくる。興奮しながら原稿を全て読み終えたレンは、満足そうに一息吐いた。
漫画を読み終えたレンは必ず笑ってくれる。その顔は、目尻に皺を寄せた徹の大好きな笑顔だった。たった一瞬でも、息を呑むほどに美しく魅惑に満ちた笑顔だ。
リップクリーム依存症。
かなり昔に女性に言われた言葉を徹は思い出した。レンが生きている限り、その依存症が治ることはないだろう。